6. 「大」「中」の称 − 6
「そんなバカな」とお思いかもしれませんが、このような例――記紀に「○○天皇」とはっきり記されているのに、その代を認めていないかのような見方をうかがわせる例――はほかにも見当たります。いやむしろ、どちらかといえばこちらの例でないほうの例が念頭にあるのですが、それはしばらく置いて、また「中皇命」と「中〈都〉天皇」に戻ります。仮に「中皇命」を間人大后と見て、即位……とは言わぬまでもそれに準じた地位にあったと見れば、「中〈都〉天皇」とみられる元正と似た部分が見えてくるように思います。
どちらも女帝のあとの女帝ないし女帝的存在、と見ることができそうです。元正は母である元明から譲位されています。間人をナカツスメラミコトと見ることが許されるなら、彼女もその母である斉明の没後にナカツスメラミコトとなったという可能性もおそらく高いでしょうし、そうなりますと間人がナカツスメラミコトだった期間は『日本書紀』が天智の称制と伝える時期と重なって、何らかの理由によって即位できない天智が即位できるようになるのを待っていたもののようにも見えます。「何らかの理由」は、吉永登さんが『万葉―文学と歴史のあいだ』(創元社 1967)の「一 間人皇女」で述べておられる天智と間人の関係ではなくて、40歳未満という年齢に見ていることは先に申しました。いや、天智称制期には、天智の実の妹である間人は当然天智より年下で40歳未満だったはずですが、そこは孝徳「皇后」だったという実績が関係するのでしょうし、また逆にだからこそ「仲天皇」「中皇命」でとどまったのかもしれません。
元正も聖武の成長を待つ間の位だったように思われます。もっとも聖武は神亀元年(≒724年)に即位した際には数え年24歳でしたが、これは律令――おそらく浄御原令の前と後とで即位に対する考え方がかわったからなのでしょう。もちろん令には皇位継承に関する規定などはなかったのでしょうが。
1889年の明治憲法公布から1200年さかのぼった浄御原令班賜が草壁の没した持統3年≒689年で、大宝令がその12年後の701年、藤原京遷都が794年の平安遷都の100年前の694年(持統8年12月6日はまだ694年だったようです)。そのほぼ102年前の崇峻5年12月8日(593年1月に入っていたようです)に即位したとされる推古は、享年から逆算して年の明けた推古元年に数え年40歳。持統11年に文武が即位して文武元年となった際に文武は15歳だったようです。間人は生年・享年ともに不明ですが、天智は舒明没時に16歳(『日本書紀』舒明13年10月丙午)だったとすれば推古34年(≒626年)生まれ、乙巳の変に21歳(『上宮聖徳法王帝説』)だったとすれば推古33年(≒625年)生まれとなり、天武は『本朝皇胤紹運録』等の伝える享年65歳を56歳の誤りと見れば舒明3年(≒631年)生まれ。この中間をとって間人の生年を628年、推古36年ごろと見れば、斉明が筑紫の朝倉宮に没した斉明7年(≒631年)には34歳。これでも即位の条件の40歳には達しておらず、自身の没した天智4年(≒665年)でも38歳で、まだ即位年齢でないと見るかギリギリと見るかといったあたりです。明日香村の牽牛子塚古墳の石室からかつて発見されていた歯牙もたしか間人皇女と同年代の女性とみられるとする報道を見たような気もしますが、これはまあ、問題がそういう問題だけになかなか難しい部分があります。
いっぽう元正は元明から譲位された霊亀元年(≒715年)に36歳です。このとき聖武は15歳で、父の文武が即位したのと同年齢ですが、光明子との配偶関係成立は翌霊亀2年(≒716年)のこととなるようです。元正は9年の在位ののち神亀元年(≒724年)、45歳のときに24歳になった聖武に譲位、その後も太上天皇として生きて天平20年(≒748年)に69歳で没しています。聖武が孝謙に譲位するのがその翌年の天平勝宝元年(≒749年)。なぜ元明が直接聖武に譲位せず娘の元正に譲位したのかは、随所で触れられているようですがよくわかりません。元明は養老5年(≒721年)に61歳で没していますから、聖武即位を25歳前後まで待とうという考えがあったとすれば、結果的にはいいタイミングだったのかもしれません。
そしてまた元正の存在をこのように見てきますと、「然が持っていった『王年代紀』に依拠するらしい『宋史』日本伝と『新唐書』日本伝での元正の扱いが改めて思い出されます。『宋史』日本伝の元正付近の箇所は、「(前略)次文武天皇大宝三年当長安元年遣粟田真人入唐求書籍(後略)」などと見えたのち「(前略)次阿閉天皇次皈依天皇次聖武天皇(後略)」となっているのですが、『新唐書』日本伝の相当箇所を見ますと「(前略)長安元年其王文武立改元曰太宝遣朝臣真人粟田貢方物(後略)」などとあって、このあとなぜか粟田真人の記述のみ長いのですが、入力できない文字(草かんむりの下が左「白」右「爲」)があるため引きません。ともかく「真人好学能属文進止有容」、相当な賛辞のあと「武后」(『旧唐書』の「則天」でさえありません)が麟徳殿でこれを宴し司膳卿を授けて帰したなどとありますが、「朝臣真人粟田」、名の順序が違っています(『旧唐書』は「其大臣朝臣真人」、「朝臣真人」のみ)。日本人だからでしょうか。
また大宝3年(≒703年)は長安元年ではなく長安3年のようなので、この点は『宋史』が誤りで、長安元年(≒701年)に「改元曰太宝」とする『新唐書』のほうが正しいのですが、「太宝」ではありませんし、大宝の元号は文武天皇の5年3月甲午(21日)に「対馬嶋貢金」により立てられています。武則天は老いてからも張易之・張昌宗という美少年の兄弟を寵愛したということですが、粟田真人も「進止有容」で気に入られたのかもしれません。もっとも粟田真人を藤原不比等と近い年齢と見るならこのころ40代前半から半ば、武則天はこの2年後の神竜元年(=慶雲2年≒705年)に没した際にはおそらく80歳前後だったようです。
余談はこれくらいにし、『新唐書』日本伝では「朝臣真人粟田」の長い記述に続けて「(前略)子阿用立死子聖武立(後略)」とのみ見え、元正に相当する記載が見えません。先にも同じ部分を引き、元正部分付近が特殊な書き方であったか汚損・欠損があったかと疑うと申しました。「皈依」という表記は「仏教に帰依する」などというよりは「飯高」「氷高」などを見誤ったものという可能性が高いのでしょうが、そもそもそういった誤りは『王年代紀』段階で既にそうであった可能性もあるのかもしれません。ともかく『新唐書』がそっくり欠落させてしまい『宋史』も「皈依天皇」などという奇妙な表記を採っていることからすれば、『王年代紀』がその部分だけ特殊な書き方をしていたという可能性も高いように思うのです。
間人は『日本書紀』では即位した天皇とされてはおらず天智紀に「間人大后」という例外的な表記で見えるのみなのですが、また『続日本紀』には正式に即位した天皇として見えている元正についても、「然が宋にもたらした『王年代紀』では他の天皇の表記とは少し違っていたことが想像されるのです。そして両者には、母である女帝のあとをうけて次の男帝即位までの間位にあるという形が共通するもののように思えるのです。
ならば結果的に神護景雲3年10月乙未朔の宣命の「中〈都〉天皇」を元正と見、そのありようと斉明没後の間人のありようとが似ている、というだけで『万葉集』の「中皇命」を間人と見るのかと問われれば、結局は「そうです」ということになってしまいます。ですが、問題はまだ残っています。たとえば「中」にはどのような意味があるのか。また「中皇命」は一般名詞的な地位呼称だったのか固有名詞的な使われ方をしたのか。この2つしか拝読しておりませんので結局こうなってしまうのですが、「古代の女帝」で井上さんは「中皇命」と「中天皇」とを区別して『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「仲天皇」についてのみ「皇子の妻であるべき人、したがって、倭姫説が最も自然である」とされ、「中」については「中つぎ」の意味でとらえておられます。小林さんの「中天皇について」では「中皇命」を固有名詞とし、また「仲天皇」と同一人と見て間人皇女と見ておられます。「中」については宣長の『歴朝詔詞解』での見解である「二番目」の意味に賛同しておられます。
個人的には小林さんのご見解、『万葉集』3題詞の「中皇命」も『万葉集』10−12題詞の「中皇命」も、そして『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「仲天皇」も間人とする見方を採らせていただきたく思うのですが、『万葉集』3の「中皇命」も10−12の「中皇命」も同一と見れば必然的に「中皇命」を固有名詞と見ることになるでしょう。
巻1の「高市岡本宮御宇天皇代〈息長足日広額天皇〉」、舒明代の標目の歌は2・3・4・5・6の5首です。2が舒明の歌、3が「中皇命」の長歌で4がその反歌、5が「軍王」(左注に「亦軍王未詳也」とありますが、青木和夫さんが余豊璋にあてて考えておられたこと、先にも引いております)の長歌で6がその反歌となっています。3・4が「天皇、遊獦内野之時、中皇命使間人連老献歌」ということになるのでしょうが、仮に間人の誕生を天智と同年(1月と12月とか)の626年と見、またこの歌を舒明の末年である舒明13年(≒641年)の作と見たとしても、数え年16歳の歌となります(舒明13年10月丙午に「是時、東宮開別皇子、年十六而誄之」)。満なら14歳か15歳程度です。しかもこれはあくまで上限で、実際にはもっと下の可能性のほうが高いわけですから、そんな子供が「中皇命」といった称を帯びていたとは思われません(『万葉―文学と歴史のあいだ』の「間人皇女」で吉永さんは「せいぜい十三、四歳であったと思われるこのやや早熟な皇女は(後略)」という言い方をしておられます)。やはり3の題詞は、いつの時代からか間人が「中皇命」(に相当する発音「○○○○」、ナカツスメラミコトかもしれない語)と固有名詞的に呼ばれていたのを過去にさかのぼって当てはめたものと見たく思います。しかし神護景雲3年10月乙未朔の宣命の「中〈都〉天皇」は元正と思われますから、どちらもナカツスメラミコトだと見ると固有名詞ではなくなる。なくなりますが、最初にナカツスメラミコトと使われた際には間人を指す固有名詞だったのが、のちに元正が母元明の後をついで聖武即位まで位にあったという状態がナカツスメラミコト間人と似ていたため元正についても「中〈都〉天皇」の語が当てはめられた、間人を指す固有名詞が後代一般名詞化してきた――というふうにも解釈できるように思います。
もっともかつて「今太閤」などと呼ばれた人がいました。こういった例から考えますと一般名詞→固有名詞という流れが順当のようにも思えますが、これは本来一般名詞であったはずの「太閤」が豊臣秀吉を指す固有名詞化し、さらに「今太閤」と……やめます。
そして3の「やすみしし わが(わご)大君の 朝には とり撫でたまひ……なか弭の 音すなり」は、解釈には問題があるらしいものの、とんでもないことを言うようですが満15歳程度、あるいはそれより下の満12歳、小学6年制程度の子の歌と考えても納得のいくもののように思われます。また同様の定型的な歌が儀礼等の際に歌われていたというような慣習があって、そのうちたまたま「中皇命」作と伝わるものが採録されたといった可能性も想定できるように思うのです。秀歌かどうかは判断できませんが、特別技巧に凝っているわけでもありません。もっとも20歳そこそこで没しているのかもしれない弓削皇子(異母兄の舎人親王が天平7年に没した際に『公卿補任』によれば60歳、逆算して天武5年≒676年の誕生となり、弓削皇子の没した文武3年≒699年に舎人皇子24歳。これより年下だから)が、祖母ほどにも年齢の離れていたであろう額田王に対して現代の我々が到達し得ないような立派な歌を贈っている(巻2の111、相聞です)わけですから、現代的な感覚でははかることはできないのかもしれません。そして111が立派な歌なのかどうかも、もとより私などには判断できません。
4の反歌「たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野」(「玉尅春 内乃大野尓 馬数而
朝布麻須等六 其草深野」)のほうは中学生程度の子の作とは思えませんから、やはり間人連老あたりが代作したものとでも考えるべきなのでしょうか。もっともこの間人連老が白雉5年2月の遣唐使一行の中に見える「小乙下中臣間人連老」と同一人だとすれば、仮に3・4の歌を舒明13年(≒641年)の作と見ても白雉5年(≒654年)はそれから13年後となりますが、その段階でもまだ「小乙下」、大宝・養老令では従八位下相当という位だったことになるでしょうか。この遣唐使のことは例の孝徳の歌「鉗着け吾が飼ふ駒は引き出せず……」の少し後に見えています。
なお、こういった問題を考える際に外せないのが「中宮天皇」の語が見える金石文、大阪府羽曳野市の野中寺にある――というか、野中寺で1918年(大正7)に発見された、銘に「丙寅年」(天智5年≒666年、とされてきたようです)と見える野中寺の弥勒半跏思惟像銘かと思われるのですが、これについては私は個人的にいろいろないきさつがあって冷静な判断ができません。最初に不幸な出合いをしたというべきか、大山誠一さんの『聖徳太子と日本人』の巻頭すぐにこれに関する東野治之さんのご見解(恐縮ながらこれも拝見しておりません)が示されており、それを見たのがほとんど最初といった感じなのです。この像銘について大正7年の「贋作」、偽物の可能性を疑われているご見解のようで、大山さんのご説明を見る限りでは像自体が大正7年の贋作と疑われているようにもうかがわれます。ただ、大山さんが書かれた文を拝見しただけであって東野さんの原文を拝見したわけではなく、こういう孫引きはたいへん失礼かもしれません。その引用は一般向けの書ということもあってセンセーショナルに強調されているかもしれませんから、現段階では何とも判断のしようがありません。先には「中皇命」をナカツミコノミコトと読んで中大兄を指すものと見ておられるらしい東野さんの論文を拝見しないままナカツスメラミコトと見、いままた原典に当たらずに野中寺弥勒像銘を贋作とされているらしいことのみを引くのは失礼極まりない話なのですけれど、どちらも私の立場では拝見することができません(拝見していないからこそこのようなことが書けるのかもしれませんが)。ともかくそういったわけで、この像銘にはいつも「偽物」という思いでひっかかっています。これはおかしな話で、大山さんが『聖徳太子と日本人』で捏造と見ておられる天寿国繍帳銘や法隆寺金堂釈迦三尊銘については取り上げているのですから、野中寺弥勒像銘だけを嫌う必要は本来ないはずです。
丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺知識之等詣中宮天皇大御身労坐之時誓願之奉弥勒御像也友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也
この野中寺弥勒像銘の全文を最初に見たのは日本古寺美術全集7『四天王寺と河内の古寺』(集英社 1981)の阪井卓さんの解説「河内飛鳥の古寺」によってで、この引用もそこから引かせていただいたものですが、写真付きで示されています。像の最下部の台に当たるような平たい円盤状の部分の側面、「框」(きょう)に縦書き1行2字でタガネか何かで彫り付けられているようですから、本来「丙寅/年四/月大/旧八/日癸/卯開/……」などとでもすべきところかもしれませんが、そうしておられるものを見ません。像の写真自体は随所に掲載されているのを目にしますが、銘は背面側に刻まれているためそれらの写真では見ることができません。なおこの「中宮天皇」については井上さん・小林さんともに斉明と見ておられます。喜田貞吉さんは大正7年のこの発見に飛びつかれたらしいのですが、その喜吉さんも斉明と見ておられたらしく、小林さんの「中天皇について」によれば坂本太郎さんは間人と見ておられたようです。
藤原宮子の「中宮職」といった例もあるにもかかわらず、「中宮」という語からはなぜか平安時代の「源氏物語」「枕草子」などを強烈に連想させられるため、これは個人的には最初から考えたくないような、思考から外しておきたいようなものだったのですが、このような判断は手前勝手というものでしょう。本来なら東野さんのご見解を拝読するのが先でしょうが、それもできませんので、偽物の可能性も視野に置きながら、一方で本物という場合のことも考えて検討はしておくべきものと思います……とはいっても私ごときが考えたところで何の意味もないのですが。さて、銘には「栢寺」(「橘寺」か)の「知識」などと見えています。
「知識」の語は『〈聖徳太子〉の誕生』で大山誠一さんが法隆寺金堂釈迦三尊銘を否定される根拠の1つに挙げておられたものです。恐縮ながら引用させていただきますと、「知識というのは、民間で、造寺・造仏などの仏教事業に協力する人々のことで、その存在は、仏教信仰が相当深く浸透したことを示すものである。この語の初見史料は、『金剛場陀羅尼経』跋文で、天武十五年(六八六)のことで、この銘文の年代より半世紀以上ものちのこと(後略)」と記しておられます。なお引用中の「この銘文」はもちろん釈迦三尊銘ですが、銘には「(前略)癸未年三月中/如願敬造釈迦尊像并侠侍及荘(「荘」は「やまいだれ」に「土」のような字で見えます)厳/具竟乗斯微福信道知識現在安隠/出生入死随奉三主紹隆三宝遂共/彼〓(偏「土」旁「岸」の〔土岸〕)普遍六道法界含識得脱苦縁/同趣菩提(後略)」といった形で見えています。素人の恐ろしさ、あるいは「道を信じ識を知り」などといった形で読めないかなどとも考えたのですが、日本思想大系『聖徳太子集』の「上宮聖徳法王帝説」の読み下しにも「道を信(う)けたる知識」とあって「知識」の頭注に「共に仏に奉仕する集団」と見えますし、狩谷棭斎の『上宮聖徳法王帝説証注』(中田祝夫さん解説の『上宮聖徳法王帝説』所収)の釈迦三尊銘引用部分の分注にも「信道知識、〈謂結社人也。詳於現報霊異記攷証弁之。〉」(返り点は省略。なお「弁」は「辨」)、「結社人」とはっきり見えています。『続日本紀』天平勝宝元年12月丁亥(25日)の孝謙の宣命に見えているのは「智識寺」(「(前略)河内国大県郡〈乃〉智識寺〈爾〉坐盧舎那仏〈遠〉礼奉〈天〉(後略)」)でしたが、ともかく「天皇」「中宮」に加え「知識」の語の見えるこの銘は天智5年(≒666年)当時のものとは思われず、仮に五十歩か百歩か譲ってそれに近い事実があったとしても、これとは異なる古い表記で記されていた記録か、または口伝などをもとに表記を改めて後年鐫刻されたものと見たほうがいいように思われます。斉明の没した5年後、白村江の戦で無残に敗れた3年後、そして間人の没した翌年で天智即位の2年前である666年に「知識」という「結社人」の実体が存在したかどうか。「知識」という語でこそないものの『日本霊異記』にいう「優婆塞」やその弟子などによる仏徒集団のようなものが存在したとすれば、それを後代の「知識」の語で表現したものと見ることもできるのかもしれませんし、存在しなかったとすれば、やはり銘文自体が怪しいということになるのでしょう。
ならば白鳳仏に60年後の726年の事実が鐫刻されたもの……と見られるかどうか。神亀3年は何もない年で、わずかに元正太上天皇の「不予」が見えますが6月以降のこと、そして元正はこののち20年以上も存命です。4月には記事がないのですが、3月は「己卯朔」、3月1日が己卯と見えるので4月8日は癸卯とはならず、癸卯は3月25日になります。そんなことに意味があるかとお思いになるかもしれませんが、天智5年の4月8日のほうは癸卯だった可能性があるようなのです。もちろん『日本書紀』天智5年にはこの前後に春正月戊辰朔戊寅(11日)と夏6月乙未朔戊戌(4日)しか日の干支のわかる記事がありませんし、また『日本書紀』持統4年11月甲申(11日)に「奉勅始行元嘉暦与儀鳳暦」と見えていますが、この「丙寅年四月大旧八日癸卯」がどういう暦によるものかも私にはわかりません。ただ元日が戊辰と見えていますので4月の癸卯はその95日後、1−3月の3カ月のうち2カ月が小の月(29日)であれば4月8日が癸卯となる計算です。〓実はこれにつきましてもソフト「when」によらせていただいておりますが、もし偽物だったとしたら、そんなことまで計算して作ったものということになりそうです。大正ならば十分考えうることでしょう。「舊」でない「旧」は何のことなのかわかりません。
「中宮天皇」の「中宮」の意味について井上さんは「中国風な皇后の称号」という形で見、「中宮天皇とは、大后天皇と同じことであり、それを中国風に記したものであると、私は解するのである」とされ、また「令では皇后すなわち中宮である。この令の考えのもとを遡っていくと、野中寺弥勒銘の中宮天皇の中宮につきあたるのである」としておられます。小林さんはまず「(前略)丙寅年には皇后の称はなく、大后であったろう。したがって、中宮天皇を令意で解釈することはできない」とされたうえで、井上さんの「中国風な皇后の称号」説に賛成しておられるようです。このように見ると井上さんは銘の「中宮天皇」から令制の「中宮」までをある程度一貫したものと見ておられたようにも感じられ、対し小林さんは銘の「中宮天皇」と令制の「中宮」の間に一応の断絶を考えておられるようにも見受けられますが、もしも令制下の「中宮」のルーツも「中国風な皇后の称号」だったとすれば、結果的にはそんなに違わないことになるのかもしれません。
それにしても野中寺弥勒像銘は釈迦三尊銘よりもむしろ薬師像銘のほうに似ているように思われます。「(中宮天皇)大御身労坐之時」と「(池邊大宮治天下天皇)大御身労賜時」、また「誓願」といった語が共通する部分が似ています。ことに「(中宮天皇)大御身労坐之時」は「(池邊大宮治天下天皇)大御身労賜時」とともに『続日本紀』慶雲4年7月壬子(17日)の元明即位の宣命(例の「不改常典」の見える文の直後です)に引かれた文武の言葉「(前略)朕(あれ)御身(みみ)労(つか)らしく坐すが故に暇間(いとま)得て御病(みやまひ)治めたまはんとす(後略)」(「朕御身労坐故暇間得而御病欲治」)ともよく似ています。もっとも「誓願」的な語のほうは当時の仏像銘のパターンだったのかもしれません。ともかく、野中寺弥勒像銘を大正の作と見るなら、部分的には薬師像銘をまねたものという感じもします。いっぽうで野中寺弥勒像銘には特徴的に「之」が使われているのに対し薬師像銘には見られず、「賜」のほうは薬師像銘に4回見られるのに野中寺弥勒像銘に見られないといった対照的な面もあります。もしも野中寺弥勒像銘を大正の偽造でなくある程度古いもの、根拠もありませんが薬師像銘などとともに7世紀末から8世紀初頭ごろに鐫刻されたものといった形で見るなら、そのころまで口伝などの形で伝わっていた像の来歴を、そのころになって文に表記して彫り付けたものと見ることもできるのかもしれません。
弁解のようにダラダラ書いてきましたが、まとまりがつきません。どうもこの野中寺弥勒像銘は持て余す存在です。
『万葉集』に戻ります。といっても私ごときが何かを解釈できるはずもないのですが、『万葉集』が標目を立てて分類する時代観は『日本霊異記』の時代観と同程度に奇妙な印象があって、巻1では28から83までの標目が「藤原宮御宇天皇代〈高天原広野姫天皇、元年丁亥十一年譲位軽太子、尊号曰太上天皇〉」などとありますが、そのうちたとえば54・54は「大宝元年辛丑秋九月、太上天皇幸于紀伊国時歌」で明らかに文武の時代の歌ですし、「和銅元年戊申」の76「天皇御製」は元明が即位に際しその不安を歌った歌、77は姉の御名部皇女がその76に答えた歌として著名なものであり、78・79がそれぞれ題詞に「従藤原宮(京)遷于寧楽宮時」と見える歌で、80以降はみな「寧楽宮」の歌としてよいはずなのになぜか巻末の84、長皇子の歌1首のみが「寧楽宮」の歌とされています。この傾向は巻2も同様で、「相聞」の標目には「難波高津宮御宇天皇代」(仁徳)と「近江大津宮御宇天皇代」「明日香清御原宮御宇天皇代」「藤原宮御宇天皇代」しか見えないようですし、「挽歌」には「後岡本宮御宇天皇代」「近江大津宮御宇天皇代」「明日香清御原宮御宇天皇代」「藤原宮御宇天皇代」「寧楽宮」しかないようです。巻3の415、例の聖徳太子の挽歌には題詞の分注の形で「小墾田宮御宇天皇代。小墾田宮御宇者豊御食炊屋姫天皇也。諱額田、謚推古」と見えていましたが、標目という形ではありません。その次の416は左注に「藤原宮朱鳥元年冬十月」と見える、大津皇子が自らの死を悼む「御作歌」とされる(実は別人の作らしい)歌です。そのあとには年号で作歌の年代が示される歌もありますが、標目の形でなく各歌の題詞に見えているもので、そのような題詞に年号が見える形式のものは76の「和銅元年戊申」など巻1・2にも散見されます。そもそも「寧楽宮」という時代の立て方が大雑把であって、これでは元明の代も元正の代も区別できません。そういった意味では巻1・2の「藤原宮御宇天皇代」も持統・文武・元明の区別がつきません。巻1も、また巻2の相聞・挽歌とも、標目にそのつど持統である旨の分注(「高天原広野姫天皇、諡曰持統天皇。元年丁亥。十一年、譲位軽太子。尊号曰太上天皇也」といったもの。写本により出入りがあるようです)が付されているようなのですが、題詞に大宝・慶雲・和銅などと見える明らかに文武・元明朝の歌も見えるわけですから、いつ付された分注かはわかりませんが、極端な言い方をすれば「あらずもがな」……なければよかったのに、といった感じです。
これは代ごとに宮も移っていた時代から藤原宮・平城宮と皇居が数代にわたり定着する時代になったことによる矛盾ともとれますが、考えようによっては『日本書紀』の時代から『続日本紀』の時代に移ったことによって生じた矛盾のようにも受け取られます。『日本霊異記』の時代観と対比したのはこれを意識してのことで、『日本霊異記』は、ある時期以降――出雲路さんが想定しておられます延暦6年原撰時よりのちの部分ということになるでしょうか――の成立分からは『続日本紀』に準じた資料を参考にし、またはその知見により修正した部分があるのではないかと思われるのですが、『万葉集』は『古事記』『日本書紀』は参照できても、基本的には『続日本紀』を参照することはおそらくできなかったのではないでしょうか。左注などに平安初期まで下るものがあるとすれば、それらは別です。
すると……『古事記』は推古までで記述が終わっているわけですが、推古で筆をおいた理由は、推古までが太安万侶にとっての平城遷都直後に意識されていた“古代”だった、などという説明よりも……などと考えてしまいます。もう少しあとで申します。
また巻1の「後岡本宮御宇天皇代」の前は「明日香川原宮御宇天皇代〈天豊財重日足姫天皇〉」で7の額田王の歌1首のみですが、諸書が触れておられますように「川原宮」は斉明元年是冬条に「是冬、災飛鳥板蓋宮。故遷居飛鳥川原宮」と見えるものを指すようで、翌年に後飛鳥岡本宮に移るまでの臨時の居所のようです。
孝徳紀白雉4年是歳条に見える「倭飛鳥河辺行宮」(やまとのあすかのかはらのかりみや。「倭京」へ戻ることを孝徳に拒否された「太子」「皇太子」天智が「皇祖母尊」皇極や「間人皇后」、「皇弟」天武らを率いて倭へ戻った際に入った宮)については、奈良県明日香村の南部の谷あいにある飛鳥稲淵宮殿跡をそれに当てられるご見解があるのでそうです(荒木敏夫さんの『日本の女性天皇』主婦と生活社 2003 等によりました)。また白雉5年12月己酉(8日)には「倭河辺行宮」というのも見えていますが、いずれも皇極の代には見られないもののようですし、また7の左注(「右、検山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年幸比良宮大御歌。但、紀曰、五年春正月己卯朔辛巳、天皇、至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野宮而肆宴焉。庚辰日、天皇幸近江之平浦」)の「山上憶良大夫」の『類聚歌林』にいうと見える「戊申年」は孝徳の大化4年(≒648年)、『日本書紀』にいうと見える「五年春正月」は斉明5年(≒659年。『日本書紀』斉明5年の「五年春正月己卯朔辛巳、天皇至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野、而肆宴焉。庚辰、天皇幸近江之平浦」の記述がこの左注とほぼぴったりです)のようですから、この「明日香川原宮御宇天皇代」の標目は不審で、むしろ『日本霊異記』上巻第9の「飛鳥川原板葺宮御宇天皇之世癸卯年春三月頃」との関係でも考えたほうが早そうです(なお癸卯年は皇極2年≒643年)。ついでに申せば「後岡本宮御宇天皇之代」と見える上巻第14は「僧憶持心経得現報示奇事縁第十四」で出雲路さんのご見解の延暦6年原撰本にあったであろう話となりますが、「飛鳥川原板葺宮御宇天皇之世」と見える上巻第9のほうは「嬰児鷲所擒以他国得逢父縁第九」で延暦6年よりあとのものと見られるようで、皇極代を指す「明日香川原宮御宇天皇代」「飛鳥川原板葺宮御宇天皇之世」といった称はやはりあとから作られたものではないかという疑いを強くさせられます。ともあれ、こうして見ますと「後岡本宮御宇天皇代」の歌というのも標目の時代と合っているのか疑問になりますし、また8と12(もしくは8・10・11・12)について左注に山上憶良『類聚歌林』が「天皇御製歌」としていると見えるという問題もあるでしょう。
しかしながら、『類聚歌林』の「天皇御製歌」に従って「中皇命」作歌とされるものは実は「中皇命」作歌ではなく本当は斉明御製歌だと見るのなら話はわかりますが、「中皇命」=斉明と見るということになると、標目には「後岡本宮御宇天皇代」としながら題詞では「中皇命」と記すのみで済ませ、なぜ左注か標目の分注あたりで「中皇命とは後岡本宮御宇天皇だ」「『中皇命』は未詳だが、後岡本宮御宇天皇のことらしい」などと解説を加えてくれなかったのか疑問に思えてきます。天智の13の題詞には、わかりきったことと思われるのに「中大兄〈近江宮御宇天皇〉三山歌一首」と見えていました。もっともこの13の題詞については中西進さんの『万葉集(一)』に「この題詞、呼称といい歌数の記入といい、異例」とあります。なお末尾の「一首」は写本によってはないものがあるようで、新日本古典文学大系では「三山歌一首」ですが、古典文学大系では「三山歌」のみで「一首」がありません。もちろん校異にはその旨示されています。
「わかりきった」ついでに申せば、15の左注にも「右一首歌、今案不似反歌也。但、旧本以此歌載於反歌。故今猶載此次」――右の1首(15の歌)は反歌らしくもないが旧本に反歌として載っていたから今もここに記載する――といった記述に続けて、思い出したかのように「亦紀曰、天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子」と記されていました。これもわかりきったことですが、こちらの「亦紀曰」のほうは孝徳紀冒頭あたりの要約であって、これとほぼぴったりの記述は……いや、意外にも天智即位前紀の「天豊財重日足姫天皇四年、譲位於天万豊日天皇。立天皇、為皇太子」のほうにむしろ似ているように思われます。孝徳紀の天智の立太子に関する記述は「是日、奉号於豊財天皇、曰皇祖母尊」に続いて見える「以中大兄、為皇太子」で、また皇極紀末尾にも似たような記述が見えますが「庚戌、譲位於軽皇子。立中大兄、為皇太子」です。考えてみると「立天皇為皇太子」、「中大兄」でなく「天皇」を立てて皇太子としたまふというのは少々ギョッとする表現で、常識的に考えればわかることではありますが、たとえば巻4の綏靖−開化の欠史八代の立太子に多く見える「天皇、(以)○○天皇○○年○○、立為皇太子」(立ちて皇太子と為りたまふ)といった記述と比較しても違和感のある表現です。
ですから天智即位前紀の「天豊財重日足姫天皇四年、譲位於天万豊日天皇。立天皇、為皇太子」からまず「譲位於天万豊日天皇」を省く。そうすると皇極か斉明かわからなくなりますので「乙巳」を加え、さらに「天豊財重日足姫天皇先四年」とわざわざ「先」も加えた。小さいことのようですが、あるいは心憎い気配りといえるのかもしれません。推古即位前紀が粗雑な印象であることを冒頭申しましたが、また持統称制前紀にも「天豊財重日足姫天皇三年、適天渟中原瀛真人天皇為妃」――みあひて妃となりたまふ――などと見えています。
持統は皇極3年にはおそらくまだ誕生していません。
持統の年齢のわかる記述はたぶん『日本書紀』にはなくて、古典文学大系の注によれば『本朝皇胤紹運録』『一代要記』が大化元年生まれとしているもののようです。根拠も薄弱な感じがしますが、父の天智が大化元年(≒645年)に20歳(舒明紀13年10月丙午=18日の「東宮開別皇子、年十六而誄之」から)か21歳(『上宮聖徳法王帝説』)、また天智と遠智娘の間には持統の上に大田皇女があったことを思えば、数値としてはいい見当のように思われるのです。持統を大化元年誕生と見ても天武と配偶関係となった斉明3年(≒657年)にはやっと13歳……といったことは先に申しました。
持統紀の中にもうひとつ見つけました例は持統4年10月乙丑(22日)の記事。「軍丁筑紫国上陽東S人」の「大伴部博麻」が己が身を奴隷に売って「土師連富杼」らを帰国させたと見える例の記事ですが、「救百済之役」が「天豊財重日足姫天皇七年」と見えていました。皇極の代は4年6月で終わっていますからこちらは斉明7年とわかるのですが、天智即位前紀の「天豊財重日足姫天皇四年(譲位於天万豊日天皇)」は皇極4年であり、持統称制前紀の「天豊財重日足姫天皇三年(適天渟中原瀛真人天皇為妃)」は斉明3年であって、斉明紀の3年に天武と持統の配偶関係のことが見えるのならともかく、見えないのですから判断がつきません。「常識的に考えればわかる」と言われましてもその常識は『本朝皇胤紹運録』の大化元年生など後代の記載の知識によるもので、『日本書紀』のみから推定するとすれば、舒明13年10月丙午の「東宮開別皇子、年十六而誄之」から持統の配偶関係成立を皇極3年と見た場合の矛盾を突くなどの回り道が必要となるでしょう。『万葉集』の左注が付した「先」の1字のような発想はむしろ『日本書紀』にこそ必要だったものではないかと思われるのです。
なぜこのような事態――「天豊財重日足姫天皇○年」が天智即位前紀では皇極代を、持統称制前紀では斉明代を指すということ――が発生したのかと考えますと、概して即位前紀というものにはバタバタとやっつけ仕事で書かれたものが多いのではないかという気がします。もともと「天豊財重日足姫天皇」というのは在位・治世を表すものではなく個人を表すものでしょう。そして「天豊財重日足姫天皇」の「重日」、イカシヒが、 歴代の「名」に関して考察されたページ で指摘しておられますように実は重祚したことを表現したものだとすれば、それは漢字での発想が勝っている、先に立っているということになるでしょうから、当初は字音の表記で伝わっていたのではないかと考えました推古の「トヨミケカシキヤヒメ」の称などよりはずっと新しいもの……推古より世代があとなのだから新しいのは当然かもしれませんが、仮にどちらも没後かなり経過してからおくられた称と見ても、とにかく推古の「トヨミケカシキヤヒメ」などよりは相当時代が下るもののように思われるのです。だとすれば、もしも持統称制前紀にその原資料のようなものがあったとすれば、そこにおける斉明の表記はあるいは天武9年11月乙亥(4日)に見える「後岡本天皇」のようなものではなかったかと思うのです。またこのように考えてきますと、『万葉集』の標目に見える「明日香川原宮御宇天皇代」「後岡本宮御宇天皇代」、『日本霊異記』に見える「飛鳥川原板葺宮御宇天皇之世」(上巻第9)「後岡本宮御宇天皇之代」(上巻第14)などと同様に『日本書紀』の「天豊財重日足姫天皇」の扱い・位置付けもかなり不安定な印象のもので、『日本書紀』編纂の直前に固まったか、あるいは編纂の段階に入ってもなお揺れ動いていたのではないかと疑いたくなります。
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