長峯遺跡発掘調査概要

長野県埋蔵文化センター発表資料掲載承諾 一部加筆

回  想

この長峯遺跡は昔から畑の表面に縄文時代の遺物が時々顔を出していた、私達は小学校の帰り道、矢じりを求めて拾い集め学校で仲間に見せて自慢した。
 昭和30年代に開田工事が大規模に行われ、そこからはおびただしい量の土器が確認された。まだ小学生だった私は度々訪れ炉や石棒を見てはるか昔ここに人が住んでいたことを教科書通り確認した。やがて田畑が作られると土器片が沢山散乱しておりいくらでも拾うことができた。耕す農婦は耕作の邪魔になる土器片を畑の隅に捨てていた。私達は模様の面白いこの土器片や石斧等を拾って持ち帰った。社会がまだ発展途上であった当時,本格的な調査は行われなかった。この時幾つもの土器が売買や未管理乱掘により各地に持ち去られて行ったことは残念でもある。尚、当時調査に当たった尖石遺跡の父、宮坂英弌氏により紹介された長峯遺跡の遺物は縄文中期全般に及び、とりわけ有孔鍔付樽形土器や阿玉台式の深鉢形土器が著名であり、現在一部尖石考古館で展示されている。

台地の形成

工事によって遺跡台地が南北に断ち割られた。その高さ5メートル程の露頭を観察すると,縄文時代の遺構が検出される調査面下にはローム層(火山灰の土壌化したもの)が1〜2メートル程堆積し、その下には火砕流堆積物が厚く堆積していることが明らかになった。遠く数万年前、八ヶ岳の火山活動が盛んだった頃、この一帯は火砕流が西に流れ下り、その堆積物がこの台地の基盤となっていた。その中には泥炭層が含まれていて、そこから採集した炭化木を用いて年代・樹種特定を実施する予定である。その結果によりこの火砕流の堆積時期と、その頃の八ヶ岳山麓の植生等が明らかになる可能性がある。

中期の集落

集落の形成

 長峯遺跡で初めて集落が形成されたのは、縄文時代中期初頭(約5,000年前)である。その頃は遺跡中央の比較的台地の辺縁部に沿うように数棟の住居を作っていた。その後、中期中葉に入ると、住居数や遺構全般が増加して、その分布範囲も台地全般に広がる。そしてその形態は、やや不明瞭ながら、環状集落といえる状況が見られる。中央にやや希薄な部分と土坑群や建物群が築かれ、それを囲むように大地全体に住居が分布している。

中期後葉の環状集落

 縄文時代中期初頭〜中葉まで営まれていた集落は時代を経るに従い、徐々にその分布域を東側に移していく。中期後葉になると、それまでの集落の中心から120bほど西に移った部分に中央広場が移り、その周囲には楕円形や長方形をした墓壙が環状に分布し、さらにその外縁には、台地の形状に沿うように住居が密集する。また、墓域と住居域の間には、6本柱の掘立柱建物跡も10数棟築かれている。集落の広さは最初の環状集落より小さくなるように見られるが、遺構の過密ぶりと、より計画的な遺構分布から、環状集落が確立された時期といえる。

特殊な土偶

 長峯遺跡ではこれまで約10点の土偶が見つかっている。その内1つは腹部が容器のように表現された、今までに例がない特異な形をしている。頭部と腕、下半身が欠損して、現存で高さ13.5p、横幅最大14pあり、腹部の深鉢のような容器は直径(外形)10.5p、内部の深さが9pある。欠損部を考えれば、かなり大形の土偶であった可能性が高い。また、腹部(容器)の外面には、両手が表現され、腕の部分は欠損しているが張り出した肩から手にかけて体から離れて延びていた跡が確認できる。そして容器内部や肩部にはベンガラと考えられる赤色顔料が塗布された痕跡が残っている。その外観はまるで妊娠した女性が、大きくなったお腹を大事そうに抱えているようでもある。また背中は逆三角形に肩が張り、背筋の部分が溝状に表現されている。このような表現は山梨県中丸遺跡の大形土偶や富士見町藤内遺跡出土の人体表現を持つ深鉢にも共通して見られる。
 壷を持つ土偶としては、今までに岡谷市目切遺跡や茅野市尖石遺跡から小脇に壷を抱える土偶の例がある。また土器に人体が装飾表現されたタイプもこの地域一帯で多く見つかっている。今回の土偶はそれら土偶や土器などの表現が、全て融合したようにも考えられる。
 土偶はその用途がはっきりしない遺物の代表的なものであるが、今回の土偶はその解明の大きな手がかりとなる資料となるであろう。

ヒスイ製垂飾り

 中期後半の環状集落の内部には、中央広場を囲むように十数基の墓壙が環状に分布している。墓を埋めた土には、通常ほとんど遺物が入っていないが、その内4基の墓壙からそれぞれ1点づつ計4点のヒスイ製垂飾りが出土している。いずれも底面近くに位置し、埋め土の堆積状況から被葬者の副葬品と考えられる。
 4点のうち1点は小形品で、出土位置は墓域の南東部分にあたる。それ以外の3点は、長さ・重量とも「大珠」とよばれる大形の垂飾りで、最大のものは9.9p、重量122.7gで、形が整った県内の発掘資料としては最大クラスの垂飾りである。
 その大きな3つのヒスイの出土した墓壙は、墓域の南西部分約3m四方に集中している。それぞれ重複関係にはなく、時期差は未だはっきりしないが、当時、「ヒスイを持つ人物」は限定されていて、その人物を埋葬する場所も決められていたと考えてよいのではないだろうか。
 当時非常に貴重なヒスイを持つ人物とは集落内でどんな立場だったか。これだけ計画的な集落を構成した集団であるから、その集団をまとめていくような中心的な存在であったとも考えられる。地続きの聖石遺跡の同時期の環状集落からも4点のヒスイ製垂飾りが3基の墓壙(うち1基には2点が副葬)から出土している。そしてまた、その出土地点も墓域の1ヶ所(南東部分)に集中している点が長峯遺跡と共通している。


長峯遺跡のヒスイ製垂飾り比較

遺構名長さp最大幅p厚さp重量g形状
sk26189.93.61.7122.7紡錘形
sk23705.92.71.753.7紡錘形
sk20255.83.42.065.9不整三角形
sk14813.02.00.98.8不整三角形

集落内に並べられた礫

 この台地のローム層には礫がほとんど含まれていないが、中期後半の環状集落内には大きく扁平な礫が大量に見つかっている。その数はゆうに百を超えている。またその礫には、ほとんど人工的な加工痕はない。一つ一つの重量は20〜30kgが一般的で、最も大きな礫は104kgを計る。この礫は数万年前の八ヶ岳の火山活動によって流れ出した溶岩(安山岩)が溶岩台地を造り、そこから崩落した岩が近隣を流れる渋川や角名川によって運ばれてきた川原礫である。しかしながら最も近い角名川河床と礫の分布する台地上との比高差は20mを超える。なぜ縄文の人達はこの礫を川原から台地まで運び上げたのだろうか。ちょうど集落の広場と墓域の境界付近に環状に並べられているようである。また、礫の下の土も人工的にならされている可能性も高く、礫の扁平な面の高さを均一に整えていたようである。
 他の石器や石製品と違い、石そのものを集落に運び込み、並べることに大きな意味があったのではないか。このような礫群は縄文の精神世界に関わる遺構といえるだろう。。

集落の終焉

 中期の環状集落に続く縄文時代後期にはどのような集落を作っていたのだろうか。長峯遺跡では、中期後葉の環状集落の範囲内に中期終末〜後期初頭と考えられる敷石住居跡3軒とそれに伴う屋外の大形の貯蔵穴(フラスコ状土坑)が見つかっている。これらの遺構が、果たして中期の環状集落と同じ発想でここに築かれたかどうかは、今後遺物などを分析して明らかにしていかなくてはならない。しかし遺物や遺構の数量をみると、中期までの大規模な集落は後期に入って急速に縮小しているのは確実である。
 その後、後期前半になると、集落は台地上を離れ南側の緩斜面に大きく移動している。台地上面より比高差で5m下がった部分に、敷石住居数棟と貯蔵穴、建物跡、墓壙などを作っている。
 また、更に斜面下位でトレンチ調査(調査のために細長く掘った仮掘り穴) を実施した際、当時は沢が今よりもっと低い位置にあり、遺物の出土状況から、後期の集落もそれに従い以降の 土石流の影響で、てい湿地の遺構は(水際で行われた生活の跡)などは見つかっていない。尚、縄文時代後期以後、現在までこの台地に集落は存在していない。

聖石遺跡との関係

聖石遺跡

 平成9〜11年度には茅野市と県埋蔵文化センターによって、聖石遺跡(調査後圃場整備により既に全面破壊済み)の調査が行われた。この遺跡は、長峯遺跡の西隣に隣接し、同じ台地上に営まれた中後期の大集落である。住居跡数100余軒、土坑200基以上、建物跡など見つかっている。
 聖石遺跡では縄文時代中期後葉になってはじめて集落が形成されている。それは長峯遺跡と同じ環状集落で、集落中央の広場の周りに分布する墓域からはヒスイ製垂飾りも4点見つかっている。
 後期の集落は台地上から徐々に台地南斜面に移っていく状況が判っていて、非常に長峯遺跡と共通点が多い遺跡である。尚、後期の住居址に大規模な緩斜面整地のための土木工事跡が確認された。石囲住居の石の量の多さと共にエネルギッシュで斜面中段に位置するその光景は実に圧巻であった。

二つの遺跡

 ここで二つの遺跡の立地する台地全体で考えてみると、台地に初めて集落が形成されたのは長峯遺跡の中期初頭の集落で、それから中葉まで営まれた環状集落は、中期後葉になると東上流の長嶺遺跡と西下流側の聖石遺跡と二つに分かれる。因みにその時期両者の中央部は直線にして500m離れている。また出土土器の様相から、両者が同時期に存在していたことも確実である。
 歩いて数分の距離にある大きな二つの集落同士の関係は一体どんなものであっただろうか。そしてお互いの領域(狩りや植物採集する範囲)の関係、さらに周辺の遺跡との関わりなど疑問点は尽きないが、それらは今後の整理作業から明らかになる。

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