そう考えて、白隠は落胆しながら、とぼとぼと原宿の松蔭寺に帰った。

 帰った時期は、『白隠年譜』によれば、旧暦11月で、高田に残してきた同行者3人が飯山に来て、ともに帰国しようとすすめたこともあり、国許から授業の師(仏道を行う作業を教えてくれた師)である息道が、病床にあるから早く帰って看病せよという通知が来たからだ、と中村博二は言う。

 さて、スペインのテレサは神秘体験Aに到達したとき、確認のため、ドミニコ・バニェズ師と思われる「聖ドミニコ会の深い学識をそなえた一修士」に相談し、彼に褒められたのだが、白隠の場合はそうではなかった。

 テレサとたしか同一体験に到達したはずなのだが、白隠は逆に正受に「穴蔵禅法」と罵られ、「これこそ真理」と主張した白隠は、殴られ、崖下に突き落とされ失神させられてしまった。

 なぜ正受老人は白隠を殴ったのであろうか。前述のとおり、正受老人はそのとき、66歳であって、体力も衰えていたはずであり、23歳の青年を崖から突き落とすにはかなりの体力と、それを支える精神力が必要だったはずだ。精神力だけでも足るまい。体力の衰えを自覚しながらも青年を殴りつけるには、必殺の「殺し」の心がなければ実行できなかったはずだ。

 このような凄まじい殺気を読み取って、青二才の白隠は震えあがった。文句も言えず、理由もわからず、わけのわからぬまま原宿に帰ってきたと考えて、まず間違いはない。

 引き続き、中村博二『正受老人とその周辺』より引用する。

妄 想 情 解

次に正受は白隠に「南泉遷化」の公案を与えているが、白隠は何度入室しても許されず、徹底的に鉗鎚を受けている。英巌寺における白隠の大悟もこの程度のもので、難透の一つと言われる「南泉遷化」には歯が立たなかったようである。先に宗覚も白隠を「到あり未到あり」と戒めていたが、その通りであった。

 正受から「南泉遷化」を与えられると、白隠は耳を掩うて出て行く。正受が「坊主」と言うと白隠は頭を回(めぐ)らした。正受は「穴蔵禅法」と罵った。そして、白隠は入室する毎に必ず「穴蔵禅法」と罵られた。

 またある時は、白隠が入室しようとして、入口を跨ぐや、罵られた。
「ああ、くぼい。ああ、くぼい。楼上から深い井戸を見おろすようだ」。
 またある夕には、正受が檐(のき)の端に坐って涼んでいる時、白隠が偈を差し出すと、
 「妄想情解(妄想煩悩の見解)」。
と罵られた。そこで白隠は大声でやり返した。
 「妄想情解」。

 正受はすぐ白隠をつかまえて二、三十も激(はげ)
しくなぐった末に、堂下につき落とした。時は五月四
日で、長雨の後だったので、白隠は泥水の中に転び、
息もたえた。しばらくして息をふき返して立ち上がっ
て礼拝すると、また罵られた。
「穴蔵禅法」。
 
 正受の鉗鎚をうけて以来、常に両眼に涙を含んで
坐している白隠を憐んで正受も激励している。踈山
寿塔(そざんじゅとう)・牛過窓?(ごかそうれい)・南泉
遷化・南泉一株花(いっしゅか)・青州布衫(せいしゅ
うふさん)・雲門乾屎?(うんもんかんしけつ)などの公
案の因縁を語り、もしこのうちの一則を透過できさえ
すれば、釈迦達磨の児孫と称するに足るのだ、と。
そこで白隠も精神を大いに奮起させて、昼夜竪に咬
み横に咬むが、少しも透過発明するところがない。
悲しみ泣き、涙しながら自ら誓って言った。

 「十方の魔破旬(まはじゅん)(魔王)及びその他の悪
鬼神将等よ。若し七日でこの一則を透過できないよ
うなら、直ちに自分の命を奪い給え」。

 そして焼香作礼して少しも睡らずに坐った。少しく悟
るところがあって入室して見解を呈するが許されない。
正受は罵るだけである。
「穴蔵禅法」。

 白隠はひそかに正受菴を辞去して他方(よそ)へ行こ
かと考える。
 「今の世に本当の禅師を尋ねても、白昼に北斗星を
見ようと思うようなものだ。真の師家は今、日本中で
只この正受一人あるだけだ」。
と正受は言うが、白隠は思い悩む。

 「今日、名藍(めいらん)・大刹(たいさつ)の高名の禅師
はたくさんいる。こんな貧困の小庵にいながら、そんな
大言をはくとは類のない大驕慢だ。暇を請うて他所(よ
そ)へ行った方がよい」。

画題:愛染明王、鎌倉時代 14世紀中頃
     メトロポリタン美術館、
        Howard Hibbard
        "The Metropolitan Museum of Art"
        Harrison House, New York

   (広辞苑より)
   愛染明王の「愛染」とは、「貪愛染着」の意。
   むさぼり愛し、それにとらわれ染まること。煩悩。
   「愛染明王」
   全身赤色、三目六臂で、弓箭などを持つ。
   衆生の愛欲煩悩がそのまま悟りであることを表わす明王。