9. まとめ − 2 結局「天皇」「大王」についても「大后」についても、また「大王天皇」についても自身なりの結論を出すことなく終わってしまいました。結論といえば、「天皇」「大王」も「大后」も、日本語、倭語の発音として何と呼ばれていたのかはわからない、といったあたりでしょうか。 |
本来このような問題は邪馬台国の卑弥呼あたりから説き起こして「ヒメ・ヒコ制」といった問題として扱わなければならないのでしょう。そういう点では、まったく何も読んでいない私には何かを申せた分際でもないのですが、ただ関心の出発点としましては、先にも申しましたように継体25年辛亥から『日本書紀』の安閑元年甲寅までの壬子・癸丑の2年の空位を手白香の「大后の時」として見たいということが1点でした。もう1点はクレオパトラ7世のプトレマイオス朝です。ただしこちらのほうは最初に読んだ際のインパクトだけであって、それから何年たってもほかに何も読んでおりませんし、何の進捗もありません。さらにもう1点は推古と穴穂部間人との対比で、なぜ推古は即位にまで至ったのに穴穂部間人は逆に非常に印象が薄いのかという点が気になっていました。 事実、推古と穴穂部間人の対比から女帝とされる存在に注目してみると、その配偶者である男帝は敏達―舒明―天武と「直系」に近い形でつながってくるように思われます。もとより例外ばかりで、推古の系統には王位は結局伝わりませんでしたし、彦人大兄は即位できなかったため1代とんでいます。また舒明の直系といえば本来天智になるのでしょうが、倭姫王は子を残せなかったようですし、大友は壬申の乱に敗れて天武の系統に移っています。それ以後は草壁―文武―聖武と直系で続きますが、女帝の性格は変質し、最後は孝謙・称徳で行き止まりになってしまう。その異母姉妹である井上内親王の配偶者だった光仁があとを受けて即位しますが、天智―志貴親王―光仁という系譜が直系として見直されたもののようにも受け取れます。 |
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……6世紀初頭にヤマトで王統の男子が絶えた。ほぼ絶えたに等しい状況となったため、女系により王統を継ぐ方策が図られた。手白香の後継者として越か近江あたりからあるいは「応神5世孫」とされる継体が入り婿の形で迎えられ、またこの配偶関係に子が誕生しなかった場合も想定して継体の子の安閑・宣化も招かれてそれぞれ春日山田・橘仲皇女と配偶関係となった。おそらく近江・越・尾張周辺の勢力が継体父子を後押しし、ワニ氏あたりが仲介する形で入ってきたのでしょう。ヤマト旧来の勢力としては前王統の血を引く女性の地位を高く見ていたものと思われます。前代にも飯豊皇女のような例が見えますが、所伝も『古事記』と『日本書紀』で大きく食い違っていますし、またこの飯豊皇女だけが孤立していて、雄略の皇后などにはのちの女帝につながるイメージが見出せません。「大后」あるいは「オホキサキ」といった存在をどのように位置付けてよいのかもわかりませんが、のちの皇后や女帝につながる存在としては手白香がその誕生の契機となったのではないでしょうか。 手白香の墓を奈良県天理市の大和古墳群の中にある西山塚古墳あたりと見るなら、安閑と同じ墓に埋葬されたと見える春日山田、宣化と同じ墓に埋葬されたと見える橘仲皇女などよりは少し離れた、特別な存在という印象があるのです。それは、欽明皇后とされながら欽明とは別に河内の「磯長陵」に葬られたと見える石姫の存在にも近いものがうかがえるように思います。崇峻4年にはその磯長陵に子の敏達の埋葬されたことが見えるわけですが。 ヤマト旧来の勢力からしてみれば、前王統の血を引く唯一の男子として誕生した欽明こそが「生まれながらの大王」のような存在と見なされ、また新王統の始祖として位置付けられた。『上宮聖徳法王帝説』に記された宣化の「檜前天皇」といった表記からうかがえば、安閑・宣化は欽明の成長を待つ間の中継ぎ的な大王と見なされていたのではないでしょうか。ヤマト側勢力はその位につける年齢にも達していない欽明を既に大王と見なし、近江・越・尾張周辺の勢力あたりからすれば安閑・宣化もれっきとした大王と見なされていた。また、そう見なしたかった。『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』の「戊午」年(538年)を欽明の世とする説はヤマト旧来の勢力の見方であり、逆に継体25年12月庚子の分注に引く『百済本記』の「又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨」の「太子皇子」は本来近江・越・尾張周辺の勢力の立場に近い見方を示すものだったのではないでしょうか。そしてそのころ倭にはまだ文字や文書による記録の意識が普及しておらず、むしろ口頭での発言・会話、口伝のようなものが重視されており、年代を示して記録するといったことはごくごく一部の渡来系の文筆者のみのものであって、それもおそらく雄略の時代の稲荷山鉄剣銘程度のレベルの記録のままだったのでしょう。 ヤマト旧来の勢力と近江・越・尾張周辺の勢力の対立は継体から安閑・宣化、そして欽明の時代には火を噴くことはなかった。しかし欽明の配偶者が宣化の娘と蘇我稲目の娘だけという事態は、既に配偶関係や後継問題をめぐって両者の綱引きが始まっていたことを示すように思われます。宣化の娘である石姫は前王統の血を引くと同時に尾張氏の血を引く存在でもありますし、いっぽうヤマト旧来の勢力は新興の蘇我氏の外戚化を半ば期待していたようにも感じられます。仁徳皇后として伝わる「葛城氏」出身の磐之媛でもありませんが、蘇我氏の血統を交えることによってはじめてヤマトの大王家として定着するようなイメージ。それは蘇我氏と対立していた物部氏までもがのちに小姉君の子の穴穂部を担がざるを得なかったことによってもうかがえるように思います。 おそらく538年ころに百済の聖王により仏教が公に伝えられたものと思われます。538年と見るなら、翌年没することになる宣化はまだ存命だったはずですが、既に朝廷を実質的に主導していたのは欽明と蘇我稲目という若い世代だった。またおそらく同年ころに敏達が誕生しているのではないかと思われますが、この敏達もまた父方・母方両方から前王統の血を引きながら同時に尾張氏の血も引く存在であり、しかも後年息長真手王の娘の広姫を皇后としていることから考えれば、どちらかといえば近江・越・尾張周辺の勢力のほうに軸足を置く存在だったようにも思われます。広姫という存在をあまり評価されない向きもおありかと思いますが、薗田香融さんが「皇祖大兄御名入部について」で示しておられますように、天智が孝徳に返上したらしい膨大な「皇祖大兄御名入部」を広姫の子の押坂彦人大兄に伝領されたものと見るなら、その生母である広姫の地位も相応に高いものだったと考えられると思います。 欽明が没した段階で敏達はまだ30代半ば、その位につける年齢ではなかったのではないでしょうか。欽明の「皇后」というか「大后」というか、嫡妻格であった石姫がおそらくほとんどその地位のままで敏達の後見のような立場となっていたのではないかと思っております。その間敏達は『元興寺縁起』にわずかに見える「ヒナミシノミコ」的な称で呼ばれていたのかもしれません。ただ『日本書紀』には敏達の立太子も記されており、また敏達に兄の箭田珠勝大兄のような「○○皇子」的な称が伝わっていないことをあわせ考えますと、欽明の生前からあるいは「ヒナミシノミコ」的な称で呼ばれていたのかもしれません。もっとも欽明が没した時点で30代半ば、すぐに40近くに達してしまいますから、安閑・宣化のような中継ぎ的存在の男帝代理を置く必要はなかったのでしょう。 敏達4年の広姫立后を敏達がその年齢に達したものと見るのか、石姫の死没と見たらよいのかは、もとよりわかりません。しかしその広姫も立后された同年に没してしまい、堅塩媛の娘で敏達の異母妹である推古が立后される。推古も欽明の娘でありながらまた堅塩媛の娘であって、敏達と推古の間に誕生した男子(具体的には竹田ですが)が位を継ぐことになれば、尾張氏からも蘇我氏からも血を受けた男子ということで、ヤマト旧来の勢力も近江・越・尾張周辺の勢力も妥協できる存在となっていたことでしょう。ところが敏達が予想していたよりも早くに没してしまう。まだ敏達の子たちは位につける年齢にはほど遠いため、「大后」推古のもとで急遽用明が安閑・宣化と同様の中継ぎの大王に立てられたのでしょう。用明の「皇后」だったはずの穴穂部間人が推古と並ぶような地位になり得ないのも、敏達―推古が嫡系だったのに対し用明が中継ぎだったという違いに由来するものだと思うのです。 しかしそこに穴穂部が物部守屋と組んで横槍を入れてくる。中臣勝海が押坂彦人大兄と竹田を呪詛したとする伝えが事実とすれば、ヤマトの勢力の中でもとくに近江・越・尾張周辺の勢力に反発するような集団が穴穂部・守屋のバックについていたのかもしれません。穴穂部の「スメイロド」という称がどういう性格のものかは難しいですが、通常の「イロド」ではなく用明から見て配偶者の同母弟にあたるという関係、あるいは用明と穴穂部間人の配偶関係から見て「同母弟」ということかもしれませんが、ともかく通常の続柄ではない特殊な関係ですから、やはり単なる続柄呼称ではなく一種の地位呼称だったと見たいところです。しかもそうした続柄上の位置というのは孝徳・天武にも共通するものでした。おそらく「朝庭」内で何らかの発言権を有するような地位として設定されたのではないでしょうか。 丁未の役の結果穴穂部・守屋は倒され、また用明のあとに中継ぎ的な地位とされた崇峻も結局殺害されるわけですが、竹田はそれ以前に没してしまっていたのかもしれません。なぜ尾張皇子の後継という方向が模索されなかったのかはわかりませんが、竹田の没するのに相前後して廐戸と貝鮹の配偶関係が成立したようにも思われます。崇峻が弑殺されたのち推古が「即位」したものと見ても、即位前紀に語られるような「璽印」、鏡剣の奉上はなかったでしょう。冒頭では述べませんでしたが、もっとも疑っていたのがこの「璽印」でした。推古の「即位」自体についても疑問に思う点はありますが、逆に明けて推古元年に推古が数え年40歳らしいという線もまた気になるところです。 廐戸の立太子という事態も字面どおりには受け取れませんが、女帝と男帝との共治のような形が要求されていたものと見れば、あるいは廐戸をヒジリノミコなどという形で男帝代行に近い形としたようなことがあったのかもしれません。貝鮹との配偶関係の成立により廐戸も推古の義理の息子となったことになるのでしょうが、もとより後継としては廐戸自身よりも廐戸と貝鮹の間に誕生する子が期待されていたのでしょう。そうでなければ意味がない。敏達や竹田が望まれた裏には尾張氏の血も引いているという部分があったのでしょうから。 しかし廐戸と貝鮹の間には子が誕生しなかったようです。敏達紀には推古の娘の配偶関係が例外的に特記されているのに、結局どの関係も推古の子孫を位につかせることはできなかったように見えます。推古の長期の在位の間に廐戸も没し、彦人大兄も没してしまったのでしょうが、その間に事態が推移していた。彦人大兄の子の舒明が蘇我馬子の娘の法提郎媛を迎えて古人大兄をもうけており、また皇極は高向王と生別したのか死別したのかもわかりませんが、ともかく舒明は即位後に「皇后」(大后か)とすべき嫡妻として皇極も迎えていて、推古33年か34年には天智も誕生していた。そしてまたヤマトの有力者層も彦人大兄―舒明の息長氏系王統支持にくら替えを始めていたのではないでしょうか。対する山背大兄は尾張氏の血を引く王女などを迎えられてはおらず、近江・越・尾張周辺の勢力などには受け入れられなかったのでは。上宮王家滅亡に際しては、深草屯倉から東国に行き乳部に頼って挙兵しようと三輪文屋君が勧めていますが、山背大兄はそれを断っています。事実かどうかわかりませんが、事実だったとしても壬申の乱と異なり成功の可能性は低かったのではないかと思われます。 舒明没後の皇極の3年半ほどの治世というのは、たしかに最もよくわからない時代のように思われます。おそらく推古以来の、あるいはそれ以前の手白香や石姫からの伝統を踏襲する形で皇后、ないし大后の地位からそのまま女帝となったようにも思えますが、また孝徳没後の斉明の代のみが「後岡本天皇」の世と見られているような部分もうかがわれます。女帝に対する男帝代理のような存在も見当たりませんが、元年12月甲午の舒明の「喪」に見える顔ぶれが巨勢徳太・大派皇子・粟田臣細目・軽皇子・大伴馬飼・大臣(蘇我蝦夷)といったところであることを考えれば、あるいは孝徳が既に舒明の生前あたりから「スメイロド」といった形で政権に加わっていたのかもしれません。またこの中に古人大兄が見えませんが、天智が舒明13年10月丙午に「是時、東宮開別皇子、年十六而誄之」と見えていることから考えれば、あるいはこの際に天智に先んじて奉誄、または代読させていたのではないでしょうか。皇極のもとで、既に倭姫王などをもうけていたかもしれないが、まだ40歳ほどには達していなかったであろう「大兄」の古人と、40歳はとうに過ぎていたであろう「スメイロド」孝徳とが輔政となるような体制だったのかもしれません。まったく根拠のない空想です。 それにしても皇極元年12月の舒明の「喪」の顔ぶれは印象的です。大派皇子は敏達と春日臣仲君の娘の老女子夫人との間の子ですし、粟田臣細目の粟田氏も春日氏と同じくワニ氏から分かれた氏とされています。のちに孝徳朝で左右大臣となる巨勢徳太・大伴馬飼(長徳)の名も見えていますが、継体が樟葉宮に入った際の大連が大伴金村と物部麁鹿火、大臣が許勢(雀部)男人でしたから、一瞬継体当時の状況が再現されたのではないかといった錯覚……には陥りませんが、それを想起させるものはあります。継体の配偶者にも和珥臣河内の娘の荑媛がありました。 乙巳の変とか、大化の改新といったものは私のような頭では考えられません。ヤマトの旧来の大勢力が次々と息長氏系王統支持に移っていく流れの中で、蘇我本宗家を倒してそれにかわろうする蘇我倉山田石川麻呂の野望と、古人大兄を除いて中継ぎのような形でも位につこうとする孝徳の考え、そして巨勢徳太・大伴馬飼・中臣鎌足らの利害が一致したなどと見ようとするのは、その前の舒明・皇極朝の流れが把握できていないわけですから根拠がありません。ただ、もしかするとこの乙巳の変の際に孝徳と間人の配偶関係が決まったのではないかとも疑っています。間人以外には孝徳の配偶者は阿倍倉梯麻呂の娘の小足媛と蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘しかいないようですから、間人が配偶者とならなければ「皇后」を立てられなかった。即位もできなかったのでしょう。 ただ、もしもそれが的を射ていたとすれば、この配偶関係の成立は意外な影響を及ぼしたでしょう。間人のすぐ下の弟である天武、大海人が孝徳のスメイロドとなったのではないかと思われることです。それは、皮肉なことに白雉4年是歳、天智や皇極・間人らが孝徳を残して飛鳥に戻る記事、そしてまた白雉5年10月の孝徳の危篤の記事に「皇弟」表記で見えていた天武が、天智紀の3年2月、甲子の宣の記事から「大皇弟」表記で見えていることからうかがえるように思うのです。 乙巳の変のころには天武はまだおそらく数え年15歳程度と思っています。スメイロドとはいえ「朝庭」で何らかの地位につくなどということはできなかったでしょう。しかし斉明が没し白村江の戦いにも敗れた天智3年は天智の「称制」とされる期間であり、孝徳皇后だった間人が「ナカツスメラミコト」として一応トップにあった時期でしょう。30代半ばにさしかかっていた天武は白村江の戦いの前から続けざまに大来・草壁・大津と子供に恵まれていたはず。また高市皇子の生母は筑紫の名族である胸形君徳善の娘の尼子娘ですから、戦後処理の際にも天武は九州で顔が利いたのかもしれませんし、あるいは九州でも彼のシンパをつくることに成功したのかもしれません。壬申の乱に際して大分君恵尺(おほきだのきみゑさか)・大分君稚臣(おほきだのきみわかみ)といった名が見え、おそらく大津皇子に従っていたもののようですが、その活躍を伝えられています。 なお、天智と間人が当時許されぬ仲だったのではないかと疑っておられるらしい吉永登さんのお説につきましては、これを記している間に『万葉―文学と歴史のあいだ』の「間人皇女」を拝読してしまったのですが、それでも個人的には天智の6年間の「称制」の問題については年齢の面から、そして間人を「仲天皇」「中皇命」として見ることで解決できるものと思います。それから、そういった実態を『日本書紀』がどのように処理して、どのような形と見なして記述したのかといった問題があるでしょう。またそういった問題があったために『古事記』は推古段で筆を置かねばならなかったのだとも思っております。 「仲天皇」「中皇命」という存在についてこれを間人と見るにしても、それをどう解釈してよいのかわかりません。斉明没後にナカツスメラミコトの位についたと見るのか、それとも孝徳が没して斉明が「即天皇位」したとされる時点あたりからナカツスメラミコトだったと見るのか……。常識的に考えれば斉明没後にナカツスメラミコトとされたものと見、それまでは天智紀に見える「間人大后」といった形で呼ばれていたものと見たいのですが、『万葉集』巻1の「後岡本宮御宇天皇代」の標目に「中皇命」の歌と「中大兄」の歌が並んで収録されているのを見ると、この2つの「中」字には密接なつながりのあるもののようにも思えてきます。しかしこれ以上のことは何とも申せません。 2010年の9月には明日香村越の牽牛子塚古墳から墳丘外周を八角形にめぐる凝灰岩切り石の石敷きが発見されたと発表され、3カ月後の12月には牽牛子塚古墳の南西すぐから新たな石室が発見され「越塚御門古墳」と命名されるなどにぎやかでしたが、その際には牽牛子塚古墳の石室の写真・映像等の紹介された記憶がありません。写真で見る限り、凝灰岩をくりぬいて作られたというその石室は非常に丁寧な造りで、間仕切りで仕切られた左右の石室はぴったり左右対称といった印象です(飛鳥資料館発行の“GUIDE TO THE ASUKA HISTORICAL MUSEUM”1978 所載の写真等で拝見しました)。もしもここに斉明と間人が埋葬されていたのだとしたら、斉明と間人とはまったく同格、同等に見られていたのではないかと疑います。ではなぜ斉明は天皇として大きく扱われ、それに対し「ナカツスメラミコト」間人は天皇とはされなかったのか……。まだ「中皇命」がナカツスメラミコトと決まったわけでも、またそのナカツスメラミコトが間人と決まったわけでもありませんが、ナカツスメラミコトを間人と見るなら、第1に年齢の問題を挙げられるかと思います。天智の「称制」についても年齢の問題として見てまいりました。その天智が即位した天智7年に数え年43歳くらいかと思われます。天智4年に没したことの見える間人は没した年にようやく38歳くらいになるかならないかといったあたりだったのではないでしょうか。また「和風諡号」などと呼ばれているあの長い称がもしも実名を含むものだとしたら、実名のわからなくなった人については「和風諡号」といった称をあとからおくることはできなかった。そんな事情も考えられるのではないかと思っております。その天智「称制」とされる期間は、実質的には天智が執政したのでしょうが、形式的にはナカツスメラミコト間人をトップとし、『日本書紀』では「皇太子」と表記されますが『万葉集』などから考えれば「中大兄」のままだったかもしれない天智と、孝徳―間人の「皇弟」スメイロドだったかもしれない「大皇弟」天武とがその下にいるという状態だったのでは。 天智と天武との仲が円満に推移している状況下では敗戦の戦後処理も何とか進んだのでしょうが、間人が没して天智が即位する段になると対立が目立ってきたもののように思われます。天智即位後のある時期に酒席で天武が怒って長槍で敷き板を刺し貫いたとする『家伝上』の所伝はどこまで信頼できるのかわかりませんし、『懐風藻』の大友の伝記が「弱冠」20歳で太政大臣、23歳で皇太子となったと伝えるのも疑問に思います。しかしながら、唐令にみえないという「太政大臣」という職制についてはあるいは「大兄」あたりを受け継ぐものではないかと思っています。そして天智が大友を太政大臣としたことは、自身亡きあとの後継体制について「大后」倭姫王のもとでヒナミシノミコなどの称を帯びた男帝代理的存在に「太政大臣」大友を指定したということになるのでしょう。それは「大皇弟」天武の居場所をなくするような意味を持ったのかもしれません。 天智没後の近江朝廷は、天智10年10月庚辰の「請奉洪業、付属大后。令大友王、奉宣諸政」、また天武紀上、即位前紀の「願陛下挙天下附皇后、仍立大友皇子、宜為儲君」といった天武の言葉どおりに推移していたのでしょう。大友の即位についてしばしば問題とされますが、天智も40歳を過ぎるまで即位できませんでしたし、『懐風藻』に享年25と見えていることからすれば、倭姫王がそのまま「倭大后」(『万葉集』巻2の149題詞)として事実上のトップにあり、そのもとで「太政大臣」大友が左右大臣や御史大夫に補佐されて執政にあたっていた、そのように見たく思います。『日本書紀』天智10年正月庚子(2日)、大友が太政大臣とされた同日、左大臣に蘇我赤兄、右大臣に中臣金、御史大夫に蘇我果安・巨勢人・紀大人がそれぞれ任じられています。当時のヤマトを代表する氏のトップが、かつて継体や安閑・宣化の支持基盤の1つだったであろう近江に集まっていた形ですが、彼らは1年半後に美濃・尾張の兵によって無残な敗北を味わわされる運命を知っていたでしょうか。いや、「無残」ではなかったかもしれません。結局「死地に」赴いたのは7月2日に前線での内紛により首を刺して自害した蘇我果安と、戦後に極刑とされ斬殺された右大臣の中臣金だけでした。 壬申の乱の結果天武が勝利し、宮都も飛鳥に戻ります。天武の……天武と持統の時代が来たということでしょうが、果たしてそれは壬申の乱で天武に協力した側の希望した方向に進んでいたでしょうか。「皇親政治」などと言われますが、結局は天智が目指したのと同じ律令制模索の方向に進まざるを得なかったでしょう。そんな中で天武8年5月には天武・天智の皇子を集めて吉野の誓盟があり、また10年2月には草壁が立太子されています。「皇太子」とありますが実際には「ヒナミシノミコ」といったあたりで、将来天武の没したあとスムーズに「大后」持統との共治に持ち込めるような地位につけたといったあたりではないでしょうか。もしも過去に敏達が「ヒナミシノミコ」的な称で呼ばれていたといったことがあったとしたら、このころまではまだその伝えが残っていたのではないかとも思われます。直後の3月には川嶋皇子・忍壁皇子らに「記定帝紀及上古諸事」を令したと見えますが、彼らの後継者たちはあるいは「ヒナミシノミコ」などを「皇太子」表記に置き換える役目を担わされたのかもしれません。 13年10月には息長公・丹比公など13氏に「真人」が賜姓されています。天武の実名が「真人」だったとすれば自身の名を姓として与えたことになるようにも思われますが、それ以前から藤原鎌足の長男の定恵や粟田真人など「真人」の名は珍しくなかったのでしょう。また「息長公」「丹比公」などの「公」も実際にはこの時代「上毛野君」「三輪君」などの「君」と同様「キミ」だったのではないかと思うのですが、これら比較的近い時代に大王家から分かれた氏に、天武の恩を忘れさせないようにといった意味合いも込められていたのでしょうか。 天武の没後、「臨朝称制」した持統の最初の仕事は草壁の敵対者であった大津を謀反の罪で死なせることだったようです。ところが「ヒナミシノミコ」草壁も天武の葬儀が終わって半年もたたぬうちに没してしまう。その直後に浄御原令が班賜され、翌持統4年(690年)の元日に持統が即位しています。 持統の「称制」の意味……持統がなぜ3年間も「称制」を続けたのか。持統4年の元日に持統はおそらく46歳になっています。元日が誕生日だったからではなく当時は数え年だからですが、持統称制元年でも43歳。おそらく年齢ではありません。浄御原令班賜とともに草壁を即位させるつもりで、その日を期して自身は即位せずに待っていたというのでしょうか。 個人的には、持統4年の元日に持統が即位してしまったからだと思っております。 前年に浄御原令が完成し、それにもとづくような形で翌持統4年元日に持統が「天皇」として即位した。それ以前の持統はまだ即位していなかったことになりますから、「称制」といった概念を適用せざるを得なかったのでしょう。ならば持統4年に即位の儀式を挙げず、没するまで、あるいは文武を即位させるまで即位の儀式を挙げていなかったのなら、『日本書紀』は持統元年に「即天皇位」と扱っていたとでも言うのかと問われましたら、そういう事態は考えづらいことではありますが、そうです。もっとも「歴史に『もしも』はない、if はない」ですからそれを考えることに意味はないですが、妄想です。 先に推古即位前紀を疑っていることについて、特に「璽印」について疑っていると申しました。持統が奉上されたような鏡剣は推古の時代にはなかったはずと思っています。皇極や斉明の即位の際にはただ「即天皇位」とあるだけで何の即位の儀式も示されません。そんなあたりが実態だったのではないでしょうか。 ですから、推古や皇極・斉明の「即天皇位」は持統即位の690年から『日本書紀』撰上の720年までの30年間のいつかの時点だったろうと思っています。もちろん持統と同じ意味での即位、というつもりで述べております。『古事記』では推古は「妹、豊御食炊屋比売命、坐小治田宮、治天下卅七歳」です。屁理屈でしょうが「治天下」とはあっても「天皇」だとはひとことも言っていない。いやそれはおかしい、自身で法隆寺金堂薬師像銘の「大王天皇」「小治田大宮治天下大王天皇」を問題にしてきたではないかと問い詰められそうですが、その裏には7世紀末から8世紀初頭あたりにかけての、旧来の概念を新しい漢語におきかえていく際の“解釈の違い”といったものが出ているのではないかという気がするのです。 推古や皇極・斉明の「天皇」として記される実態も、実は称制期の持統と同じようなものだったのではないでしょうか。持統は浄御原令にもとづくはじめての「天皇」として厳かに即位した。いや、浄御原令にも「天皇」の地位について規定したような令文などはなかったかもしれませんが、「即位」の儀式が令と密接に結びついてイメージされればよいわけです。実際に養老神祇令の践祚条には「凡践祚之日。中臣奏天神之寿詞。忌部上神璽之鏡剣」とありました。『日本書紀』は持統の即位と同じようなイメージを推古や皇極・斉明についても加えたかったのかもしれませんが、推古即位前紀でも「神璽剣鏡」「神璽之鏡剣」ではなく「璽印」、孝徳紀で皇極が孝徳に譲位する際に授けたのは「璽綬」でした。こういう言い方はよくないかもしれませんが、何という印文の「璽印」「璽綬」だったのでしょうか。「大王御璽」などでしょうか。 持統5年2月壬寅朔(1日)、即位後の持統の言葉に「卿等(いましたち)、天皇の世に、仏殿・経蔵を作りて、月ごとの六斎を行へり。天皇、時時(よりより)に大舎人を遣(つかは)して問訊ひたまふ(とひたまふ)。朕が世にも之(かく)の如くせむ(後略)」(「卿等、於天皇世、作仏殿経蔵、行月六斎。天皇時々遣大舎人問訊。朕世亦如之」)などと見えます。この「天皇」が天武のことを指すもののようで、天武が最初の「天皇」だったらしいことの1つの根拠とされているようです。たしかにこの「天皇」は『日本書紀』筆者のうっかりミスといった印象のもので、改めるなら「清御原天皇」(持統7年9月丙申=10日)といったところでしょうか。古典文学大系の注には「集解は天皇を先皇の誤とする」と見えています。 しかし、個人的にこれを見て思い出しますのは『続日本紀』天平宝字元年7月戊申(2日)の「皇太后 詔曰」、光明皇太后の宣命「(前略)汝〈多知〉諸者吾近姪〈奈利〉。又豎子卿等者 天皇大命以汝〈多知乎〉召而屢 詔〈志久〉。朕後〈尓〉太后〈尓〉能仕奉〈利〉助奉〈礼止〉詔〈伎〉(後略)」に見える「天皇」です。当時の「天皇」は、翌年8月までは娘の孝謙のはずなのに、配偶者であった亡き聖武を指してただ「天皇」と呼んでいます。これと比較しますと持統5年2月壬寅朔の「天皇」についても、持統にまだ「大后」といった意識が残っていたことの表れといった解釈も可能かと思うのです。「天皇大后」、配偶関係で一対と強く意識されていた。持統から見て単に「天皇」、スメラミコトといえばすなわち天武のことだった。「天皇」表記の開始がいつかということになれば話は別です。ここは「卿等」などという呼びかけからしても会話、口語的な印象が強い文のように思われます。また「スメラミコト」といった語の存在については先に穴穂部の「スメイロド」を例として可能性を考えております。持統を指して『日本霊異記』上巻に「大后天皇」「大皇后天皇」、『懐風藻』釈智蔵伝に「太后天皇」とする表記も見えていました。「天皇」と「大后天皇」という組み合わせの意識もあったかもしれないと思うのです。 持統4年の9月9日は天武の4回目の命日だったはずですが、同じ日に中国では載初元年が天授元年と改められ、唐が周と改められ、武后が即位して「聖神皇帝」の尊号をたてまつられています。それまで唐の皇帝だった息子の睿宗は位を下りて「皇嗣」なる身分となったようです。 偶然とはいえ出来過ぎという印象もありますが、持統というおそらく令制初の女帝(令制初の天皇)誕生の9カ月と9日後に中国史上空前絶後の女帝が誕生しているわけです。 唐で「天皇」の号が定まったのは3代高宗の上元元年(674年)8月。壬申の乱の2年後で天武即位の翌年です。そして高宗が「天皇」となると同時に武后も「天后」となったもののようです。この「天皇」号が唐でいつ停止されたのか存じませんが、弘道元年(683年)12月に高宗が没するのと同時に自然に消滅する形となったのでしょうか。 武則天即位からさらに1カ月と10日ほどのちの持統4年10月乙丑(22日)、唐から新羅経由で帰国した「軍丁筑後国上陽東S人大伴部博麻」が褒賞されていることは先に申しました。彼が唐の捕虜となったのは「天豊財重日足姫天皇七年」、斉明7年(661年)と見えますから30年にわたり唐の地で苦労したことになりますが、彼は武則天が皇帝への階段をのぼりつめる過程を見聞することができたのでしょうか。武后の立后は永徽6年(655年)ということですから、唐が百済・高句麗を滅亡させるかなり以前から宮廷で地歩を築いています。その間には斉明5年(659年)7月に出発した伊吉連博徳ら遣唐使一行が翌年9月まで長安に抑留されるといった事態も起こっています。 さて……武后、武則天が高宗とともに「両聖」などと称えられ、高宗が「天皇」となると同時に「天后」となって皇帝と並ぶ地位に立ち、さらに高宗没後は自身の子である中宗・睿宗の上に皇太后として君臨し、その睿宗を退位させて自身が皇帝として即位している。 男性である皇帝と並び立ち、さらには事実上皇帝の上位に立つという階梯を踏むことで、はじめて中国史上唯一の女帝として君臨することができた。 こんな筋書きをどうして着想できたのでしょうか。 新羅の善徳王や真徳王は、王后といった王の配偶者から女王となったものではないようです。悪く言えば系図の行き止まり的な位置ですから、むしろ孝謙・称徳の立場のほうに近いように思われます。皇帝の一族でない武后にとっては新羅の女王の例は参考とする意味がない。 すると……壬申の乱に際して天武は唐人に戦略を問うて満足できる答えを得られなかったようですが、660年代ころに武后が倭人の捕虜などに何かを尋ねることがあったとしたら、どんなことを問うたでしょうか。 唐の高宗の「天皇」号については武后の「天后」とセットで定められたもので、武后あたりの発案になる可能性が大きいと思います。そしてまた、高宗の「天皇」号をもって倭での「天皇」号の使用の上限を決めるわけにもいかないように思われます。既に「大王」と対比されて用いられる「天皇」の称自体は『後漢書』光武帝紀に見えていた。倭で先んじて「天皇」表記が用いられていた可能性は皆無でない。むしろ高いように思うのです。ただ『上宮聖徳法王帝説』の天寿国繍帳銘や『元興寺縁起』の「塔露盤銘」などがある程度古い形を伝えている可能性があるとすれば、最初は欽明のみを指して「天皇」表記を用いていた可能性もあるものと思っております。もちろん7世紀以降のある時期からといった形で考えていますが。 これが結論でした。無知蒙昧な素人ですので、資料の扱いなど恣意的であること極まりないです。 以上は、私が無意味に綴っております駄文「女帝の年代記」の「推古天皇」の注でした。 |
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