8. 継体−欽明朝について − 4 稲荷山鉄剣銘の「辛亥年」が471年とわかるのは「獲加多支鹵大王」によってですし、江田船山大刀銘には「八月中」とのみあって年代は記されていないようです。そして埼玉県とか熊本県の現地の所有者がそれを読めたか、その意味がわかったかどうかも不明でしょう。隅田八幡神社の人物画像鏡銘の「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時(後略)」は「大王」なのか「日十大王」なのか、誰なのかわからないために503年なのか443年なのかわかりません。563年ならばもう押坂彦人大兄が誕生していてもおかしくないころでしょう。ともかく、6世紀に入ってもこういう状況は基本的には変わらなかったのではないでしょうか。文字による記録とか、年代を記すといった発想はこの時期には主にヤマト側の旧来の勢力のほうにあって、継体・安閑・宣化の側、ことに尾張・近江・越あたりの勢力には、年や日付を「干支」で表すといった知識や発想さえもまだごくごく一部の層にしか浸透していなかったのではないかと思います。そして安閑の治世が○年くらい、宣化の治世が○年くらいといった形で漠然と意識されていた。いや、いつの時点から安閑の治世かなどといったこともはっきりしなかった。『古事記』で継体・安閑・宣化・欽明段がいずれも「治天下○歳」でなく「治天下也」なのはそんな状況を思わせます。また、そういったものの記録されたごくわずかな資料も、乙巳の変直後に蘇我蝦夷によって燃やされてしまったとか、壬申の乱の際に大津宮で灰燼に帰したといったこともあったのかもしれません。そもそも6世紀前半といったころには満足な記録自体がほとんどなかったのでしょうし、6世紀後半から7世紀前半にかけてもごく少なかった。また仮にあったとしても、それらの資料はみな「公文書」でなく「私文書」だったでしょう。まだ公文書もなければ公式な文章表記も公的な年代表記もなかった。渡来系の文筆を扱う氏の中には「○○大王○○(干支)年」的な表記をするものもあれば、また仏教関係では「法興」などという私年号と干支とで表記しようなどという動きもあったのかもしれません。何しろ、崇峻4年当時に「法興」などという年号はないといっても、その当時は公的な年号さえなかったはず。 『元興寺縁起』の縁起本文の後には「難波天皇之世辛亥年正月五日、授塔露盤銘」として「塔露盤銘」なるものが記されています。「大和国天皇斯帰斯麻宮治天下名阿末久尓意斯波羅岐比里尓波弥己等之仕奉巷宜名伊那米大臣時(後略)」などと始まって、やはり百済国の「正明王」による仏教伝来から書き起こされているようなのですが、この「難波天皇之世辛亥年」もよくわからないものです。孝徳朝の白雉2年(≒651年)ではもう飛鳥寺の塔は完成していて露盤に銘を鐫刻することはできなかったでしょうし、「辛亥年」だけを見て崇峻4年(≒591年)と見ることができるかといえば、銘の中には「故天皇之女佐久羅韋等由良宮治天下ク於已弥居加斯夜比弥乃弥己等世、及甥名有麻移刀等刀弥々乃弥己等時(後略)」「丙辰年十一月既」(「丙辰年」は推古4年≒596年で、これは『日本書紀』の「四年冬十一月、法興寺造竟」と合致)などと見えているようで、崇峻4年のものと見ると矛盾してしまいます。銘の中に見える年代はもうひとつ。「戊申、始請百済寺名昌王法師及諸仏等(後略)」とあって、こちらも『日本書紀』崇峻元年是歳条に百済国がたてまつったと見える僧・寺工などと多くの名が一致します。ところがこちらの銘文も欽明朝の仏教伝来から書き起こされているのに、その仏教公伝の年代は記されていません。欽明の世とされているのみです。6世紀前半から中期といった時代でも、このように干支による年代を記す意識さえないのがあるいは一般的な状況ではなかったでしょうか。『元興寺縁起』の信頼性は疑問ながら、ともかくもそんな印象を受けます。 7世紀段階でも文字・文書の使用が極端に少なくて、口頭でのやりとりが公式のものとされていたのではないかと思わせる例があります。舒明即位前紀には舒明はほとんど登場せず、山背大兄と蘇我蝦夷の間接的なやりとりが多いのですが、その際に三国王・桜井臣和慈古の名がペアで頻出します。最後には桜井臣単独になるようですが、三国王と桜井臣が一緒になって山背・蝦夷間で伝言を伝えているようです。また蝦夷が境部臣摩理勢に使いを出す際には身狭君勝牛・錦織首赤猪の名が見えています。なぜ2人で見えているのかと考えますと、口頭で伝えることですから、互いに聞き覚えた内容の誤解・齟齬・遺漏を補いあう、または互いに内容が正しいと証明しあうといった関係だったのではないでしょうか。まずAが語り、その内容についてBが訂正する、遺漏を補う……全く想像にすぎませんが、そんな関係ではなかったかと思っております。 舒明13年10月丙午、舒明の殯で「是時、東宮開別皇子、年十六而誄之」、天智が16歳で奉誄したことが特記されていますが、これも奈良時代の宣命や現代の神社の祝詞などの読み上げるものと違い、現代の14歳か15歳程度で、長い文章を考え丸暗記して暗誦したから驚異的だったのではないでしょうか。もとより原稿といったものなどない時代だったでしょうが、皇極元年12月甲午の舒明の「喪」では「(前略)小徳巨勢臣徳太、代大派皇子而誄。次小徳粟田臣細目、代軽皇子而誄。次小徳大伴連馬飼、代大臣而誄」とあって、大派皇子・孝徳・蝦夷は代読を立てています。文章を自ら頭の中で構成し、暗記して語るといった高度な技術が要求されるものだったのではないかと思うのです。推古20年2月庚午(20日)、「改葬皇太夫人堅塩媛於檜隈大陵。是日、誄於軽術」、「オホキサキ」堅塩媛を欽明の檜隈大陵に改葬し、軽の術(ちまた)で奉誄した記事では、阿倍内臣鳥(あへのうちのおみとり)が「天皇之命」を奉誄、諸皇子等が「次第(ついで)を以て各(おのおの)誄す(しのびことまうす)」(「以次第各誄之」)、中臣宮地連烏摩侶(なかとみのみやどころのむらじをまろ)が「大臣之辞」を奉誄、そして大臣(蘇我馬子)が「八腹臣等」(やはらのおみら。支族)を率いる中で、境部臣摩理勢(さかひべのおみまりせ)に「氏姓之本」を奉誄させたと見えています。これに対し「時人云」、ときのうわさでは「摩理勢・烏摩侶、二人能誄。唯鳥臣不能誄也」、摩理勢と烏摩侶はうまくできたが、阿倍内臣鳥はできなかったと評したことが見えています。これなども紙に書いてあるものを読むだけなら巧拙はそれほど問題にはならなかったでしょう。これらの事例はまだ文字・文書が一般的でなかったことを示す証拠のように思うのです。 何かの事件の発生した年代を記録、というより記憶する方法としては……「方法」とは言えないでしょうが、大事件が自身の人生におけるイベント、たとえば結婚とか子供の誕生、あるいは近親者や親しい知人の死などと重なった場合には案外忘れられないものです。自身の年齢と、そういった周囲の事象とがセットで記憶される。しかしこういった例は自身で能動的に作ることができるわけではありません。記憶するというよりは記憶に残ってしまうものです。それに、そういう記憶をもった人が死に絶えてしまったような過去については当然ながらわかりません。何らかの外的な時間の基準に頼った記録が残されなければならない。生没年不明の人について「○歳のときに○○○○があった」といった記録が残っていても、生年が不明なのですからその記録は使えません。 すると『上宮聖徳法王帝説』第4部の「志癸嶋天皇御世戊午年十月十二日、百斉国主明王、始奉度仏像経教并僧等(後略)」といった記述が当時としては案外いい形のものだったのではないでしょうか。『元興寺縁起』の「大倭国仏法、創自斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇御世、蘇我大臣稲目宿禰仕奉時、治天下七年歳次戊午十二月度来」はたまたま、このまま逆算すれば「治天下一年」は「壬子」(≒532年)となり、前年が継体の没したとされる「辛亥」(≒531年)となるわけですが、『上宮聖徳法王帝説』第5部の「志帰嶋天皇治天下卌一年〈辛卯年四月崩陵檜前坂合岡也〉」などは「辛卯年」(≒571年)を治世「41」年と見てしまうと元年の「1」年は531年で、『日本書紀』のいう継体25年辛亥となってしまいます。こちらはきっと「足掛け」などといった数え方で、「数え年」のような計数法になるのでしょう。両端の半端な年も繰り入れて数えてしまうわけです。表記法としては干支のほうが絶対的であって、「○○(天皇)治天下○年」的な表記法は「ずれ」の生じる可能性がある。最初から干支であってくれればいいのですが、最初から「○○(天皇)治天下○年」的表記だったとか、干支から換算されて「○○(天皇)治天下○年」的表記のみになってしまったという場合には困ります。 しかし継体の没年については『日本書紀』継体25年12月庚子の分注に引く『百済本記』の「太歳辛亥三月、軍進至于安羅、営乞乇城、是月高麗弑其王安、又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨」、『元興寺縁起』の「大倭国仏法、創自斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇御世、蘇我大臣稲目宿禰仕奉時、治天下七年歳次戊午十二月度来」、『上宮聖徳法王帝説』第5部の「志帰嶋天皇治天下卌一年〈辛卯年四月崩陵檜前坂合岡也〉」の3説がほぼ辛亥年(≒531年)と伝えているものと見ていいでしょう。『元興寺縁起』と『上宮聖徳法王帝説』第5部については欽明がその地位についた年から間接的に継体の没した年を推測する形になりますが、これらからすれば『古事記』の「天皇御年、肆拾参歳。〈丁未年四月九日崩也。〉」は孤立しており、日付の干支を年の干支と誤解したものとでも見るしかないでしょう。 『日本書紀』継体25年12月庚子の分注に見える継体の没年の「廿五年歳次辛亥」と「廿八年歳次甲寅」の対立、そして安閑紀の安閑元年「太歳甲寅」による壬子・癸丑2年の空位については『日本書紀』の中だけの問題であり、もしもヤマト側の旧来の勢力の記録が残っていたとすれば、それは『元興寺縁起』のように「シキシマ天皇治天下二年歳次癸丑」などの形で記されていたのかもしれません。そういう状況にあって年長の異母兄である安閑や宣化が中継ぎの大王のような形で存在していても、それがいつからいつまでの期間かといったことは「他人」のことで、関心もなかったのでしょう。いっぽうで安閑・宣化側のワニ氏とか尾張氏・息長氏などの側にはまだそういった渡来系の文筆の専門家が多くなかったか、育っていなかったのではないでしょうか。 最初はこの2年の空位を手白香の「大后の時」といった形で見られないかと思って考え始めたことでした。いままで申し上げてまいりました「矛盾だらけ」、いや「矛盾だけ」の妄想は、すべてもともとは空位の2年を大后手白香の治世と見たいという関心から出発しております。しかしこれは見られませんでした。いや見るのは勝手、可能性としては否定されていないのでしょうが、何の根拠もありません。 それに安閑紀・宣化紀には対朝鮮半島関係の記述もほとんどありませんが、笠原直使主と同族小杵が武蔵国造を争った話などを除き、国内の記事にも特記すべき事柄がほとんど見当たりません。継体紀から安閑紀にかけて春日山田の関係するエピソードが屯倉設置にからんで見えており、対し手白香や橘仲皇女に関係した話がまったく見えないことは既に申しております。おそらく当初は『古事記』安閑段・宣化段程度の記載しかなかったのではないでしょうか。仏教関係には仏教公伝を欽明の「治天下七年歳次戊午」などと伝える資料が存在していたでしょうから、そちらから忠実に逆算すれば継体の25年辛亥没は割り出せたのではないかと思うのですが、『元興寺縁起』的な伝承には宣化が登場しないこともあって、最初から見向きもされなかった。おそらくどこかに仏教公伝を欽明の13年だとか壬申だといった形で伝える資料があって、そちらのほうが矛盾がないからということで採用されたのでしょう。さらにどこかから継体の治世が28年だとか、安閑の治世が2年だといった記録でも見つけてきて、それにもとづいてワニ氏あたりの春日山田に関する屯倉の伝承に日付をあてはめたり『百済本記』の倭関係の記録を挿入したりしていたら、作業も大詰めを迎えて『百済本記』の「太歳辛亥三月……又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨」が見つかった。おそらくもとは「倭王及太子王子」などとあったのでしょう。「太子王子」もともに「薨」というのが何を意味するのかはわからないけれど、ともかく仏教側の資料で逆算してみたら、こちらもどうも25年辛亥らしい。慌てて直そうにも、もう安閑紀は元年が「太歳甲寅」で治世2年という構想の下にできあがっていた。締め切りにも間に合いそうになかったため、仕方なく継体紀末尾の継体の没年を25年として分注に『百済本記』を引き、安閑紀のほうは即位前紀だけ「廿五年春二月辛丑朔丁未、男大迹天皇、立大兄為天皇。即日、男大迹天皇崩」と改めた。もし仮にこの文が「廿八年○○月○○」となっていたとしても、継体紀のほうが継体没を28年と伝えていたらそんなに矛盾は感じなかったでしょう。むしろ譲位して即日没したとする書き方こそが異例であって、それが継体紀のほうに見えないことこそ矛盾でしょうが、そういう意味では継体7年9月に「九月、勾大兄皇子、親聘春日皇女」、安閑自ら春日山田を迎えたと見えながら、安閑元年3月戊子では「三月癸未朔戊子、有司為天皇納采億計天皇女春日山田皇女為皇后。〈更名山田赤見皇女。〉(後略)」、有司が「納采」、めあわせたとする矛盾も解決できていないようです。所伝・典拠の違いならばこれこそ「一本云」「或本云」ではないでしょうか。よほど慌てて仕上げたような様子がうかがえます。 では『百済本記』の「太歳辛亥三月、軍進至于安羅、営乞乇城、是月高麗弑其王安、又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨」はどう解釈するのか。これは『日本書紀』の筆者も最高に信頼を置いていたであろう記録のはずですから、ゆるがせにできません。 この「太子」については喜田貞吉さんが継体元年3月癸酉(14日)に「三尾角折君妹曰稚子媛」の子として見える「大郎皇子」(おほいらつこのみこ。『古事記』に「大郎子」)の可能性を考えておられた旨、林屋さんの「継体・欽明朝内乱の史的分析」の中に見えるのですが、個人的には「日本天皇及太子皇子」は継体・安閑・宣化と考えて問題ないように思います。「大郎皇子」という存在もあるいは「長男」的な意味の通称であって実名ではないのかもしれませんが、「三尾」といえば滋賀県高島市付近になるのか、継体即位前紀に継体の父の彦主人王が「近江国高嶋郡三尾之別業」にいたことがあるような書き方をしていますから、継体にも近しい間柄の豪族だったのでしょう。ならばヤマト方面に上ってくる以前の継体の地盤をこの「大郎皇子」あたりが継承していたといった形でも考えられるのではないでしょうか。継体に跡継ぎが誕生しなかった際の控えとしては、三尾角折君の妹との間の子が求められたでしょうか、それとも尾張連の娘との間の子が求められたでしょうか。 こういう言い方はよくないのかもしれませんし、また何の根拠もない妄想にすぎないのですが、「太子」の語については押坂彦人大兄が『古事記』敏達段で「忍坂日子人太子」「日子人太子」などと表記され、また『日本書紀』用明2年4月丙午(2日)にも「太子彦人皇子」と見えていたわけですから、「勾大兄」安閑もまた百済の使節などと接見する際に「太子」、コニセシムなどと訳されて紹介されていた可能性もあるのではないかなどと空想しております。これこそ「妄想」なのかもしれませんが。 たとえば継体6年12月、「任那国」の四県併合を百済に認める勅をあとから知った「大兄皇子」安閑が撤回しようとして奔走したことが見えています。この際百済使と会った使者は「日鷹吉士」だったように見えていますから、百済使は安閑とは直接面会してはいないのかもしれませんが、百済使の来訪も1度や2度ではなかったでしょうから、安閑や宣化が王子として歓迎晩餐会のような際に通訳を立てて歓談するようなこともあったかもしれません。継体6年(≒512年)といえば継体は前年から筒城ですが、安閑47歳、宣化46歳といった年齢です。その継体6年に限る必要はありませんが、百済使の印象に残る人物だったならばその名も記憶されていたでしょう。のち推古16年(≒608年)に隋使一行が来訪した際には推古とは直接面会していないようにも見えますから、そこから推して継体自身が使節らと顔を合わせることがあったかどうかはわかりませんが、欽明を継体3年生まれと仮定すると継体6年には数え年4歳です。安閑や宣化は年の差半世紀近い異母弟をどう紹介したでしょうか。 それから20年ほどたって、倭から百済に継体が没したとの情報が伝わってくる。「又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨」、「又聞」であって、「また聞き」という意味ではないのでしょうが結局はまた聞きですから、「日本天皇及太子皇子倶崩薨」が事実である必要はない。詭弁といわれるかもしれませんが、聞いた人が「倭王及太子王子倶崩薨」と解釈するような情報が流れればいいわけです。 それは、「継体が没して欽明が位についた」という情報でよかったのではないでしょうか。 欽明を正統と見るヤマト側の勢力の情報が伝わったものと考えるわけです。たとえばもしも、かつて百済使を経験し安閑・宣化と親しく顔を合わせていたような人が「継体が没して欽明が位についた」という情報に接したらどう思うでしょうか。「安閑や宣化でなくあの幼少の王子が位についたのか。するとクーデタでも起こって継体とともに安閑や宣化も倒されたのだろうか」。もちろん「安閑」「宣化」などとは6世紀の倭でも言わなくて、渡来系の通訳が「マガリ−コニセシム」とか「ヒノクマ−セシム」などと言っていたかどうかはわかりませんが、こういった会話の後半部分だけを倭の事情に通じていない第三者が立ち聞きし、記録に書き留めておけばよいのです。 「又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨」と見える「太歳辛亥」(≒531年)は新羅では法興王の18年、「建元」の元が建てられる5年前にあたるようなのですが、百済では新羅の「寐錦王」「葛文王」などの王号はどのように理解されていたのでしょうか。存じません。 さて、仏教公伝についての『日本書紀』の伝える欽明13年(≒552年)説と『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』の伝える「戊午」(≒538年)説の問題が残ってしまいましたが、こちらは1年といった差ではなく、どう考えてよいのかわかりません。これまでの流れからすれば『百済本記』の「太歳辛亥三月……又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨」と合致する『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』のデータを採るべきなのでしょうが、538年が『日本書紀』の宣化3年にあたることを考えますと、宣化の存在はどうなってしまったのかと思います。552年説の『日本書紀』の仏教公伝のくだりに宣化の名が見えないのは当然でしょうし、また538年説の『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』はその「戊午」が欽明の代だとしているのですから、両朝並立を考えておられる方にとってみれば当然ということになるのでしょう。しかし両朝が対立している状況下で百済の聖王(聖明王)から平和裏に仏像や経論がもたらされるというのも奇妙な印象です。ならば552年ということになるのでしょうか。そもそも両朝並立と見るお立場にしても、538年説と552年説とは説明されなければならない問題として残るはず。 538年については先に『皇代記』『本朝皇胤紹運録』に見えるという敏達の享年48歳から逆算して、敏達の誕生を538年ころと見当をつけましたが、もちろん宣化紀の3年に敏達誕生のことが見えているわけではありませんし、そもそも宣化3年には何の記事もなくて、2年からいきなり4年にとんでいます。もとより『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』が敏達の誕生を伝えるはずはありませんし、『日本書紀』敏達即位前紀にもとうぜん見えません。ちなみに敏達即位前紀には「天皇不信仏法、而愛文史」とはっきり記されており、『元興寺縁起』の「他田天皇、欲破仏法」のイメージを裏付けています。 さらに続けて敏達即位前紀には「廿九年、立為皇太子」とあって、欽明29年(≒568年)に敏達が立太子されたと見えていますが、これもまた欽明紀では欽明15年(≒554年)に「十五年春正月戊子朔甲午、立皇子渟中倉太珠敷尊、為皇太子」と見えており、欽明紀と敏達即位前紀とで食い違いを見せています。先に敏達の誕生を538年かと仮定し、敏達4年(≒575年)に数え年38歳などと推測しましたが、これでいけば欽明15年には敏達は数え年17歳、欽明29年には数え年31歳となる勘定です。『日本書紀』のいう立太子をそのまま受け取るつもりはありませんが、天智の場合舒明紀の「是時、東宮開別皇子、年十六而誄之」から計算して皇極4年=大化元年の6月14日の立太子の際に20歳、草壁は持統称制前紀の「天命開別天皇元年、生草壁皇子尊於大津宮」から天武10年の立太子の際に20歳、廐戸については574年誕生説で推古元年(≒593年)にやはり20歳となります。何かの書で触れておられたのを拝見した記憶があるのですが、何だったのか思い出せません。 欽明紀の伝える敏達立太子の2年前、欽明13年(≒552年)には「十三年夏四月、箭田珠勝大兄皇子薨」と敏達の兄の箭田珠勝大兄の没したことが見えており、その次の5月の記事は百済・安羅・加羅が高麗(高句麗)・新羅の攻勢を訴え救援を求めたとする記事。そしてその次の10月の記事が『日本書紀』の仏教公伝です。 先ほど「大事件が自身の人生におけるイベント……と重なった場合には案外忘れられない」などといった言い方をいたしましたが、仏教公伝については『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』の538年説があるいは敏達の誕生と、また『日本書紀』の552年説が箭田珠勝大兄没と結びついているような奇妙な印象を受けます。しかし敏達誕生を538年と見る根拠は『皇代記』『本朝皇胤紹運録』などといった後代のものによるわけですから、信頼性が高いわけではありません。それは先に広姫立后の敏達4年に敏達38歳と見たことについても同様です。 これらを確認する際には表計算ソフトを用いています。たとえば最初の列に「538」「539」「540」……と西暦の年代を、次の列にそれに対応するように「戊午」「己未」「庚申」……と干支を、さらに次の列には「宣化3」「宣化4」「欽明1」……と治世○年を入力します。むろん自分でわかってさえいればどのように入力してもかまわないわけです。そして任意の……適当な列で「宣化3年戊午(538)」の行に「1」と入力し、以下「宣化4年己未(539)」で「2」、「欽明1年庚申(540)」で「3」……となるように入力していきます。そうしたらさらに「宣化3年戊午(538)」の行の「1」の右隣の列に「誕生」とか「仏法渡来」などと文字列を入力します。とりあえず箭田珠勝大兄の没後2年のほう、「欽明15年甲戌(554)」「17」の右隣に「立太子」とでも入力し、また「欽明32年辛卯(571)」「34」は欽明が没した年で、翌年が敏達元年ですから、右隣に「崩」と入れておきます。敏達の崩年でなく欽明の崩年ですから「欽明崩」とでもすればよいのですが、それをしないまま「1」「仏法渡来」から「34」「崩」までの範囲を選択した状態で「34」「崩」の行を敏達の崩年と誤って「敏達14年乙巳(585)」の行に重なるようドラッグ&ドロップしてしまうと、「1」「仏法渡来」が「欽明13年壬申(552)」の行に、「17」「立太子」が「欽明29年戊子(568)」の行に来ることになります。 ![]() 敏達の治世が14年ですから、これはある意味で当然です。「そんなばかな取り違えがあるだろうか」とも思いますが、たとえば『大鏡』では天武と大友を取り違えていました。『上宮聖徳法王帝説』にも山背大兄(「山代大兄王」)について分注に「後人与父聖王相濫非也」とあって、廐戸と山背大兄を取り違える人のあったことが知れます。 もちろんこれは逆でも同じことで、欽明13年壬申の仏教公伝、欽明29年戊子の敏達立太子、そして敏達14年乙巳の敏達没のデータを14年繰り上げても逆のことが起こるだけですから、これではどちらが正しいとは判断できません。そして敏達の誕生をからめたのはまったく私の恣意であって、それとは無関係に「仏教公伝」「敏達立太子」「(欽明か敏達かの)没」だけでも成立する関係なのです。 そんなこんなで、推古即位前紀の話の位置に戻っていきます。 |
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