7. 大后の時 − 6
さて、いっこうに推古について考えることができません。
もともとは法隆寺金堂薬師像銘の「大王天皇」を「オホキスメラミコト」のように見えるなどとして、持統以下令制下の女帝の「太上天皇」と共通する性格が認められるかなどと考え始めたものでした。しかしながら、持統―元明―元正と続く「女帝」かつ「太上天皇」という流れには、天武―草壁―文武―聖武という直系で皇位をつないでいくための「中継ぎ」的な側面がたしかに認められるように思われるのに、推古にはそういった側面・性格が見られない。そもそも推古は敏達との間に7人か8人の子をもうけながら誰も即位していませんし、何らかの形で推古の血を引く子孫が即位したとか、その後の皇統(王統)に推古の血が受け継がれているといったことも確認できないでしょう。『古事記』敏達段の「日子人太子」と「(庶妹)玄王」(「桜井玄王」)との間の「山代王」「笠縫王」、また天寿国繍帳銘の「(尾治大王之女名)多至波奈大女郎」(おそらく『上宮聖徳法王帝説』の「(尾治王女子)位奈部橘王」)あたりまでが孫として確認できる程度なのでは。いや、これらを「確認できる」とするのも心もとなくて、推古の所生子については『古事記』が8人、『日本書紀』が7人とする以外に、その娘たちの配偶関係も異なっているようです。
『古事記』で推古の娘の配偶関係が判明するのは「日子人太子」の配偶者として記される前記「玄王」の例だけ。
対し『日本書紀』敏達紀では「菟道貝鮹皇女」が「東宮聖徳」廐戸と、「小墾田皇女」が「彦人大兄皇子」と、「田眼皇女」が「息長足日広額天皇」舒明と配偶関係を持ったと見えており、『古事記』の「桜井玄王」に相当するかと思われる末の娘の「桜井弓張皇女」には配偶関係が記されていません。しかし先ほど「治天下大王」表記について問題にした際に触れました『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文には「久米王」の配偶者の記載に「娶他田宮治天下大王女子名由波利王生児」とあって「男王」「星河女王」「佐富王」の3人が記載されているようですので、これを信じて「桜井玄王」=「桜井弓張皇女」=「由波利王」と考え、また世代等の順も考慮すれば、あるいは『古事記』の「庶妹玄王」のみが誤伝で、本来は「小治田王」とでもあるべきところだったのではないかなどと思われますが、何とも申せません。
なお廐戸の同母弟の「久米王」については『古事記』用明段・『上宮聖徳法王帝説』・『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文ともに「久米王」、『日本書紀』では用明元年正月壬子朔・推古10年2月己酉朔・4月戊申朔・11年2月丙子・4月壬申朔ともに「来目皇子」表記のようですが、推古10年(≒602年)2月に「撃新羅将軍」とされ4月に筑紫に到着したのち、翌推古11年(≒603年)2月4日にその筑紫で没しています(その折の推古の言葉には「征新羅大将軍」)。「由波利王」を「桜井弓張皇女」と見、また仮に敏達の末年、敏達15年(≒585年)の誕生と想定すると、推古11年に数え年19歳という勘定になりますが、来目皇子はその前年の旧暦3月ころ出発したことになりそうですから、現代の16歳とか17歳あたりまでに双子等を考えないで3人の子を授かることがあるか……。
もっとも、来目皇子没後の推古11年4月には来目皇子の「兄」(イロネと見えていても異母兄のはず)の当摩皇子(用明元年正月壬子朔の「麻呂子皇子」、『古事記』用明段に「当麻王」、『上宮聖徳法王帝説』に「乎麻呂古王」)が「征新羅将軍」とされていますが、7月に播磨の「赤石」(明石。兵庫県南部)で連れ立ってきた配偶者の「舎人姫王」が没したので、その舎人姫王を「赤石檜笠岡上」に埋葬したのち皇子自身は引き返し「遂不征討」となったと見えます。あるいは来目皇子も「由波利王」を筑紫に伴って行ったのかもしれません。
斉明紀・天智紀に見える百済の役では、斉明7年正月壬寅(丙寅の誤、6日)に「七年春正月丁酉朔丙寅、御船西征、始就于海路」とあってから2日後の甲辰(8日)に「甲辰、御船到于大伯海。時大田姫皇女、産女焉。仍名是女、曰大伯皇女」、岡山県のかつての邑久郡と小豆島の間あたりの海、その時代に牛窓などが港として存在したかどうか存じませんが、おそらくその付近で天智の娘の大田皇女に大伯皇女(大来皇女)が誕生したと見えており、その後7月丁巳(24日)には斉明が朝倉宮で没し、また持統称制前紀の「天命開別天皇元年、生草壁皇子尊於大津宮」からすれば翌天智元年(≒662年)には博多付近でおそらく数え年17歳の持統に長男草壁が誕生しているようです。さらに持統称制前紀朱鳥元年10月庚午(3日)には「庚午、賜死皇子大津於訳語田舎。時年廿四」と見え、『懐風藻』の大津皇子の伝記も同じ享年を伝えるようですが、朱鳥元年(≒686年)に享年24歳(数え年)とあることから逆算して大田皇女に大津が誕生したのはさらに翌天智2年(≒663年)、白村江で無残にも惨敗を喫したその年ということになります。ともかくそんな関係になります。
「久米王」が「由波利王」を「娶」ってもうけた「男王」「星河女王」「佐富王」の3人に話を戻しますと、実は「久米王」のおそらく異母兄の「多米王」が用明没後に庶母の「間人孔部王」をめとって「佐富女王」をもうけています。だとすれば「由波利王」所生の3人目として見える「佐富王」についてもまた、「多米王」の子の「佐富女王」が錯簡等により入ってしまったものである可能性も考えられるように思うのです。こんな恣意的な改変はよくないのでしょうが、世代も近い近親の間で同じ「佐富」というのもどうでしょうか。ちなみに『聖徳太子平氏伝雑勘文』の「久米王」の「娶他田宮治天下大王女子名由波利王生児」の記載の直前は、「長谷部王」(泊瀬王か)が「姨」の「佐富女王」をめとって生まれた子が「葛城王」「多智奴女王」の2人だとするほか「大伴奴加之古連女子名古弖古郎女」をめとって生まれた子が「波知乃古王」「錦代王」の2人だとするもののようですが、崇峻紀には「元年春三月、立大伴糠手連女小手子為妃。是生蜂子皇子与錦代皇女」と見えています。
中継ぎ的な印象のない推古ですが、高い権威、強い権力のイメージがあることは確かでしょう。用明紀に3度「炊屋姫皇后」、崇峻紀に2度「炊屋姫尊」として見えることも先に引いております。しかも崇峻紀の「炊屋姫尊」は馬子に奉じられて穴穂部・宅部誅殺の詔を出していますし、また崇峻に即位を勧める存在でもありました。こういった部分は淳仁を淡路島に流した称徳のイメージとも重なるように思われますし、また大津を死に至らしめた持統のことも想起されます。孝徳の位を有名無実化しその子の有間を死なせたのは天智が主体的に行ったことと見られているのでしょうが、見ようによっては斉明の権威のもとで行われたこととも受け取ることができそうです。
たとえば皇極の代というものを半年程度にぐっと縮め、舒明没後すぐに孝徳が即位し、のち孝徳没後に斉明が即位し天智が執政にあたったといった形で見れば、それは用明・崇峻の代を経て推古が即位し、その推古の下で廐戸が執政したとされるような状況に近くなるのではないでしょうか。天皇、というか「大王」として「即位」した用明・崇峻や孝徳についても、ある意味で上に推古や皇極があって、そのもとでの執政という側面があった。それでは乙巳の変というものの意味がなくなってしまいますが、ならば皇極の代にだれか男帝が立っていたというような状況を考えても……いや、歴史に「もしも」はないですし、ずっと斑鳩にいたのであろう山背大兄をそれにあてるつもりもありません。そういった事実はないでしょう。皇極は上宮王家討滅を感知しなかったのか黙認したのかはわかりませんが、ともあれこんな峻烈な部分で女帝に共通性が認められます。いっぽうで穴穂部間人は欽明紀のほか用明紀・推古紀にその名が見えますが、用明の配偶者または廐戸の生母として見えるのみであって、用明の殯のことなども見えません。天寿国繍帳銘にも「孔部間人公主」、訓読み表記の称に「公主」であって、「吉多斯比弥乃弥己等」「等已弥居加斯支移比弥乃弥己等」「乎阿尼乃弥己等」など字音表記の称に「ミコト」というのとは大きく異なります(もっとも『元興寺縁起』の「丈六光銘」には「而妹公主名止与弥挙奇斯岐移比弥天皇」と推古を「公主」とする記述が見えるようですが)。また実の弟2人をおそらく叔父によって殺されているということになるのでしょうが、それを傍観していたのか、せざるを得なかったのか……。推古と穴穂部間人の間に見られるこのような落差も疑問に思います。穴穂部間人の影の薄さは配偶者である用明のそれにもつながってくるように思うのです。
用明や崇峻のこういった側面は既に随所で指摘されているようで、拝見しました中でもたとえば河内祥輔さんの『古代政治史における天皇制の論理』には「用明に続いて、崇峻も竹田に繋ぐための中継ぎ役であったはずである」「傍系の天皇である用明は、本来、子孫に皇位を伝えることができないはずであった」といった記述が見えますし、また篠川賢さんの『飛鳥の朝廷と王統譜』にも河内さんのご見解を是とされて「用明天皇と崇峻天皇の即位は、いずれも王統の原理から外れた即位ということになるが、両大王は、竹田皇子ないし尾張皇子への「中継ぎ役」の大王とみてよいであろう」とされる記述が見えます。こういったご見解は、当時の継承原理を「兄弟継承」「世代内継承」などの形で見られるお立場とは対立するものということにもなるのでしょうか。
またこれと別に、小林さんの『古代女帝の時代』の「大后制の成立事情」「称制考」の中に、『日本史研究』148号の岸雅裕さんの「用明・崇峻期の政治過程」という論文に言及された記述があります。恐縮ながらこれも原典を拝読していなくて孫引きなのですが、敏達の5年8カ月の殯の期間に大后炊屋姫が天皇霊を奉斎し、その間用明・彦人大兄・崇峻が実質的な政務担当者として「臨時秉政」し、前大后と日嗣皇子との共治体制が現出した、などとされているもののようです。小林さんはこの岸さんのご見解について、大王霊の奉斎は証明できない、日嗣皇子は殯終了後に前皇后から天皇霊を付着させられて天皇となるとあるが殯終了以前の即位の例も多い、前大后と日嗣皇子との共治体制は前大后鸕野皇女と皇太子草壁皇子との共治体制と同じものとなろうが、では『紀』編者はなぜ用明・崇峻紀の前大后炊屋姫に「称制」の規定を適用しなかったのか――といった観点から否定的に見ておられます。しかし、殯期間の特殊な政治形態である共治体制という点には注目され評価されています。「殯」とか「天皇霊」の奉斎といったことになるとわからなくて、そうでなくても全体にわかっていないのですが、この岸さんのご見解も推古の下で用明・彦人大兄・崇峻が立って執政した共治体制と見るなら、あるいは中継ぎ説と近い状況を想定されているもののようにも思われます。しかし原典を拝読しておりませんので何とも申せません。
なお河内さんの「直系」「傍系」には説明が必要かもしれません。同書では6世紀型の皇位継承に関して「皇女」(即位した人の娘)を生母とする天皇を「子孫に皇位を継承させることのできる天皇」として「直系」と、氏(ウヂ)出身の女性を生母とする天皇を「その資格を持たない天皇」として「傍系」と位置付けておられ、その直系の天皇と氏女所生の皇女との異母兄妹婚によって誕生した天皇が直系とされる……というようなモデルを示しておられます。たとえば欽明と宣化「皇女」である石姫との間の子の敏達は「直系」、氏女である蘇我氏出身の堅塩媛との間の子の用明は「傍系」となります。推古も「傍系」ということになるのでしょうが、推古は「皇女」ですから、「直系」の敏達と「皇女」の推古との間に生まれた竹田は「直系」となる、という形です。
用明や崇峻を男帝の「中継ぎ」と見られる点には賛成させていただきたく思いますし、また竹田の直系に対し廐戸も押坂彦人大兄も傍系と見ておられる点にも基本的にはある程度賛意を示させていただきたく存じるのですが、河内さんの同書は「皇后」を認めておられないお立場ですし、恐縮ながらその他の部分でご見解とは考えの相違する部分も多々あります。
ともかく推古の権威は崇峻や、場合によっては兄の用明をもしのぐものがあったようにも感じられます。ならば用明や崇峻は「聖徳太子」こと廐戸の皇太子としての「摂政」などとされる状況と大差ないのではないかということになりそうですが、これと裏腹というべきか通じる部分があるというべきか、門脇さんの『「大化改新」論』ではこの時期の廐戸について事実上「大王」であったろうとされているようです。しかしながら、それを記しておられる部分ではむしろ『隋書』倭国伝の「利歌弥多弗利」を「田村皇子」舒明にあてるご見解のほうを主に述べておられるようで、用明や崇峻と廐戸の立場の比較などは見当たらないように思われます。またその記述の近くでは、推古の娘たちの配偶関係に触れたのち、舒明の年齢を『扶桑略記』『本朝皇胤紹運録』の記載から計算されて「廐戸皇子より一九歳の年下とはいえ、田村皇子は、廐戸皇子が死んだときにはすでに二九歳、大臣蘇我馬子が死んだときには三四歳に達していたのである」とも触れておられます。
門脇さんの関心の方向性とは異なってしまうかもしれませんが、これらの数値から逆算すれば舒明の誕生は推古元年(≒593年)となり、即位した舒明元年(≒629年)には数え年37歳。どういうわけか「宝皇女」皇極の立后は翌舒明2年、舒明38歳のときのこととなります。なお先ほど敏達誕生を538年、皇極の誕生を594年と見て敏達―彦人大兄―茅渟王―皇極の1代平均を18.67歳(満)と算出しましたが、これをあてはめれば舒明の父の押坂彦人大兄の誕生の目安は556.67年でほぼ557年となり、舒明の誕生した推古元年には押坂彦人大兄が数え年37歳程度だったかもしれないということになります。
個人的には、用明や推古の地位の関係についてもやはり年齢をからめて見たいところです。推古紀36年3月癸丑(7日)の「時年七十五」から逆算して推古元年に推古はちょうど数え年40歳。即位は前年の12月8日ですが、大きな違いではありません。
『日本霊異記』上巻第5に「皇后癸丑年春正月即位、小墾田宮卅六年御宇矣、元年夏四月庚午朔己卯、立廐戸皇子為皇太子」などと見えているのは、後半は推古紀の「夏四月庚午朔己卯、立廐戸聡耳皇子、為皇太子」とほぼ重なりますから『日本書紀』のようなものからとってきたのでしょうが、「癸丑年」は推古元年ですから、あるいは独自の所伝があったのでしょうか。押坂彦人大兄が推古元年に数え年37歳というのは穏やかでないように思えますが、これは『本朝皇胤紹運録』等の伝える皇極の享年68と敏達―彦人大兄―茅渟王―皇極という系譜から決まってくる数字で、7歳程度は下げることもできるかもしれません。ただし彦人大兄も茅渟王も数え年16歳程度で子をなしたと考えてのことになります。
用明については古典文学大系『日本書紀』に「崩年については神皇正統記等は四十一とし、皇年代略記等は六十九とする」とあり、もとより69では継体13年生まれとなりますから論外。『神皇正統記』の41歳によれば欽明8年(≒547年)生まれとなります。こちらの根拠も不明ながら、堅塩媛の子には用明と推古の間に磐隈皇女と臘嘴鳥皇子があったことを思えば、推古より7歳年上という数字は納得のいくものです。前年の用明元年に40歳、即位はさらにその前年の敏達14年9月とあって、数え年39歳での即位となる計算です。敏達の没したことを受けての即位ですから偶然のはずで、39歳というのは少々出来過ぎの観さえ覚える数値です。ですから逆算して割り出した数値の可能性も考えられるのかもしれませんが、妥当な印象のものでもあるのです。
用明誕生を欽明8年と見、仮にその際堅塩媛が数え年18歳だったとすれば、堅塩媛誕生は継体24年(≒530年)ごろということになります。継体3年か4年ごろの誕生と目される欽明とは親子ほどの年の差となってしまうかもしれませんが、蘇我稲目が欽明の没する前年の欽明31年(≒570年)に没していますから、欽明と稲目が世代的に近かったと見れば妥当な線です。また推古34年(≒626年)に没したことが見える蘇我馬子の享年を『扶桑略記』が76歳としていることから逆算すれば、馬子の誕生は欽明12年(≒551年)となって、やはり堅塩媛とは親子ほどの年の差の姉弟となるということは冒頭近くで申し上げております。こういった関係もあって、堅塩媛の誕生をあまり早い時期にもってくることはできないのです。この想定からすれば欽明の没した欽明32年(≒571年)に堅塩媛が42歳、皇太夫人堅塩媛の檜隈大陵への改葬が見える推古20年(≒612年)に仮に生きていたとして数え年83歳。その5年ほど前に78歳程度で没しているという見当はそんなに不自然でもないでしょう。
吉村武彦さんの『聖徳太子』によれば廐戸の生年には572年(『扶桑略記』『聖徳太子伝暦』)・573年(『本朝皇胤紹運録』)・574年(『上宮聖徳法王帝説』)の3説があるそうです。吉村さんは『上宮聖徳法王帝説』の574年(≒敏達3年、甲午)説を妥当としておられますが、父用明の生年を『神皇正統記』のいう547年と見るなら、それぞれ数え年26・27・28歳のときに誕生した子ということになります。少し遅い気もしますが、廐戸の異母兄の田目皇子と廐戸の生母の穴穂部間人が用明没後に配偶関係となっているらしい(『上宮聖徳法王帝説』・『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文)という点だけから考えるならば、田目と廐戸の年齢差はむしろ大きいほうが都合がいい、納得がいくことになります。そうなると用明と穴穂部間人も異母兄妹とはいえ年齢差を大きく見ることになる。穴穂部間人の弟の崇峻はさらに若かったことになり、即位したとされる用明2年8月にはとても40歳近いような年齢だったとはいえなくなります。ついでに「須売伊呂杼」穴穂部の年齢も下げて見ることになって、穴穂部より推古のほうがずっと年上だったといったことにもなりかねませんし、穴穂部は皇位をうかがっても年齢的に無理だったろうということになってしまいます。そうなると丁未の役とか崇峻殺害の意味も考え直さなければならなくなりそうですが、逆に穴穂部間人・穴穂部・崇峻姉弟の誕生を早めて見ると、今度は田目皇子が20歳ほども年上の穴穂部間人と配偶関係となったことになってしまいます。実はそのほうが全体的には矛盾が少なくなりますし、20歳年上でも構わないといえば構わないのですが。
またこれらの生年からすれば廐戸は推古元年にはそれぞれ数え年22・21・20歳となりますから、成年ではあったでしょうが即位できる年齢とは見なされていなかったでしょう。その推古元年に推古がちょうど数え年40歳ですから、用明・崇峻の2代は推古が即位せず、40歳の声を聞いて推古が即位したという部分には、やはり何らかの意味を認めたく思うのです。
なお廐戸の享年その他生年を直接示す記述は『日本書紀』には見えないのですが、間接的な手がかりらしきものはあるのです。崇峻即位前紀の用明2年7月に「是の時に、廐戸皇子、束髪於額(ひさごはな)して、〈古(いにしへ)の俗(ひと)、年少児(わらは)の年、十五六の間は、束髪於額す。十七八の間は、分けて角子(あげまき)にす。今またしかり。〉軍(いくさ)の後に随(したが)へり(後略)」(「是時、廐戸皇子、束髪於額、〈古俗、年少児年、十五六間、束髪於額。十七八間、分為角子。今亦然之。〉而随軍後」)とあって、古典文学大系の注には「景行紀にも「小碓命…当此之時其御髪結額也」とあり、古代結髪法の一つ。訓は髪の形が瓠(ひさご)の花に似ているためであろう。十五、六歳の少年の髪形」(返り点省略)と見えています。彫刻や図像の「聖徳太子○○像」等の中にこの「束髪於額」を表現したものはおそらくないのではないでしょうか。ですから髪形についてはわからないのですが、廐戸が「束髪於額」だったということは、数え年15歳か16歳だったと言っていることになります。丁未の役の用明2年が587年ですので、『扶桑略記』『聖徳太子伝暦』の572年誕生説か『本朝皇胤紹運録』の573年誕生説がこれに該当します。しかしながら崇峻紀でどうして廐戸の髪形などが話題となっているのかといえば、ここは廐戸が「白膠木」(ぬりで)の木で四天王像を作り「頂髪」(たきふさ)に置いて戦勝を祈願したと見える例の説話です。ですから「束髪於額」も「十五六間」を導くために作られたことかもしれませんし、また『扶桑略記』『聖徳太子伝暦』『本朝皇胤紹運録』等の年齢ももとは崇峻紀のこの記述から導かれた値なのかもしれません。
敏達と推古の間の長男の竹田皇子は587年の丁未の役には参戦していることが見えますが、その後見えないところからすれば、諸説おっしゃるように推古即位前後には没していた可能性が高いように思われます。河内さんの『古代政治史における天皇制の論理』では敏達と推古という異母兄妹の間に生まれた竹田を直系と位置付けておられ、またその父の敏達も直系とされています。敏達についてはその父欽明と母石姫とは異母兄妹ではなく叔父と姪の関係ですが、同書ではこの関係を女系、母系の系図も用いて説明されています(その系図をそのまま引用できれば話は早いのでしょうが)。欽明の生母が手白香、石姫の生母は橘仲皇女で、手白香と橘仲皇女はともに仁賢と春日大娘皇女(かすがのおほいらつめのひめみこ)の間の同母の姉妹と伝えられます。その春日大娘は雄略の娘と伝えられる女性ですが、ともあれ同書のその系図では、父方の祖母の手白香と母方の祖母の橘仲皇女との両者を通じて敏達が雄略の血統を受け継いでいることが示されています。なお手白香も橘仲皇女も仁賢と春日大娘の間の娘姉妹となるわけですが、同書では仁賢については「仁賢・継体・宣化らについては、この間の女系の継続を補助する役割を果たした、という見方も成り立つであろう」といった見方をされているようです。私としましても個人的には前王統の血を引く欽明と石姫の配偶関係、それによって誕生した敏達の位置付け……そういうものは重視されるべきものと思っております。ただ同書では『日本書紀』の立后記事を否定されていますから、その点で私が同書から引用させていただくのは的外れで失礼なのかもしれません。
実は敏達同様手白香と橘仲皇女の系譜を受け継ぐ男子はほかに存在したのですが、その敏達の兄の箭田珠勝大兄は欽明13年に没しています。さかのぼって欽明にはほかにも宣化の娘(石姫の妹)が配偶者としてあったように見えますが、その系譜さえ『古事記』と『日本書紀』で異なっていてはっきりしない存在です。箭田珠勝大兄没後の敏達の存在感は相当大きかったのではないでしょうか。そしてその敏達とやはり欽明の子である推古との間に誕生した竹田の存在もまた大きなものだったろうと思われます。ところがその竹田もまた早くに没してしまったらしい。
敏達と推古の間にはもうひとりの男子である尾張皇子がいたはずで、天寿国繍帳銘の「尾治王」「尾治大王」がその人ならば、少なくとも娘の「多至波奈大女郎」、位奈部橘王が誕生するころまでは生存していたはずだと思われるのですが、問題とされた形跡がありません。篠川さんは『飛鳥の朝廷と王統譜』の中で尾張皇子に触れて、その力量に欠けると見られていたのではないかという可能性も視野に入れておられます。そうだったかもしれません。しかし、兄弟が多い場合には遅く生まれた弟や妹はなぜかほとんど問題とされていないといった傾向もうかがえるように思うのです。逆に女子でも長女などは「拝伊勢神宮奉日神祀」などといった形で問題とされるケースが見えます。
『日本書紀』に見える「大兄」の例は仁徳紀の「大兄去来穂別天皇」(履中)を除けば安閑(勾大兄)・用明(大兄)・押坂彦人大兄・山背大兄・古人大兄・天智(中大兄)となるでしょうが、これを見ると上に同母の姉のいる「大兄」というものは存在しなかったようで、「一姫二太郎」の場合には「太郎」であっても「大兄」とはなり得なかったようにも見えます。こんなことはスメイロドやマロコを問題にした際に述べていたかもしれませんが、ともかくそうです。もとより例が少ないですし、また「大兄」という存在自体、すべての例についてきちんと伝わっているかどうかは疑問です。『古事記』は『日本書紀』が「大兄」とする存在についても「広国押建金日命」(「広国押建金日王」)・「八田王」・「橘之豊日命」(「橘豊日王」)・「忍坂日子人太子」(「日子人太子」)ですから、そもそも『古事記』のみからでは「大兄」の存在自体わからなかったはず。もしも『日本書紀』と『家伝上』が滅びて『古事記』しか伝わらなかったとしたら、「大兄」というものの存在は闇に消えてしまい『上宮聖徳法王帝説』の「山代大兄王」くらいが特殊な称号として疑問符つきで問題とされていたのでは。もっとも歴史に「もしも」はないですから、そんなことは想定した瞬間からもう「歴史」ではないのかもしれません。『日本書紀』が残ったのは必然、ということなのでしょう。
あるいは竹田が「大兄」とされていないことについても、早世したとか「大兄」の地位につかなかったといった可能性のほかに、上に姉の菟道貝鮹皇女が存在したことが原因という可能性もあるように思います。もとより早世については否定しませんし、「竹田も『大兄』と呼ばれていたが、その事実は伝わらなかった」といった可能性も十分に考え得るとは思います。廐戸については穴穂部間人所生の長男で上に姉が存在しないにもかかわらず「大兄」とするものが見えませんが、あるいは「大兄」以上の地位についた、「大兄」以上の地位的呼称を帯びたなどといったことがあって「大兄」が消えてしまった、伝わらなかったのかもしれません。
法隆寺金堂薬師像銘の「大王天皇」が「太上天皇」に似ている、オホキスメラミコトといった形で考えられるかもしれない……などといった妄想から始まった考えでしたが、最初の女帝とされる推古の場合は即位前に竹田が没しているようでもあり、次善の策として実兄の子である廐戸に継がせるとか、あるいは配偶者敏達の子の押坂彦人大兄に継がせるという役割を果たしたのかといえばむしろ逆で、推古がその位にあって譲位せぬまま高齢で没したことが彼らの即位の機会を奪ってしまったようにも思われます。
では推古を即位させて期待された役割とは何だったのか。
令制下での初期の「太上天皇」は、たとえば持統は天皇在位の間は文武へ皇位を渡す中継ぎ的役割を帯びていたでしょうし、譲位後はその後見役となったでしょう。元明・元正も聖武に対してそういう役割を担ったと見ることができるでしょう。男性初の「太上天皇」である聖武は……これは孝謙が女帝ですし、しかも立太子を経て即位した、ある意味で最初で最後の本格的女帝ですから、例外づくめでどう考えてよいのかわかりません。こういう言い方は不穏当なのかもしれませんが、もしも即位以前の段階で孝謙が配偶関係を結んでいたのなら、あるいは女系を通じた皇位継承という方法もあったのではないかという気もします。しかし現実にはなかった。律令によってなのか、それとも即位の宣命で天智にからめて語られる「不改常典」の規定にでもよるのでしょうか。おそらくその250年ほど前には手白香という女系を通じての前王統からの継承の例があっただろうに。
そしてまた称徳が没し光仁が即位したことを指して「皇統が天武系から天智系に移った」などといった言い方をしますが、その裏にはたしか聖武の娘の井上内親王を通じて他戸親王へという女系を通じての天武系皇統の継承といった側面も見られているはず。それ以前にたとえば文武について考えた場合、天武直系の孫とは言いながら生母の元明は天智の娘ですし、祖母のひとり持統も天智の娘ですから、天武より天智からより多くを継承しているとも考えられそうです。そんな見方をする人はいないでしょうが。
『古事記』垂仁段では、垂仁没後に当然のごとく「大后比婆須比売命之時」が存在したように叙述されていました。またその大后ヒバスヒメについては、多遅摩毛理が常世国から持ち帰ったミカンというかタチバナのうち半分は大后に、半分は亡き垂仁の墓前に献上されたというように、垂仁と肩を並べる高い地位だったらしい存在としても描かれています。「大后」、というより「オホキサキ」という存在が令制の皇后により近い存在だったのか、皇太后に近い存在だったのかの結論もまだ出していませんし、結局わからないから出していないのですが、『古事記』のヒバスヒメやオキナガタラシヒメにうかがわれる「大后」観というものはある時期の実際の「大后」観を反映しているのではないかという気がします。それが『日本書紀』では、オキナガタラシヒメについては仲哀の治世から独立させて神功紀1巻をあてているのに、ヒバスヒメについては垂仁生前に没したことにして大后の時の存在を消してしまっている。もとより『古事記』から『日本書紀』へのそういう変化を意図的なものと見るのは曲解で、単に典拠が違っただけのことなのかもしれないのですが、このように見てきますと、広姫立后や訳語田幸玉宮造営の見える敏達4年までは敏達生母の石姫の「大后」の時だったのではないかという、さして根拠もない憶測が大きく膨らんでくるように思われるのです。むろん身勝手な思い込みです。
そしてまたその敏達4年に敏達が数え年38歳というのも、別に確実なことではなくて『皇代記』『本朝皇胤紹運録』等の主張する享年48から逆算したものに過ぎません。敏達の年齢に関する記録は『日本書紀』には見えないものです。『日本書紀』は継体の享年「時年八十二」、安閑の享年「時年七十」、宣化の享年「時年七十三」、推古の享年「時年七十五」、そして舒明13年の天智の年齢「是時、東宮開別皇子、年十六而誄之」は明記しているのですから、これらについてはある程度信頼のおける記録があった。対し享年の記載のない天皇についてはそもそも記録そのものがなかったか、見ることができなかったか、あるいは信頼のおける記録がなかったということになるのでしょう。『本朝皇胤紹運録』については先にも『日本古代史大辞典』の所功さんの解説を引用させていただいていますが、応永33年(≒1426年)の撰上と意外に時代の下るものでした。この敏達の享年48という数字も『皇代記』といったものに依拠したデータなのでしょうが、残念なことに私が『皇代記』というものについて存じておりません。『藤原鎌足とその時代』の原秀三郎さんの講演「「大化改新」論の現在」の中でも「王年代記とか皇年代記といわれるものは(中略)寺家にずっと伝えられてきたもので、便利な年表として使われていたらしい」と触れておられましたが、とすれば「然が宋に持っていった『王年代紀』はその系統に近いもので、また『日本霊異記』の景戒が延暦6年以降のある時点で用いたタネ本もこういった書物だなどと考えられるのでしょうか。
原さんがおっしゃるように「王年代記とか皇年代記といわれる」書物が「寺家」、仏教関係に伝わってきたということであれば、先にも触れましたが『日本書紀』が主に用いた記録とは1年前後する誤差が多いなどといったことがあったのではないでしょうか。仏教公伝についての14年の差といったものは無視できませんが、1年前後する程度の誤差ならばそれはむしろ使える数字と見なせそうです。しかし「敏達の享年48という数字は『日本書紀』編纂のころにも伝えられていたが、仏教関係の所伝だったために誤差を疑われて『日本書紀』に採用されなかった」などということを証明するものもありません。
にもかかわらず、個人的には広姫立后が敏達4年にずれ込んだ理由を敏達の年齢にからめて見たいところです。もとより広姫立后を虚偽、後付けの創作と見られるお立場からは無意味な話ですが、再三申しますように、ならばなぜ広姫立后を敏達元年などとせずに、その年の11月には没してしまうにもかかわらず敏達4年のこととしたのか。その理由をうかがいたく思うのです。
いっぽう敏達生母の石姫が敏達4年ころまでは書記にいう「皇太后」(「オホキサキ」、「前大后」か「大后」だったのか)、まさに中国的な「称制」状態にあったなどと考えるのはさらに根拠のない話で、妄想というに等しいでしょう。欽明即位前紀宣化4年12月甲申(5日)に「尊皇后曰皇太后」と見えているのは通説的には春日山田皇后とされているものと思われるのですが、仁藤さんの『女帝の世紀』では手白香である可能性を考えておられました。敏達元年4月甲戌(3日)に見える「尊皇后曰皇太后」のほうについては、欽明皇后で敏達生母の石姫と見て問題はないでしょう。紛らわしい存在はおらず、強いて言えば推古20年2月庚午(20日)の「改葬皇太夫人堅塩媛於檜隈大陵」、堅塩媛の「皇太夫人」について岩崎本に「オホキサキ」と見えているあたりを挙げられる程度でしょうが、表記が「皇太夫人」ですからおそらく問題とはなりません。
しかしその「皇太后」石姫がいつ没したかという記事はいっさい見えません。
山尾幸久さんの『日本国家の形成』に「大后は律令制の皇后と違って、大王・大臣と同様、終身その地位にあり(百済の場合その形跡がある)、一年足らずの広姫を除けば、炊屋姫・宝・間人・倭姫・鵜野の五人だけではないか。用明の即位により用明の正妻の王女穴穂部が炊屋姫に交代するわけではなかろう」とされる記述の見えることを先に引かせていただいておりますが、同書では最初の大后を広姫と見られるお立場ですし、その広姫の大后については竹田や廐戸に対して彦人の地位を強化するための措置とみられて「(前略)そこで敏達は、彦人を用明の大兄とすべく、大后の制度でその地位を補強しようとしたのではないかと思われる」とも記しておられます。ですから、まことに僭越ながら同書のお立場とも意見を異にしているのですが、大后を終身と見られるご見解にはひかれるものがありました。
しかしながらそうした場合、令制の始まる前のこの時期には、天皇(大王)同様に大后も前大后の死没によって交代をみるということになって、大王の在位と大后のそれとが相互に関連せずそれぞれ独立に、自律的に交代をみるといった事態になりはしないかなどと想像するのです。大王が死没により交代しても大后は存命の限りはそのまま。逆に大王の在位中に大后の死没に伴って新大后が立つ……といった事態です。それについて同書に挙がっている「炊屋姫・宝・間人・倭姫・鵜野」を例に見てみますと、倭姫王はおそらく例外として、実は女帝としての即位によってその事態が回避されている。「回避」といいますか、当然ながら女帝の没するまでの間は男帝が立たない。もっと言えば、配偶者である大王の没後に大后がそのまま即位してしまうことにより、次期の男性大王の即位が延引されてしまうようにも見えます。
こういう言い方は問題で、たとえば推古や皇極についてはその「即位」を疑問視されるご見解もありました。それからまた大王の即位年齢を40歳前後と高く設定してしまえば、実は男性の次期即位予定者が年齢的に即位できない間、女王が中継ぎに立っているようにも見えます。ところがここに挙がっている具体例はいずれもそんな簡単なものではない、一筋縄でいかない例ばかりです。そしてこの5人のうち皇極・間人・倭姫王・持統については配偶者の舒明・孝徳・天智・天武はいずれもその「皇后」より先に没していますから、大王在位のうちに大后が交代するという事態はなかった。推古についても敏達は先に没していますが、敏達の場合広姫が敏達4年に没していますので、そこで在位中の大后の交代があった、そう考えられるわけですが、もっともこういうことは「大后」の定義、位置づけが明確にならないと何ともいえない部分があります。
また『日本国家の形成』では広姫の大后を彦人の地位強化のためと見、その575年の大后成立のきっかけを竹田や廐戸の誕生に求めておられます。しかしながら個人的にはこの敏達4年というタイミングに敏達の年齢か「皇太后」石姫(とりあえずこう表記しておきます)の存在かのどちらか、あるいはそのどちらも見たく思うのです。もとより敏達の年齢・生年も結局は不明なら、石姫の没した年代もわかりませんし、欽明の治世に石姫が「大后」的な働き、関与をしたという証拠も皆無でしょう。
しかし……ナントカのひとつ覚えみたいですが、「大后」という存在に『古事記』垂仁段のヒバスヒメ的なイメージ、多遅摩毛理が持ち帰ったタチバナ縵八縵矛八矛のうちの半分が亡き天皇に、もう半分が大后に献上されるといった天皇と相並ぶ権威を見るなら、そういったものが広姫のときから、あるいは推古のときから突然成立したとは思われないのです。男王と女王が同格で並立する状況といったものの起源・由来はヒメ・ヒコ制あたりに求めるのが本来なのかもしれませんが、残念なことにそれについて記された書物を何も拝読しておりません。しかしながら、たとえば5世紀後半かとされる雄略の話あたりにそのような印象……大王と並び立つ大后とか、大王没後も引き続き執政にあたる大后といった印象がうかがえるかといえば、それもまたあまり感じられないでしょう。そういったイメージの起源を求めるとしたら、しばしば女帝の前史として語られる飯豊皇女(飯豊青尊)や春日山田皇女などというよりも、男系が武烈で絶えた際に女系で王統の血統を伝えた手白香皇女――『古事記』武烈段に「故、品太天皇の五世の孫、袁本杼命を近淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合はせて、天の下を授け奉りき」(「故、品太天皇五世之孫、袁本杼命、自近淡海国、令上坐而、合於手白髪命、授奉天下也」)と見えているように、やはり手白香皇女あたりに求めたく思うのです。
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