6. 「大」「中」の称 − 3

 また横道にそれてしまいましたが、本来何を問題とすべきなのかと申しますと「大后」という存在のあり方です。また「大后」が「オホキサキ」なのか「キサキ」なのか……それによっては「大后」から離れて「オホキサキ」あるいは「キサキ」について考えなければならないといったことにもなるのでしょう。また不幸なことに、現代の日本語の感覚からすれば「后」で「キサキ」、「大后」で「オオキサキ」と読むのが自然な感じです。だから「大后」という字面を見て「タイコウ」と同時に先入観で「オオキサキ」と読んでしまう。しかしながら、後代でも一般的には「キサキ」といえば皇后・中宮といったあたりなのではないでしょうか。素人なのでわからないのですが、7世紀とか8世紀には平仮名・片仮名はなかったですから、「オホキサキ」なのか「キサキ」なのかが問題となるということは、『日本書紀』、また『続日本紀』の宣命などに「オホキサキ」「キサキ」といった後代の読み仮名が付されていることによるのでしょう。しかし岸さんの「光明立后の史的意義」でも「大后」の読みについては「二 皇后」の中で「「大后」は「オオキサキ」と訓み、それは天皇の后妃、すなわちキサキのうちでの最上者の意であろうといわれている」という形で触れられているだけのようで、そこに付された注(先に引用させていただきました「大后は、字の任に意富岐佐伎と訓べし……」です)で拝見しますと、それは『古事記伝』の見解によるもののようです。
 「光明立后の史的意義」での「大后」のとらえかたは基本的に令制の皇后の前身という形だと思われます。そしておそらく宣長もそれに近い線で論じているのではないかとうかがわれるのですが、これに対し、拝読しました範囲でこれと違ったとらえ方のご見解を挙げますと、たとえば山尾さんは「……皇后と違って……終身その地位にあり……」としておられるわけですから、それは令制の皇后とも皇太后とも違う存在、皇后から皇太后にまでまたがったような存在ということになるのでしょう。
 また小林さんの場合、複数ミメの中からの単独のキサキの成立と、そのキサキが政治に関与できるようになってオホキサキの成立という2段階を考えておられるようですが、「大后」を「きさき」、「前大后」を「おほきさき」とされる記述からすれば、「オホキサキ」をほぼ『日本書紀』の皇太后に、「キサキ」をほぼ皇后に相当するものとして見ておられるようにも思われます。
 仁藤さんのご見解は恐縮ながら私には複雑で難解に思われまして、正しく把握できていませんので引くことができません。おそらく「大后」を最有力のキサキと見て、最初はその最有力化の条件は実子の即位だったが、のちに(推古あたりから)「やがて王系の確立にともない、出自的に有力な現キサキ(嫡妻)や、しばしば「皇祖母」と表記される皇統譜上の母たる女性尊属(キサキでない実母、あるいは実母でない元キサキ)」にまで範囲が拡大されたもの、といったあたりかと思われるのですが、また「嶋皇祖母」「吉備嶋皇祖母」の「皇祖母」については「「皇太后(オオキサキ)」とは異なる「皇統譜上の御母」としての称号が必要とされたと考えられる」といった記述も見えますので、どうも私の理解が足りないように思われます。
 山アさんは「上代日本における「大后」の語義」で「現役の后の時代から既に天皇と同等の権威を持つ女性がおり、それがそのまま女帝的立場へ移行すると考えるべきであろう。現役の后の時代と現役でなくなった時代で、立場に大きな差がない(後略)」「天皇と同格の権威を持つ特別な后」という形で見ておられます。ということは、誤解があるかもしれませんが、特定の存在については配偶者である「天皇」の生前から「大后」で、没後もそのまま「大后」だと見ておられることになるのでしょう。
 こうざっくり言ってしまうと問題があるのかもしれませんが、令制でも「皇后」のほか「妃」「夫人」「嬪」など複数の配偶者があり、また天皇の没後、というより新帝の即位によってその生母が「皇太后」「皇太夫人」などとされたようです。令制の前、と申しますか「大后」の時代のその「大后」は、あるいは「オホキサキ」は、「キサキ」は、果たしてこれらのどれ(どれとどれ)に相当するのか、という問題になってくるように思われます。たとえば「妃」「夫人」「嬪」はみな「キサキ」で「皇后」が「オホキサキ」だったのか、それとも「妃」「夫人」「嬪」はみな「ミメ」で「皇后」が基本的に「キサキ」、「オホキサキ」はどちらかといえばむしろ「皇太后」に近いということなのか、それともある存在は「キサキ」であり、またある存在は最初からずっと「オホキサキ」だったのか。こういったくくり方はよくないのかもしれず、またどなたもこういう言い方はしておられないのですが、誤解の恐れがあってもこのような言い方をしていただかないと私のような頭の悪い素人にはわからない部分があります。

 記紀等に見える「大后」表記の例は岸さんの「光明立后の史的意義」の注や仁藤さんの『女帝の世紀』等に挙がっていますが、実は山アさんが「上代日本における「大后」の語義」で挙げておられますものが詳細です。ですから同氏のPDFの論文を見ていただくのが適切なのですが、話の都合からまことに恐縮ながら、岸さんの「光明立后の史的意義」の注等を参考に個人的に抜き出していたものをそのまま掲げておきます。なお遺漏が多かったので山アさん論文から補わせていただいているのですが、引用箇所や配列の順序等は異なります。出典については『古事記』は日本思想大系に、『日本霊異記』は新日本古典文学大系によりました。また『古事記』仁徳段の石之比売命を指す「大后」は初出以外省略しました。
 『古事記』では「皇后」の例はほとんどなく(仲哀段分注の「皇后御年一百歳崩。葬于狭城楯列陵也」、安康段の「故、天皇大怒、殺大日下王而、取持来其王之嫡妻、長田大郎女、為皇后」、清寧段の「此天皇、無皇后、亦無御子」の3例のみ)、かわりに「大后」が多用されているのですが、『日本書紀』と異なり配偶者は「娶○○生御子○○……」といった形で表現されるため、后妃・所生子の記載に見える「大后」表記は次に挙げます3例のみのようです。

  • 「又、娶息長帯比売命、〈是大后。〉生御子、品夜和気命。次、大鞆和気命。亦名品陀和気命。〈二柱。〉(後略)」(仲哀段)
  • 「此天皇、娶葛城之曾都毗(〔田比〕)古之女、石之日売命、〈大后。〉生御子、大江之伊耶本和気命。次、墨江之中津王。次、蝮之水歯別命。次、男浅津間若子宿禰命。〈四柱。〉」(仁徳段)
  • 「又、娶意祁天皇之御子、手白髪命、〈是大后。〉生御子、天国押波流岐広庭命。〈波流岐三字以音。一柱。〉」(継体段)


 それ以外のものとしては、以下のような例があるようです。

  • 「(前略)然、更求為大后之美人時、大久米命白、此間有媛女(後略)」(神武段)
  • 「尓、多遅摩毛理、分縵四縵・矛四矛、献于大后、以縵四縵・矛四矛、献置天皇之御陵戸而、フ其木実、叫哭以、白常世国之登岐士玖能迦玖能木実、持参上侍、遂叫哭死也」「又、其大后比婆須比売命之時、定石祝作、又、定土師部」(垂仁段。大后は「比婆須比売命」)
  • 「其大后息長帯日売命者、当時帰神。(中略)於是、大后帰神、言教覚詔者(後略)」(仲哀段)
  • 「其大后石之日売命、甚多嫉妬」(仁徳段。以下仁徳段に同様の「大后」多数)
  • 「(前略)天皇辞而詔之、我者有一長病。不得所知日継。然、大后始而諸卿等、因堅奏而、乃治天下」「又、為木梨之軽太子御名代、定軽部、為大后御名代、定刑部、為大后之弟、田井中比売御名代、定河部也」(允恭段。大后は「忍坂之大中津比売命」)
  • 「自此以後、天皇坐神牀而昼寝。尓、語其后曰、汝有所思乎。答曰、被天皇之敦沢、何有所思。於是、其大后之先子、目弱王、是年七歳。是王当于其時而、遊其殿下。尓、天皇、不知其少王遊殿下以詔大后言、吾恒有所思(後略)」(安康段。大后は「長田大郎女」)
  • 「初、大后坐日下之時、自日下之直越道、幸行河内」「尓、大后歌。其歌曰(後略)」(雄略段。大后は「若日下部王」)


 こういったところが挙げられるようです(なお「尓」は「爾」字だと思われますが字体は「尓」ではありません)。なお『古事記』で「大后」「皇后」の読みを問題とするのは当たらないのかもしれませんが、これら「大后」「皇后」については日本思想大系『古事記』ではみな「おほきさき」の読みを付しておられるようです。

 いっぽう『日本書紀』は「大后」をほとんど用いていません。

  • 「四年春二月癸酉朔丁酉、間人大后薨」(天智42月丁酉=25日)
  • 「三月癸卯朔、為間人大后、度三百卅人」(天智43月癸卯朔=1日)
  • 「於是、再拝称疾固辞、不受曰、請奉洪業、付属大后。令大友王、奉宣諸政。臣請願、奉為天皇、出家脩道」(天智1010月庚辰=17日、天武の返答。大后は天智皇后の倭姫王)


 ほかに継体612月、四県併合を百済に認める勅を百済使に伝えようとした物部麁鹿火(あらかひ)を止める妻の言葉に「(前略)故大后息長足姫尊、与大臣武内宿禰、毎国初置官家、為海表之蕃屏、其来尚矣」などと見えており、これらの「大后」については、読みの見えるものではどれも「おほきさき」となっています。
 これに対し、雄略20年冬条(本来は乙卯年≒475年の冬に高句麗が百済を攻め、蓋鹵王が没した事件。『日本書紀』は雄略2021年に載せるが、雄略20年は丙辰≒476年となる計算)の分注に「百済記云、蓋鹵王乙卯年冬、狛大軍来、攻大城七日七夜。王城降陥、遂失尉礼。国王及大后、王子等、皆没敵手」と見えるのですが、こちらは『百済記』から引用された百済での事件であり、「大后」の読みも「こにおるく」となっていて、古典文学大系の注では「正夫人。コニは大、オルクは夫人・妻の意。コキシ・セシムと同じく古代朝鮮語」と見えます。
 こうして見ますと、天智10年の倭姫王を指す例と継体612月の神功を指す例は会話文の中に見えるものであって、「口に言語」ということになりそうであり、あるいは筆者もそれを意識していたのかもしれません。もっとも天智1010月庚辰のおそらく同じ天武の発言について、天武紀上のほうは「皇后」としています。
 『日本書紀』では「尊皇后曰皇太后」の「皇太后」を「おほきさき」と読ませていること、清寧紀の「尊葛城韓媛為皇太夫人」、推古紀の「二月辛亥朔庚午、改葬皇太夫人堅塩媛於檜隈大陵」の「皇太夫人」に「おほきさき」の読みがあることは既に申しました。なお反正紀元年8月に「秋八月甲辰朔己酉、立大宅臣木事之女津野媛、為皇夫人」とありますが、この「皇夫人」については古典文学大系には「きさき」の読みが見えます。

 天寿国繍帳銘には「大后」が4カ所見えており、堅塩媛を指すものが2カ所(2番目のものは「大后弟名乎阿尼乃弥己等」として見える)、あとは推古と穴穂部間人です。また法隆寺金堂釈迦三尊像銘に穴穂部間人を指すらしい「(鬼前)太后」が見えています。ただこれらは即位していない人(廐戸)の配偶者も「后」としているものです(繍帳銘では「多至波奈大女郎」が「后」、釈迦三尊像銘ではおそらく菩岐岐美郎女が「干食王后」)。これら繍帳銘や釈迦三尊銘の「大后」(太后)や「后」の用例は少々特殊な印象で、廐戸を即位したものと見るならともかく、記紀の「大后」「后」とは区別して考えたほうがよいのかもしれません。当時は日本語の文章の……といいますか、和文表記の模索期にあったのではないでしょうか。まだ「公文書」は存在せず、「帝紀」「旧辞」なども含めてどの文書も「私文書」だったのでしょう。集団ごとに文や語の表記が異なっていたとしても不思議でないし、また同じ表記の語でも集団により異なった意味で用いられていた、語義が違っていたというケースの可能性も考えられるように思うのです。
 『上宮聖徳法王帝説』第1部冒頭の配偶者・所生子の記載にも穴穂部間人を「大后」とする記載が見えます(「伊波礼池邊双欟宮治天下橘豊日天皇娶庶妹穴穂部間人王為大后生児廐戸豊聡耳聖徳法王」。なお「妹穴穂部間」は後筆)。これは「大后」を「皇后」の前身と見て素直に通りそうな文ですが、「娶○○為大后」の体裁は『古事記』よりむしろ繍帳銘に近いものです。そしてまた第2部には「池邊天皇后、穴太部間人王、出於廐戸之時、忽産生上宮王(後略)」とも見えるようです。
 なおこのほか『上宮聖徳法王帝説』には釈迦三尊像銘の解説で「鬼前大后」の語が繰り返されており、またそのあとにも同じ銘文の「随奉三主」の「三主」について解説して「三主者、若疑神前大后、上宮聖王膳夫人、合此三所也」などと見えています。
 『元興寺縁起』の縁起部分に5カ所見える「大后」の例はいずれも「大后大々王」で推古を指すものであり、敏達・用明・崇峻の治世における推古の表記が「大后大々王」となっています(欽明没までは「大々王」、即位後は「大々王天皇(命)」)。ですからこの「大后」は『日本書紀』用明紀の「炊屋姫皇后」、また『日本霊異記』上巻第5の「皇后」などと近い印象があります。

 『万葉集』の「大后」(太后)表記は、「光明立后の史的意義」の注では巻12に見える例が挙がっています。

  • 「右、検山上憶良大夫類聚歌林曰、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇大后、幸于伊予湯宮。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西征始就于海路。庚戌、御船、泊于伊予熟田津石湯行宮。天皇、御覧昔日猶存之物。当時忽起感愛之情。所以因製歌詠為之哀傷也。即此歌者天皇御製焉。但、額田王歌者別有四首」(巻18、額田王作とされる「熟田津に……」の左注。「天皇大后」は舒明と皇后の宝皇女=皇極)
  • 「天皇聖躬不予之時、太后奉御歌一首」(巻2、挽歌・天智朝の147、倭姫王の歌の題詞)
  • 「一書曰、近江天皇、聖躰不予御病急時、太后奉献御歌一首」(巻2、挽歌・天智朝の148、倭姫王の歌の題詞)
  • 「天皇崩後之時、倭大后御作歌一首」(巻2、挽歌・天智朝の149、倭姫王の歌の題詞)
  • 「太后御歌一首」(巻2、挽歌・天智朝の153、倭姫王の長歌の題詞)
  • 「天皇崩之時、太后御作歌一首」(巻2、挽歌・天武朝の159、持統の長歌の題詞。なお続く160161の題詞には「一書曰、天皇崩之時、太上天皇御製歌二首」)


 山アさんの「上代日本における「大后」の語義」で拝見したところ、さらに以下の例を挙げておられました。

  • 「春日祭神之日、藤原太后御作歌一首。即賜入唐大使藤原朝臣清河」(巻194240、光明皇后が遣唐大使藤原清河にたまわった歌の題詞。天平勝宝3年ごろのもののようです)
  • 「天皇大后共幸於大納言藤原家之日、黄葉沢蘭一株抜取令持内侍佐々貴山君、遣賜大納言藤原卿并陪従大夫等御作一首」(巻194268、その「内侍佐々貴山君」の歌らしい「この里は継ぎて霜や置く……」の題詞。「天皇」は孝謙、「大后」は光明)
  • 「天平勝宝八歳丙申二月朔乙酉廿四日戊申太上天皇大后幸行於河内離宮、経信以壬子伝幸於難波宮也。三月七日於河内国伎人郷馬国人之家宴歌三首」(巻2044574459。「太上天皇」は聖武、「大后」は光明のようで、なお「上代日本における「大后」の語義」によればこの部分は複数の異本があるようですが、「大后」は光明と見て問題ないようです)


 『万葉集』の「大后」(太后)表記がこれで全部だとすると、『万葉集』では「大后」は皇極・倭姫王・持統・光明皇后(皇太后)の4人を指すものしか見えないことになります。巻2の分については147148149153の倭姫王の歌、159の持統の歌はそれぞれ「近江大津宮御宇天皇代」・「明日香清御原宮御宇天皇代」の標目の歌ですから「大后」(太后)のみでも誰を指すのかわかります。その中で149の題詞がわざわざ「倭大后」としているのがむしろ奇妙な印象ですが、そういった意味では159の次の160161の題詞(「一書曰、天皇崩之時、太上天皇御製歌二首」)も違和感のあるものです。これも159の題詞と同じことを言っているわけですから「天皇」は天武、「太上天皇」は持統を指すわけですが、続く162163の間に見える163227の標目「藤原宮御宇天皇代」の分注に「高天原広野姫天皇、天皇元年丁亥、十一年譲位軽太子、尊号曰太上天皇」などと見える(ただしこの分注がない写本もあるようですが)ことによってもわかるように、持統の「太上天皇」号は孫の文武に譲位したのちのもののはず。160161の出典となった「一書」では持統について言うのに最終的な地位の「太上天皇」の称で代表させたということになるのでしょう。『万葉集』巻2の撰者は個人の表記がばらつくことには目をつむって出典の表記を尊重したのかもしれません。となりますと149の「倭大后」もまた出典の表記を尊重したものという可能性もあるでしょうか。
 8のほうは斉明7年の「百済之役」で筑紫に赴く途上愛媛県松山市付近で歌われたという有名な「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」の歌の左注ですが、山上憶良の『類聚歌林』からの引用の中に「天皇皇后」でなく「天皇大后」という使い方が見えます。最初に憶良の『類聚歌林』からの引用として「舒明9年(≒637年)の『十二月己巳朔壬午』に『天皇大后』(舒明と皇極)が伊予湯宮に行幸された」としていますが、まずこの年代が問題で、実は舒明11年(≒639年)のことのようです。「十二月己巳朔壬午」の日付は『日本書紀』舒明11年に「十二月己巳朔壬午、幸于伊予温湯宮」とあるのと合いますし、56の「軍王」の歌の左注でも『類聚歌林』からの引用として同じ事実を「十一年己亥」と伝えているからです(なお「軍王」については56の左注にも「亦軍王未詳也」と見えていますが、青木和夫さんは余豊璋にあてて考えておられたそうです。新日本古典文学大系『万葉集 二』の月報の青木さんの「万葉集百姓読み」で知りました)。ですから「九年丁酉十二月己巳朔壬午」は56の左注の「十一年己亥冬十二月己巳朔壬午」となるべきところと思われますが、憶良の勘違いなのか異伝があったのかよくわかりません。ともかく「舒明9年」に舒明と皇極が「伊予湯宮」に行ったと記したのち、斉明7年(≒661年)正月14日に「西征」の船が伊予の熟田津の「石湯行宮」に泊まった、その際「天皇」(=斉明)は「昔日」からまだ残っているものを見て「感愛」の情を起こしこの歌を作って「哀傷」した、などとしています。ここまでが『類聚歌林』からの引用のようで、そして「だからこの歌は天皇の御製である。ただし額田王の歌は別に四首ある」などという不可解な結び方で終わっています。「天皇大后」と並べて称するのも違和感のある表現ですが、実は『続日本紀』天平宝字元年7月戊申(2日)の光明皇太后の宣命が「汝たち諸は、吾が近き姪(をひ)なり。また豎子卿等(わらはまへつぎみたち)は天皇が大命以て、汝たちを召して屢(しばしば)詔りたまひしく、朕が後に太后に能く仕へ奉り助け奉れと詔りたまひき(後略)」(「汝〈多知〉諸者吾近姪〈奈利〉。又豎子卿等者 天皇大命以汝〈多知乎〉召而屢 詔〈志久〉。朕後〈尓〉太后〈尓〉能仕奉〈利〉助奉〈礼止〉詔〈伎〉」)、「天皇」と「大后」を対にしているのに近い印象を覚えます。
 謎といえばその次の9も「莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣……」で始まる額田王の歌で、この部分は解釈に諸説あるも現在なお解読不能のもののようです。それはともかく、8の歌は左注によれば憶良の『類聚歌林』では斉明の作となっていたようですが、『万葉集』はそれをそのまま引きながら題詞では「額田王歌」としているわけです。同様のことは101112の「中皇命」の歌にも言えて、やはり左注では「憶良の『類聚歌林』では天皇御製歌とある」としながら題詞では「中皇命」が紀の温泉に行った際の「御歌」としています。
 これだけを見ますと『万葉集』は「皇后」表記よりもむしろ「大后」表記を採っていたようにも見え、またそれは出典の表記によっただけのことで『万葉集』編者の意図ではないようにも見えます。では『万葉集』巻12に「皇后」表記がないのかといえば、たとえば巻2冒頭の8588の歌の題詞には「磐姫皇后思天皇御作歌四首」とあり、また先にも触れましたが90の歌のあとの左注にもやはり『日本書紀』を引いて磐之媛を「皇后」と表記しており、これも出典の表記を尊重したものという可能性が高いように思われます。ただ85の左注には「右一首歌、山上憶良臣類聚歌林載焉」とあり、これも原典に忠実な表記だとしますと、結局山上憶良の『類聚歌林』が「皇后」も「大后」も交えて使っていたということになるのかもしれません。しかも時代的には古い磐之媛を「皇后」とし、新しい皇極は「大后」としたことになります。

 まとまりがつかなくなりましたが、次に『釈日本紀』『万葉集註釈』所引『伊予国風土記』逸文を見ます(秋本吉郎さん校注の古典文学大系『風土記』によりましたが、『釈日本紀』と『万葉集註釈』とで引用部分に出入りがある旨断りがあります。東洋文庫『風土記』の吉野裕さんの訳では『釈日本紀』『万葉集註釈』各1項ずつに分けておられます)。
 これは聖徳太子の「湯岡碑文」で著名なものですが、長いので全文を引用するわけにいきません。「大后」の語は「以大帯日子天皇与大后八坂入姫命二軀為一度也 以帯中日子天皇与大后息長帯姫命二軀為一度也」、景行の「八坂入姫命」と仲哀の「息長帯姫命」について「大后」と見えています。大要としては「湯の郡。大穴持命(おほなもちのみこと)が宿奈毗(偏「田」旁「比」の〔田比〕、「毘」の異体字)古那命(すくなびこなのみこと)を生き返らせたく思い、大分の速見の湯(別府温泉)から下樋(暗渠)を通して温泉を引き宿奈毗(〔田比〕)古奈命を漬けたところ生き返り、『しばらく眠っていた』といって足踏みした、その足跡がいまも湯の中の石に残っている。神代ばかりでなくいまの人々も病気をいやす薬としている。天皇等の行幸は5度。大帯日子天皇(景行)と大后八坂入姫命の2軀(はしら)を1度とし、帯中日子天皇(仲哀)と大后息長帯姫命の2軀を1度とする。上宮聖徳皇(『釈日本紀』「上宮聖徳皇」、『万葉集註釈』「上宮聖徳皇子」)を1度とする。お供は高麗の恵慈の僧、葛城臣らだった。湯の岡のかたわらに碑文を立てた。その場所を伊社邇波(いさには)の岡という。当地の人々が誘い合って見に来るからだ」などとあって、以下碑の銘文(「法興六年十月 歳在丙辰……」)が引用されていますが省略します。そして碑銘のあとに「以岡本天皇并皇后二軀 為一度 于時 於大殿戸 有椹与臣木 於其木 集止鵤与此米鳥 天皇為此鳥 枝繋穂等 養賜也 以後岡本天皇 近江大津宮御宇天皇 浄御原宮御宇天皇三軀 為一度 此謂幸行五度也」――岡本天皇(舒明)と皇后の2軀を1度とする。このとき大殿の戸のところに「椹」(むく、ムクノキ)と「臣木」(おみのき、モミか)があり、その木に「鵤」(いかるが、イカル)と「此米鳥」(しめどり、シメ)とが集まったので、天皇は枝に稲穂を掛けて養われた。後岡本天皇(斉明)・近江大津宮御宇天皇(天智)・浄御原宮御宇天皇(天武)の3軀を1度とする。これで行幸を5度という――と記しています。このうち「伊社邇波之岡」の名の由来と「于時於大殿戸……天皇為此鳥枝繋穂等養賜也」の鳥を養ったくだりは『釈日本紀』になく『万葉集註釈』のみに見えるもののようで、逆に『万葉集註釈』には冒頭の大穴持命による宿奈毗(〔田比〕)古那命の蘇生のくだりと湯岡碑文の引用とがないようです。
 なお『万葉集』巻3322の山部赤人の歌が「至伊予温泉作歌一首」で、『万葉集註釈』における『伊予国風土記』の引用というのはどうやらこの歌の解説に付けられたもののようなのですが、歌の中に「辞思為師」(古典文学大系が「辞(こと)思はしし」、中西さんの『万葉集(一)』が「辞(こと)思(しの)ひせし」、新日本古典文学大系が「辞(こと)思ほしし」)と見える「辞」が例の碑銘のことなのか残念ながらわかりません。この反歌の3238の額田王の歌を意識したもののようです。なお『万葉集』巻133239の歌にも「伊加流我」「比米」の鳥が見えますが、こちらは鳥をおとりにトリモチで鳥を捕ろう(としているのに、父母が捕られようとしているのも知らずおとりが戯れている)という歌です。
 この舒明と皇后の鳥にまつわるエピソードが『万葉集』巻156の軍王の歌の左注に引く「一書」の記述(「一書(云)、是時宮前在二樹木。此之二樹斑鳩比米二鳥大集。時勅多挂稲穂而養之。仍作歌云々」)と共通する内容であることは『万葉集』『風土記』どちらの注にも言及があります。表記が微妙に異なるためなのか、どちらも慎重に「出典は同じ『伊予国風土記』である」などと断定することは避けておられますが、同じエピソードに由来するものであることは認められるでしょう。
 これから注目したいのはこのエピソードそのものではなくて、『万葉集』『伊予国風土記』逸文それぞれの「大后」「皇后」の用例です。『伊予国風土記』では大帯日子天皇(景行)皇后の「八坂入姫命」と帯中日子天皇(仲哀)皇后の「息長帯姫命」を「大后」とし、舒明皇后の皇極は「皇后」としています。古いほうが「大后」で新しいほうが「皇后」となっているわけですが、『万葉集』巻12では皇極・倭姫王・持統を「大后」とするいっぽう磐之媛を「皇后」としており、『伊予国風土記』逸文とは逆に古いほうを「皇后」、新しいほうを「大后」としていることになります。いや、これは『万葉集』の見解というよりはむしろ憶良の『類聚歌林』での表記の反映と見たほうがよいのかもしれません。

 『懐風藻』釈智蔵伝には「太后天皇」の語が見えます。これについては通説的には持統とされているようですが、喜田貞吉さんは「中天皇考」の中でこれを倭姫と見ておられるのだそうです。井上光貞さんの「古代の女帝」で知りました。
 『日本霊異記』上巻第25では持統について「大后天皇」としていますが、次の上巻第26にはやはり持統を指して「大皇后天皇」とする表記が見えています。さらに下巻第38には「其天皇之大后同諾楽宮坐時(後略)」「然而彼帝姫阿倍天皇並大后御世之天平勝宝九年八月十八日、改為天平宝字元年」「又同大后坐時(後略)」「又同大后時(後略)」など、光明皇太后を指すものと思われる「大后」が集中して見えています。
 『続日本紀』に見える「太后」の例(天平勝宝元年12月丁亥=27日の大仏の前で八幡大神に一品をたてまつる記事、橘奈良麻呂の変関係の記事で天平宝字元年6月甲辰=28日の佐伯全成の勘問に絡む記事、同7月戊申=2日の光明皇太后自身の宣命文中の聖武の遺詔の引用、同己酉=3日の光明皇太后自身の宣命、天平宝字46月乙丑=7日の光明没)はいずれも光明皇太后を指すもののようです。『日本霊異記』下巻第38の「大后」はこの『続日本紀』の「太后」と重なってくるもののようにも思われます。
 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』にも皇極を、といいますか舒明皇后を「大后尊」と表記する記述があるようです。ウェブで入手した群書類従本の画像によっていますので、本により表記も違うのかもしれませんし、また後ろめたい気持ちもありますが、その部分の大要を示しますと――舒明11年の2月に百済川のほとりの子部社を切り開いて寺とし九重塔を建て、封戸300を与えて「百済大寺」と号した。ところが社神の怒りで失火し、「九重塔并金堂石鴟尾」も「焼破」してしまった。天皇は臨終に際し「大后尊」に「此寺如意造建。此事為事給耳」(この寺を意のごとく建造することを成し遂げるよう願うのみだ、とでもいった意味でしょうか)と勅した(「天皇将崩賜時。勅大后尊〈久〉。此寺如意造建。此事為事給耳」)――などとなっているようです。この直後では皇極が「後岡基宮御宇天皇」と見えていて「寺を造った、寺司に阿倍倉橋麻呂と穂積百足を任じた」などとありますが、さらにその直後では、「天皇」が「筑紫(志イ)朝倉宮」で臨終の際に「この寺を誰に授けてきたかと先帝に尋ねられたら何と答えたらよいか」と心配するので、「近江宮御宇天皇」(天智)が「開〈伊〉髻墨〓(左「夾」右「刂」(りっとう)の〔夾刂〕)〔〈乎〉〓(〔夾刂〕)〕肩負鋸腰〓(〔夾刂〕)斧奉為」(わからないのですが「自ら建築の仕事をして完成させる」といった意味でしょうか)と奏し、また「仲天皇」も「妾〈毛〉我妋等炊女而奉造」(これもわからないのですが「私も妋とともに炊飯して手伝う」といった意味でしょうか)と奏した、それを聞いて斉明は手を打って喜び臨終を迎えた……などとなっているようです。私自身よくわかっていなくて恐縮なのですが、ともかく、「仲天皇」や推古の「太帝天皇」「太皇天皇」が見える『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』にはまた「大后尊」の表記も見えています。


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