7. 大后の時 − 7
このあたりからは、私の妄想にお付き合い願えない方ではそもそも脳が受け付けないのではないかと思われます。前からそうかもしれません。まことに申し訳ありませんでした。
敏達4年までの「皇太后」石姫に中国的な意味での「称制」を想定して「この敏達4年というタイミングに敏達の年齢か皇太后石姫の存在かのどちらか、あるいはそのどちらも見たく思う」などという言い方をしてしまいましたが、ならばその敏達4年というタイミングを敏達が真に即位可能な年齢に達したものと見るのか、それとも石姫の死没という形で想定するのか。何の証拠もないことなのでどちらとも申せません。先にも申しましたように敏達4年に38歳という敏達の年齢は『皇代記』『本朝皇胤紹運録』のいう享年48から導いたことであり、どの程度信頼できるかはわかりません。いっぽう石姫の死没の記載もないですから、どちらとも考えようはないのです。
ただ舒明についても皇極立后が舒明2年正月戊寅(12日)と即位から丸1年離れており、舒明即位時に天智が数え年4歳ですから、それ以前から皇極とは配偶関係にあったはず。やはり『一代要記』『本朝皇胤紹運録』等に見えるという舒明の享年49から逆算して舒明元年に37歳、2年に38歳といった線は気になるところです。もし広姫立后の敏達4年に敏達38歳と見ることができるなら、あるいは石姫が引退し、広姫に「大后」位を譲ったなどといった形で見ることもできるのかもしれません。石姫の死没によるものだったとすればそういうことは考える必要がなくなります。また「大后」を令制の皇后とほぼ同じものと見るお立場なら、終身かどうかなどは最初から問題とならないでしょう。広姫立后が敏達4年にずれ込んだことについても、広姫を押す側と推古を押す側の対立があったためといった形ででも見ることになるのかもしれません。敏達4年までを「皇太后」石姫による「称制」などと想定するのは「そう見たい、考えたい」という身勝手な希望のようなものであって、むしろまったくの空論に近いような気もします。山尾さんの『日本国家の形成』では大后を終身と見ておられたわけですが、そこでは大后は広姫に始まったことになっていますから、このような問題は発生しません。
仮に手白香あたりを最初の大后と見た場合、春日山田もまた大后だった可能性が生じるかもしれません。欽明即位前紀、宣化没後に欽明が「余、幼年浅識、未閑政事」と自身の若年を理由に春日山田の即位を要請し、春日山田が謝絶する。その後宣化4年12月甲申(5日)に「時年若干」の欽明が即位して「尊皇后曰皇太后」と見えています。先にも触れましたが、欽明32年4月是月の没した記事でも「時年若干」で、年齢はわからないとしています。わからなければ略してしまえばいい。そもそも継体紀・推古紀を除き他の紀では即位時の年齢などほとんど記さないのに、こと欽明紀に限ってわざわざ即位の記事に「時年若干」を入れています。逆に考えれば、欽明の発言にも見えるように、この即位について年齢を問題視する意識が存在していたことを示しているもののようにも思われます。
明けて欽明元年正月甲子(15日)に「有司請立皇后」を受けて石姫が皇后に立っています。ここもまた「大后」としての位置付けが問題になるところですが、まだこの時期「大后」が存在しなかったものと見た場合には問題は生じませんし、また「大后」を令制の皇后と同じようなものと見た場合にも問題はなくて、ほぼ『日本書紀』の記述に沿った線で理解すればいいもののように思われます。「皇太后」などはオホキサキでなくオホミオヤなどと読み替えるか、それとも「尊皇后曰皇太后」自体を中国史書あたりにならった文飾と見ることになるのでしょう。
宣化が没したのは宣化紀に「四年春二月乙酉朔甲午、天皇崩于檜隈廬入野宮。時年七十三」と見えていますが、いっぽう欽明即位前紀には「四年冬十月、武小広国押盾天皇崩」となっており、年は合っていますが月は違っています。『日本書紀』の編修も粗雑な印象の部分がありますが、『古事記』宣化段には宣化の崩年もなければ陵墓の記載もありません。もともと確実な記録などはなかったのではないでしょうか。実際には宣化と欽明とで対立していた両朝が宣化の死没を機に裏で合一交渉を進めていたなどというのなら、もっと注意深く記述されていてもいいのではないかという気もします。もしも春日山田を「大后」として見るのなら、宣化朝側では宣化の没した時点で春日山田が「大后」だった、欽明が大王に立つかわりに「大后」春日山田を受け入れるといった条件で交渉が進められた、しかし結局は春日山田が身を引く形で落着した、とでも解すればよいのでしょうか。
どうも結論の出ない話にとらわれてしまったようですが、推古の初の女帝としての即位が結果的に押坂彦人大兄や廐戸の即位の機会を奪ってしまった問題から考え始めてこんなことになってしまっております。推古や皇極が即位していたのか、「前大后」だったのか「大后」のままだったのか、「大后」がいつから始まったのか、終身だったのか……などと考えずに『日本書紀』の述べるところをそのまま信用すればいいのかもしれませんが。
竹田がいつ没したのかはわかりませんが、竹田没後は王位を彦人大兄の系統に伝えるか廐戸の系統に伝えるかの二者択一の状況だったように思われます。そして先ほど『本朝皇胤紹運録』の伝える皇極の享年などから彦人大兄の誕生の目安を557年と見、推古元年(≒593年)に彦人大兄が数え年37歳程度と見て「穏やかでない」などと申しました。推古元年ころには彦人大兄もまた即位してもおかしくない年齢に達していた可能性があると思われますので、そういう意味で申し上げたものです。この計算でいけば彦人大兄は推古2年に数え年38歳。先に敏達の広姫立后を敏達38歳の折の敏達4年、舒明の皇極立后も舒明38歳の折の舒明2年と想定しております。また『本朝皇胤紹運録』等の記載を信じれば享年49の舒明は推古元年の誕生、享年68の皇極は翌推古2年の誕生となりますから、彦人大兄が「若翁」などと呼ばれることがあったかどうかは存じませんが、推古2年には彦人大兄は「おじいさん」になっていたといったことにもなりそうです。もっとも皇極の享年については『帝王編年記』の61を採って誕生を推古9年(≒601年)と見たほうが無理がないようにも思うのですが、これは個人的な意見です。
丁未の役の記述ののち『日本書紀』に彦人大兄の名が見えなくなることから、彦人大兄はこのころ没したのではないかとされるご見解もあるようにうかがっておりますが、これについては薗田香融さんの「皇祖大兄御名入部について」の中に示されたご見解に従わせていただきたく思います。そこではまず『本朝皇胤紹運録』『一代要記』等に記された舒明の享年49歳を生母糠手姫や長子中大兄の年齢から見て妥当なものとされたうえで、そこから逆算して舒明の生年は推古元年となるから、少なくともそのころまでは彦人皇子は生存していたはずと見ておられます。さらに『古事記』敏達段の日子人太子の系譜の記載に、糠手姫所生の子として舒明のほか中津王と多良王の名が見え、彼らは舒明の弟か妹と考えられるから、彦人皇子は推古朝の中ごろまで在世していたかもしれない、とされています。
こういったタイミングでの推古の即位はたしかに彦人大兄の即位を阻止するためのものだったようにも見えます。加えて、『日本書紀』によれば推古元年4月己卯(10日)に廐戸が「皇太子」とされているらしい――もとよりこの時期の「皇太子」をそのまま認めるつもりはありませんが――ことも、これを裏付ける、補強するもののようにも見えます。
廐戸の「皇太子」については『日本書紀』推古元年4月己卯(10日)に「夏四月庚午朔己卯、立廐戸豊聡耳皇子、為皇太子。仍録摂政。以万機悉委焉」などと見えており、続けて生母である「皇后」穴穂部間人が出産というその日に「巡行禁中、監察諸司」していたら「馬官」に至り「廐」(馬屋)の戸に当たって難なく出産したとか、生まれながらにしゃべったとか、一度に10人の言うことを聞いて間違えずに聞き分けたとか、未来を予知したとかの超人伝説が『日本書紀』で語られています。そして「且習内教於高麗僧慧慈、学外典於博士覚煤B並悉達矣」、仏教を慧慈に、儒教を覚狽ノ習ってみな理解したなどとしたのち、父の用明が愛して宮の南の「上殿」に住まわせた、そこでその名をたたえて「上宮廐戸豊聡耳太子」という……などと見えていますが、もとよりこの「皇太子」がどこまで信頼できるかはわからず、近年では否定的なご見解が支配的なようにも拝察します。法隆寺金堂釈迦三尊像台座の下座下框から見つかった墨書に「辛巳年」などのほか「尻官三段」などと読める文字も見られるのだそうで(奈良国立博物館の2004年春季特別展「法隆寺」図録によりました)、その当時の「馬官」といったものの存在もリアルにとらえられるようになったのかもしれませんが、先に吉村さんの『聖徳太子』から引かせていただいた廐戸の生年の572・573・574年のころは敏達1・2・3年にあたりますから、穴穂部間人はもちろん「皇后」でもなければ「巡行禁中、監察諸司」といったことをする立場にもなかったでしょう。「一度に10人の ……」云々は「豊聡耳」の名を「豊・十・耳」といった意に解して生まれた説話かもしれませんが、『上宮聖徳法王帝説』では「至長大之時一時聞八人之白言而辨其理又聞一智八故号曰廐戸豊聡八耳命」と、8人聞き分けたから、1を聞いて8を知ったからなどとして「廐戸豊聡八耳命」説を伝えています。「トヨトミミ」についてはあるいは実名の可能性もあるのではと考えておりますことを先に申しましたが、「豊聡八耳命」といった訛伝も、あるいは「トヨトミミ」といった称が「神八井耳命」など伝説的な古い称を連想させるものだったからではないかと推測させます。
なお『古事記』用明段には「間人穴太部王」所生の長男として「上宮之廐戸豊聡耳命」という名だけが挙がっており、エピソードはいっさい見えません。単なる「廐戸王」的な称も見えず、この表記で1カ所登場するだけです。むしろ説話的なものもなしに「上宮之廐戸豊聡耳命」表記のみで示していることは、あたかも「ご存じの……」といった含みでもあるかのような印象を受けます。ちなみに『上宮聖徳法王帝説』第2部の冒頭も「小治田宮御宇天皇之世、上宮廐戸豊聡耳命、嶋大臣共輔天下政而興隆三宝、起元興天四皇等寺制爵十二級(後略)」などと始まっていて「上宮廐戸豊聡耳命」と見えていますし、また『日本書紀』推古元年4月己卯の「上宮廐戸豊聡耳太子」はこれとほとんど同じ表記であって、「命」が「太子」とかわっているだけのものです。
荒木敏夫さんは『日本古代の皇太子』で、浄御原令において皇太子が成立したと見ておられます。それ以前の「皇太子」については否定されており、かわりに制度として確立する以前の皇太子的存在については「ヒツギノミコ」と規定して「皇太子」と区別されるご見解かと思われるのですが、その中の「ヒツギノミコと皇太子」の「皇太子制の成立」において『古事記』に見える10例の「太子」の用例を比較・検討するなどされたうえで、「太子」が「皇太子」を意味する場合と、単に「長子」を意味する場合とがあったとされています。このことは先にも触れさせていただいておりますが、その中に「(前略)加えて、『古事記』が(7)大江伊邪本和気命と記すのを『書紀』が大兄去来穂別尊と書き、また、(9)日子人太子と記すのを、彦人大兄と書くのをみると、太子=大兄=長子という等式を想定するのが可能なはずである」(なお2カ所の「大兄」に傍点ルビ)といった記述も見えています。『古事記』敏達段に見える「日子人太子」の「太子」が「大兄」を書き改めたものではないかとされるご見解はたとえば薗田香融さんの「皇祖大兄御名入部について」にも見えているのですが、そこでは「大兄」を皇位継承資格者という形で見ておられますし、また皇太子を廐戸に始まるとしておられるものです。ともかく、『日本古代の皇太子』からここだけを取り出して引用させていただくのも気が引けますが、このお考えからすれば、たとえば『日本書紀』用明2年4月丙午(2日)にまとめて語られる中の「中臣勝海連、於家集衆、随助大連。遂作太子彦人皇子像与竹田皇子像厭之。俄而知事難済、帰附彦人皇子於水派宮。〈水派、此云美麻多。〉」、中臣勝海が彦人と竹田の像を作り呪ったとする記事に見える「太子彦人皇子」についても「太子」を「大兄」の言い換えと見ることも可能でしょう。そしてこういったこともどなたか言及しておられるのを拝見したように記憶しておりますが、何の本だったか思い出せません。
またこの引用部分の少しあとでは例の法隆寺薬師像銘に見える「太子」「東宮」の語についても問題とされ、早く戦前に福山敏男さんが造像年に疑問を呈されたことや「天皇」号の使用等を挙げて、この銘文について否定的に見ておられます。しかし先にこの「太子」を上宮太子、聖徳太子のような通称といった形で見ておられる小林さんの「『書紀』皇太子記事の検討」でのご見解を引かせていただいております。『日本古代の皇太子』では単に長男の意味だけの「太子」の例を多く挙げておられますが、この「太子」についても用明と穴穂部間人の長男という形で見、「東宮聖王」についても、推古朝に何らかの地位にあったことを「東宮」といった令制的な語で表したものと見ることもできるように思うのです。そんな文献で証明のしようもないことを申してもしかたがないのですが、屁理屈ながら像銘は「丁卯年に銘文も撰し鐫刻した」と言ってはおらず「歳次丁卯年仕奉」と言っているだけですから、そう伝わっていた内容を7世紀末あたりに文章化して彫りつけたものという可能性も考えられるでしょう。
用明紀の「太子彦人皇子」については用明の代における皇太子の意味を否定して「大兄」の言い換えと見、年代の怪しい薬師像銘については時間的経過に伴う「太子」から「東宮聖王」への変化を見るというのでは矛盾しているかもしれませんが、薬師像銘はたかだか漢字90字ちょうどの文章です。ひとりが一度に書いた文章でしょう。『日本書紀』のほうは長い文章の中に彦人大兄のことが散発的に見えているものですし、『日本書紀』の中には表記の統一がなされていない(やろうとする意図はあったかもしれないができなかったらしい)例は多数認められるように思われます。おそらく最終的なチェックが間に合わず、表記を統一することができなかったのでしょう。廐戸についてもそれが認められるように思います。推古元年4月己卯では「夏四月庚午朔己卯、立廐戸豊聡耳皇子、為皇太子。仍録摂政。以万機悉委焉」と見えてから、その文末では「故称其名、謂上宮廐戸豊聡耳太子」と、皇太子とされたことで「皇子」を「太子」にかえ、しかも「上宮廐戸豊聡耳太子」を「称其名」、たたえ名だとしているわけですが、それ以降は推古紀での廐戸は基本的に「皇太子」表記のようで、推古29年2月癸巳(5日)の没した記事では「廐戸豊聡耳皇子命」、ミコノミコトでした。『日本書紀』は巻1神代上の冒頭で「至貴曰尊。自余曰命。並訓美挙等也」としているのですから、ここも「廐戸豊聡耳尊」などでもよさそうに思うのですが、なぜか廐戸については「尊」表記の印象があまりなく、意外なことに舒明即位前紀冒頭すぐに見える「豊御食炊屋姫天皇廿九年、皇太子豊聡耳尊薨。而未立皇太子」の「皇太子豊聡耳尊」くらいしか見当たりません。そしてこの表記はむしろ天寿国繍帳銘の「等已刀弥弥乃弥己等」を想起させるもののようにも感じます。
また推古29年2月癸巳の「廐戸豊聡耳皇子命」、ミコノミコトというのもギクシャクした印象ですが、実はミコノミコトは天武紀下や『続日本紀』には散見されるようで、思い当たりますのは天武の子の草壁皇子と高市皇子です。天武紀上ではそれぞれ「草壁皇子」「高市皇子」のみの表記の印象ですが、天武紀下の2年2月癸未(27日)の即位の記事には「(前略)立正妃為皇后。々生草壁皇子尊」と「(前略)次納胸形君徳善女尼子娘、生高市皇子命」とあって、どちらも「ミコノミコト」とされているようです(「皇子命」「皇子尊」に付された「みこのみこと」の読みを信じればの話ですが)。
「尊」「命」の書き分けについては先に聖武立太子が契機となった可能性を見ておられます直木孝次郎さんの「磐之媛皇后と光明皇后」の「二 万葉集巻二の成立年代」でのご見解を引かせていただいています。直木さんが問題としておられますのは『続日本紀』の草壁の「日並知皇子命」から「日並知皇子尊」への変化などですが、なお個人的に思い当たりますのは、履中即位前紀に「太子、諒闇(みものおもひ)より出でまして、未だ尊位(たかみくら)に即きたまはざる間に、羽田矢代宿禰が女黒媛を以て妃とせむと欲す」(「太子自諒闇出之、未即尊位之間、以羽田矢代宿禰之女黒媛欲為妃」)という一文が見えます。ここは「皇位というものは尊い位だから」と「尊位」という語を用いて表しただけのようにも見えますが、「−尊」と付くのは実質天皇位とかわらない、と言っているようにも見えます。そうなると景行紀の「日本武尊」と『常陸国風土記』の「倭武天皇」、神功紀の「気長足姫尊」と『常陸国風土記』茨城郡の「息長帯比売天皇」などの関係も気になるところですが、気になるだけで何とも申せませんし、草壁のみならず高市の「後皇子尊」(のちのみこのみこと、持統10年7月庚戌=10日)や『万葉集』の「高市皇子尊」などとも矛盾してしまいます。とりあえずは関係のないことでした。
もっとも天武紀上・持統紀・『続日本紀』では草壁・高市とも表記は一貫していない印象です。既に直木さんが「磐之媛皇后と光明皇后」でまとめておられることですが、きちんと確認できておらず恐縮です。草壁については天武2年2月癸未に「草壁皇子尊」と見えて以降立太子までは基本的に「草壁皇子尊」表記の印象ながら、たとえば天武9年11月丁亥(16日)では「丁亥、月蝕。遣草壁皇子、訊恵妙僧之病。明日、恵妙僧終。仍遣三皇子而弔之」で「草壁皇子」のみです(「三皇子」は古典文学大系の注に「未詳。草壁・大津・高市の三皇子か」)。そして10年2月甲子(25日)に立太子(「(前略)是日、立草壁皇子尊、為皇太子。因以令摂万機」)されたそののちもしばらくは「皇太子」とは見えないようで、同年10月乙酉(20日)では新羅使の朝貢の記事に「(前略)別献天皇・々后・太子、金銀霞錦、幡皮之類、各有数」で単に「太子」ですし、11年7月庚子(9日、「庚子、小錦中膳臣摩漏病。遣草壁皇子尊・高市皇子、而訊病」)や14年正月戊申(2日、「(前略)是日、草壁皇子尊授浄広壱位(後略)」)でも「草壁皇子尊」で、ようやく14年9月壬子(9日)に「九月甲辰朔壬子、天皇宴于旧宮安殿之庭。是日、皇太子以下、至于忍壁皇子、賜布各有差」とあって以降は「皇太子」表記に一本化されるような印象があります。そして持統称制前紀は「天命開別天皇元年、生草壁皇子尊於大津宮」です。以後持統紀では元年正月丙寅朔(1日)・庚午(5日)・5月乙酉(22日)・2年正月庚申朔(1日)に判で押したように「皇太子率公卿百寮人等、適殯宮而慟哭焉」と見え、また元年10月壬子(22日)には「皇太子率公卿百寮人等并諸国司国造及百姓男女、始築大内陵」、2年11月戊午(4日)には「皇太子率公卿百寮人等与諸蕃賓客、適殯宮而慟哭焉」と見えたのち、3年4月乙未(13日)に没したことが見えます(「乙未、皇太子草壁皇子尊薨」)。翌4年7月己丑(14日)では「(前略)別為皇太子、奉施於三寺安居沙門、三百廿九」で「皇太子」となっています。そして『続日本紀』でもやはりよく確認できていないのですが、文武・元明・元正前紀や天平元年(改元は8月癸亥=5日)2月甲戌(13日)で「日並知皇子尊」なのに対し、慶雲4年4月庚辰(13日)・天平宝字2年8月戊申(9日)などには「日並知皇子命」の表記が見られるようです。『続日本紀』で「草壁皇子」「草壁皇子尊」といった表記の例があるかどうか存じませんが、どうも印象がありません。『万葉集』巻2の110の題詞、169の題詞では「日並皇子尊」のようです。対し『日本書紀』には「日並知皇子命」「日並知皇子尊」といった表記はないらしいです。
対する高市皇子は天武2年2月癸未に「高市皇子命」と見えて以降は、これもきちんと確認しておらず恐縮ながら、天武紀下では一貫して「高市皇子」のみの表記であるような印象があります。持統紀では4年7月庚辰(5日)の太政大臣とされた記事(「庚辰、以皇子高市、為太政大臣。以正広参、授丹比嶋真人、為右大臣。并八省百寮、皆遷任焉」)が初出ではないかと思うのですが、同年10月壬申(29日)では「壬申、高市皇子観藤原宮地。公卿百寮従焉」で「高市皇子」、その後はずっと「皇子高市」(5年正月乙酉・6年正月庚午・7年正月壬辰など)の印象です。「皇子高市」などといった表記は異様かもしれませんが、実は持統紀では「皇子大津」「皇子施基」「皇子川嶋」などが通例で、「高市皇子」はむしろ例外的な表記のようなのです。そして10年7月庚戌(10日)に「庚戌、後皇子尊薨」。没した記事で唐突に「後皇子尊」となっていて、しかもそれが高市を指すものであるとの説明もありません。ともかく天武2年2月癸未では「高市皇子命」と「命」なのに、持統10年7月庚戌では「尊」表記です。『万葉集』巻2で見てみますと、156・157・158の3首の題詞では「十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首」、また199の長歌の題詞では「高市皇子尊城上殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌一首〈并短哥〉」といずれも題詞には「高市皇子尊」とありますが、その199の反歌である200・201のあとの202「或書反歌一首」の左注には「(前略)案日本紀云、十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後皇子尊薨」と『日本書紀』の「後皇子尊」が引かれており、また同じ巻2の167の長歌の反歌である169の歌の左注にも「或本、以件歌為後皇子尊殯宮之時歌反也」(ある本ではこの歌を後皇子尊の殯宮のときの反歌としている)と見えています。その167の長歌というのは人麻呂が草壁の殯宮で作ったとされるものですが、その中にも「わご王(おほきみ) 皇子之命(みこのみこと)の
天の下 知らしめしせば」(「吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者」)などといった言い回しが見えており、あるいは「ミコノミコト」といった言い回しは「誄」、シノビゴトなどと関連した印象を持たれていたのではないかとも疑います。なお『続日本紀』についてはまったく確認していないのですが、たまたま目に入りました天平元年(改元は8月癸亥=5日)2月甲戌(13日)の長屋王・吉備内親王を「生馬山」(生駒山)に埋葬する記事では「高市親王」でした。
ともかく、草壁については『日本書紀』は「草壁皇子」から「草壁皇子尊」、さらに「皇太子」と表記しているわけですが、『続日本紀』に見える「日並知皇子命」「日並知皇子尊」は用いていません。対し『続日本紀』には「草壁皇子(尊)」が見当たらないように思います。そして『万葉集』巻2は「日並皇子尊」としてやはり「草壁皇子(尊)」を用いない。いっぽう高市については『日本書紀』は天武紀下の冒頭で「高市皇子命」としながらその後は「高市皇子」で、持統紀では基本的に「皇子高市」としながら末尾近くの10年7月庚戌の没した記事で「後皇子尊」としています。そして『万葉集』巻2は題詞に「高市皇子尊」と、そして左注には「後皇子尊」と見えていました。常識的に考えれば「草壁皇子尊」と「高市皇子命」(「高市皇子尊」)は単に名前(通称か)にミコトを付けただけといったグループ、「日並知皇子尊」(「日並知皇子命」)と「後皇子尊」とがそうでない特殊な称号らしきグループとでもなるのでしょうが、『万葉集』の題詞のことを考えますとそう単純なことでもないようです。
こういう混乱した状況をどう解釈してよいのかわからないのですが、ひとつ言えそうなことは、『日本書紀』『続日本紀』の著者・編者は「尊」と「命」の使い分けがわかっていなかったのではないでしょうか。いや『続日本紀』に関しては直木さんのように和銅7年の聖武立太子を契機と考え、それ以前の「命」については古い表記を残したものと考えるにしても、『日本書紀』の天武2年2月癸未の「高市皇子命」と持統10年7月庚戌の「後皇子尊」とについては矛盾といえるでしょうから、誰が「至貴曰尊」で誰が「自余曰命」なのか実はわかっていなかった。これでは『常陸国風土記』の「倭武天皇」「息長帯比売天皇」や『播磨国風土記』の「宇治天皇」「市辺天皇(命)」を笑うことはできません。誰も笑ってはいないのですが、『日本書紀』『続日本紀』の著者・編者も「誰が『至貴曰尊、自余曰命』などと言い出したのか……」と舌打ちしていたのではないかなどと空想するのです。
ミコトを「尊」と表記したい気持ちには理解できる部分もあります。おそらく中国の読者の目を意識したのでしょう。『宋史』日本伝では『王年代紀』からの引用部分に記紀と似た歴代の神名が列挙されているのですが、「其年代紀所記云初主号天御中主次曰天村雲尊其後皆以尊為号(中略)次彦瀲尊凡二十三世並都於筑紫日向宮」などとあって、「天村雲尊」から「彦瀲尊」まで23世が「○○尊」の形で記載されています。もとより列挙されている神名には記紀とは異なるものも多いのですが、『宋史』側ではこれら「○○尊」を人名と解していたようにも見えます。これが『新唐書』日本伝では「其王姓阿毎氏自言初主号天御中主至彦瀲凡三十二世皆以尊為号居筑紫城」という奇妙なことになっています。
「命」を「尊」に改めた発想の裏には「中国人から見れば『命』では尊称・敬称とはならないから」といった意識が働いていたようにも思うのです。しかしながら『日本書紀』には漢文としておかしな文や、漢籍からとってきたままのような文も多いもののようですし、歌謡を字音で表記したものなども中国人にとっては意味をなしません。これを直接中国で見せても笑われるだけ、などといったことは一定の層には了解されていたのではないでしょうか。それに、どうせ改めるなら「命」を全部「尊」に改めてしまえばよかったはず。あるものは「尊」だ、ほかは「命」だなどというのは基準もわからず混乱を招くばかりで理解できません。実際に『日本書紀』の中で表記がそろっていません。
もしも「ミコト」の表記を「命」から「尊」に改めたことの裏に中国人に読まれることに対する配慮などが考えられるとすれば、逆に大陸からやってきた渡来系の記録者が倭の事情について記述する際には「ミコト」に対してはどのような表記を与えたのか。先に天寿国繍帳銘の「斯帰斯麻宮治天下天皇名阿米久尓意斯波留支比里尓波乃弥己等」表記や『古事記』の「大后比婆須比売命」「大后息長帯日売命」「大后石之日売命」といった表記の例を挙げましたが、固有名詞的な称のあとには肩書・地位呼称的なものは付けないで単に「ミコト」だけを付けるのが倭での本来の形だったようにも思われます。この「ミコト」に対し、渡来系の記録者たちが「王」「大王」「大后」といったものを当てた場合もあれば、そのまま「弥己等」「命」と記した場合もあったでしょうが、長子に対しては「太子」を当てるような場合もあったのでは。いっぽうで「オホエ」に対しては長子の意味と解して「太子」を当て、また単に「ミコト」をつけて呼ばれていた場合でも長子ならば「太子」と表現することもあった……。そんな過程を想像したく思うのです。推古元年4月己卯の「上宮廐戸豊聡耳太子」表記については、おそらく廐戸について「○○太子」の形で表記した記録が存在しており、その表記のことが『日本書紀』の著述者の意識にあって、たまたま廐戸立太子の記事だったので「上宮廐戸豊聡耳命」の「命」を「太子」と改めたといった経緯も考えられるのではないかなどと思っております。もっとも古典文学大系『日本書紀』ではこの「上宮廐戸豊聡耳太子」の「太子」に「ひつぎのみこ」の読みを付しておられるのですが、日本思想大系『聖徳太子集』の「上宮聖徳法王帝説」では薬師像銘の引用の「東宮聖王」に「ひつぎノみこひじりノおほきみ」の読みを付しておられます。もしも「聖王」の「王」を「おほきみ」とばかりでなく「みこ」などとも読んだ可能性があるとすれば……などとも考えます。
『古事記』には廐戸の名が「上宮之廐戸豊聡耳命」と見えているだけで、それ以外に何の説明もエピソードもないのですが、『日本書紀』推古紀でも廐戸を指す「皇太子」が主語となるような記事は必ずしも多くはない印象です。さらにまた即位しなかった廐戸の配偶者・所生子について『日本書紀』が基本的に記さないことも先に記しました。「山背大兄王」は推古紀末尾近くの推古36年3月壬子(6日)に初めて見えてから舒明即位前紀・皇極紀2年11月などに見え、また舒明即位前紀に「泊瀬王」(「泊瀬仲王」)が、皇極元年是歳条に「上宮大娘姫王」がそれぞれ見えていますが、こういった人々と廐戸との続柄・関係は『日本書紀』には記されないようで、おそらく『日本書紀』からではわからないのではないでしょうか。さらに彼らの生母である(と思われる)「刀自古郎女」「菩岐岐美郎女」などの名も『日本書紀』には見えません。これらの名やその続柄は、もちろん時代が下るものには引用などの形で記載されているのでしょうが、古いところでは『上宮聖徳法王帝説』や『上宮記』の逸文(『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引)などではじめて確認されるもののように思われます。『日本書紀』で確認される廐戸の続柄としては、父の用明や生母の穴穂部間人が見えるわけですから、父方の祖母が堅塩媛で母方の祖母が小姉君、祖父は父方も母方も欽明で、推古が叔母にあたるといったことなども当然判明するわけですが、配偶関係やその所生の子となると、実は推古の娘の菟道貝鮹皇女が配偶者だったことぐらいしかわからないのでは。そしてそれは廐戸の配偶関係として用明紀に記されるのではなく、菟道貝鮹皇女の配偶関係として敏達紀5年3月戊子(10日)の推古立后の記事に「(前略)其一曰菟道貝鮹皇女。〈更名、菟道磯津貝皇女也。〉是嫁於東宮聖徳(後略)」と記されているものです。この配偶関係には間に子は誕生しなかったようで、貝鮹の名は逆に『上宮聖徳法王帝説』や『上宮記』逸文には見えません。また『古事記』敏達段にも推古(「庶妹豊御食炊屋比売命」)所生の娘として「静貝王、亦名貝鮹王」と記されるだけでその配偶関係は記されませんから、古い資料で廐戸と貝鮹の配偶関係の見えるのは実は敏達5年3月戊子の「其一曰菟道貝鮹皇女〈(中略)〉是嫁於東宮聖徳」だけということになるように思われます。奇妙な残り方をしたものです。
奇妙な残り方といえば、『日本書紀』は即位しなかった人の配偶者や所生の子を記しませんから、押坂彦人大兄の配偶者やその所生子、廐戸の配偶やその所生子などは本来伝わらなくてもおかしくなかった。ところが彦人大兄の配偶者とその所生子はどういうわけか『古事記』敏達段に掲載されています。
御子、沼名倉太玉敷命、坐他田宮、治天下十四歳也。此天皇、娶庶妹豊御食炊屋比売命、生御子、静貝王、亦名貝鮹王。次、竹田王、亦名小貝王。次、小治田王。次、葛城王。次、宇毛理王。次、小張王。次、多米王。次、桜井玄王。〈八柱。〉又、娶伊勢大鹿首之女、小熊子郎女、生御子、布斗比売命。次、宝王、亦名糠代比売王。〈二柱。〉又、娶息長真手王之女、比呂比売命、生御子、忍坂日子人太子、亦名麻呂古王。次、坂騰王。次、宇遅王。〈三柱。〉又、娶春日中若子之女、老女子郎女、生御子、難波王。次、桑田王。次、春日王。次、大俣王。〈四柱。〉此天皇之御子等、并十七王之中、日子人太子、娶庶妹田村王、亦名糠代比売命、生御子、坐崗本宮治天下之天皇。次、中津王。次、多良王。〈三柱。〉又、娶漢王之妹、大俣王、生御子、知奴王。次、妹桑田王。〈二柱。〉又、娶庶妹玄王、生御子、山代王。次、笠縫王。〈二柱。〉并七王。〈甲辰年四月六日崩。〉御陵在川内科長。
(日本思想大系『古事記』より、敏達段全文。〈 〉内は分注。返り点・送りがな・読みがなは省略)
さらに廐戸の配偶者とその所生子は『上宮聖徳法王帝説』や『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文に見えています。
伊波礼池邊雙欟宮治天下橘豊日天皇、娶庶妹□□□□(穴穂部間)人王為大后生兒、廐戸豊聡耳聖徳法王、
次久米王 次殖栗王 次茨田王
「又天皇娶蘇我伊奈米宿祢大臣女子、名伊志支那郎女生兒多米王、「又天皇、娶葛城当麻倉首名比里古女子、伊比古郎女生兒乎麻呂古王、次須加弖古女王、〈此王拝祭伊勢神前至于三天皇也〉合聖王兄□□(「弟七」カ)王子也、∴聖徳法王、娶膳部加多夫古臣女子、名菩岐ゝ美郎生兒舂米女王、次長谷王
次久波太女王 次波止利女王 次三枝王 次伊止志古王 次麻呂古王 次馬屋古女王〈已上八人〉
「又聖王、娶蘇我馬古叔尼大臣女子、名刀自古郎女生兒山代大兄王、〈此王有賢尊之心棄身命而愛人民也、後人与父聖王相濫非也、〉次財王 次日置王 次片岡女王〈已上四人〉
○又聖王、娶尾治王女子、位奈部橘王生兒白髪部王、次手□□□(嶋女王)合聖王兒十四王子也、○山代大兄王、娶庶妹舂米王生兒難波麻呂古王 次麻呂古王、次弓削王、次佐ゝ女王、次三嶋女王
次甲可王 次尾治王
「聖王庶兄多米王、其父池邊天皇崩後、娶聖王母穴太部間人王生兒佐冨女王也(後略)
(中田祝夫さん解説の『上宮聖徳法王帝説』所収の智恩院蔵原本の写真版、また日本思想大系『聖徳太子集』所収の「上宮聖徳法王帝説」によりましたが、もとより「蘇」「叔」「刀自」「髪」等の字体・「ゝ」「、」「∴」等の記号・体裁・破損部分等はこういう媒体では表現できません。読みがな・送りがな等もやむを得ず省略させていただきました。ルールにのっとらない不正確なものです。あくまで参考として掲げました)
なお『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文については系図の体裁ということもあり、また字体の関係等から不明な部分もありますので、『上宮聖徳法王帝説』に見られない独自の情報や差異もあるものの、引きませんでした。たとえば廐戸の同母弟の久米王が「他田宮治天下大王女子名由波利王」を「娶」り、その「生児」が「男王」「星河女王」「佐富王」の3人であったことなどは『上宮記』独自のものと思われますし、山背大兄(『上宮聖徳法王帝説』で「山代大兄王」、『上宮記』逸文で「山尻王」)と舂米女王の間の子を「難波麻呂古王」「麻呂古王」……でなく「難波王」「麻里古王」……と伝えるなどの違いが見えることも先に触れております。
『日本書紀』の伝えない彦人大兄の配偶者・所生子と廐戸の配偶者・所生子は奇遇にも『古事記』敏達段と『上宮聖徳法王帝説』や『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文などとに分かれて伝わったわけですが、両者を見比べるとその体裁がよく似ています。
日本思想大系『聖徳太子集』の「上宮聖徳法王帝説」の補注(「上宮聖徳法王帝説」という内題それ自体についての補注)で、家永三郎さんはこの『上宮聖徳法王帝説』が他書に引用される際に「帝説」でなく「帝記」と書かれていることを挙げておられ、また「原本の題には『帝記』とあった」とされる説のあったことを記しておられます。さらに解説においても「(前略)「上宮聖徳法王帝記」という内題が第一部のみの表題として付せられていたのであって、他の四部をふくむ今本全体の表題として書かれているわけではないという推論も可能であるけれど(後略)」といった形で触れておられるのですが、これについては「「上宮聖徳法王帝説」という書名の正確な説明は不可能(後略)」と慎重な立場をとっておられます。しかし踏み込んで考えるなら、たとい「帝記」とする本が誤写であったとしても、現在見る『上宮聖徳法王帝説』第1部の体裁が「帝紀」「帝記」の体裁だと意識されていたことを示すもののようにも思われます(なお『上宮聖徳法王帝説』の中にも法隆寺金堂釈迦三尊銘の引用の直後に「釈曰、法興元世一年此能不知也、但案帝記云、小治田天皇之世、東宮廐戸豊聡耳命大臣宗我馬子宿祢共平章而建立三宝始興大寺故曰法興元世也(後略)」といった形で「帝記」の語が見えるのですが、この記載は系譜・続柄を中心に記載する「帝紀」とは印象が違っています。古典文学大系『日本書紀』の解説にも「これらの帝紀は記紀の史料となった帝紀と同じものかどうか確かではない」とあります)。
またこうして見比べますと、『古事記』敏達段が敏達の配偶者・所生子に続けて彦人大兄の配偶者・所生子を書き加える体裁なのに対し、『上宮聖徳法王帝説』もなぜか用明の配偶者・所生子から始まっていて、敏達―彦人に対する用明―廐戸という組み合わせです。あるいは「帝紀」などとされるものは元来は1冊の成書として大王家に伝わったという性格のものというよりも、体裁こそパターンや決まりはあったものの、むしろ元来は主にこのような形で「諸家」に伝えられていたものだったのではないでしょうか。大王家にちゃんとした「帝紀」が伝わっていたのなら、天武が改めて「撰録帝紀、討竅旧辞、削偽定実、欲流後葉」などと言い出す必要はなかったのではないかと思うのです。
そして先にも触れましたように、この中で推古の娘、あるいは孫娘との配偶関係がはっきりわかる記述は『古事記』敏達段の「日子人太子」の「娶庶妹玄王」という記述しかありません。これはその前に推古所生の末の子として「桜井玄王」が見えており、ほかに「玄王」と付く王子・王女が見えないためにわかるのですが、それは『日本書紀』敏達紀や『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文の記述からすると「小墾田皇女」の誤りという可能性があります。ほかに『上宮聖徳法王帝説』のほうに見える「(尾治王女子)位奈部橘王」はおそらく推古の孫娘なのですが、この部分の記述のみからではそれがわからず、『上宮聖徳法王帝説』の第3部とされる部分に引用された天寿国繍帳銘(「蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃弥己等娶庶妹名等已弥居加斯支移比弥乃弥己等為大后坐乎沙多宮治天下生名尾治王」……「娶尾治大王之女名多至波奈大女郎為后」)によってはじめて「尾治王」が推古の子らしいと判明します。で、再三になりますが、これら「帝紀」などと認識されるような記載には子の誕生しなかった配偶関係は記録されなかったようで、推古の長女の「菟道貝鮹皇女」の名は見えません。ほかに推古の娘では「田眼皇女」が舒明と配偶関係をもったことが記されていますが、こちらにも子が誕生しなかったようで舒明紀の后妃・所生子の記載にはその名が見えません。
敏達紀では推古所生の子は次のように見えています。
五年春三月己卯朔戊子、有司請立皇后。詔立豊御食炊屋姫尊為皇后。是生二男五女。其一曰菟道貝鮹皇女。〈更名、菟道磯津貝皇女也。〉是嫁於東宮聖徳。其二曰竹田皇子。其三曰小墾田皇女。是嫁於彦人大兄皇子。其四曰鸕鷀守皇女。〈更名、軽守皇女。〉其五曰尾張皇子。其六曰田眼皇女。是嫁於息長足日広額天皇。其七曰桜井弓張皇女。
(古典文学大系『日本書紀』より、敏達5年3月戊子=10日。〈 〉内は分注。返り点・送りがな・読みがなは省略。なお鷀は偏が「滋」の旁、旁が「鳥」の〔茲鳥〕)

子のできなかったらしい娘の配偶関係も含めて、推古の娘の配偶関係は実は敏達紀の推古所生子の記載にまとめて記されています。
そして、こんな例はほかにあまりないのではないでしょうか。
『日本書紀』の他の紀では基本的に后妃所生の娘が誰と配偶関係にあったかなどは記さないのでは。これも先に引用しておりますが、舒明2年正月戊寅(12日)の皇極立后の記事には「二年春正月丁卯朔戊寅、立宝皇女為皇后。々生二男一女。一曰葛城皇子。〈近江大津宮御宇天皇。〉二曰間人皇女。三曰大海皇子。〈浄御原宮御宇天皇。〉(後略)」とあって、天智や天武が即位したことは記されますが、間人が孝徳皇后とされたことは記されません。また天智7年2月戊寅(23日)、倭姫王立后の記事に続く天智の后妃と所生子の記事では「(前略)有蘇我山田石川麻呂大臣女、曰遠智娘。〈或本云、美濃津子娘。〉生一男二女。其一曰大田皇女。其二曰鸕野皇女。及有天下、居于飛鳥浄御原宮。後移宮于藤原。其三曰建皇子(中略)次有遠智娘弟、曰姪娘。生御名部皇女与阿陪皇女。阿陪皇女、及有天下、居于藤原宮。後移都于乃楽。〈或本云、名姪娘曰桜井娘。〉(後略)」とありました。「鸕野皇女」持統が「有天下」に及んで飛鳥浄御原宮・藤原宮に居したとは記されていても、天武と配偶関係となったなどとは一言も見えません。それはその前の大田皇女についても同様です。「阿陪皇女」元明も「有天下」に及んで藤原宮から奈良に遷都したと見えるのみで、草壁と配偶関係になったことは見えません。
姉妹で同一人の配偶者となった例としては、ほかに宣化皇女の石姫姉妹が欽明と配偶関係をもった例も挙げられますが、やはり宣化紀には石姫・小石姫・倉稚綾姫と3人の皇女の名が挙がっているにもかかわらず、そこに欽明との配偶関係の言及は見られませんでした。もっとも欽明紀で欽明の配偶者として挙げられている宣化皇女は石姫・稚綾姫皇女・日影皇女であって、宣化紀の記述とは矛盾していたわけです。その欽明紀にも「豊御食炊屋姫尊は異母兄の敏達に嫁した」「泥部穴穂部皇女はは異母兄弟の用明に嫁した」などとは見えていません。石姫姉妹の生母の橘仲皇女は仁賢の娘であり、また手白香皇女の同母妹とされていますが、仁賢紀では「手白香皇女」にも「橘皇女」にもその配偶関係などは記されません。
敏達紀で推古所生の娘たちについてその配偶関係が示されることは、例外中の例外のようにも思われます。
子が誕生しなければ伝わるはずのなかったであろう推古所生の娘たちの配偶関係を敏達紀が特異的に伝えている。それはちょうど、推古の在位の間に押坂彦人大兄や廐戸ら欽明の孫の世代が没してしまったため、その間の系譜の穴をふさぐためにあえて配偶関係を記したかのような印象すら覚えます。しかし実際には推古の娘たちの配偶関係だけを記したところで系譜の穴は埋まらず、実は『古事記』敏達段の彦人大兄の配偶者やその所生子の記載、また『上宮聖徳法王帝説』等の廐戸の配偶者やその所生子の記載によってその穴が埋められている関係です。もちろんたとえば舒明生母の糠手姫皇女は敏達4年正月是月に「次采女伊勢大鹿首小熊女曰菟名子夫人。生太姫皇女〈更名、桜井皇女。〉与糠手姫皇女。〈更名、田村皇女。〉」と見えており、また舒明即位前紀にも「息長足日広額天皇、渟中倉太珠敷天皇孫、彦人大兄皇子之子也。母曰糠手姫皇女」と見えているわけですが、その敏達紀の糠手姫と舒明即位前紀の糠手姫がすんなりつながるためにはやはり『古事記』敏達段の「(前略)此天皇之御子等、并十七王之中、日子人太子、娶庶妹田村王、亦名糠代比売命、生御子、坐崗本宮治天下之天皇。次、中津王。次、多良王。〈三柱。〉(後略)」といった記載が必要となる。絶対に必要というわけではありませんが、参考にはなる、役に立つ記述です。しかも推古で記述を終えている『古事記』では彦人大兄―舒明という系譜は本来範囲外だったように思われるのですが、それでも敏達段に加えている。もっとも「帝紀」といったものが敏達―彦人とか用明―廐戸というふうに本来父―子とセットで記されるものだったとすれば、それを丸ごと掲載しただけのものということにでもなりそうですが、ともかく彦人の系譜まで収めています。のみならず『日本書紀』には廐戸の配偶者である「菩岐岐美郎女」「刀自古郎女」といった名は見えませんし、「山背大兄王」「泊瀬(仲)王」「上宮大娘姫王」らが廐戸とどういった続柄なのかもいっさい示されませんから、『上宮聖徳法王帝説』等がなければ彼らが廐戸と「刀自古郎女」「菩岐岐美郎女」らとの間の子であるとはわからなかったでしょう。さらに「帝紀」のような記録では子の誕生しなかった配偶関係が記載されないことを見越してか、『日本書紀』敏達段では通例を破る形で推古所生の娘たちの配偶関係まで示しています。敏達の娘としてはほかに広姫との間に逆登皇女・菟道磯津貝皇女が、春日臣仲君の女の老女子夫人との間に桑田皇女が、伊勢大鹿首小熊の娘の菟名子夫人との間に太姫皇女と糠手姫皇女がそれぞれ見えていますが、いずれもその配偶関係は示されません。もっとも「菟道皇女」については「七年春三月戊辰朔壬申、以菟道皇女、侍伊勢祠(後略)」ですし、糠手姫皇女が彦人大兄との間に舒明をもうけたことは『古事記』敏達段と舒明即位前紀とに見えてはいるのですが。
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