7. 大后の時 − 8
『日本書紀』推古紀の末尾、36年9月戊子(20日)の記事には「(前略)先是、天皇遺詔於群臣曰、比年五穀不登。百姓大飢。其為朕興陵以勿厚葬。便宜葬于竹田皇子之陵」――先に「近年凶作でみな飢えている。私のために陵墓を築き、厚く葬ることはするな。だから竹田皇子の陵に埋葬せよ」との遺詔があった(「其為朕興陵以勿厚葬」は森博達さんの『日本書紀の謎を解く』の中に「否定詞の位置の誤り」の例として挙げられているものです)――とあり、推古紀は続く「壬辰、葬竹田皇子之陵」の記述で終わっています。早くに没した竹田皇子への愛着から同じ墓に入ることを望んだのであろうといった形で語られることの多い文ではないかと思われますが、ここだけを取り出してみれば「凶作だから改めて陵墓を造らず出来合いの竹田の墓に埋葬しろ」と言っているようにも見えます。
生母とその子が同じ墓に埋葬される例としては、斉明と娘の間人が同じ小市岡上陵に合葬されたことが天智6年2月戊午(27日)に見えていました。こちらも「我奉皇太后天皇之所勅、憂恤万民之故、不起石槨之役」、民を苦しめたくないので石槨の工事はしないといった言葉が見えていますが、それは合葬の理由ではないようです。
また大阪府太子町の叡福寺北古墳には廐戸が生母の穴穂部間人、配偶者のひとり菩岐岐美郎女とともに埋葬されているそうです。さらにその古墳の南1キロメートルほどの前方後円墳が敏達陵とされているようで、『日本書紀』崇峻4年4月甲子(13日)には「四年夏四月壬子朔甲子、葬訳語田天皇於磯長陵。是其妣皇后所葬之陵也」とあって、敏達はその生母の石姫の墓に合葬されたと見えていますから、これが敏達陵であれば石姫と敏達の母子が埋葬されているはず。しかし、少し古いものながら森浩一さんの『古墳の発掘』(中公新書 1965、私が拝見しておりますのは21版です)ではこの敏達陵とされる古墳について、近畿地方の後期の前方後円墳としては均斉がとれすぎていること、また近畿では6世紀初期までしか見られない円筒埴輪があることなどから、仮に石姫皇后の墓と見て欽明の時代のものであるとしても、年代が食い違うため再検討の余地があると見ておられます。初版が1965年の本ですが、真の継体陵と目される大阪府高槻市の今城塚古墳からはそのころ既に埴輪などが多く見つかっていたのでしょうか。もっとも継体没と欽明没とでは半世紀近く離れていますし、古墳の形といった問題は素人の立ち入れない問題です(他も全部素人の立ち入れない問題ですが、無知蒙昧をひけらかして恥知らずなことを述べております)。現在敏達陵とされているその古墳(何という古墳か存じません)を地図で見ますと、軸線が奈良県橿原市の丸山古墳のそれと同じく南東と南南東の間を向いているようで気になるところではあるのですが、ただ両者とも地形によるもののようにも見えます。
敏達紀の推古所生の娘たちの配偶関係を見てみますと、竹田をなくしたあとで推古が娘たちを通じて大王家にその系譜をつないでいこうとする、情愛というか、ある種の執念というか、そんなもの……をくみ取るのは、おそらく違っているでしょう。
そんなものではない。彦人大兄の系統も廐戸の系統も、推古の娘、そして推古の娘所生の子を、その血統を望んでいたのだと思います。
推古所生の娘の配偶関係を見ると、長女の貝鮹は廐戸に、次女の小墾田皇女は彦人大兄に、四女の田眼皇女は舒明に、そして五女の桜井弓張皇女は『古事記』によれば彦人大兄との間に山代王・笠縫王をもうけたことになっていますが、『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文によれば廐戸の同母弟の「久米王」(来目皇子)との間に男王・星河女王・佐富王をもうけたことになっていて、よくわかりません。そして敏達―彦人大兄―舒明という系譜が『古事記』敏達段に、用明―廐戸―山背大兄という系譜が『上宮聖徳法王帝説』や『上宮記』逸文に伝えられるにもかかわらず、その両者の間での配偶関係(たとえば舒明が廐戸の娘を配偶者とするといった関係)といったものはどこにも記されていないように思います。「そういう配偶関係は存在はしたが記されなかった」という可能性も十分考えられるでしょうが、少なくとも著名な人物に関しては見当たらないようで、そういう配偶関係は拒否していたようにさえ見えます。そしてひたすら推古の、推古の娘の血統を望んでいたように見えます。それはもちろん「姿色端麗」という理由ではないでしょう。
推古の娘というのは当然ながら全部敏達の娘です。『古代政治史における天皇制の論理』で河内さんが指摘しておられますとおり、敏達は父方からも母方からも前王統の系譜を受け継いだ存在でした。そういう意味ではまさに正統な大王というか、大王の本流とでもいった位置にあったものと思われます。推古も欽明の娘ですから、敏達と推古の間に誕生した竹田もまたそういう位置を継ぐべき正当な存在と見られたでしょう。しかし竹田は早世してしまったらしい。そこで、かどうかはわかりませんが、推古の娘たちが廐戸・彦人大兄・舒明(・来目皇子もか)と配偶関係を結んだことが敏達紀に特記されているわけですから、竹田の没後に将来大王位を継ぐことを期待された存在が彦人大兄だったのか廐戸だったのかといえば、そうではなくて、むしろ彼らと推古の娘との間に誕生する男子だったのではないかという気がするのです。正統な後継者と目された竹田が没したあと、結局また正統を継ぐ存在が女系となってしまい、彼女らに手白香や橘仲皇女のような役割が期待されたのではないか。
先に「マロコ」について考えましたところで「有力と思われる皇女とそのすぐ下の同母弟」の例として菟道貝鮹と竹田の姉弟を挙げ、そこで「『廐戸と貝鮹との配偶関係の成立により竹田が廐戸のスメイロド的な地位となる』というのは矛盾した印象です」などと申しました。またその少しあとでは「継体と手白香皇女の配偶関係から見た武烈が『スメイロド』に相当します」などと申し、またそう仮定しても意味がないなどとも申しております。しかしながら、こういった見方を「スメイロド」と見たほうから逆にたどって「手白香と武烈という姉弟があって、武烈が没して系統が途絶えたため継体が手白香と配偶関係となり、間に誕生する子に地位の継承が期待された」という形で見ることができるなら、もとより「武烈」という存在は疑わしいものの、これについて「手白香」を「貝鮹」に、「武烈」を「竹田」に、「継体」を「廐戸」にそれぞれ置き換えれば、当然ながら「貝鮹と竹田という姉弟があって、竹田が没して系統が途絶えたため廐戸が貝鮹と配偶関係となり、間に誕生する子に地位の継承が期待された」ということになると思うのです。「欽明」と置き換えられる存在は遂に誕生しなかったことになります。
 
もしも仮に廐戸と貝鮹の間に男子が誕生し、早世せず健康に育っていたら……。推古はどうしていたでしょうか。自身の寿命の限りは位にあってその王子を保護し、その後も廐戸や貝鮹が存命ならとりあえず後継に据えるよう遺言などして、その王子が40歳近くに達するまでの中継ぎとしたでしょうか。ともかく、その後の推古には貝鮹の子の成長するまでの中継ぎという、のちの女帝に通じる性格が鮮明にあらわれていたのではないかという気がするのです。もっとも『古事記』は推古の娘と彦人大兄の間に「山代王」「笠縫王」の2人の子があったことを伝えていますが、王位を問題とされていないところを見るとどちらも女性であったとか、病弱で早世したという可能性が高いのではないでしょうか。彦人の生母広姫、そしてその父の息長真手王はたしかに系譜の知れない人物ですが、薗田香融さんは「皇祖大兄御名入部について」において孝徳紀大化2年3月壬午(20日)に見える「入部五百廿四口・屯倉一百八十一所」(天智が返上すると言ったもの)の大部分を「皇祖大兄御名入部」すなわち「押坂部(刑部)」と見ておられます。これが的を射ているのなら、やはり彦人は相当な資産を持つ有力な王族だったことになるでしょう。それに子の舒明は実際に即位しています。「山代王」「笠縫王」が問題とされないことを彦人の立場の弱さと見ることはできない。もっとも「娶庶妹玄王、生御子、山代王。次、笠縫王。〈二柱。〉」の所伝自体については『日本書紀』に見えず、『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文では「(廐戸の弟の久米王が)娶他田宮治天下大王女子名由波利王生児
男王 星河女王 佐富王 三王也」のようですから、所伝自体が疑わしい部分もあります。
敏達没後、どういう称号を帯びてかはわかりませんが、敏達皇后の推古が“大后の時”を迎えていた。その推古の大后の時に、まず用明が、次いで崇峻が、後代「天皇」と表記されるような地位について執政ないし輔政にあたった。あるいは推古との共治に近い形だったのかもしれません。たとえば「廃帝」大炊王(淳仁)の時代の「高野天皇」孝謙のように。そして推古の39とか40といった年齢とタイミングを合わせるかのように崇峻が殺害され、推古自身がその地位につくことになった。とはいえ、その地位の性格が男帝とまったく同じだったかどうかはわかりません。ヒメ・ヒコ制というものについてまったく知識がないので困るのですが、「大后」か「オホキサキ」か「キサキ」か存じませんが、もともとが男帝と女帝の共治に近いような形態だったのではないでしょうか。普段は男帝がトップにあって「治天下」の状態にある、しかしその嫡妻格の配偶者も非常に高い地位と見なされていた。そして男帝没後は配偶者から統治者になる。 empress consort (queen consort) から empress regnant (queen regnant) となったのでしょう。もっとも天皇というか大王というか、その地位は40歳程度以上といった年齢の条件があったようにも見え、またその規制はかなり強く意識されていたようにも見えます。だから推古がその程度の年齢になるまでは用明・崇峻2代の「男帝」が表に立つ形で執政にあたっていた。もっとも崇峻については果たしてその年齢に達していたかも疑問で、「長谷部若雀天皇」の「治天下」、「泊瀬部天皇」の「即天皇之位」といったものはまた別に理由を求めなければならないようにも思います。
そして推古がほぼ40歳程度といえる年齢となり、「男帝」を立てる必要がなくなって自身その位につくことになった。しかしそれまで男帝・女帝の共治に近いような状況が続いてきていたために、やはり女帝のもとでも男帝のかわりとなるような存在が必要と意識されており、そこで廐戸がその役割を担わされたのではないでしょうか。敏達4年にようやく広姫立后が見えることの裏に「皇太后」石姫の称制的な状況を認めるとすれば、そういったことが先例として意識されたかもしれません。推古元年4月己卯では「夏四月庚午朔己卯、立廐戸豊聡耳皇子、為皇太子。仍録摂政。以万機悉委焉」と見えていたわけですが、果たして廐戸の帯びた称号が「ヒツギノミコ」だったかどうかはわからないでしょう。少なくとも「皇太子」という漢字表記ではなかった。用明元年正月壬子朔では「於豊御食炊屋姫天皇世、位居東宮。総摂万機、行天皇事」で「東宮」を「みこのみや」と読ませているようですが、「東宮」もまた令制下の言葉です。先ほど推古29年2月癸巳の「廐戸豊聡耳皇子命」の「皇子命」の「ミコノミコト」にからめて、天武皇子の草壁や高市の「ミコノミコト」について『日本書紀』『続日本紀』『万葉集』の例を引かせていただきましたが、推古治世の廐戸の地位も案外「後皇子尊」高市の太政大臣あたりに近いものだったのではないでしょうか。
高市の太政大臣について見てみますと、持統3年4月乙未(13日)に「乙未、皇太子草壁皇子尊薨」、草壁の死去が見えたのち同年6月庚戌(29日)に「庚戌、班賜諸司令一部廿二巻」、浄御原令が班賜され、翌持統4年正月戊寅朔、元日に持統が即位しています。高市の太政大臣就任はその半年後で、同年7月庚辰(5日)に「庚辰、以皇子高市、為太政大臣(後略)」と見えていることは先に引きましたとおりです。その後は実は「皇子高市」の形で増封や叙位といった記事ばかりで政治向きの記事は見えないのですが、大過なく務めたということなのか、何もしなかったのか、『日本書紀』があえて書かなかったのかはわかりません。ずっと下って持統10年7月庚戌(10日)に「庚戌、後皇子尊薨」。そしてその直後から位や資人・食封・賜物・賻物をたまわる記事、饗宴の記事が多くなり、翌11年2月甲午(28日)に「二月丁卯朔甲午、以直広壱当麻真人国見、為東宮大傅。直広参路真人跡見為春宮大夫。直大肆巨勢朝臣粟持為亮」、3月甲辰(8日)には「三月丁酉朔甲辰、設無遮大会於春宮」とあって文武立太子の記事もないまま「東宮」「春宮」等の語が見え、8月1日には「八月乙丑朔、天皇定策禁中、禅天皇位於皇太子」、いつの間にか「皇太子」となっていたらしい文武が譲位され即位しています。なお文武即位は『続日本紀』では「八月甲子朔、受禅即位」で干支が1日違っていますが、これについて古典文学大系の注には元嘉暦と儀鳳暦の違いとするご見解が引かれており、さらにまた文武立太子についても『釈日本紀』所引「私記」に「持統天皇十一年春二月丁卯朔壬午〈十六日也〉、立為皇太子」と見えることが引かれています。
高市は皇太子ではありませんでしたし、自身皇位につくつもりもなかったでしょう。また持統はじめ周囲もつかせるつもりはなかったはず。しかしこれらの日付を信頼するなら、高市は持統即位から半年、草壁没後ほぼ1年というタイミングで太政大臣となり、それからほぼ6年で没し、高市没後半年ちょっとで文武が立太子し、高市没後丸一年ちょっとで持統が文武に譲位した勘定です。前後一年の間隔を置いて草壁と文武の間の準“男帝”的存在の空白を「太政大臣」高市が埋めているようにも見えます。あるいは廐戸の立場もこの高市に似たものではなかったでしょうか。
廐戸の子の山背大兄も皇極2年(≒643年)に一族もろとも滅亡させられており、また高市の子の長屋王も神亀6年(=天平元年≒729年)の長屋王の変で妻の吉備内親王らとともに死に追い込まれています。山背大兄と長屋王に共通点を見られるご見解もあるようにうかがっており、両者がこういう最後を迎えたというのは結果論なのでしょうが、やはり系譜上に占めていた立場の共通性を考えれば偶然とは言い切れない部分もあるように見えます。
「太上天皇」に関する規定は唐令にはない日本令独特のもののようなのですが、そういう意味では「太政大臣」もやはり唐令になかったもののようで、日本思想大系『律令』の職員令の「太政大臣」の補注には「師範一人、儀形四海」の文が唐の三師(太師・太傅・太保)の規定と、「経邦論道、燮理陰陽」の文が唐の三公(太尉・司徒・司空)の規定と同文であることを挙げて「三師・三公を合せた地位といえる」と見えます。しかしながら範を唐令に仰いだはずの日本令にあって唐令には見えない規定ということになれば、それは浄御原令や大宝令段階で突然できた規定というよりは、過去の伝統・慣習から必要とされた規定なのではないかという気がします。
実際には「太政大臣」の初例はおそらく令制前の天智10年正月癸卯(5日)、「癸卯、大錦上中臣金連、命宣神事。是日、以大友皇子、拝太政大臣。以蘇我赤兄臣、為左大臣。以中臣金連、為右大臣。以蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣、為御史大夫。〈御史蓋今之大納言乎。〉」と見える大友皇子だと思われます。なお『懐風藻』の大友皇子の伝記では「弱冠」、20歳で太政大臣を拝し23歳で皇太子となり、そして壬申の乱で没した際に享年25と見えているようですが、これでいくと近江遷都の天智6年(≒667年)に太政大臣、天智9年(≒670年)に皇太子となった勘定です。どちらを信じてよいのかわかりませんが、『懐風藻』の伝記に見える年を1年繰り下げるとそれぞれ天智即位の天智7年、大友が太政大臣を拝した天智10年となります。天智紀で9年4月に「災法隆寺」と見えるのに8年是冬でも「災斑鳩寺」と見えていることとあわせ、気になるところではあります。
しかしこれとは別に、天武10年2月甲子(25日)、天皇・皇后が大極殿(おほあんどの)にならんで出座し「定律令改法式」をするとの詔を出したその日に「(前略)是日、立草壁皇子尊、為皇太子。因以令摂万機」、草壁が立太子されています。持統称制前紀の「天命開別天皇元年、生草壁皇子尊於大津宮」から草壁の誕生を天智元年(≒662年)と見れば天武10年(≒681年)にはちょうど数え年20歳です。大友が20歳で太政大臣となったという『懐風藻』の所伝も無視できないように思いますし、「弱冠」20歳が何かの地位につく目安とされていたことを示すもののようにも思われます。
『日本書紀』のほうに信を置くなら、天智10年12月乙丑(3日)に天智が没していることを思えば、あるいは天智は9月(「或本」では8月)以前から体調がすぐれず、後継体制をスタートさせていたもののようにも思われます。とすれば天智10年10月庚辰(17日)の天武の言葉に見える「請奉洪業、付属大后。令大友王、奉宣諸政」(天武紀上、即位前紀の「願陛下挙天下附皇后、仍立大友皇子、宜為儲君」も同じ事実を言っているのだと思います)が実際の状態に近かったのではないでしょうか。天武が天智にそう言おうが言うまいが、結果的にはそういう方向に進んでいた。『懐風藻』に享年25歳と見える大友が天智没後すぐに即位できたとは思えませんから、天智の「称制」と同じような形にならざるを得なかった。天智が没した際に「人はよし思ひやむとも玉かづら影に見えつつ忘らえぬかも」(『万葉集』巻2の149)と読んだという「倭大后」、倭姫王がそのとき何歳だったかはわかりませんが、その「大后」倭姫王がそのまま大后の時を迎えており、 empress consort から empress regnant になっていたのかもしれません。そしてその下で「太政大臣」大友が執政にあたっていたか、もしくは倭姫王と並ぶ形で共治の状態にあった。そんなふうに見たく思うのです。
これと似た考えは珍しいことではなく、戦前からあったようです。直木孝次郎さんの『壬申の乱』(塙書房
1961)に見えていたのですが、まず喜田貞吉さんが「女帝の皇位継承に関する先例を論じて、大日本史の大友天皇紀に及ぶ」等の論文で倭姫即位説を唱えられたもののようです。また黒板勝美さんがそれを修正され『国史の研究』各説上で倭姫称制説を唱えられたようで、戦前にはそれが最も有力な説と見なされていたようです。しかし喜田さんのそれは例によって『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「仲天皇」も『懐風藻』釈智蔵伝の「太后天皇」もともに倭姫とされてのご見解のようで、井上さんも小林さんも否定的に見ておられたものです。『壬申の乱』にはこれらのご見解に対する戦後の関晃さんの『新日本史大系』第2巻での批判も引いておられまして、「壬申の乱のごとき場合の皇位の所在を強いて決定しようというのは、それ自体として殆んど意味のないことであろう」などといった記述は個人的には説得力をもって響いてきます。これらを拝読していない私には何も言えたものでもないのですが、即位の要件として要求された年齢といったものを考慮しますと、やはり形式としては倭姫王がわずかに上、大友はわずかに下だったと見たく思うのです。
倭姫王の年齢を知る手がかりはありませんが、仮に舒明の享年を49と見て逆算して推古元年(≒593年)生まれ、古人大兄の生年や享年は不明ながら、仮に舒明が数え年21歳のときの子と見れば推古21年(≒613年)生まれとなり、さらにそのうえで倭姫王を古人大兄が数え年21歳の子と見るなら舒明5年(≒633年)生まれとなりますから、672年の壬申の乱の際には倭姫王はちょうど数え年40歳となる計算です。舒明紀に従って天智を推古34年(≒626年)の誕生と見れば、この想定の倭姫王からは7歳の年上となります。叔父と姪の配偶関係ではありますが、天智が舒明34歳のときの子となる勘定ですからそんなに的外れな値でもないように思われます。もちろん天智の没した時点で倭姫王が40歳より大幅に若かったとしたら、私もまた受け売りで「仲天皇」「中皇命」は間人だと考えさせていただいておりますが、彼女と同様に「ナカツスメラミコト」的な地位となっていたのかもしれません。
草壁立太子のあった天武10年2月甲子の記事は「天皇々后、共居于大極殿、以喚親王諸王及諸臣、詔之曰、朕今更欲定律令改法式(後略)」と始まっています。あるいは浄御原令の前のこの時期は「天皇大后」だったのかどうか存じませんが、このイメージはひな人形の段飾りの最上段に近いものがあったのではないかなどと空想します。もとよりその衣装等はまるで違うでしょうが、そういうことでなく天皇も皇后(大后か)も同じ最上段に並んでいる。実際にその権威を視覚的にあらわしてもこのような感じではなかったでしょうか。皇后(大后)が天皇(大王)よりほんのわずか低い位置にいた程度で(下のほうの段はまるで違いますが)。
つい「天皇々后」のみが大極殿に並んで座り、前の庭には「親王諸王及諸臣」が相対して並んで詔を聞いているようなイメージを思い浮かべてしまうのですが、みな大極殿内にいて、「天皇々后」が一段高い座に座り、相対する「親王諸王及諸臣」に詔したのか、それはわかりません。
博物館などで拝見しますと、戦前のころのひな人形は最上段に立派な組み立て式の屋形、屋台が付いていたようです。それから昔のひな人形は「めびな」がちょっとお神輿などを連想させる立派な冠をつけていました。いつから簡単な髪飾りが主流になったのか存じませんが、やはり何らかの考証の結果なのでしょう。そして下の段には左近のサクラと並んでタヂマモリが常世の国から持ち帰った右近のタチバナが植わっています。タヂマモリが帰ったときには垂仁は没していたので、『古事記』によれば半分を大后ヒバスヒメに、残る半分を垂仁の墓前に献じて自身も他界してしまったわけですが、大后ヒバスヒメは元の最上段の位置を占めていたということになるのでしょう。空席となった垂仁の座の位置には少し段の高さを低くして次の景行が座っていたような感じで意識されたのかもしれませんが、そもそも説話です。
しかし天武10年2月甲子には浄御原宮の「大極殿」で天武と持統が並んで草壁を「皇太子」としたと見えています。「皇太子」という表記が的を射ているかどうか存じませんが、20歳を迎えた草壁が何らかの地位につけられた。その儀式での実際の草壁の座の位置が天武・持統の側だったのか「親王諸王及諸臣」側だったのか存じませんが、地位的な面で見れば最上段に天武と持統がほぼ横並びに並んでいる、その天武のすぐ下の段、ごくわずか低い位置に草壁が座したようなものではなかったでしょうか。それは多分に天武の後継者的な意味合いも含んでいて、天武が没してもその位置のまま大后持統と草壁が並んでいる状況でスタートできた。その際の草壁の称号が「ヒツギノミコ」だったか「ヒナミシノミコ」だったかはわかりません。ただ2年後の天武12年2月己未朔(1日)に「二月己未朔、大津皇子、始聴朝政」と見えますから、太政大臣だったかどうかわかりませんが、何らかの形で大津も草壁のすぐ下のあたりに座を占めることになったのでしょう。結果、その3年半後に天武が没すると大津も同時に死に追いやられてしまう。ところがそれからまた2年半後には今度は草壁が没してしまう。直後に浄御原令が班賜され、翌持統4年(≒690年)正月に持統が即位し、7月には高市が太政大臣とされています。おそらく持統は従来よりほんのわずかに高い位置に座ることとなり、簡単な髪飾りから立派な冠にかえた程度のことだったのではないかという気もしますが、ただ浄御原令がスタートして最初の天皇としての即位ですから、いままでとはまったく別の意味を持つものだったという側面もあったかもしれません。その即位儀では物部麻呂が大盾を立て、中臣大嶋が天神寿詞を読み、忌部色夫知が神璽の剣鏡を奉上したと見えています。またしばらくのちに高市は没した草壁の座に近い位置を占めたのでしょうが、あくまで代理の男帝的存在であって、女帝である持統の隣の一段低い位置にいて、即位を期待された存在でもなかったでしょう。
やはり竹内理三さんの『律令制と貴族政権』第T部の「「知太政官事」考」の中に「(前略)懐風藻葛野王伝によれば、高市皇子が薨じて後に始めて天皇が東宮のことを群臣に諮ったとあるのをみれば、高市皇子は東宮とはならなかったけれども、太政大臣たることによって東宮の万機を摂行する職能を具えて、自ら東宮の地位におかれたものであろうとも考えられるところから、皇子の立太子の記事を書記が漏らしたのであろうという説が行われた。〈家永氏前掲論文。皇胤紹運録頭注に「按草壁薨後高市立為太子仍称後皇子尊」とある〉(後略)」(なお「家永氏前掲論文」は家永三郎さんの「飛鳥朝に於ける摂政政治の本質」)といった記述が見え、また古典文学大系『日本書紀』の「高市皇子命」の補注にも「伴信友は、この記事で「命」と尊称を加えたのは、草壁皇子に次いで立太子したことの証であるとするが、その確証はない」と見えています。竹内さんの「……という説が行われた」という結び方からすれば家永さんの高市立太子を想定されたらしいご見解には否定的なお立場だったように思われますし、古典文学大系の「その確証はない」という結び方もまた伴説を否定的に見ておられるということでしょう。「高市皇子命」「後皇子尊」について「皇太子」「東宮」といった次期皇位継承予定者の位置付けを否定し、そういう方向性を逆に令制以前の時代にさかのぼって及ぼすなら、たとえば荒木敏夫さんが『古代日本の皇太子』の「皇太子制の成立」の中で、石母田正さんの『日本の古代国家』でのご見解(推古―聖徳太子―馬子の権力集中を新羅の善徳女王―乙祭―閼川、また真徳女王―金春秋―金庾信のそれと似るとされるもの)を引かれたうえで「廐戸皇子が「皇太子」であることになぜ深くこだわるのか理解に苦しむ。推古朝における一人の有力王族であり、かつ、次期王位の有力な候補者の一人と理解してもよいはずである」としておられますが、このご見解の方向性は納得のいくもののように感じられます。しかしながら、個人的にはむしろ「次期王位の有力な候補者の一人」という部分さえも否定的に見させていただきたく思うのです。それは、高市の即位は期待されていなかったであろうといったあたりに由来します。廐戸もまた彼自身の即位は期待されてはおらず、むしろ推古の娘の貝鮹との間の男子誕生に期待がかけられた。その間廐戸は推古の婿、義理の息子といった形で、男帝代理としての「○○○○」などと称される地位にあったのではないでしょうか。その「○○○○」の中には次期大王位を期待され、また位をその子孫に伝えていくことを期待された人もあれば、共治もしくは輔政のみを期待され、即位は期待されなかった、あるいは位を子孫に伝えることを期待されなかった存在もあったのでしょう。しかし『日本書紀』はその「○○○○」の多くに「皇太子」「東宮」といった称をあててその中に包含させてしまったのではないか……などと想像するのです。
藤原京へ遷都した持統8年(≒694年)は推古即位からほぼ100年ちょっと、そして平安遷都の100年前になりますが、持統10年に高市が没すると翌年には浄御原令制下で最初の皇太子に文武が立てられ、すぐに即位しています。いちおう天武のいた座の位置についたということでしょうが、隣は文武の配偶者ではなく「太上天皇」持統がそのまま据わっている……座っている。そんな状況について、文武の生母で持統の年の離れた異母の妹である元明が文武没後の慶雲4年7月壬子(17日)の即位の宣命で「(前略)閞けまくも威き藤原宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし倭根子天皇、丁酉の八月に、此の食国(をすくに)天の下の業を日並知皇太子(ひなめしのみこのみこと)の嫡子(むかひめばらのみこ)、今御宇しめしつる天皇に授け賜ひて並び坐して、此の天の下を治め賜ひ諧(ととの)へ賜ひき(後略)」(「閞〈母〉威〈岐〉藤原宮御宇倭根子天皇丁酉八月〈尓〉。此食国天下之業〈乎〉日並知皇太子之嫡子。今御宇〈豆留〉天皇〈尓〉授賜而並坐而。此天下〈乎〉治賜〈比〉諧賜〈岐〉」)と言ったのではないかと思います。著名な「不改常典」の語の見えるのがこの直後ですが、ともかくここでは「藤原宮御宇倭根子天皇」持統が文武と「並び坐して」政治を行っていたとあります。しかしよく見ますと草壁について「日並知皇太子」という言い方をしており、「日並知皇太子」という称はその中に「並び坐して」政治を行っている意味が込められている、含まれているようにも見えます。で、「日並知皇太子」については新訂増補国史大系にも岩波文庫の『続日本紀宣命』にも「ひなめしのみこのみこと」とのみ見えていて「ヒナメシノヒツギノミコ」などとはないのですが、これが古い読みを伝えているのか宣長の『歴朝詔詞解』によるのか存じません。また宣長はこういったことについてきっとどこかで言及しているのかもしれませんが、見ておりません。ともかく「日並知皇太子」に対し付された「ひなめしのみこのみこと」がもしも由緒のある読みだったとすれば、「日並知皇子尊」「日並知皇子命」「日並知皇太子」は実はどれもヒナミシノミコノミコト(ヒナメシノミコノミコト)だったということになりそうです。
それにしても、この宣命を見て思い出すのは『万葉集』巻1の49、人麻呂の「日並皇子の命の馬並めて御猟立たしし時は来向ふ」(「日双斯
皇子命乃 馬副而 御獦立師斯 時者来向」)で、これは48の「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」(「東
野炎 立所見而 反見為者 月西渡」)の次の歌です。この49の歌の「日双斯皇子命」が草壁を指すのは疑いないところでしょうが、また文武を重ね合わせている部分も感じられるように思います。
そんなことを考えながら『万葉集』巻1・2を眺めていたら、巻1の29、「過近江荒都時、柿本朝臣人麿作歌」が目に入りました。「玉襷(たまだすき)
畝火の山の 橿原の 日知(ひじり)の御代ゆ〈或は云ふ、宮ゆ〉(後略)」(「玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従〈或云、自宮〉」)で始まる長歌ですが、古典文学大系の頭注にはこの「日知」について「天つ日嗣を領(し)らす者。天皇」と、また「橿原の日知の御代」については「神武天皇の御代」とはっきり示されています。
「日知」と表記されてはいますが、そのヒジリは「東宮聖王」などの「聖」のヒジリと同じものなのでしょう。「聖」という文字からは現代では「聖職者」「聖書」などが連想されますし、また「ヒジリ」と読めば空也とか一遍とかを連想します。空也といえばシカの角の杖を持ち鉦(かね)をたたきながら口から何体かの仏像を出しているイメージ。そんな彫刻があったかと記憶しています。まるで素人のようなことを申しておりますが、素人ですから仕方ないです。推古紀のいわゆる「片岡山の飢人」のエピソードでは、「皇太子」が行き倒れの飢者について「必ず真人(ひじり)ならむ」などと言い、墓を改めさせたら遺体は消えて与えた着物だけが棺の上に畳んで置いてあった。そこで「時人」は「聖(ひじり)の聖を知ること、其れ実(まこと)なるかな」と言ったなどとありましたが、もう既に道教的な知識による文飾が始まっているのでしょう。しかし「橿原乃日知之御世」のほうは「聖職者」といったイメージではありません。辞書的に見ても、たとえば手元にあります三省堂の『広辞林』第五版では、「聖」を「日知り」の意としたうえで第1義が「天子」です。以下「聖人」「学問・技術のすぐれた人」「高僧」「官僧でない、民間の僧侶」「仙人。神仙」「清酒の雅称」などとなっています。『新漢和辞典』で「聖」の項を見ますと「高徳の僧。大徳」の意味は日本限定のようで、「聖−」の熟語も「聖旨」「聖上」「聖祖」「聖断」「聖朝」系統の例が意外と多いです。日本限定の用例としてはほかに「saintの訳語」というのがありました。現代ではきっと漢字文化圏でもこの用例が優勢なのでしょう。
孝徳紀大化2年8月癸酉(14日)の詔、「品部」の廃止や百官・位階の制定を宣した詔の冒頭は「原(たづねみ)れば夫(そ)れ天地陰陽、四時をして相乱れしめず。惟(おもひみ)れば此れ天地、万物を生(な)す。万物の内に、人これ最(もと)も霊(くしひ)なり。最も霊なる間に、聖(ひじり)人主(きみ)たり。是(ここ)を以て、聖主(ひじり)の天皇(すめらみこと)、天に則(のと)り御〓(ウかんむりに「禹」。「寓」に似た字ですが違います)して(あめのしたをしろしめして)、人の所獲むことを思ほすこと、暫(しまし)くも胸(こころ)に廃(す)てず(後略)」(「原夫天地陰陽、不使四時相乱。惟此天地、生乎万物。々々之内、人是最霊。々々之間、聖為人主。是以、聖主天皇、則天御〓、思人獲所、暫不廃胸」)などと始まっているようで、漢籍あたりからとってきた文なのかと思ったら古典文学大系にはそういった言及は見られないのですが、「聖主天皇」に注して「天皇を聖とする類例は「大八洲所知〈志〉聖〈乃〉天皇命」(続紀、天平十五年五月条、宣命)、「橿原乃日知之御世従」(万葉二九)」(なお原文は〈 〉でなく小字の体裁)とありました。『続日本紀』天平15年5月癸卯(5日)の宣命は先にも部分的に引いておりますが、「皇太子」孝謙の舞う五節の舞を聖武が「太上天皇」元正にたてまつるというものです。そこでは天武が五節の舞を創始したとしてその由来を述べているのですが、「(前略)掛けまくも畏き飛鳥浄御原宮に大八洲(おほやしまくに)所知し(しろしめしし)聖(ひじり)の天皇命(すめらみこと)(後略)」(「掛〈母〉畏〈岐〉飛鳥浄御原宮〈尓〉大八洲所知〈志〉聖〈乃〉天皇命」)という形で天武について言っています。またそのほかに気のつきましたところでは、天平宝字3年6月庚戌(16日)の淳仁の宣命(父舎人親王に「崇道尽敬皇帝」と「追皇」、生母の当麻山背も「大夫人」とした宣命)に「(前略)掛けまくも畏き我が皇(おほきみ)聖(ひじり)の太上天皇(おほきすめらみこと)の御所(おほみもと)に奏し給へば奏せと教へたまはく(後略)」(「掛畏我皇聖太上天皇御所〈尓〉奏給〈倍波〉奏〈世止〉教宣〈久〉」)とあって、今度は淳仁から見た孝謙上皇が「聖太上天皇」、ヒジリとされています。
『万葉集』29は記紀以前の歌のようですから、「橿原の日知の御代」については説話として伝えられていたのかもしれませんが、壬申の乱に際して高市郡大領の高市県主許梅(たけちのあがたぬしこめ)に神がかりがあって「神日本磐余彦天皇の陵に馬及び種種の兵器を奉れ」などと言っているようです。こういったものもどこまで事実として信用できるのかはわかりませんが、『続日本紀』天平15年5月癸卯の宣命の五節の舞と『万葉集』29の神武の世とは、『日本書紀』天武紀上のその日付も不明な神がかりの記事を介して不思議と天武につながってくる。そうなってきますと「聖」字に「神聖な」的意味が付与され始めた最初は天武の時代、天武周辺からのことのようで、あるいは意図的にそういったことが演出されたのかもしれません。以降道教的なものから仏教的なものに、さらに幕末・明治以降はキリスト教が加わって、現代日本における「聖」字のイメージもそういう経過に由来する先入観に縛られたものなのかもしれない。元来は漢字の「聖」も倭語の「ヒジリ」(日知り)も「神聖な」といった宗教的なニュアンスは薄く、むしろ政治的な印象、俗界のことを指す語だった。そういうことになりますと法隆寺金堂薬師像銘の「東宮聖王」については、実は「東宮」のみが令制的な修飾であって、先にも少し申しましたように「聖王」についてはヒジリノオホキミ、いやむしろヒジリノミコなどと読んで「日知りの御子」、推古の治世にそのもとで男帝代理的な存在にあった廐戸が帯びていた称号はそういったものだったのではないかという気もします。
渡辺照宏さんの『仏教 第二版』(岩波新書 1974)に「ある仏伝によると、宮殿に招かれた占い師たちは「この王子の前途は二通りしかない。もし王位を継げば全世界を支配する帝王〔転輪聖王〕となるし、もしまた出家すれば人びとを救う仏陀になるであろう」と予言したという」との記述が見えます。著名なこのくだりがどういう経典等に見えるものなのか存じないのですが、「転輪聖王」については坂本幸男さん・岩本裕さん訳注の『法華経
上』(岩波文庫 1962)の注に見え、『妙法蓮華経』の坂本さんの注には「身に三十二相を具し、即位の時、天より輪宝(輪は一種の武器)を感得し、これを転じて四方を征服するが故に転輪王と名づく(中略)古代インド人の待望する伝説上の理想の国王」と、また『サッダルマ=プンダリーカ』の岩本さんの注には「チャクラ=ヴァルティン cakra-vartin の訳。チャクラ=ヴァルティンとは「戦車の車輪を転がして、四方を征服した人」すなわち「覇王」を意味するが、後には理想化され、天から授かった輪宝を奉持して四方を征討し、正義を以て統治する理想的君主を意味するに至った」と記されています。「仏陀」に対する「転輪聖王」がそうであるように、廐戸もまた出家したわけではなくて「政」の、俗界の人だった。「仍録摂政」などの表現もこの「日知りの御子」の意味から導かれたものではないでしょうか。もっとも「政」をマツリゴトと読めば宗教的な意味のものにもなってしまいますが。
こんなことが的を射ているならとっくにどなたか言及されているはずですが、何も拝読しておりませんのでご無礼の筋多々あるものと恐縮に存じます。
ヒナミシノミコノミコトといえば通常草壁の「日並知皇子尊」「日並知皇子命」を指すのでしょうが、『元興寺縁起』に「日並田皇子」などと見えるらしい敏達についてもまた、広姫立后が敏達4年であることなどとからめて、それまでは「皇太后」石姫の下でのヒナミシノミコ的な存在であったろうなどと見させていただきました。さらにまた廐戸については、即位を期待されていたのは廐戸本人ではなく貝鮹との間に誕生する予定だった子であろうと見、また「後皇子尊」高市と似た存在だなどとして、「東宮聖王」の「聖王」をヒジリノミコ、「日知りの御子」などと解しました。そのうえでいずれも女帝の下での男帝代理的な存在を指す称号ではなかったかなどと無理な考え方をしております。
草壁立太子の翌月の天武10年3月丙戌(17日)には天武が川嶋皇子・忍壁皇子以下に「令記定帝紀及上古諸事」、「帝紀」および「上古諸事」を記し定むべしとの詔を出しています。「大嶋・子首、親執筆以録焉」、大山上の中臣連大嶋と大山下の平群臣子首は自ら執筆したなどと見えていますが、具体的にどういう作業があったのかはよくわかりません。『古事記』撰上は和銅5年(≒712年)ということが太安万侶の序文に見えるのみで『続日本紀』には見えないようですし、『日本書紀』の撰上は『続日本紀』養老4年4月癸酉(21日)に「先是。一品舎人親王奉 勅。修日本紀。至是功成奏上。紀卅巻系図一巻」と見えるのみで、大宝元年8月壬寅(2日)に大宝律令撰定の功により刑部親王や藤原不比等らが禄をたまわっているのとはずいぶん印象が違います。和銅7年2月戊戌(10日)、紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂とに「国史」を撰せよとの詔のあったことが見えますが、『日本書紀』編修に関して見える名前はこれだけのようです。3人だけですから天武10年3月丙戌に見える名前とは誰も重ならないのですが、天武10年(≒681年)から養老4年(≒720年)まで足掛け40年です。その間何をしていたのか。
いくつかの要因が考えられるように思います。
まず資料集め。推古27年是歳に「是歳、皇太子嶋大臣共議之、録天皇記及国記、臣連伴造国造百八十部并公民等本記」と「天皇記」「国記」のことが見えおり、また皇極4年6月己酉(13日)に「己酉、蘇我臣蝦夷等臨誅、悉焼天皇記・国記・珍宝。船史恵尺、即疾取所焼国記、而奉献中大兄」などと見えているのをいずれも事実――表記こそ後世的になってはいるが、それに相当する何らかの事実があった――と見るなら、「天皇記」「国記」編修のために集められた資料も乙巳の変の際に蝦夷とともに焼失してしまった可能性もあるように思われます。また壬申の乱に際してもそんなことがあったかもしれません。
持統5年8月辛亥(13日)には大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穂積・安曇の18氏に先祖の「墓記」の提出を求めていますから、このころも修史の事業は続けられていたのでしょう。「墓記」に求めたのは「旧辞」的な内容であって「帝紀」的なものではないのかもしれませんが、たとえば「帝紀」の記載の不明部分をただそうとしてかえって混乱してしまうような場合もあったかもしれません。『古事記』『日本書紀』『上宮聖徳法王帝説』などを見比べただけでもそんな印象を覚えます。資料が集まったなら集まったで、その間の整合性をとるのが大仕事となった。最初は神代巻のように「一書曰」といった体裁で異伝を列挙していこうとでも計画していたのでしょうか。
しかしきっとそんなことは不可能だったでしょうし、また方針としても許されるはずはなかったでしょう。それはたとえば飯豊皇女や平群臣鮪のように、語られる時代のずれが清寧・顕宗・仁賢・武烈の間の複数代にまたがっているものについては、とくに『日本書紀』のような体裁(清寧・顕宗・仁賢で1巻、武烈で1巻。『古事記』は下巻)では「一書曰」といった形にはできなかったでしょうし、さらに垂仁紀の大后ヒバスヒメの所伝等に『日本書紀』の作為を認めるならば、意図的に改変したものに対して改変前のオリジナルを「一書曰」として紹介するというのは変な話です。
『古事記』序に「(前略)然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難。已因訓述者、詞不逮心。全以音連者、事趣更長(後略)」――上古の素朴な言葉を漢字に改めるのは難しい、訓で表せば語意が伝わらず、すべて字音で表記すれば冗長になってしまう――といった弁解が見えています。これは太安万侶が自身『古事記』を撰しての感慨でもあるでしょうが、また彼が純粋な漢文ともいうべき資料から万葉仮名表記に近い“倭文”とでもいうべき資料までさまざまな資料を比較検討したことを示しているのかもしれません(「倭文」といえば織物の種類か何かだったのかもしれませんが)。だから彼にとっては同時に和文表記を模索すること、創造していくことも課題だったのかもしれない。いっぽう『日本書紀』のほうは一応漢文ですが、森博達さんの『日本書紀の謎を解く』などに示されていますように誤用・奇用や「倭習」の強い漢文もあれば、尾張藩士の河村秀根・益根父子の『書紀集解』以来明らかにされてきたものということですが、漢籍からとってきた文も数多く認められるようですから、そういった文例を集めるのにも時間を要したのかもしれませんし、口承などの形で伝わってきた話にそういった漢文をあてはめるのにも時間がかかったのかもしれません。
さらに『日本書紀』の固有名詞の表記などは8年前に撰上された『古事記』と比較しても訓が多く用いられるようになっています。それは、仮に稲荷山鉄剣銘→天寿国繍帳銘→『上宮聖徳法王帝説』第1部末尾→『古事記』→『日本書紀』という流れを想定してみた場合にもはっきり見てとることができるように思います(これが正しいというつもりはありませんし、時間的な前後関係というよりはむしろ系譜的な前後関係で考えております)。しかし『古事記』と『日本書紀』とを比較した場合、『古事記』の表記を嫌ったのか『日本書紀』が単に訓表記を別の訓表記に変更しているといった例が多いように思われ、「日子」(毘子)→「彦」、「日売」(毘売)→「媛」「姫」などは機械的に直せることですから、そんなことにそれほど時間を費やしたとは思われない。
むしろ時間がかかった困難な作業と思われるものは、歴史自体を作っていくことではなかったでしょうか。もちろん欠史八代といった存在しないはずの時代に日付や干支をあてはめていく作業とか、中国や朝鮮の記録について干支を2運繰り上げて時代を引き伸ばす作業も歴史の捏造でしょうが、そんなことばかりでなく、漢籍の語や中国等の史書の体裁によっては記せない倭独特の状況について漢文で記すこと、漢籍の文を借りて表現できるように改めること、それ自体が「歴史自体を作っていくこと」に相当したのではないでしょうか。
たとえば大宝令より前には「評」の表記であったはずのコホリについて『日本書紀』孝徳紀の大化改新詔が「郡」と表記していることは大宝以後の知識による潤色、捏造といえるものと思われますが、もしもタイムマシンなどで当時の『日本書紀』の執筆者に問いただすことができたとしたら、「おなじコホリという実体について朝鮮諸国系の表記『評』から中国的な表記『郡』に改めただけのこと。ほとんど漢字表記を変更しただけのことであって、実体が大きくかわったわけでもないし、まして捏造などという意識はまったくない」といった答えが返ってくるかもしれません。では「郡司」「郡大領」と「評督」についてはと問い直せば……いや、「歴史に『もしも』はない」という以前に、タイムマシンといったことはあり得ません。しかしながら、もしも本来次期皇位継承予定者といった意味を伴わなかった「○○○○」といった語を「皇太子」「東宮」といった語におきかえてしまったとすれば、それはもう歴史の捏造と見なすこともできるように思うのです。
そして『古事記』が推古段で終わっていることの理由は、舒明以降は書けなかったからではないでしょうか。何を当たり前のわけのわからぬことを言っているのかとお思いでしょうが、『古事記』の筆者にとってはむしろ舒明以降こそ、どのように叙述したらよいのかというその能力もなかったし、また叙述を許されたことでもなかった。推古までは「治天下」の存在として誰を歴代と数えるのかといったコンセンサスが一応できていたけれど、舒明以降については、たとえば皇極の代と斉明の代をどう扱ったらいいのかとか、また仮に「仲天皇」「中皇命」を間人と見て天智の称制期に重ねるなら、その「仲天皇」「中皇命」といった存在を代として数えてよいのか……そういったことはまだ決まっていなかったのではないでしょうか。そして太安万侶が『古事記』の執筆を終えるころ『日本書紀』が並行して進められていたのか予定・計画の段階だったのかは存じませんが、舒明以降の歴史をどう叙述するかは『日本書紀』の編集側に握られていたといったことがあったのではないでしょうか。
妄想ばかりが先走りしていますが、そんな『古事記』は『日本書紀』と違って代ごとに巻で分けたり題を立てたりすることはないもののようです。だから下巻で扱うのは仁徳から推古までの18代なのに、真福寺本の下巻の題の下には「起大雀皇帝尽豊御食炊屋比売命、凡十九天皇」と小字2行の注が見えており、どうやら清寧段に見える「忍海郎女、亦名飯豊王」を歴代と数えているもののようです。これが案外実態に近かったのではないでしょうか。「○○の代」とはっきり線引きすることができず、「現状では○○の補佐を受けて○○が『治天下』にある」といったルーズな状態も存在していたのではないでしょうか。
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