9. まとめ − 1 知識がありませんので下手なことは言わないほうがいいのですが(全部そうです)、女帝・女王といった存在は珍しくない。7・8世紀の東アジアばかりでなく、たぶん現代がその時代です。ヨーロッパでは400年ほど前、絶対王政の時代あたりからそうなっているように思われるのですが、しかしこちらが知らないだけで、既に古代エジプトでも新王国の第18王朝で紀元前15世紀にハトシェプスト女王がいたようですし、ビザンツ帝国(という言い方が適当かどうかわかりませんが)でも女帝が相次いだようです。 推古即位前紀の「姿色端麗」ではありませんが、エジプトのクレオパトラ7世のプトレマイオス朝は多くの女王が立っている。というよりも、男王と女王による共同統治が通常の形態だったようで、それも兄弟姉妹が配偶関係となって王位に立つことが多かったようです。エディット・フラマリオンさん著・吉村作治さん監修・高野優さん訳の『クレオパトラ』(創元社 1994)ぐらいしか私には頼るものがないのですが、それによりますと実際にクレオパトラ7世も18歳ころに父プトレマイオス12世の遺言に従い、10歳程度の実弟プトレマイオス13世と配偶関係となって共同統治の形で王位についたもののようです。しかしやがて弟プトレマイオス13世や妹アルシノエ4世あたりの取り巻きである側近らによってか、アレクサンドリアから追放されてしまう。その後アレクサンドリアに入城したカエサルの前に毛布の中からクレオパトラが転がり出てきたというのはこのあと、紀元前48年のことのようです。クレオパトラに魅了されたカエサルは彼女に味方することになりますが、こののちもプトレマイオス13世の側近らが抵抗し、そこに妹のアルシノエ4世が合流するなどといった経過があって、結局カエサルとクレオパトラの側が勝利する。クレオパトラ7世はさらに弟のプトレマイオス14世との共同統治という形で復位したようですが、前47年に誕生したカエサリオンはカエサルとの間の子でした。カエサル暗殺後にクレオパトラがローマから戻ると、すぐにプトレマイオス14世も没してしまい、女王の単独統治は認められていなかったため、クレオパトラは子のカエサリオンをプトレマイオス15世として共同統治者とした……。 プトレマイオス朝(前305年ころ−前30年)というのはアレクサンドロスの大帝国、というより大王国が崩壊したのち、その将だったプトレマイオスがプトレマイオス1世として立てた王朝で、エジプト人の上にマケドニア人の王家が君臨する形だったようです。王族間の殺し合いも頻繁に行われたようですし、同母兄妹間で配偶関係をもつ例も複数見えるようです。そこでこういった近親婚がギリシア系の血の純粋さを守るためだったのかといえば、どうもそうでもないようで、先の『クレオパトラ』には「古代エジプトの伝統を踏襲して近親婚を行ない,神の末裔である王家の兄弟姉妹が夫婦として国を統治する習慣を定着させたのも,そのひとつの表れである」と見えています。ところが古代エジプトのほうについては私はこれ以上にさっぱりわかりません。これも古いものながら、『世界の歴史1 古代文明の発見』(中央公論社 1960)の加藤一朗さんの担当された古代エジプトの記述に、先のハトシェプスト女王について「トトメス1世の王女として生まれ、義兄のトトメス2世の王妃となり、母である王太后といっしょに、女二人で政治に容喙した。トトメス2世の子トトメス3世が、幼少で王となったとき、共同統治者となった彼女は、幼い王に王号を称することをゆるさず、前例のない女王として国民にのぞんだ」とあります。 このような部分は令制前、6世紀とか7世紀の倭、ヤマトの王位継承と似た部分があるように思ったのです。皇后というかあるいは男王に対する女王というか、最初から地位の高い女性配偶者が、男王没後にそのまま幼い子の共同統治者となれるような形。で、それは安定した王位継承に寄与するように見えながら実際には不安定な状況になっている場合も多いようで、プトレマイオス朝では極端な近親婚と殺し合いの連続のようですし、飛鳥時代にもそれに近い状況はうかがえます。唐で唯一それに近いことをしようとしたのではないかと思われる武則天の場合は2人の子を次々と退位させて自身が即位しているわけです。 日本の場合、こういう状態は本来「ヒメ・ヒコ制」などの観点から語られなければならないのでしょうが、不明にして取り付きに何から読んだらいいのかさえ存じません。また言い訳になりますが、雄略など5世紀ごろの大王やその「大后」などにも、どうも7・8世紀の女王・女帝と重なる印象は希薄なように感じられるのです。まったく個人的な感想ですが。 また6・7世紀ごろに女系が非常に高い地位、強い権力を有していたと考えると、こういったことも既に言及されているのを拝見した記憶がありますが、推古のいる敏達の殯宮に穴穂部が乱入しようとした事実も考えやすくなるように思うのです。『日本書紀』には既に儒教的な倫理観が入ってきているのでしょうが、何しろ妻問い婚などという時代ですから、もしも両者合意のうえで配偶関係が成立してしまえば、あるいは女王推古と配偶関係となることで穴穂部が男王になるという可能性も存在したような時代だったのかもしれません。「とんでもない話だ」と思うのはどっぷりと儒教的な倫理観に支配されているからで、この時代は穴穂部間人にせよ皇極にせよ再婚しており、『史記』に見えるという「忠臣不事二君、貞女不更二夫」は通用しません。そもそも天武の夫人で藤原鎌足の娘である五百重娘(いほへのいらつめ)は天武との間に新田部親王をもうけたのち異母兄弟の藤原不比等との間に藤原麻呂をもうけているようですし、県犬養三千代(橘三千代)は美努王(みののおほきみ)との間に葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)・牟漏女王をもうけたのち藤原不比等との間に光明子・多比能をもうけているようですので、もしも藤原仲麻呂が『藤原不比等伝』を書いていたとしたら、どう書いただろうかといったあたりは非常に興味のあるところです。別に抵抗はなかったでしょう。『続日本紀』淳仁即位前紀によれば、仲麻呂の長男らしい真従(まより)の配偶者だった粟田諸姉(あはたのもろね/あはたのもろあね)は、真従没後に大炊王(淳仁)と配偶関係となったもののようです。 そもそも継体と手白香の配偶関係自体、継体が入り婿として入ってきたもののように見られます。実はクレオパトラ7世の姉のベレニケ4世という人も、父のプトレマイオス12世がアレクサンドリア市民によって追放され、また姉のクレオパトラ6世が没したのち、カッパドキアのコマルナの大司祭アルケラオスなる人と配偶関係となって王位についたもののようです。両者ともプトレマイオス12世を擁して入ってきたローマ軍によってすぐに殺されてしまったそうですが。 穴穂部や穴穂部間人の同母兄の茨城皇子についても、推古の姉の磐隈皇女にからんで話が見えます(欽明2年3月、「其二曰磐隈皇女。〈更名夢皇女。〉初侍祀於伊勢大神。後坐姧皇子茨城解」)。もしもこの際茨城皇子が何らかの形で罰せられていたのなら、のちに穴穂部はあのような行動には出なかったでしょう。また穴穂部についても敏達の殯宮に乱入しようとしたことで罰せられていたのなら、穴穂部が「スメイロド」などと呼ばれることはなかったように思います。穴穂部の「スメイロド」については、姉の穴穂部間人が用明と配偶関係となったことによるものと見ておりますことは先に申しました。その用明についても実は「大后」推古のもとでの中継ぎ的な大王と見ておりますので、「スメイロド」穴穂部の存在を想定することは少々矛盾した印象でもありますが、ともかく丁未の役のあとで穴穂部の弟の崇峻が推古らの推戴により即位したことになっていますから、穴穂部も用明の治世に何らかの地位を占めていたのでしょう。 エジプトのほうは第18王朝にしてもプトレマイオス朝にしても極端な印象があって、これを令制前、6・7世紀ごろの倭、ヤマトの王位継承と比較するのはためらわれる部分があります。それに紀元前のエジプトの知識が情報として伝わるはずもないし、6・7世紀ごろの近親婚は次第に解消されていってしまいます。同母兄妹婚は『古事記』の允恭の子の木梨之軽太子(木梨之軽王)と実妹の軽大郎女(亦名衣通郎女)の同母兄妹(『日本書紀』では木梨軽皇子と軽大娘皇女)の関係が説話で伝わるだけで、異母兄妹婚でさえ正式なものとしてはこの時期は敏達と推古、用明と穴穂部間人、押坂彦人大兄と糠手姫(田村皇女)、押坂彦人大兄と小墾田皇女または「庶妹玄王」、山背大兄と舂米女王の例が確認できる程度ではないでしょうか。だとすれば6・7世紀に近親婚が特徴的だとはいっても、それは大王家の系統・血筋が固定され定着してしまうまでの一時的なものだったと見なせるのかもしれません。そうなると逆に女帝誕生の契機が何に求められるのかといえば、それはやはりヤマトで男系が断絶した際に継体が前王統の皇女の手白香と配偶関係となって大王位を継承したあたりに求められるのではないかと思うのです。そんな女系を通じての継承といった部分は、きっとあちこちの王家では珍しくないのでしょう。新羅についてはそういった関係の書を見ていませんのでわかりませんが、法興王から真興王へ、真平王から善徳・真徳の2代の女王を経て武烈王へという継承にもそういった側面もあったのではないでしょうか。 皇后・皇太后といった存在が権力を振るったのはきっとどこの王家でも同じで、ただ女王、女帝として即位するか、皇后・皇太后といった地位のままで終わるかの境界、線引きがどの位置にあるかの違いのようにも思われます。中国のように「男女別姓」、ではなく「同姓不婚」が貫徹されていれば、皇后とか皇太后は権力は保持しても皇族とはなり得なかったでしょうから、皇太后や外戚が権力を振るう形が出てくるように思います。逆に日本でそれをやったのは藤原氏のように思われ、蘇我氏が外戚として定着できなかったのは大王家の近親婚による血統の確立を図っていた時期と重なったためのようにも思われます。ヤマト旧来の勢力と近江・越・尾張など三関周辺の勢力との仲介役としてそれらの上に立とうとしたつもりが、いつの間にやら自分たちが切り捨てられていた。しかも不幸なことに、前王統の男系が絶えて新王統の血統が模索されていた時期の直後に外交・外圧の時期がきて、さらに仏教や儒教的思想・律令制・文字の本格的な使用の時期が立て続けに訪れた。7世紀の文字資料なんてほとんどないから、記紀等の8世紀以降のフィルターのかかったものを通してしか7世紀以前をのぞくことはできないように思われます。知らないことはあまり言わないほうがいいのですが。 くどいようですが浄御原令が689年、藤原京に遷都したのが694年ですから、文字の本格的な使用というのは7世紀も終末になってからといえそうです。それで明治憲法が1889年、日清戦争が1894年……などといまさら言い出すつもりもないのですが、実は各世紀の下2ケタが「92」から「94」といったあたりは特徴的なことが起こっています。というより、起こっていました。 延暦13年(794年)の平安京遷都の100年後の寛平6年(894年)に菅原道真の建議により遣唐使が廃止されたとされてきました。「白紙に戻す」などと覚えたのか、日清戦争の1000年前の遣唐使廃止だったのですが、東野治之さんの『遣唐使』で拝見したところでは、『日本紀略』の寛平6年の関係記事の日付について疑わしいと見ておられる石井正敏さんの「最後の遣唐使」でのご見解などを紹介されたうえで、この際には遣唐使派遣についての結論が出ないまま、なし崩し的に停止されたのであろうという形で見ておられます。現在の教科書等で894年が「遣唐使の廃止」などとされているのかどうか存じません。1894年は条約改正、領事裁判権の撤廃のほうが先にくるようです。 また、かつては1192年の鎌倉幕府成立を「いい国つくろう鎌倉幕府」などと覚えたようですが、現在では鎌倉時代の始まりを1185年の時点に置いて見ておられるそうです。放送の番組で得た知識です。 で、実は992年−994年とか1092年−1094年には大したことは起こっていません。いや、1095年には教皇ウルバヌス2世がクレルモン宗教会議で「檄」……というのは誤用になるのか、「檄」は石山本願寺の顕如あたりに限るのか、いや魏志倭人伝にも「(前略)遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝仮難升米為檄告喩之」などと見えますが、済し崩し的に敷居が高いのか、話が煮詰まったところで憮然とすべきなのか“manifesto”というべきなのか、ともかく十字軍が提唱されたもののようです。こちらは下2ケタが「95」ですが、ローマが東西に分裂した395年から700年ということと関係があったのでしょうか。日本史ではないですが。 1292年−1294年は文永の役(1274年)・弘安の役(1281年)や霜月騒動のあとで鎌倉幕府が滅亡に向かう時期ですが、特段のことがあるとも思われません。93年の鎮西探題の設置や引付の廃止などは、年代を問われる問題でもないように思われます。 1392年が南北朝の合一で、「いざ国……」などと覚えるのでしたか、一休さんのお父さんではないかとされる北朝の後小松天皇に南朝の後亀山天皇が神器を譲渡して両朝合一がなっています。ところが合一の条件であった両統迭立はホゴ(反故・反古)にされ、その後も「後南朝」の抵抗が頻発し、半世紀後にはその神器が盗み出されるといった事件も起こったようです。 1492年にはコロンブスが西インド諸島に到達しています。 1592年が文禄の役、朝鮮から見れば壬辰倭乱で、秀吉の朝鮮侵略の開始です。慶長の役、丁酉倭乱はその5年後の1597年となるようです。 1692年−1694年は元禄5−7年、側用人柳沢保明(吉保)が権力を振るい始め、また生類憐みの令が激しさを増す時期のようですが特記すべきことも見当たらず、1792年−1794年は寛政4−6年、92年にはラックスマンが大黒屋光大夫を送り届けてきたり、林子平が『海国兵談』で処罰されたり、光格天皇の父典仁親王への尊号宣下が停止となったり、雲仙の噴火・熊本の津波等があったりと見えて大変な年で、また93年には寛政の改革の松平定信が老中をやめたりしているようですが、このころ宣長が『古事記伝』を執筆していたようです。 飛鳥時代では600年の『隋書』に見えて『日本書紀』に見えない遣隋使や603年の冠位十二階、604年の憲法十七条、607年の小野妹子の遣隋使などを記憶する必要があるのか、3+4=7とでも覚えるのか存じませんが、3ケタ4ケタを語呂合わせで覚えなくとも、下2ケタだけ覚えておけば、上の数字は……などとも思います。 乙巳の変が645年、白村江の戦いが663年、壬申の乱が672年。あとは浄御原令の689年がフランス革命の1100年前で明治憲法の1200年前とか、藤原京遷都の694年が平安遷都の100年前とかは覚える必要はないのでしょう。
「戊午」の538年を欽明の治世とする『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』の記録をヤマト側の旧勢力による古いものと見、宣化3年とする『日本書紀』の所伝(また宣化段を立てる『古事記』)を彦人大兄―舒明の息長氏系王統、また尾張・近江・越などの勢力による新しいものと考えたわけですが、538年段階では欽明は30歳そこそこで、成人はしていたでしょうが本来ならとても位につける年齢ではなかった。だから「戊午」を欽明の世とするのは、前王統の血統を受け継ぐ男子が欽明1人しかいない(不明な点のある上殖葉皇子を除いて)という状況からくる例外的なものだったでしょう。いっぽう安閑・宣化については、『上宮聖徳法王帝説』第1部が欽明・敏達・用明(・崇峻)・推古を記紀同様のいわゆる和風諡号で表記するのに対し、宣化は「檜前天皇」という表記でした。ですから安閑・宣化は古い時代には欽明・敏達などと同等には見られていなかった、執政の実はあるけれども地位や血統では同等に扱われてはいなかったものと思っております。いわゆる和風諡号の「ヒロクニオシタテカナヒ」「タケヲヒロクニオシタテ」についても、これと似た清寧の和風諡号が『古事記』の「白髪大倭根子(命)」から『日本書紀』では「白髪武広国押稚日本根子(天皇)」と変化していたように、比較的記紀の成立に近い時代に定まったものと思っております。 いや……それはおかしい、というご意見があるかもしれません。 私の申しておりますことなど全部がおかしいわけですから、いまさら取り立ててどこが「おかしい」もないのかもしれませんが、宣化紀冒頭に「武小広国押盾天皇、男大迹天皇第二子也。勾大兄広国押武金日天皇之同母弟也。二年十二月、勾大兄広国押武金日天皇崩無嗣。群臣奏上剣鏡於武小広国押盾尊、使即天皇之位焉」とありました。「崩(かむあが)りまして嗣(みつぎ)無(な)し」、安閑が崩じて子がなかったから群臣が宣化に「剣」「鏡」をたてまつって即位させたと見えています。ということは、もしも安閑に子があったら本来は当然その子が位についていたとでも言わんばかりの書きぶりです。これは継体元年3月甲子の「甲子、立皇后手白香皇女、脩教于内。遂生一男。是為天国排開広庭尊。〈開、此云波羅企。〉是嫡子而幼年。於二兄治後、有其天下」と矛盾しています。 もっとも、この記述をただちに二朝並立に結びつける必要はないでしょう。平和裏に王位継承が行われていた状況を想定しても成り立つのかもしれません。 しかしいずれにせよ継体紀の「是嫡子而幼年。於二兄治後、有其天下」との矛盾は解消しません。この文は「兄弟の順によって安閑―宣化―欽明と天下を治めた」と言っているのではなく、「欽明は嫡子だったが幼年だったため2人の兄が先に位についた」と言っているわけですから。で、宣化紀の「二年十二月、勾大兄広国押武金日天皇崩無嗣。群臣奏上剣鏡於武小広国押盾尊、使即天皇之位焉」と継体紀の「是嫡子而幼年。於二兄治後、有其天下」と、どちらが本当かと聞かれれば、客観的な基準がなくて判断できないように思われます。ただ巻18の安閑・宣化紀については、安閑を「勾大兄広国押武金日天皇」とすること(『古事記』も継体紀も「ヒロクニオシタケカナヒ」のみなのに対し)や、安閑と春日山田の配偶関係成立について継体7年9月には「九月、勾大兄皇子、親聘春日皇女」と見えるのに安閑元年3月戊子には「有司為天皇納采億計天皇女春日山田皇女為皇后」と見えることなど、矛盾が多い印象です。安閑紀冒頭で「廿五年春二月辛丑朔丁未、男大迹天皇、立大兄為天皇。即日、男大迹天皇崩」としながら元年を「是歳也、太歳甲寅」として2年の空位を生じていることなどは申すまでもありません。巻18のみ「矛盾」と見るのはこちらがひねくれているからで、どちらも公平に虚心坦懐に見なければならないのでしょうか。 なお宣化紀冒頭に「群臣奏上剣鏡」、「剣鏡」のことが見えています。いわゆる「三種の神器」ではありません。これについては古典文学大系『日本書紀』の神代下の補注「三種神宝」に詳しく、また手元にありますものでは直木孝次郎さんの「建国神話の形成」(『日本神話と古代国家』講談社学術文庫 1990 所収、もと『歴史学研究』335・337号1968 に「建国神話の虚構性」の題で掲載された論文の旨見えます)にも詳細に説かれています。どちらも津田左右吉さんのご見解から書き起こされていますので、それを拝読していない身で触れるのは心苦しい部分もあるのですが、直木さんの「建国神話の形成」で拝見しますと、まず持統4年元日の即位の際の「春正月戊寅朔、物部麻呂朝臣樹大盾。神祇伯中臣大嶋朝臣読天神寿詞。畢忌部宿禰色夫知奉上神璽剣鏡於皇后。皇后即天皇位」の記述を挙げられたうえで、浄御原令以前では即位にからんで「即位のしるしとなる品物の奉献」が見える例は允恭・清寧・顕宗・継体・宣化・推古・舒明の7例、それに孝徳即位前紀の皇極4年6月の皇極が孝徳に譲位した記事の「天豊財重日足姫天皇授璽綬禅位」を加えた8例だとされ、各例を示しておられます。 しかしその中で「即位のしるしとなる品物」、レガリア(regalia 。直木さんがお使いの言葉ではありませんが)と呼んでいいかと思うのですけれど、そのレガリアとして具体的に「鏡」「剣」と見えるのは継体紀の「大伴金村大連乃跪上天子鏡剣璽符、再拝」と宣化紀の「群臣奏上剣鏡於武小広国押盾尊、使即天皇之位焉」、そして持統紀の例だけのように思われます。他の例はどれも「璽符」「天皇之璽」といったものだけで「鏡」「剣」とは見えません。推古即位前紀は「天皇璽印」でしたし、舒明即位前紀も「天皇之璽印」でした。孝徳即位前紀は「璽綬」(「天豊財重日足姫天皇、授璽綬禅位。策曰、咨、爾軽皇子、云々」)で、この文は古典文学大系の注によれば『魏志』文帝紀の「奉璽綬、禅位、冊曰、咨、爾魏王」あたりが出典のようですが、「璽綬」という語からは同じ『魏志』の倭人伝、「魏志倭人伝」の「金印紫綬」「銀印青綬」などが思い出されます。『日本書紀』編纂のころは持統の即位から30年を経、既に文武・元明・元正の即位に際しても鏡剣の奉上は行われていたのでしょうが、『日本書紀』の筆者周辺では即位の際の鏡剣奉上についてはあまり知られていなかったか、具体的なイメージがなかったのでしょうか。 ついでに申せば『続日本紀』ではどの即位の例にも神宝奉献のことは見当たらない印象ですし、また天平宝字元年(757年)7月の橘奈良麻呂の変、天平宝字8年(764年)9月の恵美押勝の乱の際にも問題となっているのは「鈴印」、駅鈴と天皇御璽だけのように見えます。1185年に平氏が壇ノ浦で滅亡した際にも、また1392年の南北朝合一の際にも「三種の神器」のことが問題となっているのではないかと思うのですが(そしてまた素人の悲しさ、それらが何という史料に出ていることかも存じませんが)、少なくとも『続日本紀』の範囲あたりまでは神璽の鏡剣についてはあまり関心が払われていないようにも思われます。 「建国神話の形成」で直木さんは、神宝奉献については天智朝に三種で始まったのではないかと想定され、また「弘文の即位式は古来問題とされているが、神宝奉献の儀礼は行われたと考えて」よいのではないかともしておられます。ですが『日本書紀』では壬申の乱のあとでも神宝の争奪とか譲渡といった記述は見当たらないように思われます。 壬申の乱に際し、6月24日に吉野を脱出した大海人一行は26日朝に「丙戌、旦、於朝明郡迹太川辺、望拝天照太神」、朝明郡の迹太川から伊勢神宮を望拝したとあります。この「朝明郡迹太川辺」というのが朝明川、三重県三重郡の川越町とか朝日町といったあたりだったとすれば、そのころの伊勢神宮がどのへんにあったのか存じませんが、おそらく伊勢湾をはさんでほぼ真南に直線で60キロメートルほど離れた伊勢神宮を拝んだということになるのでしょう。しかし、そこから北北東ないし北東に25キロメートルほどのところには熱田神宮があったのでは。江戸時代でも東海道は宮と桑名の間は海路で七里の渡しですから、672年ころには間はずっと海だったでしょう。その時点で八咫鏡は既に伊勢神宮に祭られていたのかもしれませんが、草薙剣のほうは果たして熱田神宮にあったのでしょうか。 と申しますのも、実は草薙剣に関する奇妙な伝えが『日本書紀』に見えるからです。まず天智7年是歳、「是歳、沙門道行、草薙剣を盗みて、新羅に逃げゆく。而して中路に風雨にあひて、荒迷(まど)ひて帰る」(「是歳、沙門道行、盗草薙剣、逃向新羅。而中路風雨、荒迷而帰」)などと見えます。これについて古典文学大系の注には「剣がこの当時を含めて朱鳥元年まで朝廷にあったとする説と、古くから熱田社にあったとする説がある」とあります。 その朱鳥元年6月戊寅(10日)の記事のほうは「戊寅に、天皇の病を卜(うらな)ふに、草薙剣に祟れり。即日(そのひ)に、尾張国の熱田社に送り置く」(「戊寅、卜天皇病、祟草薙剣。即日、送置于尾張国熱田社」)というものです。結局3カ月後に天武は没するわけですが、こちらも古典文学大系の注には「本来熱田神宮にあったものを、僧道行が盗もうとして以来、宮中に置かれていたのであろう」と見えています。しかし天智7年に盗まれて戻って以来宮中に置かれていたというならば、大津遷都のあとですから大津宮にあったということなのでしょう。ならば壬申の乱の際にどのようにして大津宮から奪還されたのか、持ち出されたのかといったことも疑問になります。また天智7年に熱田神宮から盗み出されたのち再び熱田神宮に戻されたのなら、なぜ朱鳥元年には天武の近くにあったのか疑問です。 疑問に思うことばかりで結局解決がつきませんが、こういった経過を見てまいりますと、持統4年の即位に際し忌部色夫知が奉上する神璽の剣鏡を見た持統の心にはどのようなイメージが去来したのかなどと思ってしまう。それは、継体紀に「天子鏡剣璽符」と、安閑紀に「剣鏡」と書き込ませたかった側の思惑とも通じる部分があったのではないかなどとも思っております。まったく根拠もない思い込みですが。 |
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