7. 大后の時 − 5

 「大王天皇」「太帝天皇」「大々王」に戻ります。
 『続日本紀』の宣命の中に「オホキミスメラミコト」などと読める例を見つけたように思ったのですが、これはよく見てみると「我皇天皇」、ワガオホキミスメラミコトでした。たとえば神亀元年2月甲午(5日)の聖武即位の宣命には元正を指して「(前略)皇祖母(おほみおや)と坐しし掛けまくも畏き我が皇(おほきみ)天皇(すめらみこと)に授け奉りき(後略)」(「皇祖母坐〈志志〉掛畏〈岐〉我皇天皇〈尓〉授奉〈岐〉」)と見え、天平155月癸卯(5日)、「皇太子」孝謙の舞う五節(ごせち)の舞を「太上天皇」元正にたてまつるという聖武の宣命にもやはり元正を指して「(前略)我が皇(おほきみ)天皇の大前に貢(たてまつ)ることを奏す(後略)」(「我皇天皇大前〈尓〉貢事〈乎〉奏」)とあって、さらに天平勝宝元年7月甲午(2日)の孝謙即位の宣命にも聖武を指して「(前略)挂けまくも畏き我が皇天皇(後略)」(「挂畏我皇天皇」)と見えています。ですからここでは「我がオホキミ=天皇(スメラミコト)」、スメラミコトは我がオホキミであるという関係のように思われ、逆に「スメラミコト」などと異なる「オホキミ」という語の尊称・敬称的な性格を示しているように思われます。それは、こういう言い方が適当かどうかわかりませんが、『万葉集』に見える即位した人でない「ワゴ(ワガ)オホキミ」の例――巻145、人麻呂の長歌の即位前の文武を指す「八隅知之 吾大王 高照 日之皇子(後略)」や巻2167、やはり人麻呂の長歌の草壁を指す「(前略)吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者(後略)」、巻2199、またも人麻呂の長歌の高市を指す「(前略)八隅知之 吾大王乃 所聞見為 背友乃国之 真木立 不破山越而(中略)八隅知之 吾大王之 天下 申賜者(中略)吾大王 皇子之御門乎〈一云 刺竹 皇子御門乎〉神宮尓 装束奉而(中略)雖然 吾大王之 万代跡 所念食而(後略)」、巻2204、置始東人の長歌の弓削皇子を指す「安見知之 吾王 高光 日之皇子(後略)」など――と比較してもそんなに違和感はないでしょうし、『隋書』倭国伝の「俀王姓阿毎字多利思北孤号阿輩雞弥」を「王妻号雞弥」「名太子為利歌弥多弗利」などと並べて見た場合の印象ともそんなに矛盾しないように思うのです。そういえば『日本書紀』でも継体元年2月甲午や顕宗即位前紀・舒明即位前紀に「大王」で「おほきみ」「きみ」などと読ませているらしい、2人称かと思われる用例がありました。
 『隋書』倭国伝にいう「王妻号雞弥」について考えますと、「王妻」について「キミ」といった語を付している例としては『日本書紀』欽明紀・崇峻紀に見える「小姉君」の例を挙げることができるのかもしれません(「妻」の意味にもよるでしょうが)。穴穂部間人・穴穂部・崇峻の生母の「小姉君」ですが、彼女についてはまた『古事記』には「小兄比売」、天寿国繍帳銘に「乎阿尼乃弥己等」、『上宮聖徳法王帝説』に「乎阿尼命」などの形で見えています。
 斉明710月己巳(日)の歌謡123、斉明没後に天智が歌ったものとして示される「君が目の恋しきからに泊てて居てかくや恋ひむも君が目を欲り」の、斉明を指すものとされているらしい「君」などは、このような意味(「王妻」を「キミ」と呼ぶ例)のものと解釈してよいのかどうかわかりません。
 また「名太子為利歌弥多弗利」については著名な例が思い当たります。寺崎保広さんの『長屋王』(吉川弘文館 1999)によれば、長屋王家木簡には「円方若翁」「膳若翁」「林若翁」等の名が見えるのだそうで、また孫引きになってしまい恐縮ながら、この「若翁」については東野治之さんが1989年の新日本古典文学大系の月報の「『続日本紀』と木簡」の中で「わかたふり」と読んで『隋書』倭国伝の「和歌弥多弗利」に結び付けておられるのだそうです。またこれも孫引きで恐縮なのですが、門脇さんの『「大化改新」論』や篠川さんの『飛鳥の朝廷と王統譜』によれば、この「和歌弥多弗利」については渡辺三男さんが既に1966年の『駒沢国文』五号の論文「隋書倭国伝の日本語比定」で「ワカミトホリ」と読んで「若御統」の意と解されているのだそうです。「若翁」を「ワカタフリ」「ワカミタフリ」などと読んだものと見れば、用例からしてやはりそれは尊称・敬称的な性格の語と見なせるように思います。もとより「太子」と「ワカミタフリ」との間には意味にずれがありますが、それについては「ワカミタフリ」の意味が年代を経て変化したという形で見るよりも、意図的にせよ無意識にせよもともと齟齬、誤解があったものと考えたい。600年の遣隋使あたりが質問にぴったりと対応する返答をしてはいないということだと思っています。

 ところで、神亀元年の聖武即位の宣命で元正を「我皇天皇」と呼び、また天平勝宝元年孝謙即位の宣命で聖武を「我皇天皇」と呼んでいるのは譲位直後ですからまだよいとして、天平1555日の聖武の宣命で元正を「我皇天皇」と呼んでいるのは違和感を覚えます。このときの天皇は聖武であり、元正は「太上天皇」だったはず。では『続日本紀』の宣命の中に「太上天皇」という例がないのかといえば、神亀6年を天平元年と改めたその年の8月癸亥(5日)の聖武の宣命に元正を指す「太上天皇」が「(前略)我が皇(おほきみ)太上天皇(おほきすめらみこと)の大前に恐(かし)こじもの進退(ししま)ひ匍匐(はらば)ひ廻(もと)ほり白し賜ひ受け賜はらくは(後略)」(「我皇太上天皇大前〈尓〉恐〈古士物〉進退匍匐廻〈保理〉白賜〈比〉受被賜〈久〉者」)と見えていますし、また既に引いた例ながら天平宝字36月庚戌(16日)、淳仁が父舎人親王を「崇道尽敬皇帝」と「追皇」し生母の当麻山背を「大夫人」とした宣命に、孝謙を指して「(前略)掛けまくも畏き我が皇(おほきみ)聖(ひじり)の太上天皇(おほきすめらみこと)の御所(おほみもと)に奏し給へば奏せと教へたまはく(後略)」(「掛畏我皇聖太上天皇御所〈尓〉奏給〈倍波〉奏〈世止〉教宣〈久〉」)と見えます。なお天平宝字66月庚戌(3日)の孝謙自身の出家の宣命冒頭(「太上天皇御命以〈弖〉卿等諸語〈部止〉宣〈久〉」)の「太上天皇」については、ここは孝謙自身の言葉ではなくて「太上天皇の御命(おほみこと)をもって卿(まへつぎみ)たち諸氏に語りなさいとおっしゃることには」といった、この宣命を読み上げた人による前置きのようなものだと思うのですが、その人の名は見えません。宣命を読み上げた人の名は見えていたりいなかったりです。
 ともかく宣命に関係したところでは「太上天皇」は「おほきすめらみこと」という読みで見えているようです。これが『続日本紀』の写本に何かの形で示された読みなのか、宣長の『歴朝詔詞解』あたりによるものなのか存じませんが、何の根拠もなく宣長が「おほきすめらみこと」の読みを与えたとも考えづらいですから何らかの根拠はあるのでしょう。養老令の儀制令(1条・3条)・公式令(33条)にも「太上天皇」と見えますが、日本思想大系『律令』によればこの読みは「だいじやうてんわう」、漢語としての音読みでの読みのみが見えています。
 こういった宣命の「太上天皇」の「おほきすめらみこと」という読みを眺めていますと、「大王天皇」「太帝天皇」「大々王」などの根源、オリジナルも「オホキスメラミコト」のような語だったのではないかと思えてくる……。私の目が悪いせいでしょうか。多分もう頭がおかしいせいだと思います。『上宮聖徳法王帝説』に引く薬師像銘、「御宇」を丸で囲んで「治天下」と直した部分についても、間もなく「治天の君」などと見えてくるようになるのかもしれません。

 用明の即位以前に推古は即位していませんし、推古が用明に譲位したという事実もありませんから、推古はどう考えてみても「太上天皇」ではない。「天皇」のまま譲位せずに没したため廐戸の即位もなかったし、また舒明即位前紀に見えるような紛争、悶着を引き起こしたもののようにも見えます。もっとも私も僭越ながら門脇さんの『「大化改新」論』にならって推古即位前紀の記述を疑っておりますので、そうなりますと極端な見方をすれば「推古はずっと即位しなかった、即位することはなかった」といったことにもなりかねませんが、そのような方向で考えるとしたらますます推古の「大王天皇」は否定されなければならないでしょう。そもそも「天皇」どころか令制以後のはずの「東宮(聖王)」などという言葉さえ見える薬師像銘を根拠に論を展開するのがおかしいのかもしれません。
 しかしながら、用語が令制以後のものという意味では、このころの歴史は頻繁に令制以後の資料を根拠に語られているように思われます。浄御原令が草壁の没した年、持統即位の前年の689年で、大宝令が8世紀最初の年の701年、その大宝元年はまた武則天の周の大足元年・長安元年です。平城遷都が710年、そして『古事記』が712年で『日本書紀』が720年……。記紀自体がそもそも令制以後のものです。
 もとより薬師像銘や天寿国繍帳銘を推古朝の同時代の記録だなどとは思いませんが、薬師像銘や繍帳銘と『日本書紀』とではどちらが古いのだろうか、などとも考えてしまいます。大山誠一さんの『〈聖徳太子〉の誕生』でのご見解に従えば薬師像銘・繍帳銘など「法隆寺系史料」の成立は記紀より後ということになるのでしょうが、まことに僭越で恐縮ながら、どうも仏教関係にあった資料は基本的に記紀とは水と油で、記紀の編纂者たちはなるべくなら仏教関係の資料を使いたくなかった、『元興寺縁起』の原典のような資料などはやむを得ず用いたが、それ以外は仏教関係の所伝と矛盾が生じてもできる限り用いたくなかった……もののようにさえ見えます。そんな印象なのです。具体的に言及することは困難ですが、たとえば仏教公伝の「戊午」年がそうですし、大山さんが問題とされておられる廐戸の没した年月日(推古紀が推古292月癸巳=5日。釈迦三尊銘・繍帳銘が推古30222日)がそう、釈迦三尊銘の「法興」の元、年号や「大王天皇」「太帝天皇」「大々王」などもそうです。『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「仲天皇」もそれに加えられるのかもしれません。もっとも「仲天皇」をナカツスメラミコトと読んで『万葉集』の「中皇命」と同じと見るなら、『日本書紀』ひとりが否定した、用いたくなかったもののようにも見えます。期せずして『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』が「仲天皇」を、『万葉集』が「中皇命」をそれぞれ無関係に作り上げた、そういう称を創作したなどということは考えづらく思うのです。
 このように見てきますと、ナカツスメラミコトというのは実はオホキスメラミコトと対になるような概念ではなかったかという感じさえ一瞬覚えます。
 もちろんそんなはずはなくて、『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』でも間人のナカツスメラミコトに対するオホキスメラミコトが推古だ、などといった書き方はしていません。
 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「小治田宮御宇太帝天皇」推古は「飛鳥岡基宮御宇天皇之未登極位。号曰田村皇子」、即位以前の田村皇子と「号」していたころの舒明とともに登場しており、しかも最初から「小治田宮御宇太帝天皇」表記ですから、この文章のみから「太帝天皇」の意味とか位置付けを探るのは難しく思われます。
 いっぽう間人と思われる「仲天皇」は「天皇」(「後岡基宮御宇天皇」、斉明)の「将崩賜時」に登場しており、いっしょに見える天智が「近江宮御宇天皇」の表記ですから、これはそれぞれの人物の表記を最終的な肩書、称で代表させて記したものとも解せそうです。舒明(「初飛鳥岡基宮御宇天皇之未登極位。号曰田村皇子」)や皇極・斉明(「大后尊」→「後岡基宮御宇天皇」)については時間とともに名称の変化していることが意識されていますが、斉明臨終の時点で天智は即位していませんから、「近江宮御宇天皇」は即位後の称で代表させたものとならざるを得ないでしょう。ですからこちらも「仲天皇」の意味付けをこの文から探るのは難しい。「後岡基宮御宇天皇」斉明の没後に「仲天皇」となったのか、斉明の生前から既に「仲天皇」であったのかがわかりません。「『仲天皇』だって『天皇』なのだから、『天皇』がいて同時に『仲天皇』も存在するという状況はありえないではないか」と言われそうですが、薬師像銘ではあたかも「池邊大宮治天下天皇」用明の時代に既に推古が「大王天皇」であったかのような書き方がされていました。
 そしてもう1人のナカツスメラミコト、『続日本紀』神護景雲310月乙未朔の称徳の宣命に見える「中〈都〉天皇」についてこれを元正と見るならば、たしかに先代の元明が元正に譲位して「太上天皇」、オホキスメラミコトとなっていますが、即位した元正は「天皇」であって、この「太上天皇」は「天皇」に対するものです。「中〈都〉天皇」という呼び方はある時期の元正について言ったものではなくて、元正という存在は一貫して「中〈都〉天皇」という位置付けだったと見るのが順当でしょう。

 先にも中途半端ながら触れておりますので蒸し返しませんが、「仲天皇」「中皇命」をナカツスメラミコトと読んで間人と見るなら、やはり元正との共通点は女帝―女帝と2代続いたうちの2代目といったあたりにあるように思います。
 元正は終生配偶関係をもつことはなかったのですが、間人については孝徳とは死別と呼んでよいのか事実上の離別としてよいのかよくわかりません。「2代目」などという書き方をしましたが、おそらく女帝―女帝と2代続くことは本来は期待されておらず、次に男帝として即位すべき人がたまたまその年齢(令制より前の天智で40歳前後未満、聖武の場合で結果的に24歳未満)に達していなかったため「中継ぎ」的に立った存在という含みもあったのではないでしょうか。個人的にはどちらかといえば「中継ぎ」的な意識、時間的な順序としても2番目だが地位の面でも2番目のように意識される存在だったのではないかと考えております。
 それからまた問題があるかもしれませんが、敏達―彦人大兄―舒明―天智、また天武―草壁―文武―聖武(―孝謙・称徳)と続く系譜を「直系」として見るならば、他の女帝である推古・皇極・持統・元明はみな彼らの配偶者にあたるわけですが、孝徳の配偶者である間人はここからは外れますし、配偶関係のなかった元正もとうぜん外れます。こんなあたりも間人と元正をつなぐ共通点のように思われます。
 「中つぎ」説の代表は喜田貞吉さんの「中天皇考」から井上光貞さんの「古代の女帝」に至る線あたりなのかもしれませんが、井上さんは女帝一般が「中つぎ」であったとされるお立場のように思われます。個人的には間人と元正に限って「中継ぎ」と見させていただきたく存じます。間人は正史である『日本書紀』ではまったく「スメラミコト」的な称で呼ばれることはなく、逆に元正は『続日本紀』では歴とした天皇として記されていて大きな違いがあるのですが、元正についても『王年代紀』では他の天皇とは少し違った形で表記されていた可能性があるようですし、また『続日本紀』に元正の宣命が存在しないということも元正の特殊な位置を示しているもののように思うのです。
 なお小林さんの「中天皇について」では「中」について「2番目」の意とする宣長の説を是としておられます。元正については平城宮で元明に次ぐ2番目の天皇の意とする宣長説を引いておられ、間人については「中天皇について」の2章前の「称制考」の中で「中天皇(ナカツスメラミコト)とは、天智天皇が実際に「マツリゴトキコシメ」した妹の間人大后に対して、自分の母である斉明女帝の第二世の天皇という意味で追称したものではないか。「ナカツ」(中)とは、第二番目(第二世)という意味で、中継ぎという意味ではないと思う」(「追称」2字に傍点ルビ)とされたうえで、押部佳周さんの「『甲子の宣』の基礎的考察」(恐縮ながら拝読しておりません)でのご指摘――『続日本紀』養老4年正月庚辰条・天平宝字69月乙巳条によれば、「後岡本朝」が間人大后の秉政(へいせい)期も表す皇都だったと考えられる――を引かれて、間人を「後岡本宮」の第2世のスメラミコトと位置付けておられます。「追称」と考えられたことについては「称制考」のほうで「なお、追称という点については、天智紀六年春二月条に、斉明女帝と間人大后の母娘が小市岡上陵に合葬されているから、中大兄が合葬の儀式の際間人大后を「ナカツスメラミコト」と宣下したのではないかと臆測する」と記しておられます。もちろん小林さんも「臆測」と断っておいでのことなのですが、個人的には「中天皇」にあたる称は追称といった性質の称というよりも、当時から現実に通用していた称、むしろ「間人大后」より一般的に通用していた称ではなかったかと思っております。
 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』には「仲天皇」が、『万葉集』には「中皇命」がそれぞれ見えていながら、正史である『日本書紀』にはそれに相当する称の表記は見えていません。『続日本紀』では孝謙が淳仁に譲位した天平宝字28月庚子朔(1日)に孝謙の曽祖父草壁にも「岡宮御宇天皇」の尊号が「追崇」され、翌天平宝字36月庚戌(16日)には淳仁の父の舎人親王も「崇道尽敬皇帝」と「追皇」されていますから、正史はむしろ追称といった性格の称を避ける必要はなかったのではないかと思うのです。積極的には改めない、用いもしないかわりに「追崇」「追皇」といった事実を隠す必要もない。このナカツスメラミコトが間人だったとすれば、『日本書紀』の天智62月戊午(27日)の「合葬天豊財重日足姫天皇与間人皇女於小市岡上陵。是日、以皇孫大田皇女、葬於陵前之墓」の記事の近くにナカツスメラミコト追称のことが見えていてもおかしくないように思うのですが、見えません。むしろナカツスメラミコトの称は図らずも『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』と『万葉集』という、それぞれ微妙に性格を異にしながらも正史と比較すればどこか卑俗な印象のあるものに見えています。しかも表記を違えて。「卑俗」という言い方は不適当かもしれませんが、たとえば「公」と「私」を2極として並べた場合に『日本書紀』『続日本紀』と比べれば「私」寄りであろうといった程度の意味で申しております。
 ともかく「仲天皇」「中皇命」については奈良時代においても誰を指すのかわかっていた、通用していた語だったように思われます。しかし正史の『日本書紀』は何らかの理由によってそれを避けたかった、認めたくなかった。そんな『日本書紀』編纂側の意図を知ってか知らずか、天平19年(≒747年)ごろに記されたらしい『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』は「仲天皇」と記したまま提出された。その筆者はおそらく『日本書紀』などから派生した抄本的な年代記の類は見ることができたとしても、『日本書紀』それ自体を見ることはできないような立場にあったのでしょう。そして「仲天皇」表記を避けるべき、改めるべきものだとも思ってはいなかった。あるいは当時間人は「間人○○」といった称では知られておらず、もっぱら「ナカツスメラミコト」の称で通っていたといった事態があって、仮に『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の筆者が『日本書紀』を見ることができたとしても、天智紀で「間人大后」「間人皇女」の登場回数があまりにも少ないため「ナカツスメラミコト」と同一人だとはわからなかった……そんな状況があったのではないでしょうか。受け取った僧綱所あたりがそれを見てどう思ったか存じませんが、それから20年か30年ほどして『万葉集』の編纂が進められていた段階でもまだ「中天皇」に相当する語はいきいきと通じていた。ただ『万葉集』の編者のほうは『日本書紀』を参照することもできたでしょうし、そこに「中天皇」的な表記の語が用いられていないことも意識していたのでしょう。また『日本書紀』側の意図、その語を用いなかった理由についても了解していたのかもしれません。しかしながら現実的には「中天皇」に相当する言葉は用いられており、それが誰を指すのかも周知の常識であって解説を加える必要さえ感じられなかった。そこで、『日本書紀』が無視していることを考慮して「中天皇」といった「天皇」の表記を避けて「中皇命」なる表記を案出したのではないでしょうか。「皇孫」がスメミマ、「皇祖大兄」の「皇祖」がスメミオヤ(「皇祖母尊」「皇祖母命」では「皇祖母」でスメミオヤ)、「皇弟」がスメイロドですから「皇−」を「スメ−」と読ませることは無理がないでしょうし、「ミコト」も『日本書紀』では「至貴曰尊。自余曰命。並訓美挙等也」(神代上)などとなっていますが、『古事記』では「命」表記ですし、天寿国繍帳銘等でも「弥己等」などだったでしょうから、「皇命」という表記のほうがむしろ本来的な印象もあります(もし仮にそこまで意識していたということがあれば、「中皇命」は「至貴」でなく「自余」と見ていたことになるのかもしれません)。
 なお『万葉集』巻2では「日並皇子尊」「高市皇子尊」などと見えますが、これを問題とされた直木孝次郎さんの「磐之媛皇后と光明皇后」(『飛鳥奈良時代の研究』所収)の「二 万葉集巻二の成立年代」では、『続日本紀』で草壁が「日並知皇子命」から「日並知皇子尊」にかわっていることについて、和銅7年の首親王(聖武)立太子が契機となった可能性を考えておられます。また「尊」の字の敬称自体は、上野三碑のひとつで和銅4年(≒711年)の多胡碑(群馬県吉井町)に「(前略)左大臣正二/位石上尊右大臣正二位藤原尊」などと見えているようですが、古典文学大系『日本書紀』の補注「ミコト・命・尊」によれば「これはミコトと訓まれたか否か確実ではない」とあります。

 しかしながら、倭語「○○○○○○」に渡来系の知識人、あるいは遣隋使・遣唐使帰りの知識人あたりが『後漢書』などから採った「天皇」の語の表記を当てたのが先で、それ以後に「皇」字が「スメ−」と意識されるようになったものかもしれません。『播磨国風土記』の「市辺天皇命」とか『元興寺縁起』の「大々王天皇命」なども、その過渡的な時期の誤用例を示しているのかもしれません。「誤用」だと言えるのかどうかもわかりませんが。『万葉集』の編者はこのあたりの事情まで知っていたか、あるいは容易に想像できた。だからこそあえて「中皇命」という表記を用いることで『日本書紀』が「天皇」としていない存在について「中天皇ではない、中皇命だ」とかわしたもののようにも思え、またその裏には『日本書紀』が「中天皇」的な語を無視していることや、無理な漢語表記を当てていることなどに対するささやかな反発、皮肉のようなものがあったのかも……などというのはうがちすぎでしょうか。『万葉集』編纂が間欠的にでも進行しているそのいっぽうでは、おそらく『日本書紀』が用いたくなかったであろう「中天皇」という語について、悪くいえば俗っぽい言葉の口語的な宣命を数多く出させていた称徳によって、神護景雲3年(≒769年)101日の宣命の原稿に「中〈都〉天皇」の語が盛り込まれていた。何の根拠も証拠もありませんがそんな過程を空想したくなります。いや、これこそまさに「妄想」と切り捨てるべきなのかもしれません。

 法隆寺薬師像銘について、用明が「池邊大宮治天下天皇」だったときに推古が「大王天皇」だったと見るとか、あるいはこの「大王天皇」を「オホキスメラミコト」などの形で読むといったことには、どうも無理があるでしょう。しかし薬師像銘に「大王天皇」「小治田大宮治天下大王天皇」と見え、また『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』に「太帝天皇」「太皇天皇」などと見えるらしいことは、やはり推古についてはある時期以降「オホキスメラミコト」……自体ではないでしょうが、それに近い、後代「大王天皇」「太帝天皇」と表記されるような口語・発音としての呼称で呼ばれていたのではないか、そう意識されていたのではないかと疑わせます。逆に持統について見える「大后天皇」・「大皇后天皇」(『日本霊異記』)・「太后天皇」(『懐風藻』)的な呼称は推古については印象がありません。しかしながら聖武が男帝として初めて孝謙に譲位するまでは、令制以後譲位して「太上天皇」になったのは持統・元明・元正と女帝だけに限られてもいました……という言い方も変で、実は早世した男帝の文武を除き令制以後はすべての女帝が譲位して「太上天皇」となっていた。令制開始と同時に「太上天皇」も始まっていたことになります。先にも引きましたように養老の儀制令・公式令にも「太上天皇」が見えており、儀制令1条には「天子〈祭祀所称〉/天皇〈詔書所称〉/皇帝〈華夷所称〉/陛下〈上表所称〉太上天皇〈譲位帝所称〉乗輿〈服御所称〉車駕〈行幸所称〉」と見えているようですが、日本思想大系『律令』のこの項の補注によれば唐令には「太上天皇」に相当する項目がないのだそうで、「(前略)とくに、わが「太上天皇」に当るものが唐令に見えないのは注目に値する。彼にあっては退位した皇帝は現皇帝の臣下であって同列ではないが、我にあっては退位した天皇は、現天皇の尊属として天皇に準じて尊ばれた。後世、院政が行なわれた理由も一つはここにある(後略)」と見えます。持統3年(≒689年)4月に草壁が没し6月に浄御原令班賜、翌持統4年元日には称制を続けてきた「皇后」持統が盛大に即位しています。その持統が7年半ほどのちの持統11年(=文武元年≒697年)の8月に文武に譲位していますから、おそらく浄御原令でも「太上天皇」については同様の規定があったのではないでしょうか。いや、そんなこともとっくにどなたか言及しておられることなのでしょうが、無学にして存じません。ともかく「太上天皇」が浄御原令段階から既に養老令に連続するような存在として規定されていたとすれば、それは浄御原令になって突如出現した地位だったとか、文武への譲位を期して持統が個人的にこのような地位を規定した令を作らせたなどというよりは、もともと唐とは異なる倭―日本的な実態に即して規定された地位だったという可能性が高いのではないかとも思っております。しかしながら持統・元明・元正と続く女帝の「太上天皇」という現象面での特徴を、浄御原令前の皇極・斉明、そして推古にまでさかのぼらせることができるでしょうか。よく言及されていますように推古―皇極・斉明―持統と、(持統のある時期からを含め)元明―元正とではその性格が違う。後者、ことに元明と元正には中継ぎ的な性格が顕著のように思われますし、持統についても文武への橋渡し的な部分が強くうかがわれるように思われます。推古や皇極・斉明にそういった側面が認められるかどうか。

 持統については天武没後に自身が「称制」という形をとって、おそらく最初に草壁の対立者である大津を除くことに成功した。そして草壁の「即位」を待っていた。草壁の「成長」を待っていた、としたいところですが、後年文武が15歳で立太子し即位したことを考えれば、おそらく不文律となっていたであろう即位年齢を浄御原令の施行と同時に引き下げようとあるいは考えていたのかもしれません。ですから待っていたのは草壁の成長よりも実は浄御原令の完成のほうだったかもしれないのですが、タッチの差で浄御原令完成よりも先に草壁が没してしまう。翌年の元日に自身即位し、持統11年に15歳の文武に譲位したのちも太上天皇として文武を後見し、大宝212月甲寅(22日、703年に入っていたようです)におそらく数え年58歳くらいで没しています。それからほぼ3年後の705年の年末に同年退位させられていた武則天が没しているようですが、その武則天は高宗の没後、子の中宗と睿宗の代に「称制」を経験しているはず。即位しないまま政務を見るという空位の状態の日本の「称制」と違って、中国での「称制」は天子が幼少の際に皇太后が政務を見ることを言うようですから、そういう意味では持統についても697年の文武への譲位から702年に没するまでの5年と少し、太上天皇の時代が実はもっとも中国的な意味での「称制」の概念に近いようにも思われます。対し、武則天は高宗の没した弘道元年12月(高宗の没した時点ではまだ683年だったかもしれません)以来、天授元年(≒690年)99日に睿宗を退けて周朝を開くまで(のある期間)が「臨朝称制」状態だったということになるのでしょうか、それとも「臨朝称制」というのは実体を伴わぬ史書の言葉の上だけでの話ということになるのでしょうか。『日本書紀』持統紀の定義・言い方に従えば、持統は朱鳥元年(≒686年)99日の天武没から持統4年(≒690年)元日の即位までの3年ちょっとが「臨朝称制」、称制ということになっています。もとよりこの時期も、ただ草壁が即位していないという違いがあるだけで実態としてはより中国的な「称制」に近似していたはずなのですが、仮にもしも草壁がもう少し長生きしていたとか、あるいは浄御原令がもう少し早く完成するなどして草壁即位といった事態があったとすれば、持統の地位はその後どのような推移・経過をたどっただろうかなどと考えたくなります。しかし実際にはそれを考えることには意味がない。歴史に「もしも」はないですから。
 ですからここは最初から「歴史」でなく「妄想」で進めております。
 皇極に関しては乙巳の変ののち天智でなく孝徳に譲位していますが、その際たてまつられたのは「オホキスメラミコト」的な称ではなく「皇祖母尊」、スメミオヤノミコトでした。孝徳没後に重祚し、自身の没後は最終的に天智が「称制」を経て即位することになりますが、皇極の即位とか斉明の重祚といったものが天智への安定的な皇位継承につながっているかは、持統の例と比べれば疑問に思える部分もあります。
 なおここにまた天智の6年半に及ぶ「称制」の問題がありますが、先ほどより申してきておりますように、これについては仁藤さんの『女帝の世紀』に見える即位条件の40歳前後以上説に従わせていただく形で考えたく思います。またその「称制」期間の実態については、小林さんの『古代女帝の時代』では、実の妹で孝徳皇后であった間人の「ナカツスメラミコト」、天皇代行のもとでの天智の実質的な政権担当という形で見ておられますが、それに従わせていただきたく思います。即位の条件を40歳前後以上と見ても、天智の場合は間人の没した天智4年(≒665年)に40歳(または41歳)、近江大津宮へ遷都した天智6年(≒667年)に42歳(43歳)、即位した天智7年(≒668年)に43歳(44歳)と40歳を大きく過ぎていますから、年齢を称制の問題に結び付けて見ることは難しく思われるかもしれませんが、間人の没するのを見届けたのち斉明と間人を合葬する小市岡上陵の造営と並行して大津宮造営も進められ、62月戊午(27日)の合葬を終えたのち3月に近江遷都したものと見れば、そんなに無理ではないようにも思われます。即位が遷都後最初の正月3日というのも納得できる話でしょうし、即位後の天智の在位が4年弱しかなかったことは結果論でしょう。
 また先に「もしも草壁が即位していたら」などと考えてみようとしましたが、天武没時に数え年25歳だったであろう草壁が即位できず、その子の文武はおそらく15歳程度で譲位され即位しているという事実も、浄御原令より前には即位は40歳前後以上とする意識があったのではないかという推測を傍証するもののようにも思われます。

 また皇極・斉明と孝謙・称徳というどちらも重祚した女帝を比較して見るとき、配偶関係、「皇后」の経験や子の有無等の絶対的な違いがあるにもかかわらず、既に述べてきたことながら類似点も目立つように思われます。
 まず「重祚」という事態それ自体がこの両者に特徴的なことですし、それぞれ重祚の前の代と後の代の間に在位した天皇を退位させるか、ほとんど退位に等しい状況にして重祚していることも似ています。
 孝謙は恵美押勝の乱の結果大炊王(淳仁)を廃して称徳として重祚しています。皇極・斉明については孝徳を廃したとはされていませんが、倭京に戻りたいと言い出した天智に反対した孝徳を難波に置き去りにして皇極は天智や間人・天武らとともに倭京に戻ってしまい、結果孝徳はもう辞めたい、位を去りたいとまで言い出して翌年没していますから、結局政権も首都も皇極とその子たちとともに倭京に移ってしまい、孝徳ひとり難波に島流しにされたような形……などといったことも先に申しております。
 ついでに言えば「皇極・斉明」「孝謙・称徳」などといった形で記していますが、重祚の前の代と後の代を書き分けることも後代に始まったことのように思われます。皇極・斉明については『日本書紀』では皇極代も斉明代も「天豊財重日足姫天皇」とし、また孝謙・称徳については『続日本紀』では孝謙代が「宝字称徳孝謙皇帝」、称徳代が「高野天皇」ですが、「然が宋に持っていった『王年代紀』では「皇極天皇」と「天豊財重日足姫天皇」、「孝明天皇」と「高野姫天皇」という形だったみたいですから、10世紀末の段階でもまだ漢風諡号を代で書き分けることが行われていなかったか、浸透していなかったようにも見えます。そんなことも先に申しました。
 『本朝文粋』所引「三善清行意見封事」には『備中国風土記』邇磨郷の記事を引いて本来「斉明天皇六年」とでもあるべきところを「皇極天皇六年」と記しているようですが、菅原道真とやりあった三善清行の時代の10世紀初頭に「斉明」代が存在していたでしょうか。あるいは認識されていたでしょうか。なお延長3年(≒925年)には諸国国司に『風土記』再提出の太政官符が出されていますが、この2年前の延長元年に菅原道真は右大臣に復されると同時に正二位を贈られているようです。この没後20年目の道真の名誉回復を三善清行が知ったらどう思ったでしょうか。その清行自身も延喜18年(≒918年)に既に没しています。
 そしてまた「三善清行意見封事」に見える「皇極天皇六年」と同じようなことは『日本書紀』持統称制前紀にも「天豊財重日足姫天皇三年、適天渟中原瀛真人天皇為妃」と見えていたわけです。こちらは間違いとはいえないのかもしれませんが、『万葉集』巻115の左注の「亦紀曰、天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子」といった書き方のほうがより適当である感じはします。『日本書紀』天智即位前紀では「天豊財重日足姫天皇四年、譲位於天万豊日天皇。立天皇、為皇太子」、「先」も「乙巳」もありません。『万葉集』にはこのようにさりげなく「先」を加えるようなおくゆかしい皮肉とでもいったものが感じられ、「中皇命」を『万葉集』の創出した表記と見たのもこういった部分を意識してのことなのですが、とりあえずいまは関係ありません。
 その『万葉集』は実は「皇極」代と「斉明」代を書き分けており、巻1に「明日香川原宮御宇天皇代」「後岡本宮御宇天皇代」と見えていました。『日本霊異記』上巻の「飛鳥川原板葺宮御宇天皇之世」「後岡本宮御宇天皇之代」はこれに対応するもののように思われるのですが、『万葉集』の「明日香川原宮御宇天皇代」の7の額田王の歌は左注で戊申年(大化5年か)か斉明5年かと疑っているものでしたし、『日本霊異記』の「飛鳥川原板葺宮御宇天皇之世」の見える上巻第9は延暦6年原撰本にはなかったであろうと見られる話でした。「皇極」代というものを置く見方・考えは奈良時代末にはあったように見えますが、不安定な印象です。そしてまたこのように見てきますと、皇極代の上宮王家討滅や乙巳の変の年代について「後崗本天皇二年歳次癸卯冬十月」「後崗本天皇四年歳次乙巳夏六月」などと表記する『家伝上』は果たして信頼できるだろうかなどと思えてくるのです。しかもその「後崗本天皇」をずっと20年間通して用いるでもなく、孝徳・斉明の代には「白鳳」の年号を用いて結果的に『日本書紀』の「白雉」と1年のずれを生じ、「十四年、皇太子摂政」としたあとは天智の「摂政」として天智紀と紀年を合わせているような形です。実際「後岡本宮」は『日本書紀』では斉明2年是歳条に初めて「是歳、於飛鳥岡本、更定宮地(中略)遂起宮室。天皇乃遷。号曰後飛鳥岡本宮」と見えているものではないでしょうか。『万葉集』の編者が『家伝上』を直接目にしているといったことは考えづらいように思うのですが、『万葉集』の「後岡本宮御宇天皇之代」の標目は巻1が「後岡本宮御宇天皇代〈天豊財重日足姫天皇、後即位後岡本宮〉」、巻2が「後岡本宮御宇天皇代〈天豊財重日足姫天皇、譲位後即後岡本宮〉」などとなっているようです(本により違いがあるかもしれません)。
 ともかく、皇極・斉明については古い時代には「皇極」「斉明」と代で分ける認識が薄く、むしろ一貫して「天豊財重日足姫天皇」「後岡本天皇」といった個人の代・治世とする見方のほうが強かったのではないかとさえ感じます。「重祚」という現象はおそらく皇極・斉明と孝謙・称徳に限られたことで、1333年に光厳を廃した後醍醐について重祚などという概念を用いることはないと思うのですが、たとえば『日本古代史大辞典』で虎尾達哉さんの執筆された「重祚」の項を拝見しますと「退位した天皇が再び即位すること。実例としては、皇極天皇(のち斉明天皇)と孝謙天皇(のち称徳天皇)の二女帝がある。なお、祚は天子の位を表す語で即位の意味はなく、『日本書紀』『続日本紀』にも重祚の語はみえない。後世の造語か」とあります。いつのころからかわかりませんが、「皇極」「斉明」や「孝謙」「称徳」といった代の称とともに「重祚」という言葉による先入観にも縛られているのかもしれません。なお「後岡本天皇」は「天豊財重日足姫天皇」よりも由来の古い称なのかもしれませんが、『日本書紀』では斉明2年是歳にはじめて「後飛鳥岡本宮」が登場するようですから、少なくとも斉明2年より前にはその称は存在しなかったようにも思えます。古典文学大系の斉明紀の「後飛鳥岡本宮」の注にも「舒明を飛鳥岡本宮天皇、皇極を飛鳥板蓋宮天皇、斉明を後飛鳥岡本宮天皇と称する」などと見えています。しかし皇極を「飛鳥板蓋宮天皇」とする例が何なのか、記憶にありません。
 皇極の治世というのは何ともとらえようがない印象なのですが、もしも「後岡本天皇」が斉明の代のみを指す称だったとしたら、では皇極の代は……「明日香川原宮御宇天皇代」「飛鳥川原板葺宮御宇天皇之世」などと称されていたのでしょうか。どうもそぐわない印象です。あるいは在世のうちはずっと「天皇」に相当する「○○○○」と意識されており、没後になってから舒明没後から斉明の没するまでの治世が「後岡本天皇」の代と意識されたのかもしれませんし、あるいは皇極の代は“「大后尊」の時”だったのかもしれません。それは門脇さんの「天子崩殂、皇后臨朝」、河内さんの「空位の状態が四年間続いた」ということになると思いますが、逆にまたそれは儒教的な考えが漢字・漢文とともに定着していった律令制の時代の見方なのかもしれません。
 「伝飛鳥板蓋宮跡」が実は重層した数期にわたる遺構からなるもので、下層から岡本宮―板蓋宮―後岡本宮・浄御原宮の遺構ではないかとされる小沢毅さんのご見解などは最近では多くの書に見えています(たとえば手元にありますもので遠山さんの『大化改新』、荒木敏夫さんの『日本の女性天皇』主婦と生活社 2003、また『日本古代史大辞典』の黒崎直さんの「飛鳥京跡」の項など)が、早い時期から舒明が「岡本天皇」などと称されていたとすれば、そのあとの皇極・斉明を「後岡本天皇」とする発想はごく自然なことのようにも思うのです。また「天豊財重日足姫天皇」の称については先に「重日」に「重祚」の含意を見るご見解に従わせていただいております。これが的を射ているとすれば、「重祚」という概念は既に「天豊財重日足姫天皇」の称の中に見えていたということになりそうですが、また「天豊財重日足姫天皇」の称を比較的新しいものと見させることにもなるように思います。
 皇極・斉明について「代」で分けずに一貫した治世だったと見るものとするなら、では皇極―孝徳―斉明と一貫した代だったと見たらよいのか、それとも実は斉明の代のみがその代だったと見たらよいのか……。これはわかりません。いままで述べてまいりましたことも仮定に過ぎないわけですし、皇極・斉明の“真の即位”がいつだったのかなどを示す証拠のようなものもないように思われます。証拠とすべきものはその皇極・斉明の代とされる時代から半世紀とか1世紀以上を経た『日本書紀』『家伝上』あたりに求めることにならざるを得ないのではないでしょうか。どういうわけか『古事記』は推古までで筆を置いてしまい、“皇極”段を伝えてくれません。


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