6. 「大」「中」の称 − 7

 孝謙・称徳についても『続日本紀』が孝謙代の題は「宝字称徳孝謙皇帝」、称徳代の題は「高野天皇」としていました。これが『宋史』日本伝(と『新唐書』日本伝)に見える、「然が宋にもたらした『王年代紀』におそらく依拠するらしい記述では、孝謙代が「孝明」天皇、称徳代は「高野姫」天皇となっています。先に皇極・斉明の名について「トヨタカラ」を想定した際に、『王年代紀』の皇極・斉明や孝謙・称徳の表記について「重祚」という事態を隠したかったのではないかなどと触れましたが、考えてみますと『続日本紀』も文武の時代の持統、元正の時代の元明、聖武の時代の元正、そして孝謙の代の聖武については「太上天皇」と表記しているのに、「廃帝」(淳仁)の時代の孝謙については「高野天皇」であって「太上天皇」ではありません。たとえば天平宝字4年正月丙寅(4日)には「丙寅。 高野天皇及 帝御内安殿。授大保従二位藤原恵美朝臣押勝従一位(中略)女孺正六位上大伴宿禰真身。雀部朝臣東女。従六位下布勢朝臣小野。正七位上大神朝臣妹。无位藤原朝臣薬子並従五位下。事畢。 高野天皇口勅曰(後略)」とあり、「(後略)」部分には藤原仲麻呂を大保から大師に進める宣命が見えているのですが、「天皇及太上天皇」などでなく「高野天皇及帝」となっています。驚いたことに「高野天皇」孝謙がかたわらに控える「帝」淳仁を差し置いて「口勅」、他人に読ませるのでなく自ら口ずから宣りたもうたと見えています。岩波文庫『続日本紀宣命』巻末の倉野憲司さんの解説によれば「(前略)而して宣読するには宣命譜(本朝書籍目録に「宣命譜 一巻」と見えてゐる)といふものがあつて、この譜によつて曲折をつけて読んだのである」と見えていますので、ここからすれば「高野天皇」孝謙もこの天平宝字4年の宣命を独特の節回しで読み上げたということになるのかもしれません。なお「女孺」の末尾に見える「藤原朝臣薬子」については、意外にもというべきか当然ながらというべきか、平城上皇の変(薬子の変)の藤原薬子とは別人のように思われます。あの藤原薬子は藤原種継の娘で兄に仲成がいたのですが、この「藤原朝臣薬子」が仮に天平宝字4年(≒760年)に15歳だったとしても、藤原種継より9歳年下、藤原仲成より18歳年上、そして平城天皇より28歳の年上となるようです。
 ともかく、この天平宝字4年の宣命では「高野天皇及帝」という形で見えており、「高野天皇」孝謙が「帝」淳仁よりも先に記されています。『続日本紀』の称徳の代における表記は単に「天皇」のようですが、宝亀元年(10月己丑朔=1日に改元するまで神護景雲4年)8月癸巳(4日)に称徳が没した直後の8月丙午(17日)には、もう光仁の代という意識からか「丙午。葬高野天皇於大和国添下郡佐貴郷高野山陵」と見えます。
 「高野天皇」の「高野」はこの「高野山陵」という墓所の名称に由来するものということになるのでしょう。『万葉集』巻1の最後の84、長皇子の歌は「秋さらば今も見るごと妻恋ひに鹿鳴かむ山そ高野原の上」(「秋去者 今毛見如 妻恋尓 鹿将鳴山曽 高野原之宇倍」)で、長皇子と志貴皇子が「佐紀宮」で宴をしたときの歌ということですが、「高野」の地が歌われています。しかし「高野天皇」の称が墓所の地名に由来する一種の「諡」、おくり名のようなものだとすれば、皇極・斉明の場合も「袁智天皇」(『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』)の称が「越智崗上陵」(『日本書紀』天智62月戊午に「小市岡上陵」)に由来するものと見て「越智姫」天皇などと……なるのかといえば、ならないのではないでしょうか。『王年代紀』でも「天豊財重日足姫天皇」そのままだったように思われます。『王年代紀』の著者の思い違いなどがあれば別ですが、「高野山陵」由来と見ていながら「高野姫」天皇という表記をあえて用いることはないのではないか。「高野姫」という表記を見ますと、『王年代紀』のころにも「高野」がたとえば持統の「広野姫」などと同じような性格の称と認識されていたのではないかなどと思いたくなります。しかしこれは疑ってみても確かめようがありません。
 孝謙について「太上天皇」と見えるのは、これもきちんと確認しておらず恐縮ながら、たとえば天平宝字36月庚戌(16日)の「廃帝」大炊王(淳仁)の宣命(光明皇太后の勧めにより淳仁が父舎人親王に「崇道尽敬皇帝」と「追皇」、また生母の当麻山背も「大夫人」、兄弟姉妹も親王とした宣命)の「(前略)掛けまくも畏き我が皇(おほきみ)聖(ひじり)の太上天皇(おほきすめらみこと)の御所(おほみもと)に奏し給へば奏せと教へたまはく(後略)」(「掛畏我皇聖太上天皇御所〈尓〉奏給〈倍波〉奏〈世止〉教宣〈久〉」)や、また天平宝字66月庚戌(3日)の孝謙太上天皇自身の宣命(孝謙太上天皇出家の宣命。「斗卑等〈乃〉仇〈能〉在言〈期等久〉不言〈岐〉辞〈母〉言〈奴〉。不為〈岐〉行〈母〉為〈奴〉」「但政事〈波〉常祀〈利〉小事〈波〉今帝行給〈部〉。国家大事賞罰二柄〈波〉朕行〈牟〉」等の言辞が見える)の冒頭の「太上天皇の御命(おほみこと)以ちて卿等(まへつぎみたち)諸(もろもろ)に語らへと宣りたまはく(後略)」(「太上天皇御命以〈弖〉卿等諸語〈部止〉宣〈久〉」)ぐらいが思い当たる程度です。もっとも宣命等はともかく、『続日本紀』の記事もその同じ瞬間のドキュメントではもちろんなくて、天平宝字2年以降分は桓武朝にまとめられたもののようですから、「高野天皇」表記にも結局重祚したからというのちの意識が働いているのかもしれません。それでもやはり持統・元明・元正・聖武の「太上天皇」と比較すれば奇異な印象です。
 なお淳仁の淡路追放後には称徳の即位の宣命・詔らしいものは見えず、ようやく翌天平神護元年(≒765年)の11月癸酉(16日)に「先是。廃帝既遷淡路。天皇重臨万機」――「廃帝」が既に淡路に流され「天皇」が「重臨万機」、重ねて万機に臨まれる――から、「更行大嘗之事。以美濃国為由機。越前国為須伎」――さらに「大嘗」のことを行う、美濃国を「由機」とし越前国を「須伎」とする――などと見えています。美濃の「由紀」・越前の「須伎」については11月庚辰(23日)の宣命に、「貞かに明き心をもちて」朝廷の守りとして「関」につかえまつればこそ、国は多くあれども美濃と越前とが「御占」に合って「大嘗」のマツリゴトを……などと見えていますが、「関につかえまつれば」というのは具体的にはその前の1013日からおそらく閏1067日ごろに及ぶ紀伊行幸の直前、10月庚申(2日)に見える「遣使固守三関」のことを指すのでしょう。なおこの行幸では10月己卯(21日)に「前名草郡少領榎本連千嶋献稲二万束」などと見えています。あるいは『日本霊異記』の景戒も少年時代にこの行列を見ていたのかもしれません。その翌日の庚辰(22日)には「庚辰。淡路公不勝幽憤。踰垣而逃。守佐伯宿禰助。掾高屋連並木等率兵邀之。公還明日薨於院中」などと淳仁の没したことが語られています。それはともかく、11月庚辰の宣命(先の由紀・須伎への宣命のあとに美濃・越前の守・介の昇叙があって、それに続く宣命)には「今回がいつもと違うのは、私が仏弟子として菩薩戒を受けていることだ」(「然此遍〈能〉常〈余利〉別〈仁〉在故〈方〉朕〈方〉仏〈能〉御弟子〈等之天〉菩薩〈乃〉戒〈乎〉受賜〈天〉在」)といった文言が見え、以下「神と三宝とは離さなければならないように思われているようだが、経典を見れば仏法を守護するのは諸神だから、出家も俗人も交じって仕えるのに何の差し障りがあろうか」などといった印象の、少々弁解のようにも感じられる内容も見えています。
 称徳重祚の際に即位の宣命らしいものが見えないことについて「出家の身だったから」とされるような論をどこかで拝見したような記憶があって、あるいはこの天平神護元年11月庚辰の宣命あたりにその理由が求められているのかと思うのですが、「高野天皇」表記を持統・元明・元正・聖武の「太上天皇」と対比しますと、一貫して「高野天皇」だったから、位を退いてはいなかったから改めて即位する必要もなく、そのまま位にすわり続けただけのもののようにも思われます。で、この天平神護元年11月の宣命の前後にも称徳の宣命や勅は多数見えますが、やはり改めて即位したといったような意識が希薄で、あたかも一貫して「天皇」だったような印象を個人的には受けるのです。たしかに天平宝字28月庚子朔には譲位の宣命に「(前略)日嗣〈止〉定賜〈弊流〉皇太子〈尓〉授賜〈久止〉(後略)」――日嗣と定め賜へる皇太子に授け賜はくと――と見えていたはずなのに。
 いっぽう『日本霊異記』ではどうかというと、下巻第39に見える「昔諾楽官廿五年治天下勝宝応真聖武太上天皇之御世、又同宮九年治天下亭姫阿陪天皇御世、彼山有浄行禅師而修行、其名為寂仙菩薩」という文からすれば「亭姫阿陪天皇御世」は孝謙の時代、天平勝宝元年(≒749年)の孝謙即位から天平宝字2年(≒758年)の譲位までの9年間を指すもののようですが、『日本霊異記』全体の話をおおよそ時代順に配列されているものと見れば、先にも触れましたが中巻が聖武と「大炊天皇」淳仁の時代、下巻の前半が「帝姫阿倍天皇」の時代で後半が光仁・桓武朝と、孝謙の時代がなくて「帝姫阿倍天皇」代とは称徳の時代のみを指すもののようにも見えます。「天平勝宝元年」と見える中巻第9と「天平勝宝六年」と見える中巻第10は聖武の代の話に挟まれていますし、「橘朝臣諾楽麻呂者、葛木王之子也」で始まる第40も「大炊天皇」代の話に挟まれており、あたかも孝謙の代というのが聖武の代と淳仁の代とに吸収されてしまっているかのように見受けられます(実際には聖武の没した天平勝宝85月から淳仁が即位した天平宝字28月まで2年ちょっと間がありますが)。で、下巻第38・第39あたりにそのヒントがないかと探しますと、下巻第38には年代が実にさまざまな形で表記されており、前半には歴史上著名な人物名ばかり登場しますから、年代を示す人物名やその年代にかけて語られる事柄を挙げていけば前半全文を丸写しにしなければなりません。関係する部分で目立つもののみ挙げてみます(引用は基本的に新日本古典文学大系『日本霊異記』によりましたが、校異により改めた箇所があります)。

 「諾楽楽宮廿五年治天下勝宝応真聖武太天皇」が「大納言藤原朝臣仲麿」に「朕子阿陪内親王与道祖親王、二人以之、令治天下欲」(孝謙と道祖王の2人に天下を治めさせよう)と言い、御酒を飲ませてこの勅を守るよう誓わせ、「仲丸」も誓った。「然而後」(然り而うしてのち)、「天皇崩之後」、遺勅に従い道祖が「儲君」とされた。「其天皇之大后同諾楽宮坐時」に、天下の国こぞって「年少失王……(中略)……志〈我〉幾何売命」(歌詞。本により表記も解釈も異なり、不明)と歌った。「然而彼帝姫阿倍天皇並大后御世之天平勝宝九年八月十八日、改為天平宝字元年」とされたその年に「儲君道祖親王」は「大宮之(欠損)殿」より出て投獄され獄死、「並黄文王塩焼王、又氏々人等」もともに殺された。「又宝字八年十月、大炊天皇、為皇后所賊、掇天皇位、退於淡路国、逼(欠損)」(また宝字810月、大炊天皇、皇后にうたれ、天皇の位をやめ、淡路国に退き……)、「並仲丸等、又氏々之人」もともに殺された。先に天下こぞって歌ったのは「此親皇(欠損)滅表相」だった。
 「又同大后坐時」に天下の国こぞって「法師等〈乎〉……(中略)……弥発時々隈卿〈耶〉」(歌詞)と歌い、また「(略)」(歌詞)と歌った。「帝姫阿倍天皇御世之天平神護元年歳次乙巳年」にはじめて弓削氏の僧道鏡法師が「皇后」と「同枕交通」し天下の政を「相摂治天下」したが、かの歌は道鏡法師が「与皇后同枕交通」「天下政摂」することの「表答」(予兆、とでもいった意味でしょうか)だった。「又同大后時」に「正相木本者、大徳食肥而立来也」(歌詞)と歌われたのは、道鏡を法皇とし、また「鴨氏僧韻興法師」を「法臣参議」となして「天下政摂」することの「表答」だった。
 「又諾楽宮廿五年治天下勝宝応真大上天皇代」に天下こぞって「朝日刺、豊浦寺西有耶(中略)然而者、国曽栄、我家〈曽〉栄〈耶〉、押天耶」(歌詞)と歌ったが、「後帝姫阿陪天皇代、神護景雲四年歳次庚戌年八月四日」に「白壁天皇」(光仁)が即位し同年101日に筑紫から亀がたてまつられ宝亀元年となった。先の歌は「白壁天皇」が天下を治めることの「表答」だった。
 「又諾楽宮食国帝姫阿倍天皇代」に国を挙げて「大宮〈ニ〉直向山部之故、痛〈奈〉不践〈曽〉、土〈ニハ〉有〈ヒモ〉」と歌ってのち、「白壁天皇代」の「天応元年歳次辛酉四月十五日」に「山部天皇」(桓武)が即位して天下を治めることになった。先の歌は「山部天皇」が天下を治めることの「表答」だった……。

 こんな書き方をしても読めませんし、何のことなのかもわかりませんが、とくに破損や誤写が多い部分のようで、本により採用する表記も解釈も異なるようですのでご勘弁願います。
 このあともまだ続きがあって、桓武の代の「延暦三年歳次甲子冬十一月八日乙巳日、夜自戌時至于寅時、天皇悉動、繽紛而飛遷」といった現象(こぐま座β流星群か何かでしょうか)は「同月十一日戊申」に「天皇并早良皇太子」が「自諾楽宮移坐于長岡宮」、諾楽宮から長岡宮に移る予兆だったとか、「次年乙丑年秋九月十五日之夜」の月食は「同月廿三日亥時」に「式部卿正三位藤原朝臣種継」が「於長岡宮嶋町」で「近衛舎人雄鹿宿禰木積波々岐将丸」に射殺される予兆だったなどと見え、その後は景戒の予知夢などの話になっています。なおこの中には歴史的に見れば誤りだというものも多いようで、たとえば橘奈良麻呂の変に際し「多夫礼」と改名させられた黄文王や「麻度比」と改名させられた道祖王が「並杖下死」と見えるのはたしかに天平宝字元年7月庚戌(4日。なお818日の改元まで天平勝宝9歳)ですが、細かく見れば道祖王は3月丁丑(29日)に廃太子されていて奈良麻呂の変発覚の時点では皇太子ではありませんし、塩焼王(氷上塩焼。道祖王の兄)はこの際には殺されていません(7月癸酉=27日の宣命により遠流を免れています。天平宝字8年≒764年の恵美押勝の乱で担ぎ出されるも敗死。『続日本紀』天平宝字89月壬子=18日に「(前略)押勝不知而偽立塩焼為今帝」、同癸亥=29日に「竊立氷上塩焼為今皇」「同月十八日。既斬仲麻呂并子孫。同悪相従氷上塩焼(後略)」)。また「鴨氏僧韻興法師以為法臣参議」の「法臣参議」については、称徳の天平神護210月壬寅(20日)、「奉請隅寺〓(〔田比〕)沙門像所現舎利於法華寺」、隅寺(海竜王寺)の毘沙門天像から出現した「舎利」を法華寺に移したことに伴う宣命(太政大臣禅師の道鏡を法王とした宣命)に「(前略)円興禅師〈尓〉法臣位授〈末川流。〉基真禅師〈尓〉法参議大律師〈止之天〉冠〈波〉正四位上〈乎〉授〈気〉復物部浄〈之乃〉朝臣〈止〉云姓〈乎〉授〈末川流止〉(後略)」などと見えており、これによれば「円興」が「法臣」、「基真」が「法参議」だったようです(新日本古典文学大系『日本霊異記』ではその部分を補って解され、校異で原文を示しておられます)。
 最初に「大后」の語が見える「其天皇之大后同諾楽宮坐時」の「大后」は光明皇太后を指すようです。実際には聖武の生前から孝謙が位にあったはずですが、なぜか「其天皇之大后同諾楽宮坐時」、聖武の大后が同じ諾楽宮に坐した時などという言い方をしています。同じような言い方がそのあとにも道鏡のエピソードにからんで「又同大后坐時」「又同大后時」と繰り返されており、「同大后」ですからこれらもまた光明皇太后を指すもののようです。「然而彼帝姫阿倍天皇並大后御世之天平勝宝九年八月十八日、改為天平宝字元年」はピンポイントで時が示されている例ですが、天平宝字元年と改元した年(≒757年)は聖武の没した翌年、淳仁の即位する前年で、まさに孝謙の時代のように思われるのに「帝姫阿倍天皇並大后御世」です。それでもまだいいほうかもしれなくて、『日本霊異記』で「帝姫阿倍(陪)天皇」が孝謙の代を指す例はあるいは下巻第38のこの「帝姫阿倍天皇並大后御世之天平勝宝九年八月十八日、改為天平宝字元年」と、そして次の第39の「昔諾楽官廿五年治天下勝宝応真聖武太上天皇之御世、又同宮九年治天下亭姫阿陪天皇御世」と「亭姫天皇御世於九年、宝字二年歳次戊戌年」(「阿倍」は見えませんが)だけなのではないでしょうか。そうしてこれらは、示された数値のデータが詳細なだけに『続日本紀』等に準じる記録・資料に依拠した知見なのではないかと疑われます。下巻第39はともかく、この第38の「帝姫阿倍天皇並大后御世(之天平勝宝九年八月十八日、改為天平宝字元年)」表記は、あるいは景戒がその『続日本紀』等に準じる記録を見る以前にはもともと単に「同大后時」のような形で書かれていたか、または構想されていたものではなかったか……。
 もっとも、別の考え方もあるでしょう。この下巻第38の説話は流行した俗謡が未来を予言しているという話ですから、予兆である俗謡の流行した時代の「其天皇之大后同諾楽宮坐時」と対比させて、橘奈良麻呂の変という結果の出た時代を「帝姫阿倍天皇並大后御世」云々という形で表現したものとも見られそうではあります。聖武が孝謙に譲位したのが天平勝宝元年(≒749年)、天平勝宝8歳(≒756年)に聖武没・道祖王立太子、天平勝宝9歳=天平宝字元年(≒757年)に道祖王廃太子・大炊王(淳仁)立太子・橘奈良麻呂の変、天平宝字2年(≒758年)に淳仁即位、天平宝字4年(≒760年)に光明皇太后没、天平宝字8年(≒764年)に恵美押勝の乱・淳仁の廃帝、天平神護元年(≒765年)に淳仁没・道鏡の太政大臣禅師……といった経過・順序ですから、実際には(聖武)「天皇崩之後」の「其天皇之大后同諾楽宮坐時」と「帝姫阿倍天皇並大后御世」とは『続日本紀』で見る限りは同じ治世、孝謙代で聖武没後の時代ということになるはず。その間に光明単独の治世から孝謙と光明の共治に移ったなどという事実は認められません。同じ俗謡が予言したものとされている「又宝字八年十月(大炊天皇為皇后所賊……)」の恵美押勝の乱・淳仁廃帝の事件は淳仁の代で光明没後ですから、こちらは時代がかわっていると見ることができるものです。
 「其天皇之大后同諾楽宮坐時」「又同大后坐時」「又同大后時」などの「大后」の位置付けもまた難しくて、実は『続日本紀』では光明を指す「大后」「太后」といった表記がちょうど橘奈良麻呂の変のあたりに集中して見えるように感じられるのですが、いっぽう『日本霊異記』ではおそらく下巻第38のこの3例くらいしかないのではないかと思うのです。ということは、橘奈良麻呂の変のころには光明皇太后が「大后」(オホキサキか)という形で世上大きく認識されていたのではないかと想像されるのですが、実際に『続日本紀』でも天平宝字元年7月戊申(2日)には孝謙の宣命に続けて「皇大后 詔曰」として光明皇太后の宣命が見え、翌己酉(3日)にも「内相仲麻呂侍御在所。召塩焼王。安宿王。黄文王。橘奈良麻呂。大伴古麻呂五人。伝太后詔宣曰」、仲麻呂が塩焼王以下5人を「御在所」に召して伝えたという「太后」光明皇太后の宣命が見えています。「上代日本における「大后」の語義」で山アさんが強調しておられますが、光明皇太后は天皇のように「詔」を出すことができる存在だったと『続日本紀』も伝えているわけです。では光明が「同大后」だった時代の孝謙について景戒が本来どのように見ていたのかと考えますと、あるいは孝謙代が「阿陪内親王」で、淳仁即位後あたりからは「大炊天皇、為皇后所賊、掇天皇位、退於淡路国……」の「皇后」だったようにも思われます。
 この『日本霊異記』下巻第38の「大炊天皇、為皇后所賊、掇天皇位、退於淡路国……」は仁藤敦史さんの『女帝の世紀』で拝見してはじめて知ったのですが、その記述にはまた天平宝字36月庚戌(16日)の淳仁の宣命(舎人親王を「崇道尽敬皇帝」と、生母の当麻山背を「大夫人」とした宣命)の中に、自身が聖武の皇太子として立てられたという文言が見えることが挙げられています(「(前略)朕又念〈久〉。前聖武天皇〈乃〉皇太子定賜〈比氐〉天日嗣高御座〈乃〉坐〈尓〉昇賜物〈乎〉(後略)」)。聖武が没した天平勝宝8歳(≒756年)5月乙卯(2日)に立太子されたのは道祖王であって、その道祖王が翌天平宝字元年(≒757年)3月丁丑(29日)に廃太子された直後の4月辛巳(4日)に大炊王(淳仁)が立太子されていますから、生前の聖武が大炊王を皇太子に立てたという事実はないはずですが、ともかく天平宝字36月庚戌の淳仁の宣命によれば彼は聖武天皇の皇太子という位置づけだったようです。
 実はこちらについては最初に知りましたのは瀧浪貞子さんの『最後の女帝 孝謙天皇』(吉川弘文館 1998)によってなのですが、瀧浪さんも「とりも直さず孝謙の皇太子にしなかったということ」、さらに「他ならぬ聖武の皇統(いうところの草壁皇統)に連なる後継者に仕立てることだった」(なお括弧直前の「皇統」に傍点ルビ)という形で特記しておられます。
 また『女帝の世紀』で仁藤さんはこの宣命と『日本霊異記』第38の「大炊天皇、皇后に賊たれ、天皇位をやめ」とを結びつけて考えておられ、「明らかに舎人親王の子である淳仁は光明子と聖武の子(皇太子)に擬制されている」「皇統譜上の擬制として聖武の娘孝謙を「大炊天皇」(淳仁)の「皇后」格として位置づけていることになる」といった形で見ておられます。言葉は悪いかもしれませんが、聖武と光明の「婿養子」とでもいった位置づけと見てよいのでしょうか。同書にはさらに「『霊異記』の説話では、孝謙(称徳)天皇は聖武天皇の娘としての続柄を強調した「帝姫阿倍天皇」との表記が一般的だが、この説話においてのみことさらに「皇后」表記を用いていることはやはり無視できない」「「皇后」と表記されることにより、大炊天皇や道祖王・道鏡の配偶者としての立場が強調されている」などとされる記述も見えます。恐縮ながら個人的には本来の『日本霊異記』では「帝姫阿倍天皇」は称徳代のみを指すもので、孝謙代・淳仁代の孝謙は語としてはあらわれないものの基調としては「阿陪内親王」「皇后」といった形で意識されていたのではないかなどと想像しております。下巻第3839におそらく3例のみ孝謙代の「帝姫阿倍天皇」が見えることこそむしろ『日本霊異記』では例外で、これはおそらく景戒が延暦6年以降のある時点で『続日本紀』の抄本的な年代記などを見て、付け焼き刃で部分的に修正を加えたり挿入したりしたために生じた破綻ではないかと思っております。

 藤原仲麻呂が大納言になったのは天平勝宝元年7月甲午(2日)、孝謙即位の宣命が読まれ天平感宝元年を天平勝宝元年と改元したその当日です。「諾楽楽宮廿五年治天下勝宝応真聖武太天皇」は「大納言藤原朝臣仲麿」に対して「阿陪内親王」とは言えなくて「天皇」だったはずなのですが、『日本霊異記』で景戒はそうは見ていなかった。第39の「昔諾楽官廿五年治天下勝宝応真聖武太上天皇之御世、又同宮九年治天下亭姫阿陪天皇御世」とは矛盾しますが、おそらくこの第38・第39などが例外的に『続日本紀』に準じるような資料を見て書かれた記述であって、それ以外の話では「天皇」といえば主に「勝宝応真聖武太上天皇」を指し、孝謙代の孝謙は「内親王」的な形で意識されていたのでは。そして聖武没後も光明皇太后が「大后」として君臨していた。この時期の光明皇太后の位置づけについては既に岸俊男さんの「光明立后の史的意義」で詳述されているところですが、これに対し、拝読しましたものの中ではたとえば河内祥輔さんの『古代政治史における天皇制の論理』が岸さんのご見解に反対しておられます。私ごとき素人が何か言うのもはばかられるような感じなのですが、しかし岸さんの「(藤原氏は)場合によっては聖武のつぎに光明女帝の即位さえも胸に画いたかも知れぬのである」(「光明立后の史的意義」の「九 光明子と広刀自」)は極端にしても、『日本霊異記』下巻第38の「其天皇之大后同諾楽宮坐時」「又同大后坐時」「又同大后時」からうかがえる光明皇太后の権力もまた『続日本紀』が「宝字称徳孝謙皇帝」とする人をはるかに凌駕していた印象です。またここに「皇后」(孝謙)と「大后」(光明)がともに見えていることは、「大后」が「皇后」の前身というよりは「皇太后」に近い存在であったことを示しているようにも感じられますが、この時代の「大后」「太后」は単に「皇太后」の「皇」字を略したもののようにも見えますし、そもそもこういったことについて時代の下る『日本霊異記』を証拠とすることはためらわれます。宣長も「正しき文書などには、当代のをば皇后、先代のを皇大后と書るゝことゝなれり……其後遂に常の語にも、当代の嫡后をばたゞ后と申し、大御母を大后と申すことにはなれるぞかし」と指摘しているようです。


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