7. 大后の時 − 4
また余談になってしまいますが、敏達の生年について見たついでに、その前後の世代の年齢・生年についても少々考えてみようかと思います。
享年に限定しないで『日本書紀』で年齢のわかる例としては、舒明紀末尾の13年10月に奉誄した天智の年齢が16歳と見えています(「是時、東宮開別皇子、年十六而誄之」)。舒明の殯の記事なのに舒明の享年でなく天智の年齢が見えているというのも皮肉ですが、「中大兄」でなく「東宮開別皇子」と見えているのも奇妙です。この時代に「東宮」といった地位が存在したかどうかも問題でしょうが、ともかく天智の立太子は皇極紀末尾と孝徳即位前紀とに皇極4年6月庚戌(14日)と見えているのですから、舒明13年10月の「東宮」はおかしい。その次に天智が登場するのは皇極3年正月乙亥朔(1日)の「以中臣鎌子連拝神祇伯。再三固辞不就。称疾退去三嶋」、中臣鎌子の神祇伯辞退にかけて語られる法興寺槻樹の下の蹴鞠(打毱)のエピソードで、そこではもう「中大兄」です。「東宮開別皇子」という表記は疑わしいものながら、舒明紀には即位前紀に「山背大兄」「大兄王」表記が頻出し、また2年正月戊寅(12日)には「夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛、生古人皇子。〈更名大兄皇子。〉」の記述も見えるわけですから、筆者に「大兄」というものに対する知識がなかったとは思われません。それでも「中大兄」と改めたりせずに「東宮開別皇子」という表記を用いたことは、出典の表記を残したということもあるのかもしれませんが、やはり「16歳当時はまだ『中大兄』ではなかったのだろう」という意識が働いていたようにも感じます。ならばその2年正月戊寅の記事に見える「一曰葛城皇子〈近江大津宮御宇天皇〉」の「葛城皇子」の称はどうなったのかという気がしないでもないですが。
なお『上宮聖徳法王帝説』には「□皇御世乙巳年六月十一日近江天皇〈生廾一年〉煞於林太郎」、天智が乙巳の変の際に21歳だったとする記述があり、換算すれば舒明紀と1歳の差(舒明紀に従えば乙巳の変の際には20歳)になることも既に触れております。なぜか『日本書紀』と仏教関係の所伝とで1年ずれる例が多く見受けられるようで、またウェブで拝見しますと『日本書紀』に見えない年号等とのからみでそういったことに言及しておられる論文もあるようなのですが、無学にして拝見しておりません。あるいはこの天智の年齢のずれについても、それらの例と一緒にまとめて見られるのでしょうか。ともかく天智の年齢について古い時代の所伝が2つあり、それが1歳違いということは、逆にそれらの所伝がある程度信頼できるものであることを示しているようにも思われます。
舒明13年10月の天智の「是時、東宮開別皇子、年十六而誄之」は、宣化紀の「四年春二月乙酉朔甲午、天皇崩于檜隈廬入野宮。時年七十三」とあわせて『日本書紀』の中で珍しく祖先と子孫とで年齢・生年がわかる例であって、宣化―石姫―敏達―彦人大兄―舒明―天智と続く6代の系譜において、宣化と天智の生年が判明します。しかしながら舒明は異母兄弟である茅渟王の娘の皇極・斉明との間に天智をもうけているわけですから、世代1代の平均を出すには宣化―石姫―敏達―彦人大兄―茅渟王―皇極・斉明―天智の7代という系譜で計算したほうがいいでしょう。たとえばそれで1代平均17歳などといった極端に短い値が出れば、各人の生年に幅を持たせることができなくなりますし、推定に無理がある可能性も出てきます。もちろん『日本書紀』を信じればの話ですが、ほかに頼るべきものもありません。
宣化は539年に数え年73歳で没していますから467年の誕生となります。天智は641年の舒明の殯に数え年16歳、645年の乙巳の変に数え年20歳となりますから626年の誕生で、宣化と天智の年齢差は159歳。これを6で割れば26.5歳です(天智誕生時の皇極の年齢までですから6代です。なおこれは年齢差を平均した数値ですから、いちおう数えでなく満となります)。ずいぶんゆったりした値が出ましたが、これには明らかな嘘があります。宣化と橘仲皇女の間に石姫が誕生したのはどう見ても継体元年か2年以降、安閑の42歳か43歳以降とならざるを得ないように思われます。
つい先ほども記しましたが、宣化紀4年2月甲午の「時年七十三」を信じれば、稲荷山鉄剣銘の辛亥年(≒471年)に宣化は数え年で5歳、倭王武の上表の宋の順帝の昇明2年(≒478年)に12歳。そんな時代の人です。宣化の26歳とか27歳のころはまだ5世紀末のはず。『日本書紀』によれば仁賢5年とか6年といった時代にあたりますが、もちろん『日本書紀』の仁賢の時代の記載をそのまま信用するわけではありません。そんな年代のころ安閑・宣化兄弟が越前・近江あたりにいたのか生母の目子媛の郷里である尾張あたりにいたのか存じませんが、あるいは既に現地で妻子ある身だった可能性も考えられそうです(もっとも、そういった妻子の記載は安閑・宣化紀に見えないのだから『日本書紀』の継体・安閑・宣化の享年のほうを疑うというのもひとつの考え方かもしれません)。まさか将来自分たちが春日山田や橘仲皇女と配偶関係になる運命だとは思わなかったでしょう。ともかく、宣化が橘仲皇女との間に石姫をもうけるのはどうしても継体元年(≒507年)かその翌年あたりを上限として考えざるを得ません。
ですから宣化の享年・生年が判明してもこの際は実はあまり意味がなくて、継体の即位した年代、継体・安閑・宣化父子が越前・近江あるいは尾張あたりのどこかからヤマト方面(ヤマトでなく樟葉宮周辺だったかもしれませんが)に出てきた年代こそが条件となるわけです。そのほかにも継体が磐余玉穂宮に入ったのが継体20年であるとか、安閑が春日山田を迎えたのが継体7年(だから宣化と橘仲皇女の配偶関係もそれと同時かそれ以降だろう)とか、いろいろ条件は考えられるでしょうが、安閑と春日山田の配偶関係成立の継体7年はまだしも、継体の磐余玉穂宮入りを継体20年と見て欽明の誕生をそれ以降とするとおかしなことになるでしょうから、石姫誕生の上限を508年として話を進めたく存じます。仮に石姫誕生を508年とすれば天智とは118歳差ですから、これを5で割って23.6歳。これでもまだゆったりした数値のように思えますが、これでいけば敏達誕生は508年に23.6年を足して531年か532年ごろとなります。この値は『皇代記』『本朝皇胤紹運録』等の主張する538年生まれとそんなに大きく違わない。さらに敏達には箭田珠勝大兄という同母兄がありました。敏達誕生を538年と見るなら天智とは88歳の差、これを4で割って1代平均が22歳です。
敏達の誕生をあまり下げるわけにいかない要因が別にあります。皇極が舒明との間に天智・間人・天武をもうける以前に、斉明即位前紀によれば用明の孫である高向王という人との間に漢皇子をもうけています。ですから舒明との配偶関係は再婚となりますが、その再婚が皇極の何歳の折のことかはわかりません。皇極の生没年は辞典類など諸書に594−661の形で示されており、おそらくこれがある程度公的な見解なのでしょうが、この生年594年(≒推古2年)が何に基づくのか古典文学大系『日本書紀』で見てみましたら、やはり斉明7年7月丁巳(24日)の斉明没の注に「天皇の享年を紹運録・水鏡などに六十八、帝王編年記に六十一とする」とあります。ここでまた『本朝皇胤紹運録』等の説を採れば推古2年生まれとなるわけです。皇極の誕生を594年とするなら、敏達の誕生を538年と見た場合に皇極との年齢差は56歳、1代平均18.67歳です。石姫の誕生を上限の508年と見た場合には皇極との年齢差は86歳で1代平均21.5歳。ただ石姫には先に箭田珠勝大兄が誕生しており、次が敏達ですから、兄弟で2−4歳程度の年齢差を考えるのが順当でしょう。もしも箭田珠勝大兄や敏達の誕生を宣化没後、両朝合一後などと考えますと、敏達誕生が上限でもおそらく欽明2年(≒541年)ごろとなるでしょうから、皇極との年齢差は53歳、1代平均17.67歳となります。しかもこれは上限であって、宣化没後すぐに欽明と石姫の配偶関係が成立し、すぐに箭田珠勝大兄誕生、またすぐに敏達誕生などと無理な見方をした場合の数値です。しかしながら欽明と石姫の配偶関係が宣化の没後にやっと成立したものとすると、たとえば欽明の誕生を継体3年と見た場合には、欽明元年に欽明は数え年32歳となる勘定です。生母手白香を通じておそらく前王統の血を受け継ぎ、アメクニオシハルキヒロニハなどという壮大な号をたてまつられた新王朝の始祖のような扱いの欽明の、おそらく最初の配偶関係の成立がやっと30歳前後……というのは、敏達―押坂彦人大兄―茅渟王の1代平均17.67歳と比べて違和感を覚える数値です。
実はこの不自然さはむしろ『本朝皇胤紹運録』等に見えるという斉明の享年68歳が高めであることにも起因しているようで、これでいくと天智が645年に数え年20歳として皇極33歳のときの誕生となりますし、これも『本朝皇胤紹運録』等にいう天武の享年65を56の誤りと見た場合には、天武は皇極38歳のときの子となる勘定です。必ずしも高齢ともいえませんが、いくら先に高向王との間に漢皇子をもうけているとはいえ少し遅いような気もします。むしろ『帝王編年記』が伝えるという享年61を採って601年誕生と見たほうが、言葉は悪いかもしれませんが楽におさまるような気がします。敏達を538年誕生として皇極との年齢差が63歳、3で割って1代平均21歳です。仮に敏達誕生を欽明2年(≒541年)と見ても年齢差が60歳、1代平均20歳。そして天智の誕生が数え年26歳、天武は31歳で誕生した勘定になります。高向王との間の子の漢皇子の存在を視野に入れても無理のない数字のように思えます。もっとも弟の孝徳の生年との兼ね合いが問題となるかもしれませんが、古典文学大系では孝徳の享年に関する注は見つかりませんでした。
結局また長い余談となってしまいました。
広姫立后・訳語田幸玉宮造営が敏達4年にようやく見えることを理由に、敏達の実質的な即位を敏達4年と見るなら、それまでの敏達は『元興寺縁起』に見える「日並田皇子」……たぶん「日並他田皇子」でヒナミシの他田皇子、おそらくヒナミシノミコといった存在であり、敏達の生母で欽明「皇后」、嫡妻格の配偶者だったであろう石姫が欽明没後に「大后坐時」「大后御世」的状況を迎えていた。そして子の敏達は欽明の没した時点で既に広姫を配偶者に迎えており、間に生まれた押坂彦人大兄もおそらく10代前半くらいになっていたものの、なお敏達は40歳近く(538年誕生と見て敏達4年に数え年38歳)になるまではヒナミシノミコとして「大后」的存在の石姫と相並んで君臨する形だったのではないか……などと見たく思うのです。もっといえば敏達即位時に「尊皇后曰皇太后」と見える石姫がこの敏達4年になって没したものとでも見たいくらいなのですが、記紀には石姫の没したことについて触れた記事がなく、そのように見るための証拠がありません。ただ崇峻紀の4年4月甲子(13日)の敏達埋葬の記事には「四年夏四月壬子朔甲子、葬訳語田天皇於磯長陵。是其妣皇后所葬之陵也」とあって、既に石姫が埋葬されている陵墓に敏達が追葬されたものと読めますから、少なくとも敏達の没する以前には石姫は没していただろうと見当がつく程度です。
再三になりますが、『皇代記』『本朝皇胤紹運録』等に従って敏達誕生を538年と見るならば、喜田貞吉さんや林屋辰三郎さんが主張された継体−欽明朝のニ朝対立的状況についてはどちらかといえば否定的に見ることになるでしょう。と申しますよりも、敏達の誕生年いかんに関係なく最初から否定的に見ております。『古事記』『日本書紀』と『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』で絶対的に食い違い・矛盾があるのですから、ニ朝対立を否定するならそれなりにこの矛盾に説明を加えなければなりませんが、もう少しあとで申します。
それにしても『上宮聖徳法王帝説』はともかく、『元興寺縁起』などにそれほど史料的価値を認め得るものかどうか。そもそも敏達について「日並田皇子」とする表記が見える部分は縁起部分でも前半、比較的冒頭に近い蘇我稲目臨終の遺言の場面で、そこには「尓時大々王者、日並田皇子之嫡后〈止〉坐〈キ〉、池辺皇子者他田皇子即次坐〈キ〉」と見えていました。これを信頼してしまうと敏達の即位以前から推古がその嫡妻的位置にいたことになって敏達4年の広姫立后を否定してしまうことになりかねません。なお『元興寺縁起』のこれに続く部分では蘇我稲目が没したのを「己丑年」、欽明30年(≒569年)としており、『日本書紀』が稲目没を翌欽明31年とするのと1年ずれるといったことも先に申しておりますが、ともかく欽明30年ごろに数え年16歳の推古が、おそらく数え年32歳程度だったであろう即位前の敏達の「嫡后」だったとしていることになり、「年十八歳、立為渟中倉太玉敷天皇之皇后」としている『日本書紀』推古即位前紀ともやはり年代が食い違うことになります。
もっとも『元興寺縁起』は縁起冒頭の「大倭国仏法、創自斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇御世、蘇我大臣稲目宿禰仕奉時、治天下七年歳次戊午十二月度来」に続けて、この仏教伝来の折に欽明が娘の推古に対し「お前の牟ク原の後宮を他国の神(=仏)の宮としたい」などと言い、推古が了承したといったことが書かれているようなのですが、享年から逆算して推古の誕生を欽明15年(≒554年)と見るなら「戊午」(≒538年)は推古の生まれる16年前です。この矛盾について『元興寺縁起』は冒頭で「揩井等由羅宮治天下等与弥気賀斯岐夜比売命〈乃〉生年一百、歳次癸酉正月九日〈尓〉、馬屋戸豊聡耳皇子受勅、記元興寺等之本縁及等与弥気〈能〉命之発願、并諸臣等発願也」、「歳次癸酉」(推古21年≒613年)に推古が100歳だったとしています(推古紀36年3月癸丑の「時年七十五」によれば推古21年には60歳)。「推して知るべし」といったところかもしれませんが、どこまでが天平ごろの原文を伝えていて、どこからが平安期の創作なのかがわかりません。
『元興寺縁起』ではこの記述のあとも用明・推古・廐戸の一体感のようなものが強く打ち出されており(対し穴穂部間人の名は見えません)、法隆寺金堂薬師像銘と共通したイメージを持っているのですが、この薬師像銘もまたその年代を下げて見られるようになったものです。しかもそこには推古を指して「大王天皇」と見えているのですが、『元興寺縁起』の縁起本文もまた推古を「大々王」と表記していました。さらに『元興寺縁起』では「大々王」→「大后大々王」→「大々王天皇(命)」と変化しており、「大々王」の称を固有名詞ととらえているようにも見えるのですが、これについては『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「太帝天皇」「太皇天皇」も含めて本来同根、同じ呼称に由来する表記であって、何らかの肩書・称号、地位呼称だったのではないかと考えております。これも先に申しました。
法隆寺金堂薬師像銘も『元興寺縁起』に似た部分がうかがえます。もう2度引用させていただいていますので改めて引きませんが、「池邊大宮治天下天皇」(用明)が「大御身労賜時」、病気になった「丙午年」(用明元年。なお先にも申しましたが『日本書紀』では用明の発病は用明2年4月丙午=2日です)に「大王天皇」(推古)と「太子」(廐戸)をお召しになって誓願され、病気の快癒を願うから寺を造り薬師像を作りたいと詔されたが、崩じてしまわれ造ることができなかったので、「小治田大宮治天下大王天皇」(推古)および「東宮聖王」(廐戸)が命を承って丁卯年につかえまつった……などと見えているものでした。
おかしく思われますのは、2度登場する推古の表記が最初は単に「大王天皇」のみで2度目が「小治田大宮治天下大王天皇」となっていることです。常識的には初出はフル、省略しない長い称で示しておいて、2度目以降は省略形を用いるのが普通ではないかと思うのですが、ここでは逆に「小治田大宮治天下大王天皇」という長い言い方をあとに回しています。廐戸については初出が「太子」、2度目が「東宮聖王」ですから、これでは知識のない人には同一人物だとはわかりません。もっとも「太子」も「東宮」も皇太子を意味するから常識的に同じ人物とわかるのかもしれませんが、逆にいえば「東宮」などという令制以降の発想で記された銘文について考えてみても意味はないのかもしれません。
先にこの薬師像銘の「太子」と「東宮聖王」について「(前略)東宮と太子とを区別しているとみることもできる。筆者はこの「太子」は上宮太子、聖徳太子という厩戸皇子を呼ぶ通称と考える」とされる小林敏男さんの『古代女帝の時代』でのご見解を引かせていただきました。
拡大解釈のような印象でいけませんが、ここからすれば「大王天皇」「小治田大宮治天下大王天皇」についても用明在位の期間に「大王天皇」であった推古が用明没後(のある時点以後で、銘文にはありませんが崇峻没後)に「小治田大宮治天下大王天皇」、「小治田大宮」で「治天下」という状態となったもの、そんな意識が働いていたのではないかなどとも思うのです。あたかも『元興寺縁起』の推古が「大々王」→「大后大々王」→「大々王天皇(命)」と変化したように。
しかし、だとすれば薬師像銘の「大王天皇」もまた『元興寺縁起』の「大々王」同様に固有名詞として見ることになるのか……。これはどうでしょうか。もとより個人的には「大々王」もまた「大王天皇」と同根、同じ地位呼称あたりに由来するものと見てはおりますが、『元興寺縁起』では「大々王天皇」と似た性格の呼称は敏達が「他田天皇」、用明が「池辺天皇」で、ついでに言えば崇峻が「椋摂天皇」などと見えているようです。「他田」「池辺」「椋摂(椋橋)」と並ぶ「大々王」だから『元興寺縁起』が誤って固有名詞的に解釈していたものと見たのですが、薬師像銘のほうは「小治田大宮治天下大王天皇」と似た性格の称として並べて見るべきは「池邊大宮治天下天皇」でしょうから、当然ながらここでは「小治田(大宮)」と「池辺(大宮)」とが対応し、「大王天皇」と「天皇」とが対応しているということになると思います。極端な考え方かもしれませんが、用明が「池邊大宮治天下天皇」だった時点で推古は「小治田大宮治天下」でこそなかったものの既に「大王天皇」ではあった、などといったことにもなりそうです。
これはまったくおかしい。
「天皇」はあくまで「天皇」です。もとより天武朝より前には「天皇」という表記はなかったのかもしれませんが、後代の知識により「大王」あたりの語が「天皇」表記に改められたものと考えるにしても、ともかく即位を経て「天皇」(あるいは「大王」か)になるわけです。その「大王」も「天皇」も含む「大王天皇」などという称はそもそもそれ自体矛盾を含んでおり、「天皇」以前が「大王」だったとすれば「大王天皇」はもとは「大王大王」だったなどというおかしなことになってしまう。『元興寺縁起』の「大々王」に近い表記と見ることもできるかもしれませんが、どちらにせよ『日本書紀』にも『古事記』にも見えない表記です。薬師像銘の「大王天皇」「小治田大宮治天下大王天皇」に近い表記としてはわずかに『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』に「小治田宮御宇太帝天皇」「太皇天皇」などと見えるのを挙げられる程度でしょう。不思議なことにどれも仏教関係の資料ですが、ではこのころの仏教関係でない資料とは何かと考えますと、逆に『家伝』『風土記』『万葉集』『懐風藻』くらいしか思い当たりません。もとより『日本書紀』も部分部分で仏教関係の資料を用いているようですから、仏教関係の資料とそうでない資料とを分けるというのも本来不可能、かつ無意味なのかもしれませんが。
実は『日本書紀』の仏教関係の資料を参照したらしい記事に奇妙な例を見つけました。孝徳紀、例の「明神御宇日本倭根子天皇」の「日本倭」などという表記の見える大化2年2月戊申(15日)条の少し前の、大化元年8月癸卯(8日)の僧尼への詔です。これは「寺司」「寺主」制定のことが見える詔ですが、その詔が「於磯城嶋宮御宇天皇十三年中、百済明王、奉伝仏法於我大倭。(略)於訳語田宮御宇天皇世、蘇我馬子宿禰、(略)。於小墾田宮御宇世、馬子宿禰、(略)」などと始まっているようで、欽明が「磯城嶋宮御宇天皇」、敏達が「訳語田宮御宇天皇」なのに対し推古のところだけ「小墾田宮御宇」だけのようなのです。
この「小墾田宮御宇世」について、古典文学大系では「小墾田宮御宇天皇世」としたうえで校異で「天皇―(北・勢・閣ナシ)」、北野本・伊勢本・内閣文庫本に「天皇」が無い旨示されています。新訂増補国史大系では「小墾田宮御宇・世」として「・」の左に傍書して「(推古)」と見えています。
この孝徳紀の記述ではさすがに仏教公伝については欽明紀と同じ欽明13年(≒552年)のこととしていますが、百済の聖明王を「明王」と記す例としては『上宮聖徳法王帝説』の「志癸嶋天皇御世戊午年十月十二日、百斉国主明王、始奉度仏像経教并僧等(後略)」の「百斉国主明王」が思い当たります。『日本書紀』欽明13年10月では「百済聖明王〈更名聖王〉」となっています。この大化の僧尼への詔が仏教関係の資料を参照したものだとすれば、あるいはこの「小墾田宮御宇世」も原資料に「小治田大宮治天下大王天皇」「小治田宮御宇太帝天皇」などとあったのを見て面食らった筆者がどう扱ってよいのかわからず、空白のままにしておいたのが結局そのまま伝写されてしまった……そんな事態を想定したくなります。筆写の過程で「小墾田宮御宇世」表記に「天皇」を補うことはあっても、「小墾田宮御宇天皇世」とあるものについて多くの写本が「天皇」を脱してしまうといったことは、『日本書紀』といったものの場合考えづらく思うのです。
常識的に考えるなら、これら「大王天皇」「太帝天皇」「大々王」などは「天皇」(「大王」)を「太帝」「大」的な何らかの言葉で修飾し、その「天皇」の特殊な性格を表現したものと解するのが順当のように思われます。推古は最初の女帝ですから、実は「大后天皇」などとあるべきところが誤って「大王天皇」のように伝えられたのではないか。だとすれば『日本霊異記』上巻第25の持統を指す「大后天皇」や上巻第26のやはり持統を指す「大皇后天皇」、『懐風藻』釈智蔵伝のこれも持統を指すらしい「太后天皇」(智蔵が「太后天皇世」に唐から帰国したというもの。なお喜田貞吉さんは、智蔵が天武2年に僧正になったと『僧綱補任』に見えることから、この「太后天皇」を天智皇后の倭姫と見ておられたようです。井上光貞さんの「古代の女帝」により知りましたが、井上さんご自身は『僧綱補任』のこの時期の記録には懐疑的です)、さらには『日本書紀』天智6年2月戊午(27日)の斉明を指すらしい「皇太后天皇」などの表記とつながってくるのかもしれません。先ほども申しておりますが、この「皇太后天皇」には古典文学大系で「おほきさきのすめらみこと」の読みが見えていました。『日本霊異記』上巻第25の「大后天皇」についても、読みを付けるとしたらやはり「おほきさきのすめらみこと」となるのでしょう。
しかし、そういった錯誤・思い違いにより発生した称が「大王天皇」「太帝天皇」「大々王」といったバリエーションを生みながら伝わっていくものでしょうか。また持統については現実に『日本霊異記』上巻第25に「大后天皇」、『懐風藻』釈智蔵伝に「太后天皇」とあります。しかも『日本霊異記』上巻第25は「故中納言従三位大神高市万侶卿」、「大神高市万侶」(おほみわのたけちまろ。『日本書紀』持統6年2月乙卯=19日に「中納言直大弐三輪朝臣高市麻呂」、3月戊辰=3日に「中納言大三輪朝臣高市麻呂」)が「朱鳥七年壬辰」(=持統6年)3月3日の持統の伊勢行幸を諌止しようとしたという『日本書紀』にも見える話で、『日本書紀』と一致する部分の多いことは、逆に『日本書紀』に準じる記録を見て書かれたものという可能性もうかがわせますが、『懐風藻』の釈智蔵伝も実在の人物の伝記ですから、正史に見えない表記とはいえこれら「大后天皇」「太后天皇」表記の記録の信頼性は高いものとすべきでしょう。いっぽう推古について「大后天皇」などとしたものは見た記憶がありません。わずかに『元興寺縁起』に推古を指す「皇后帝」という表記が見えるようですが、これは縁起も末尾近く、推古100歳の癸酉年元日に「聡耳皇子」廐戸が述べたとする言葉の中に見えるもので、私などにはその言葉の意味さえもわかりません。ともかく、「大王天皇」「太帝天皇」「大々王」などには「大后天皇」といったものではないオリジナルの「○○○○」という語が存在したと考えたほうがいいように思うのです。
竹内理三さんの『律令制と貴族政権』の「附註 大王天皇考」は、なにぶんもう半世紀以上も前のものであって、研究史上の意味はあっても現在では過去の知見ということになるのでしょうが、そこに以下のようなご見解が記されています。「法隆寺金堂の薬師仏光背銘文に、崩じた用明天皇は、「池邊宮大宮治天下天皇」と称して「大王天皇」といわず、現在天皇である推古天皇を「小治田大宮治天下大王天皇」と、とくに「大王天皇」と称しているのも、決して単純な用語上の変化ではなくて、「大王」天皇と称するところに、現在執政の天皇という、当今天皇という内容を示すための意識的な言葉であると解せられる」。ここで竹内さんが「大王」の語に「現在執政の」「当今」の意味を見られたのには説明が必要でしょう。その直前の記述では、『釈日本紀』所引『伊予国風土記』逸文の温湯碑銘文に聖徳太子が「法王大王」と見えていることを挙げられて「「大王」の号がひとり天皇のみの特別のものではなかった」ことがうかがわれるとされ、臣・連の中の政治に参加した有力者が大臣・大連であったように、「王」の中で政治の中心となった存在を「大王」と称するに至ったのではあるまいか、と見ておられます。
なお同じ論の中で竹内さんは「天皇」号の使用開始を推古天皇のころと推論されたうえで、「従来、天皇の称号の所見の最も確実な史料としてあげられて来た法隆寺の薬師仏像の製作年代が降ったものとなっても、なおこの推論は動かし難い各種の傍証をあげ得る」とも記して、やはり「天皇」号の開始を推古朝に見ておられます。59年ごろには既に薬師像の年代を下げて見る傾向が強まっていたことをうかがわせますが、竹内さんはここではその「傍証」は挙げておられないようです。また「薬師仏像の製作年代が降った」ことを認められるのであれば、この鐫刻された銘文自体も推古朝には存在しなかったことになって、「大王天皇」に「現在天皇」「当今天皇」の意味を見ようとされるのも矛盾となるように思うのですが、それについてのご説明も見当たりません。なにしろこの「大王天皇考」は3ページ弱、題を除き47行という短いものなので多くを望むのは無理なのですが、「大王天皇」号よりはむしろ「天皇」号のほうが主眼だったようにも拝察されます。
その中に次のような記述が見えます。「本居宣長によれば、わが国では、天皇以下皇子皇孫のすべてを通じてオホキミと尊称し、「王」の字を以てあてていたのであるという。ところが、五世紀頃から「大王」の号が用いられ始めた。この大王は国語で如何に訓んだか明かでないが(王をオホキミと訓んだとすれば、オホイオホキミとでも訓むべきであろうか)(後略)」……中途半端な引用ながら、「(後略)」部分では先に引用させていただいております隅田八幡神社の人物画像鏡銘の「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時」について福山敏男さんが「男弟王」を継体と見ておられますこと、それから江田船山古墳の銀錯銘大刀の「治天下獲□□歯大王世」(稲荷山鉄剣銘以前ですから反正とされています)などについて言及しておられます。
中でもとくに目を引きましたのは、竹内さんが「大王」について「オホイオホキミとでも訓むべきであろうか」とされていることです。「大王」をはたしてオホイオホキミと読んだかどうかわかりませんが、こういった視点は興味深く思われます。「オホイオホキミ」ならばむしろ『元興寺縁起』の「大大王」のほうがあてはまりそうにも思えるのですが、このように読んでいけば「大王天皇」はさしあたり「オホイオホキミノスメラミコト」とか「オホキミノスメラミコト」などとでも読めるでしょうか。「太帝天皇」ならば「オホキミカドノスメラミコト」といったことにでもなるのか。ただし『日本書紀』では「朝庭」と表記して「ミカド」と読ませている例が圧倒的に多い印象で、確かめたわけでもありませんが「帝」1字で天皇個人を表している例は多くないように思うのです。古典文学大系『日本書紀』で見ますと継体紀には「胎中之帝」(「ほむだのすめらみことのみよ」。6年12月)・「磐余彦帝」(「いはれびこのすめらみこと」。24年2月丁未朔=1日)など「帝」で「スメラミコト」などと読ませている例が見えますが、これらは漢文的な対句の文に見えているものですからあまり参考にならないのかもしれません。また「太帝天皇」の「太帝」は単に「大王」的な表記を書き改めただけのもののようにも思われ、「大王」「太帝」のそれぞれの文字を訓で読もうなどと試みることもナンセンスなのかもしれません。いやそれ以前に「スメラミコト」という読みの語は「天皇」と対応しているのだから、「天皇」号が定まった天武朝より前に「スメラミコト」の読みを想定すること自体見当違い……なのでしょうか。
皇極4年6月庚戌(14日)孝徳に譲位した皇極は「皇祖母尊」、スメミオヤノミコトの号をたてまつられていました。『古事記』欽明段には穴穂部について「次、三枝部穴太部王、亦名須売伊呂杼」、またの名はスメイロドと見えています。「スメ−」という語が「ミオヤ」「イロド」といった続柄呼称の頭に付いている。「スメミオヤ」「スメイロド」と呼ばれる人が「スメ−」という人から見てどういう続柄なのかということを表しているのでしょうから、これらの称を実在したものと見るならば、天武朝より前……穴穂部の時代にいたっては天武の時代より100年近くも前ですが、そのころ既に「スメ−」という語が存在していたことを示すのではないか、などとも思うのです。
ちなみに……でも何でもありませんが、「太帝」でなく「大帝」と来るとたとえば帝政ロシアの「ピョートル大帝」(ピョートル1世、1672−1725、在位1682−1725)とか、フランク王国の「カール大帝」(742−814、在位768−814)といった名を思い浮かべます。名が浮かぶだけでそれ以上のことはわからないのですが、この「大帝」がどのような語に由来しているのかと思って山川出版社の『世界史小辞典』で調べたところ、ピョートル1世についてはロシア語では Pëtr
T(Velikii) と見えますが英語では Peter Tのみ。対しカール大帝のほうはドイツ語で Karl der Große 、ラテン語で Carolus Magnus 、英語で Charles the Great 、フランス語で Charlemagne などと見えています。英語で Charles the Great となりますとアレクサンドロス、アレキサンダー「大王」が英語で Alexander the Great ですから、「大帝」も「大王」もどちらも
the Great だったということになります。だから「太帝」も「大王」も同じこと……などというわけにはいかない。「アレキサンダー大王」「カール大帝」などと訳された方がどなたなのか、明治ごろの方なのか存じませんが、なぜ「大王」「大帝」と訳し分けられているのかと考えますと、カール大帝は800年のクリスマスに教皇レオ3世から西ローマ帝国の皇帝の冠を授けられているようです。ちょうどそのときビザンツ帝国、東ローマ帝国では女帝エイレネ(在位797−802)の時代で、レオ3世はエイレネを正統な東ローマ皇帝とは認めず、また東ローマ帝国でもカールの戴冠を承認しないという関係だったようです。ちょうど桓武天皇が平安京に遷都した794年から6年後ということになるでしょうか。ローマ帝国が東西に分裂した395年から405年後というほうが適当かもしれません。
なお桓武天皇(737−806、在位781−806)もカール大帝と似たイメージがあるように思うのですが、それは発音が似ているからではなく生没年が近いからです。それから桓武は天武系が称徳で途絶えたのち天智系になって光仁―桓武と2代目の天皇ですが、カール大帝もカロリング朝の2代目のようで、また外征にいそしんだ点も似ています。桓武に外征のイメージはないかもしれませんが、坂上田村麻呂を東北にやって対蝦夷戦争をさせています。藤原緒嗣と菅野真道の徳政相論で緒嗣が主張したのは「軍事」(対蝦夷戦争)と「造作」(平安京造営)の停止でした。いや、そもそも比較すること自体いろいろな意味でクレームがつくのでしょう。
なおロシアのピョートル1世のほうは1721年に自ら皇帝を称したもののようですが、カール大帝のような形で余談をつなぐことができません。余談をつながれても困るのですが、江戸時代の女帝である明正天皇(1623−1696、在位1630−1643)や後桜町天皇(1740−1813、在位1762−1770、なお践祚は1762、即位が1763)などと生存年代の重なる部分もあまりないですし、また重ねて見る意味もありません。ただ『世界史小辞典』の記述によれば「はじめ兄のイヴァン5世と併立し、姉ソフィアが摂政したが、1689年から親政。96年イヴァン5世が没してかれの単独治世がはじまる」などと見えますし、また彼の没後はロマノフ朝最初の女帝であるエカチェリーナ1世(1684−1727、在位1725−1727)が立っています。彼女は「ピョートル大帝の2度目の皇后」だったのだそうで、有名なエカチェリーナ2世(1729−1796、在位1762−1796)とは別人です。ロマノフ朝もまた女帝が多く、エカチェリーナ1世からエカチェリーナ2世までの間に男女男女と1代おきに4人の女帝が立っています。これはビザンツ帝国あたりの伝統を受け継いだものかと思ったら、ロシアの皇帝位についてはピョートル1世が1721年に皇帝を自称したものだそうで、どうもビザンツ帝国からの伝統を継承したという部分は希薄なようにも思われます。それはともかく、エカチェリーナ2世はドイツ貴族の家から迎えられてピョートル3世の配偶者となったのですが、エカチェリーナ1世についても「リトアニアの農夫の娘で、前名マルタ」だということです。
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