6. 「大」「中」の称
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「大后」は一般的には皇后の前身という形でとらえられているものと思われます。岸俊男さんの「光明立后の史的意義」を拝見したところでは、既に本居宣長に「大后」についての言及が見えるようで、同論文の注の中で『古事記伝』における宣長の「大后」についての見解を引用しておられます。そっくりの引用となってしまい恐縮ながら引用させていただきますと、「大后は、字の任に意富岐佐伎と訓べし、後世の皇后なり、古は天皇の大御妻等を后と申て、其中の最上なる一柱を、殊に尊みて大后とは申せし……然るを萬の御制漢国のにならひ賜ふ御代となりては、正しき文書などには、当代のをば皇后、先代のを皇大后と書るゝことゝなれり、されど口に言語、又うちとけたる文などには、奈良のころまでもなほ古の随に、当代のを大后、先の御代のをば大御祖と申せるを、……其後遂に常の語にも、当代の嫡后をばたゞ后と申し、大御母を大后と申すことにはなれるぞかし」。そして岸さんご自身はこの見解を大方受け入れておられるらしいのか、とくに異論を呈してはおられないようです。
「光明立后の史的意義」で岸さんは大后の制の開始を「推古朝に近い時期」と想定される一方で「五世紀中ごろから多くの后妃の中から一人――とくに皇族の者――が大后のような地位にあったと考えた方がよいのかも知れない」などともされ、また従来名代・子代といった形をとっていた后妃・皇子の経済的基礎が敏達−推古朝ごろに私部(「キサイベ」・「キサイチベ」)・壬生部に固定化してくることを指摘されており、さらに「皇后」の称号や妃・夫人・嬪・宮人の区別、皇太后・皇太夫人などの称の開始については「ほぼ天智末年か天武初年ごろ」と見ておられるようです。少々意外な感じですが、「光明立后の史的意義」では実は「大后」の始まった時期とその名称が「皇后」にかわっていった時期についてが主眼のようであり、「大后」の実体については、ほぼ令制の皇后に近いものを想定しておられるように拝察するのですが、実際にどう異なるのかはあまり問題とされていないように見えます。
宣長の見解よりすれば――「大后」は皇后とほぼ同じもので、複数の「后」、キサキの中で最上位を「大后」、オホキサキと呼んだ。天皇(大王)が没し次の天皇が即位すれば「大御祖」「大御母」(「オホミオヤ」でしょうか)となり、新天皇の配偶者の中から新たに大后が立てられた――といった形になるかと思われます。
ところが「大后」の実体を宣長のような形ではとらえないご見解があるようです。
といっても何も読んでいない私が申し上げられることではないのですが、先日たまたまウェブで拝見しましたもので、埼玉学園大学紀要第10号(2010 12月)の山アかおりさんの「上代日本における「大后」の語義」でのご見解を挙げさせていただきたく存じます。私のような者がこの論文を知ることができましたのも、PDFファイルで公開されているのを検索エンジンで知ったからなのですが(「大后比婆須比売命」で検索したらトップでヒットしました)、『古事記』『日本書紀』『風土記』『懐風藻』『万葉集』『続日本紀』『日本霊異記』『上宮聖徳法王帝説』『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』に見える「大后」(「太后」)の例を精査され、これらと漢籍、『史記』(401例)・『漢書』(750例)の「太后」の用例を比較されたうえで「(前略)ただし中国の場合、次の皇帝が即位して初めてその母の太后に執政権が生まれるのであるが、日本の場合は現役の后の時代から既に天皇と同等の権威を持つ女性がおり、それがそのまま女帝的立場へ移行すると考えるべきであろう。現役の后の時代と現役でなくなった時代で、立場に大きな差がないのが日本で、現役でなくなり帝の母となった時点で権威を持つのが中国であり、それが日本と中国の大后(太后)の違いである(後略)」としておられます。私が以下に申したいことも、この文、ことにこの前半で言い尽くされてしまっているのですが……。
山尾幸久さんの『日本国家の形成』には「大后は律令制の皇后と違って、大王・大臣と同様、終身その地位にあり(百済の場合その形跡がある)、一年足らずの広姫を除けば、炊屋姫・宝・間人・倭姫・鵜野の五人だけではないか。用明の即位により用明の正妻の王女穴穂部が炊屋姫に交代するわけではなかろう」との記述があります。
なお『日本国家の形成』ではこれより前の記述で575年に立后した敏達皇后の広姫を最初の大后とされ、またそれは押坂彦人大兄の地位強化のために敏達が広姫を大后としたものとの形で見ておられます。このご見解に従うなら、天寿国繍帳銘などで穴穂部間人を「大后」としていることについては否定されている、そのままには受け入れておられないということになるでしょうし、また天智紀に「間人大后」と見える間人皇女についてもおそらく斉明の在世中には「大后」ではなかったと見ておられることになるのでしょう。山尾さんの他の論文・著作を拝読していない分際で申し上げるのはたいへん恐縮ながら、個人的には『日本国家の形成』のこの記述を挟んだ前後の論旨にはにわかに従いかねるものがあります。しかしながらことこの部分の記述、大后を終身とみられるご見解に限っていえば、用明没後に穴穂部間人が推古の陰に隠れて存在感がないこと、また天智称制期の間人の位置等を考え合わせますと、非常に説得力をもって感じられるのです。
『日本国家の形成』のこの記述を知ったのは小林さんの『古代女帝の時代』の中の「大后制の成立事情」で引用しておられるのを見たからなのですが、その小林さんもまた宣長の見解とは立場を異にしておられます。宣長は複数の后の中の最上位を大后、おそらく複数のキサキに対する単独のオホキサキという形で見ているものと思われますが、「大后制の成立事情」の中には「結論を先にいえば、后(キサキ)複数説をとらず、またキサキとオホキサキとのあいだには本質的な区別はないと考えている」とあって、複数のミメの中の単独のキサキという形で見ておられます。ですから「大后制の成立事情」ではキサキの成立という問題と、そのキサキからオホキサキが成立してくる経過という2段階の問題でとらえられているようです。なお「大后制の成立事情」はヒメ・ヒコ制の検討といった方面から始まっており、民俗学的な問題、祭祀・儀礼の問題などもからんできて私ごときが読んでもさっぱりわからないのですが、「王権の聖俗二重性の克服過程」のなかで「王権の二重性のうちの聖的価値を、すなわちヒメの祭祀性を引き継い」だ存在がキサキである、とされているものと思われます。そしてオホキサキについては、キサキとは本質的な違いはなくて「キサキが大王の神事、祭祀の補助者という立場から、政治的な場(後宮がその場の中心となる)へと転進を遂げた結果ではなかろうか」とされ、また「キサキが大王とともに共治、輔政という立場に立てるようになった」ものがオホキサキである、といった形で見ておられるようです。その一方で「オホキサキとは現キサキに限らず、元キサキをも対象にした言い方であると思う。むしろ本来的には、元キサキを尊んでオホキサキと呼称したのが始まりではなかったか」とされ、『日本書紀』の「皇太后」表記のあらわれかたについて「神功以前にはかなり緻密に統一的にあらわれている(その意味で作為性が強い)」が、それ以後は仁徳・安康・欽明・敏達各紀のみであることを指摘しておられます。また別の箇所では、欽明即位前紀で欽明が安閑皇后の春日山田皇女に執政を要請したこと、また崇峻即位前紀で蘇我馬子が推古に穴穂部・宅部誅殺の詔を出させたこと、その後推古が崇峻を推挙したこと――などの例を挙げられたうえで、「これらの記事は、皇后(この当時は大后)と大王との共治、もしくは大后の輔政という事実を背景にして始めてよく理解できる。しかも、大王亡きあとも前大后として大きな力をもっていたことがうかがえる」と記しておられます(なおこの記述では「大后」には「きさき」の読みがな、「前大后」には「おほきさき」の読みがなが付されています)。これらを拝見しますと、誤解を恐れずに言えば、オホキサキの実体を「皇后」よりは「皇太后」的な方向に近づけて見ておられるようにも感じられます。小林さんは『別冊歴史読本
日本の女帝』(新人物往来社 2002)の「大后制と女帝」の中では「オホキサキはキサキの尊称とみる。(中略)すなわち、オホキサキとはキサキの地位を退いた元キサキに対する尊称から始まったとみる」と述べておられます。
仁藤敦史さんの『女帝の世紀』もまた「大后」を「皇后」、大王の嫡妻とは見ないお立場です。同書からは「即位年齢は40歳前後以上」とのご見解を教えていただいていますし、また同書はむしろどちらかといえば『続日本紀』の宣命などに見える語を通じて奈良時代の皇位継承の理念を追究されるのが主眼といった印象のもので、まことに恐縮ながら私などには難解なものに思われます。「大后」についてのご見解としては、基本的には現キサキ・元キサキ合わせた中での最上位者を大后と見、その大后は大王同様終身であったとされるご見解かと思われますが、「大后」やそれに近い存在の女性について考える際に「オオキサキ」のほか「オオミオヤ」「スメミオヤ」といった用語・概念を用いて分類しておられるのが特徴的と思われます。
具体的に見ると、まず継体−欽明紀の春日山田と手白髪については、春日山田のほうが年長であった可能性を指摘され、また欽明即位時に「皇后を尊びて皇太后と曰す」と見える「皇太后」を春日山田でなく手白髪と見られたうえで、「年長の元キサキたる春日山田「皇后」(皇統譜上での母=皇祖母スメミオヤ)」と「実母のキサキたる手白髪「皇后」(生母=大御祖オオミオヤ=皇太后)」という形に分けて「実質的には性格の異なる二人のオオキサキが存在するため、その止揚は不十分な段階であったと考えられる」としておられます。春日山田と手白髪に関しては、春日山田がスメミオヤ、欽明実母の手白髪がオオミオヤで、春日山田が手白髪より上位だが、どちらもオオキサキであった(だからオオキサキという地位の「止揚は不十分」ということかと思われます)とされるご見解のようです。
なおここに見える「皇太后」には説明が必要かもしれません。仁藤さんは「天子の母で后位にのぼる者は皇太后となす」とする養老公式令平出条の「義解」や、皇太后について「律令制では先帝の皇后でも子孫が即位しない場合は称しない規定であった」とする『皇室制度史料』三などの記述、さらに『日本書紀』の皇太后記載は例外なく現大王の生母を指すことを示された木下正子さんの「日本古代后権に関する試論」でのご指摘等を挙げて、皇太后の「現大王の生母」という面を強調しておられます。前帝が没すれば未亡人となった皇后がただちに皇太后となるわけではなくて、皇后だった女性が、その実子の即位によってはじめて皇太后となる、ということかと思います。そしてこれを根拠に欽明即位前紀の「尊皇后曰皇太后」の「皇太后」を春日山田でなく手白髪であると見ておられるわけです。
「スメミオヤ」という語は、具体的には孝徳(・斉明・天智)紀に見える譲位後の皇極を指す「皇祖母尊」(乙巳の変で譲位した際に孝徳から「皇祖母尊」号をたてまつられた)、また天智紀3年6月に見える舒明生母(糠手姫皇女、田村皇女)の「嶋皇祖母命」、皇極・孝徳紀に見える皇極・孝徳生母(吉備姫王)の「吉備嶋皇祖母命」あたりに見えているものと思われます。
これらの「スメミオヤ」について同書では、まず宝皇女(皇極・斉明)については「最上位の元キサキだが、孝徳は実子ではないので「皇太后」とはならず、先述の春日山田や額田部と同じく皇統譜上の母(孝徳の擬制的母)とされている」とされたうえで「ところが、実子たる天智が即位すると「皇太后天皇」(天智六年二月戊午条)・「中宮天皇」(野中寺弥勒菩薩像銘文)という現大王の実母としての立場に変化する」としておられます。
また舒明生母の糠手姫皇女については「糠手姫は大王舒明の実母であり、元キサキではないので「皇太后(オオキサキ)」とは異なる「皇統譜上の御母」としての称号が必要とされたと考えられる」とされ、「「皇祖母(スメミオヤ)」は、直系王統が意識された時に、現大王にとって生母かつ元キサキ(皇太后オオキサキ)ではない、皇統譜上の母たる女性尊属(キサキでない実母、あるいは実母でない元キサキ)に対して用いられる称号であったと考えられ」る、とされています。皇極・孝徳生母の吉備姫王についても糠手姫皇女と同様に見ておられます。
しかしながら「スメミオヤ」の語は、「皇祖母尊」「皇祖母命」の形で特定の個人を指す例としては、『日本書紀』には先に挙げました皇極・糠手姫皇女・吉備姫王の3人しか見えないものと思われます。逆にいえば『日本書紀』の中には不特定多数を指す一般名詞としての「皇祖母」というのはあまり印象になく、「皇祖母尊」といえば孝徳在位の間の皇極、「皇祖母命」といえば舒明の生母(「嶋皇祖母命」。糠手姫皇女。田村皇女)か皇極と孝徳の生母(「吉備嶋皇祖母命」。吉備姫王)と、固有名詞的な用例しか思い当たらないのです。
森博達さんの『日本書紀の謎を解く』の中に、戦前に鴻巣隼雄さんが『日本書紀』における「貢職」「因以」「歌之曰」といった特徴的な語句の巻別の使用回数をまとめられた表が引かれており、その項目のひとつに「皇祖母」も挙がっているのですが、「皇祖母」の語は巻24皇極紀(2回)・巻25孝徳紀(8回)・巻26斉明紀(2回)・巻27天智紀(2回)のみに集中して見えています。これは、「皇祖母」が具体的には前記3人しかいないのですから、当然といえば当然かもしれません。
同表の「皇祖母」の隣の項目には単なる「皇祖」が挙がっていますが、こちらは鴻巣さんの分類で A 群となる3・4・5・8・9・13の各紀、 A' 群となる22・25・29・30の各紀に見えるようです。巻25の孝徳紀には「皇祖」が3回見えていることになっているのですが、私が孝徳紀をざっと見て拾ったところでも「遠皇祖」(トホツミオヤ、大化元年7月丙子=10日の百済使への詔)・「皇祖等」(スメミオヤタチ、大化2年3月甲子=2日の東国国司への詔冒頭)・「皇祖大兄」(スメミオヤオホエ=押坂彦人大兄、大化2年3月壬午=20日の中大兄の「皇祖大兄御名入部」返上の辞)・「始治国皇祖」(ハツクニシラシシスメミオヤ、大化3年4月壬午=26日の品部廃止を促す詔)などといった例が見えます。ほかに大化2年8月癸酉(14日)の詔には「祖皇名」で「ミオヤノミナ」などと読ませる例が見えますが「皇祖」でなく「祖皇」です。鴻巣さんのいう孝徳紀の「3」という数字がどれを計上しどれを除いておられるのかはわかりません。
ともかく「皇祖母」表記以外に「皇祖」のみでも「スメミオヤ」と読ませている例があるようです。「皇祖大兄」(スメミオヤオホエ)と続けば彦人大兄個人を指し、「スメミオヤノミコト」とミコトが付けば皇極・糠手姫皇女・吉備姫王といた個人を指す称となるようですが、単に「スメミオヤ」だけなら元来は漠然と大王家の祖先全体(主に即位したとされる人でしょうが)を指した一般名詞的な語だったようにも感じられます。むしろ従前存在した「スメミオヤ」なる一般名詞的な語に「ノミコト」をつけて称号、地位呼称化させたもののようにも感じられます。またその「スメミオヤノミコト」については皇極が「皇祖母尊」、糠手姫皇女・吉備姫王がそれぞれ「嶋皇祖母命」「吉備嶋皇祖母命」表記のようですが、ミコトのうち至貴が「尊」で自余は「命」だなどと言い始めたのはおそらく『日本書紀』撰上に近いころであって、『古事記』の段階ころまではみな「命」だったでしょうから、皇極・孝徳のころに「スメミオヤノミコト」なる言葉が実際に使われていたとしても、話し言葉のうえでは「皇祖母尊」と「皇祖母命」のような区別はなくて、みな同列に「スメミオヤノミコト」だったことになるようにも思われます。
突飛なようですが、門脇禎二さんの『「大化改新」論』の中には皇極即位前紀も推古即位前紀同様に疑い、『家伝上』の記述(「天子崩殂、皇后臨朝」)を引いて「むしろ舒明天皇死後の宮廷は「天子崩殂、皇后臨朝」というような状況ではなかったろうか」とされる記述が見えます。私ごときにうまくまとめられるものでもありませんが、上宮王家討滅に至る状況を舒明即位時の件が尾を引いて飛鳥の宮廷と斑鳩の上宮王家との対立が続いていたものと見られたうえで、皇極も「大兄」山背皇子を無視して即位することはできず、「天子崩殂、皇后臨朝」という状況、前大后宝皇女の大王代行という状況が続いていたのではないかと見ておられるもののようです。
また河内祥輔さんの『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館 1986)の中にも、皇極が「皇女」でなく敏達・舒明から3親等と遠いこと、また舒明の没した時点ではまだ天智が強力でないことなどを理由に、皇極の即位を疑って「皇極が皇位継承の資格を具えていたとは思われず、また、皇極の即位が可能となる条件が存在したとも思われない」「一つの推測として、皇極の即位は『日本書紀』編修の際の創作であり、事実としては、舒明の死後、誰も天皇に立つことができず、空位の状態が四年間続いた、ということではあるまいかとも想像される」とされる記述が見えます。
もっとも皇極即位を疑っておられるという点が一致するだけで、門脇さんの『「大化改新」論』と河内さんの『古代政治史における天皇制の論理』とでは全体的なご見解は異なっているものと思われ、ことに河内さん同書では『日本書紀』に見える「皇后」については否定しておられますから、先ほどより岸さんの「光明立后の史的意義」の記述を引用している立場で河内さんの記述も引用させていただくというのは無節操なのかもしれません。ともかく、皇極の即位を疑うご見解も以前から存在するのだということを示させていただきます。
突然こんなことを持ち出しましたのも、一度はその位にあって退位した(させられたのか)皇極に対し、のちの「太上天皇」(『続日本紀』天平宝字3年6月庚戌=16日の淳仁の宣命、天平宝字6年6月庚戌=3日の孝謙太上天皇の宣命に「おほきすめらみこと」)に相当するような称でなく、舒明生母や皇極・孝徳生母と同列の「スメミオヤノミコト」の称はどういうことかと気がかりに思うからです。もっともこれらのご見解を引かせていただいてもすぐに解決に結びつくわけではないでしょうが、引っかかる部分ではあります。
また皇極が固有名詞的な部分のない、個人を特定する指標となるような語を含まない単なる「皇祖母ノミコト」なのに対し、それ以前から「スメミオヤノミコト」であったとしてもおかしくない舒明生母や皇極・孝徳生母のほうが「嶋皇祖母ノミコト」「吉備嶋皇祖母ノミコト」と「島−」「吉備島−」付きで称されているのも疑問です。はじめに皇極の「皇祖母尊」があって、のちに「嶋皇祖母命」「吉備嶋皇祖母命」の称が定まったと考えたほうが自然のようにも思われますが、皇極・孝徳生母の吉備姫王は乙巳の変以前、もっといえば上宮王家討滅以前の皇極2年8月丁亥(11日)に没しています。その「皇祖母命」の「喪」をつかさどらせたと見える「土師娑婆連猪手」(はじのさばのむらじゐて)が、同年11月に上宮王家を攻めた際に矢に当たって戦死したのかもしれません(「土師娑婆連、中箭而死」)。ともかく皇極が「皇祖母尊」とされる2年前に「吉備嶋皇祖母命」吉備姫王は没していますから、「吉備嶋皇祖母命」の称が先と考えないと理屈に合わない。しかしながら孝徳紀大化2年3月辛巳(19日)には東国国司の勤務評定をした詔の末尾に付け足す形で「宜罷官司処々屯田、及吉備嶋皇祖母処々貸稲」、既にその時点で没している「吉備嶋皇祖母」の所々の「貸稲」(いらしのいね。出挙のようなものか)をやめよとの命令が見えていますから、あるいは皇極4年=大化元年6月に皇極が「皇祖母尊」とされて以降に「嶋皇祖母」「吉備嶋皇祖母」の称が定まった可能性もあるのかもしれません。
いっぽうの「嶋皇祖母命」、糠手姫皇女(田村皇女)は白村江の戦いの翌年の天智3年(≒664年)6月に没しています。ちょうど5月是月条の「大紫蘇我連大臣」が没した記事の直後に見えているのですが、おそらく押坂彦人大兄の嫡妻格だったであろう女性であることを思えば、長寿だったことと思われます。彦人大兄とは親子ほど離れていたと想定しても、たぶん90歳近かったのではないでしょうか。子の舒明は23年前に没していますし、天智・間人・天武は孫で大田皇女や持統は曽孫、大来皇女や草壁や大津は玄孫なのか曽孫なのかよくわかりません。そして天智・天武の祖母ですから、意外にもというのか当然ながらというべきか、続柄上は聖武から見た元明の位置に当たるわけです。彦人大兄も草壁も即位していないことを考えれば、この「嶋皇祖母命」のミコトはそれなりに重みをもって響いてくるようにも思われます。なお天智3年に元明は数え年4歳だったはずで、嶋皇祖母命の顔は覚えていなかったでしょう。
どうしてこういう余計なことを書いてしまうのか。
この「嶋皇祖母命」のあとに「皇祖母」、スメミオヤノミコトという言葉が見えるのか存じません。岸さんの「光明立后の史的意義」の「二 皇后」の注によれば、次に述べます『続日本紀』神亀元年2月甲午の聖武即位と改元の宣命に見える「皇祖母」の例を除けば、「公式の用例としての皇祖母命は天智紀以後みえない」のだそうです。
いっぽう宣長も言及しているという「オホミオヤ」の称は『日本書紀』に見えるのでしょうか。どうも記憶になくて、思い出しますのは『続日本紀』神亀元年(≒724年)2月・3月に見える著名なエピソード。2月甲午(4日)の聖武即位と改元の宣命に続いて、丙申(6日)には「勅尊正一位藤原夫人称大夫人」、聖武生母の藤原宮子を「大夫人」と称せよとの勅が出ています。ところが1カ月半後の3月辛巳(22日)には「左大臣正二位長屋王等」が「2月4日の勅では藤原夫人を天下みな大夫人と称せとのことですが、公式令を調べますと皇太夫人といっています。勅に従えば『皇』字を失することとなり、令文を用いればおそらくは違勅となるでしょう。どうしたらよいのかわかりません」といったことを言い、結局「詔曰。&カ則皇太夫人。語則大御祖」、文には「皇太夫人」と書き、口に出す言葉では「大御祖」(オホミオヤ)とせよ、ということで落着したと見えています。この一件はその5年後の長屋王の変(神亀6年が8月5日に改元して天平元年。漆部造君足らの密告の記事が2月10日、長屋王の「自尽」が12日なので、まだ「神亀」だったことになります)の伏線となったとも取りざたされているものです。
この事件もよくわからないもので、そもそも「大夫人」を何と読ませたのかわかりません。私が最初にこれを知りましたのは青木和夫さんの『日本の歴史3 奈良の都』(中央公論社 1965)によってで、そこでは「大夫人」に「おおみおや」のルビがありました。天平宝字3年6月庚戌(16日)の淳仁の宣命で、父の舎人親王に「崇道尽敬皇帝」の号がたてまつられたのと同時に生母の当麻山背も「大夫人」(オホミオヤ)とされていますが、おそらくそれによるものなのでしょう。他の書では単に「大夫人」とのみ表記して読みは示されないものが多いように見受けられます。日本思想大系『律令』(岩波書店 1976)で後宮職員令の「夫人」の項を拝見すると読みが「ぶにん」、また頭注では「訓オホトジ」と見えています。「大オホトジ」ということは考えづらい。
実は2月甲午の聖武即位・神亀改元の宣命(聖武の宣命の中の、元正の「大命」を引用した部分)には「(前略)かく賜へる時に、「美麻斯」(みまし、汝)親王の齢(よはひ)の弱(わか)きに、荷重きは堪へじかと思ほしまして、「皇祖母」(おほみおや)と坐しし、かけまくもかしこき我が皇(おほきみ)天皇(すめらみこと)に授けまつりき(後略)」(「可久賜時〈尓〉美麻斯親王〈乃〉齢〈乃〉弱〈尓〉荷重〈波〉不堪〈自加止〉所念坐而皇祖母坐〈志志〉掛畏〈岐〉我皇天皇〈尓〉授奉〈岐〉」)と見えているようです。先に「光明立后の史的意義」で岸さんが「皇祖母」の見える例として引き合いに出しておられた宣命です。元明を指す「皇祖母」の読みは「オホミオヤ」と見えています(以下、宣命の読みは新訂増補国史大系『続日本紀』・岩波文庫『続日本紀宣命』によりました)。もっとも『日本書紀』『続日本紀』の読みがなにどれだけ信頼が置けるのかという問題はあって、たしかに「皇」字には「スメ」の読みのほうが合いそうですし、このままでは「皇祖母」も「皇太夫人」(口に出す言葉では「大御祖」=オホミオヤ)もどちらも「オホミオヤ」となってしまい、矛盾した印象です。
5年後の2月には長屋王の変があり、8月癸亥(5日)に神亀から天平に改元、8月壬午(24日)には光明立后の宣命が見えますが、その宣命では「皇后」の語が多分5回程度使用されており、新訂増補国史大系『続日本紀』によればその読みはいずれも「オホキサキ」だったように見えます(岩波文庫『続日本紀宣命』では初出の「皇后」にのみ「おほきさき」の読み)。そしてまた最初の「皇后」の直前には「藤原夫人」の語(宮子でなく光明子)も見えており、この読みは「フヂハラノキサキ」だったようです。
天平宝字元年7月戊申(2日)には橘奈良麻呂の変に関連し孝謙の宣命に続けて「皇大后 詔曰」、光明皇太后の宣命というものも見えており、その中に亡き聖武の言葉(「朕後〈尓〉太后〈尓〉能仕奉〈利〉助奉〈礼止〉詔〈伎〉(後略)」)を引く形で「太后」の語が見えるのですが、これも「オホキサキ」と読ませているようです。もっとも「朕が後に太后によく仕へ奉り助け奉れと……」という形では、「太后」が皇后を指すのか皇太后を指すのかよくわかりません。
天平宝字元年7月戊午(12日)の孝謙の宣命、天平宝字2年8月庚子朔(1日)の孝謙譲位の宣命、どちらも「皇太后朝」を「オホミオヤノミカド」と読ませているようですし、天平宝字3年6月庚戌(16日)の淳仁の宣命では生母の当麻山背が「大夫人」で「オホミオヤ」、また光明皇太后を指して「太皇大后」で「オホキオホミオヤ」と呼んでいます。その光明皇太后が没後の天平宝字6年6月庚戌(3日)の孝謙太上天皇の宣命では「御祖大皇后」で「ミオヤオホキサキ」、また和気清麻呂の姉弟を退けた直後の神護景雲3年10月乙未朔(1日)の宣命では、聖武の言葉の引用の中の光明皇后が「大皇后」で「オホキサキ」となっているようです。また天応元年4月癸卯(15日)の桓武の宣命で親母の「高野夫人」(高野新笠)が「皇太夫人」で「オホミオヤ」。
ところが聖武即位の4年前の養老4年(≒720年)に撰上された『日本書紀』では、推古20年2月庚午(20日)の「二月辛亥朔庚午、改葬皇太夫人堅塩媛於檜隈大陵」の「皇太夫人」を「オホキサキ」と読ませているようです(日本思想大系『聖徳太子集』の『上宮聖徳法王帝説』の補注によれば岩崎本の推古紀がこの「皇太夫人」に平安中期朱点で「オホキサキ」の読みを付しているのだそうで、また古典文学大系の注には「公式令では天子の母で皇族でないものを皇太夫人とする。ここは用明・推古両天皇の母なので、こう記したもの。ここでは岩崎本の古訓によるが、続紀、神亀元年三月条に藤原宮子を文には皇太夫人とし、語には大御祖とせよとあるから、ここも「オホミオヤ」と訓むべきか」とあります)。また清寧紀の元年正月壬子(15日)の「尊葛城韓媛為皇太夫人」の「皇太夫人」も「オホキサキ」の読みが付けられています。聖武生母の宮子を「大夫人」と称せよとの勅を出させたらしい聖武の周辺では、はたして『日本書紀』を読んでいたのか、推古紀の「皇太夫人堅塩媛」や清寧紀の「尊葛城韓媛為皇太夫人」を見ていたのかどうか、見ていたとしたらどう思い解釈していたのか、疑問に思えてきます。
なお『日本書紀』天智7年2月には天智の后妃・所生子の記載が見えますが、まず本文で遠智娘所生の子として大田皇女・鸕野皇女・建皇子の順で記しておきながら、それに続けて分注で「或本云、遠智娘生一男二女。其一曰建皇子。其二曰大田皇女。其三曰鸕野皇女。或本云、蘇我山田麻呂大臣女曰茅渟娘。生大田皇女与娑羅々皇女」――ある本には「遠智娘は一男二女を生んだ、一が建皇子、二が大田皇女、三が鸕野皇女」とある。ある本には「蘇我山田麻呂大臣の娘を茅渟娘といい、大田皇女と娑羅々皇女を生んだ」とある――との異伝を伝えています。そしてその直後に阿陪皇女すなわち元明の名も見えているのですが、元明太上天皇の没するのが養老5年(≒721年)12月、書紀の撰上された720年の翌年ですから、遠智娘の生んだ子の生まれ順に異伝があって不明だとはいっても、まだ存命だった元明に尋ねることはできたはずだと思うのです。実は聞く必要さえもないことで、斉明4年5月には「五月、皇孫建王、年八歳薨(後略)」とありますし、斉明7年正月甲辰(8日)に「甲辰、御船到于大伯海。時大田姫皇女、産女焉。仍名是女、曰大伯皇女」と、また持統称制前紀に「天命開別天皇元年、生草壁皇子尊於大津宮」とありますから、「其一曰建皇子。其二曰大田皇女。其三曰鸕野皇女」とする「或本」の情報は基本的に『日本書紀』の中だけで否定されてしまう。おそらく誕生順ではなくて男子を前に出す意識で記された資料だったのではないでしょうか。なお必要だったとすれば斉明4年5月の「年八歳薨」などを疑っていたということになるのでしょうが、そんなことも元明に聞けばわかったことでしょう。建王の没したのは元明の誕生する3年前のこととなるようですが、遠智娘の子の誕生順などは持統から聞いていたのではないでしょうか。なお上田正昭さんの『日本の女帝』では「或本云、蘇我山田麻呂大臣女曰茅渟娘。生大田皇女与娑羅々皇女」の記述などから建皇子の生母を遠智娘でなく別人ではないかと疑っておられるのですが、そういったことも元明に聞けばわかったのではないでしょうか。元明や元正は天智紀のこの記述を見てどう思ったのでしょう。それともこの分注は後筆で、元明や元正は目にすることがなかったのでしょうか。
また長い余談になりましたが、ともかく『日本書紀』は撰上時の状況を考え合わせると矛盾を感じる記述が多々見えてくるように思われます。
『日本書紀』では多くの場合「尊皇后曰皇太后」の「皇太后」を「オホキサキ」と読ませているようなのですが、欽明紀では「冬十二月庚辰朔甲申、天国排開広庭皇子、即天皇位。時年若干。尊皇后曰皇太后」という一連の文の中に見えており、これは古典文学大系の注によれば『後漢書』明帝紀の「即皇帝位。年三十。尊皇后曰皇太后」を範としているものでした。欽明紀には即位の記事と没した記事との両方に「時年若干」、年齢はわからないとする記述が見えることも先に触れております。「○○皇子」の称の見えない欽明について「天国排開広庭皇子」としていることといい「時年若干」が2カ所に見えることといい、どうもこの記述はおかしな印象です。「尊皇后曰皇太后」についても、文例とした『後漢書』明帝紀の記述が矛盾しない範囲でそのまま残されたもののような感じがするのです。
全般に『日本書紀』では「皇后」が「キサキ」で、「オホキサキ」は「皇太后」「皇太夫人」の読みとして見えており、また『続日本紀』では「皇太后」「皇太夫人」「皇祖母」などどれも「オホミオヤ」と読ませているような印象があり、たまたま宣命に見えた「皇后」「太后」に「オホキサキ」の読みが施されているといった感じですが、まちまちな見え方をしており何とも判断がつきません。
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