5. 「大王」「ミコト」 − 4

 先に天寿国繍帳銘と『上宮聖徳法王帝説』第1部末尾についていわゆる和風諡号とされる称を比較した際に申しましたとおり、欽明に関しては第1部末尾の「斯貴嶋宮治天下阿米久尓於志波留支広庭□皇」は繍帳銘の「斯帰斯麻宮治天下天皇名阿米久尓意斯波留支比里尓波乃弥己等」の「治天下」に続く「天皇」を後ろに回す形で末尾の「弥己等」を「天皇」にかえたもの、敏達に関しては、第1部末尾の「天皇」が2カ所に重複した「他田宮治天下天皇怒那久良布刀多麻斯支天皇」の形について欽明の例のような過程で修正がきちんとなされなかったもの、そのように考えさせていただきました。で、繍帳銘の敏達は「蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃弥己等(娶庶妹名等已弥居加斯支移比弥乃弥己等為大后)坐乎沙多宮治天下」の形であり、この言い回し・続きかたは『古事記』敏達段冒頭の「御子、沼名倉太玉敷命、坐他田宮、治天下壱拾肆歳也」と似ていた。そしてこの場合の「治天下」の語は「天皇」の前に付くものではなくて「坐○○宮治天下(○○歳)」といった形で使われていました。もともと「治天下」は「天皇」(あるいはその前身の語)とよりも「○○宮」との親和性のほうが高い語句ではなかったかという気がします。たしかに江田船山大刀銘は切っ先付近から「治天下獲□□□鹵大王世」で始まっていますが、稲荷山鉄剣銘では「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下」で、「ワカタケル大王の役所・政庁がシキの宮に在った時、吾は“左治天下”、政治を補佐した」といった形で読めば、「坐○○宮治天下」と直結する体裁ではないけれど、やはり「治天下」は「斯鬼宮」と密接に関連した語句だったのではないかと思えるのです。
 繍帳銘の敏達には「天皇」の語は見えず、第1部末尾の「天皇」と対応する箇所は「乃弥己等」、ミコトでした。繍帳銘の「弥己等」→第1部末尾の「天皇」という流れで想定することをお許し願えれば、『古事記』段冒頭の「命(ミコト)」→『日本書紀』の各巻冒頭の「天皇」という変化と同じ向きに進んでいるように見えます。もちろんこの変化を『古事記』の712年から『日本書紀』の720年の間に起こったものと短絡的に考えるつもりはありません。『古事記』では段冒頭で「−命」表記の場合でも文中では「天皇」としていますので(実は繍帳銘でも『古事記』に近い使い方なのかもしれませんが)。
 ――ならば、「天皇」以前は「大王」あるいは「王」というよりもむしろ「ミコト」だったということになるのか……それはおかしい。天寿国繍帳銘でさえ「吉多斯比弥乃弥己等」(堅塩媛)「乎阿尼乃弥己等」(小姉君)「等已刀弥弥乃弥己等」(廐戸)と即位しなかった人も「ミコト」としているし、『上宮記』逸文では即位した存在は「王」「大王」「大公王」であって、即位しなかった存在こそ「ミコト」表記になっている。『風土記』では王族でない地方の人間の中にも「ミコト」を称するものが散見されるではないか。そもそも「天皇」「大王」「王」が地位呼称であるのに対し単なる「ミコト」は「陛下」「殿下」「様」的な敬称の一種のように思われ、話がかみ合わない。それとも「ミコト」が地位呼称だったとか、「天皇」以前は「天皇」に相当する地位自体がなくてみんな「ミコト」、「ミコト」が最高位だったとでもいうのか――。
 もちろん、そう申し上げるつもりはありません。「天皇」以前のそれに相当する地位が「大王」「王」でなく「ミコト」だったというつもりではなく、現在「天皇」表記の見える資料にもしも「天皇」表記以前の原本・祖本・引用の親といったものが想定されるなら、多くの場合その表記は「大王」などというよりもむしろ「ミコト」であった可能性を想定できるのではないか、そんなつもりで申しております。たとえば先に欽明の名「ヒロニハ」について考えた際『日本書紀』欽明紀の「皇子天国排開広庭天皇、令群臣曰(後略)」「天国排開広庭皇子、即天皇位」といった矛盾とも見える表記の例を挙げましたが、これらももとは「皇子天国排開広庭ノミコト、令群臣曰」「天国排開広庭ノミコト、即天皇位」といった表記だったなどと考えれば(「和風諡号は生前にはなかった」「当時はまだなかった」といった見方は別として)そんなに矛盾した感じでもなくなるように思われます。
 そして「天皇」表記以前の「天皇」に相当する存在は、「天皇」「大王」といった語からイメージされるような絶対的存在というよりも、院政期の「治天の君」ではないですけれど、むしろ王族の中の複数の「ミコト」の中から「治天下」の地位についた人、「治天下」の状態になった人、そんなイメージであった可能性を考えられるのではないかなどと考えたくなります。妄想というものでしょうか。「天皇」は『日本書紀』の現行の読みに従えば「スメラミコト」となるのでしょうが、単なる「ミコト」のままでは尊称で「スメラ」を冠してはじめて地位呼称になるなどということも考えづらく思います。主観レベルの話になってしまいますが、「ミコト」もまた本来ある種の地位呼称で、現代でもそうであるように、この時代にも地位呼称の「ミコト」がそのまま尊称としても通用したのではないかなどと考えたくもなるのです。
 記紀で「天皇」とされていない存在について『風土記』に天皇とされる場合があるようで、たとえばヤマトタケルノミコトは『古事記』(「倭建命」)・『日本書紀』(「日本武尊」)ともに天皇とはしていませんが、『常陸国風土記』では全部「倭武天皇」となっているようです。もっとも『常陸国風土記』は崇神を指す「美麻貴天皇」(新治郡・久慈郡)や「美万貴天皇」(筑波郡)、応神の「品太天皇」(茨城郡)、景行の「大足日子天皇」(行方郡)、孝徳の「難波天皇」(香島郡)といった表記の例とともに継体の「石村玉穂宮大八洲所馭天皇」(行方郡)、孝徳の「難波長柄豊前大宮臨軒天皇」(行方郡・多珂郡)、天武の「飛鳥浄御原大宮臨軒天皇」(行方郡)、崇神の「斯貴瑞垣宮大八洲所馭天皇」(行方郡)、天智の「淡海大津大朝光宅天皇」(久慈郡)、成務の「斯我高穴穂宮大八洲照臨天皇」(多珂郡)など荘重に荘厳された称も多く見受けられる印象ですから、その中にあって一貫して「倭武天皇」でぶれない表記はそれなりに独自の扱いと見ることもできるのかもしれません。
 きちんと確認しておりませんが、たとえば同じ『常陸国風土記』茨城郡では分注で神功皇后を「息長帯比売天皇」、『播磨国風土記』揖保郡大家里の「上筥岡 下筥岡 魚戸津 朸田」の項では応神の子で仁徳の異母兄弟である菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)を「宇治天皇」、同美嚢郡では仁賢・顕宗兄弟の父の市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)を「市辺天皇」(「市辺天皇命」「市辺之天皇」)とする例などが見え、また同讚容郡中川里ではやはり神功皇后を指して「息長帯比売命 度行於韓国之時(中略)天皇勅云(後略)」と「天皇」として記述しているもののようです。これらについて古典文学大系『風土記』の秋本吉郎さんの注や東洋文庫『風土記』の吉野裕さんの注を拝見しますと、「歴代が確定する以前だったから」といった形で説明しておられる印象です。そしてこういったご説明は納得がいくもののように思われるのです。
 違和感がないせいか「宇治天皇」「市辺天皇」などほど問題にされませんが、記紀で歴代として数えられる天皇について逆に『風土記』では単に「−命」と表記している例もあるようです。たとえば『播磨国風土記』印南郡の郡名の由来の記述に「穴門豊浦宮御宇天皇」(仲哀)と見えますが、直後の大黒里伊保山では単に「帯中日子命」(やはり仲哀。「帯中日子命乎坐於神而」、神に坐せて――没後のことのようですが)とあり、また同郡益気里にも単に「大帯日子命」(景行)のみの表記が見えます。同じ『播磨国風土記』の印南郡の前の賀古郡の記述では初出で「大帯日子命」(景行)としながらその後文中で繰り返す際には「天皇」としていて『古事記』と似た用例ですし(もっとも景行については『古事記』景行段冒頭で「大帯日子淤斯呂和気天皇」)、同郡望理里では「大帯日子天皇」としながら続く長田里では「大帯日子命」となっているという例もあります。さらに美嚢郡の郡名の由来の記述には「大兄伊射報和気命」(履中)、続く美嚢郡志深里にも「伊射報和気命」と見えます。これに続く記述には「於奚袁奚天皇等」「市辺天皇命」「市辺之天皇」といった表記も見えています(その内容は『古事記』清寧段、『日本書紀』顕宗即位前紀の対応箇所とほぼ同様のものです)。ですから記紀では即位したことになっている履中が「(大兄)伊射報和気命」、記紀が即位しなかったとする市辺押磐皇子が「市辺天皇」となっていて矛盾した印象です。「伊射報和気命」の字音の表記に対し「宇治天皇」「市辺天皇」が基本的に「訓読みの地名+天皇」という表記であることも目立つ点といえるかもしれません(「宇治」は訓ではなく字音でしょうが、現在も「宇治」のままです)。履中については『古事記』仁徳段に「大江之伊耶本和気命」、『日本書紀』仁徳23月戊寅(8日)に「大兄去来穂別天皇」とある関連から「大兄」のほうにばかり目が行ってしまい、『播磨国風土記』美嚢郡で「−命」表記であることには案外関心が向かないのでしょうか。
 神功皇后のようなおそらくほとんど実在性のない存在に関係する伝承が中央、ヤマト(奈良県のヤマト)付近ばかりでなく全国的に存在するのは奇妙な印象ですが、実際には単に「息長帯比売天皇之世」など「○○の治世・時代」という形での使用の比率が多いように感じます。まったくの空想ですが……地方の豪族からモノやトネリなどの人が集められる過程で同時に地方の素朴な伝承も集められ、逆に人が中央から出身地へ帰る際には中央で整理された形の伝承、記紀の前段階のような話も一緒に持ち帰られた。その際には記紀で歴代に数えられている存在のほか上記ヤマトタケルノミコトや神功皇后なども含めみな多くの場合「ミコト」の形で伝わっていた。その後和銅6年(≒713年)に風土記撰進の命が出された際、「天皇」とすべき存在については「天皇」と表記するようにといった通達も口頭で出されていた。しかし地方の郡司クラスなどは、あるいは中央から赴任した国司クラスでさえ「ミコト」の中で誰を「天皇」と表記すべきかの基準がないか、もしくは曖昧な状態で、それを中央に問い直すわけにもいかず、結局提出された『風土記』にはヤマトタケルノミコトや神功皇后・菟道稚郎子・市辺押磐皇子なども「天皇」とした記述がある一方、景行や仲哀や履中が「大帯日子命」「帯中日子命」「大兄伊射報和気命」のまま残る記述もあった。……いや、「基準」がなかったかどうかはわかりません。「基準」らしきものはあった、諸国に配られるか持ち帰られるかしたような「基準」はあったけれど、数年後の、720年の『日本書紀』との整合性が保たれるような明瞭な基準ではなかったのではないか。そんな気がします。風土記撰進の命の出された和銅6年の前年、「和銅五年正月廿八日」の日付が『古事記』序文に見えています。『古事記』序文が偽撰でなければの話ですが。
 もちろん和銅5年(≒712年)に完成したらしい『古事記』がすぐに多数部筆写され各国の国庁・郡家などに送付されあるいは持ち帰られたなどとは考えません。『古事記』については『続日本紀』にまったくその名が見えないようですが、『万葉集』の編者(のうちの誰か)は『古事記』を自身所有していたか、すぐに閲覧できる立場だった可能性がありそうです。
 これもまたつまみ食い的な引用で恐縮ながら、たとえば『万葉集』巻190「君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを往かむ待つには待たじ」(これは『古事記』の歌謡88と同歌。允恭の娘で『古事記』では「衣通王」とされる軽大郎女が同母兄の軽太子を追って伊予=現在の愛媛県に行く際に歌ったとされる歌です)は5つ前の85の歌、山上憶良の『類聚歌林』に仁徳皇后の磐姫(=磐之媛)の歌として見えるという歌と同工異曲であり、これについて90の左注には「『古事記』と『類聚歌林』とで所伝が異なっているから『日本紀』(=『日本書紀』)で調べてみたら、仁徳紀の皇后(=磐之媛)が八田皇女に嫉妬する話にも、允恭紀の木梨軽皇子が同母妹の軽太娘皇女と通じて軽太娘皇女が伊予に流された話にもこの歌は載っていなかった」などと記されています。
 この記述から、その左注の筆者が『古事記』『日本書紀』と憶良の『類聚歌林』、この3つの文献を参照していたことがわかります。巻133263の歌(長歌なので引用しません)の左注にも「検古事記曰、件歌者、木梨之軽太子自死之時所作者也」とあり、実際3263は『古事記』の歌謡90とほぼ同じ歌です。ご存じの方からすれば「何をいまさら」といった引用になりますが、これらの例からすれば『古事記』それ自体が平城京あたりのごくごく一部の層に書写され流布していた可能性は高そうです。しかしながら『古事記』完成後すぐにそれを参照してダイジェスト的な性格のものが作られたとか、あるいは『古事記』と並行する形で作られていたなどというケースも考えられるように思うのです。和銅56年ごろにそういった性格のものが作成されて国庁などに持ち帰られ、郡司の下僚層あたりがそれを見て地方の伝承と整合させ文書を提出する、国庁でさらにそれをチェックする……『風土記』の撰述に関してついそんな過程を想像したくなります。
 『風土記』は現在まがりなりにも残っているものが出雲・常陸・播磨・豊後・肥前の5つ、それもかなり記述内容の性格にばらつきがあり、最終的に成立した年代も不明で、豊後・肥前に関しては720年成立の『日本書紀』を参照したとみられる記述も含まれるようです。それに『風土記』に名の登場する天皇はかなり特徴的な偏りがあるようで、『常陸国風土記』で「倭武天皇」、『播磨国風土記』で「品太天皇」(応神)、『豊後国風土記』『肥前国風土記』で「纏向日代宮御宇天皇」(景行)がそれぞれ頻出する印象であり、その他神功皇后をはじめ神武・崇神・仁徳・欽明・孝徳・天武・聖武などは比較的例が多いのに対し、逸文の中の比較的信頼できそうなものを含めてもそれ以外の歴代はあまり例がなく、とくに女帝は少ない印象です。『釈日本紀』『万葉集註釈』所引、「上宮聖徳皇」の湯岡碑文で有名な『伊予国風土記』逸文に皇極・斉明が「(岡本天皇并)皇后」「後岡本天皇」と見え、やはり『万葉集註釈』所引の『伊予国風土記』の別の逸文に「後岡本天皇(御歌)」、また百済の役のため天智が募兵したら2万人集まったという逸話で有名な『本朝文粋』の「三善清行意見封事」に引く『備中国風土記』邇磨郷の記事にはずばり「皇極天皇(六年)」(古典文学大系『風土記』では頭注で「斉明が正しい」としておられ、またもともと宮号等で表記されていたのを漢風諡号に改める際に皇極と誤ったのであろうと見ておられます。本来の『備中国風土記』でどのような表記であったかはわかりません)などとあるようですが、どうにか信頼できそうな記述がこの程度のようで、『播磨国風土記』揖保郡大法山(おほのりやま)の「小治田河原天皇(之世)」は推古のことなのか『万葉集』巻1の標目に「明日香川原宮御宇天皇(代)」と見える皇極のことなのかわかりません。
 『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』には「(前略)小治田/天皇大化三年歳次戊申九月廿一日己亥許世/徳〓(こざとへんに「色」の〔阝色〕)高臣宣命為而食封三百烟入賜〈岐〉又戊/午年四月十五日請上宮聖徳法王令講 法華/勝鬘等経〈岐〉(後略)」(奈良国立博物館の2004年春季特別展「法隆寺」図録によりました。なお「食封三百烟」の「烟」、「勝鬘等」の「鬘」等も字が異なるも表現不能)などと見えているようですが、「大化3年」は「大化4年」の誤り(大化3年は丁未であって戊申は翌大化4年。921日が己亥にあたるのは大化4年のようです。〓ソフト「when」によらせていただいています)ですし、また大化4年は孝徳の時代であって推古の時代でもなければ皇極の時代でも斉明の時代でもありませんし、「戊申」の崇峻元年(≒588年)と「大化3年」(実は戊申は大化4年≒648年)、「戊午」の推古6年(≒598年)と斉明4年(≒658年)とを混乱しているらしいなど、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』のこの記述はいろいろな意味でおかしい。
 『播磨国風土記』揖保郡大法山の「小治田河原天皇(之世)」も仏教系の文書等によってこのような取り違えがそのまま伝わってしまったことを示しているのかもしれません。また小治田宮というのは相当長期にわたって存続したもののようで、これも諸書に引かれる雷岡東遺跡出土の「小治田宮」と書かれた墨書土器は平安時代はじめのものということですし、『日本書紀』でも「小墾田宮」は推古以降も皇極元年12月壬寅(21日。「壬寅、葬息長足日広額天皇于滑谷岡。是日、天皇遷移於小墾田宮。〈或本云、遷於東宮南庭之権宮。〉」)・大化53月戊辰(24日)の分注(「是夜、興志意欲焼宮。猶聚士卒。〈宮謂小墾田宮。〉」)・斉明元年10月己酉(13日。「冬十月丁酉朔己酉、於小墾田、造起宮闕、擬将瓦覆。又於深山広谷、擬造宮殿之材、朽爛者多。遂止弗作」)などに見えているようですから、皇極についても「小治田河原天皇(之世)」などの形で混同される余地もあったのでしょう。『播磨国風土記』揖保郡大法山のエピソード自体は「品太天皇(応神)がこの山で大法を宣したので大法山という。いま勝部(すぐりべ)というわけは、小治田河原天皇の世、大倭(やまと)の千代の勝部らを遣わして田を開墾させ、山のふもとに住んだので、勝部岡と名づけられた」という地名の由来を説くもので、推古代とか皇極代とかの必然性があるわけでなく、むしろ話の「令墾田」から連想して「小治田河原天皇之世」としたのではないかとさえ疑いたくなります。ともかくこの「小治田河原天皇」が推古でないとすれば、推古が登場するのは『肥前国風土記』三根郡物部郷の記事(廐戸の同母弟の来目皇子に関する記事)の「小墾田宮御宇豊御食炊屋姫天皇」ぐらいしかないのではないかと思われます。そしてこの表記は明らかに『日本書紀』以後のものでしょう。これら以外に『風土記』では持統・元明・元正などは見られないように思います。きちんと確認しておらず恐縮ながら、そんな印象です。
 そもそも完存していない『風土記』のわずかに現存する(らしい)部分のみで歴代の登場する頻度やその表記を検討することにあまり意味があるとも思えませんが、残っている部分だけ見てもかなりの「ばらつき」あるいは作為のようなものがうかがえますから、『風土記』の記述を何かの根拠として用いるのはためらわれる部分もあります。しかし記紀と見比べてみた際に浮き上がる『風土記』の差異、とくに『常陸国風土記』『播磨国風土記』などの「命」「天皇」のある意味での混乱は、『上宮聖徳法王帝説』の繍帳銘と第1部末尾とを比較した際の「(乃)弥己等」→「天皇」の関係ともある程度の対応を見せているように思われるのです。

 天皇号成立以前の称号は「大王」だったとした場合、その証拠として私に思い浮かびますのは稲荷山鉄剣銘・江田船山大刀銘と『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文の「他田宮治天下大王」の3つ、強いて加えれば『釈日本紀』所引『上宮記』逸文の「伊久牟尼利比古大王」の4つくらいです。隅田八幡神社の人物画像鏡銘にも「大王」が見えますが、この記述は「大王年」なのか「日十大王年」なのかわからないですし、「大王年」の意味もわかりません。
 門脇禎二さんの『「大化改新」論』に「大王」「天皇」表記の見える資料をそれぞれ年表風に列挙して「大王」を上段、「天皇」を下段に対照させた表があり、ざっくりした印象のものながら興味深く拝見しました。しかしながら、そこに例示された資料のうち同じ資料の中に「天皇」も「大王」も両方見えている例においては、その「大王」には「天皇」的な意味合いは残っていないようです。たとえば法隆寺金堂薬師像銘の「大王天皇」「小治田宮治天下大王天皇」は「天皇」を「大王」にかえると意味をなしませんし、天寿国繍帳銘では「大王」は廐戸と尾張皇子でした。
 『日本書紀』の中にも「大王」の表記の例が見えるようです。たとえば舒明即位前紀に2例見える「大王」は1例が山背大兄、もう1例が田村(舒明)を指して用いられています。いずれも会話文中で2人称として見えるもので、古典文学大系ではどちらも「きみ」と読ませています。
 山背大兄を指す例では、阿部臣・中臣連ら「大夫」が山背大兄に対して「且大王所察」――(推古が遺詔を述べた際の状況は)また大王もご存じでしょう――と呼びかける発言の中で使用されています。また田村を指す例では、大臣・群卿が舒明即位を願う発言の中で「大王先朝鍾愛」――大王のことを先の天皇(推古)も愛しくお思いになっていた――という形で見えています。とくに後者、田村に「大王」と呼びかける例は、継体元年2月甲午(4日)で即位を拒む継体に大伴金村が「大王」(おほきみ)と呼びかける例と文がよく似ており、古典文学大系の注にはどちらの文もその出典として『漢書』文帝紀が挙がっています。継体紀の補注に引用されている文帝紀のその部分を見ますと「願大王即天子位」などとあって、たしかに複数箇所で即位前の文帝に対し「丞相平」らが「大王」と呼びかけています。舒明即位前紀のほうは『漢書』文帝紀の文章をずっと簡略化し、なおかつ手を加えた形で使っているので、田村を指す「大王」の語は『漢書』文帝紀に見える特定の「大王」の語と文章上直接対応するものではないのですが、「大王」の2人称としての使用が文帝紀に発想を得ていることはほぼ明らか。ですから天子でなく王子を指す「大王」の例が早く『漢書』にあって、少なくとも『日本書紀』のころには日本でも知られていたということになりそうです。
 もっといえば、顕宗即位前紀で仁賢が弟顕宗に即位を促す言葉に「吾聞く、天皇(すめらみこと)は以て久(ひさ)に曠(むな)しかるべからず。天命(あめのみことのり)は以て謙(さ)り拒(ふせ)くべからず。大王(きみ)、社稷(くにいへ)を以て計(はからひ)とし、百姓(おほみたから)をもて心(こころ)としたまへ」(「吾聞、天皇不可以久曠、天命不可以謙拒、大王以社稷為計、百姓為心」)との文が見えるのだそうですが、古典文学大系の注によればこの部分とまったく同じ文が『後漢書』光武帝紀に見えるようです。これを信じれば「天皇」と「大王」とが同居する文は既に漢籍に存在していたことになります。追記 訂正です。「古典文学大系の注によればこの部分とまったく同じ文が『後漢書』光武帝紀に見えるようです」と記し、実際手もとの岩波文庫『日本書紀(三)』第8117ページの注二にも「以下の文章は芸文類聚・漢書・後漢書などに直接よる所が多い(中略)後漢書、光武帝紀「吾聞、天皇不可以久曠、天命不可以謙拒、大王以社稷為計、百姓為心」(後略。なお返り点も省略)」と見えるのですが、複数のサイトのHTMLファイルを拝見したところ『後漢書』光武帝紀では「天皇」ではなく「帝王」となっている、「百姓為心」でなく「万姓為心」であるなど複数の異同がある模様。悲しいかな『後漢書』の原文に当たることのできない立場で確かめようもないのですが、「後漢書 光武帝紀 久曠 社稷」をキーワードに検索エンジンで調べて上位にヒットするHTMLファイルで拝見させていただきました。直接お礼申し上げるべきところですが、失礼ながらこの場にて御礼申し上げさせていただきます。古典文学大系についてはわざわざ町立図書館に出かけて同注の当該箇所を確認したような記憶があります。罪作りな誤記……といった印象ですが、誤植とか入力ミスというよりは、多忙を極める編集過程で「天皇→帝王」「百姓→万姓」といった直しが反映されないメモのようなものがそのまま活字化されてしまったようなミスかとも想像しております。ともかく長らく恥をさらしておりました。ひそかにお笑いでいらした向きも多いかと拝察します。「笑う門には福来る」、お笑いになった分、福が舞い込んだとお思いいただいて……弁解かたがた訂正まで。2012.6.4この『後漢書』光武帝紀の「大王」については、この部分では2人称の尊称として用いているのか、または即位前の王子などを指す地位呼称だったのか、それとも同語反復を避けるため「天皇」に近い語として並立させた用例なのか無知な私にはわかりませんが、『漢書』文帝紀の例や顕宗即位前紀の使用例からすれば、『日本書紀』の著述者はやはり即位前の王子を指す2人称と受け止めた、そのように用いたものということになるように思われます。なお仁賢の言葉ではこの引用部分の直前にも「大王」で「みこ」と読ませている例が見えますが、これも顕宗を指す2人称であって、読みが「みこ」でも「きみ」でも意味はかわりません。
 ヒミコの時代の倭人は『後漢書』光武帝紀は知らなかったでしょうが、少なくとも8世紀初頭の『日本書紀』の編纂者・著述者にはその知識があった。雄略朝とか欽明朝ごろの渡来系の知識人の中にも『漢書』『後漢書』などの知識のある人がいたとしてもおかしくはないように思えます。ことに『後漢書』は南朝宋の范曄(398455)の撰ということですから、雄略朝に「呉国」に使いした「身狭村主青」「檜隈民使博徳」といった人の周辺にもそういう知識をもった気のきいた人がいたとしても不思議ではない。「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處……」などと書いているわけですから、タネ本も必要だったでしょう。
 稲荷山鉄剣銘には「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下」などと見えていますが、これをたとえば天寿国繍帳銘の欽明の体裁「斯帰斯麻宮治天下天皇名阿米久尓意斯波留支比里尓波乃弥己等」……はまずいのかもしれませんが、『古事記』雄略段の「大長谷若建命、坐長谷朝倉宮、治天下也」などの表記と比較した場合、おさまりの悪いものを感じます。私だけなのでしょうが。「ワカタケル」に続くのは「ミコト」が自然のようにも思えるのです。『日本書紀』雄略42月にも葛城の一事主神から名を問われた雄略は「朕是幼武尊也」、ワカタケノミコトと答えていました。こんなことは根拠もない感情レベルの話で、「大王」をあえて「ミコト」と読もうなどとは思いません。先ほども少し申しましたが、全部漢文として、それも百済か加耶あたりの発音・スタイルでの漢文として書かれ、読まれていたのではないでしょうか。
 稲荷山鉄剣銘や江田船山大刀銘、隅田八幡神社の人物画像鏡銘などについては『週刊朝日百科 日本の歴史38 原始・古代8 倭国誕生と大王の時代』(新訂増補版。朝日新聞社 2003)に頼らせていただいています。その中で李成市さんが「任那日本府とは何か」の題で記しておられるのですが、その中に「「大王」銘をもつ有蓋長頸壺」という土器の写真が掲載されています。形状は写真を見ていただくしかないのですが、続く説明には「その蓋と胴部の2カ所に「大王」の箆書がある。出土地は不明であるが、その形態は、典型的な高霊タイプの土器であるため、「大王」は高霊に所在した大加耶国の王をさすものと推定されている。(中略)制作年代は6世紀半ば」(「箆書」に「へらがき」の読みがながあります)とあって、実際に写真を見ますと、ふたの「大王」の文字はわかりませんが、本体胴部の側面に縦に「大王」とヘラ書きがあります。
 『日本書紀』では欽明23月の堅塩媛や小姉君の所生子を列挙した記事に続いて例の「任那日本府」関係の記事が見えており、「夏四月、安羅次旱岐夷呑奚・大不孫・久取柔利、加羅上首位古殿奚、卒麻旱岐、散半奚旱岐児、多羅下旱岐夷他、斯二岐旱岐児、子他旱岐等、与任那日本府吉備臣、〈闕名字。〉往赴百済、倶聴詔書(後略)」などとあって、加耶諸国の要人たちが百済に赴き「聖明王」こと聖王のもとで欽明の詔書をうけたまわったなどと見えます。事実かどうかもわかりませんし、仮に近い事実があったにせよ「詔書」なるものを誰が書いたのだろうかと疑うのですが、それはともかく、「旱岐」(かんき)というのは加耶諸国の王号だったようです。また「次旱岐」「下旱岐」などについては古典文学大系の注には「官職名か」と見えます。
 ところがそれより前の継体233月是月条(「是月」条が2つあるうちの先のもの)には「加羅王」と見えており、これについて古典文学大系には「加羅の王(こきし)」とあって「王」に「こきし」の読みがあります。
 このくだり自体は前年冬の磐井の乱が落着した記事に続いて見えるもので、百済王(聖王になるはず)が穂積押山臣(ほづみのおしやまのおみ)を通じて加羅の港である多沙津(たさのつ)を欲しいと要求してきたので、これに応えて物部伊勢連父根(もののべのいせのむらじちちね)・吉士老(きしのおきな)らを遣わして津を百済王に賜わった、すると「加羅王」がその「勅使」に対し「この津は官家(みやけ)を置いて以来臣(加羅王)が朝貢船を出す港です。どうしてたやすく隣国に与えるなどということができるのか。約束が違う」といった感じのこと(「此津、従置官家以来、為臣朝貢津渉。安得輙改賜隣国。違元所封限地」)を言い、勅使の父根らは直接百済王に賜与するのはバツが悪くて「大嶋」なるところに逃げてしまい、「録史」(ふびと)を遣わして結局百済(「扶余」で「くだら」と読ませるようです)に賜わった、以来加羅は新羅と結び「日本」を恨んだ……などと見えています。この「加羅」が加耶諸国の中の一国である高霊を指すもののようなのですが、これより先の継体9年の記事では「伴跛」(はへ)などと見えていたりするらしく、事情は複雑のようです。百済の侵略を黙認したなどというのならともかく、当時の倭が「加羅」、高霊の外港を百済に「賜」与できるはずもなく、わけもわからないし何らかの事実が含まれているのかどうかもわからない、ただ後味の悪い印象のエピソードですが、ともかく加羅の「王」を「こきし」と読ませています。
 「王」で「こきし」といいますと、たとえば天智33月・持統5年正月癸酉朔(1日)・持統7年正月乙巳(15日)などに見える「百済王善光」(くだらのこきしぜんくわう、「百済王善光王」「百済王余禅広」「百済王禅広」などにも)や、あるいは『続日本紀』天平勝宝元年4月甲午朔(1日)の宣命に陸奥国少田郡から黄金が出たと奏し献じたことが見える「百済王敬福」(くだらのこにきしきやうふく)などが想起されます。「王」で「こきし」とも「こにきし」とも見えますが、これは本によって異なっているもののようで、古典文学大系『日本書紀』の欽明紀の補注「クノオリクク(中夫人)・ヨモ(子)・オリコケ(王)・コクオリコケ(狛王)・マカリオリクク(正夫人)・マカリヨモ(世子)・シソオリクク(小夫人)」ではこれについて『周書』百済伝の記述を引いたのち「鞬はコンであるから、鞬吉支はコンキシであり、王をコニキシと訓むのと一致する。コニは大を意味し、キシは君を意味する。従って鞬吉支は大君で、王に当たる。コニキシはコンキシに同じ。コキシとあるのも、実際にはコンキシである」との説明が見えます。こうして見ると「王」をコニキシ・コキシなどと呼ぶのは百済でのことのように見えますが、先に触れましたように『日本書紀』では新羅や加羅の「王」についても「こきし」と読ませている例が見えています。
 こういったものを拝見しますと、稲荷山鉄剣銘の「獲加多支鹵大王」の「大王」も、銘文を撰した人は頭の中でコンキシに近い発音で考えていたのではないかなどと空想したくなります。稲荷山鉄剣銘や江田船山大刀銘などは、発注者らしい「乎獲居」や「无□(利カ)弖」は倭語、倭文で内容を話したのでしょうが、銘文を撰した無名氏や張安の頭の中では百済か加耶あたりでの漢文で考えられていたのではないでしょうか。そう考えることを許していただければ、そもそもその時代の「大王」表記の読みが「オホキミ」か「○○○○」か、それとも「ミコト」かなどということは意味をなさなくなる。百済か加耶でのその実態に相当する地位を当てた表記と見ればよい。「乎獲居臣」について以前は「ヲワケの臣」、オミなどと読ませているものもあったように記憶していますが、たしか5世紀後半ごろはまだ氏姓のない時代と見られるようになってきていたはずとも記憶しております。


_    _
_ トップ _