8. 継体−欽明朝について − 1

 古い時代の新羅では2種の“王”の並存する状況があったようです。
 礪波護さんと武田幸男さんの『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』(中央公論社 1997)の第2部、武田幸男さんの執筆された「朝鮮の古代から新羅・渤海へ」の中、「「中古」新羅の台頭」と題する章に、慶尚北道北部、海に面した蔚珍にある524年建立の「蔚珍・鳳坪碑」という新羅の石碑に見える、「牟即智/寐錦王」(法興王)と「従夫智/葛文王」(法興王の弟の立宗)という2つの「王」の並存した状況に言及された記述があります(なお漢字の日本語読みで「寐錦」には「みきん」の読み、「葛文」には「かつぶん」の読みがあります)。同書によればこの碑文の内容は「王京内外の三十数人が集合し、地元の四〇〇人を動員して、国家犯罪人に杖刑を裁定、執行したとある」というものらしいのですが、「牟即智/寐錦王」「従夫智/葛文王」の名はその裁定集団の冒頭に見えているのだそうです。
 法興王の在位は514年から540年で、当時の倭は『日本書紀』の伝えるところではほぼ継体・安閑・宣化の治世に当たります(540年が欽明元年に当たる計算)。『三国史記』(東洋文庫の井上秀雄さん訳注『三国史記 1』平凡社 によりました)によれば法興王の父である智證王の4年(≒503年)10月に「新羅国王」号がたてまつられたことが見えているようで、この際に「新羅」という国号と「王」という王号が定まったらしく、それまでは新羅王は「麻立干」と称していたもののようです(が、武田さんの「朝鮮の古代から新羅・渤海へ」によればそれ以前の同年9月の日付をもつ「迎日・冷水里碑」に既に「至都盧/葛文王」と智證王を「王」とする記述が見え、さらに同碑には裁定集団メンバーを「七王」と呼んで7人全員を「王」とする記述も見えるようです)。なお『日本古代史大辞典』の田中俊明さんの「麻立干」の項では「蔚珍・鳳坪碑」の「寐錦王」について「この王号も麻立干をさすかもしれない」と指摘しておられます。
 法興王代には律令の施行や仏教公認、さらに金官国の併合といった記事が見えているようです。次の真興王のときには百済の聖王が新羅に侵入し返り討ちに遭って死亡しているようですから、この時期も新羅にとって激動の時代だったように見えます。
 「蔚珍・鳳坪碑」に見える「牟即智/寐錦王」「従夫智/葛文王」について武田さんは「簡単にいえば、「寐錦」王は王都六部の一つ、「喙部」を直接の基盤として、主に外交権を行使した、外向けの王者だったのではあるまいか。いっぽう、「葛文」王は「沙喙部」を基盤とし、「寐錦」王を支えて新羅王権を補完した、いわば内向けの王者であったと考えたい」と記しておられます(なお「喙部」「沙喙部」など新羅の六部については、坂本太郎さんの『聖徳太子』の中に、『日本書紀』推古177月に見える「新羅使人沙〓(偏「口」に旁「彔」の〔口彔〕、「喙」に似た字です。以下同じ)部奈末竹世士、与任那新羅使人〓〔口彔〕部大舎首智買」に関連して末松保和さんの『新羅史の諸問題』の「新羅六部考」でのご見解を引いて「新羅には六部があったが、その意味は後には王京の行政的地域的区別になるが、本来は新羅が国土をひろめて行った場合、被征服国の人々を区別するためにつけたものであろう」と説明しておられます。なお〔口彔〕字については、坂本さんの『聖徳太子』によれば金石文には「喙」と見えるもののようで「この喙は『書紀』では〓〔口彔〕と書き、『三国史記』では梁と書くが、みな同じもので、トク・タクと読む」とあります)。
 荒木敏夫さんの『日本の女性天皇』ではこの武田さんのご指摘を引かれたうえで「倭国では、こうした王を補完する「葛文王」に相当する「副王」は、67世紀においては大后がそれにあたると考えられる」と指摘しておられます。
 興味深いことに「朝鮮の古代から新羅・渤海へ」の「「中古」新羅の台頭」に掲載された「「中古」初期の王統図」と題された智證王から真興王に至る系図を拝見しますと、智證王の男子のうち弟の立宗が兄法興王の娘と配偶関係となって間に生まれたのが真興王だと見えています。やはり『三国史記』によればこの真興王は540年に即位した際7歳だったとあって、幼少の王にかわって太后(王母。立宗の夫人金氏)が政治を行ったと見えているようです。ともかくこの太后は法興王の娘で、父の弟の立宗と配偶関係となり真興王が誕生したわけですから、叔父と姪の配偶関係となります。
 系図のようなものを文章化することは難しくて、『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文の廐戸の兄弟子孫の系譜にしても『本朝皇胤紹運録』にしても引用するうえで系図の体裁ということがネックとなっているように思われるのですが、この智證王から真興王に至る系図は記紀の時代に同様の関係があるために言葉で再現できます。
 舒明・天智・天武・草壁と遠智娘・持統の系図を描き、舒明に当たる部分に「至都盧/葛文王」の智證王を、天智に当たる部分に「牟即智/寐錦王」の法興王を、天武に当たる部分に「従夫智/葛文王」の立宗を、草壁に当たる部分に真興王をそれぞれあてはめればピタリと合います。遠智娘に相当する女性は「夫乇支妃」(『三国史記』に「保刀夫人」)、持統に相当する女性は「只汶尸兮妃」(『三国遺事』の「王暦」に「只召夫人」また「思道夫人」などと見えるようです)となっています。むろんそれぞれの王・大王(天皇)の立場や意味合いはそれぞれ違っていたでしょうが、親子・兄弟(法興王と立宗が同母兄弟か異母兄弟か私にはわかりませんが)・叔父・姪などといった続柄は一致します。そしてまた法興王の時代は6世紀前半で、ちょうど継体・安閑・宣化の時代に当たるようですから、その時代の倭では欽明と石姫が叔父と姪の配偶関係になります。ですから実は舒明・天智・天武・草壁と遠智娘・持統の系図というよりも、継体・宣化・欽明・敏達と橘仲皇女・石姫の系図をあてはめたほうが適当だったかもしれません。

 7歳で即位した真興王にかわり政務を見たという太后は系図では「只汶尸兮妃」にあたるのでしょう。おそらく中国でいう「称制」にあたり、『三国史記』では「摂政」と言っているのかもしれませんが、こういった存在が7世紀の善徳王・真徳王という2代の女王の先例をつくったとは思われません。その方面の文献等をまったく拝見していないのでうかつなことは申せないですが、善徳王・真徳王とも王后的な地位から即位したのでもなく、また子孫に王位を伝えられたわけでもないことを挙げられそうです。系図で見ますと善徳王は真平王(真興王の太子である銅輪の子)の娘、真徳王は真平王の兄弟である国飯なる人の娘のようで、どちらも子孫の記載が見えず、不適当な表現かもしれませんが系図の行き止まりのような位置を占めています。荒木さんの『日本の女性天皇』に善徳王・真徳王、それから9世紀の真聖王に触れた記載が見えるのですが、それによりますと真徳王は「不婚」だったと考えられているようですし、善徳王や真聖王の配偶者も公認されない「内縁の夫」的地位しか与えられていないということです。ともかく真興王の生母の太后と善徳王・真徳王ではそのイメージに大きな隔たりがあるように思われます。なお真徳王のあとに即位した太宗武烈王(金春秋)は善徳王や真徳王から見て「またいとこ」の関係になるようで、真興王の子で太子銅輪の弟が真智王、その真智王の孫が武烈王となるようです。真徳王までが「聖骨」、武烈王からは「真骨」だなど区分する記述もたしかに『三国史記』に見えるようなのですが、よくわかりません。むしろ『三国史記』には武烈王の生母の天明夫人について真平王の娘だとする記述があるようで、これを信じれば武烈王の生母は善徳王と姉妹だったことになりますから、ここに女系を通じての継承といった側面を見ることもできるのかもしれません。
 ともかく、新羅に「寐錦王」と「葛文王」の2種の“王”が並存していた、そういう時代があったということは「蔚珍・鳳坪碑」等の碑文などによりはじめてわかったことのようで、『三国史記』『三国遺事』に多数の「葛文王」が見えていても、それがどういう存在であるかはずっとわからなかったようです。当然中国史書の体裁にならおうとしたのであろう『日本書紀』でもそういった事態が起こっている可能性はあるでしょう。しかし中国史書にならったわけではないかもしれない『古事記』においてもまたそのような部分が認められるのではないか。
 武田さんが「「中古」初期の王統図」と題して掲げておられます智證王から真興王に至る系図には、法興王の「牟即智/寐錦王」とその弟の立宗の「従夫智/葛文王」という2種の王が見えており、この「寐錦王」のほうは『三国史記』『三国遺事』で「王」とされる存在なのに対し「葛文王」は『三国史記』『三国遺事』とも「葛文王立宗」「立宗葛文王」と「葛文王」のままのようで、この「副王」的存在について荒木さんは『日本の女性天皇』の中で倭の「大后」がそれに相当するものと見ておられます。ですから私などがいままで申してきましたようなことも実は既に荒木さんが述べておられたことでした。それでもこの智證王や法興王・真興王の系図からはまた違った印象のものが浮かんでくるように思うのです。先ほど継体・宣化・欽明・敏達と橘仲皇女・石姫にそれぞれあてはめて見ましたことと関係します。
 6世紀初めの新羅王統の系図では「牟即智/寐錦王」の法興王がきっと嫡長男相当で、「従夫智/葛文王」の立宗は同母弟だったのか異母弟だったのか存じませんが、『三国史記』等では「王」として歴代に数えられる存在とはならなかった。ただ法興王に男子がなかったのか、法興王の娘である「只汶尸兮妃」と法興王の弟の立宗との配偶関係によって誕生した真興王が王位を継いでいる。これは見ようによっては女系を通じて法興王の系譜を継承したものとも見られそうです。7世紀半ばに金春秋が即位して武烈王となったことについても生母が善徳王の姉妹であるという女系を通じての継承といった意味合いを見ようといたしましたが、真興王の王位継承もまた武烈王同様に女系を通じてのものでもある点で一脈通じるように思うのです。で、そうなりますと「只汶尸兮妃」、法興王の娘で真興王の生母である太后の位置に持統をあてはめて見た場合にはそれなりにぴったりとくるようには思うのですが、ただ天智・天武の位置付けは全然違う。天武は壬申の乱で天智の子の大友から地位を勝ち取ったことになりますから、法興王・立宗と同時に比較できるような話ではありません。
 ではその太后の位置に石姫をあてて見た場合にはどうか。この場合法興王の位置に宣化が、立宗の位置に欽明がくることになりますが、こちらはもっと一筋縄ではいかない話で、宣化と欽明の間には対立があったとする説が有力であったように思われます。しかしながら、個人的には当時それほど深刻な対立があったとは思われないのです。

6世紀の変な図


 継体−欽明朝の記録に見られる紀年のずれについては、早く本居宣長以来指摘されてきたもののようです。いま林屋辰三郎さんの「継体・欽明朝内乱の史的分析」(初出『立命館文学』881952、『古代国家の解体』 東京大学出版会 1955所収)より問題となる紀年のずれをまとめさせていただきますと、以下のような諸点を挙げられるかと思われます。

  • 継体の崩年について『古事記』が「丁未」(≒527年)とするのに対し『日本書紀』は「辛亥」(≒531年)としている
  • 『日本書紀』が継体の崩年を「辛亥」としながら、「或本」として「廿八年歳次甲寅」(≒534年)との異伝があったことを伝える
  • 『日本書紀』は継体の崩年を「辛亥」とした理由について『百済本記』の「太歳辛亥三月、軍進至于安羅、営乞乇城、是月高麗弑其王安、又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨」を挙げる
  • 『日本書紀』は継体崩(「廿五年」=辛亥)の当日に安閑を天皇に立てたとしているのに、安閑元年を「甲寅」としており、そこに「2年」の空位を生じる
  • 仏教公伝の年代について『日本書紀』が欽明13年壬申(≒552年)とするのに対し『上宮聖徳法王帝説』は欽明「御世」の「戊午」(≒538年)を伝え、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』も欽明「御世」の「七年歳次戊午」を伝える。『日本書紀』によれば戊午は欽明でなく宣化朝
  • 『上宮聖徳法王帝説』は欽明の「治天下」を41年とし、欽明の崩年は『日本書紀』『上宮聖徳法王帝説』とも「辛卯」(≒571年)。逆算すれば『上宮聖徳法王帝説』による欽明即位は「辛亥」(≒531年)となり、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の仏教公伝の「七年歳次戊午」とも合致する


 諸書に年表形式でまとめられていますので、そちらで見ていただくほうが早いかと存じます。この問題は明治に平子鐸嶺さんらによって注目され、昭和初年には喜田貞吉さんが辛亥年の「事変」から「両朝並立」という事態を想定し、戦後は林屋辰三郎さんが大伴氏の推す安閑・宣化と蘇我氏の推す欽明との対立、内乱という形に発展させられたもののようです。

 先に用明や崇峻について「中継ぎ役」の大王だったと見ておられます河内祥輔さんの『古代政治史における天皇制の論理』や篠川賢さんの『飛鳥の朝廷と王統譜』でのご見解を引かせていただいております。『古代政治史における天皇制の論理』ではそもそも「傍系」の天皇として「安閑・宣化・用明・崇峻」と並べて挙げておられますから、安閑・宣化についても中継ぎと位置付けておられるお立場です。そして「(前略)安閑と宣化は欽明が未成人であったために、そして、用明と崇峻は竹田が未成人であったために、即位したのであろうと推測する」としておられますし、また継体−欽明間の両朝並立説に対しては「(前略)この見解の基礎には、欽明と安閑・宣化とを対等の関係におく見方があるのではないか、ということである。直系と傍系の区別という点を闕漏しているところに、考え直されるべき余地があると思われる。直系と傍系を区別する立場からみると、天皇制は一種の二重構造をなしている。実際に皇位に即くものは直系と傍系が入りまじっているが、天皇制の本質をなすものとして意識されるのは直系継承なのである。この独特の二重構造的性格からすれば、二つの異なる年代区分法が生み出されたとしても、不思議はないのではなかろうか。すなわち、その一つは直系皇統の継承者による区分であり、それは継体・欽明・敏達として区分される。他の一つは実際に即位した天皇の在位期間によるものであり、それは継体・安閑・宣化・欽明・敏達として区分されるのである。もし、このような想定が成り立つとすれば、たとえ二つの年代区分法が共存したとしても、なんら王権の分裂、対立を意味することにはならない、と思われるのである」としておられます。長く引用させていただいてしまいましたが、私も究極的にはこのご見解に賛同させていただきたく思うのです。ただ『古代政治史における天皇制の論理』では『日本書紀』の「皇后」を認めておられませんし、6世紀型の「直系」も「皇女」所生の子と見ておられますから、その点では僭越ながら意見を異にさせていただきたく存じるのですが。同書で河内さんも認めておられますように、手白香・橘仲皇女という女系を通じて雄略の血統が欽明・敏達に伝えられているわけですから、女系といえども前王統の継承者の地位が高いのは当然なのではないかという気がします。「皇后」か「大后」かわかりませんが、天皇(大王)と肩を並べるような地位の高さの由来は、手白香のもつそういった性格に求められるのではないでしょうか。
 それからまた恐縮ながら、引用させていただきました中に「直系皇統の継承者による区分(継体・欽明・敏達)」「実際に即位した天皇の在位期間によるもの(継体・安閑・宣化・欽明・敏達)」と、2つの年代区分法という形で解釈しておられるのですが、世上、実際にはそれが宣長以来現在まで混乱として見なされているわけです。なぜそのように2種の紀年が必要だったのか、それぞれの紀年の担い手は誰だったのか……。こういう設問はおかしくて、かつまた、いやらしいものであって、こんな言い方をしましたのはもちろんこちらなりに腹案があるからなのですが、それは当然安閑・宣化の派、欽明の派と分けて見ることになります。それでは結局両朝並立説とかわらない。しかしながら、やはり個人的には林屋さんのように安閑・宣化を推す大伴氏と欽明を推す蘇我氏による両朝並立という構図、また継体2512月庚子(5日)の分注に引く『百済本記』の「又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨」といった記述をそのままうのみ(鵜呑み)にしたくはない。そう思っております。
 『古代政治史における天皇制の論理』の「安閑と宣化は欽明が未成人であったために(中略)即位したのであろうと推測する」という記述については、よく似た文が『日本書紀』に見えています。先にも引いたものですが、継体元年3月甲子(5日)、「甲子に、皇后手白香皇女を立てて、内に脩教(まつりごと)せしむ。遂に一の男(ひこみこ)を生ましめたり。是を天国排開広庭尊とす。〈開、此をば波羅企と云ふ。〉これ嫡子(むかひめばらのみこ)にして幼年し(みとしをさなし)。二の兄(いろねのきみ)治して(くにしろしめして)後に、其の天下(あめのした)有す(しろしめす)。〈二の兄は、広国排武金日尊と武小広国押盾尊となり。下の文に見ゆ。〉」(「甲子、立皇后手白香皇女、脩教于内。遂生一男。是為天国排開広庭尊。〈開、此云波羅企。〉是嫡子而幼年。於二兄治後、有其天下。〈二兄者、広国排武金日尊、与武小広国押盾尊也。見下文。〉」)とあります。幼年だったから二兄が先に治してのち「有其天下」となったと、ちゃんと見えています。しかも「是嫡子而幼年」などは欽明紀冒頭の「天国排開広庭天皇、男大迹天皇嫡子也。母曰手白香皇后」の「嫡子」とも照応した表記です。対し安閑紀冒頭は「勾大兄広国押武金日天皇、男大迹天皇長子也。母曰目子媛」、「長子」(えみこ)でした。
 ですから「両朝並立」という形でなくても同じ「朝庭」の中で安閑・宣化と欽明とが少しずつ地位の性格を違えながら並存している状況を考えることも無理ではないように思われるのです。ちょうど同じころの新羅で「寐錦王」「葛文王」という2種の王の並存した状況のあったことが524年の「蔚珍・鳳坪碑」に語られていますが、継体の末年から『日本書紀』の宣化没・欽明即位にかけてがおよそ530540年といったあたりになるようです。新羅の状況についてはのちの『三国史記』『三国遺事』では「寐錦王」のみ「王」とされ「葛文王」は「葛文王」のままとされたもののようですが、仮に安閑・宣化と欽明という性格の異なる2種の王の並存という状況があったとしても、記紀はどちらも「天皇」とした。そのような形で記述することが可能だったからのように思われます。
 再三になりますが、40歳前後以上を即位の条件とみておられます仁藤敦史さんの『女帝の世紀』でのご見解に従わせていただけば、欽明を継体3年(≒509年)の誕生と見ても、『日本書紀』が『百済本記』の「又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨」を採って継体の没年とする継体25年(≒531年)には数え年23歳です。通常ならばとても即位はできなかったでしょう。対し、『日本書紀』の享年から逆算してその継体25年に安閑は66歳、宣化は65歳。それぞれ欽明の祖父といっても通るような年齢となっていたでしょう。
 しかしながら、仮に継体を応神5世孫とする『日本書紀』や『釈日本紀』所引『上宮記』の所伝(凡牟都和希王―若野毛二俣王―意富々等王―乎非王―汙斯王―乎富等大公王)が事実だったとしても、既に応神と継体は桓武と平将門程度に離れていることになります。安閑や宣化は6世孫ですからほとんど他人、いってみればもともと「普通の人」に近い存在だったのではないでしょうか。越か近江か、それとも生母の目子媛の出身地である尾張あたりでかわかりませんが、本来ならば地方豪族クラスで終わっていたところかもしれません。対し欽明は前王統の血を受け継ぐ久々に誕生した男子です。前王統最後の大王が没した時点で本当に王族男子がみな絶えていたのかどうかはわかりません。あるいは雄略あたりが南朝の歴史にならった結果だったのかもしれませんが、王位を継ぐにふさわしい適当な人材はいなかったのでしょう。もしも継体が征服者として入っていたのならそれなりの記述があってもいいように思うのです。隠すべきことでもない。むしろ継体は「入り婿」的に迎えられたと見たほうがその後の展開がしっくりと来るように思われます。
 よく「継体王朝」といった言い方をされますが、当時の一部の意識ではむしろ欽明こそが新王朝の始祖と受け取られていたのではないでしょうか。天寿国繍帳銘冒頭の「斯帰斯麻宮治天下天皇名阿米久尓意斯波留支比里尓波乃弥己等」や『上宮聖徳法王帝説』第1部末尾の「斯貴嶋宮治天下阿米久尓於志波留支広庭□皇」といった表記を見ますとそんな印象を覚えます。安閑に譲位したその日に継体が没したのかどうかわかりませんが、実際には前王統の系譜を引く唯一の男子である、ようやく成人といった年齢の欽明がおり、また25年前までは越か近江あたりで地方豪族の子にすぎなかった安閑と宣化という年子の兄弟が、それぞれ前王統の王女を配偶者に迎えたまま老境を迎えていて、これも父が老境に達してから誕生させた新王朝の始祖の後見役をゆだねられていた……そんな感じではなかったかと思うのです。
 これに似たような状況はその後も存在したように思われます。それぞれの立場は少しずつ異なりますが、用明・崇峻と竹田の位置関係が、この時期の安閑・宣化と欽明との位置関係に多少似ていたのかもしれません。もっとも竹田は結局即位を見ずに早世したようですが、いつの時点のことかはわかりません。また草壁没後、浄御原令制下で持統が即位したのちの太政大臣高市と文武の位置関係とも多少似ているように思われます。で、実は安閑と用明は真福寺本『古事記』がそれぞれ「広国押建金日王」「橘豊日王」と段冒頭で「−王」としていることが共通するのですが、また『日本書紀』によれば「大兄」であったらしいことが共通しています。安閑は継体・安閑・宣化紀に「勾大兄皇子」「大兄皇子」「勾大兄」「勾大兄広国押武金日天皇」「大兄」等で見えていました。対し用明については欽明紀に1カ所「大兄皇子」と見えるだけのようですが、ともかく「大兄」です。そうなりますと、『日本書紀』に示された「大兄」というのは多くの場合のちの「太政大臣」に重なってくるのではないかという気もします。先には「大王天皇」が「太上天皇」に見えるなどということを申し、いままた「大兄」は「太政大臣」になったなどと言い出したわけですが、「大兄」という存在が「中大兄」天智で終わり、その子の大友が「太政大臣」とされて以降は「大兄」が見えないことなどを考えますと、そんな気がしてくるのです。
 たとえば井上光貞さんは「古代の皇太子」で、皇太子摂政が高市から文武という時代に皇族太政大臣と単なる皇嗣としての皇太子に分離してしまったものという形で見ておられるようですが、もし皇太子摂政とされる時代の廐戸や天智の「皇太子」を文飾と見、次期皇位継承予定者という性格を外してしまうなら、あとは「摂政」的な執政・輔政といった側面しか残らないのではないかと思うのです。
 荒木敏夫さんの『古代日本の皇太子』での「大兄」の把握は恐縮ながら少々難しく思われたのですが、本来「長子」の意味しかもたなかった「大兄」の語が、王族内の有力な王位継承資格者に用いられる場合には政治的意味が付与される、といった感じのご見解のようで、「(前略)実態の上からは地方豪族にすぎなかった継体と、同じく地方豪族である尾張連草香の女目子媛との所生子の勾皇子が、他の王位継承資格者と対抗し、その相違を際立たせるひとつの手段として、「大兄」の称が導入されたと考えられるのである」としておられます。『古代日本の皇太子』では継体−欽明朝に両朝並立的状態があったと肯定的に見ておられるようですから、「他の王位継承資格者」というのは具体的には欽明を指すことになるのでしょう。
 また先に穴穂部・孝徳・天武については個人的には「スメイロド」として見ておりますが、もし仮にこういう実体が認められるとすれば、おそらく当時の世間一般での「イロド」という続柄呼称とは違いますから、一種特殊な地位呼称として見ることになるでしょう。そういう立場からすれば「大兄」も何らかの地位呼称ではなかったかと考えております。しかしそうした場合、たとえば早世したらしい箭田珠勝大兄の「大兄」としての実態についてはどう見るのか。あるいは舒明・皇極朝の山背大兄・古人大兄・中大兄の関係についてはどう見るのか。複数大兄が並存していたと見るのか、同時には1人だったのか……など、いろいろと問題は残るでしょう。

 「大兄」が令制の「太政大臣」に継承されたのではないかなどと思いつきで記してしまいましたが、どうも詰まってしまってうまくいきません。しかしながらそれでも「両朝並立」という形では見たくない。「是嫡子而幼年。於二兄治後、有其天下」を積極的に支持したく思うのです。そもそも両朝並立という見解がどこから出てきたのかといえば、紀年の問題からでした。その紀年について『古代政治史における天皇制の論理』では「二つの異なる年代区分法が生み出されたとしても、不思議はないのではなかろうか」と述べておられたわけですが、ではその2つの異なる年代区分法のそれぞれの担い手は誰だったのか……などと、これも私自身が勝手に言い始めたことでした。そして、そんなことは改めて申すまでもないことなのですが、継体没後安閑・宣化の代を記しているのは『古事記』『日本書紀』ですから、基本的には『古事記』『日本書紀』が安閑・宣化の代を認める側の立場に連なるものということになるでしょう。対し、安閑・宣化の代を認めない立場というのは結局は仏教公伝の「戊午」(≒538年、『日本書紀』の宣化3年)を欽明の代だとする『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』の立場ということになりそうです。そして『日本書紀』の欽明13年(≒552年)仏教公伝の説は、よく考えてみるとなぜ宣化3年でもなければ欽明7年でもなく「欽明13年」なのかわからないのですが、ともかく『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』の「戊午」説と対立するものになっているわけです。
 これ以外の問題点は先に掲げております。たとえば『日本書紀』が『百済本記』の「太歳辛亥三月(中略)又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨」を引いて継体没を25年辛亥(≒531年)としながら安閑元年は「太歳甲寅」(≒534年)としており、そこに壬子(≒532年)・癸丑(≒533年)と2年の空位が生じる問題は、それのみから直接両朝並立という想定が導かれるわけではありません。こういう推測はよくないのかもしれませんが、たとえば継体が「甲寅年○月○○崩」、安閑が「乙卯年十二月己丑崩」、宣化が「己未年二月甲午崩」などとあった資料をもとにして安閑の治世2年、宣化の治世4年などと決めてから継体紀や安閑・宣化紀を書き始めていたら、あとから『百済本記』が出てきたため慌てて継体紀末尾と安閑即位前紀だけ書き直した、そんな印象さえ覚えるのです。また『古事記』継体段の「天皇御年、肆拾参歳。〈丁未年四月九日崩也。〉」については現在では日の干支と年の干支を誤ったものということでほぼ落着と見られているのか、あまり問題とはされていないようです。
 『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』は仏教系のものですし、廐戸に関連したものです。『上宮聖徳法王帝説』は廐戸について述べたものですし、『元興寺縁起』も廐戸の系譜の記載こそないものの推古と廐戸が主人公ともいうべきものです。先ほど、『日本書紀』が掲載しないため本来伝わらなかったはずの彦人大兄の配偶者やその所生子が『古事記』敏達段に、そしてこちらも本来伝わらなかったであろう廐戸の配偶者とその所生子が『上宮聖徳法王帝説』や『上宮記』逸文に見えていると申しました。そうすると実は、「戊午」を欽明の治世とする紀年を伝えた人々は同時に廐戸の系譜を伝えた人々であり、逆に安閑・宣化を歴代とする紀年を伝えた人々は『古事記』敏達段の彦人大兄の系譜を伝えた人々でもあるのではないか……。まったく恣意的な判断ですし、また「いまさら改まって言われなくてもわかっていた」ような話でもありますが、そんなふうに考えます。
 安閑・宣化から敏達を経て彦人大兄に至る系譜を伝えてきた人々として想定しているものについては、先に『上宮聖徳法王帝説』第1部末尾の記述に見える「右五天皇無雑他人治天下也」の「他人」にからめて「『非蘇我系』王族とその潜在的なシンパ」などといった形でまとまりもなく申しております。
 対する廐戸の系譜を伝えた人々、「戊午」は欽明の代だと伝えた人々はどうかといえば、こちらはよくわかりません。結局は『上宮聖徳法王帝説』第1部末尾の欽明・敏達・用明・崇峻・推古を「無雑他人治天下也」とし「檜前天皇」宣化はそうではないと見た側、「『非蘇我系』王族とその潜在的なシンパ」ではないほう、とでもいうことになるのでしょうし、「仏教関係」といったことにもなるのでしょう。しかし両者はイコールではない。後者の「仏教関係」というのは前者の集団の中に含まれるもの、前者集団の中の仏教関係者ということになるのでしょう。当然『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』などは彦人―舒明―天智の系統の側にあるものということになるのでしょうが、これもまた「太帝天皇」「仲天皇」などが見えていたりして、『元興寺縁起』や『万葉集』などと近く思われる部分も認められます。
 そして具体的にその氏族名を挙げようとしても、やはりよくわかりません。舒明即位前紀に見える境部臣摩理勢は廐戸、上宮王家の側だったことになるのでしょうが、殺されてしまっています。皇極2年の上宮王家滅亡に従ったように見える三輪文屋君・舎人の田目連・菟田諸石・伊勢阿部堅経などは、三輪文屋君を除けばおそらく上宮王家と運命をともにしたということだけで『日本書紀』にその名が残ったという存在だったのでしょう。では舒明即位前紀ではじめ山背大兄を推した許勢臣大麻呂・佐伯連東人・紀臣塩手らの動向はどうかといえば、これもよくわからないのですが、許勢大麻呂の系譜が巨勢徳太につながるものだとすれば、巨勢徳太は皇極2年の上宮王家滅亡におそらく直接手を下した側です。佐伯氏・紀氏も上宮王家と運命をともにしたというわけではなく、その後も大勢力として残っています。そしてまたそういった氏の動向と、上宮王家の系譜や戊午年を欽明朝とする紀年を伝えた人々とはあまり関係がないようにも思えてきます。
 廐戸が「白膠木」で四天王像を作り戦勝を祈願したなどと見える崇峻紀の丁未の役の記載では、物部守屋討伐軍に蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拕夫・葛城臣烏那羅・大伴連嚙・阿部臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・春日臣といった名が見えます。これらが事実だったとしても、これはおそらくこのとき大王家・蘇我氏の連合軍に加担した全氏族なのでしょうから、全部を「戊午年は欽明朝」と伝えた人々と見ることもできないでしょう。強いて分ければ「崇仏派」ということになるのでしょうが、丁未の役も崇仏対廃仏の対立というよりはむしろ穴穂部と守屋とが結んだ後継争いという性格が強かったのではないでしょうか。
 『元興寺縁起』には不思議なことにこの丁未の役に関する記載はまったく見えないようです。『元興寺縁起』では「中臣連」「物部連」といった名も見えることは見えるようなのですが、縁起の後半にたぶん1カ所だけ。廐戸の言葉に従って仏法を尊重することを誓うだけの存在とされているようにも見えます。
 そもそも奇妙に思いますのは、蘇我氏と対立する物部守屋がなぜ小姉君所生の穴穂部と手を結んだのか、といったあたりです。『日本書紀』は蘇我氏と物部氏の対立を欽明13年(≒552年)10月の仏教伝来以来のこととしています。そこでは「蘇我大臣稲目宿禰」が仏教受容に賛成したのに対し「物部大連尾輿」「中臣連鎌子」が受け入れを拒否したと見えています。『元興寺縁起』も欽明の「治天下七年歳次戊午十二月」のこととして似たような記事を伝えていますが、そちらでは「蘇我大臣稲目宿禰」と対立したのは「余臣等」とされていて、物部大連尾輿も中臣連鎌子も登場しません。ともかく『日本書紀』によればこの対立は蘇我馬子と物部守屋の代にも引き継がれているようです。ならばなぜ物部守屋は本来対立者であるはずの蘇我系の王子ともいうべき穴穂部を擁立せざるを得なかったのか。このことは逆に、なぜ蘇我馬子のほうは小姉君所生の穴穂部や崇峻に対し冷淡であったのか、敵対したのかということとも表裏一体の疑問となるでしょう。
 冒頭近くで欽明段・紀に見える欽明の配偶者とその所生子の記載を引かせていただきましたが、堅塩媛と小姉君の関係については『日本書紀』が「次堅塩媛同母弟曰小姉君」、堅塩媛と小姉君は同母の姉妹だとしていました。これと同じことは『上宮聖徳法王帝説』第1部末尾にも「又娶支多斯比売同母弟乎阿尼命(後略)」という形で見えていたわけです。『古事記』はどう勘違いしたのか「又、娶岐多志毘売命之姨、小兄比売(後略)」、ヲバですから問題になりませんが、天寿国繍帳銘では「復娶大后弟名乎阿尼乃弥己等為后(後略)」で単に「弟」です。堅塩媛や小姉君の生母は伝わらないわけですが、本当に同母姉妹だったのでしょうか。『日本書紀』にも単に「弟」とのみ表記して「いろど」の読みの見える例があるようですが、あるいは元来「弟」だったものをイロドと読んで「同母弟」と表記してしまったなどというミスがあったのではないかとも疑います。そういった資料を『日本書紀』がそのまま引いた……。蘇我氏と敵対しているはずの物部氏が結局小姉君所生の穴穂部と結んだ裏には、何か小姉君の生母の系統といったものが関係しているのではないでしょうか。そうでも考えないと説明がつかない。しかしそれを伝えるもの、証明するものは存在しません。
 その後弟の崇峻は一応即位してはいますが、馬子によって殺害されてしまっていますし、廐戸の生母の穴穂部間人は用明の殯宮のことも見えなければ、推古のようにミコトと呼ばれるような存在にもならなかった。それどころか用明没後にはその用明の子の田目皇子と配偶関係になって佐富女王が誕生したと『上宮聖徳法王帝説』『上宮記』に見えています。皇極も舒明と再婚しているわけですから、このころの再婚は不思議でもなければ倫理観にもとることでもなかったようです。そもそも儒教がようやく入ってきたばかりで、「倫」といった概念さえなかったでしょう。しかし穴穂部間人と田目との配偶関係の成立は、あるいは穴穂部間人が推古と対立するつもりはない、推古の地位を脅かさないといったアピールにはなったかもしれません。もっとも用明がもともと中継ぎの大王だったとすれば、穴穂部間人が推古の地位を脅かす存在となる事態はそもそも想定されなかったかもしれません。


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