ベトコンとの戦いP76

 ケネディ暗殺後、ベトナムへ派遣されるアメリカの兵力は大幅に増強されるようになった。一九六四年の春を境に、彼らは南ベトナム政府軍の軍事顧問という肩書をかなぐり棄て、前線でベトコンと闘う実戦部隊となった。兵員数も十分、兵器も機材も重砲火もそろつていたが……戦果は何ひとつあげられなかった。相手の姿が見えないのだから――たまにベトコンの死体が見つかるくらい――どうしようもない。反対に、米軍の被害は増加し、戦死者の数はうなぎ登りだった。

 初めは、ベトコンは昼間は黒衣の農民に化けて人民のなかにまぎれ込み、夜になるとゲリラに変わるのだという説が、まことしやかに流れた。では、昼間これほど死傷者が出ているというのに、撃ち返すべき相手がいないのはどういうわけだ? 一九六六年の一月、第一歩兵師団は鉄の三角地帯を一挙に撃破するという一大作戦を計画・立案した。称して“ローラー作戦”。

 三角形の一辺からはじめ、しだいに兵力を扇状に展開させながら押していく。武器弾薬ならインドシナ全体を一掃しても有り余るほど備えていた。勢いよく向こう側に押し渡ったが、敵兵は一向に見当たらない。そのうちに背後から狙撃がはじまり、たてつづけに五名の兵が犠牲になった。狙撃手が何者にせよ、使っている銃は古いソ連製の単発式(ボルトアクション)のカービンなのだが、心臓を貫く銃弾は心臓を貫くのである。

 米軍は反転して、渡ってきたジャングルを渡り返した。やはり敵の姿は一人として見当たらなかったが、狙撃による犠牲者はさらに増えた。やられるのは常に背後からだった。各個掩体(たこつぼ)らしきものが幾つか発見された。空からの攻撃から逃れるための穴みたいなものだが、覆いもなく、中は空っぽだった。狙撃はさらにつづいたが、撃ち返すべき黒衣の相手はいなかった。

ネズミ6号P78

 指揮官は“ネズミ6号”と呼ばれていたが、各隊員にはそれぞれ別の番号が割り振られていた。彼らの結束は固く、他の者たちは、死刑囚に対するような一種の畏敬の念をもって彼らを眺めた。

“ネズミ6号”のデクスターを見る目は正しかった。ニュージャージーの土木工事の現場で働いていた小柄ながらタフな若者は、凶器のような拳と足をもち、ポール・ニューマンばりに眼光鋭く、強靭きわまりない神経をそなえた、この任務のために生まれてきたような人間だった。

 6号は試しにクチのトンネルに彼を連れ込んでみた。一時間もしないうちに、この新人がたぐいまれな戦士であることがわかった。二人は地下で掛け替えのないパートナーとなった。いったん地下に潜ると、階級の差もそれにともなう敬語もなかった。こうして二人がベトナムーツアー(在ベトナムの任期)二期の満了ちかくまで闇のなかで闘い、敵を殺しつづけたとき、ようやくキッシンジャーが北ベトナムのレ・ドクトと会談して、米軍のペトナム撤退が決まった。彼らの闘いもそれまでとなった。

 作戦開始から四日後、スチュワート・グリーン軍曹は、周囲の戦友だちと同様、いいかげんうんざりして、休憩のためにすわり込んだ。が、二秒とたたないうちに尻をかかえて立ち上がった。ベトナムにはフシアリ、サソリ、毒蛇と何でもありなのだ。軍曹は、てっきり何かに剌されるか噛まれるかしたに違いないと思った。が、刺さったのは、釘の先端だった。それは隠し戸の枠に使われていたもので、その隠し戸は縦穴の入口で、垂直に掘り下げた穴は暗闇のなかに没していた。かくして狙撃手がそこへ逃げ込んだことを米軍はようやく発見した。彼らアメリカ兵は二年ものあいだベトコンの頭上で右往左往していたことになる。

 暗黒の地下道に身をひそめているベトコンが相手では闘いようがなかった。三年後に二人の宇宙飛行士を月へ送り込むほどの科学技術をもっている国も、クチのトンネルをどうこうする技術は備えていなかったのである。見えない敵と闘う方法は一つしかなかった。

 だれかが裸同然の姿でピストルとナイフと懐中電灯を身につけて、真っ暗闇で、悪臭に満ち、空気の薄い、未知の、地図もない、ところどころに罠の仕掛けられた、死と隣合わせの、だれでも閉所恐怖症になりそうな、出口のまったくわからない、細いトンネルの迷路に潜り込んで、どこにあるかわからない巣穴にこもるベトコンを殺すしかないのだ。

 幾人かの候補者が見つかった。特殊なタイプの男たちである。筋骨たくましい大男はお呼びじゃなかった。兵の九十五パーセントは閉所恐怖症の気があり、これも落第。大口を叩く者、これ見よがしの見栄っ張り、おれおれ主義の人間も駄目。この任務にふさわしいのは物静かで、穏やかな物言いをする、控え目で、冷静沈着で、一匹狼的な存在である。冷たいほどクールで、強靭な神経をもち、パニックには無縁の者しか、地下の暗黒の迷路で闘うことができない。

 二語ですむところで十語を使うことを恐れない、何ごとも大げさに構えるのが習性の軍幹部は、選び出したこうした男たちを“地下道探検要員”と称した。彼らのほうは“トンネルのネズミ”と自称した。

 この特殊任務部隊はキャルーデクスターがベトナムへ来る三年前に編制されていたが、名誉負傷章の受章率が百パーセントという、全ベトナム派遣軍のなかで唯一の存在であった。

やがてアメリカがやってきて新しい政権を擁立したが、ベトナム人からすると、それもまた帝国主義者の操り人形にすぎなかった。彼らはまたジャングルに戻って、トンネル掘りを再開した。一九六四年までに彼らが掘ったトンネルや、要所要所に設けられた部屋や隠れ穴を結ぶ通路の総延長は、実に約三百五十キロに及んだ。それだけのものが地下に隠されていたのである。これがすべて地下なのだ。

 アメリカ軍は、地下に何があるかを理解しはじめたとき、そのトンネル網の複雑さに唖然とした。トンネルに降りるために要所要所に設けられた縦穴の入口は、ジャングルの下生えに隠されて、地面から十センチも目を離すと見えなかった。縦穴は五層からなり、各階の広間からトンネルが縦横にはしり、最も深い層は地下十七メートルのところにあった。これら縦穴を中心にした複合体は、狭い曲がりくねった通路でつながれていて、それら通路を伝って移動するには這って進むしかなく、そういう芸当ができるのはベトナム人か同じように身体の小さい黄色人種のみであった。

A v e n g e r  (1)

 第一歩兵師団で二人は伝説的な存在となり、みな二人の話をするときは、ささやき声になった。隊長の6号は“アナグマ”と呼ばれ、軍曹に進級したデクスターは“モグラ”と称された。

 水攻めにしようという試みもなされたが、注入した水はすべてトンネルの床に吸い込まれた。またガス攻めも、水の防御壁のために効果がなかった。このような状況に鑑み、派遣軍首脳部は、敵を直接戦闘に巻き込むには、こちらからトンネルに潜り込んでいって、鉄の三角地帯の地下全域の統合司令部と指揮系統を撃破するしかないとの結論に達したのである。

トンネルの詳細P74

 各レベルのトンネルには隠し戸が幾つも設けられ、あるものは上へ、またあるものは下へと通じていた。これら隠し戸はトンネルの切羽に巧みに作り付けられていて、ちょっと見たくらいではわからなかった。トンネル以外にも食糧や武器の貯蔵所、集会場、宿舎、修理工場、食堂はもちろん、病院さえあった。一九六六年ころまでは、一個旅団もの兵力が隠せるほどの規模になっていたが、実際にはテト攻勢まで、それほどの兵力を地下に貯える必要はなかったとされる。

 侵入者の意志を阻喪させるような障害も数多く設けられていた。縦穴を発見しても、その底には巧妙な罠が仕掛けられていた。トンネル内で発砲してもまったく無益だった。トンネル自体、短い間隔で曲がりくねっているので、銃弾はいたずらに壁に吸い込まれるだけで敵には何の被害もあたえない。

 ダイナマイトも役に立たなかった。偶然に通路の一つがやられても、漆黒の闇のなかには予備の通路が幾つも用意されていて、その存在を知っているのは地元の人間だけ。毒ガスも効果がなかった。トイレや流しの排水パイプが途中でU字形に曲げられているのと同じ原理で、水の壁がガスを封じ込めてしまうのである。

 しかし、一九四二年になってフランスは日本軍に追い出された。そしてその日本が一九四五年に敗北したとき、ベトナム人は、遂にわれわれは統一され、外国の植民地支配から逃れられると信じていた。ところが、フランスにその気はなく、またぞろベトナムに戻ってきた。ベトナム独立を唱える闘士は初めたくさんいたが、最も勢いがあったのは、共産主義者のホーチミンだった。彼はベトミンというゲリラ組織を創り、ジャングルに戻って闘った。そのゲリラ戦は、彼らが勝利するまで延々とつづいた。

出典:『アヴェンジャー』(上) フレデリック・フォーサイス 篠原慎訳 角川書店 2004 P72

なお、写真、図版は筆者が挿入したものです。

写真:スリッパ工場。原料はタイヤ。

画像:The Documentary Album of Cu Chi, 1960 – 1975, album No.2, Nha Xuat Ban Mui Ca Mau, P7
クチ郡ニュアン・デュエ村ブン地区、アメリカのナパーム弾による犠牲者(1966)

画像:The Documentary Album of Cu Chi, 1960 – 1975, album No.2, Nha Xuat Ban Mui Ca Mau, P27
クイェ・タン(決死的勝利)軍団と米国の第25陸軍師団「熱帯の稲妻」との間の戦闘。場所は、クチ郡アン・ノン・タイ村 (1967)

画像:クチの位置関係。サイゴンの北西20km

 ゲリラ勢の最大の拠点は、サイゴンの北西、カンボジア国境沿いに広がる濃い密林に覆われた農業地域である。フランスは――後にアメリカも同じ轍を踏むことになるのだが――同地域に注目して、討伐に次ぐ討伐を繰り返した。安全を求めた農民たちは外へ逃げ出すのではなく、地下にもぐった。

ベトナム戦争の歴史P72

 ベトナムに初めて侵入したのはアメリカではない。アメリカは最後の最後なのだ。最初に入ったのはフランスで、北部のトンキン地方と中部のアンナン、そして南部のコーチシナを植民地化して、隣国のラオス、カンボジアとともに、自帝国の版図に組み入れた。

トンネルの場所P75

 トンネル網はサイゴン郊外からほぼカンボジア国境まで延びている。他にもさまざまなトンネル網が存在したが、最寄りの町にちなんで名づけられたクチのトンネルほど見事なものは他にない。

 雨期がすぎると、紅土は軟らかで掘りやすくなり、ほぐして籠で運び出すのも容易になる。ところが、この紅土というやつ、乾くとコンクリートのように固くなって手に負えない。

画像:クチ・トンネルの内部構造

画像:ディエンビエンフー

画像:仏印進駐後、サイゴン(現在のホーチミン市)を闊歩する日本軍兵士(1941年)。

 彼ら農民たちには現代的な技術などなかった。彼らが備えていたのは重労働を厭わないアリのような勤勉さと忍耐強さ、狡猾さ、そして地域の地理、地誌についての詳細な知識であった。それに根掘り鋤とシャベルとヤシの葉で編んだ籠があった。彼らが掘り出した土の量がいかほどか、とうてい計算などできない。とにかく、ひたすら掘って、土を運び出したのである。一九五四年にフランスがディエンビエンフーで敗れて撤退したときには、鉄の三角地帯全域の地下には網の目のようにトンネルがはしっていた。そして、だれもそのことを知らなかった。

画像19世紀末から20世紀初頭のフランス領インドシナの領域の拡張を示した地図。