1. ユダヤ教の「神」は、もっとも原始的な伝承上の(架空の)存在
で、その存在は証明できない。日本でもたとえば、皇室の祖神であ
る天照大神(あまてらすおおみかみ)はこの分類に属しており、根
拠はないが、国民一般の崇拝対象になっている。「苦しいときの神
頼み」の神。
2. 仏陀を仏さまとわれわれが呼び、神さま扱いするように、歴史上
実在した人間であり、その性格、思想、行動が後世の人間の崇拝の
対象となっている人物。語録が残されており、人間の実際的な行動
基準を定めているとみなされている人。
3. 人間が精神的に到達できるとされる一つの境地を示す。経験者は
そのとき、「神」と会合したと感じる境地。逆に未経験者には理解
がむつかしいというか、どちらかといえば理解不可能の境地。この
論文では神秘体験Aと呼んでいるが、イデア、一なるもの、ロゴス
、善、聖なる恩寵、直感、純粋経験、等々経験者はそれぞれに勝手
な名称をあたえている。日本(禅宗)では、見性(けんしょう)と
呼ぶこともある。個々人の心的現象であるから、厳密に描写するこ
とも、その存在を証明することも不可能である。
つまり、架空の想像上の崇高な「神」と、歴史上の崇拝されるべき実在の人物と、人間が内面の開拓によって到達できる(かもしれない)境地、の(まったく性格の異なる)三者を=(イコール)の等式で結びつけよう、と西洋人は真剣に考えたのだった。
三種類の神の統合は可能か?
画題:ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデン
「十字架降下」1435ころ
ホセ・アントニオ・デ・ウルビノ
『プラド美術館』1988
Scala Publications Ltd.
プラド美術館の名品である。
このキリストのどこが
光り輝くロゴスだというのか?
身悶えして嘆くマグダラのマリアは
歓喜に満ちた栄光の国にはいない。
ひたすらに、
失われた生命を嘆く。
このプラトン主義者の福音書が聖書のなかに含まれていたことが、問題の始まりであるとギボンは考えているようだ。
つまり、「神」がこの時点で三人になってしまった。
1. もともとのユダヤ教の「神」。日本人が神社で拍手(かしわ
で)を打つあの神さまに近い。普遍的に存在すると考えられ、
天地を創造したと考えられる神さまである。
2. キリストを神さまと考えた人たちにとって、「神」はすなわ
ちキリストだった。
3. ヨハネが福音書のなかで述べた「言(ロゴス)」。彼自身が説
明しているように、これは「神」なのである
1.と3.についてはアレキサンダー大王の東征后、アレキサンドリア市在住のユダヤ人たちが地ならしをしておいてくれた。これは前述のギボンの説明の通りである。
しかしよく考えると、1.=3.はなんだかおかしい。辻褄が合っていない。生身の人間がその精神上で把握する神秘体験Aを、伝承上のあるのかないのかわからない存在と合体させることには無理がある。好意的に考えると、伝承上の(苦しいときの神頼みの)「神」を信じてきた人間が、その価値基準を一挙に人間の精神内面上の「神」に変更することは不可能であるから、一時的な仮構である中間遷移状態として1.=3.を採用したと観ることもできる。が、その場合は、いつの時点かでこの仮構を解消する必要性がでてくる。
日本では1.と3.ははっきりと別物である。1.は神社にあるものであって、人がなにかの願いがあるときには神社に行き、拍手を二回打って神のお出ましを請い、お願いをする。3.については江戸時代に朱子学の学者もいたことはいたのだが、あまりポピュラーにならなかった。明治時代の末に西田幾多郎がドイツかぶれの頭で『善の研究』を出版し、1.と3.が合体して天皇絶対性の思想が生まれ、結果として第二次世界大戦の大惨事となった。このときを除けば、1.と3.が合体したことはない。
2.については、ヨハネの「言(ロゴス)」がこともあろうに、新約聖書のなかに含まれていたので、これを根拠に2.=3.が成立すると彼らが考えたことは、この章の初めに引用したギボンの引用文の通りである。
日本では、この2.=3.は成立しない。言い換えると、見性と称される3.は仏陀の精神と合致しない。たしかに見性の境地に到達したはずの白隠は、白隠「妄想情解」の項で説明したように、逆に正受老人に殴られ殺されかけるのである。正受老人は、はっきりと「それは仏陀の精神ではない」と(腕力にものをいわせて)否定するのである。
どうやらギボンは、キリスという人格は、神秘体験Aのみで測れる人物ではない、つまり、2.=3.は成立しないと言いたいが、ヨハネ福音書が聖書のなかに含まれているため、聖書を「絶対」と考える西洋人の心性が足枷となって、それもできずに苛立っている心境にあったようだ。