6. 「大」「中」の称 − 1

 結論もなくまとまりのつかない話になってしまいましたが、「天皇」の前身として「大王」を考えておられる通説的見解に対しいろいろな意味で疑問があること、また「大王」表記についてオホキミの訓よりも百済・加耶などの「王」、コンキシあたりに由来する語の可能性を考えていることなどをダラダラと申しました。
 恐縮ながら以下もまとまりのないまま続きます。この時代には「大王」に限らず実体不明の地位呼称が多いように思われます。無論私ごときには何も申し上げる資格などないのですが、たとえば『日本書紀』の「皇太子」(ヒツギノミコ)などはどうとらえてよいのか。聖徳太子こと廐戸や天智のいわゆる「皇太子執政」の有無などが問題とされますが、「太子」「大兄」などとはどういう関係になるのか。同じヒツギノミコの読みでも「東宮」などは「律令制的な修飾」といった形で片付けられることが多いように思われますが、実際に天智紀末尾の1010月や天武紀上の冒頭などでは「東宮」をヒツギノミコでなくマウケノキミと読ませる箇所があるようであり、その天武紀上の冒頭では天武を指す「東宮」(まうけのきみ)と並んで大友皇子も「儲君」(まうけのきみ)と見えています。「儲君」の語は履中2年正月己酉(4日)にも「二年春正月丙午朔己酉、立瑞歯別皇子為儲君」と見えるようですが、こちらの「儲君」の読みは「ひつぎのみこ」のようです。また天智の年齢がわかる記述である舒明1310月丙午の「是時、東宮開別皇子、年十六而誄之」の「東宮」については「まうけのきみ」と読ませているようです。読みがな自体はどう考えても平安時代以降のもので『日本書紀』の時代にはなかったですから、どの程度信頼が置けるかはわかりません。
 かわったところでは継体712月戊子(8日)条に「勾大兄」安閑を「春宮」(ひつぎのみこのくらゐ)に立てたことが見えていますが、いっぽうそれより前の継体元年2月庚子(10日)、即位した継体に対し大伴金村が手白香皇女を配偶者として迎えるよう勧める言葉の中に「臣聞く、前の王(みかど)の世を宰(をさ)めたまふこと、維城(まうけのきみ)の固(かため)非ずは、以て其の乾坤(あめつち)を鎮むること無し。掖庭(うちつみや)の親(むつび)非ずは、以て其の趺萼(みあなすゑ)を継ぐこと無しと(後略)」(「臣聞、前王之宰世也、非維城之固、無以鎮其乾坤。非掖庭之親、無以継其趺萼」)などと見えます。
 このあとに清寧の「三種白髪部」(白髪部舎人・白髪部供膳・白髪部靫負。清寧22月には「白髪部舎人・白髪部膳夫・白髪部靫負」)についての言及が見えたりするのですが、ともかくここで「維城」を「まうけのきみ」と読ませており、注によればやはり「儲君(まうけのきみ)すなわち皇太子のこと」とのことです。「跡継ぎがなければ国が治まらない、配偶者がなければ王統が絶える」とでもいった意味なのでしょうか。この継体元年2月時点ではまだ手白香との配偶関係も成立前であって欽明も誕生していないはずなのですが、結局継体は手白香を迎えて欽明が誕生することになりますので、「維城」は実質的に将来の欽明を指したものと見ることもできそうです。そして実際この直後の元年3月甲子(5日)、「甲子に、皇后手白香皇女を立てて、内に脩教(まつりごと)せしむ。遂に一の男(ひこみこ)を生ましめたり。是を天国排開広庭尊とす。〈開、此をば波羅企と云ふ。〉これ嫡子(むかひめばらのみこ)にして幼年し(みとしをさなし)。二の兄(いろねのきみ)治して(くにしろしめして)後に、其の天下(あめのした)有す(しろしめす)。〈二の兄は、広国排武金日尊と武小広国押盾尊となり。下の文に見ゆ。〉」(「甲子、立皇后手白香皇女、脩教于内。遂生一男。是為天国排開広庭尊。〈開、此云波羅企。〉是嫡子而幼年。於二兄治後、有其天下。〈二兄者、広国排武金日尊、与武小広国押盾尊也。見下文。〉」)とあって欽明を「嫡子」(むかひめばらのみこ)と呼んでおり、また欽明即位前紀冒頭にも「天国排開広庭天皇は、男大迹天皇の嫡子なり。母(いろは)をば手白香皇后と曰す(まうす)」と見えています。いっぽう安閑即位前紀では「勾大兄広国押武金日天皇は、男大迹天皇の長子(えみこ)なり。母をば目子媛(めのこひめ)と曰す」とあって、安閑が「長子」(えみこ)という珍しい続柄呼称で見えています。
 古典文学大系に見える読みがなが信頼できるのであれば、継体元年3月甲子条などは安閑・宣化についてはただ「治」の語に「くにしろしめし」といった読みを付しているのに対し、欽明については「有其天下」として「そのあめのしたしろしめす」と読ませており、「国」と「天」の対比、いわゆる和風諡号の「広国押武金日」「武小広国押盾」と「天国排開広庭」との対比にもつながるようにさえ思われます。さらにうがった見方をすれば「国つ神」と「天つ神」などに結び付けて見たいという向きもおありかと思うのですが、個人的にはそこまで広げたくはない、そうは見たくないという思いもあります。
 安閑即位前紀の「長子」(えみこ)との関係というわけではありませんが、古典文学大系『日本書紀』によれば即位前紀の冒頭で「太子」と表記して単に「みこ」と読ませているらしい例が安寧・孝昭・孝元・履中の各紀に見えています(以下も含め読みは古典文学大系『日本書紀』によりました)。これらの各例では直後に「○○年、立為皇太子」の形の立太子の記述があり、そちらの「皇太子」のほうは「ひつぎのみこ」と読ませているようです。これらについては荒木敏夫さんの『日本古代の皇太子』に挙がっているのを拝見して知ったのですが、のちの皇太子の意味でなく単に長子を指す「太子」の例として『隋書』開皇元年2月甲子条の「王太子勇為皇太子」の例とともに示しておられます。いっぽう孝霊・武烈・天智の各即位前紀冒頭には「太子」と表記して「ひつぎのみこ」と読ませているらしい例が見えますが、こちらの各例でも直後に「皇太子」が見えて「ひつぎのみこ」と読ませています。「太子」の読みがなが「みこ」「ひつぎのみこ」と分かれていることは注意すべきかもしれません。
 たとえば天智即位前紀などは「天命開別天皇、息長足日広額天皇太子也。母曰天豊財重日足姫天皇。天豊財重日足姫天皇四年、譲位於天万豊日天皇。立天皇、為皇太子」と始まっており、「天智は舒明のヒツギノミコである(中略)皇極4年に孝徳に譲位し、天皇(天智)を立ててヒツギノミコとした」ではおかしいですから、乱暴かもしれませんがこれらの「太子」もまた長男の意味と見ていいように思うのです。
 このような長男を意味する「太子」の例を見てまいりますと、法隆寺金堂薬師像銘の以下の文についても気にかかるものがあります。

 

池邊大宮治天下天皇大御身労賜時歳/次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大/御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然/当時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天/皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉
(やむを得ず字体を改めた箇所があります)


 2度目の引用となり恐縮ですが、ここには廐戸を指して「太子」「東宮聖王」と見えています。
 ここも『日本古代の皇太子』から引用させていただいたのですが、その部分で荒木さんは、家永三郎さんがこの銘文の「太子」「東宮」の語から推古朝当時の廐戸立太子を確実視され、また井上光貞さんもそれに同調されたことに対して、福山敏男さんがこの薬師像の年代を疑問視されたこと、また天皇号の成立を天武・持統朝、浄御原令にまで下げて見る近年の見解等を挙げられたうえで、推古朝の「皇太子」の存在を否定的に見ておられます。そういった意味ではたしかにこの銘文は7世紀末以降のものではないかと疑われ、同時代の資料としては使えないことになるのでしょう。しかし少し違う視点からこの銘文を見てみますと、ここで廐戸について「太子」「東宮聖王」と書き分けているうちの前の「太子」については、これもやはり「皇太子」でなく「長男」的な意味なのかもしれません。
 実はこの「太子」「東宮聖王」についてもやはり小林敏男さんの『古代女帝の時代』の「『書紀』皇太子記事の検討」の中に言及があって、「この銘文中の「太子」を「東宮聖王」との対応で、ヒツギノミコたる皇太子を示すと解釈することもできるが、逆に東宮と太子とを区別しているとみることもできる。筆者はこの「太子」は上宮太子、聖徳太子という厩戸皇子を呼ぶ通称と考える」としておられます。
 となると……の先につきましては、一応考えていることもありますので、もう少しあとで述べさせていただきたく存じます。

 「長男」の意味の「太子」があるいっぽうで、たとえば『日本書紀』仲哀即位前紀には明らかに長男でなく皇太子の意味と思われる「太子」が見えています(「稚足彦天皇卌八年、立為太子。稚足彦天皇無男。故立為嗣」)。仲哀は成務の子でなく『日本書紀』景行紀では日本武尊と両道入姫皇女(ふたぢのいりびめのひめみこ)の間の次男となっていますから、「太子」を「長男」の意味に解することはできません。成務紀のほうは「卌八年春三月庚辰朔、立甥足仲彦尊、為皇太子」で「皇太子」としているのですから、仲哀即位前紀も「皇太子」でよかったように思えます。『日本書紀』では我々が漠然と「皇太子」と考えている存在に対して「皇太子」「太子」「東宮」「儲君」などの表記を当て、また「太子」の語を「皇太子」の意味にも「長男」の意味にも用いており、さらに「太子」には「みこ」「ひつぎのみこ」の読みがあり、「東宮」「儲君」もそれぞれに「ひつぎのみこ」「まうけのきみ」の読みが見えます。もっとも読みがなについてはどこまで信頼できるかわからないのですが、『日本書紀』の用語は表記・意味・読みがそれぞれ多対多の対応を見せているようで、少々無節操な印象も受けます。用語・用字等を統一する気がなかったというよりは、そのつもりはあったがやりきれず、最終的な照合が完了しなかったため引用した原典のままの表記もかなり残されてしまい、直されたり直されなかったりとまちまち……そんな状況のようにも感じます。もしかするとそれぞれ微妙に異なった意味合いをもつのかもしれませんが、それを探ることさえ徒労でしょう。

 そういった例の典型として、既に随所で述べられていることながら、天智紀末尾と天武紀上のはじめに見える記述――病床の天智が天武に後事を託すと告げ、天武がそれを辞退し倭姫王と大友皇子に託すよう答えるくだりを挙げられるように思うのです。

 

請奉洪業、付属大后。令大友王、奉宣諸政。臣請願、奉為天皇、出家脩道。
(古典文学大系『日本書紀』より、天智1010月庚辰=17日、天武の返答。返り点・送りがな・読みがなは省略)

(前略)願陛下挙天下附皇后、仍立大友皇子、宜為儲君。臣今日出家、為陛下欲脩功徳。
(古典文学大系『日本書紀』より、天武紀上、即位前紀「四年冬十月庚辰」=天智101017日、天武の返答から。返り点・送りがな・読みがなは省略)


 これらの直前の記述では、天武が辞退の理由として自身の病気を挙げているのですが、天智紀ではそれは地の文での説明となっており、天武紀上ではその内容も天武の発言の形で語られています。その部分も含め、両者はおそらく同一のオリジナルの文から書き起こされたものではないでしょうか。もちろん微妙な出入りはありますが、語句、単語から文字のレベルまで対応を追っていけるように思われ、極端に言えば「宣」と「宜」、「諸」と「儲」まで、意味は違うにもかかわらず同一の文字表記を見て発想したもののようにさえ思えます。
 天智紀のほうは倭姫王が「大后」、大友皇子が「大友王」と『古事記』に似た古い用語となっており、対し天武紀上ではそれぞれ「皇后」「大友皇子」となっていますから、天智紀のほうが古い形、原典の姿に近いものと見ることができるのでしょう。飛鳥京跡出土の「大津皇」と記された木簡の写真が各書に掲載されていますが、大津皇子が没する686年ごろまでにはのちの親王に相当する人を「皇子」などと表記することが始まっていたのかもしれません。しかしながら天智紀の「大友王」表記を見ますと、その14年ほど前、壬申の乱のころにはまだ親王相当の人も諸王相当の人も「王」表記だったことを示しているようにも思われます(「−ノミコ」だったのか「−ノオホキミ」だったのかはわかりませんが)。いっぽうの天武紀上では「皇后」「大友皇子」の表記となってはいますが、この記述の直前では天智紀で「十年」となっているところが「四年冬十月庚辰」となっていて、天智紀とは異なり称制を除いて即位年を元年とするという紀年を立てており、最終チェックもできないようなバタバタとした編集状況をうかがわせているように思います。またそんな状況が、よくぞ恣意的な修正もなされずそのまま伝わってくれたものだとも感じます(本当にそのまま伝わっているとしたらの話ですが)。もっとも「奉宣諸政」、まつりごとをのたまうのと「宜為儲君」、マウケノキミとするのとでは意味が大きく異なるとされるご見解もあるでしょう。
 荒木さんは『古代日本の皇太子』でやはりこの両者を引かれ、前者、天智1010月庚辰の記述のほうを本来的なものと見て「立太子という階梯が大王位(天皇位)に就く必須の階梯でなかったことの反映」「皇太子の地位の未成熟にもとづく結果の反映」だととらえておられるようです。そのうえで天智10年正月甲辰(6日)の「東宮太皇弟奉宣〈或本云。大友皇子宣命。〉施行冠位法度之事(後略)」や天智32月丁亥(9日)のいわゆる甲子の宣の「天皇命大皇弟。宣増換冠位階名。及氏上・民部・家部等事」を引かれ、ことに天智3年には天智は即位していないとして「大皇弟」は後代の潤飾とされる坂本太郎さんのご見解も引いて、これら天武の「太皇弟」「大皇弟」を否定しておられます。先にも記しました。ですからこれを孝徳・間人ペアのスメイロドと解する卑見とはそもそもかみ合う部分はないのですが、しかしながら天智紀の「奉宣諸政」から天武紀の「宜為儲君」という変化を積極的にとらえるのなら、『日本書紀』の著述者、とくに天武紀上の著述者の意識として、天智−天武朝ごろの「奉宣諸政」は実質的にイコール「皇太子」(彼らが「皇太子」という語にまとめてしまった地位)の職掌と意識されていた――そのように見ることも可能でしょう。古いところですが、竹内理三さんの『律令制と貴族政権』第T部の「「知太政官事」考」の中に「(前略)皇位継承者としての東宮の制度は聖徳太子によって創設せられたとしても〈前掲家永氏論文〉、聖徳太子の場合も、中大兄皇子の場合も、それが必ず次の天皇位を約束せられたものでなかったらしいことは注目すべきことで、むしろ、天武一〇年に草壁皇子を皇太子となし、「因以」万機を摂せしむと書紀にある東宮の政治上の機能こそ、当時の東宮の本質であったようである(中略)このことは逆に、「奉宣諸政」するものが東宮乃至次の天皇の地位につき得るという錯覚をおこす(後略)」といった記述があるのを見つけました(なお「前掲家永氏論文」は家永三郎さんの「飛鳥朝に於ける摂政政治の本質」という論文のようです)。
 そして天智紀のほうに見える「大后」、これも「皇太子」などと同様に問題の多い称号のようです。


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