7. 大后の時 − 1
個人的には『日本霊異記』からうががえる孝謙・称徳の位置との類似性から、皇極・斉明の「皇極」の代――『万葉集』巻1の標目に「明日香川原宮御宇天皇代」となっており、『日本霊異記』上巻第9に「飛鳥川原板葺宮御宇天皇之世」と見えるなど表記が不安定な印象の代――についても疑問視しているのですが、これについては門脇禎二さんが『「大化改新」論』で皇極即位前紀を疑って『家伝上』の「天子崩殂、皇后臨朝」の記述を引いておられ、そしてまた皮肉なことに『古代政治史における天皇制の論理』で河内さんも皇極即位について条件がないこと等によりそれを疑われ、空位が4年間続いたのではなかったかと見ておられます。先にも引かせていただいております(もっとも『「大化改新」論』は1969年、『古代政治史における天皇制の論理』は1986年で、それ以降にお書きになったものを一切拝読していないのですから引き合いに出すのも失礼な話なのですが)。これらについては、全面的でないにせよ部分的には、相当部分は従わせていただきたく思うのです。こういう問題に関して「部分的」「相当部分」などという言い方は奇妙で、即位したと見るか即位しなかったと見るかのどちらかであろうと思われることと存じますが、それに関しましてはまたのちほど述べることもあろうかと存じます。
なお『古代政治史における天皇制の論理』で河内さんは『日本書紀』の立后記事を信用しないとされるお立場です。その理由として「(イ)所生子の子孫が皇位に即いていること」「(ロ)皇女であること」のどちらか1つが当てはまれば『日本書紀』では皇后とされていることを挙げておられます((イ)に補足する形で、所生子が即位しても1代で終われば「皇后」とされない清寧・安閑・宣化・用明・崇峻の生母の例、所生子が即位していなくても子孫が皇統をつくれば「皇后」とされる景行の播磨稲日大郎姫、敏達の広姫の例を示しておられます)。皇極即位を否定的に見ておられる理由についても、敏達や舒明から親等が遠いことを理由として挙げておられるのですが、個人的には『日本書紀』の「皇女」表記は浄御原令あたりの知識に基づく潤色であり、「ヒメミコ」だったか「○○ヒメのオホキミ」だったかわかりませんが、浄御原令より前の段階の「皇女」に相当する存在は、『古事記』の段階あたりまではおそらく「女王」「王」(また「郎女」など)などと表記され、かつまたそう意識されており、そんなに截然と区別されていたものではなかったのではないかと考えております。もちろん親等が近いに越したことはなかったでしょうが。加えて、欽明の孫の世代では誰も即位していないという状況がありました。「親等」という面からだけで見れば、舒明8年7月己丑朔(1日。勤務時間について意見)や皇極元年12月甲午(13日。舒明の「喪」)に名の見える「大派王」(大派皇子)などは敏達の子ですから敏達から1親等であり、2親等の舒明よりは即位した人に近かったはずです。もっとも生母は「春日臣仲君女曰老女子夫人」なる女性ですし、しかもその末の子ですが。
ですから私が「皇極」の代について疑問に思う理由というのは、恐縮ながら『古代政治史における天皇制の論理』のお立場とは違っています。繰り返しになってしまいますが、皇極・斉明の「天豊財重日足姫天皇」について天智即位前紀では皇極4年を「天豊財重日足姫天皇四年(譲位於天万豊日天皇)」とし、持統称制前紀では斉明3年を「天豊財重日足姫天皇三年(適天渟中原瀛真人天皇為妃)」としていて、そこに『万葉集』巻1の15の左注「天豊財重日足姫天皇先四年(乙巳立天皇為皇太子)」の「先」のような配慮さえないらしいことを出発点として見ております。そして「天豊財重日足姫天皇」の称を新しいものと考えたうえで、持統称制前紀の「天豊財重日足姫天皇三年」にその原本となるようなものが想定できるとすれば、あるいはそこでの表記は天武紀に見える「後岡本天皇」のようなものではなかったかと考えたわけです(原本が想定されなくとも、筆者あたりに皇極代というものの意識がなく斉明代のみを「後岡本天皇」代と考えていたという場合も同じでしょう)。こういう観点から見ますと「後岡本天皇」は天武紀に見えるほか、斉明代を指して『万葉集』も「後岡本宮御宇天皇代」、『日本霊異記』上巻第14も「後岡本宮御宇天皇之代」表記でそろっており、さらには『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』にも「後岡基宮御宇天皇」と見えていてそろっている。用語として定着している印象なのに対し、『万葉集』で皇極代に相当するらしい「明日香川原宮御宇天皇代」は「川原宮」が皇極の時代の宮でなかったらしいこと、また7の額田王の歌が孝徳か斉明の時代らしいことにより矛盾した印象の標目となっており、さらに『日本霊異記』上巻第9では「飛鳥川原板葺宮御宇天皇之世」となっていて、どこか『万葉集』と同じ出典の表記を手直ししたもののような印象がぬぐえません。しかしながら皇極・斉明の最終的な称号、没した直後あたりの時点で通用していた称号を「後岡本(宮御宇)天皇」といったものだったと見れば、その称が後代まで強く意識された結果という形で見ることもできるのかもしれません。とすると、その考えを進めれば、実は代で分けて考える発想は当初からのものではなかったのではないかと見ることもできそうに思われるのです。だんだん「トンデモ○○」的な様相を呈してまいりましたが、最初から「トンデモ○○」です。
そもそも『日本書紀』が成立した当初は、題には「皇極天皇」「斉明天皇」などとはなくて、どちらも「天豊財重日足姫天皇」だったでしょう(「日本書紀
巻第○○」などだったのかもしれませんが)。上下2巻の天武紀は「天渟中原瀛真人天皇」の「上」「下」で区別されていたのでしょうが、「天豊財重日足姫天皇」は「巻第廿四」「巻第廿六」などで区別されていたのでしょうか。漢風諡号について通説的に言われている、8世紀後半に淡海三船あたりが撰進したものらしいとする説の根拠が何なのか存じておりませんが、『万葉集』の編者が見たか、または山上憶良が『類聚歌林』を編纂する際に見たであろう『日本書紀』にはおそらく「皇極」「斉明」とはなかった。『万葉集』巻1・巻2には「天智天皇」「天武天皇」「持統天皇」などは見えており、巻3にも「謚推古」などと見え、また巻1冒頭の「泊瀬朝倉宮御宇天皇代」に「雄略天皇」とは見えないらしいのに巻2冒頭の「難波高津宮御宇天皇代」には「仁徳天皇」とあるなど、『万葉集』に見える漢風諡号も不統一な印象ですが、これについては山田英雄さんが「古代天皇の諡について」の注で「『万葉集』には推古、天智、天武について諡曰とあるが、何時このような記事が付せられたかは明らかでない」とされていることを冒頭近くで引かせていただきました。そして景戒が『日本霊異記』を完成させたころ、延暦6年(≒787年)も相当過ぎた9世紀前半の嵯峨の時代あたりでもまだ「皇極」「斉明」はなかったのではないかという気がします。先ほど『日本霊異記』については、景戒は『続日本紀』に準じる抄本のような書物を目にしていたのではないかと疑ったのですが、『日本書紀』の範囲の時代についても上巻第5に「孝徳天皇世」と見えるのに対し、第9では「飛鳥川原板葺宮御宇天皇之世」、第14には「後岡本宮御宇天皇之代」と見えるのみです。もっともこれでは当時漢風諡号がなかったとか、『日本書紀』に漢風諡号が書き込まれて伝わってはいなかったなどとする証拠とはならなくて、単に景戒が知らなかっただけと見ることもできるでしょう。しかしもうすぐ1000年の声を聞こうという10世紀末、「然が宋に持っていた『王年代紀』での表記はおそらく皇極の代は「皇極天皇」、斉明の代は「天豊財重日足姫天皇」でした。やはり10世紀から11世紀に移るころ紫式部が「日本紀の局」などと呼ばれていたらしいことは耳にしますが、それが何という書に見えることなのか存じません。
『宋史』日本伝では光仁が「白壁天皇」なのに対し桓武は「桓武天皇」ですし、平城は「諾楽天皇」で、『日本霊異記』下巻第38・39の聖武の「諾楽宮廿五年治天下」を想起させる表記となっています。「平城天皇」「嵯峨天皇」などを漢風諡と呼べるのかさえも知らないのですが、「官」「公」の世界では既に公的に漢風諡が定まっていたのに仏教関係にはそれが伝わっていなかった、といった段階を想定することができるのかどうか。他の六国史や『日本紀略』等には「斉明」「孝謙」「称徳」といった漢風諡が見えているのかもしれませんが、無学にして存じません。ともかく恥を承知で『宋史』日本伝のみから推測しますと、『王年代紀』の段階では「皇極」は決まっていたようでも「斉明」のほうは決まっていなかったように見えます。そして「孝謙」ではなく「孝明」です。「孝明」のほうはあるいは『王年代紀』に至るまでのどこかの段階での誤記のようなものが疑われるのかもしれませんが、いずれにせよ重祚した天皇について、はじめの代については漢風諡(らしきもの)で表記し、重祚後の代では和風諡(あるいは実名らしきもの)で表記しています。
ここもどう表記してよいものか悩むところで、あるいは「皇極」は漢風諡、「天豊財重日足姫」は和風諡という形で言っていいのかもしれませんが、「高野姫」は和風諡ではないでしょう。『日本霊異記』に見える「阿陪内親王」「帝姫阿倍天皇」などの「阿倍」が天平勝宝元年(≒749年。天平21年4月に天平感宝、7月に天平勝宝と改元)の7月乙未(3日)に従五位下を授かった「天皇之乳母」の阿倍朝臣石井あたりに由来する通称で、本来「小名」といった性格のものだったとすれば、宝亀元年(≒770年。神護景雲4年10月に改元)の8月丙午(17日。没後13日目)に「葬高野天皇於大和国添下郡佐貴郷高野山陵」と見えてはいても、「高野」はあるいは実名ではなかったかと思っておりますこと、先に申し上げましたとおりです。
ここにまた面倒な事態となるのは『宋史』日本伝が元明を「阿閉天皇」(『新唐書』日本伝では「阿用」。また『日本書紀』天智7年2月戊寅=23日に「阿陪皇女」、『続日本紀』元明即位前紀に「阿閉皇女」)としていることで、『日本霊異記』が孝謙・称徳(称徳)を「帝姫阿倍天皇」とし、おそらく『王年代紀』が元明を「阿閉天皇」としていたとなると、同じ「アヘ」ということになってしまいます。「ベ」音も「ヘ」音も甲乙があったようですが、古典文学大系『万葉集
一』の「音韻」の解説によりますと「倍」「陪」「閉」「閇」いずれも「ヘ」音乙類の文字(「倍」のみ「ベ」乙類にも)だったようです。用明(橘豊日)の名も孝徳(天万豊日)の名も同じ「トヨヒ」と見ているのですから同じでも別に構わないはずですが、どうも気持ちがよくない。おまけに『日本霊異記』のほうには元明についての記載はないようです。
『宋史』日本伝に見える「孝明」というのは現代まで伝わっている「孝謙」とは違います。誤記なのか、それともある時点まで「孝明」で途中から「孝謙」に変更されたのか存じませんが、「孝謙」「称徳」についてはどちらも天平宝字2年(≒758年)の8月庚子朔(1日)に藤原仲麻呂と菩提僊那の両者から同時にたてまつられたまったく同じ「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号に由来するものなのでしょう。そして「宝字称徳孝謙皇帝」は「尊号」だと菩提僊那ら僧綱のたてまつった表に見えていたようですが、「孝謙」「称徳」と分けてしまったものは個人ではなく在位・治世、「代」を指す称のはず。「代」に対しておくられた称となるでしょうから、そもそも「諡」、おくりなというものが個人(故人の個人)におくられるものだとすれば、やはり「孝謙」「称徳」などを「漢風諡号」と呼ぶのは少々抵抗感があります。で、重祚といった事態が中国などでなかったかと考えてみますと、実は先にも触れましたが武則天(則天武后)の子の中宗(在位683−684・705−710)・睿宗(在位684−690・710−712)が則天没後に「重祚」というか復位していますが、こういった在位・治世の「代」が『旧唐書』『新唐書』あるいは『資治通鑑』『冊府元亀』等の漢籍でどのように扱われているのか(扱われていないのか)、残念なことにまったく存じません。
結局「知らない」「言えた義理ではない」を暴露しただけのような記述でしたが、ともかく『宋史』日本伝からうかがえる『王年代紀』ごろの歴史観では「皇極」「孝明」が漢風諡で「天豊財重日足姫」「高野姫」が和風諡(またはそれに準ずる実名)、そして在位・治世の「代」によって呼び分けてはいるものの、これらの称は本来は「代」の称ではなく「個人」の称だったようにも見えます。そして『王年代紀』が最初の代について「皇極」「孝明」と漢風諡で、重祚後の代については「天豊財重日足姫」「高野姫」と和風の称で書き分けたことにより、結果的に代を表記で書き分けたことになるでしょう。ではそれ以前に代を表記で書き分ける意識がなかったのかといえば、孝謙・称徳については既に『続日本紀』段階で「宝字称徳孝謙皇帝」「高野天皇」と書き分けていますが、『王年代紀』同様奇妙な印象のものであり、『日本霊異記』では本来は孝謙代を認めていなかったかのような構成をとっていました。「廃帝」大炊王(淳仁)代の孝謙については『続日本紀』が「高野天皇」で、『日本霊異記』は本来は「皇后」と考えていたもののように思われます。皇極・斉明については『万葉集』巻1の「明日香川原宮御宇天皇代」「後岡本宮御宇天皇代」、『日本霊異記』上巻第9の「飛鳥川原板葺宮御宇天皇之世」、上巻第14の「後岡本宮御宇天皇之代」のような書き分けが存在していたわけですが、ただそれらがやはり奇妙な印象のものでした。「川原宮」は斉明元年冬に板蓋宮が焼けてから2年是歳に後岡本宮に移るまでの1年弱の仮住まいだったようですし、白雉4年是歳条に見える「倭飛鳥河辺行宮」、白雉5年12月己酉(8日)に見える「倭河辺行宮」についても孝徳紀末尾に見えているもので、皇極の代を代表する宮とは思えません。『日本霊異記』の景戒あたりもあるいは『万葉集』と同じように「明日香川原宮御宇」的な表記を採る資料を見、矛盾を感じて「飛鳥川原板葺宮御宇天皇之世」などとしたのかもしれませんが、原本、参照した資料の段階で既に「飛鳥川原板葺宮御宇天皇」などとなっていた可能性も高いでしょう。
そして気になるのが『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』です。
こういったことの参考とはできない、あまり信を置けない資料なのかもしれませんが、先ほども「爾時。近江宮御宇天皇奏〈久〉。開〈伊〉髻墨〓(〔夾刂〕)〔〈乎〉〓(〔夾刂〕)〕肩負鋸腰〓(〔夾刂〕)斧奉為奏〈支〉。仲天皇奏〈久〉。妾〈毛〉我妋等炊女而奉造〈止〉奏〈支〉」を引かせていただいております。この記述の箇所の直前には「後岡基宮御宇天皇」が、さらにその直前には「大后尊」が見えています。正確な訳も見ていなければ出典もウェブで拾った画像だけの私が申し上げられる筋ではないのですけれど、縁起で問題となる部分だけ、ざっと見てみます。
まず「田村皇子」舒明が「上宮皇子」廐戸を見舞いに行って「羆凝寺」を授けられ、また推古も臨終に際しこの羆凝寺のことを舒明に託した、などと記したのち「仍即天皇位十一年歳次己亥春二月。於百済川側子部社〈乎〉切排而院寺家建九重塔。入賜三百戸封。号曰百済大寺。此時社神〔怨〕而失火。焼破九重塔并金堂石鴟尾。天皇将崩賜時。勅大后尊〈久〉。此寺如意造建。此事為事給耳。爾時後岡基宮御宇天皇造此。寺司阿倍倉橋麻呂。穂積百足二人任賜。以後天皇行幸筑紫(志イ)朝倉宮。将崩賜時。甚痛憂勅〈久〉。此寺授誰参来〈止〉。先帝待問賜者。如何答申〈止〉憂賜〈支〉。爾時。近江宮御宇天皇奏〈久〉。開〈伊〉髻墨〓(〔夾刂〕)〔〈乎〉〓(〔夾刂〕)〕肩負鋸腰〓(〔夾刂〕)斧奉為奏〈支〉。仲天皇奏〈久〉。妾〈毛〉我妋等炊女而奉造〈止〉奏〈支〉」と続いています。
吉永登さんが『万葉―文学と歴史のあいだ』の「間人皇女」にこの部分の読み下しを掲げておられます(意訳の部分もありますし、「爾時後岡基宮御宇天皇造此。寺司阿倍倉橋麻呂。穂積百足二人任賜」は行論に関係ないため略しておられますが)。恐縮ながらそれを引用させていただきますと、「(前略)十一年歳己亥に次(やど)る春二月、百済川の側に子部社を切排きて、院寺家九重塔を建つ。三百戸封を入れたまひ、号して百済大寺と曰ふ。この時、社神怨みて火を失し、九重塔並びに金堂の石鴟尾を焼き破りたまふ。天皇崩じたまはむとする時、大后尊に勅したまはく、此の寺意の如く造建したまへ。此の事を事としたまはむのみと」「その後、(後岡基宮御宇)天皇(斉明)、筑紫朝倉宮に行幸し、崩じたまはむとせし時、甚く痛み憂ひ勅りたまはく、此の寺を誰に授けて参り来しと、先帝の待ち問せたまはば、いかにか答へ申すべきと憂へ賜ひき。その時、近江宮御宇天皇(天智・中大兄)奏したまはく、開(天智の名)い、髻に墨もて刺し、肩に鋸を負ひ、腰に斧を刺し為し奉らむと奏したまひき。仲天皇奏したまはく。妾も我が妋と炊女として造り奉らむと奏したまひき(後略)」と見えます(こういう引用は非常に申し訳なく思います)。
「入賜三百戸封」などと見ますとどうも『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』の「小治田天皇大化三年歳次戊申九月廿一日己亥許世徳〓(〔阝色〕)高臣宣命為而食封三百烟入賜〈岐〉」などを思い出してしまい、同じときに同じ目的で書かれたものですからそれも当然なのですが、どちらも信頼性が心配になってきます。
その直後に「此時社神〔怨〕而失火。焼破九重塔并金堂石鴟尾」とありますが、この記述が疑わしいようです。最近では奈良県桜井市吉備の吉備池廃寺をこの百済大寺にあてるご見解が有力かと思われますが、木下正史さんの『飛鳥幻の寺、大官大寺の謎』(角川選書 2005)によればこの吉備池廃寺の建造物は解体・移築された可能性が高いもののようです。回廊が倒壊したままの状態で発見された桜井市の山田寺跡などと比較して単位面積あたりの瓦の出土量が圧倒的に少ないこと、また塔の心礎が抜き取られその他礎石も発見されず、僧坊建物も柱が抜き取られた状態で見つかることなどによるらしいのですが、また火災の痕跡も認められないようです。飛鳥資料館の平成11年特別展「幻のおおでら・百済大寺」展の図録でも杉山洋さんが「(略)この記事が大官大寺焼亡の反映である可能性、後の皇極天皇による造営記事を必然的なものにするための潤色の可能性など、焼亡の実在を疑問視する見方が強い」と記しておられます。
吉永さんの読み下しに見えない「爾時後岡基宮御宇天皇造此。寺司阿倍倉橋麻呂。穂積百足二人任賜」、斉明の代に阿倍倉橋麻呂と穂積百足の2人が「寺司」に任じられたと見えることについても問題があるようです。『飛鳥幻の寺、大官大寺の謎』では、改新政府の左大臣だった阿倍倉橋麻呂が大化5年に没していること、「後岡本宮御宇天皇」斉明の即位がその6年後であることを挙げて『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』のこの記述を誤りとされ、皇極天皇の時とすべきだと述べておられます。
また目にした範囲では言及されたものを見ないのですが、「穂積百足」についても疑問です。『日本書紀』天武紀上、壬申の乱に際して近江朝方に「穂積臣百足」(ほづみのおみももたり)の名が見えます。6月丙戌(26日)とされる記事の中に弟の穂積臣五百枝(ほづみのおみいほえ)や物部首日向(もののべのおびとひむか)とともに「倭京」に遣わされたことが見え、己丑(29日)には大伴連吹負(おほとものむらじふけひ)・坂上直熊毛(さかのうへのあたひくまけ)らの計略により敗れ、殺害されたことが見えます。
『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「穂積百足」がこの壬申の乱で死んだ穂積臣百足なのかどうかは不明ですが、四半世紀近く離れた記述であって、同一人と見るのも難しく思えます。
孝徳紀の阿倍倉梯麻呂の没した大化5年ころの記述には、蘇我倉山田石川麻呂の「反」の讒言の記事等にからんで「穂積臣嚙」(ほづみのおみくひ)の名がさかんに見えます。彼はまた大化2年3月辛巳(19日)、東国に遣わされて帰還した国司(「朝集使」)たちの勤務評定の詔でも最初に名が挙がっているのですが、『日本書紀』の記述を信頼するならこの穂積臣嚙のほうが年代的には合いそうです。大安寺に「寺司
阿倍臣 穂積臣」程度のメモ的な古い記録しか残されていなかったのを、誰かが勝手に「寺司阿倍倉橋麻呂。穂積百足二人任賜」という形に脚色したといったことでもあったのでしょうか。
しかし「穂積百足」についてどう見ようと、相変わらず「阿倍倉橋麻呂」のほうの問題は残っています。阿倍倉梯麻呂が百済大寺の寺司だったという事実があったとすれば、彼は大化5年に没していますから、それは少なくとも『日本書紀』のいう斉明の時代のことではあり得ない。『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』では寺司任命を舒明没後のこととしているわけですから、皇極・孝徳いずれかの時代ということになるように思います。いや「爾時後岡基宮御宇天皇造此。寺司阿倍倉橋麻呂。穂積百足二人任賜」という書き方に対して孝徳の代を問題にするのはおかしいのかもしれませんが、ここも『日本書紀』『家伝上』が「皇祖母尊」と表記している孝徳朝の皇極について「岡基宮御宇天皇」表記で代表させているものなのかもしれませんし、あるいはさらに皇極の代についても「岡基宮御宇天皇」表記で代表させているのかもしれません。私も「中大兄」などと表記すべき即位前の天智を「天智」とし、即位前の大海人についても「天武」と、通りのいい最終的な称で書いたりしています。いやいや、その前の舒明臨終の記述では「大后尊」と表記しているのだから、やはり時間の経過による称の変化は意識されているのだと見るべきなのかもしれません。しかし――『日本書紀』孝徳紀大化元年8月癸卯(8日)、十師を定めたなどの大化の僧尼への詔の中に「今拝寺司等与寺主」(いま寺司等と寺主とを任じる)と見え、同日条のこの文言の直前では「別以恵妙法師、為百済寺々主」と見えています。『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「寺司阿倍倉橋麻呂。穂積百足二人任賜」についてもこれと同時、あるいはこれに近い時期のこととは考えられないでしょうか。
いや、そもそも『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の信憑性自体が問題なのですから、そんなことを考えてみても意味はないのかもしれません。そういった意味では『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』の「小治田天皇大化三年歳次戊申九月廿一日己亥許世徳〓(〔阝色〕)高臣宣命為而食封三百烟入賜〈岐〉」も巨勢徳太を推古朝の人物と勘違いしているらしい奇妙なものでしたし、『播磨国風土記』揖保郡大法山の「小治田河原天皇(之世)」は推古のことなのか、『万葉集』巻1の標目に「明日香川原宮御宇天皇(代)」と見える皇極のことなのかわかりません。『日本書紀』以外ではずいぶんいろいろと奇妙な残り方をしているものです。
その『万葉集』巻1の「明日香川原宮御宇天皇代」の標目には、7の額田王の「秋の野のみ草刈り葺き……」の歌しかないわけですが、その左注には「右、検山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年幸比良宮大御歌(後略)」などとあって、その「戊申年」は孝徳朝の大化4年(≒648年)のことらしい。『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』が「小治田天皇大化三年歳次戊申」としている「戊申」年です。
そこで「大御歌」、天皇御製の歌とする「天皇」が問題となりますが、これについては古典文学大系の注には「この行幸は書紀に見えないが、皇極太上天皇の幸とし、従って歌は太上天皇の御製とする説がある(沢瀉久孝博士)」とあり、中西さんの『万葉集(一)』では「皇極天皇の作歌。孝徳天皇の作とも考えられる」とされ、新日本古典文学大系には「標目に皇極天皇の代と掲げながら、左注に孝徳天皇・斉明天皇について引用している」と見えます。
孝徳の作としては『日本書紀』白雉4年是歳条、「皇太子」天智や「皇祖母尊」斉明とともに倭に去った間人皇后に送った「鉗(かなき)着け吾が飼ふ駒は……」の歌がありますが、山上憶良はこれと「秋の野のみ草刈り葺き……」の歌とを見比べてどう思ったでしょうか。
『万葉集』『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』は、どれも孝徳の代というものの存在を否定しているのではないか。……とんでもないことを申してしまいましたが、あるいは既にそういうことをおっしゃられている方もおありのことと拝察いたします。いや、孝徳の代は『日本書紀』はじめ『常陸国風土記』等『風土記』にも、『日本霊異記』にもちゃんと記されていますから、孝徳の代を肯定するものも当然存在しています。これは孝徳の代について「捏造された代だ」などとその存否を申しているのでなく、見方――孝徳を「治天下」「御宇」の存在として受け入れるか、そうは見ないかといった見方――の問題として申し上げているつもりです。
『常陸国風土記』行方郡の「難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世 癸丑年」「難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世」、香島郡の「難波長柄豊前大朝馭宇天皇之世 己酉年」、同郡神戸の「難波天皇之世」、多珂郡の「至難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世
癸丑年」などはどれも孝徳朝の立評に関するもの、あるいはその立評の関係者(行方郡の壬生連麿)に関するものです。しかも香島郡の由来には「海上国造」も見えています(「古老云
難波長柄豊前大朝馭宇天皇之世 己酉年 大乙上中臣□子 大乙下中臣部兎子等 請惣領高向大夫 割下総国海上国造部内軽野以南一里 那賀国造部内寒田以北五里 別置神郡(後略)」)。また『播磨国風土記』の揖保郡石海里の「難波長柄豊前天皇之世」、讃容郡の「難波豊前於朝庭始進也」などはとくに立評とは関係ないようですが、宍禾郡比治里の「難波長柄豊前天皇之世」は「所以名比治者
難波長柄豊前天皇之世 分揖保郡 作宍禾郡之時 山部比治 任為里長 依此人名故曰比治里」などと見えるもので、やはり立評に関係したものです。
いっぽう『日本霊異記』で孝徳の代が見えるのは上巻第5の「信敬三宝得現報縁第五」(「(前略)孝徳天皇世六年庚戌秋九月、賜大花上位也(後略)」)、第9の「嬰児鷲所擒以他国得逢父縁第九」(「(前略)以難破長柄豊前宮御宇天皇之世庚戌年秋八月下旬(後略)」)、第13の「女人好風声之行食仙草以現身飛天縁第十三」(「(前略)是難破長柄豊前宮時甲寅年(後略)」)、第23の「凶人不孝養嬭房母以現得悪死縁第廿三」(「(前略)是難破宮御宇天皇之代(後略)」)程度のようで、第5以外は出雲路さんのご見解では延暦6年原撰本よりあとの話となります。なお上巻第12の「人畜所履髑髏救収示霊表而現報縁第十二」は延暦6年原撰本のあったと想定される話のようですが、これにも「(前略)而往大化二年丙午、営宇治椅(後略)」と見えています。しかしこちらは年号のみで「難破長柄豊前宮……」などとは言っていませんから、その「大化二年丙午」が誰の治世だったかは『日本霊異記』の中だけではわかりません。
『万葉集』巻1の7の歌について、左注では「戊申年」とまで書きながら「明日香川原宮御宇天皇代」の標目に分類されていて、孝徳を指す「○○宮御宇天皇」などの表記が見えないことは、『万葉集』は孝徳の代を認めない立場だったのではないかとの疑いを抱かせます。
『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』の「小治田天皇大化三年歳次戊申」の記述も、大化4年ごろが孝徳の治世というよりは女帝、女王の治世だと意識されている筆者により記録されたもの、伝写されたものだったという形で見られないでしょうか。
では『万葉集』や『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』は『日本書紀』のいう孝徳朝についてどう見ていたというのか。『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』は阿倍倉橋麻呂を「後岡基宮御宇天皇」時代の人のように記しているのですから、曲解というかある意味バカ正直に信じれば、先にも申しましたように舒明没後から20年間一貫して「後岡基宮御宇天皇」の世だったと見ているということになるのでしょう。その直前に見える舒明の臨終、「将崩賜時」の記述には「勅大后尊〈久〉」とあることからすれば、あるいはある時点までは「大后尊」で、その後即位して「後岡基宮御宇天皇」となったという可能性もあるのかもしれません。しかしその場合は即位のタイミングをどうとらえられていたのかがわかりません。「爾時後岡基宮御宇天皇造此。寺司阿倍倉橋麻呂。穂積百足二人任賜」とする『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の記述を信じるなら、舒明没後に即位して以来ずっと「後岡基宮御宇天皇」だったと解釈していたといったあたりになるのでしょうか。
『万葉集』のほうは標目で「明日香川原宮御宇天皇代」と「後岡本宮御宇天皇代」とに分けていますが、「川原宮」はやはり斉明元年冬に板蓋宮が焼けた際の仮住まいとした「飛鳥川原宮」あたりを指すのではないでしょうか。白雉4年是歳条の「倭飛鳥河辺行宮」、白雉5年12月己酉の「倭河辺行宮」というのもありますが。「後岡本宮御宇天皇代」の中大兄の13・14・15の歌の左注には「亦紀曰、天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子」とわざわざ「先」を加えており、「明日香川原宮御宇天皇代」の額田王の7の歌の左注には「但、紀曰、五年春正月己卯朔辛巳、天皇、至自紀温湯」とただ「五年春正月」として「後」などを加えていませんから、孝徳の代というものの存在を認めないようでありながらも孝徳没・斉明重祚のあたりに線を引いて、それより前を「明日香川原宮御宇天皇代」また「天豊財重日足姫天皇先○年」、後を「後岡本宮御宇天皇代」また「天豊財重日足姫天皇○年」といった形で見ていた(あるいは、そのようにした)もののようにも思われます。ただし「紀曰」ですから、「『日本書紀』によれば」「『日本書紀』の見解に従うなら」といった含みがあるようにも思われます。下種の勘繰りというものかもしれません。
もっとも『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』のほうは断片的ともいえるわずかな記述ですし、信憑性の問題もあるでしょうから、これで「孝徳代の存在を否定」をうんぬんするのは問題かもしれません。しかし『万葉集』につきましては「あるいは……」という思いがあります(おかしくなっているのかもしれませんが)。仮にその題詞や左注が平安初期のものだったとしても、そのころまで伝わっていたある種の歴史観を示すもののように思うのです。
孝徳と淳仁には似た印象がある――などと申しますと笑われてしまうかもしれませんし、または「重祚した女帝の間にはさまれた代、という意味なら似ていて当然。何をいまさら」と言われるかもしれませんが、たとえばその治世の終わり方があっけない印象のところも似ているでしょう。淳仁は彼を担ぎ出した藤原仲麻呂が天平宝字8年(≒764年)9月の恵美押勝の乱で敗れ滅びると、その20日ほどのちには捕らえられて淡路へ流され、それから1年あまりのちの天平神護元年(≒765年)10月、ちょうど紀伊へ行幸していた称徳が『日本霊異記』の景戒の故郷かもしれない名草郡あたりにいた折に脱走に失敗し、連れ戻されて頓死しているようです。
いっぽう孝徳は白雉4年(≒653年)に天智が倭に戻りたいと言い出したのを拒絶した。ところが皇極はじめ間人皇后や「皇弟」大海人らが天智についていくと「公卿大夫百官人等」もみな一緒に倭へ行ってしまった。孝徳はこれを恨んで「国位」を捨てようとし、また「山碕」に宮を造らせ、間人に例の「鉗着け……」の歌を送ったりしているようですが、こうなると実際には孝徳が「国位」を捨てようとしたというよりは、「公卿大夫百官人等」がみな倭に移ってしまったのですから、逆に孝徳が捨てられてしまった、孝徳ひとりが難波にいながらにして島流しされてしまったような状況ではなかったでしょうか。
「仮にも」というか「いやしくも」というか、大化の新政権の中心人物だった天皇(大王)であるはずの孝徳のこの弱さ、あっけなさが何に由来しているのだろうかと考えるとき、仲麻呂という後ろ盾を失ったあとの淳仁のあっけなさに似ているような感じがするのです。しかも『公卿補任』によればその2年前の白雉2年(≒651年)7月、皇極の初年ごろから巨勢徳太とともに孝徳を支えてきたらしい右大臣の大伴長徳が没しているようです。この『公卿補任』の記述を信じるなら、孝徳の政権は支えを失ってあっけなく崩壊したようにも思われるのですが、白雉4年に天智らについて倭に戻った「公卿大夫百官人等」の中に左大臣の巨勢徳太も含まれていたのでしょうか。だとすれば冷淡な印象ですが、その巨勢徳太も斉明4年(≒658年)には没しています。なお天智3年5月是月に「是月、大紫蘇我連大臣薨。〈或本、大臣薨注五月。〉」(実は3月是月とすべき記事だったのではないかということですが)と見える蘇我連(そがのむらじ。蘇我連子。『公卿補任』は蘇我倉山田石川麻呂の弟とするそうです)については右大臣大伴長徳の後任と見る説(拝見した中では、直木孝次郎さんの『日本の歴史2 古代国家の成立』中央公論社 1965 はこちらのようです)と左大臣巨勢徳太の後任と見る説(古典文学大系『日本書紀』の「蘇我連大臣」の注はこれです)とがあるようで、よくわかりません。
拝見した中では、たとえば篠川賢さんの『飛鳥の朝廷と王統譜』(吉川弘文館 2001)では、蘇我倉山田石川麻呂討滅事件について「改新派」の中大兄に対する「保守派」の麻呂という形でとらえる通説的理解に対し、むしろ麻呂を「改新派」、中大兄を「保守派」という形で見るお立場を採っておられるのですが、その理由として麻呂討滅以後は天智3年の「甲子の宣」まで新政策が打ち出されていないことなどとともに、白雉4年に中大兄が「倭京」への遷都を奏請したことをその保守性を表すものとして挙げておられます。このあたりは私には難しくて、改新というものをどう評価するかどころか「改新」ということ自体がさっぱりですし、阿倍内麻呂(倉梯麻呂)・蘇我倉山田石川麻呂没後に巨勢徳太・大伴長徳が大臣に昇格し、長徳没後2年で「皇太子」天智が倭へ戻ろうと言い出していることなどもあわせ考えますと、複雑な主導権争いが裏に伏在していたのではないかといった気もします。ともかく、白雉4年に天智が皇極・間人・大海人らを伴い倭へ引き揚げた事件については「舒明・皇極ファミリー」とでもいうべきもの(孝徳を除く)の紐帯の強さをうかがわせると同時に、その当時の朝廷における権力の所在、ありようといったものも浮き彫りにしているように見えます。いえ、30年前なら「孝徳も斉明も傀儡(かいらい)に過ぎず、実権は皇太子天智にあった」といった見方で通っていたのかもしれませんが、個人的には皇極や間人の権威・権力も相対的に大きいものだったのではないかと見たく思うのです。皇極も間人も一緒についていってしまったからこそ「公卿大夫百官人等」も従った。いやむしろ、間人が一緒についていってしまったことが決定的だったのかもしれません。孝徳の地位の正当性が間人との配偶関係に求められていたとすれば、乙巳の変後に譲位したとされる皇極に「皇祖母尊」なる号がたてまつられたことも理解しやすいように思われます。皇極の実の弟であるはずの孝徳は、間人との配偶関係によって皇極の婿、義理の息子となったのでしょうから。孝徳について「スメイロド」――皇極の実の弟であることにより、舒明から、あるいは舒明・皇極夫妻から見て「スメイロド」――とするものはいっさい存在しませんが、孝徳(あるいは孝徳・間人夫妻)から見て皇極が「母」だったとするものは存在することになります。
なお「皇弟」――間人皇后を介して孝徳の、あるいは孝徳・間人夫妻の「スメイロド」の意だと解した「皇弟」ですが――の大海人は、朱鳥元年(≒686年)に享年56で没したと見れば白雉4年に数え年23歳。やはり30年ほど前なら「成年」、王子によっては「皇太子」とされてもおかしくない年齢を過ぎたあたりといった形で見られていたところでしょうが、白雉4年是歳・白雉5年10月癸卯朔に「皇弟」表記で特記されていることを考えますと、若いながらもやはり何らかの発言力、相応の地位といったものを有していたもののようにも思われます。
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