7. 大后の時 − 3

 またこのように見てきますと、垂仁段・垂仁紀のサホビメ・ヒバスヒメに関係する話も違った見え方をしてくるように思われます。『古事記』では火中で死んでゆく「后」のサホビメに対し垂仁が「私の配偶者はどうするか」などと尋ね、サホビメが「旦波の比古多々須美智宇斯王の娘の兄比売・弟比売がよい」と答える。そこでその娘の4人を召して2人返し、最終的にヒバスヒメが「大后」となっている。これらのエピソードを一連の構想のもとに成立したものと見るなら、死んでゆくサホビメに対し「私の配偶者をどうしたらよいか」と尋ねるという現実離れした話の裏に、実は「后」サホビメがいなくなったらまた「后」「大后」が必要であるといった意識が流れていたのではないかなどという感じもします。『日本書紀』の話のほうは「皇后」サホビメは死ぬ直前に「丹波道主王の娘5人を後宮にいれればいい」と問われもしないのに自ら八綱田に告げる。その言葉に従って娘5人を迎え、ヒバスヒメを「皇后」、妹3人を「妃」とし、竹野媛のみ送り返したら輿から落ちて亡くなった。ところがその「皇后」ヒバスヒメは垂仁32年に没してしまい、その陵墓に埴輪を立て並べたのちは「皇后」の記載はありません。34年には山背行幸の際「綺戸辺」(かにはたとべ)という美人がいるとの話を聞いて、垂仁が「もしその美人と会えるなら、この道にその前兆よあらわれよ」と念じた。すると川から大亀が出てきたため矛で刺したところ石になった。結局その「綺戸辺」を召して後宮に入れたら「石衝別命」(いはつくわけのみこと)が生まれた。これは三尾君の始祖である……などという話が見えており、この垂仁―石衝別命という系譜が『釈日本紀』所引『上宮記』逸文の継体の母方の系譜「伊久牟尼利比古大王児伊波都久和希……」と重なってくるもののようなのですが、逆にいえば継体の母方の系譜をこのような形で垂仁紀に挿入したもののようにも思われます。「綺戸辺」は皇后とされたなどとは見えません。

 こんなことをダラダラと記してまいりましたのも、「皇后」没後にまた「皇后」を立てる必要があったことをうかがわせるような記述が『日本書紀』に見えるからでして、敏達53月戊子(10日)に「有司(つかさ)、皇后を立てむことを請(まう)す。詔して豊御食炊屋姫尊を立てて皇后とす」(「有司請立皇后。詔立豊御食炊屋姫尊為皇后」)とあって、広姫没後の皇后に推古が立てられたと見えています。
 「有司請立皇后」の文言自体は敏達紀のみならず宣化元年3月壬寅朔(1日。「三月壬寅朔、有司請立皇后。己酉、詔曰、立前正妃億計天皇女橘仲皇女為皇后(後略)」)・欽明元年正月甲子(15日。「元年春正月庚戌朔甲子、有司請立皇后。詔曰、立正妃武小広国押盾天皇女石姫為皇后(後略)」)にも見えており、また安閑元年3月戊子(6日)には「有司(つかさ)、天皇の為に億計天皇の女(ひめみこ)春日山田皇女を納采へて(あとへて)皇后とす。〈更の名は山田赤見皇女。〉(後略)」(「有司為天皇納采億計天皇女春日山田皇女為皇后。〈更名山田赤見皇女。〉」)などと見えていますが、こちらの例ははおかしい。立后というだけなら話はわかりますが、「納采」について言えば、安閑と春日山田の配偶関係は継体79月に既に成立していたはず。しかもそこでは「九月、勾大兄皇子、親聘春日皇女」、みずから春日山田を迎えたとあってその際の安閑の妻問いの歌に対する春日山田の挽歌のような歌も記されており、さらに翌継体8年正月には春日山田との間に子ができないとわかっていたというのですから、安閑元年3月にいまさら「有司」が天皇のために「納采」してやるといった話ではない。これはどちらかがおかしい。私はどちらもおかしいと思っております。
 「有司請立皇后」自体におかしな部分があって、これもきちんと確認しておらず恐縮ながら、立后にからんで「有司請立皇后」と見えるのは宣化紀・欽明紀と敏達紀の推古立后の場合だけなのではないでしょうか。「尊皇后曰皇太后」や「時年○○」などと同様にパターンとして見えていますので、当然漢籍あたりに範をとったものかと思っていたのですが、古典文学大系の注にはそのような記載は見えません。
 立后記事の体裁も細かく見ればバラエティがありますが、基本的には「○○(日付)、立○○為皇后」のみの体裁がほとんどのように思われます。たとえば雄略紀が「元年春三月庚戌朔壬子、立草香幡梭姫皇女為皇后(後略)」、仁賢紀が(元年の)「二月辛亥朔壬子、立前妃春日大娘皇女為皇后(後略)」、そして用明紀が「元年春正月壬子朔、立穴穂部間人皇女為皇后(後略)」、舒明紀が「二年春正月丁卯朔戊寅、立宝皇女為皇后(後略)」などです。
 なお安閑紀にも「有司」の語自体は見えますが、お示ししましたように「有司為天皇納采……春日山田皇女為皇后」、継体紀と矛盾するおかしなものでした。継体紀は(元年3月の)「甲子、立皇后手白香皇女、脩教于内」であって特別な例です。また敏達紀でも広姫立后のほうでは「四年春正月丙辰朔甲子、立息長真手王女広姫為皇后(後略)」のみであって「有司請立皇后」は出てきません。もっとも同じ敏達紀の中で2度も「有司請立皇后」を用いるとくどくなるといった理由で推古立后だけ「有司請立皇后」としたのかもしれず、「広姫のほうは有司から求められたわけではないが立后した、推古は有司の求めに応じて立后した」などと読み取ろうとするのは的外れなのかもしれません。宣化紀から敏達紀に限って見える「有司請立皇后」はその部分の編纂者の特別な意図、あるいは趣味のようなものをうかがわせるものだと思うのですが、敏達紀では広姫立后については「有司請立皇后」とされず、推古立后のみ「有司請立皇后」とされていることから、個人的にはやはりそこに何らかの意味を付与したかったもののようにも感じられるのです。
 推古立后にもおかしな部分があって、何度も申しますように推古即位前紀には「年十八歳、立為渟中倉太玉敷天皇之皇后」と見えるわけですが、これだと欽明32年(≒571年)、敏達の即位前に立后したことになってしまいます。一般的にはこれを配偶関係の成立と読みかえ、さらに広姫立后を否定的に見られるご見解につながっていくのでしょうが、これに対し冒頭で推古即位前紀がおかしいこと(「卅四歳、渟中倉太珠敷天皇崩」も「32歳敏達崩」か「34歳用明崩」の誤り。「幼曰額田部皇女」、「額田部皇女」は幼名だと言っており、用明・崇峻紀にも「炊屋姫皇后」「炊屋姫尊」と見えるのに「皇后額田部皇女」は奇妙、など)、また天智即位前紀の「立天皇為皇太子」や持統称制前記の「天豊財重日足姫天皇三年、適天渟中原瀛真人天皇為妃」など、即位前紀は全般的におかしな印象であることを申しております。
 宣化・欽明紀の「有司請立皇后」の例などから考えますと「敏達紀も5年の『有司請立皇后』から推古立后に至る記述こそが本来のもので、広姫立后については後から挿入されたもの、舒明以降王統が押坂彦人大兄の系統に固定したのちに作られたこと」といった形で見られる向きもおありではないかと思われますが、ならばその事実でない広姫立后が、敏達即位直後でなくなぜわざわざ敏達4年のこととして語られているのか。その理由の説明がほしいところです。
 しかも敏達4年の記述では、正月の広姫立后にかける形で他の后妃・所生子についての記載も正月是月条にまとめて記され、2月には白猪屯倉から戻った蘇我馬子が復命したこと、また百済の進調が例年より多かったこと、さらに「皇子」(彦人か用明か不明)と「大臣」とに「任那のことを怠るな」などと詔したこと、4月には吉士金子を新羅に、吉士木蓮子を任那に、吉士訳語彦を百済にそれぞれ派遣したこと、6月には新羅の進調が通常より多かったこと、また多多羅・須奈羅・和陀・発鬼の四邑の調をあわせて進調してきたことなどが叙述されます。そして「是歳」条で「海部王の家地と糸井王の家地とを占わせたら、よかったので、訳語田に宮を造営した。これを幸玉宮という」などと見えています。皇后広姫の没したことを伝える11月条は変則的にこの「是歳」条のあと、4年の記事の末尾に回されており、結果その直後に推古立后の53月条がすぐに続く形となって、「皇后広姫が没してしまったため推古が新たに皇后に立てられた」ことを強調しているようにも思われるのです。
 ……「語るに落ちる」と申しますか、「広姫が没したため皇后が必要とされて推古立后となった」などと言いながら、敏達は4年までは皇后がいなかったわけです。少なくとも『日本書紀』はそう記している。3年間は皇后が必要とされなかった。皇后が絶対的に必要だったというわけではなかったように思われます。
 しかしながら、敏達と広姫の配偶関係が敏達4年に成立したというわけでもなさそうです。広姫所生の子は押坂彦人大兄・逆登皇女(さかのぼりのひめみこ)・菟道磯津貝皇女(うぢのしつかひのひめみこ)と3人の名が見えており、この「菟道磯津貝皇女」の名について宣長が『古事記伝』で「磯津貝」の3字を推古の長女「菟道貝鮹皇女」の別名「菟道磯津貝皇女」から紛れ込んだものと見ているらしいこと、先に古典文学大系の注から引かせていただいています。名前はともかく、存在まで疑問視するには及ばないということになるでしょうか。
 敏達と推古の間の子は『古事記』に8人、『日本書紀』に7人見えていますが、仮に敏達5年(≒576年)3月の立后の際に配偶関係が成立したと考えても敏達14年(≒585年)の敏達没まで9年ちょっと。8人の子というのは常識的には考えづらい線ではありますが、不可能ではないのかもしれません……などといったことも先に申しております。しかし広姫の場合、仮に敏達4年正月に配偶関係が成立したものと想定すると、11月には没しているわけですから、三つ子でない限りは3人の子の誕生はあり得ません。敏達即位以前のことか以後かはわかりませんが、少なくとも広姫の没する数年前から配偶関係にあったことになるでしょう。広姫は敏達即位以後も配偶者ではありながら皇后でない状態が続き、敏達4年にようやく立后した。これをどう解釈したらよいのか。

 立后が即位から大幅に遅れる例というのは、孝昭の「廿九年春正月甲辰朔丙午、立世襲足媛為皇后」とか孝安の「廿六年春二月己丑朔壬寅、立姪押媛為皇后」など、問題にしても仕方のない「欠史八代」のころになぜか多く見える印象で、その後は垂仁・景行・仲哀・応神・仁徳・允恭・安康の2年というパターンが多く(なお垂仁は5年に皇后狭穂姫が没したのち15年に日葉酢媛立后、仁徳は35年に皇后磐之媛が没したのち38年に八田皇女立后)、履中は例外的に6年正月に草香幡梭皇女の立后が見えています。雄略から欽明までは立后のない清寧を除き元年立后というパターンです。もとより年末に即位して翌年が元年という例も多いですし、安閑などは即位前紀で継体が没する当日に譲位したとしながら、元年まで2年の空位があるわけですが、それでもともかく元年立后となっています。そして敏達が4年に広姫立后、5年に推古立后。用明は元年正月壬子朔(1日)に穴穂部間人の立后が見え、崇峻は皇后なく、舒明は即位から1年後の2年正月戊寅(12日)に皇極の立后が見えます。孝徳の場合間人の立后は即位から半月後の7月戊辰(2日)、天智は倭姫王の立后が72月戊寅(23日)ですが、即位を7年正月戊子(3日)と見れば50日後、「或本」の伝える63月(実は近江遷都の月)と見れば翌年となります。天武の場合、持統の立后は『日本書紀』の主張する天武2年の2月癸未(27日)ですが、天武即位と同日です。こうして見てまいりますと、敏達4年の広姫立后がある程度事実を伝えるものとすれば、むしろ天智の7年立后という例に近く思えてまいります。
 いや、それもおかしい。天智の「7年」という数字はいわゆる「称制」の期間も含めた数字であり、6年の称制ののちに即位したのが7年正月戊子、もしくは「或本」によれば近江遷都と同時の63月ということになります。即位と立后との間隔は実質的には50日か1年弱かで、元年4月の即位から4年正月の立后まで3年弱の敏達の場合と比較すべき対象ではないでしょう。
 しかし敏達4年是歳条に訳語田幸玉宮の造営が伝えられているのは、天智即位が6年の近江遷都と時期が近いこととあわせ考えますと気になるところです。敏達元年4月甲戌(3日)の即位の記事に続く是月条によれば、当初の宮は百済大井にあったと記されています。百済大井の宮はなぜか3年ほどで放棄されて訳語田に移ったということになるでしょうか。

 先に『元興寺縁起』が敏達を「他田皇子」、また用明を「池辺皇子」と称していることを引き、訳語田宮の造営が敏達4年であることを挙げて「他田皇子」「池辺皇子」の称については否定的に見たのですが、『元興寺縁起』には(おそらく敏達について)もっと奇妙な称が見えているようです。
 「他田皇子」「池辺皇子」の称にからんだ部分ですが、縁起冒頭の「大倭国仏法、創自斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇御世、蘇我大臣稲目宿禰仕奉時、治天下七年歳次戊午十二月度来」から30年あまりたって蘇我稲目が危篤となり、臨終に際し「池辺皇子与大々王二柱」(用明と推古)に対して「私が仏法を修行なさるよう申し上げたため天皇も修行されたが、余臣は仏法を捨て去ろうとしている。仏神の宮としてたてまつった牟久原の後宮は滅ぶとも『物主大命』のままに任せるが、天皇と私とは同じ心だ。皇子たちも仏法を捨て去るようなことはなさらないでくれ」といった遺言をする。そのあとに「尓時大々王者、日並田皇子之嫡后〈止〉坐〈キ〉、池辺皇子者他田皇子即次坐〈キ〉、以是後言白」――その時「大々王」は「日並田皇子」の嫡后であらせられ、「池辺皇子」は「他田皇子」の「即次」(日本思想大系『寺社縁起』所収「元興寺縁起」では「ひつぎ」の読みが付されています)であらせられた。だから遺言したのだ――などといったことが見えているようです(こういったことでいいのでしょうか)。この直後の記述では「然〈弖〉己丑年、稲目大臣薨已後、余臣等共計〈弖〉、庚寅年焼切堂舎、仏像経教流於難波〈ノ〉江也」――己丑年(欽明30年≒569年が己丑)に稲目大臣が薨じたのち、余臣らは共謀して翌庚寅年に堂舎を焼き「仏像経教」を難波の江に流すという挙に出た――などと続いています。ただし『日本書紀』では「卅一年春三月甲申朔、蘇我大臣稲目宿禰薨」、稲目は欽明30年でなく31年没と見えています。
 ともかく、ここに見える「大々王」「日並田皇子」「池辺皇子」「他田皇子」の称はおそらく全部がそれぞれ何らかの形でおかしいのでしょうが、 中でも「日並田皇子」の称は奇妙です。これについて日本思想大系『寺社縁起』所収「元興寺縁起」では「日並四皇子」と改められて「ひなみしのみこ」の読みが付されていますが、ウェブではこれを「日並他田皇子」と改める形で見ておられるページも拝見しております。
 また「大々王」が推古を、「池辺皇子」が用明を指すのはまだいいとして、「他田皇子」も「日並田皇子」も敏達を指すことになるはず。しかし、もしも「日並田皇子」が「ひなみしのみこ」的な読みをするものだとすれば、ヒナミシノミコ(「日並知皇子」)は本来天武と持統の間の長男(唯一の子)の草壁皇子を指す称のはず。なぜここで突然草壁皇子が推古を「嫡后」として見えているのかも不明ですし、いや、これは草壁でなく敏達を指したものだというのなら、同じ敏達について「日並田皇子」「他田皇子」と書き分けているというのも奇妙ですし、まったくおかしな話です。
 これをどうにか解釈して理解しようとするならば……まず現在見える形の『元興寺縁起』の筆者に「日並知皇子」(草壁)という存在についての知識がなかった可能性が疑われるでしょう。そのうえで「大々王者、日並田皇子之嫡后〈止〉坐〈キ〉」の表現に近いような資料を見つけ、その「大々王」ないしそれに近い表記の存在について、それを推古のことと思い込んでここに挿入したのではないでしょうか。実際に『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』には「小治田天皇大化三年歳次戊申」を推古朝のことと勘違いしているかのような記述も見られました。草壁の「嫡后」といえば元明のこととなるでしょうから、元明について「大々王」かそれに近い表記で記した資料があったということなのでしょう……か。
 「日並知」という語は当然地名とか氏族名ではないでしょう。『万葉集』巻149、人麻呂の「日並皇子(ひなみしのみこ)の命の馬並(な)めて御猟(みかり)立たしし時は来向ふ」(「日双斯 皇子命乃 馬副而 御獦立師斯 時者来向」)の古典文学大系の頭注に「日並の皇子の命―続日本紀に日並知皇子(尊)とある。日(天皇)と並んで天の下をしろしめす意という。草壁皇子のこと(後略)」と見えます。だとすれば、即位前の草壁が「並んで『日』を知」っていたのは称制期の持統なのでしょうか。草壁には元明という配偶者があったのですから、持統と草壁が相並んで「日を知る」などという状態は穏やかでないようにも思われます。しかし「称制」という語の中国でのもともとの意味を見てみますと「天子が幼少のとき、皇太后が代って政令を行なうことを意味する言葉」(古典文学大系『日本書紀』の「称制」の補注より)などとあります。既に配偶者も子もある草壁が「幼少」だったとはいえないでしょうが、どういうわけか倭、日本では40歳前後になるまでその地位にはつけなかったようですから、「日並知」の語を「相並んで統治する」といった意味に解するなら、結局やはりそれは草壁が持統と「並んで天の下をしろしめ」していた、ということにならざるを得ないように思うのです。
 『元興寺縁起』の「日並田皇子」に戻りますと、やはりここで突然草壁との混同があったといったことは考えづらく、「日並○○……」と「……(他)田皇子」の間に大きな脱落があったなどと想定しないとすれば(そのような誤脱の可能性も高いと思っていますが)、「大々王者、日並田皇子之嫡后〈止〉坐〈キ〉」、推古がその「嫡后」だったような存在ですから、敏達その人を指したものと考えたほうがいいでしょう。先にも「日並他田皇子」の形に改めて見ておられるご見解を引かせていただいていますが、これに従わせていただき敏達がヒナミシノミコ的な称で呼ばれていたものと考えるとしたら、あるいは広姫立后や訳語田幸玉宮造営の見える敏達4年より前の3年弱、ないし欽明324月の欽明没から敏達4年までの4年弱は、敏達はまだ40歳近くに達していないなどの理由により実質的にはヒナミシノミコだったのではないでしょうか。
 固有名詞として定着している「日並知皇子」草壁は、持統称制前紀によれば「天命開別天皇元年、生草壁皇子尊於大津宮」、天智元年(≒662年)に百済の役のため赴いていた九州の娜大津で誕生したということになるようです。ここから計算すれば持統3年(≒689年)に没した時点では数え年28歳程度、まだ即位できる年齢ではなかったでしょう。あるいは浄御原令班賜とともに即位年齢の引き下げなども考えていたのかもしれませんが、だとしても2カ月半間に合わなかった。草壁が即位可能となるのを待つ間、実際には草壁が没するまでの期間は、生母でおそらく「大后」だった持統が「臨朝称制」、称制という形で朝に臨んでおり、その時期の草壁は「日並知皇子」という形で持統と並んで政権の座にあった……などと、身勝手にもそんなふうに考えたく思っています。そういった見方が許されるのなら、さらにまた信頼性の薄いであろう『元興寺縁起』の「日並田皇子」を敏達と見ることが許されるのなら、その敏達がヒナミシノミコと認識されていた期間は、蘇我稲目が没した欽明の末年とか、あるいは欽明15年(欽明紀)なのか欽明29年(敏達即位前紀)なのかわからない敏達の“立太子”あたりからなのかどうかはわかりませんが、その期間の終わりは広姫立后や訳語田幸玉宮造営の見える敏達4年までの期間であって、ことに欽明没後については、敏達元年4月甲戌(3日)の即位の記事に続けて「尊皇后曰皇太后」と見える「皇太后」石姫が実は“大后の時”を迎えていたのではないでしょうか。
 もちろんそんなことを記した記録・文献は皆無でしょうから、何の証拠もないのですが。
 敏達の享年も『日本書紀』には記されていませんので不明ながら、古典文学大系の注には「天皇の享年を皇代記・紹運録等に四十八、扶桑略記・愚管抄等に二十四、神皇正統記に六十一とする」とあります。享年24とすれば欽明23年の誕生で敏達元年に11歳、推古より8歳年下ということになりますし、享年61とすれば継体19年の誕生で敏達元年に48歳、推古より29歳年上となります。欽明の誕生を継体3年(≒509年)ごろと考えれば、おそらく欽明の10代半ばころの子となるでしょう。
 なお欽明の享年についても『日本書紀』には見えないのですが、古典文学大系『日本書紀』の注に「皇代記等に六十三、一代要記に六十二、神皇正統記に八十一などとある」とあって、欽明が571年に数え年63で没したとする説を採れば509年の誕生となります。
 敏達14年(≒585年)に敏達が享年48歳で没したとすれば、逆算して538年の誕生、『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』の主張する仏教公伝の年の誕生となり、推古より16歳の年長ということになります。敏達元年(≒572年)に数え年35歳、敏達4年(≒575年)には数え年38歳となる勘定です。『皇代記』『本朝皇胤紹運録』等の根拠はわかりませんが、仮にデタラメとしてもいい見当、想定される欽明や舒明の年齢などと照らしてもあながち悪くない数値のように思えるのです。
 『日本書紀』は記録や実在性の疑わしい時代の天皇の享年をたとえば「時年百卌歳」(垂仁)などと記しておきながら、かえって7世紀ごろの天皇の享年を記しません。その中で6世紀の継体の享年82、安閑の70、宣化の73、そして推古の75といった例はむしろ珍しいものです。
 『古事記』継体段には継体の享年について「天皇御年、肆拾参歳。〈丁未年四月九日崩也。〉」、享年43歳と見えていますが、当然これは『日本書紀』の伝える安閑・宣化の享年とは整合しません。『古事記』の伝える継体の享年43に合わせるために、たとえば安閑の誕生を継体の数え年15歳のとき(『古事記』の所伝ですから、継体は丁未年≒527年に43際で没したものとしてその誕生が485年、15歳は499年となります)と仮定して計算した場合、春日山田を迎えたことが見える継体7年に安閑が数え年15歳なのはよいとして、没した「乙卯年」(『古事記』安閑段。『日本書紀』と同年)には数え年37歳となり、安閑も宣化も40歳前後で相次いでバタバタと没したことになって、『日本書紀』継体2512月庚子(5日)の分注に引く『百済本記』の「又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨」よりいっそう不穏当なことになってしまいます。ですからよほど積極的に疑う根拠のない限りは、とりあえず『日本書紀』の継体の享年82、安閑の70、宣化の73に従いたく思います。これでも安閑は継体が数え年17歳の折の誕生、宣化は継体18歳のときの子となる計算となりますが。
 稲荷山鉄剣銘の辛亥年をほぼ西暦471年と見れば同年に継体22歳、安閑6歳、宣化5歳。継体が数え年82歳で没したのが『百済本記』によれば「太歳辛亥」ですから、継体は稲荷山鉄剣銘のころからさらに60年生きたことになるでしょう。倭王「武」が「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處……」の表を送った宋の順帝の昇明2年は戊午ですからほぼ西暦478年、稲荷山鉄剣銘の辛亥の7年後で、『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』のいうほうの仏教公伝の60年前に当たります。なお、安閑の没年については『古事記』『日本書紀』ともに乙卯年(≒535年)で一致しているわけですが、日付は『古事記』が「乙卯年三月十三日崩」、『日本書紀』が「冬十二月癸酉朔己丑、天皇崩于勾金橋宮。時年七十」でまるで違っています。
 敏達の誕生を538年、「戊午」年と見るならば、その年は『上宮聖徳法王帝説』に「志癸嶋天皇御世戊午年十月十二日、百斉国主明王、始奉度仏像経教并僧等(後略)」、『元興寺縁起』では「大倭国仏法、創自斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇御世、蘇我大臣稲目宿禰仕奉時、治天下七年歳次戊午十二月度来」とあって、これらに従えば欽明の代だったことになります。同じ「戊午」年が『日本書紀』では宣化3年にあたります。まさに喜田貞吉さんや林屋辰三郎さんが二朝並立的状況を想定されている時代にあたるわけです。そうすると対立者である宣化の娘の石姫との間に敏達が誕生していたことになりますが、そう考えられるかどうか。しかも欽明と石姫の間には敏達より先に箭田珠勝大兄が誕生しています。この箭田珠勝大兄の没したとされるのが『日本書紀』が仏教公伝の年と伝える欽明13年(≒552年)になります。
 『日本書紀』は欽明13年の「冬十月」に「百済聖明王〈更名聖王〉」が「釈迦仏金銅像一軀・幡蓋若干・経論若干巻」を献じるとともに別表を送って仏教を勧めたことになっていますが、箭田珠勝大兄が没したことはそれ以前の4月に「十三年夏四月、箭田珠勝大兄皇子薨」と見えています。その2年後には「十五年春正月戊子朔甲午、立皇子渟中倉太珠敷尊、為皇太子」、敏達立太子のことが見えるのですが、敏達即位前紀では敏達の立太子は「廿九年、立為皇太子」、欽明29年のこととして見えています。
 いずれにせよ『皇代記』『本朝皇胤紹運録』等に従って敏達の誕生を538年と見るならば、欽明と石姫の配偶関係の成立は遅くとも536年、宣化元年ころを下限と見なければならないでしょう。もちろん宣化と欽明が対立する状況下にあっても、政略的に欽明と石姫の配偶関係が結ばれたと見ることも不可能ではないのかもしれませんし、そもそも『本朝皇胤紹運録』のような後世のものの享年が信頼できるかという問題もあるでしょう。しかし、たとえば両朝並立が宣化4年(≒539年)に宣化が没したことで自然に解消し、それ以後に両朝合一のあかしとして欽明と石姫の配偶関係が成立したなどという形で見るとなると、箭田珠勝大兄の誕生は早く見積もっても翌欽明元年(≒540年)ころになるでしょうから、そうした場合は箭田珠勝大兄は欽明13年に数え年13歳かそれ以下で没したことになります。「大兄」という存在をどう見るかということも問題で、本来は「長男」の意味しかなかったものと見れば13歳でも立派に「大兄」なのでしょうが、孝徳即位前紀の皇極46月庚戌(14日)、皇極から譲位の意を示されて遠慮する孝徳の言葉に古人大兄を指す「大兄命」、オホエノミコトなる言い回しが出てきます。ヒナミシノミコノミコトなどと同様にこの「大兄命」にも地位呼称的な意味合いを積極的に認めるとすれば、はたして小学校6年生程度の子供が「大兄」と呼ばれるような身分となり得たかどうか。もっとも持統は数え年13歳で天武と配偶関係となったことになるようですが、これは天智の政略などによって姉の大田皇女と同時に配偶関係を成立させられたものの可能性もあるでしょうから、比較にはならないのかもしれません。
 近年では二朝並立を強く主張される方は少ないのではないかと拝察しております。もはやこんな口角から泡を飛ばすような言い方をする必要もないのかもしれませんが、これらの点から考えまして二朝並立といった状況は成立しがたいのではないかと思っております。


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