6. 「大」「中」の称 − 5

 「古代天皇の諡について」で山田英雄さんは「『万葉集』には推古、天智、天武について諡曰とあるが、何時このような記事が付せられたかは明らかでない」と記しておられました。15の天智の歌の左注についても、あとから書き足されたものという可能性を疑うことはできるのかもしれません。しかしそう考えることは15の左注についての解決にはなるかもしれませんが、当然ながら「中皇命」についての説明がないことの解決にはならない。56の歌の「軍王」については左注に「亦軍王未詳也」、わかりませんと見えているのですから、そこから考えれば「中皇命」についてはわかっていた、ということのようにも思えます。「中皇命」の読みに相当する語「○○○○」は当時まだ一般的であって、『万葉集』を目にするような層の人には誰を指すのか自明だった、「『日本書紀』では○○と見えている」などと注する必要もなければ、注することもはばかられるような存在でもあった――といった可能性も考えられるように思います。『古事記』では記述の範囲外だったけれど『日本書紀』はそれを無視した。「○○○○」が定着するのを認めたくなかった……。何の根拠もなくただ思い込んでいるだけの感情レベルの話に過ぎませんが、そんな気がします。
 『続日本紀』神護景雲310月乙未朔の称徳の宣命に見える「中〈都〉天皇」については、宣長がこれを元正と見たのに対し喜田貞吉さんは最終的に元明と見ておられたようです(井上光貞さんの「古代の女帝」等により知りました)。

 同宣命には「挂けまくも畏き新城(にひき)の大宮に天の下治め給ひし中つ天皇の臣たちを召して後の御命(おほみこと)に勅りたまひしく(後略)」(「挂〈麻久毛〉畏〈岐〉新城〈乃〉大宮〈尓〉天下治給〈之〉中〈都〉天皇〈能〉臣等〈乎〉召〈天〉後〈乃〉御命〈仁〉勅〈之久〉」)などと見えており、「(後略)」とした部分には「中〈都〉天皇」の「後の御命」=遺詔とされるものも引用されているのですが、その中では「(前略)わが子天皇に侍へまつり護り助けまつれ。継ぎてはこの太子を助けつかへまつれ(後略)」(「朕子天皇〈仁〉奉侍〈利〉護助〈麻都礼〉。継〈天方〉是太子〈乎〉助奉侍〈礼〉」)などとあって、たしかに「中〈都〉天皇」を元明、「朕子天皇」を元正、「太子」を聖武と見たほうが、続柄の上からだけ見れば通りがよいのかもしれません(実際に元正は元明の「子」、実子に当たりますから)。「中〈都〉天皇」を元正と見ると「朕子天皇」が聖武、「太子」が孝謙ということになるでしょうから、「中〈都〉天皇」の詔のこの部分よりあとの内容(王たちが得るべくもない皇位を望んではかりごとをたくらむのは許されない、などといった内容)は孝謙に結び付けて理解しやすくなりますが、文武の姉で聖武の伯母である元正が甥の聖武について「朕子天皇」、わが子と呼びかけていることになります。この元正と聖武の擬制的な親子関係については仁藤敦史さんの『女帝の世紀』でも中心的なテーマのひとつとなっており、そこでは正倉院に伝わる赤漆文欟木厨子の継承関係から元正が聖武の「養母」とされたのではないかとされる東野治之さんのご見解なども引かれているのですが、まことに恐縮ながらこちらも拝読しておりません。ともかく、この「朕子天皇」が聖武を指すことになる問題について井上さんは「喜田貞吉氏は、右の三人を元明・元正・聖武におきかえたが、この詔を全体としてよめば、「太子」が孝謙であることは動かないので、本居説でよかったのである」として宣長の『歴朝詔詞解』を是としておられます。また小林さんの「中天皇について」によれば喜田さんが「中〈都〉天皇」を元明に当てられたのも野中寺弥勒像銘の「中宮天皇」の発見によるところが大きいらしくて、喜田さんは中天皇も中宮天皇も同一視され、さらに「配偶者の草壁が岡宮御宇天皇と呼ばれたのだから元明もまた中宮天皇と呼ばれて当然であろう」といったような形で見ておられたもののようなのですが、小林さんは喜田さんのこの点について疑義を呈しておられ、やはり宣長に従って「中〈都〉天皇」を元正としておられます。

 この「中〈都〉天皇」の見える神護景雲310月の称徳の宣命というのは「国家開闢以来君臣は定まっており、臣を君としたことは未だかつてない。天の日嗣はかならず皇緒を立てよ」との託宣を宇佐神宮から持ち帰った「輔治能真人清麻呂」について姓を「別部」、名を「穢麻呂」とした9月己丑(25日)の宣命の6日後に出されたものです。まず諸王や臣下の心得を説く「中〈都〉天皇」の遺詔を引き、また聖武が(おそらく譲位の際に)述べたという「大皇后(オホキサキ)によく仕えよ、次には太子に二心なく仕えよ」などとする言葉を引用したうえで、皇位をうかがっても天地が許さず身を滅ぼすだけだ、清浄な心であれなどといった内容を述べ、最後に「汝らの心を整え直し、私の教えに違背しないようにと束ね治めるしるしである」などといって両端に金泥で「恕」と書かれた8尺の紫綾の帯を各人に配ったとあります。織り・刺繍・摺り箔などでなく金泥で書いたというのは不可解で、洗えば落ちてしまうように思うのですが、『続日本紀』には実際に「其帯。皆以紫綾為之。長各八尺。其二端。以金泥書恕字(後略)」などと見えています。それにしても実用品でないものと考えるには8尺の紫綾というのは大きすぎる気もします。『続日本紀』の天平勝宝元年12月丁亥(7日)には、おそらく「銅の湯を水となし我が身を草木土に交えて」大仏造立を成功させるとの八幡大神の託宣を持ってきたのであろう「八幡大神禰宜尼大神朝臣杜女」が東大寺に参拝したことが見えていますが、その際乗っていた輿は天皇のそれと同じ「紫色」だったと分注に見えています。あるいは神護景雲3年の際にも同様のセレモニーが予定されており、和気清麻呂が色のよい返事を持ち帰らなかったため不用となった大量の紫綾が急遽帯に作り直されたといったことでもあったのでしょうか。ともかく、この宣命の際に称徳の余命はあと1年となかったことになります。
 このころの大伴家持については確認できていないのですが、神護景雲元年8月丙午(29日)に従五位上で大宰少弐とされたのち宝亀元年(改元は10月の光仁即位時)6月丁未(16日)にやはり従五位上で民部少輔と見えるまで記録にあらわれないとすれば、この宣命を直接耳にすることはなかったのではないかと思います。『万葉集』の成立については先に古典文学大系の解説に見える徳田浄さんのご見解の要約部分や中西進さんのご見解を失礼ながら丸写しにさせていただきましたが、その最終的な成立を宝亀年間ごろに見るならば、『万葉集』がまとまる直前の10年以内の時期に元正を「中〈都〉天皇」と呼ぶ宣命が読み上げられたということになり、『日本書紀』には見えない「ナカツスメラミコト」といった語がまだ当時いきいきと認識されていたことを示しているようにも思われます。もっともこれは「中皇命」をナカツスメラミコトと考えてはじめて意味をもつ話であって、ナカツミコノミコトなどの読みだったとすれば無意味ということになるでしょう。
 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』に見える「仲天皇」は「(前略)以後天皇行幸筑紫(志イ)朝倉宮。将崩賜時。甚痛憂勅〈久〉。此寺授誰参来〈止〉。先帝待問賜者。如何答申〈止〉憂賜〈支〉。爾時。近江宮御宇天皇奏〈久〉。開〈伊〉髻墨〓(〔夾刂〕)〔〈乎〉〓(〔夾刂〕)〕肩負鋸腰〓(〔夾刂〕)斧奉為奏〈支〉。仲天皇奏〈久〉。妾〈毛〉我妋等炊女而奉造〈止〉奏〈支〉。爾時手拍慶賜而崩賜之以後(後略)」(出典は先にも触れましたがたまたまウェブで入手した群書類従本の画像です。たいへん後ろめたいです)といった文に見えるもののようです。この「仲天皇」について井上さんは「古代の女帝」の中で「虚心にこれをよむと、中大兄皇子と相並んで、「妾〈毛〉我妋等」といい得る人は、皇子の妻であるべき人、したがって、倭姫説が最も自然である」としておられます。ここに見える「妋」という字について配偶者の男性という形で見ておられるもののようです。対し、小林さんの「中天皇について」には、記紀のイモ・セは兄弟姉妹の枠の中での男女の呼称であるとする品川滋子さんのご見解、また地の文や散文において妻をイモと呼ぶ例はなく妻や恋人をイモと称するのは歌の中だけとされる西郷信綱さんのご指摘等を引かれたうえで、この「妋」も「兄弟姉妹間における妹(間人大后)から兄(中大兄)を呼称したものと考えるのが適切であろう」としておられます。
 「妋」、セというのは例の八俣大蛇(やまたのおろち)の話で須佐之男命が「吾者天照大御神之伊呂勢者也」、天照大御神の「伊呂勢」(いろせ)と答えていたあの「セ」と同じなのでしょうか。国字なのか『新漢和辞典』にも見えないようなのですが、『播磨国風土記』の揖保郡美奈志川に「所以号美奈志川者 伊和大神子 石龍比古命 与妹石龍比売命二神 相競川水 妋神欲流於北方越部村 妹神欲流於南方泉村(後略)」と見え(省略部分にも同じ石龍比古命を指す「妋」が複数回見えます)、また讃容郡の郡名の由来にも「所以云讃容者 大神妹妋二柱 各競占国之時(後略)」と見えています。美奈志川に「伊和大神子 石龍比古命 与妹石龍比売命二神」と見えることからすれば、両例は配偶関係でなく「妹妋」で兄弟姉妹の男女を表すものと見ていいように思われます。また『本朝月令』の引く「秦氏本系帳」に見える『山城国風土記』逸文にも「妋玉依日子者 今賀茂県主等遠祖也 其祭祀之日 乗馬者(後略)」と見えるようなのですが、この「妋玉依日子」の続柄については『釈日本紀』所引の『山城国風土記』逸文のほうに「(前略)賀茂建角身命 娶丹波国神野神 伊可古夜日女生子 名曰玉依日子 次曰玉依日売(後略)」とあるようで、その「玉依日売」が川上から流れてきた「丹塗矢」を取って「插置床辺」しておいたら男子が誕生したという、『古事記』神武段のセヤダタラヒメに似た話などが見えています。この例でも「妋」の語はこの同母の妹「玉依日売」から見た「兄」ということになりそうです。
 『日本霊異記』上巻第31は仏道修行により具体的な現世利益を得るという、仏教説話としては非常に俗っぽい印象の話です。「御手代東人」なる人が「諾楽宮御宇勝宝応真聖武太上天皇之代」に吉野山に入って「求福」、現世利益を求めて修行し、観音の名号を称えて「南无銅銭百万貫白米万石好女多徳施」と言ったら、ときに「従三位粟田朝臣之女」が「広瀬之家」で発病し「粟田卿」が八方に「禅師優婆塞」を求めているのに遭遇、東人が呪文を唱えると娘の病気は快癒し、さらに東人に対し「愛心」を起こして遂に「交通」、それを知った娘の親族が東人をつかまえて監禁したものの、娘は「愛心」たえがたく泣いて男のそばを離れないので、遂に親族も東人と娘を「夫妻」として家財を全部与え、東人に「五位」の位をたまわるよう願い出てやった。そして「後逕数年、其女将死、于時語其妋曰、今吾垂死、有一冀意、若聴許不也、妋答曰、随意楽、妹語之曰、妾被東人之恩、猶長不忘、欲以妋之女為東人之妻令守家裏、妋受遺言、以己之女、敬与東人、令主家財也」――数年後、その娘がいまわの際に「妋」に「私はもうすぐ死にますが、お願いがあります。聞いていただけますか」という。「妋」が「思うようにしろ」というと、妹が語って「私は東人に恩を受け、ずっと忘れられません。妋の娘を東人の妻にして家を守らせるようにしてやって」という。「妋」はその遺言をいれて娘を東人に与え、家財を守らせた――。最後は「東人現世被大福徳、是乃修行験力、観音威徳、更不応哉」と結んでいます。
 修行で得るのは悟りの境地でなく○○と○○か、観音威徳とは何なのか、これが本当に仏教説話かと疑いたくなる内容ですが、ここに見える「妋」が「粟田朝臣之女」の配偶者のわけはありませんから彼女の男兄弟と見るべきところでしょう。おそらく既にこういったところは指摘されているのでしょうが、『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「妋」も「仲天皇」の男兄弟、具体的には天智を指して「我妋」、男兄弟だといっていると見るのが妥当のように思われますから、私もこの「仲天皇」は間人皇女という可能性が高いように思うのです。

 なお、せっかく『日本霊異記』上巻第31を出しましたので「従三位粟田朝臣」「粟田卿」について。遠藤嘉基さん・春日和男さん校注の古典文学大系『日本霊異記』(岩波書店)ではこの「粟田朝臣」に注して「名前未詳。粟田氏は、天武紀「十一月戊申朔…粟田臣…賜姓曰朝臣」(十三年)。粟田朝臣を名乗る官人で、従三位以上は粟田朝臣真人(養老三年二月薨去、正三位)である。この系統か」(返り点は省略)としておられます。仮にこの「従三位粟田朝臣」「粟田卿」を粟田真人と仮定すると、この説話の時期が問題となってきます。粟田真人は先にも触れましたように大宝2年(≒702年)出発の遣唐執節使ですが、養老3年(≒719年)25日に没しています。伝記もなく生年も享年も不明ですが、先にも触れましたように八色の姓が制定される天武13年(≒684年)以前から「真人」という名だった可能性のある人物で、仮に物部連麻呂・中臣連大嶋らとともに小錦下を授けられた天武10年(≒681年)に数え年21歳くらいだったとすると、誕生は斉明7年(≒661年)ごろ、「筑紫大宰」だったと見える持統3年(≒689年)には29歳、藤原不比等や伊吉博徳(伊岐連博得)らとともに「撰定律令」の勅のあったことが見える文武4年(≒700年)に40歳、遣唐執節使として渡唐した大宝2年には42歳で、養老3年に没した歳には享年59歳くらいといった勘定になります。あるいはもう少し上だったかもしれませんが、藤原不比等(659720)とほぼ同世代の人物となり、ともに大宝律令撰定にあたったことを思えば、この推定はそんなに外れていないようにも思われます。
 「御手代東人」は他に見えない人物のようですし、説話に年代を求めるのも意味はないのかもしれませんが、ともかく聖武は神亀元年(≒724年。養老82月甲午=4日の聖武即位と同時に改元)に即位し天平勝宝元年(≒749年。天平214月丁未=14日に天平感宝と改元、さらに7月甲午=2日の孝謙即位と同時に天平勝宝と改元)に孝謙に譲位、のち天平勝宝8年(≒756年)に没していますから、「諾楽宮御宇勝宝応真聖武太上天皇之代」を譲位後の聖武太上天皇の時代と見れば7497567年間となって、粟田真人の生存年代に重なりません。
 下巻第38・第39には「諾楽宮廿五年治天下勝宝応真聖武太上天皇」(実は第38に「諾楽楽宮廿五年治天下勝宝応真聖武太天皇」と「(又)諾楽宮廿五年治天下勝宝応真大上天皇(代)」、第39に「(昔)諾楽官廿五年治天下勝宝応真聖武太上天皇(之御世)」のようですが)と見えており、神亀元年(≒724年)の聖武の即位から天平勝宝元年(≒749年)の譲位までがおよそ25年ですから、『日本霊異記』では聖武の在位はやはり即位から譲位まで、72474925年間と見ていたことになります。
 そして――随所で触れられていることですが、「勝宝応真聖武太上天皇」などという号は『続日本紀』に見えません。この号に関して、出雲路修さん校注の新古典文学大系『日本霊異記』の注には「この尊号は本書特有のもの。続日本紀・天平宝字二年(七五八)八月九日条には「勝宝感神聖武皇帝」。本書の尊号は光明子の尊号「天平応真仁正皇太后」との混同、とするのは攷証の説」とあって、『日本霊異記攷証』に「感神」と「応真」の違いについての言及が見えるようです。「皇帝」と「太上天皇」についてはどうなのか存じません。
 持統は『続日本紀』大宝312月癸酉(17日)に「大倭根子天之広野日女尊」、『日本書紀』の題では「高天原広野姫天皇」となっていましたし、文武も『続日本紀』慶雲411月丙午(12日)に「倭根子豊祖父天皇」、『続日本紀』の題では「天之真宗豊祖父天皇」となっていて悩まされます。これについて山田英雄さんは「古代天皇の諡について」で、持統の「高天原広野姫」と文武の「天之真宗豊祖父」とを「『書紀』の天皇諡と同系統と考えてよいとすると」と断られたうえで「慶雲四年以降、『書紀』成立の養老四年までの間と考えてよいであろう」としておられますが、この聖武の「勝宝応真聖武太上天皇」の例については景戒の、あるいは景戒に至るまでの間の誤解によるものと考えるのが順当とも思われます。
 下巻第38には聖武の没したことに関連する記述が見えますが、「(前略)然而後、天皇崩之後、如彼遺勅語、以道祖親王、為儲君(後略)」、「太上天皇」でなく「天皇」となっていることから考えれば、少なくとも『日本霊異記』では「太上天皇」と表記してはいても譲位後の尊号でなく「偉大な天皇」的な天皇としての尊号もしくは諡号と見ていた、「勝宝応真聖武太上天皇」で聖武「太上天皇」でなく聖武「天皇」の号として見ていたもののようにも感じられます。
 しかしそれでも年代が合わない。粟田真人は聖武即位の5年前に没しています。

 また余談になってしまいますが、『日本霊異記』の年代観について。もう既に研究し尽くされていて公にもされていることなのでしょうが、存じませんので恥を承知で記します(この文全部がそうなのですが)。
 『日本霊異記』の説話はおおよそ年代順――架空の説話の年代順というのも妙な話ですが――に並んでいるようで、上巻は序に応神(「軽嶋豊明宮御宇誉田天皇代」)・欽明(「磯城嶋金刺宮御宇欽明天皇代」)が見え、第1の雄略(「泊瀬朝倉宮廿三年治天下雄略天皇〈謂大泊瀬稚武天皇〉」)から始まって欽明(第2「欽明天皇〈是磯城嶋金刺宮食国天皇天国押開広庭命也〉」)・敏達(第3「敏達天皇〈是磐余訳語田宮食国渟名倉太玉敷命也〉」・第5「敏達天皇之代」)・用明(第4「磐余池辺双欟宮御宇橘豊日天皇」・第5「用明天皇世」)・推古(「小墾田宮御宇天皇之代」「小治田宮御宇天皇之代」などで第4・第6・第8と中巻の第17に、上巻第5には「皇后癸丑年春正月即位、小墾田宮卅六年御宇矣」)・皇極(第9「飛鳥川原板葺宮御宇天皇」)・孝徳(第5「孝徳天皇世」・第9「難破長柄豊前宮御宇天皇之世」・第13「難破長柄豊前宮時甲寅年」・第23「難破宮御宇天皇之代」)・斉明(第14「後岡本宮御宇天皇之代」)・持統(第25「大后天皇時朱鳥七年壬辰二月」、第26「大皇后天皇之代」)の各代が見えています。第28の「役優婆塞」の話の「藤原宮御宇天皇之世」は文武の時代のことで、実際『続日本紀』文武35月丁丑(24日)にも「役君小角流于伊豆嶋」と見えていますし、第30も「藤原宮御宇天皇之代、慶雲二年乙巳秋九月十五日庚申」で文武の代のことです。そして聖武については既に第5に「勝宝応真聖武太上天皇」と見えているのですが、「従三位粟田朝臣」の見える第31に「諾楽宮御宇勝宝応真聖武太上天皇之代」、第32に「神亀四年歳次丁卯九月中、聖武天皇、与群臣猟於添上郡山村之山(後略)」とあり、第33・第34・第35には時代のわかる記述がありません。
 中巻は序に「宣化天皇」「欽明天皇」(「自宣化天皇以往、随外道、憑卜者、自欽明天皇之後、敬三宝、信正教」という形で見えます)「勝宝応真聖武大上天皇」が見え、第1の「太政大臣正二位長屋親王」の話(供養の飯を受けようとした沙弥を牙笏で殴り、のち自殺に追い込まれ、その遺骨を「土左国」に流したらその「気」のため多数の死者が出た)がやはり「諾楽宮御宇大八嶋国勝宝応真聖武太上天皇」で始まって「天平元年己巳春二月八日」と見える話で、以後第38まで年代のわかるものはずっと「聖武天皇御世」「聖武天皇御代」などがほとんどです。「聖武」と見えないものでも第8・第29・第30には「行基大徳」が見え、また第9には「以天平勝宝元年己丑冬十二月十九日死、以二年庚寅夏五月七日(後略)」、第10には「天平勝宝六年甲午春三月」、第18が「去天平年中」などの形で年代が示されています。そして第39に「奈良宮治天下大炊天皇御世、天平宝字二年戊戌春三月」、第40にはそういう時代区分はないものの「橘朝臣諾楽麻呂者、葛木王之子也」と橘奈良麻呂の名が見え、第41に「大炊天皇世、天平宝字三年己亥夏四月」、末尾の第42が「大炊天皇之世、天平宝字七年癸卯冬十月十日」などと見えています。
 下巻は第1には孝謙・称徳を指して「諾楽宮御大八州国之帝姫阿倍天皇」とあり、以下第15まで主に「帝姫阿倍天皇」「帝姫阿陪天皇」ほか「神護景雲三年歳次己酉夏五月廿三日丁酉之午時発火(後略)」(第10)などの年号が見えています。第16の「奈良宮御宇大八嶋国白壁天皇世、宝亀元年庚戌冬十二月廿三日之夜夢見(後略)」以降は光仁の「白壁天皇」のほか「宝亀○年」など。第30に「長岡宮御宇大八嶋国山部天皇代、延暦元年癸亥春二月十一日」(延暦元年は壬戌でまだ平城宮。新古典文学大系の注に『日本霊異記』の桓武朝の年代・宮号表記について「(前略)そこに並記された年時を基準として桓武天皇の宮号表示をみるならば、正しいものは一例も無い(後略)」とあります)と見えてからは桓武の「山部天皇」のほか「延暦○年」などの年号で見えており、第36に「正一位藤原朝臣永手者、諾楽宮御宇白壁天皇御時太政大臣也」(話は「延暦元年頃」に「大臣之子、従四位上家依」が自身の見た悪夢を父に語るところから始まっていますが、永手は宝亀2年≒771年の2月に没しているなど年代が合いません)、第37には「従四位上佐伯宿禰伊太知者、平城宮御宇天皇世人也」(佐伯伊多智は恵美押勝の乱に際し仲麻呂に先回りして勢多橋を焼くなど鎮定に功がありました)。
 問題の下巻第38は、巷間流行する俗謡などを未来の出来事の予兆と見る話から、著者景戒の見た予知夢にまで話が及ぶ長大なもので、また光明皇太后を指すらしい「大后」が多く見える話でもありますが、聖武譲位直後あたりから道祖廃太子・恵美押勝の乱・淳仁廃位・道鏡・光仁即位・桓武即位・長岡京遷都・藤原種継暗殺あたりにまで記述が及んでいます。景戒の夢に関連する記述は延暦19125日の「馬死也」まで。
 最終話の下巻第39は、僧が自身の生まれかわりを予言し実際親王として生まれかわったという話を2例挙げているのですが、そのうち後のほうの例は、「伊与国神野郡部内有山、名号石鎚山」で「昔諾楽官廿五年治天下勝宝応真聖武太上天皇之御世、又同宮九年治天下亭姫阿陪天皇御世」にかけて修行した「寂仙菩薩」なる禅師が「亭姫天皇御世於九年、宝字二年歳次戊戌年」に臨終を迎えた際、死後28年を経て「国王之子、名為神野」として生まれかわるとした文を弟子たちに残し、「然歴廿八年、而平安宮治天下山部天皇御世、延暦五年歳次丙寅年、則生於山部天皇々子、其名為神野親王、今平安宮疏〈十四介阝〉治天下賀美能天皇是也」――28年を経て延暦5年に桓武の子として生まれ神野親王と名づけられた、いま平安宮で(不明箇所)「治天下」の賀美能天皇(嵯峨)である――ということで、下巻末尾の話では一応嵯峨天皇の時代まで触れていることになります。
 しかしながら『日本霊異記』もまた最初から現在見るような形で成立したわけではないようで、新日本古典文学大系『日本霊異記』で校注をされている出雲路修さんのご見解によれば、まず延暦6年に原撰本が成立し、その後も話が付加されて現在見る姿となったとみられるもののようです。恐縮ながらオリジナルの論文等を拝見していないのですが、新日本古典文学大系の出雲路さんご自身の解説によれば、標題がT「――得現報縁」・U「――而現得善悪報縁」・V「――而現○得悪○報縁」(「――以現○得悪○報縁」)・W「――示奇異表縁」「――示奇表縁」「――示霊表縁」となっている話だけを取り出すと、各話が目立たない一部分を共通項として前の話・後の話とつながる「しりとり」のような関係となっているなど、これらの標題の説話群のみで話が連鎖していて、他からの独立性が認められるとのことです。また下巻の序に「延暦六年(七八七)を起点とした年時計算」が見られる(仏涅槃から延暦6年まで1722年、仏教伝来から延暦6年まで236年)ことも勘案して検討されたうえで、『日本霊異記』は「延暦六年にいったん編纂がおこなわれ、後年さらに改編増補されたということであろう」と見ておられます。現状の『日本霊異記』116話のうち原撰本にあったであろう話(標題がTUVW)は54話で、あとの半分以上の話は延暦6年以後に付加されたものということになるようです。下巻も第34以降の話は原撰本でなく延暦6年以後のものとなるようで、当然嵯峨天皇の見える第39もあとからのものということになります。
 現状の『日本霊異記』にあっても(上巻第1の雄略は別格とし、欽明以降で見ても)おそらく崇峻・舒明・天武・元明・元正についての記載はないのではないでしょうか。実は天智も固有名詞としては見えませんが、上巻第17――「伊予国越知郡大領之先祖越智直」が「当為救百済、遣到軍之時」に捕虜となり唐に連れ去られたが、観音像を信仰して舟で筑紫に漂着したという話――に見える「天皇」は天智を指すもののようです。また出雲路さんのご見解に従って延暦6年原撰本を想定するなら、第1の雄略・第2の欽明・第9の皇極の「飛鳥川原板葺宮御宇天皇」・第25の持統の「大后天皇」・第26の持統の「大皇后天皇」なども原撰本にはなかったことになりますが、ともかく崇峻・舒明・天武・元明・元正は見えないようです。下巻第39には「昔諾楽官廿五年治天下勝宝応真聖武太上天皇之御世、又同宮九年治天下亭姫阿陪天皇御世」との記述があり、また第38にも「諾楽楽宮廿五年治天下勝宝応真聖武太天皇」「諾楽宮廿五年治天下勝宝応真大上天皇」とあって、この聖武の在位が25年、孝謙の在位が9年という数字は、聖武即位を神亀元年(≒724年)、聖武が孝謙に譲位したのを天平勝宝元年(=天平21年=天平感宝元年≒749年)、孝謙が「廃帝」大炊王(淳仁)に譲位したのを天平宝字2年(≒758年)として計算するとピタリと合います(なお先ほど第39の寂仙菩薩の話に「亭姫天皇御世於九年、宝字二年歳次戊戌年」と見えることを引いていますが、「亭姫天皇」孝謙の世を天平勝宝元年を1年として数えると10年目となる矛盾も、このように満で計算するとたしかに9年となります)。これに従えば、聖武が神亀元年に即位する前は当然元正がその地位にあったものと認めていることになるでしょう。
 「当たり前だ」とお思いになるかと存じますが、『日本霊異記』では先にも述べましたとおり下巻第30に「延暦元年癸亥」(実は延暦元年は壬戌、延暦2年が癸亥)などとあったり、宝亀2年(≒771年)に没した藤原永手が「延暦元年頃」にまだ生きていたりと、かえって近い時代のはずの桓武ごろの年代のほうがむしろおかしい。正確な年代の記録はもともとなかったのではないかと疑います。このような書き方は両刃の剣で、下巻第39の「諾楽官廿五年治天下……同宮九年治天下……」の記述を浮き立たせ、あとから取って付けたものと考える例証ともできそうですが、逆に『日本霊異記』の示す年代観は全体に疑わしくて、考えてみても意味がないといったことにもなりかねません。ともかく、第38・第39でわざわざ3回も「諾楽宮廿五年治天下」と表記するのもかわっていますが、「諾楽宮廿五年治天下勝宝応真聖武太上天皇」で一連の固有名詞として扱っているものとでも見たほうが早いようにも感じられます。中巻での聖武の表記はほとんどの場合「聖武天皇」であって、長く表記する例は先にも挙げました上巻第5の「勝宝応真聖武大上天皇」と第31の「諾楽宮御宇勝宝応真聖武太上天皇」、中巻の序の「勝宝応真聖武大上天皇」、中巻第1の「諾楽宮御宇大八嶋国勝宝応真聖武太上天皇」、それから下巻第38・第39程度ではないでしょうか。ほかに「聖武天皇」でなく「聖武太上天皇」とする例が中巻の第5・第36に見える程度と思われます。そしてこれらの中では上巻第5「信敬三宝得現報縁第五」と中巻第5「以漢神祟殺牛而祭又修放生善以現得善悪報縁第五」のみが延暦6年原撰本と想定される範疇に入るものらしいですから、ほかは延暦6年以後に加えられた可能性が高いものということになるのでしょう。もっとも原撰本部分もあとから表記をかえることはできたでしょうから、表記自体にこだわってもあまり意味はないかもしれません。
 冒頭申し上げました推古即位前紀でもありませんが、下巻第39の「諾楽官廿五年治天下」「同宮九年治天下」などは、あるいは延暦6年以後に『続日本紀』等に準じる記録・資料により割り出した数字ではないかなどと疑っております。たとえば下巻第38に見える「(然而彼帝姫阿倍天皇並大后御世之)天平勝宝九年八月十八日、改為天平宝字元年」という記述について見ますと、『続日本紀』天平宝字元年8月甲午(8日)の勅には「(前略)思俾恵沢被於天下。♂天平勝宝九歳八月十八日。以為天平宝字元年」と、「歳」と「年」こそ違うもののほぼ同じような言い回しが見えています。「等に準じる」という言い方をしましたのはもちろん『続日本紀』の「勝宝感神聖武皇帝」に対する「勝宝応真聖武太上天皇」の表記を意識してのことです。もとより原典がそういう表記だったという可能性以外に、景戒がつくったか、思い違いでそうなった表記という可能性も考えられるでしょうが。ともかく、下巻第39に見えるこれらの数字によれば、聖武は神亀元年即位・天平勝宝元年譲位で在位25年、孝謙は天平勝宝元年即位・天平宝字2年譲位で在位9年ということになります(称徳としての在位は天平宝字8年≒764年から宝亀元年≒770年まで6年ですから)。『日本霊異記』が、著者の景戒がそう解釈していたことになります。
 ところが『日本霊異記』全体の構成を見てみますと、上巻は第30の文武から第31の聖武へと続いていて元明・元正の時代の話がなく、また中巻は第38「因慳貪成大蛇縁第卅八」の「聖武天皇御世」から第39「薬師仏木像流水埋沙示霊表縁第卅九」の「奈良宮治天下大炊天皇御世、天平宝字二年戊戌春三月」(淳仁即位は天平宝字281日)に直接続いています。第40「好於悪事者以現所誅利鋭得悪死報縁第卌」は「橘朝臣諾楽麻呂者、葛木王之子也」で始まっており、橘奈良麻呂の変は孝謙の代の天平宝字元年6月末から7月初頭にかけて見えているものですが、この第40には「○○御世」「○○之代」など時代を示す表記がありません。内容は諾楽麻呂の「奴」がキツネの子を串刺しにしたので、母ギツネが奴の子の祖母に化けて奴の子を串刺しにしたという話です。中巻第1の長屋親王よろしく第40の諾楽麻呂もまた仏敵として描かれており、『日本霊異記』には反逆者とされた人々を仏敵として扱う傾向がうかがわれます。なお中巻も後半から終わりまでの話は、出雲路さんの想定される延暦6年原撰本にはなくてあとから付加されたとみられる話が多いようなのですが、「奈良宮治天下大炊天皇御世、天平宝字二年戊戌春三月」と見える第39の標題は「薬師仏木像流水埋沙示霊表縁第卅九」でWの「――示霊表縁」の形、「橘朝臣諾楽麻呂者、葛木王之子也」と見える第40の標題は「好於悪事者以現所誅利鋭得悪死報縁第卌」でVの「――而現○得悪○報縁」の形となっており、第39・第40とも延暦6年原撰本にあったと考えられる話のようです。中巻の残りの第41・第42は延暦6年原撰本にはなかったであろう話となります。第41「女人大蛇所婚頼薬力得全命縁第卌一」には「大炊天皇世、天平宝字三年己亥夏四月」と見えており、実際淳仁は天平宝字28月庚子朔(1日)に即位していますのでこちらは問題がありません。「河内国更荒郡馬甘里、有富家、々有女子」という書き出しで始まっており、舞台となった地名は持統の幼名を連想させるのですが、内容は筆舌に尽くしがたいものです。第42「極窮女憑敬千手観音像願福分以得大富縁第卌二」も千手観音像が笠地蔵のような働きを見せる話ですが「大炊天皇之世、天平宝字七年癸卯冬十月十日」と見えています。そして下巻は第1から「諾楽宮御宇大八州国之帝姫阿倍天皇」で始まっているといった調子です。たとえば麻縄で両足を岩壁につないだまま身投げして死んだドクロの舌だけが腐らずに経を読んでいたといった話が孝謙の時代のことか称徳の時代のことか知るよしもありませんが、聖武―淳仁―「帝姫阿倍天皇」という順から考えれば、この「帝姫阿倍天皇」は本来は称徳の時代とのみ意識されて配列されたものではなかったかと疑いたくなります。
 また中巻冒頭の第1から第38までは(年号や年代のわかる人名等のないものを除き)聖武の代の話のようなのですが、第9「己作寺用其寺物作牛役縁第九」には「天平勝宝元年己丑冬十二月十九日」、第10「常鳥卵煮食以現得悪死報縁第十」には「天平勝宝六年甲午春三月」とあって、第910ともに「○○天皇御世」といった記述は見えません。『続日本紀』には聖武が譲位し孝謙が即位した7月甲午(2日)の宣命と叙位に続けて「是日。改感宝元年。為勝宝元年」と見えるのですから、天平勝宝元年72日以降は孝謙の代のはず。『日本霊異記』中巻は孝謙代のはずの「天平勝宝」年間の話を聖武の代の話の中にポツンとはさんでいるのです。
 これには無理からぬところもあって、『日本霊異記』で景戒は聖武について「勝宝応真聖武太上天皇」とも記しており、これを正式なフルの称とでも考えていたような印象さえ覚えるのですが、実際『続日本紀』天平宝字28月戊申(9日)にも「(前略)敬依旧典。追上尊号。策称勝宝感神聖武皇帝。謚称天璽国押開豊桜彦尊(後略)」とあり、なぜか孝謙在位の代の元「天平勝宝」の「勝宝」を含んだ「勝宝感神聖武皇帝」なる号がたてまつられていますから、どうしてこのようなことになったのかはわかりませんが、「天平勝宝」年間が聖武の治世と勘違いされるのもやむを得ぬ印象はあるのです。橘奈良麻呂の変は聖武太上天皇の没した1年ちょっとのちの天平宝字元年6月に発覚しています。
 おまけに『日本霊異記』には元明・元正に関する記述がなくて持統も中巻第25に「大后天皇」、第26に「大皇后天皇」ですから、もしかすると景戒には「太上天皇」がどういうものかわかっていなかった、少なくとも延暦6年原撰本あたりの段階では養老令が規定する形、『続日本紀』に見えるような形では理解していなかったのではないかとも疑われます。ともかく、延暦6年原撰本あたりでの景戒の意識では天平勝宝元年はまだ「聖武(太上)天皇」代だった、少なくとも「帝姫阿倍天皇」代ではなかったかのようにも見えます。聖武が没したのは天平勝宝8歳(≒756年)5月乙卯(2日)ですから、中巻第10の「天平勝宝六年甲午」もまだ「聖武(太上)天皇」代だったと見ることもできるのかもしれません。なお第9・第10以降でもたとえば第12や第29、第30には「行基大徳」と見えており、行基が没したのは孝謙即位直前の天平勝宝元年(≒749年)2月丁酉(2日。414日まで天平21年)ですから、これらは聖武の代という設定の話と見なせそうで、当然のことながら配列には時間的に前後するものが認められます。しかしそれは景戒が聖武の代のこととした話の中において年代が前後するということであって、聖武―淳仁―「帝姫阿倍天皇」という代の順序の意識は認められるように思うのです。
 説話集という性格上、こういったことについてあまり真剣に追究できるような素材でもありませんし、また逆に下巻第38・第39の表記等もまだ掘り下げて検討すべきなのかもしれません。また私ごときが考えなくても既にレポート等で言い尽くされていることなのでしょうが、『日本霊異記』では孝謙の代というのは聖武の代と淳仁の代とに含まれてしまっているように思われます。そうなりますと、上巻で文武の時代からそのまま聖武の時代に続いていて元明・元正代の話が見られないことについても、一部に『続日本紀』とは異なる見方、年代観・時代観のようなものがあったことを疑わせるのではないか。下巻第36で宝亀2年(≒771年)没の藤原永手が「延暦元年頃」の話に見えていることから推せば、上巻第31の「従三位粟田朝臣」の生存年代にこだわってもあまり意味はないのかもしれませんが、元明・元正代の話がないこととあわせて考えると、そのように疑う余地もあるように思われるのです。


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