6. 「大」「中」の称
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『古事記』(712年)・『日本書紀』(720年)は(偽作とか、後から手が加わっている可能性を考えなければ)ほぼ年代を確定することができるのでしょうが、『万葉集』の成立などはかなり長期にわたったものと考えられているようです。私自身が「不明」なのですが、たとえば古典文学大系『万葉集』の解説には徳田浄さんの「万葉集撰定時代の研究」のご見解が要約されていて、それによれば巻1・2の大部分が慶雲・和銅・養老年間に順次成立しており、巻1−16が天平末年から天平勝宝5年ごろまでに成立、以後も第2回撰として巻17以下が天平宝字年間に成立すると同時に1−16巻にも手入れがなされ、宝亀8−9年ごろにも第3回撰として20巻全巻に手入れがされて成立したという形で見ておられるようです。また中西進さんも『万葉集(一)』の解説の中で「予想以上に長い歳月にわたって増減を経ながら現在の形にたどりついた」ものとされ、追補・増補を繰り返し「この作業の最終のおわりは、私には宝亀年間(七七〇−七八〇)のことだと思われる。長皇子の子、文室大市らと大伴家持の作業である」という形で見ておられます。さらに左注に至っては最終的には平安初期まで下るものらしいこと、先に青木和夫さんの講演「藤原鎌足と大化改新」(『藤原鎌足とその時代』所収)から引かせていただいています。
また『風土記』撰進の命は和銅6年(≒713年)に出されたようですが、『風土記』の成立自体にも時間的なばらつきがあるようで、現存する5つの『風土記』の中でも常陸・播磨のものが先行し出雲はこれに後れ、豊後・肥前のものには『日本書紀』を参照したとみられる記述も含まれているようです。古典文学大系『風土記』の秋本吉郎さんの解説によれば、和銅6年から212年後の延長3年(≒925年)にも『風土記』を中央に提出せよとの太政官符が諸国国司あてに出されているのだそうです(「延喜式」編纂の資料とするためであろうと見ておられます)。同年12月14日(ユリウス暦では926年1月1日だったかもしれません。★ソフト「when」によらせていただいています)の太政官符に「国庁にある筈の風土記をそのままに提出せよ、もしそれがない場合は新たに制作進達せよ」といった内容が見えるのだそうで、こうなりますと『風土記』といっても「和銅6年のもので中央に提出されたもの」「地方の国庁に残された副本・稿本」「延長3年に地方から中央に提出されたもの、その際に追加・再編集が加えられたもの」「延長3年にまったく新たに制作されたもの」 「延長3年に中央に提出した際に地方に残された副本・稿本」……等、種々の本が考えられるもののようです。そして山アさんが指摘しておられますが、『伊予国風土記』逸文の引用が見える『釈日本紀』『万葉集註釈』とも13世紀ごろに成立したもののようです。
このようにして見ますと、個人的には『万葉集』『風土記』の「大后」(太后)・「皇后」を同列のものと見て論じるのは躊躇したくも思われます。
個人的には山アさんの「上代日本における「大后」の語義」でのご見解、「現役の后の時代から既に天皇と同等の権威を持つ女性がおり、それがそのまま女帝的立場へ移行すると考えるべきであろう」あたりに賛同させていただきたく思うのですが、にもかかわらず、これらの「大后」の例を見渡して個人的に思いますことは……恐縮ながら、さっぱりわけがわかりません。「大后」と「皇后」「皇太后」「后」「きさき」「おほきさき」などをあわせ考えますと、それぞれの資料の間で整合性がないように思われます。いや、考えるのもいやになります。あらかじめ「大后」モデルを提示され、それに対して合致しているかいないかを判断せよ、というのならできるかもしれませんが。
まず天智紀末尾、10年10月庚辰の「請奉洪業、付属大后。令大友王、奉宣諸政。臣請願、奉為天皇、出家脩道」の「大后」(おほきさき)と天武即位前紀「四年冬十月庚辰」の「願陛下挙天下附皇后、仍立大友皇子、宜為儲君。臣今日出家、為陛下欲脩功徳」の「皇后」(きさき)とはおそらく天武の同一の発言について別の語・表記になっている例であり、矛盾とはいえるでしょう。小林さんが示しておられますように……と申してよいかどうかはわかりませんが、「大后」を「きさき」と読めば一致します。
『古事記』等と比較すれば、止むを得なかったらしい「間人大后」の例を除いて『日本書紀』では「大后」の語を避けたかったようにも思われます。また随所に破綻は見せながらも表記を統一しようとの意思が『日本書紀』にあったであろうこともうかがわれます。逆にいえば、止むを得なかった「間人大后」の例にこそ「大后」の意味を探るキーが隠されているのかもしれませんが、わかりません。推古については敏達没後でも用明紀に「炊屋姫皇后」、崇峻紀に「炊屋姫尊」として見えていました。これとの対比で考えると、天智紀で間人が4年2月と3月に「間人大后」、そして6年2月の埋葬の記事では「間人皇女」に戻っていることは奇妙な印象です。生母の斉明の「天豊財重日足姫天皇」と併記されているから「間人皇女」表記になったのでしょうか。
天智10年10月庚辰の倭姫王の「大后」については、継体6年12月の物部麁鹿火の妻の言葉にに見える「故大后息長足姫尊」などもあわせ考えますと、あるいは会話文中の発言という意味で「大后」とされたものかとも考えたくなりますが、「大友王」表記からすれば直されずに残ってしまったものという印象もあります。
『日本書紀』では天智10年10月(と継体紀)に見える「大后」を「おほきさき」と読ませているようですが、また定型的な「尊皇后曰皇太后」の「皇太后」も「おほきさき」と読ませ、さらに清寧紀の葛城韓媛・推古紀の堅塩媛も「皇太夫人」と書いて「おほきさき」と読ませているようです。葛城韓媛の「皇太夫人」を『日本書紀』の文飾などと見るとしても、岩崎本に見える堅塩媛の「おほきさき」の訓は、神亀元年3月辛巳(22日)の藤原宮子を「&カ則皇太夫人。語則大御祖」とせよとした詔とは矛盾しています。推古紀のこの訓が果たして当初からのものか後代のものかはわかりませんが、逆にまた宣長のいう「大御祖」、オホミオヤの語が果たしてどの程度に古いものであったのかも疑わしく思われます。『日本書紀』にオホミオヤの例があるのかどうか。個人的には『続日本紀』神亀元年2月甲午(4日)の聖武即位の宣命の「皇祖母」、またはこの「&カ則皇太夫人。語則大御祖」あたりが初出なのではないかと思っているのですが、これについてはわかりませんので……というよりも、私自身が『古事記伝』を読めばいいのかもしれませんが、いろいろな意味で読むことができません。
神亀元年3月辛巳の「&カ則皇太夫人。語則大御祖」の一件はもともと2月甲午の聖武即位の宣命と叙位に続いて見える丙申(6日)の「勅尊正一位藤原夫人称大夫人」が原因でした。で、奈良時代ころにもっとも「皇太后」らしく思える存在の光明皇太后の「皇太后」号についてはどうなっていたかと見てみますと、天平勝宝元年(≒749年。天平21年4月に天平感宝と改元し、さらに同年7月の孝謙即位と同時に天平勝宝と改元)7月の孝謙即位の際には「光明皇后を尊んで皇太后号をたてまつった」といった記述は見えないのではないかと思われます。これは非常に奇妙な印象なのですが、7月甲午(2日)に孝謙即位の宣命・叙位・改元が見え、乙未(3日)も阿倍朝臣石井ら「天皇之乳母」3名への叙位(従五位下)、乙巳(13日)には大安・薬師・興福・大倭国法華寺以下諸寺の墾田の上限を定めた記事があり、8月癸亥(2日)も叙位、辛未(10日)の任官の記事の中に「大納言正三位藤原朝臣仲麻呂為兼紫微令」以下大弼大伴兄麻呂・石川年足、少弼百済王孝忠・巨勢堺麻呂・背奈王福信……といった、光明皇后の皇后宮職から発展した紫微中台のメンバーも見えています。乙亥(14日)に「従四位下尾張宿禰小倉卒」、壬午(21日)に大隅・薩摩両国の隼人の「貢御調」「奏土風歌儛」、翌癸未(22日)には「外正五位上曽乃君多利志佐」(広嗣の乱に加わり投降した隼人ということですが、前日の「貢御調」「奏土風歌儛」に来ていたのかもしれません)ら隼人の長らしき人々への叙位、そして9月戊戌(7日)に「制紫微中台官位」、紫微令1人は正三位の官……など、紫微中台の官職の相当位階を定めた記事が見えています。皇后宮職の紫微中台への発展をもって光明皇后が皇太后となったものと見なし得るのでしょうが、ともかく皇太后号を贈った記事が見えないのは『日本書紀』欽明・敏達紀等の「尊皇后曰皇太后」や『続日本紀』聖武即位時の「勅尊正一位藤原夫人称大夫人」などと比較すると不自然な印象をぬぐえません。あるいは聖武即位の際の悶着の記憶などがあったために、孝謙即位時にはことさら「尊皇后曰皇太后」的なことを行わなかった、ないしは記述されなかったということでしょうか。
このあと光明皇太后は天平勝宝元年12月丁亥(27日)の大仏の前で八幡大神に一品をたてまつる記事に「天皇。太上天皇。太后。同亦行幸」、「太后」で見えているようです(新訂増補国史大系では四角囲みで「皇」字を挿入して「皇太后」とし、頭注で「皇、今意補」とされています)。毎度きちんと確認できていないのですが、次に光明皇太后が見えるのは天平勝宝5年4月丙戌(15日)の「頃者皇太后寝膳不安。稍延旬月」による大赦の詔あたりではないでしょうか。その後は主に天平宝字元年の橘奈良麻呂の変に関連した記事や宣命等に「大后」「太后」「皇大后」「皇太后」(「皇太后宮」「皇太后朝」)等の表記で見えているようです。7月戊申(2日)には光明皇太后自身の宣命も見え、亡き聖武の言葉(「朕後〈尓〉太后〈尓〉能仕奉〈利〉助奉〈礼止〉詔〈伎〉(後略)」)を引く中に「太后」として見えていることも2度ほど引きました。この時期「天皇」は孝謙のはずなのに、同宣命では亡き聖武を単に「天皇」と呼んでいて違和感がありますが、『万葉集』巻1の8の額田王作とされる「熟田津に……」の歌の左注の「天皇大后」を連想させる……などといったことも申しております。このあとはだいたい「皇太后」表記が多いように思われます。回数としてはおそらくそれほど多くは見えていません。
なお天平宝字2年8月庚子朔(1日)には「百官及僧綱」が朝堂に詣でて上表し、同日「皇太子」(淳仁)に禅位した「高野天皇」孝謙に「上台」の、光明皇太后に「中台」の尊号をそれぞれたてまつったとあり、また同時に孝謙上皇に「宝字称徳孝謙皇帝」、光明皇太后に「天平応真仁正皇太后」の称がたてまつられたとあります。これらの称は「百官」の表に「臣仲麻呂等言(中略)伏乞。奉称上台宝字称徳孝謙皇帝。奉称中台天平応真仁正皇太后(後略)」、「僧綱」の表に「沙門菩提等言(中略)謹上尊号。陛下称曰宝字称徳孝謙皇帝。皇太后称曰天平応真仁正皇太后(後略)」という形で見えているもので、また8日後の9日には2年前に没した聖武にも「天璽国押開豊桜彦尊」の諡と「勝宝感神聖武皇帝」の尊号が、そして「日並知皇子命」(『続日本紀』で文武即位前紀・元明即位前紀・元正即位前紀や天平元年2月甲戌=13日に見える「日並知皇子尊」とは異なり「尊」でないようで、また慶雲4年4月庚辰=13日、草壁の薨日を国忌とした記事にも「日並知皇子命」です)の草壁にも「岡宮御宇天皇」の尊号がたてまつられています。仰々しい記載の中にあって、8月1日に孝謙から譲位され即位した「廃帝」(淳仁)の生母の当麻山背については「帝受禅之日。授正三位。後尊曰大夫人」、その日には正三位とされたのみ。「大夫人」とされたのは1年近くたった翌天平宝字3年6月庚戌(16日)のことで、その日の淳仁の宣命には「(前略)故是以自今以後追皇舎人親王¥フ崇道尽敬皇帝当麻夫人称大夫人兄弟姉妹悉称親王(後略)」などと見え、父の舎人親王に「崇道尽敬皇帝」の号がたてまつられたのと同時に当麻山背も「大夫人」(オホミオヤ)とされています。対し、宝字2年8月1日の折には改元もされていません。なお「沙門菩提」は天平勝宝4年(≒752年)4月の大仏開眼に際し筆をとったという婆羅門僧正、インド僧の菩提僊那のこと。
『続日本紀』のこういった記述を見てきますと、『日本書紀』が即位の記事に続ける形で「尊皇后曰皇太后」と記しているのは果たしてその当時の事実だったろうかと疑わしく思えてきます。
そしてまた『日本書紀』の「尊皇后曰皇太后」、「皇太后」の尊号をたてまつる記事には中国的な皇太后のイメージが強いのですが、天寿国繍帳銘の「娶○○為大后」には「皇后」的なイメージはあっても「皇太后」のイメージはありません。
日本思想大系『古事記』の神武段の「大后」の頭注に「律令制にもとづく皇后の呼称の成立以前の呼称で、天皇を大王と称したことに対応する。紀では雄略二十年条引用の百済記に百済国王の正夫人の呼称として大后の語がはじめて記されている。日本の大后の称も大王の称とともに朝鮮よりとり入れたものらしい」とあります。それからまた孫引きになってしまうのですが、岸俊男さんの「光明立后の史的意義」の「二
皇后」の注(『古事記伝』の「大后は、字の任に意富岐佐伎と訓べし……」が引かれている注です)に「また家永三郎氏は三国史記高句麗本紀中川王四年条の例をあげ、朝鮮などで後妃を小后といったのに対して、嫡后を大后とすることが起こったのではないかとしておられる(『上宮聖徳法王帝説の研究』各論篇十七ページ)」と見えています。家永さんが挙げておられるという『三国史記』高句麗本紀の原文に当たることはできていないのですが、東洋文庫の井上秀雄さん訳注の『三国史記2』(平凡社)によりますと、この中川王4年条というのは王が「小后」に立てようとした貫那夫人と王后の掾氏との対立の話で、最終的に夫人が革袋を持って王に「王后が私をこれに入れて海に捨てようとした」と虚偽の讒言をし、嘘がばれてその夫人が革袋に入れられ西海に捨てられた、といった話のようです。中川王の在位は248年から270年ということですが、それが事実だとすれば、ちょうど卑弥呼の没したころから壱与の時代にかけてとなり、蜀を滅ぼした直後の魏が司馬仲達の孫に取って代わられるのを在位のうちに経験した計算になります。
『日本書紀』欽明7年是歳条にも「是歳、高麗大乱。凡闘死者二千余。〈百済本紀云、高麗、以正月丙午、立中夫人子為王。年八歳。狛王有三夫人。正夫人無子。中夫人生世子。其舅氏麁群也。小夫人生子。其舅氏細群也。及狛王疾篤、細群・麁群、各欲立其夫人之子。故細群死者二千余人也。〉」などと見えているようです(欽明6年是歳条にも同様の記事があり、実は欽明6年末から7年はじめにかけて、545−546年ごろの一連の跡目争いの事件。『三国史記』高句麗本紀の安原王・陽原王各紀に見えない)。やはり直接に「大后」「大夫人」などとは見えず、逆に「大后」の語の見える雄略20年冬条分注にはかえって「小后」などの語は見えないのですが、それでもこれらを通観しますと、当時の朝鮮半島諸国に后妃を大・小または正・中・小などで序列化する発想があったことを示しているように思われます。
「大后」表記ではないのですが「こにおるく」と読ませる語の例が『日本書紀』斉明4年是歳条に見えます。「雀魚」(すずみを)の死骸が浜に3尺も打ち上がったとするハリセンボンの異常発生のような出雲国の報告に続く分注の中にあるものです。こちらも奇妙な話で、「雀魚」の大量漂着は斉明4年のことながら分注のほうは「庚申年」(2年後の斉明6年≒660年)の百済滅亡についての話となっており、滅亡した百済からの使者の談話が「大唐(もろこし)・新羅(しらき)、力を并(あは)せて我を伐つ。既に義慈王(ぎじわう)・王后(こにおるく)・太子(こにきし)を以て、虜(とりこ)として去(い)ぬ」(「大唐・新羅、并力伐我。既以義慈王・々后・太子、為虜而去」)と見えています(読みは古典文学大系によりました)。なお「太子」を「こにきし」と読ませていることは不審で、通例では「王」で「コニキシ」「コキシ」などと読ませ、「太子」は「コニセシム」と読ませているように思われます。実際この斉明4年是歳条の分注の「太子」と同一人である扶余隆(「豊璋」、扶余豊の兄のようです)は斉明6年7月乙卯(16日)条に分注の形で引く『伊吉連博徳書』(いきのむらじはかとこがふみ。後述)の中にも「太子隆」と見えていますが、この「太子」の読みが「こにせしむ」のようですし、また継体7年8月戊申(26日)には「秋八月癸未朔戊申、百済太子淳陀薨」なる記事が見えますが、この「太子」の読みも「こにせしむ」のようです。ともかくこの斉明4年是歳条の分注には「小」どころか「大」の文字も(「大唐」を除いて)見えませんが、「王后」の「こにおるく」や「太子」の「こにきし」といった読みがなを見てから天寿国繍帳銘などを眺めていますと、「大后」「大王」といった表記が不思議と「コニオルク」「コニキシ」などと……見えてくるようなことはもちろんないのですが、天寿国繍帳銘が「偽物」でないとすれば、「孔部間人公主」の「公主」に中国的な印象があるにもかかわらず、「大后」「大王」などの語の用法については当時の朝鮮半島諸国のどこかの国に由来するものである可能性は考えられるようにも思うのです。そうなりますと繍帳銘などの「大后」は「小后」などに対する「正妻」「嫡妻」的な語としてとらえるべき、という通説的な位置に戻ってきてしまいます。しかしその読みは「コニオルク」……とでも見たいところですが、それでは意味をなさない。けれども「名等已刀弥弥乃弥己等娶尾治大王之女名多至波奈大女郎為后」の「后」などのことも考えますと、はたして当時の倭語としての読みとこれらの表記とが対応していたかどうかは疑問です。もとより繍帳銘には「吉多斯比弥乃弥己等為大后」とありますから、堅塩媛が欽明の「大后」と見えていることと『日本書紀』が欽明「皇后」を宣化皇女の石姫としていることとの間の矛盾が解消されるわけではありませんが、それはそれで別に考えるべきことで、いまは事実関係でなく「大后」の意味や読みについて考えております。
斉明4年是歳条の分注の「太子」については斉明6年7月乙卯の『伊吉連博徳書』に見える「太子隆」、扶余隆であることを申しましたが、「王后」についても斉明6年10月、百済の遺臣の鬼室福信が王子の余豊璋を帰還させるよう要請してきた記事の分注に「百済王義慈、其妻恩古、其子隆(後略)」と見える「恩古」なる女性がそれに相当するもののようです。またそれ以前の6年7月乙卯の分注形式の記事(『伊吉連博徳書』も引かれている記事)では、「高麗沙門」(高句麗僧)道顕の『日本世記』からの引用の中に、新羅の金春秋が唐の大将軍蘇定方と百済を挟撃し滅ぼしたとの記述に続けて「或曰、百済自亡。由君大夫人妖女之無道、擅奪国柄、誅殺賢良故、召斯禍矣」といった記述も見えています。「君(こきし)の大夫人(はしかし)の妖女(たはめのこ)無道く(あじきなく)して」、「大夫人」で「はしかし」と読ませているようで、古典文学大系はこの「大夫人」に注して「義慈王の妻の恩古(下文十月条分注)か」としています。
なお斉明5年7月戊寅(3日)に出発のことが見える遣唐使(小錦下坂合部連石布・大山下津守連吉祥ら。ただし坂合部石布は漂流の末「爾加委」という南海の島で島民に殺された)一行は百済滅亡までは「西京」長安に抑留されていたようです。斉明紀の分注にしばしば引用されている『伊吉連博徳書』というのはこの遣唐使の一員だった伊吉連博徳の記録なのですが、扶余隆について「太子隆」とする記述が見える6年7月乙卯の分注形式の記事も、前半が道顕の『日本世記』からの引用で、後半が『伊吉連博徳書』からの引用という構成となっています。それによると伊吉博徳ら遣唐使一行は百済の滅亡した「庚申年」(=唐の高宗の顕慶5年=斉明6年≒660年)9月12日に解放されて19日に「西京」を出発、10月16日に「東京」洛陽に着き、11月1日には蘇定方により捕らえられた「百済王以下、太子隆等、諸王子十三人、大佐平沙宅千福・国弁成以下卅七人、并五十許人」が「朝堂」に「奉進」され天子のもとへ引き立てられるのを目撃している可能性があります。「恩古」かと思われる「王后」の消息はこの文からはわかりません。この際は「天子恩勅、見前放着」とあり、やはり古典文学大系のこの記述に対する注に「資治通鑑、唐紀に、十一月一日、高宗は則天門の楼上から百済の俘に臨み、これを釈放したとある」とあります。その5年前に高宗の皇后となっていた武后はこのころ30代の半ばころではなかったかと思われますが、この折にやはり則天門の楼上からこの「俘」たちを見ていたのでしょうか。この660年ころには高宗は病気となり、武后が政務にかかわる機会も多くなっていったようですが、長安の太極宮が低湿なのを嫌って大明宮を改修し蓬萊宮と称して移ったのが竜朔2年(≒662年)、武后はそこでも自分が殺させた王皇后・蕭淑妃の亡霊に悩まされ、以後洛陽に住むことが多くなったそうですから、660年ころにはまだ通常は長安にいたもののようにも思われます。顕慶5年11月1日、武后が高宗とともに洛陽に来ていたかどうか記録に見えるのでしょうか。
また伊吉博徳は四半世紀を経た朱鳥元年(≒686年)10月に大津皇子の謀反に連座したとして中臣意美麻呂・巨勢多益須らとともに逮捕されています(この記事では「壱伎連博徳」表記)。このときはすぐに許され、のちには藤原不比等・粟田真人らとともに伊吉博徳(文武4年甲午=17日に「直広肆伊岐連博得」、大宝元年8月癸卯=3日に「従五位下伊吉連博徳」)も大宝律令の撰定に加わっているようですが、たとえば彼が道顕の『日本世記』の「君大夫人妖女之無道」といった記述を見ていたとしたら、どんな感想を持ったでしょうか。
私自身が混乱しておりお見苦しいところをお見せしておりますが、それも「大后」「后」や「皇太后」といった表記する語、それから証明のしようのない「オホキサキ」「キサキ」といった語について、おそらく当時から対応関係に混乱がある、さらに「大后」「后」などの基準も単独でなく、複数の基準があったのではないかと思われるあたりに由来しています。天寿国繍帳の「大后」「后」、特に「名等已刀弥弥乃弥己等娶尾治大王之女名多至波奈大女郎為后」の「后」などは、「尾治大王」の「大王」などとともに明らかに記紀の基準とは違います。また「大后」をどちらかといえば「キサキ」と見ておられるらしい小林さんのお説にも引かれるのですが、『続日本紀』天平元年8月壬午(24日)の光明立后の宣命では「皇后」で「オホキサキ」と読ませているらしく見えています。もっともこの読みが宣長の『歴朝詔詞解』あたりに由来しているとすれば話は別です。
もし「大后」が「オホキサキ」でなく「キサキ」だったとすれば、「オホキサキ」の表記は何だったのか。「大后」が「キサキ」なら「オホキサキ」は……「大大后」などという表記は見たことがなくて、『元興寺縁起』の推古が「大々王」ですが、 これについてはウェブで拝見しております、法隆寺金堂薬師像銘の「大王天皇」や『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「太帝天皇」などと同じものに由来すると見ておられますご見解
に乗らせていただきたく思います。
『続日本紀』では天平宝字元年7月戊午・天平宝字2年8月庚子朔の孝謙の宣命で「皇太后朝」に「オホミオヤノミカド」の読みがあり、また天平宝字3年6月庚戌淳仁の宣命で「大夫人」が「オホミオヤ」、天応元年4月癸卯の桓武の宣命で「皇太夫人」が「オホミオヤ」と、「皇太后」相当の存在に対しては一貫して「オホミオヤ」の印象が強いです(宣命の読みが当時のものとして信頼できればの話ですが)。これは『日本書紀』で「尊皇后曰皇太后」「皇太夫人堅塩媛」などの「皇太后」「皇太夫人」を「オホキサキ」と読ませているらしいのと対立しています。
そして意外にも、光明皇太后没後の天平宝字6年6月庚戌の孝謙太上天皇の宣命で「御祖大皇后」が「ミオヤオホキサキ」と、そして和気清麻呂姉弟を退けた直後の神護景雲3年10月乙未朔の宣命では、聖武の言葉を引用した中に光明皇后が「大皇后」で「オホキサキ」と見えています。
これらに近い表記は『日本霊異記』上巻第26の持統を指す「大皇后天皇」のように思われるのですが、「皇太后」ならぬ「大皇后」というのは異様な印象です。先に天智紀や天武紀上の天武の「大皇弟」については、孝徳と間人の「皇弟」であった天武が孝徳没後には「大皇弟」となった(読みはわかりません)という形で考えたのですが、「皇后」の場合は「皇太后」という語があるわけですから、改めて「大皇后」なる語・表記を作る必要はない。いや、「皇太后」は「オホミオヤ」で実子の即位によるものだから、これとは別に「大皇后」については配偶者である天皇没後(あるいは譲位後)の「皇后」を指すのだ、などととらえることもできるのかもしれませんが、むしろ光明皇太后の死没をはさんで孝謙・称徳の宣命に見える光明皇太后が「皇太后」の「オホミオヤ」から「大皇后」の「オホキサキ」に変化している点は重要かと思われます。当然どなたか言及されているのでしょうが、悲しいかな存じません。
天平宝字6年6月の宣命の「御祖大皇后」は光明皇太后を指すのであって、本来ならまさに「皇太后」です。なぜ「皇太后」としなかったかという疑問は残るものの、「御祖大皇后」を「ミオヤ・オホ・キサキ」と読むことは、宣命という実際に読み上げるための原稿であることも考慮すれば順当、納得のいく話です。神護景雲3年10月の宣命の「大皇后」も同様です。また『日本霊異記』では持統は上巻第25で「大后天皇」、第26では「大皇后天皇」表記ですが、話の内容は第25(の前半)が『日本書紀』持統6年3月にもほぼ同内容で見える「故中納言従三位大神高市万侶卿」の話を「有記云」、ある書から引用したという実録ふうの話ですし、対する第26は「百済禅師、名曰多羅」が瀕死の病人を生き返らせたり錫杖の上に錫杖を立てて倒れなかったなどとする話ですから、「大后天皇」「大皇后天皇」の表記の違いは出典の違いを反映したもののようにも思われます。
文武元年8月庚辰(17日)の即位の宣命に「(前略)現御神〈止〉大八嶋国所知倭根子 天皇命授賜〈比〉負賜〈布〉貴〈支〉高〈支〉広〈支〉厚〈支〉大命〈乎〉受賜〈利〉恐〈弖〉(後略)」、持統を指して「天皇命」(スメラミコト)と見え、また慶雲4年4月壬午(15日)のやはり文武の宣命にも「(前略)又難波大宮御宇掛〈母〉畏〈支〉天皇命〈乃〉汝父藤原大臣〈乃〉仕奉〈賈流〉状〈乎婆〉。建内宿禰命〈乃〉仕奉〈覃流〉事〈止〉同事〈叙止〉勅而治賜慈賜〈賈利〉(後略)」、孝徳を指して「天皇命」と見えますが、これら宣命には同じ文中でたとえば自称の「天皇」をただ「スメラ」と読ませている例があるようなので、それを意識して「スメラミコト」と読ませたいために「天皇命」表記としたもののようにも思えます。だとすれば、これら「大皇后天皇」「御祖大皇后」「大皇后」についても「皇后」の「キサキ」に「大」を付けて「オホキサキ」と読ませようとしたもの、そう素直に発音の面から考えていい例のように思われるのです。そうすると『日本霊異記』上巻第25の「大后天皇」、あるいは『懐風藻』釈智蔵伝のやはり持統を指す「太后天皇」の「大后」「太后」についてもまた「オホキサキ」と読んだもののように思えます。また逆にいえば、「皇后」の読みは当時「キサキ」だったように思われますから、天平元年8月壬午(24日)の光明立后の宣命の「皇后」に見える「オホキサキ」の読み、またその直前の「藤原夫人」の「フヂハラノキサキ」の読みのほうは疑問に思えてくるのです。
このように見てまいりますと『日本書紀』天智6年2月戊午(27日)の斉明を指すらしい「皇太后天皇」が気になります。この「皇太后天皇」について古典文学大系には「おほきさきのすめらみこと」の読みが見え、実際そのように呼ばれていた可能性も高いものと思っていますが、天智の時代に「皇太后」の表記があったかどうか。もっとも舒明の殯では代読を立てず16歳で自ら「誄」した天智ですから、この際も紙などに書かれた文を読み上げるのではなく、頭の中で構成し丸暗記した文を述べたものかと思っております。そもそもその言葉に対応する表記というものはもともと存在しなかったのかもしれません。だとすれば誰かによって聞き伝えられたその言葉が「○○○○」と記録され、『日本書紀』では「皇太后天皇」と表記されることになった、そういったことでしょうか。しかし……陵前で天智が「我奉皇太后天皇之所勅、憂恤万民之故、不起石槨之役」と述べているその石槨で「天豊財重日足姫天皇」のおそらく隣に合葬されていたのは「間人皇女」でした。天智4年2月丁酉(25日)や3月癸卯朔(1日)では「間人大后」だったのに。
この「間人大后」の「大后」の読みは古典文学大系には「おほきさき」と見えますが、実際にはどうだったのでしょうか。『万葉集』には間人の名は見えず、そのかわり「中皇命」という称が見えているもののように感じられます。
『万葉集』の「中皇命」、また『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「仲天皇」などについては既に言い尽くされているのかもしれませんが、決定的な結論は出ていないように思われます。「中皇命」を何と読むかについても問題のようで、たとえば『日本古代史大辞典』(大和書房)では「中皇命」について「なかつすめらみこと」でなく「なかつみこのみこと」の読みで項目が立てられており、そこでは川崎晃さんが「長屋王家木簡例から「中皇命」をナカツミコノミコトと訓む説が有力となり、新たに間人皇女、中大兄皇子に比定する説が出されている」と記しておられます。ウェブで見ましたところによれば、東野治之さんのご見解が「ナカツミコノミコト」と読んで中大兄に比定されているものなのではないかと思われるのですが、まことに恐縮ながら論文を拝読しておりません。長屋王家木簡についてもどういった例なのか存じません。
たまたま拝読させていただいておりますところで挙げさせていただきますと、井上光貞さんは「古代の女帝」の「女帝の称号」と題する項の中で「中皇命」について「実のところ、この問題は、『万葉集』にみえる中皇命についての断案がないと解決しがたいのであり、私には今、その力がないので、右の考えも、後考にゆだねたいのである」と記され、「中皇命」が誰かという判断は保留しておられます。
こういった引用のしかたはよくないのかもしれません。と申しますのも「古代の女帝」の「女帝の称号」における井上さんの焦点は「中皇命」の人物比定よりも、むしろ当時の女帝の「タイトル」として「大后天皇」(『懐風藻』釈智蔵伝の「太后天皇」・『日本霊異記』上巻第25の「大后天皇」・第26の「大皇后天皇」)や「中宮天皇」(野中寺弥勒像銘)、さらに「中天皇、またはそれに準ずる称号」として『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「仲天皇」などを列挙されたうえで、それら称号の意味・性格を考察することに主眼があるもののように思われるからです。もちろん各称号についてはそれが誰に相当するのかもご見解を示しておられまして、『懐風藻』釈智蔵伝の「太后天皇」については持統と見る通説に加えて天智皇后の倭姫とされた喜田貞吉さんのご見解を「一説」として示しておられますし、『日本霊異記』上巻第25の「大后天皇」・第26の「大皇后天皇」は持統、野中寺弥勒像銘の「中宮天皇」は斉明と見ておられます。『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「仲天皇」については、『大日本古文書』の持統説、喜田貞吉さんの倭姫説、土屋文明さん・田中卓さんの間人皇女説を列挙され、また『続日本紀』神護景雲3年10月乙未朔(1日)の称徳の宣命に見える「中〈都〉天皇」を宣長の『歴朝詔詞解』どおり元正と見るなどされたうえで、最終的には「倭姫説が最も自然である」としておられます。
そして「中皇命」については「『万葉集』の中皇命は、果して天皇かどうかも疑問とすべきだとおもう」「中天皇は中皇命とは別に扱うべきである」などとして「中皇命」でなく「中天皇」についての考察を進められ、最後のほうで「……中皇命についての断案がないと……後考に……」と記しておられるのです。井上さんの「中天皇」に対するご見解には「女帝の即位がいわば権宜の処置」「中つぎの天皇」といった記述も見えますが、ここでは詳細は引きません。ともかく『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「仲天皇」と『万葉集』の「中皇命」とを別々に切り離し、「中皇命」については「天皇かどうかも疑問」としておられるもののようです。で、「中皇命」について「断案がない」とされているようでありながら『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「仲天皇」については「倭姫説が最も自然」と見ておられるということは、「中皇命」は斉明でも倭姫でも持統でもないということでしょうから、結局は間人皇女の可能性が最も高かった、そのように見ておられたのではないかなどとも考えたくなります。うがちすぎでしょうか。ともかく「古代の女帝」には「中皇命」が誰かとの言及はないようです。
ほかにも多くの方が「中皇命」について言及されているようで、先にも触れております小林敏男さんの『古代女帝の世紀』の「中天皇について」にも数多くの方の論文等が挙がっているのですが、残念ながらというか恐縮ながらというか、当然のように拝読しておりません。その「中天皇について」から引かせていただきますと、喜田さんや井上さんのご見解も引きながら論を展開しておられます。こちらは論点も多岐なら引用も膨大でとても論旨を要約できるようなものではないのですが、(A)『万葉集』3(舒明代)題詞の「中皇命」(B)『万葉集』10−12(斉明代)題詞の「中皇命」(C)野中寺弥勒像銘の「中宮天皇」(D)『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の「仲天皇」(E)『続日本紀』神護景雲3年10月乙未朔宣命の「中〈都〉天皇」(F)薬師寺東塔檫銘の「中宮」、のそれぞれから考察を詰めていくという形をとっておられます。そして(A)(B)の『万葉集』の「中皇命」については、「(A)(B)とも斉明」「(A)(B)とも間人」「(A)斉明(B)倭姫」の3説に絞ったうえで、「中皇命」については田中卓さんのご見解を引いて固有名詞とされ、また(A)(B)を同一人と見て(A)斉明(B)倭姫説を否定され、また井上さんと異なり中天皇も中皇命もナカツスメラミコトとして同一のものと見、さらに「中」の語義の検討から最終的に(A)(B)とも間人とする見解を採っておられます。なお「中」の語義の検討においても(1)中継ぎ(2)2番目(3)神と人の間(4)中宮(5)ウチツスメラミコトと解し内裏・禁中などの「内」とみる(6)天智と天武の中間(7)地名、といった諸説を引いたうえで、宣長の『歴朝詔詞解』の(2)2番目説を採っておられます。
なお「中天皇について」にはたとえば「兄と妹の血縁的紐帯の強さは沖縄・奄美のオナリ神信仰に近似している。ウナリ(妹)がエケリ(兄)の霊的保護者として顕現しているように(後略)」といった民俗学的な観点からの考察もあって、私などにはそもそもそこに引かれた参考文献を読むこともできなければ理解することもできないのですが、それでも「中皇命」を間人皇女とされる結論には従わせていただきたく思います。不適切な引用等多いことと思われますので、原典でご覧いただきたく存じます。
私ごときが「中皇命」「仲天皇」について何かを申せるものでもありませんが、これらを間人皇女と見た場合、6年余にわたる天智の長い「称制」や、『日本書紀』に見えない「中皇命」の称について『万葉集』が説明も加えないままただ「中皇命」とのみ、あたかも自明のことのように表記していることを説明しやすくなるように思うのです。
『万葉集』巻1の「後岡本宮御宇天皇代」(=斉明代)の「中皇命」の歌は、「後岡本宮御宇天皇代」に8から15まで8首見えているうちの10・11・12の3首です。斉明代の内訳は、8が額田王作とされる「熟田津に……」の歌、9が同じ額田王の「莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣……」の歌で、10−12が「中皇命」の歌です(なお8の左注と12の左注にはそれぞれ山上憶良が『類聚歌林』で「天皇御製」=斉明作としている旨見えています。10・11・12の3首が「中皇命」の歌とされているのに12の左注には単に「右、検山上憶良大夫類聚歌林曰、天皇御製歌云々」としかなく、これでは3首全部を「天皇御製歌」と見ていたのか12の1首のみなのかわかりません。中西進さんの『万葉集(一)』ではこの左注に注して「一二の一首をさす」としておられます)。
そして13の長歌が「香具山は 畝火ををしと……」で著名な「中大兄〈近江宮御宇天皇〉三山歌一首」で、14・15がその反歌となっています。
15については左注に「右一首歌、今案不似反歌也。但、旧本以此歌載於反歌。故今猶載此次」――右の1首はいま思うに反歌らしくない。しかし旧本に反歌としているのでここに載せる――などと見えており、続けて「亦紀曰、天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子」――また『日本書紀』には皇極4年乙巳に天皇(天智)を立てて皇太子としたとある――と見えています。あとのほうの記述は13・14・15の3首について、というよりも題詞の「中大兄〈近江宮御宇天皇〉」についての解説なのでしょうが、そんなことは言われなくても常識的にわかっていることではないでしょうか。
いや、現代の我々を基準に考えてはいけないのかもしれませんが、少なくとも『万葉集』の編者(の誰か)は『古事記』も『日本書紀』も同時に参照できたはずです。また『続日本紀』天平宝字元年12月壬子(9日、758年に入っていたようです。〓やはりソフト「when」によらせていただいています)には「(前略)乙巳以来。人々立功。各得封賞(中略)大織藤原内大臣乙巳年功田一百町。大功世々不絶(後略)」などと見えており、『家伝上』にも『日本書紀』孝徳紀と同じく「以中大兄為皇太子」と見えていますし、『上宮聖徳法王帝説』第4部にも「□皇御世乙巳年六月十一日近江天皇〈生廾一年〉煞於林太郎」などという形で見えているわけですから、『万葉集』が宝亀ごろ、770年ごろまでにだいたいの形がまとまったものと見れば、そのころにまだ『日本書紀』に記述された歴史の認知度が低くてこのような説明が必要だったなどとは思われません。これは天智の立太子の真偽いかんの話ではなく、乙巳の変とか天智の立太子といった情報が『万葉集』の時代にどの程度の層に、どの程度広範に認識されていたかといったレベルで考えております。また左注で天智の立太子についてわざわざ注することが「香具山は
畝火ををしと……」等の解釈に資するとも思われないのです。こんな「あらずもがな」の情報をなぜわざわざ左注に盛り込む必要があったのか……。実はこの疑問は、対し「なぜ『中皇命』については一言も解説してくれていないのか」という疑問と表裏一体のものとして引っ掛かっています。
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