7. 大后の時 − 2

 なお右大臣大伴長徳の没した記事が『公卿補任』のみに見えることを疑問に思って、『日本書紀』孝徳紀の白雉2年のあたりに何か手がかりがないかと探したのですが、ありません。白雉2年は3月丁未(14日)に「丈六繍像等」(前年10月是月に「始造丈六繍像・侠持・八部等卅六像」とあるもの)が完成したこと、戊申(15日)に「皇祖母尊」皇極が「十師等」に「設斎」させたこと、6月に百済・新羅の使者が来たこと、そして12月晦(30日だったようです)には味経宮(あぢふのみや。古典文学大系の注では難波長柄豊碕宮の近くと想定されています)に僧尼2100を招いて一切経を読ませたこと、その夕方に燃灯2700余を朝庭内でともして「安宅・土側経等」を読ませたこと、また天皇が「大郡」(おほごほり)から「新宮」に遷居して「難波長柄豊碕宮」と号した……などと見えるばかりです。そして是歳条として新羅の貢調使の知万沙飡らが唐服を着て筑紫に来たので、勝手に衣服を改めたと怒って追い返し、この際に「巨勢大臣」が「いま新羅を討伐しておかなければあとで後悔することになるでしょう」などと言ったと見えています。唐服の着用については東洋文庫『三国史記 1』、新羅本紀の真徳王3年正月条に「三年(六四九)春正月、はじめて中国の衣冠を着ることになった」とあり、またその注では「色服志では真徳王二年のこととしている」と記されていますが、真徳王2年は大化4年(≒648年)、真徳王3年はとうぜん大化5年(≒649年)です。金春秋の来訪は大化3年是歳。七色十三階の冠位制定の記事のあとに見えていたものですが、ほどなく新羅では唐服に改めたということでしょうか。新羅使のことは実は大化4年是歳、大化5年是歳、白雉元年4月などと頻繁に見えているようで、このあたりの新羅使の衣服がどうなっていたのかよくわかりません。そういえば『三国史記』の主張する武烈王(金春秋)の即位(真徳王8年≒654年の4月ころ)と『日本書紀』の主張(持統35月甲戌の新羅使への詔に、白雉5年≒654年の10月の孝徳の死没を伝えた使者に応対したのが「翳飡」の金春秋だったと見える)とでも半年ほどのずれがありました。
 白雉元年10月から23月にかけて見える「丈六繍像」等については古典文学大系の注に「天平十九年大安寺資財帳に、「合繍仏像参帳〈一帳高二丈二尺七寸、広二丈二尺四寸、二帳並高各二丈、広一丈八尺〉」とあり、そのうち、はじめの一帳について「一帳、像具脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智(斉明)天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)冬十月、始、辛亥年(同二年)春三月造畢、即請者」とある。本文これと合致する(後略)」と記されています。私の立場からすればむしろこちらのほうが注目すべきなのかもしれません。この資財帳部分の記述の主張は、『日本書紀』が「皇祖母尊」とする孝徳朝の皇極・斉明について、縁起部分の「爾時後岡基宮御宇天皇造此。寺司阿倍倉橋麻呂。穂積百足二人任賜」とならんで「袁智 天皇、坐難波宮而」――袁智天皇、難波宮に坐して――とする見方が天平末年に存在していたことを示すようにも思われます。もちろんこれは曲解・屁理屈かもしれなくて、古典文学大系の注も「袁智(斉明)天皇」としておられますように「袁智天皇」はその人の没した時点での、あるいは最高位の称号で代表させている称と見るのが常識的なところだとは存じます。しかし「坐難波宮而」という表現は『古事記』の「○○○命、坐○○宮治天下○歳」などといった表現を想起させてくれるもののように思うのです。
 いや、「治天下」「御宇」といった文言を重視するならともかく「坐」程度の文字、語を過大評価すべきではないのかもしれません。たとえば『古事記』でも雄略段には「初、大后坐日下之時、自日下之直越道、幸行河内」――初め、大后(おほきさき)日下(くさか)に坐(いま)しし時、日下之直越道(くさかのただごえのみち)より、河内にいでましき――など、雄略「大后」の若日下部王に「坐」を用いていますし、『日本霊異記』下巻第38にも「其天皇之大后同諾楽宮坐時」「又同大后坐時」などと見えていました。『日本霊異記』は聖武を指す「勝宝応真聖武太天皇」や孝謙・称徳(というより、下巻第38・第39を除きおそらく称徳)を指すらしい「帝姫阿倍天皇」といった称が独特で、また第38では「帝姫阿倍天皇御世之天平神護元年歳次乙巳年」と「皇后」表記とが同じエピソードの中に見えていたりして混乱した状況であるのに加え、「其天皇之大后同諾楽宮坐時」も「又同大后坐時」も、さらにそのすぐあとに見える「又同大后時」も、歴史的な事件でなく俗謡の歌われた年代を示すものに過ぎないのですが、「大后」が光明皇后を、というよりも光明皇太后を指すことは問題のないところでしょう。ともかく「大后」でさえ「坐」したのですから「袁智 天皇、坐難波宮而」を過大評価するのはおかしいのかもしれません。
 それにしても『続日本紀』が孝謙代としている時代について『日本霊異記』下巻第38が「又同大后坐時」「又同大后時」などとしているのは……それでもやはりある意味で奇妙な感じがしますが、似たような表現を『古事記』に見つけました。仲哀段の大后息長帯日売命のことかというと、そうではなくて垂仁段です。これも既に山アさんの「上代日本における「大后」の語義」で強調されているところですが、垂仁段の末尾に「又、其大后比婆須比売命之時、定石祝作、又、定土師部。此后者、葬狭木之寺間陵也」――また、その大后(おほきさき)比婆須比売命(ひばすひめのみこと)の時、石祝作(いしきつくり)を定め、また、土師部(はにしべ)を定めたまひき。此の后(きさき)は、狭木之寺間陵(さきのてらまのみさざき)に葬(はぶ)りまつりき――などとあります。

 既に武田祐吉さんが『古事記研究 帝紀攷』の中で『古事記』からうかがえる「帝紀」の基本的な項目をまとめておられるのだそうですが、私なりに『古事記』の「帝紀」的な記述の体裁をモデル化してみますと、「○(前天皇との続柄)、○○(天皇の名)命(王・天皇)、坐○○(宮号)宮、治天下○○歳(也)。(此)天皇、娶○○(后妃の名)、生御子、○○(所生の子の名)〈○柱。〉○○○○○○○○○○(旧事的物語)。天皇(之)御年、○○歳。〈○○年○月○日(崩年の干支・月・日)崩(也)。〉御陵在○○(陵墓の所在地)(也)」といった形になるように思われます。もちろんどれも全部完備されているわけではなく、神武段などは言うまでもなくこの体裁ではありませんし、また子がなかった天皇では「無子」といった記述以外は当然子の記載はありません。清寧・仁賢・宣化・欽明の各段には崩年も享年も陵墓の記載も見えません。允恭段では「天皇御年、漆拾捌歳。〈甲午年正月十五日崩。〉御陵在河内之恵賀長枝也」と見えたのちに木梨軽太子と同母妹軽大郎女に絡んだ歌物語が延々と続きますし、次の安康段では「御子、穴穂御子、坐石上之穴穂宮、治天下也」で始まったらすぐに物語となっています。大日下王を殺したのちに奪って皇后(后・大后)とした「長田大郎女」の子の7歳の目弱王に殺されて「天皇御年、伍拾陸歳。御陵在菅原之伏見岡也」と見えており(ですから帝紀的記載と物語とは不可分とも言えるわけですが)、さらに「当時童男」だった「大長谷王子」雄略が次々に「黒日子王」「白日子王」らを殺害し「目弱王」「都夫良意富美」を死に追いやり、「市辺之忍歯王」を射殺するくだりまでが安康段のうちで語られています。
 で、仲哀段でも「大后息長帯比売命」に神がかりがあって告げられた神託を「高い山から西のほうを見ても国は見えずに海ばかりだ」などといって信じなかった仲哀に、武内宿禰が「なほ其の大御琴をあそばせ(阿蘇婆勢)」と琴をひき続けるよう勧める。仲哀が「なまなまに」(那摩那摩迩)琴をひいていたら音がしなくなったため、火で照らしてみたら既に絶命していた。……もしもこの記述の時点で「天皇之御年……」などとあったら、ここで仲哀段は終わって、あとは『日本書紀』同様「神功段」とでもなっていたのかもしれません。が、仲哀段では仲哀の絶命した記述からすぐに続けて(おそらく神功が)「殯宮」で「国之大奴佐」をとって「大祓」をし、託宣に従って新羅を攻略したこと、筑紫で応神が誕生したこと、裳の糸に飯粒をつけて年魚(アユ)を釣ったこと、応神の異母兄の香坂王・忍熊王が敗れたこと、「太子」応神が「角鹿」(「都奴賀」、敦賀)の「伊奢沙和気大神」(「気比大神」)と名を交換したら「幣」として「御食之魚」のイルカが浜にうちあがっていたこと、応神が帰ってきたら「御祖」神功が「待酒」を醸して待っており、神功と武内宿禰が「酒楽之歌」を歌ったこと――などのエピソードが続けて語られています。そのあとでやっと「凡、帯中津日子天皇之御年、伍拾弐歳。〈壬戌年六月十一日崩也。〉御陵在河内恵賀長江也」と仲哀の没したことにまつわる記事が見えているのです。そして神功についてはその記事の末尾に分注の形で「〈皇后御年一百歳崩。葬于狭城楯列陵也。〉」と記されています。極端な言い方をすれば、当初は「神功段」を立てるつもりだったが途中でやめて仲哀段に含め、やはり「大后」の治世として段を立てることはしなかった、というような形にも見えます。

 さて問題の垂仁段ですが、「又、其大后比婆須比売命之時、定石祝作、又、定土師部。此后者、葬狭木之寺間陵也」は段末尾の記述で、その直前には「此天皇御年、壱佰伍拾参歳。御陵在菅原之御立野中也」と、没した垂仁にまつわる記事が見えています。「又、其大后比婆須比売命之時……」の記述は現行の写本では分注でなく本文の体裁のようで、これももとは分注形式だったものが書写を経るうちに本文化したものという可能性も否定できないのかもしれませんが、もし仮にもともと本文の形式だったのなら、極端な言い方をすれば仲哀段よりも踏み込んで「大后」の「時」に言及しているようにも思えます。あたかも垂仁没後に当然のごとく「大后比婆須比売命之時」が来たようにも思える記述です。『日本書紀』ではどうなっているのかと見れば、垂仁紀にはこのような記述はありません。なぜなら垂仁「皇后」の「日葉酢媛命」は垂仁32年に没したことになっているから。
 『古事記』垂仁段と『日本書紀』垂仁紀では話の構成がかなり違っています。それは『日本書紀』が年月日まで示して記録・史書としての体裁をとろうとしているのに対し、『古事記』が最初から説話と決めてかかって4つのエピソードに絞っていることによるのでしょうが、ともかく『古事記』垂仁段のほうが単純ながらまとまった話となっている印象です。
 まず例によって后妃と所生子の記載があります。
 続く第1のエピソードは最初の「后」の「沙本〓(偏「田」旁「比」の〔田比〕)売命」(さほびめのみこと)にまつわる話。
 「沙本〓(〔田比〕)売命」は兄の「沙本〓(〔田比〕)古王」(さほびこのおほきみ)にそそのかされて垂仁の寝首を掻こうとするが、そのことが垂仁の夢に露見したため、サホビメは垂仁に白状したのち兄のたてこもる「稲城」に逃れて「御子」を出産する。その「御子」を引き取りに来た軍士中の「力士」が、母のサホビメも連れ帰ろうとして髪をつかむと髪が抜け落ち、手をつかめば巻いていた玉の緒が切れ、衣服をつかめば破れ(あらかじめ髪をそってその髪を頭に付け、衣服は酒で腐らせてあったため)、サホビメを取り返すことができなかった。垂仁がサホビメに「子の名は何とするか」と問うと「火が稲城を焼くときにあたって火中でお生まれになったから本牟智和気御子(ほむちわけのみこ。段冒頭の后妃・所生子の記載では「品牟都和気命」)」と答え、「どうやって養育すればよいか」と問うと「乳母をつけ大湯坐・若湯坐(おほゆゑ・わかゆゑ)を定めて養育なさいませ」(「取御母、定大湯坐・若湯坐、宜日足奉」。なお「湯坐」については日本思想大系の頭注に「湯坐は雄略紀三年条に湯人とも書き、入浴の湯を用意し、皇子・皇女に湯をつかわせる役目」とあります)と答え、さらに「私の配偶者は誰がよいか」といったようなこと(「汝所堅之美豆能小佩者誰解。〈美豆能三字以音也。〉」)を尋ねると「旦波(たには)の比古多々須美智宇斯王(ひこたたすみちのうしのおほきみ。開化の子)の娘の兄比売・弟比売(えひめ・おとひめ。後に出る比婆須比売命・弟比売命のこと)の2女王がよい」などと答えて、結局サホビコ王を殺したらサホビメも兄と運命をともにした――といった話になっています。
 第2のエピソードはその「御子」(ホムチワケ)にまつわる話。
 「御子」はヒゲがのびるまで言葉を話すことができず、「鵠」(くくひ。白鳥)の声を聞いてようやく何か言ったので、「山辺之大〓(偏「帝」旁「鳥」の〔帝鳥〕)」(やまへのおほたか)なる人が鵠を追って木国―針間国―稲羽国―旦波国―多遅麻国―近淡海国―三野国―尾張国―科野国と諸国を経巡って「高志国」(こしのくに。北陸)の「和那美之水門」でつかまえて戻ってきた。しかしやはり物を言わないので、垂仁の夢を占ったら「出雲大神」のたたりと出た。そこで「曙立王」(あけたつのおほきみ。大神参拝で効験があるか「ウケヒ」をしたら鷺が死んで生き返ったり、「葉広熊白檮(はびろくまかし)」が枯れたりよみがえったりして効験ありと出たため「倭者師木登美豊朝倉曙立王」の名をたまわったなどと見えます)・「菟上王」(うなかみのおほきみ)の2人が「御子」を連れ、道中行く先々で「品遅部」(ほむぢべ)を定めながら出雲に行き、大神を拝んだら話すことができるようになった。ついでに「御子」が「肥長比売」(ひながひめ)と一夜をともにしたら姫の正体は実は「虵」(へみ、蛇)で、逃げたら船で追ってきたなどという「道成寺」のような話も付いています。結局その場は逃げ切って「御子」が話せるようになったと報告し、最後には「御子」にちなんで「鳥取部」(ととりべ)・「鳥甘部」(とりかひべ)・「品遅部」・「大湯坐」・「若湯坐」を定めた――などと見えています。
 続く第3のエピソードは丹波から配偶者を迎える話。
 サホビメの遺言どおり「美知能宇斯王」(みちのうしのおほきみ)の娘の4姉妹を召し上げたが、上の「比婆須比売命」(ひばすひめのみこと)・「弟比売命」(おとひめのみこと)の2人のみをとどめ、下の2人(「歌凝比売命」「円野比売命」)は「因甚凶醜」により送り返した。末の「円野比売」(まとのひめ)は恥じて相楽で縊死しようとし、弟国で投身した――などとなっています(崇神段でもそうですが、継体の宮を連想させる木津川周辺の地名に限ってなぜかこうです)。なお垂仁段冒頭の后妃・所生子の記載によれば「旦波比古多々須美知宇斯王」の娘からは「氷羽州比売命」「沼羽田之入〓(〔田比〕)売命」「阿耶美能伊理〓(〔田比〕)売命」の3人が迎えられたことになっており、また開化段では「美知能宇志王」の子は「比婆須比売命」「真砥野比売命」「弟比売命」「朝庭別王」と見えていて、どれをとっても相互に矛盾しています。さらに『日本書紀』の所伝(「丹波道主王」の娘「日葉酢媛」「渟葉田瓊入媛」「真砥野媛」「薊瓊入媛」「竹野媛」の5人を召して「竹野媛」のみ返した)とも食い違っているのですが、こういったことを深く追究しても意味はないでしょうし、『古事記』がおそらく同一人について「氷羽州比売命」「比婆須比売命」などと表記を違えたままにしているのも、うがった見方をすれば出典の違いを示す意図があったからのようにも思われます。
 そして最後の第4のエピソードに「多遅摩毛理」(たぢまもり)を「常世国」(とこよのくに)に遣わして「登岐士玖能迦玖能木実」(ときじくのかくのこのみ)を求めさせた話が見えます。
 多遅摩毛理が常世国に行きその実を採取して「縵(かげ)八縵・矛(ほこ)八矛」とし、やっとの思いで持ち帰ったら天皇は既に没していた。そこで多遅摩毛理は持ち帰ったうちの「縵四縵・矛四矛」を分けて「大后」に献じ、「縵四縵・矛四矛」を「天皇之御陵」の「戸」に「献置」して、その実をささげて「常世国の登岐士玖能迦玖能木実、持ち参上り侍り(もちまゐのぼりはべり)」と泣き叫んで死んだと見えています。そのあとに「其登岐士玖能迦玖能木実者、是今橘者也」、そのトキジクノカクノコノミはいまのタチバナであるとの解説(分注でなく本文の形)が付されています。
 なお「縵八縵・矛八矛」については日本思想大系『古事記』の補注に「(前略)縵(蔭)は橘子を縄に結んでつりさげた形、矛(竿・桙)は橘子を竿に着けたものか(後略)」と見え、また『日本書紀』垂仁後記に見える「八竿八縵」の注には「(前略)竿は串刺しの団子のように串に刺した形状、縵は乾し柿のようにいくつかの橘子を縄にとりつけた形状をいうのであろう」と見えています。
 そして最後に「此天皇御年、壱佰伍拾参歳。御陵在菅原之御立野中也。又、其大后比婆須比売命之時、定石祝作、又、定土師部。此后者、葬狭木之寺間陵也」とあって垂仁段が終わっているのです。

 これでも十分に混乱した印象ですが、それは私の記述がつたないからで、『古事記』のほうはそれでもまだまとまった話なのです。これが『日本書紀』垂仁紀となるとさまざまな所伝を整理しないまま押し込んだような感じがあって、読みづらい仕上がりとなっています。2年には「任那人蘇那曷叱智(そなかしち)」の帰国にからめて分注で「意富加羅国王之子、名都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」のエピソードを長々と記したり、3年に「新羅王子天日槍(あめのひほこ)」が神宝をたずさえ来たこととともに分注で天日槍―但馬諸助―但馬日楢杵―清彦―田道間守とつながる系譜(『古事記』応神段に見える系譜、天之日矛―多遅摩母呂須玖―多遅摩斐泥―多遅摩比那良岐―多遅摩毛理・多遅摩比多訶・清日子とは異なるようです)を示したり、また25年には天照大神を倭姫命につけたら諸国を巡ったのち最終的に伊勢の五十鈴川上に落ち着いたといった伊勢神宮の起源譚が見えたり……などなど。
 いっぽうで『古事記』の話もみな一応見えてはいるのですが、垂仁4年から5年にかけての「狭穂彦王」(さほびこのみこ)の謀反の話では、髪をつかむと抜け落ち……などといった話はまったく見えません。上毛野君の遠祖「八綱田」(やつなだ)を将軍として攻めさせ、八綱田が稲城に火を放ったら「皇后」(狭穂姫)が皇子を抱き稲城を越えて出てきて「いまは首をくくるばかりですが、天皇のご恩は忘れません。丹波国に5婦人あってみな貞潔です。丹波道主王の娘ですが、後宮に召して使われればよろしい」などと言い残し、城の中で死んだ。天皇は八綱田の功を称えて「倭日向武日向彦八綱田」と名づけた――などと見えています。
 このあと7年に野見宿禰(のみのすくね)が相撲で当摩蹶速(たぎまのくゑはや)の肋骨を蹴り折り腰を踏み挫いて破ったとする話があって、そのあとの15年が『古事記』とは順序が違って丹波から女性を迎えた話です。ただし先に触れましたように『日本書紀』では召したのは5人で名も違っており、「日葉酢媛命」を皇后、「皇后弟」の3人を妃とし、末の「竹野媛」(たかのひめ)だけ「因形姿醜」により送り返したら「葛野」(かづの。古典文学大系の注に「奈良時代にはカヅノ、平安時代にはカドノ」と見えます。京都市西部あたりのようですが、あとに「弟国」と見えますから、もっと広く、古い時代の乙訓郡域も指したのでしょうか)で輿より落ちて亡くなった、いまはそこを「弟国」という――などとなっています。
 さらに続けて23年には「誉津別王」(ほむつわけのみこ)がヒゲがのびても子供のように泣くばかりでものを言わないという話が見えますが、こちらは「鵠」(くぐひ)を見て皇子が「これ何物ぞ」としゃべったので、鳥取造の祖の「天湯河板挙」(あめのゆかはたな)が出雲に行って捕まえ(あるいは但馬国で捕まえ)皇子に献上したところしゃべるようになった。そこで湯河板挙に鳥取造の姓を賜わり、また鳥取部・鳥養部・誉津部を定めたなどと見えています。やはり「山辺之大〓(〔帝鳥〕)」が木国―針間国……と経巡った話、「曙立王」「菟上王」とともに出雲に行った話などはありません。
 その後は25年に伊勢神宮の起源譚があったりし、28年に垂仁の同母弟の「倭彦命」(やまとひこのみこと)の没したことが見えます。倭彦命を「身狭桃花鳥坂」(むさのつきさか。実は宣化の陵墓も「身狭桃花鳥坂上陵」)に葬った際「近習者」も陵域に生き埋めにした。「魏志倭人伝」に見えるような「徇葬」をやったというのでしょう。数日死なず昼夜泣いてうめき、死んだら遺体は腐乱して犬やカラスが集まって食べた。天皇が心を痛めて群卿に「古くからの習慣とはいえ、よくないことになぜ従うか。殉死はやめよ」などと詔したと見えます(なお『古事記』崇神段の「倭日子命」の分注には「此王之時、始而於陵立人垣」、初めて陵に人垣を立てたなどと見えて『日本書紀』と矛盾しています)。このあと30年には垂仁が皇子の五十瓊敷命(いにしきのみこと)・大足彦尊(景行)に「欲しいものを言え」と尋ねたら五十瓊敷命は弓矢を要求し大足彦尊は皇位を要求したなどといった話が見えています。
 32年には皇后日葉酢媛命が没しています。葬るまでに日があったので、天皇が群卿に「殉死はよくないとわかったが、今度の葬儀にはどうしたらよいか」などと尋ねたところ、野見宿禰が故郷の出雲国に使いをやって「土部」(はじべ)100人を呼び寄せ、埴(はにつち)で人や馬など種々の形を作って献上し「今後はこれを陵墓の周りに立てましょう」と言った。そこで天皇は喜んで日葉酢媛陵の周りに立てた。これを埴輪と言い、また立物(たてもの)と名づけた。野見宿禰を賞して「鍛地」(かたしところ。不明のようです)を賜わり「土部」(はじ)の職に任じ、姓を改めて「土部臣」(はじのおみ)とした。これが「土部連」らが天皇の「喪葬」をつかさどるようになった由来で、野見宿禰は土部連らの始祖である――などと話を結んでいます。『古事記』では垂仁没後の「大后比婆須比売命之時」に「石祝作」「土師部」といった葬送関係の専門集団を定めたようになっていますが、『日本書紀』では「皇后日葉酢媛命」の没したことが「土部」の起源に結びついている。ともかく『日本書紀』では垂仁より先に皇后の日葉酢媛が没しています。
 そのあとにもいろいろな話がありますが、『日本書紀』垂仁紀の最後もやはり「田道間守」(たぢまもり)が常世国へ行って「非時香菓」(ときじくのかくのみ)を持ち帰る話です。

九十年春二月庚子朔、天皇命田道間守、遣常世国、令求非時香菓。〈香菓、此云箇倶能未。〉今謂橘是也。
九十九年秋七月戊午朔、天皇崩於纏向宮。時年百卌歳。冬十二月癸卯朔壬子、葬於菅原伏見陵。
明年春三月辛未朔壬午、田道間守、至自常世国。則齎物也、非時香菓八竿八縵焉。田道間守、於是、泣悲歎之曰、受命天朝、遠往絶域。万里蹈浪、遥度弱水。是常世国、則神仙秘区、俗非所臻。是以、往来之間、自経十年。豈期、独凌峻瀾、更向本土乎。然頼聖帝之神霊、僅得還来。今天皇既崩。不得復命。臣雖生之、亦何益矣。乃向天皇之陵、叫哭而自死之。群臣聞皆流涙也。田道間守、是三宅連之始祖也。
(古典文学大系『日本書紀』より、垂仁902月から後紀の最後まで。〈 〉内は分注。返り点・送りがな・読みがなは省略)


 こんな体裁で長々と引用させていただいても迷惑される方がおられるくらいでしょうが、比較のため『古事記』のほうも引用させていただきます。

又、天皇、以三宅連等之祖、名多遅摩毛理、遣常世国、令求登岐士玖能迦玖能木実。〈自登下八字以音。〉故、多遅摩毛理、遂到其国、採其木実、以縵八縵・矛八矛、将来之間、天皇既崩。尓、多遅摩毛理、分縵四縵・矛四矛、献于大后、以縵四縵・矛四矛、献置天皇之御陵戸而、フ其木実、叫哭以、白常世国之登岐士玖能迦玖能木実、持参上侍、遂叫哭死也。其登岐士玖能迦玖能木実者、是今橘者也。此天皇御年、壱佰伍拾参歳。御陵在菅原之御立野中也。又、其大后比婆須比売命之時、定石祝作、又、定土師部。此后者、葬狭木之寺間陵也。
(日本思想大系『古事記』垂仁段より。〈 〉内は分注。返り点・送りがな・読みがなは省略)


 『日本書紀』では当然ながら垂仁32年に没した皇后の日葉酢媛命は登場しません。ですから「八竿八縵」を分けて半分を皇后に献上する必要もないのですが、引用した部分は『古事記』と『日本書紀』とで違うようでもあり、似ているようでもあります。「多遅摩毛理」と「田道間守」、「登岐士玖能迦玖能木実」と「非時香菓」といった表記の違いこそあるものの、両者には共通した言い回しも意外と多く、たとえば「遣常世国」「令求」「天皇既崩」「叫哭」などは2度タイプしなくてもドラッグ&ドロップで済みますし、「是今橘者也」と「今謂橘是也」、「三宅連等之祖」と「三宅連之始祖」などもほとんど同じ言い回しと見ることができるでしょう。ということは『古事記』も『日本書紀』も同じ出典に依拠しているということなのかもしれませんし、『日本書紀』が『古事記』を参照しつつも改変したものという形で疑うこともできるのかもしれません。
 「常世国」へ行ってトキジクノカクノミを採ってくるというテーマ自体は道教的な印象のものらしい旨、各書で触れられています。しかし『日本書紀』の田道間守の言葉は『古事記』のそれに比して儒教的なにおいが強いような気もします。といっても儒教というものさえどういうものなのか存じないのですが、田道間守が垂仁の生前に復命できなかったことをなげき、「臣」が生きていたとて何の益があろうかといって「自死」したとなっていますから、君に対する臣の忠義のようなことがテーマとなってしまったみたいで、採取してきた「非時香菓八竿八縵」がどうなったかなどということはどこかへ飛んでしまっています。
 対し『古事記』ではとってきた「其木実」の「縵八縵・矛八矛」のうち半分の「縵四縵・矛四矛」を「大后」ヒバスヒメに献じ、残り半分を300両と思ってドロンしたのではなく「天皇之御陵」の戸に献じて「常世国のトキジクノカクノコノミを持ってまいりました」と泣き叫んで絶命したとあります。考えようによってはこの話はトキジクノカクノコノミを渡すこと自体がテーマだったようにも思えるのです。「同じことではないか」とお思いになるかもしれませんが、「常世国」のトキジクノカクノコノミというのはあるいは「不老長寿」のような部分を期待されていたのかもしれず、せっかくそれを持ち帰ったのに垂仁は既に没していた……といったあたりに本来の話の眼目があったのではないでしょうか。現代的な感覚では140歳とか153歳まで生きたならもう十分ではないかといったところかもしれませんが。
 この「橘」については日本思想大系『古事記』の補注(「登岐士玖能迦玖能木実」「橘」)にも古典文学大系『日本書紀』の「橘」の注にも同じ天平8年(≒736年)11月のある事例が引かれています。このとき葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)ら兄弟が母の橘三千代(県犬養三千代)のたまわった橘宿禰姓の賜姓を願い出て上表していますが、『続日本紀』天平811月丙戌(11日)にはその表が引かれており、和銅元年1125日に元明が県犬養三千代に橘姓を賜姓した際の言葉という「橘者果子之長上、人之所好、柯凌霜雪而繁茂、葉経寒暑而不彫。与珠玉共競光、交金銀以逾美」との文言もその中に見えていること、先にも引かせていただいております。
 また『万葉集』巻61009「橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の樹」はやはりこの賜姓の際の歌とあって、題詞「冬十一月左大弁葛城王等賜姓橘氏之時御製謌一首」には「御製謌」、聖武の歌と見えていますが、左注によれば「或云、此謌一首太上天皇御哥。但天皇々后御謌各有一首者。其謌遺落未得探求焉(後略)」、「太上天皇」元正の歌であるとの説も伝えています。日本思想大系『古事記』・古典文学大系『日本書紀』ともに『続日本紀』天平811月丙戌の「橘者……」と『万葉集』巻61009「橘は……」の両方が引かれているのですが、内容的にはどちらも同じようなこと――実も枝も葉も霜雪や寒暑に枯れない常緑、常葉の樹である――を言っているわけで、古代人がタチバナに抱いていたイメージを示してくれています。
 なお『日本書紀』の乙巳の変直前の皇極37月には「東国不尽河辺人大生部多、勧祭虫於村里之人曰、此者常世神也。祭此神者、致富与寿」、「不尽河」(ふじのかは。富士川)のほとりの人「大生部多」(おほふべのおほ)が「虫」を「常世神」と称し、これを祭れば富と長寿を得られると言って村里の人に祭ることを勧めた話が見えます。巫覡(一般的には「ふげき」でしょうがここでは「かむなき」の読みがあります。巫女のような存在で「巫」が女性、「覡」が男性)たちが「祭れば貧者は富み、老人は若返る」と偽りを広め、財宝を喜捨させたり酒食を路傍に並べさせたりし、しまいには都でも地方でもこぞって常世の虫を祭り、歌舞に興じて財産を失うこと甚だしかった。そこで「葛野」(かどの)の「秦造河勝」(はだのみやつこかはかつ)は民衆が惑わされるのを憎んで大生部多を打った。棒のようなものでたたいたのかどうか存じませんが、ともかく皇極37月には「於是、葛野秦造河勝、悪民所惑、打大生部多」と見えています。この秦河勝は比較的有名人で、推古1111月己亥朔(1日)には「皇太子」廐戸から仏像をもらい受けて「蜂岡寺」を造ったことが、推古1810月丁酉(9日)には新羅の使節の「導者」を務めたことが見え、また『上宮聖徳太子伝補闕記』(中田祝夫さん解説の『上宮聖徳法王帝説』所収)では丁未の役の記述に「軍政秦川勝卒軍奉護太子」「太子立謀。即令川勝採白樛木。刻造四天王像。フ立鋒」などと見えているようです。587年の丁未の役から645年の乙巳の変の前年の皇極3年まで57年離れています。
 この「常世神」「常世虫」についてですが、『日本書紀』は「この虫は、常に橘の樹に生る。或いは曼椒(ほそき)に生る。〈曼椒、これをば褒曽紀(ほそき)と云ふ。〉その長さ四寸(き)あまり。その大きさ頭指(おほよび)ばかり。その色緑にして有黒点(くろまだら)なり。その皃(かたち。実際は上「白」の下に「ハ」)全(もは)ら養蚕(かひご)に似(の)れり」(「此虫者、常生於橘樹。或生於曼椒。〈曼椒、此云褒曽紀。〉其長四寸余。其大如頭指許。其色緑而有黒点。其皃全似養蚕」)と細かいデータを示しています。なお「曼椒」とはサンショウのことのようです。
 このカイコの幼虫に似たイモムシについて、どなたかがシンジュサンというガの幼虫に比定しておられるとする引用をどこかで拝見したような記憶があるのですが、探しても見つかりません。直木さんの『奈良』(岩波新書 1971)では1958年に朝日新聞に掲載されたという守田公夫さんのお説を引く形で「また蚕に似た虫というのは、蚕の原生種で、まゆを作るくわこの一種かもしれない」(「まゆ」「くわこ」に傍点ルビ)とされていました。
 河勝の秦氏については林屋辰三郎さんの『京都』(岩波新書 1962)にも「古都以前の代表的京都人であった秦氏は、太秦を中心に西に東に広がっていた。太秦広隆寺の東方四町ばかりに、蚕の社とよばれる一叢の森があるが、機織の祖神といわれるように、やはり秦氏の活動のあとを示すものだと思う」と見え、たしかに京福嵐山線で「太秦」の1つ東の駅は「蚕ノ社」のようです。「蜂岡寺」は太秦駅前の広隆寺のことだそうですから、秦河勝の名はたしかに養蚕と結びつけて語られる可能性が高そうです。しかしだからといって、河勝が打ってこらしめたらしい大生部多の祭った「常世虫」までただちにマユを作る虫と見られるかどうか。僭越でまことに恐縮ながら、どうも秦河勝と養蚕との結びつきを中心に見、大生部多をその対立者と見たい思いに引きずられたお考えなのではないかという気もするのです。
 私は残念なことにクワゴもシンジュサンも見たことがないのですが、百科事典等で拝見しますと、クワゴはカイコの原種ということのようで食樹もクワのようですし、シンジュサンはヨナグニサンを除けば日本最大のガということで、たしかに食樹にはシンジュのほかミカン科のキハダなども入っているようなのですが、どうも違うのではないかという気がします。タチバナ、サンショウを食樹とし、カイコの幼虫に似て緑色で黒い斑点があるものといえば素直にアゲハ・カラスアゲハ・クロアゲハ等の幼虫と考えてよいのではないかと思うのです。当時の「寸」(き)は尺貫法の1寸(約3.03センチメートル)と違い指1本の径・幅のようですから、太い人でもおそらく2センチメートル程度、それでも「四寸」といえば78センチメートル程度となり、終齢でも小指に満たぬ程度であろうアゲハ類の幼虫にしては巨大すぎる印象ですが、大きさだけが誇張された記述なのではないでしょうか。
 ……などといったことも既に研究者の方などに言い尽くされたことなのだろうと思われますが、恥を承知で記しました。で、タチバナのイメージが「常世国」に強く結びついていたから、そのタチバナにたかるアゲハ類の幼虫も「常世虫」と拝まれ「祭此神者、致富与寿」「祭常世神者、貧人致富、老人還少」などともてはやされたのでは。そうなってくると『古事記』垂仁段の「多遅摩毛理」「登岐士玖能迦玖能木実」の話も「せっかく不老長寿の実を持ち帰ったのに……」といった感じが強く出てくるように思うのです。『日本書紀』の「田道間守」「非時香菓」の話はその色合いを消して忠義の話みたいにしてしまったような気がします。『日本書紀』ではもうひとつ、「大后」の存在を消し去ったことを挙げられるでしょう。『古事記』の「大后」ヒバスヒメは多遅摩毛理が持ち帰った「縵八縵矛八矛」のうち半分の「縵四縵矛四矛」を献じられるような「天皇」と同格の、相並ぶ位置に立つような存在として語られ、また垂仁没後は当然のように「大后比婆須比売命之時」が存在したと語られています。対し『日本書紀』ではヒバスヒメは垂仁32年に没しており、その墓にからんで野見宿禰が埴輪を発明したエピソードが語られているわけですが、ともかく持ち帰ったタチバナの実の半分を献上されるような、そして「天皇」没後は自然に「大后」の時となるような、そういった存在としての「大后」は消えてしまっています。AとBの2種類あった伝承のうち『古事記』がAを採り『日本書紀』がBを採ったという可能性もないではないでしょうが、先にも触れましたように共通する語も多く見えますから、『日本書紀』はおそらく『古事記』自身か『古事記』の出典となった原本かを見ていた。見ていたが「大后」の出ない話を作るか採るかした――。そういったあたりではないかと思っております。
 ともかく『古事記』は、仲哀段の半分以上を大后息長帯比売命の話に費やしておきながら、最後には結局「凡、帯中津日子天皇之御年、伍拾弐歳。〈壬戌年六月十一日崩也。〉御陵在河内恵賀長江也。〈皇后御年一百歳崩。葬于狭城楯列陵也。〉」と結んでおり、「大后息長帯比売命」の治世もあくまでも仲哀の代のうちに含めています。 垂仁段では末尾が「此天皇御年、壱佰伍拾参歳。御陵在菅原之御立野中也。又、其大后比婆須比売命之時、定石祝作、又、定土師部。此后者、葬狭木之寺間陵也」となっており、垂仁没後には当然のように「大后比婆須比売命之時」が来たような書きぶりでした。しかも常世国から「登岐士玖能迦玖能木実」を持ち帰った多遅摩毛理はその半分、「縵四縵・矛四矛」を大后に献じています。これについては「上代日本における「大后」の語義」にも山アさんはご自身の先行論文を要約して引かれる形で「次に比婆須比売命については、天皇の崩御後も生存し、天皇に献上する予定であった木の実を献上されることから、天皇と同等の扱いを受けていたことが推察できる」と評価しておられます。
 いっぽう『日本書紀』は仲哀紀のあとに神功紀1巻を立てており、神功をあくまで「摂政」としながらも仲哀の治世からは独立させて見ているように思われます。対し垂仁紀では皇后日葉酢媛命は垂仁32年に没しており、その墓にからんで野見宿禰が埴輪を考案したエピソードが見えているという関係です。『古事記』が天皇(大王)の治世のあとにそのまま連続する形で大后の治世を付し、それも含めてセットでその天皇の代と見ているようであるのに対し、『日本書紀』は仲哀の治世から大后息長帯比売命の治世を独立させる半面、垂仁紀のほうでは大后の治世の存在を否定する方向に改めているように見えます。もとより採用した資料の段階から違っていたものと見ればそれまでですが、もしも『日本書紀』が『古事記』に見えるような大后の治世のあり方を消し去りたかったものと見るなら、逆に古い時代には『古事記』に記されるような大后の治世が存在した、ああいった形で観念されるような実態なり意識なりがあったことを示しているようにも思えるのです。


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