8. 継体−欽明朝について
− 2
ともかく、蘇我氏はほとんど稲目の代に出現したような新興氏族であるにもかかわらず、蘇我氏の系譜、血統といったものはよほど魅力あるものと見られていたように感じます。それは本来蘇我氏の敵対者だったはずの物部守屋が小姉君所生の穴穂部と結んでいることからもうかがえるように思います。もっともその小姉君の系統には、穴穂部も崇峻もそして穴穂部間人も、どこか忌避されていたような陰の部分も認められます。これに対し堅塩媛の系統は歓迎された。実際敏達と推古の間に誕生した竹田は、もしも早世していなければ即位を有力視された存在だったでしょうし、また推古は初の女帝、女王として即位したとされています。推古所生の女子もそれぞれ廐戸・彦人大兄・舒明と、また廐戸の同母弟の来目と配偶関係になったと伝わっています。
いっぽうの彦人大兄の系統はといえば、継体から欽明―敏達―彦人大兄と続いてきた、まさに「嫡系」「直系」の名にふさわしい系統だとは思うのですが、生母が息長真手王の娘の広姫で、この息長真手王がどういう系譜の存在なのかわかりません。しかもその息長真手王は継体と配偶関係となった麻績娘子(をみのいらつめ)の父でもあるとされており、継体と敏達とはおそらく88歳程度の差があって、姉が継体に、妹が敏達に嫁ぐといった関係は、無理でもないが考えづらく思われる、といったことも先に申しております。
けれども推古没後には彦人大兄の子の舒明が即位し、その後上宮王家が滅ぼされて、王統は彦人大兄―舒明―中大兄(天智)と続く系統、薗田香融さんの「皇祖大兄御名入部について」のお言葉をお借りするなら、蘇我氏の外戚政策に対抗し皇室側が族内婚を繰り返して成立させた「純粋培養」の系統に絞られています。もっとも敏達紀の推古所生の娘の記載を信じれば、彦人大兄にしても舒明にしても推古の娘を配偶者に迎えていますから、その間に男子が誕生していれば女系を通じて蘇我稲目の血を引く王子となっていたでしょう。ただし『古事記』敏達段に見える「山代王」「笠縫王」は女性だったのか『日本書紀』には見えませんし、推古の娘の田眼皇女は舒明との間に子ができなかったらしく、舒明紀には田眼皇女の名は見えません。しかしまた舒明は馬子の娘で蝦夷の妹らしい法提郎媛(ほほてのいらつめ)を配偶者に迎え、古人大兄が誕生したことによって蝦夷の支持を得られたもののようにも見えます。天智も蘇我倉山田石川麻呂の2人の娘を迎えていますから、「純粋培養」とは言いながらも最終的には蘇我氏と折り合うことではじめて王統として定着できたのでしょうか。そういった視点で逆に彦人大兄からさかのぼっていけば、たとえば舒明生母の糠手姫皇女(田村皇女)の生母は「采女伊勢大鹿首小熊女曰菟名子夫人」(敏達4年正月是月)でしたし、彦人大兄の生母の広姫は息長真手王の娘ということでどうやら近江の息長の出身、さらに敏達の生母は石姫でその生母は仁賢の娘とされる橘仲皇女ですが、宣化の生母は尾張氏出身の目子媛(『古事記』で「尾張連等之祖、凡連之妹、目子郎女」、『日本書紀』継体元年3月癸酉に「尾張連草香女曰目子媛〈更名色部〉」)です。そして継体は『日本書紀』ではのちの越前の「三国」から迎えられたとあります(『古事記』は「近淡海国」から)。継体の生母の振媛がその三国、あるいは高向あたりの人だったように見えています。
このように考えてくると、敏達と推古の間の子の竹田、あるいは娘たちには、手白香や橘仲皇女を通じて前王統の雄略(さらには仁賢もか)の血統が受け継がれているのはもちろんですが、蘇我氏の稲目―堅塩媛と続く血統も、また宣化皇女の石姫を通じて尾張氏の血統も受け継がれていることになります。彦人大兄の系統が、そして廐戸の系統が推古の娘と配偶関係を結んで王子をもうけたかったらしい裏には、こういった特別な事情があったのではないかと思うのです。もしも推古の娘と彦人の間に男子が誕生していたら、それはやはり尾張氏の血統も蘇我氏の血統も受け継いだ王子ということになります。それは推古の娘と廐戸の間に男子が誕生していた場合も同様です。廐戸にそういう男子が誕生していれば、堅塩媛からも目子媛からも小姉君からも血を受けた王子となりますが、通常4人いる曽祖父が実際には欽明1人ということになります。いや、堅塩媛からも目子媛からも血を受け継いだ男子というのは既に竹田皇子で達成されていたわけですが、竹田は早世してしまったらしいので仕方がない。敏達と推古の間にはもうひとりの男子である尾張皇子がいたはずですが、どういうわけか問題とされておらず、『上宮聖徳法王帝説』の「位奈部橘王」(天寿国繍帳の「多至波奈大女郎」)の父として見えるのみです。で、その尾張皇子の養育にあたり、あるいはその経済基盤を提供したのは誰だったのか……。見え透いた話ですが、尾張氏を強調してきた理由はそこにあります。おそらくこういったことも既に指摘され尽くされていることなのでしょうが、知らないというのは恐ろしいことで、つい記してしまいました。もっとも尾張皇子の養育を担当したのが、どこのどういう「尾張」氏なのかはわからないのかもしれませんが。
直木孝次郎さんの『日本の歴史2 古代国家の成立』の巻頭近いところで継体−欽明朝の二朝対立について触れられているのですが、同シリーズでは『日本の歴史1 神話から歴史へ』で井上光貞さんがこれを扱っておられますので、直木さんのほうはごく手短にまとめておられます。面白いことにその見開き右側の10ページには「磐余の池」のキャプション付きで桜井市の吉備池の航空写真が掲載されているのですが、現在なら「吉備池廃寺」とでもあるべきところです。隔世の感といえば、写真で見ると当時はその周囲のほとんど水田だったようですが、この書も1965年の本で、既に半世紀前のものになります。
その写真の近くにこんな記述を見つけました。「(二朝対立について)これはたんなる皇位継承の争いではなく、両派の母系から考えて、尾張氏に代表される畿内以外の豪族の勢力が安閑・宣化をバックアップし、天皇家と結びついていた大和の伝統的勢力が欽明側を支持したのではなかろうか。そしてこの争いは後者の勝利に帰し、二朝対立という異常な状態は五四〇年ごろに解消したもののようである」
また熊谷公男さんの『日本の歴史03 大王から天皇へ』の中にも、継体の出自について岡田精司さんの「継体天皇の出自とその背景」に示された継体の配偶関係を引かれる形で「継体の妃の出身地に母振媛が越出身であったことを加味して息長氏一族の勢力圏を考えてみると、近江が本拠で、東は尾張、北は越方面の勢力と結んでいたことになる」といった記述が見えます。一般向けの概説書ばかりで恐縮です。
これらの記述から推すと、継体のヤマト入りの原動力となり、また安閑・宣化対欽明という図式を想定した場合の安閑・宣化を支援した側の勢力として、尾張―近江―越といったラインが浮かんでくるように思えます。これは現代なら名古屋から名神を行き米原JCTで北陸道に入って敦賀へ、さらに福井へといったコースかもしれませんが、8世紀ごろでもあるいは伊勢湾―揖斐川―不破関―琵琶湖―愛発関―敦賀湾などといった形、むしろ水上交通主体で比較的短時間で結びついていたのかもしれませんし、またそう考えますと「三関」(さんげん。鈴鹿関・不破関・愛発関)のもつ別の意味のようなものも見えてくるように思われます。それはともかく、近江・越・尾張周辺は継体や安閑・宣化の支持勢力として想定されるのでしょうが、またのちに敏達―彦人大兄―舒明と続く系統を支持した勢力でもあったのではないかという気がします。何の記録もなく証拠もないことですが、安閑・宣化と欽明の時代に対立が存在したというよりも、むしろその対立は敏達朝から丁未の役を経て推古朝にも底流として続いており、推古の没した時点から上宮王家の滅亡にかけて決着をみたものではないでしょうか。息長氏ほか近江の勢力に尾張氏や越、令制の越前あたりの勢力が結びつき、また奈良盆地でも北東部のワニ氏(和珥氏。のち春日氏・粟田氏・小野氏など)などが大伴氏などとともに積極的に継体の勢力を手引きした。そういった勢力は『日本書紀』に具体的に名をあらわすことはヤマトの勢力に比べればほとんどないけれど、1世紀を経た7世紀の息長氏系王統と上宮王家の王位をめぐる対立の際にも隠然とした力を持っており、ヤマトの勢力の動向にも影響を与えるような存在だったのではないかなどと思っております。証拠もなく思っているだけですが。
『日本書紀』継体即位前紀は「(前略)天皇年五十七歳、八年冬十二月己亥、小泊瀬天皇崩。元無男女、可絶継嗣」、継体57歳の武烈8年12月8日に武烈が没したと記しています。仮に継体紀の継体元年「太歳丁亥」を信用すればそれはほぼ507年。その前年の506年に数え年57歳というのは、継体25年に没した際「時年八十二」とあるのと合います。継体25年没は『百済本記』の言うところであって『日本書紀』はほかに28年没説を伝えているわけですから、継体の年齢が本来どういった形で伝わっていたかは疑問ですが、推古即位前紀と異なり換算は合っています。武烈の没した12月8日(旧暦)というのは思い出すところのある日付で、推古即位前紀に「冬十二月壬申朔己卯、皇后即天皇位於豊浦宮」、推古の即位が(崇峻5年の)12月8日(やはり旧暦)と見えていました。
継体紀ではまず12月壬子(21日)に「大伴金村大連」が丹波の桑田郡にいた仲哀5世孫という「倭彦王」なる人を迎えようと提案し、「大臣・大連等」が「一皆随焉」、みな随行して迎えにいったとあるのですが、その倭彦王は迎えにきた兵を遠くから見て恐れをなして逃亡したなどとあります。「倭彦王」という名、仲哀5世孫という続柄、「大臣・大連等」とだけあって固有名詞の見えない書き方からして、作り話の可能性が高く思われます。そこで翌年の正月甲子(4日)に再度「大伴金村大連」が「男大迹王」継体を挙げたところ「物部麁鹿火大連・許勢男人大臣等」がみな賛同した。丙寅(6日)に「臣連等」をやり、「節」(「しるし」、旗のようなもののようです)を持ち「法駕」(みこし)を備えて「三国」まで迎えにやった(「節」も「法駕」も漢籍由来なのでしょう)。すると継体は静かに胡床(あぐら)に座して待っており、陪臣を整列させて、既に「帝」(すめらみこと)のようだった……。このあとにも継体がなお使者の真意を疑って数日が過ぎたこと、たまたま使者の中に知り合いの河内馬飼首荒籠がいたため、彼のもとに密使をやってようやくその意図を把握したなどといったことが見えますが、その後は甲申(12日)に「天皇行至樟葉宮」、樟葉宮に至ったと見えるだけで、継体が樟葉に入りたいなどと言ったとも、大伴金村が樟葉に宮を用意していてそこに案内したとも見えません。
2月甲午(4日)には「大伴金村大連、乃跪上天子鏡剣璽符再拝」、大伴金村がひざまずいて天子の鏡剣の璽符(なぜか三種の神器とはありません)をたてまつり、2度拝して即位を要請するのを継体が謝絶する。「男大迹天皇、西向譲者三。南向譲者再」、西を向いて3度辞退し、南を向いて2度辞退したなどと見えますが、古典文学大系の補注によれば、このあたりの文自体が『漢書』文帝紀からとられたもののようです。結局同日「璽符」を受けて即位し、もとのまま大伴金村を大連に、許勢男人を大臣に、物部麁鹿火を大連にしたとあります。
庚子(10日)には大伴金村が例の「臣聞、前王之宰世也、非維城之固、無以鎮其乾坤。非掖庭之親、無以継其趺萼(後略)」、子がなければ国が治まらない、配偶者がなければ家系がつながらないといったことを言い出し、清寧の「三種白髪部」(白髪部舎人・白髪部供膳・白髪部靫負)を持ち出すなどして手白香皇女を皇后とするよう勧め、3月庚申朔(1日)に手白香皇女を迎える詔が出され、甲子(5日)には「甲子、立皇后手白香皇女、脩教于内。遂生一男。是為天国排開広庭尊」と見えています。目子媛が安閑・宣化を産んだなどのことが見える「納八妃」の記事は癸酉(14日)のことです。
こういった経過は『古事記』武烈段の「天皇既に崩(かむあが)りましぬ。日続(ひつぎ)知らすべき王無し。故(かれ)、品太天皇五世の孫、袁本杼命、近淡海国より、上り坐さしめて、手白髪命に合せまつりて、天下を授け奉りき」(「天皇既崩。無可知日続之王。故、品太天皇五世之孫、袁本杼命、自近淡海国、令上坐而、合於手白髪命、授奉天下也」)とはずいぶん印象が違います。先にも疑問と述べましたが、なぜ「樟葉宮」に入ったのか何も記されていません。樟葉が大伴氏の勢力圏だとも聞きません。岸俊男さんの「ワニ氏に関する基礎的考察」では、『古事記』に見えるワニ氏関係の所伝をまとめられたうえで、そこに見える地名について「大和の春日地方(奈良市東部)から山背に入って、木津川流域、および宇治川・淀川に沿う地域から近江あるいは難波に及ぶというこの地域は、のちに述べるワニ氏同族やワニ氏の部曲たるワニ部の分布地域ともほぼ一致し、ワニ氏の勢力圏を考える上で極めて示唆的である」とされる記述が見えます。これを参考にさせていただくなら、樟葉宮というのも木津川・淀川流域の筒城・弟国とのからみでワニ氏に関連させて想定したほうがよいのではないか。そして「ワニ氏に関する基礎的考察」での直接の言及は見えないようなのですが、何となく岸さんご自身そんな想定をされていたのではないかという気にもなります。ということは、おそらくそのようにおっしゃっている論文等は世に出ているのでしょう。
継体紀では元年3月癸酉(14日)の「納八妃」の記事に「和珥臣河内女曰荑媛」といった名も見えていますが、ともかくその記事のあとに「是年也、太歳丁亥」とあって元年の記事が終わっています。次は2年10月の武烈を埋葬した記事、その次が12月の「十二月、南海中耽羅人、初通百済国」、なぜか済州島の人が百済と通交を始めたという関係のない記事で、以降『百済本記』あたりにもとづくらしい記事が多くなります。
そんな中で5年10月には筒城遷都が見え、また6年12月には例の「任那国」四県の問題が見えていて、その中で安閑が「大兄皇子」の表記で登場しています。百済に四県併合を認めてやろうとする穂積臣押山の言に同意した大伴金村が、これを許可する宣勅の使者に物部麁鹿火をあてる。ところが麁鹿火の妻が神功皇后の話まで持ち出して反対し、「仮病を使って役を断れ」と言い、麁鹿火がそれに従ったため別の使者が立てられる。既に宣勅の済んだあとではじめてそれを知った「大兄皇子」安閑が、やはり麁鹿火の妻と似たようなことを言ってこれを撤回しようとし、日鷹吉士をやって百済使に伝えさせたが、百済使は「父である天皇が既に勅したことを、子の皇子がその勅に逆らって勝手に改めるなどということがあろうか」といって結局取り合わなかった。「大伴大連と穂積臣押山は百済からワイロをもらったのだ」とうわさされた……といった話になっています。安閑については元年3月癸酉の記事に目子媛所生の子として名が見えていましたが、いつどこからヤマトに入ったかなどといった記事は見えません。この6年12月の記事でも「大兄皇子」安閑がどこにいたのかといったことは触れられていません。
それからまた百済関係の記事があり、7年9月には「九月、勾大兄皇子、親聘春日皇女」、安閑が春日山田を配偶者に迎えた話が歌物語のような形で見えています。同じ7年12月には安閑を「春宮」(ひつぎのみこのくらゐ、皇太子)とする継体の詩文のような詔が見えており、その記事の次は翌8年正月、子のないことを嘆く春日山田のために「匝布屯倉」(さほのみやけ)を賜うという、これも詩文のような継体の詔の見える記事となっています。この記事の中に見える春日山田の「嗣(みつぎ)無き恨(うらみ)、方(まさ)に太子(ひつぎのみこ)に鍾(あた)れり。妾(やつこ)が名(な)随(したが)ひて絶えむ」(「無嗣之恨、方鍾太子。妾名随絶」)――嗣子のないことへの文句は太子に集まるでしょう、私の名も絶えてしまうでしょう――という言葉は、推古の長女で廐戸の配偶者となった菟道貝鮹皇女あたりにも当てはまるように思うのですが、実際子がなかったために春日山田の名は『古事記』安閑段には残されなかったようです。『古事記』安閑段は「御子、広国押建金日王、坐勾之金箸宮、治天下也。此天皇無御子也。〈乙卯年三月十三日崩。〉御陵在河内之古市高屋村也」で全文です。春日山田の名は『古事記』では1カ所か2カ所。仁賢段に「又、娶丸迩日爪臣之女、糠若子郎女、生御子、春日山田郎女」、「丸迩日爪臣」の娘の「春日山田郎女」として見えるほか、欽明段に「又、娶春日之日爪臣之女、糠子郎女、生御子、春日山田郎女。次、麻呂古王。次、宗賀之倉王。〈三柱。〉」と見えるだけのように思われます。つまりおそらく誤って欽明段に掲載されたことによって2カ所に見えているわけです。
これは『日本書紀』での春日山田の扱いとは大きく異なります。
『古事記』では仁賢段以降は帝紀的な記述しか見えないため仕方ないことですが、『日本書紀』では春日山田は頻出しており、異母姉妹である手白香や橘仲皇女を圧倒しています。そもそも手白香は『古事記』でも仁賢段・武烈段・継体段に1カ所ずつしか名が見えませんし、『日本書紀』でも仁賢元年2月壬子(2日)に春日大娘皇女所生の子として2カ所(1カ所は樟氷皇女が上で手白香皇女が下だとする「一本」を引く分注)、継体紀に先に見た3カ所(元年2月庚子=10日の大伴金村の言葉、3月庚申朔=1日の継体の詔、甲子=5日の立后の記述)、そして欽明即位前紀に欽明生母として見えるだけだったように思います。仁藤敦史さんは『女帝の世紀』で欽明即位前紀の安閑4年12月甲申(5日)の欽明即位に続けて見える「尊皇后曰皇太后」の「皇太后」を春日山田でなく手白髪と見ておられたわけですが、これが含まれるとすれば欽明即位前紀に2カ所ということになるでしょう。また橘仲皇女は『古事記』でも仁賢段にはその名が見えず、宣化段に「天皇、娶意祁天皇之御子、橘之中比売命、生御子、石比売命。〈訓石如石。下效此。〉次小石比売命。次倉之若江王」、「橘之中比売命」と見えるのみ。『日本書紀』にも仁賢元年2月壬子に春日大娘皇女の娘の「橘皇女」として1カ所、宣化元年3月己酉(8日)の立后の記事に「橘仲皇女」、4年11月丙寅(17日)の宣化の埋葬の記事に「冬十一月庚戌朔丙寅、葬天皇于大倭国身狭桃花鳥坂上陵。以皇后橘皇女及其孺子、合葬于是陵。〈皇后崩年、伝記無載。孺子者、蓋未成人而薨歟〉」、「皇后橘皇女」「皇后」と見えるだけ、全部でこれだけのように思いました。きちんと確認しておらず恐縮ながらそんな気がします。そして手白香にも橘仲皇女にもエピソードらしきものはありません。
これに対し、春日山田は最初からエピソードを伴ってあらわれます。仁賢元年2月壬子(2日)に「次和珥臣日爪女糠君娘、生一女。是為春日山田皇女。〈一本云、和珥臣日触女大糠娘、生一女。是為山田大娘皇女。更名赤見皇女。文雖稍異、其実一也。〉」)と見えるのはともかくとして、既に引きましたように継体7年9月に「九月、勾大兄皇子、親聘春日皇女」とあって安閑と春日山田の配偶関係成立と長歌の掛け合い(ただし古典文学大系の注によれば、安閑の歌は妻問いの歌らしいのですが、春日山田の歌は天皇葬送の挽歌だった可能性もうかがえるらしいです)が見えていますし、その4カ月後の翌8年正月には、子のできないことを嘆く春日山田のために継体の命で匝布屯倉をたまわったように見えています。継体紀はその後百済関係の資料にもとづくらしい記載ばかりで、21年6月甲午(3日)の記事から「筑紫国造磐井」の反乱が記され、22年11月甲子(11日)の記事に物部麁鹿火との決戦で磐井が殺害されて乱の鎮圧されたことが見えており、12月に「筑紫君葛子」が「糟屋屯倉」を献上して落着しています。続いては近江臣毛野の朝鮮半島における失策が語られ、25年2月丁未(7日)に継体没、そして12月庚子(5日)に藍野陵に埋葬されたと見えています。28年説やそれに対する『百済本記』の「太歳辛亥三月(中略)又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨」などはこの記事の分注に見えているものです。
そして安閑紀の記述は、その多くが何らかの形で春日山田に関係したものとも見られそうです。まず安閑元年3月戊子(6日)には「三月癸未朔戊子、有司為天皇納采億計天皇女春日山田皇女為皇后。〈更名山田赤見皇女。〉(後略)」、有司が天皇のために仁賢の娘の春日山田を配偶者として迎えてやって皇后とした、などと見えていることは先に引きました。継体7年9月には「九月、勾大兄皇子、親聘春日皇女」、安閑が自ら春日山田を迎えたとあったのですから、安閑元年に有司が世話をする必要はないはず。
以後、同年4月・7月・閏12月壬午(4日。7月と一連の話)・閏12月是月と、春日山田のための屯倉設置がらみのエピソードが見えていますが、いずれも稚拙な印象の屯倉由来譚を漢文で飾ったようなもので、乱脈なものも目立ちます。例として4月の記事を引きますと――内膳卿の膳臣大麻呂(かしはでのおみおほまろ)が勅を受けて真珠を伊甚(いじみ。千葉県夷隅郡・勝浦市あたりのようです)に求めさせた。ところが伊甚国造は遅れて期日に間に合わなかった。そこで膳臣大麻呂が怒って国造らを捕縛して詰問したところ、国造の稚子直(わくごのあたひ)らは恐れて後宮の「内寝」(おほとの)に逃げて隠れた。それを知らずに入ってきた春日山田はびっくりして転倒し、恥じ入ること限りなかった。稚子直らは「闌入罪」(みだれがはしくまゐれるつみ)にあたり重い罰を科されるところだったので、皇后に伊甚屯倉を献上することで贖罪とした――などと見えます。どれもこんな調子のものです。
安閑紀に見える著名な話――武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたひおみ)と同族小杵(をき)との国造位争いに上毛野君小熊(かみつけののきみをくま)が介入し、朝庭の裁断で勝ちを得た使主が横渟・橘花・多氷・倉樔の4カ所の屯倉を献上した話――は閏12月是月に見えているものですが、実はこの閏12月是月条もその前に記されたエピソード――廬城部連枳莒喩(いほきべのむらじきこゆ)の娘の幡媛(はたひめ)が物部大連尾輿(もののべのおほむらじをこし)の瓔珞(くびたま)を盗んで春日山田に献上したことの贖罪として、枳莒喩が幡媛を「采女丁」(うねめのよほろ)として献じ、また安芸国の過戸(あまるべ)の廬城部屯倉を献上した。そのとばっちりで物部尾輿も十市部、伊勢国の来狭狭・登伊の贄土師部、筑紫国の胆狭山部を献じた――のあとに付け足しのような形で見えているものです。
「物部大連尾輿」などと見えていますが、大連は継体・安閑・宣化朝で一貫して大伴金村と物部麁鹿火だったようです。武烈紀にも「於是、太子思欲聘物部麁鹿火大連女影媛(後略)」などと見えていますから、あるいは物部麁鹿火は武烈の代から大連だったということなのかもしれませんし、そういうことの事実いかんよりもむしろ『日本書紀』がそう主張したかったものというレベルでとらえておりますが、宣化元年7月に「秋七月、物部麁鹿火大連薨」と見え、欽明紀即位前紀にはじめて「冬十二月庚辰朔甲申、天国排開広庭皇子、即天皇位。時年若干。尊皇后曰皇太后。大伴金村大連・物部尾輿大連為大連、及蘇我稲目宿禰大臣為大臣、並如故」と見えていますから、物部尾輿は物部麁鹿火没後すぐに大連についたということなのでしょう。ともかく安閑朝段階では大連は物部麁鹿火のはずで、「物部大連尾輿」は矛盾しています。もっとも、最終的な地位の称で代表させたものと見れば済むことかもしれません。
しかし「瓔珞を盗む」といった筋立ては、先にも触れました『古事記』仁徳段の、女鳥王の玉鈕(たまくしろ)を山部大楯連が取った話(『日本書紀』では雌鳥皇女の珠を吉備品遅部雄鯽・播磨佐伯直阿俄能胡らが取った)や、また安康段の、大日下王が妹の若日下王の結納として差し出した押木之玉縵(おしきのたまかづら)を坂本臣等の祖の根臣(ねのおみ)が横領する話(『日本書紀』では安康紀で大草香皇子の押木珠縵を根使主が横領し、雄略紀ではそれがばれて根使主が殺される。『古事記』では解決を見ない)などと同じモチーフですから、いわばパターンで、時代を問題にするのも意味のないことのように思われます。むしろ『古事記』の話の結末を『日本書紀』がみな賠償の形に結び付けていること(阿俄能胡が贖罪に献上した「己之私地」が「玉代(たまて)」となった。根使主の子孫の半分は「大草香部民」として皇后の所封となり、もう半分は茅渟県主の「負嚢者(ふくろかつぎびと)」とされた)との関係のほうに注目すべきかもしれません。
安閑2年には4月丁丑朔(1日)に勾舎人部・勾靫部の設置が見え、また5月甲寅(9日)には多数の屯倉の設置がまとめて記されます。そして12月己丑(17日)に安閑が享年70で没し、「是月、葬天皇于河内旧市高屋丘陵。以皇后春日山田皇女及天皇妹神前皇女、合葬于是陵」と見えていますが、どうやら安閑の没した時点ではまだ春日山田は存命だったようで、宣化没後に欽明が自身の幼年を理由に春日山田に即位を要請して謝絶されたことが見えています。しばしば女帝の前史として引かれるこの記事か、あるいは直後の「冬十二月庚辰朔甲申、天国排開広庭皇子、即天皇位。時年若干」の次の「尊皇后曰皇太后」あたりが『日本書紀』における春日山田の登場の最後ということになるのでしょう。
|