8. 継体−欽明朝について − 3 手白香や春日山田の相対的な地位、政治への関与の度合いなどを『日本書紀』の記述内容から想定されるものも拝見しておりますが、個人的には春日山田の政治への関与とか経営実績といったものを、事実というよりは説話とか童話に近い『日本書紀』の記述から積極的に評価することは躊躇されます。『古事記』は仁賢段以降は「帝紀」あたりに依拠したらしい系譜記載のみとなって物語が見えなくなっていますが、『日本書紀』でも継体・欽明紀あたりは百済の資料にもとづくらしい記載が多くて、倭、日本独自の記載はむしろ少ないような印象があります。もともとこの時代の記録、文字に記されたような記録は倭にはほとんどなかったのではないか……。ならば、誰が豊富な春日山田の伝承を伝え、また『日本書紀』に盛り込ませたのか。そう考えますと、やはりワニ氏→春日氏に近いあたりを想定したくなるのです。 記紀の雄略以降、清寧・顕宗・仁賢・武烈という系譜の記載が実際のものかどうかはわかりませんが、王統の男子が絶えた、絶えたに等しい状態となったことはある程度認めてもいいのではないでしょうか。それは仁賢の娘として伝わる手白香・春日山田・橘仲皇女の姉妹と、継体・安閑・宣化の親子兄弟との、執拗なまでの配偶関係からうかがえるように思います。女系を通じて男子の絶えた前王統の血統をつないでいこうとする、ある種の執念ともいうべき思い。個人的には継体のバックとなった勢力は近江・越前(越)・尾張あたりにあるいは伊勢・美濃・伊賀といったあたりの豪族が加わったもので、のちの令制の三関の周辺にあたるような地域ではなかったかと想定しております。それにヤマト北東部から山背・河内の木津川・淀川流域にも勢力を張っていたワニ氏がくっついて、男子の絶えた王統に入り婿の形で継体を呼び込んだ……。そんなふうに想像します。もし継体の勢力がヤマト・カハチの前王統を圧倒する形で入ってきたのなら、記紀にも武烈以前と継体以後とでもう少し登場人物の顔ぶれに変化があるなどの断絶・不連続があってもいいし、平群真鳥・鮪らばかりでなくヤマトの有力氏族の腐敗のような話も加えられていてもいい。また近江・越前(越)・尾張などに関係した伝承などももっと盛り込まれていてもいいように思うのです。もっともヤマトタケルノミコトの東征などはそういった色彩を帯びているのかもしれませんが。 ともかく継体が前王統の血を引く手白香のところへ入り婿の形で入ってくる。継体を応神5世孫とする所伝が正しいのかどうか、応神の実在性も含めてさっぱりわかりませんが、ヤマト・カハチあたりの既存の勢力からは、あるいは手白香のほうが上位と見られていたのかもしれません。ただ継体と手白香の間に男子が誕生するという保証はなかった。武烈の没した時点で継体が「年五十七歳」だったことが見えています。手白香の年齢のわかるデータは存在しませんが、実際に安閑と春日山田の間には子が誕生しなかった。そういったことは安閑紀にも繰り返されており、后妃のための屯倉の設定に結びつけて語られています。 先にも触れましたとおり、継体紀には安閑・宣化が目子媛所生の子であることは記されても、いつの時点でどのあたりからヤマト方面に出てきたのか記されません。安閑は継体6年に突然四県併合を百済に認める勅の撤回に奔走したことが見え、7年に春日山田と配偶関係となったことが見えていますが、その際の安閑の宮の所在地がどこなのかも記されません。ですから安閑・宣化が近江にいたのか越にいたのか、それとも母の目子媛の実家がある(「実家」といった概念はなかったかもしれませんが)尾張にいたのか存じませんが、ともかくいつの時点かに父継体のいるヤマト・カハチ周辺に出てきたのでしょう。それぞれの享年から逆算して継体57歳の「武烈8年」に安閑が41歳、年子の宣化が40歳となりますから、おそらく安閑も宣化もそれまでに地元で配偶者を得て子をなしていた可能性も高いのではないでしょうか。しかし記紀の記載からうかがう限りでは、継体の子には王族待遇が認められても、安閑や宣化の子にはそれが認められなかったようにも思われます。『日本書紀』には安閑の子は記されず、宣化の子も橘仲皇女との間の子など5人程度しか認められませんから、記録にないそれ以前の子の存在を推測するなどというのは歴史の方法から外れているのかもしれませんが、そういう意味ではずいぶん以前から「歴史」でなく「妄想」として進めております。いや、最初からでした。 当時の社会状況で、おそらく地域の有力者であったであろう継体の子の安閑・宣化が40歳ころまで配偶者も子もなく過ごしていたというのは考えづらい。また語弊はありますが、40歳ころまで配偶者も子もない人をヤマト方面に呼び寄せる意味もわかりません。そんなことを申しますのも、安閑・宣化が継体とともにヤマト方面に上ってきたことの背景には、これも語弊がありますが、やはり継体と手白香の間に男子が誕生しなかった際の控えとしての意味があったのではないかと思うからです。仮に継体の応神5世孫との所伝が事実だったとしても、安閑・宣化は応神6世孫で、桓武天皇と平将門の子ほど親等の離れた関係となります。しかしながら手白香と橘仲皇女は同母姉妹、手白香と春日山田は異母姉妹ですから、女系を通じて見れば継体と手白香の間の子、安閑と春日山田の間の子(誕生しませんでしたが)、宣化と橘仲皇女の間の子は同世代です。欽明も仁賢の孫、石姫も仁賢の孫という関係です。安閑・宣化に期待された部分というのは、ヤマト方面の勢力にしてみればそういったところではなかったでしょうか。 しかし継体の立場からすれば安閑・宣化の存在はまた違った意味を持っていたように思うのです。継体ひとり入り婿の大王としてヤマト方面、カハチの樟葉に出てきたものの、その朝廷は大連が大伴金村と物部麁鹿火、大臣が許勢男人とヤマト側の人間ばかりだった。あるいは周囲にワニ氏や尾張氏関係の人間などもいたかもしれませんが『日本書紀』の記述に見えません。そういった環境にあっては継体にとって安閑・宣化の存在はかなり心強かったのではないでしょうか。どなたか言及されているのを拝読した記憶もあるのですが、何の書だったか思い出せません。 壬申の乱(『日本書紀』のいう天武元年≒672年)の6月丁亥(27日)、「尾張国司守」の小子部連鉏鉤(ちひさこべのむらじさひち)が2万を率いて合流したその日、高市に呼び出されて桑名から関ケ原付近らしい野上にやってきた天武が高市に「近江朝は左右大臣や智謀の群臣が軍議を行っているのに、いま自分にはともに謀議する人はなく、幼少の子供(「孺子」)がいるばかりだ。どうしよう」といったことを言う。直木さんの『壬申の乱』により知ったのですが、『釈日本紀』所引の調連淡海、安斗宿禰智徳らの日記の相当部分では、この発言の前に天武が「唐人」に戦略を問うたが満足できる答えを得られなかったといったくだりが見えるようです。ともかく天武が消極的な発言をする。すると高市は「攘臂案剣」、腕まくりし剣をつかんで「近江の群臣、多(さは)なりと雖(いふと)も、何ぞ敢へて天皇の霊(みかげ)に逆(さから)はむや。天皇独りのみましますと雖も、臣(やつかれ)高市、神祇(あまつかみくにつかみ)の霊(みたまのふゆ)に頼(よ)り、天皇の命(みことのり)を請けて、諸将(もろもろのいくさのきみ)を引率(ひきゐ)て征討(う)たむ。豈(あに)距(ふせ)くこと有らむや」というようなことを返答したと見えています。『扶桑略記』の伝えるという享年43歳から逆算して672年に高市は数え年19歳、まだ「孺子」(こども)という割には漢文調の難しい言葉で述べているのですが、これはどうせ説話でしょうし、もしもこれに近い事実があったとしたらそれはむしろ士気を高めるためのゼスチュアで、しかもそんな場合には実際にくさい芝居を演じるよりはうわさとして流すほうが効果的だったかもしれません。そんなことは関係なくて、継体にとっての安閑・宣化の存在はある意味でこの天武にとっての高市の存在に似ていたのではないかと思うのです。それは「勾大兄」安閑と「太政大臣」高市をダブらせて見ているという卑見・愚見に依拠した部分はもちろんありますが、それを否定してみても、やはり天武には高市が頼もしく映ったであろうように、継体にとって安閑・宣化の存在は心強かったのではないでしょうか。 またヤマト側の旧来の勢力にとっても安閑・宣化の存在には意義があったのでしょう。仮に前王統の時代から40歳前後以上といった即位の条件が意識されていたとすれば、その前王統の血を引く唯一の男子として欽明が誕生してはみたけれど、40歳前後に達するまではその位にはつけないことになります。そんなばかばかしい話はない。ともかくも前王統に連なる男子がいながら40年近く空位というのはおかしなこと。しかし、40歳前後以上などという基準もそれなりに意味があったもののように思われます。 数え年40歳といえば分別盛りの「不惑」で、またかつては「初老」でした。いや、現在でも「初老」は40歳のはずであって、いつから変更されたということもないはずなのですが、世の意識が20年ほど引き上げてしまいました。 20代とか30代の大王が、若気の至りで無軌道な独裁政治や側近政治に走ったというような経験・記憶が残っていたのではないでしょうか。あるいは40代ころまで生存できないような病弱な人では子孫に王位をつなげられるか心配だといったようなこともあったのかもしれません。しかしヤマト側の旧来の勢力にとっては欽明こそが前王統の血を引く、そして新王統の始祖たるべき人と意識されていた。欽明に「○○皇子」的な称が伝わっていないのは、そもそも6世紀前半で「氏姓制度」とか「部民制」が始まったばかり、あるいは始まる直前の時期だったからかもしれませんが、考えようによっては養育をどこかの氏に任せず、ヤマトの権威の及ぶ範囲総がかりで育てようといった意識からなのかもしれません。没後の称なのかもしれませんが「アメクニオシハルキヒロニハ」の称自体、またそれが天寿国繍帳の冒頭に記されていることなどもそういった状況を示しているように思われます。ただ継体が没した時点でもなおその位につける年齢に達していない。そこで欽明の異母兄にあたる安閑・宣化が継体没後に大王に準じるような地位、もしくは中継ぎ的な大王に立てられて執政した。もちろんその地位についてはヤマト側では手白香や春日山田・橘仲皇女のほうが上だと見ていたかもしれませんし、前王統の血を引く欽明のほうが上だとも見ていたでしょう。しかし前王統の血につながらないとはいえ、安閑・宣化は欽明の異母兄であると同時に、女系を通じて見れば義理の叔父さんにあたります。実際のところヤマト側では安閑・宣化を排除するべき必要もなかったように思われますし、林屋さんが想定しておられますような大伴氏と蘇我氏の対立をこの時期に見ることも難しく思うのです。 蘇我氏については始祖の石河宿禰から満智―韓子―高麗―稲目―馬子と続くらしい系譜が『尊卑分脈』等に伝わっているようですが、どうにか確からしいのが稲目の代からのようで、先に蘇我馬子の生年を『扶桑略記』の享年76歳とする記述から逆算して欽明12年(≒551年)、また堅塩媛の生年について継体24年(≒530年)ごろとの想定を試みました。この想定で仮に堅塩媛誕生時に稲目が25歳程度だったとすると、馬子の誕生はその21年後ですから稲目の46歳ころとなります。跡継ぎの誕生としては遅い気もしますが、叔父と姪の関係である馬子と推古が2年違いで高齢で没したわけですから、こうなってしまいます。むしろ堅塩媛の誕生をもっと若い時分と見たいくらいですが、それも難しい。稲目25歳のときの堅塩媛誕生を想定するケースで稲目の誕生が継体元年の前年、506年の誕生となります。継体3年ごろの誕生と見て想定してきた欽明とは3歳程度しか違わず、ほぼ同世代ということになります。そして『日本書紀』欽明13年や『元興寺縁起』の仏教公伝に関する記述からうかがえる欽明と稲目の親近感のようなものからすれば、この想定もあながち的外れではないように思えてきます。ただ、その事実が538年のことか552年のことかは問題ですが。 継体没から安閑・宣化の代のころにやっと30歳前後の稲目が、欽明を擁し安閑・宣化や大伴氏を敵に回して対立していたかどうか。しかも仮に『皇代記』『本朝皇胤紹運録』等に従って敏達の誕生を538年ごろと見るなら、その兄の箭田珠勝大兄の誕生はもう少し早くなるでしょうから、538年ごろには宣化−大伴金村と欽明−蘇我稲目という対立がありながら、その裏で欽明は政略結婚の人質のような石姫との間に箭田珠勝大兄・敏達をもうけていたことになります。いや、敏達誕生を538年と見るのは確定したことではない、そんなものは安閑没以降に下げて見るべきだということになるのかもしれませんが、箭田珠勝大兄の没したことが欽明13年(≒552年)4月、『日本書紀』の仏教公伝の記事のすぐ前に見えています。「大兄」に単なる長男の意味をこえた地位呼称的なものを見るなら、箭田珠勝大兄があまり若年で没していては意味がありません。最低20歳程度に達したころに没したと見るのであれば、やはり533年ごろの誕生となります。仮に宣化4年2月の宣化没と同時に両朝合一なって欽明と石姫が結ばれ、すぐに箭田珠勝大兄が誕生した、その宣化4年の大晦日直前に誕生したものと見ても、没した552年には14歳です。もっともこれは「大兄」のとらえ方がからんできますので何とも決めかねる部分があります。ちなみに宣化4年11月丙寅(17日)、宣化を埋葬した記事には「冬十一月庚戌朔丙寅、葬天皇于大倭国身狭桃花鳥坂上陵。以皇后橘皇女及其孺子、合葬于是陵。〈皇后崩年、伝記無載。孺子者、蓋未成人而薨歟〉」とあります。分注の「孺子(わくご)は、蓋し未だ成人らずして(ひととならずして)薨(う)せませるか」という文を見ますと、つい先の天武紀上の「今朕無与計事者。唯有幼少孺子耳。奈之何」が思い出されるのです。 箭田珠勝大兄も敏達も同じ欽明と石姫の間の子ですから、手白香や橘仲皇女を通じて仁賢の、ひいては雄略の血を引いていることになります。「血」という言い方も不適当でしょうが、言い換えようもありません。さらに欽明の父も石姫の祖父も継体ですから、仮に継体の父の彦主人王(ひこうしのおほきみ)を近江の人、生母の振媛を越前の人と見ることができれば、敏達には近江の血も越前の血も受け継がれていることになります。さらに宣化の生母が尾張氏の目子媛ですから、敏達以降の子孫には尾張氏の血も受け継がれる。推古所生の子が全部そうです。そして推古の子には堅塩媛―推古を通じた形で蘇我氏の血も受け継がれる。稲目のころに勢力を伸ばしたらしい新興の蘇我氏の何が魅力だったのかわかりませんが、物部守屋が小姉君の子の穴穂部と組んでいるところを見ると、ヤマト側の旧来の勢力にとっては蘇我氏の血統がよほど魅力だったのでしょう。蘇我氏の出自については門脇禎二さんが、雄略朝ごろに渡来した百済官人の木()満致こそ蘇我満智であるとされる見通しを示しておられますのを目にした記憶がありますが、まことに僭越ながら、稲目が堅塩媛・小姉君と2人の娘を欽明に入れているところを見ますと、やはり単に渡来系とはかたづけられない伝統のようなものを感じます。欽明の血統に蘇我氏の血統が加わってはじめて本格的なヤマトの王家となるとでもいった意識でも働いていたのでしょうか。磐之媛が仁徳皇后として履中・反正・允恭を生んだと見えるように、古い説のようですが、蘇我氏もまたどこかで葛城氏の系譜を引くような存在として意識されていたのではないでしょうか。 ところが敏達と推古の間の子たちは、男子はその位につくことができず、女子も跡継ぎを残すことはできなかったように見えます。もちろん彦人大兄と玄王との間の山代王・笠縫王、廐戸の弟の久米王と由波利王の間の男王・星河女王・佐富王などと見える名の中に、実在しかつ子孫を残した人がいれば、そういった人々の系譜にはまた間接的に大王家・皇族の系譜に連なったような人もいるのかもしれませんが、確認できません。そして推古の没するころには大王家の家系は彦人大兄―舒明の息長氏系王統と廐戸―山背大兄の上宮王家とに分かれ、互いに配偶関係をもつことさえ嫌ったようにも見えます。それは彦人大兄の尾張氏の血統とか、廐戸の小姉君の血統などといったものも関係するのかもしれません。さらに上宮王家は斑鳩に引きこもってしまったような感じもありますし、また用明と穴穂部間人に続く2例目の異母兄妹婚として山背大兄と舂米女王が配偶関係となっており、閉鎖性を強めている印象があります。広姫の子である彦人大兄の系統では敏達と推古の異母兄妹婚は関係ありませんから、実は彦人大兄と糠手姫の異母兄妹婚が初例となるように思われます。 最終的に王統は舒明の系統になるわけですが、その裏には舒明が馬子の娘の法提郎媛を迎えて古人大兄が誕生したということもあずかっていたのでしょう。 皇極・孝徳の生母の吉備姫王については古典文学大系『日本書紀』の注に「紹運録に、欽明天皇の孫、桜井皇子の女とある」と見えています。『本朝皇胤紹運録』は後世のものでどこまで信頼できるかわかりませんが、桜井皇子は堅塩媛所生の子で用明・推古の弟にあたりますから、もしこれが事実なら皇極・孝徳や天智・天武は堅塩媛の血を引いていることになりそうです。舒明と皇極の配偶関係の成立により舒明の系統に堅塩媛の血が加わる……。あるいはそんな事情もあったのかもしれません。ただしこちらについては確かめようがありません。 まとまりのつかない話をしております。 仏教公伝「戊午」説を伝える『上宮聖徳法王帝説』はまた廐戸、上宮王家の系譜を伝えているものでもあります。さらに欽明・敏達・用明・崇峻・推古について「右五天皇無雑他人治天下也」としているものでもあって、そこではなぜか「檜前天皇」宣化が「他人」と見なされていたような印象も認められます。やはり仏教公伝「戊午」説を伝える『元興寺縁起』もこういった性格は基本的にかわらないように思われます。こういった立場で見ていた側について、ヤマト側の旧来の勢力といった形でとらえております。 『古事記』『日本書紀』の立場はこれに対するものだと思うのです。仏教公伝を欽明13年(≒552年)と伝えるのは『日本書紀』のほうだけですが、ともかく安閑・宣化の代の存在を伝え、しかも『古事記』は敏達段に続ける形で彦人大兄の系譜を伝えています。そして結局王位は彦人大兄―舒明―天智・天武の系統に絞られたわけですから、『古事記』『日本書紀』がこちらの立場をとるのは当然ともいえます。記紀の基本的な立場は継体・安閑・宣化から息長氏系王統へという流れの延長にあるものと思っております。 しかし、では天智や天武のバックがワニ氏、春日氏だとか尾張氏だなどと見られるかといえば、そんなふうには見えません。また逆に「ヤマト側の旧来の勢力」が上宮王家を支持し続けて運命をともにしたのかといえば、むろんそうでもありません。皇極紀の2年11月条がその最後をいくら飾り立てて記述しても、上宮王家は最後には孤立的な状況にあったようにさえ見えます。そもそも舒明即位前紀では最初は許勢臣大麻呂が佐伯連東人・紀臣塩手とともに山背大兄を推していたのに、上宮王家滅亡の際には小徳巨勢徳太臣が大仁土師娑婆連とともに実行側として描かれています。おそらく巨勢氏が「くら替え」したように、ヤマト側の勢力の多くは彦人大兄―舒明の系統の支持に流れていったのではないでしょうか。そしてまた記紀に見える名前というのはほとんどヤマト側の勢力であって、ワニ氏の後裔である春日氏などはともかく、尾張氏などが表に見えることはほとんどないように思われます。それでも推古―舒明―皇極の治世を通じてヤマト側の勢力の彦人大兄―舒明の息長氏系王統への乗り換えが進行しており、その過程では穴穂部と物部守屋、また崇峻、あるいは上宮王家といった小姉君に関係するような人々は、もしかすると彦人大兄―舒明系に対立する勢力の結集の核とされ、その都度小出しに各個撃破されていったような側面があるのかもしれません。そして結果、彦人大兄―舒明系の支持グループの上層部は大王家と息長氏などごく一部が取り込まれるような形でヤマト側勢力に乗っ取られてしまい、本来の支持者だった三関周辺あたりの勢力は、それなりに隠然たる勢力は保ちつつも漸次下層に追いやられてしまったのではないか……などと空想しているのです。 継体−欽明朝の両朝並立を想定させる前提となった『古事記』『日本書紀』と『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』の年代表記の主体については、このような形で考えております。 |
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