5. 「大王」「ミコト」
− 3
しかしながら、私にはそれでも前掲の2つを比較することはまったく意味がないとも思えないのです。
そもそも「本来は字音表記であったものを誰かがいつの時点かに訓の表記に改めてしまったもの」「もとより全文が天皇号が定まったのちに創作されたもの」の代表といえば、それは『古事記』であり、ことに『日本書紀』でしょう。かつては勝手に推古朝のもの、記紀以前のものと信じ込んでいた天寿国繍帳銘などが「天皇」号の存在等によりその古さが疑問視される事態となったとしても、「可愛さ余って憎さ百倍」という言い方はよくないでしょうけれど、そのことによって直ちに「記紀のほうが信頼できる、これらは偽物」ということにはならないはず。疑わしさにかけては『日本書紀』も引けを取らないはずです。しかしながら、「前掲の2つを比較することはまったく意味がないとも思えない」理由はそういった開き直りのようなこととも少し違います。うまく表現できないのですが、このまま進めてみます。
「右五天皇無雑他人治天下也」が見える第1部末尾の記述で訓の表記が顕著なのは宮号(宮の所在地の地名)で、「他田」「池邊」「少治田」「倉橋」とみな訓になっており、「檜前天皇」宣化の「檜前」も宮号的なものと見てよいでしょう。欽明の「斯貴嶋」は「嶋」のみが訓で「斯貴」は音ということになるのでしょうが、このシキシマについては『古事記』に「師木嶋大宮」、『日本書紀』に「磯城嶋金刺宮」などと見えますから、結局シキが字音ないし訓がな、シマが訓という重箱読みのような形のまま定着したものと見ることができそうです。天寿国繍帳銘では「瀆辺」のみが訓で「斯帰斯麻」「乎沙多」が字音。なおこれら宮号・宮の所在地による称については、欽明の「師木嶋」「磯城嶋(金刺)」を特例として除けば『古事記』(「檜坰(之廬入野)」・「他田」・「池辺」・「倉椅(柴垣)」・「小治田」)『日本書紀』(「檜隈(廬入野)」・「訳語田」(幸玉)・「池辺(双槻)」・「倉梯」・「小墾田」)ではどれも訓の表記になっています。
いわゆる和風諡号に関しては天寿国繍帳銘では全部字音表記で、和風諡号とは見なせない「孔部間人」(公主・母王)と「尾治」(王・大王)が訓の表記と思われます。これに対し第1部末尾では欽明の「阿米久尓於志波留支広庭」のうちの「広庭」のみと用明の「橘豊日」、崇峻の「長谷部」が訓の表記になっており、対し敏達(「怒那久良布刀多麻斯支」)と推古(「止余美気加志支夜比売」)は全部字音表記です。記紀でのいわゆる和風諡号はお示ししませんが、『古事記』における欽明の「波流岐」部分(継体段の分注にも「波流岐三字以音」と見えています)、推古の「比売」部分が字音を残している以外は全部訓になっているようです。もちろん『日本書紀』では「天国排開広庭」「豊御食炊屋姫」など全部訓読みになっています。なお石姫の「伊斯比女」・堅塩媛の「支多斯比売」・小姉君の「乎阿尼」は和風諡号的な称ではないでしょうが、ともかく字音表記で、訓の表記の「穴太部間人」の称と対照的です。
第1部末尾での表記が訓を取り入れている欽明・用明・崇峻は、偶然でしょうが真福寺本『古事記』で段冒頭での表記が「−命」でなく「−天皇」「−王」となっているものです。またやはり『古事記』欽明段の后妃・所生子の記載において「−部」の付く称で見えていた「穴太部間人」「長谷部」が訓の表記です(穴穂部皇子は『上宮聖徳法王帝説』に記載が見えない)。
稲荷山鉄剣銘に見える個人名・固有名詞「乎獲居(臣)」「意富比垝」「多加利(足尼)」「弖已加利獲居」「多加披次獲居」「多沙鬼獲居」「半弖比」「加差披余」「獲加多支鹵(大王)」「斯鬼(宮)」などはどれも字音表記のように見えます。そもそもこの時代――雄略朝のころに、この銘文は倭語として読み下されたのか。オワケ臣が東国の豪族なのか中央、ヤマト付近の人物なのかわかりませんが、彼はこの銘文を倭語として読み下すことができたのでしょうか。「ヲワケ」「オホビコ」「ワカタケル」などがどこに記されているのか指でさし示す程度のことはできても、全文を倭語で読むことはできなかったのではないか。「漢文のまま読むことができた」などとなれば話は別ですが、おそらくこの銘文は百済か加耶あたりから渡来した専門の文筆家などが母国で行われていた漢文として撰した文であって、まだ訓とか読み下しとかはなかったのではないかという気がします。銘文中の「乎獲居臣」の「臣」などは以前は「オミ」などと読まれいていたように記憶しますが、最近のものには見えません。氏姓制度の始まる前のものです。何と読まれていたのでしょうか。「足尼(スクネ)」は字音表記でしょうし、「大王」「宮」なども音読みだってかまわない。「斯鬼宮」などは頭の中で「シキノミヤ」と読まれている方が多いものと思われますが、「獲加多支鹵大王」などは「ワカタケルノオオキミ」というよりは頭の中では「ワカタケルダイオウ」と読まれている方が多いのではないでしょうか。
こういう例を持ってまいりますと和歌山・隅田八幡神社の人物画像鏡銘が問題となりそうですが、「意柴沙加(宮)」が字音表記であるのに対し「男弟王」をヲホド王と読んで継体と見るならば「訓」で、おそらく金石文で現時点で最古の訓の表記ということになるのではないでしょうか。意味で当てる「訓」でなく、音読みでない訓読みの「ヲ」「オト」を音として当てる表記ということになるのでしょうか。
竹内理三さんの『律令制と貴族政権』第T部(御茶の水書房 1959)の冒頭「古代前期の社会と政治」の末尾に「附註
大王天皇考」なる論が付されており、また孫引きになってしまうのですが、その中に「和歌山県隅田八幡神社の銅鏡に、「癸未年八月十、大王年、男弟王在意柴沙加宮時」云々とある。この癸未の年を考古学者は、その鏡背の文様から見て四世紀中のものと推定しているが、福山敏男博士は、男弟王をオホトノ王と訓んで、男大迹天皇即ち継体天皇に充て、この銘文の意味を、大王(仁賢)の世の癸未の年にオホトノ王が作らせたと解せられた」との記述が見えます(同書には福山さんの何という文献・論文かの記載が見えません)。
これに対してと申してよいのか、古典文学大系『日本書紀』継体紀の題「男大迹天皇」の補注には「男大迹」について「隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡銘には「癸未年八月日十、大王年男弟王、在意柴沙加宮時」云々とあり、癸未年を五〇三年、男弟王をヲホド王(継体)に擬する説がある。しかし、ヲホドは当時 wöFödö という音であったと推定されるのに対し、「男弟」は wöötö 又は wötö と推定されるので、これを wöFödö に擬するのは、音韻上、いささか無理がある」とあって、「男弟は文字通り弟」と解しておられます。もっともこの補注では癸未年を443年、意柴沙加宮を允恭皇后忍坂大中姫の宮として見ておられます(なお発音記号は入力・表示できませんでした。またその発音記号も時代によって異なるといったことがあるのでしょうか)。「意柴沙加宮」の文字などと比較するとこの「男弟」は私などには文字にさえ見えないのですが、古典文学大系『日本書紀』の補注が的を射ていたとすれば、人物画像鏡銘での固有名詞表記は「意柴沙加」「斯麻」と、どこで区切るのか実際は不明なのかもしれない「開中費直穢人今州利」程度で、「意柴沙加」「斯麻」などは字音による表記と見なせそうです。「男弟」で「ヲ・オト」と読む場合は訓読みとなるのでしょうが、503年といった時期に訓読みが存在したかどうか……。「斯麻」という表記はくしくも韓国・公州の武寧王陵の墓誌に見える武寧王の「斯麻王」と一致するのですが、実はこの文全体も「斯麻」か「開中費直穢人今州利」の父あたりの母国語の漢文で表記されているのではないでしょうか。カハチ(河内。令制では大阪府東部のようですが、古い時代には和泉もカハチであり、さらに以前は摂津もカハチだったかもしれないような記述を拝見した記憶がありますが、「津国」などとどういう関係にあるのかなど私にはわかりません)を指すらしい「開中」については何読みというのかよくわかりません。
このように見てまいりますと、当然といえば当然ながら、固有名詞の表記が字音から訓へと置き換えられていった流れを想定できるように思えるのです。固有名詞の表記が字音中心の天寿国繍帳銘のほうがやはり古い形の表記で、『上宮聖徳法王帝説』第1部末尾はその後のものではないかという気がいたします。さらに『古事記』から『日本書紀』へと年代が下がるにつれて固有名詞が訓の表記に置き換えられていったもののように見えます。
もちろん、この判断には天寿国繍帳銘のほうが古いものという私の先入観が働いております。「天皇」号は見えているけれど古い表記も残っているかもしれないし、「天皇」号は古くなくもないのかもしれない。そのように見たい、考えたいで読んできた結果の判断です。否定できません。「火のないところに煙は立たず」的な話になってしまいますが、しかしながら天寿国繍帳銘や『上宮聖徳法王帝説』第1部末尾での字音表記などは、訓で整理された表記を記紀から受け入れた以後の人には発想できないもののようにも思えるのです。
大山誠一さんはこの天寿国繍帳銘を(推古朝ごろの)史料としては否定しておられるようです。『長屋王家木簡と金石文』などを拝見していないのですが、『〈聖徳太子〉の誕生』ではその主たる根拠として天皇号の使用と和風諡号の使用、また「孔部間人公主」の「公主」の語の使用その他を挙げておられ、また『聖徳太子と日本人』(風媒社 2001)ではこれらに加えて「歳在辛巳十二月廿一癸酉」「明年二月廿二日甲戌」との繍帳銘の日付・干支が日本では持統4年になって初めて採用されたはずの儀鳳暦(=唐の麟徳暦)によるものであるとされる金沢英之さんのご見解を紹介しておられます。和風諡号の使用開始について大山さんは「この天寿国繍帳銘を除くと、確実なものとしては『古事記』と『日本書紀』(両者を合わせて『記紀』と呼ぶ)が最初で、それ以前には使用例がないことに気づく」とされたうえで「『記紀』の編纂のために、歴代天皇の呼称として新たに作られたもの」と考えた方がよさそうだと見ておられます。
歴代の「名」に関して考察されたページ でも示されていたご見解ですが、いわゆる「和風諡号」とされるものについては、私も実名を装飾したものという形でとらえさせていただきたく存じます。さしたる根拠もなくそう思い込んでおります。そもそも私ごときが自身を引き合いに出すのも僭越な話なのですが、ではいわゆる和風諡号の成立はいつごろか、天寿国繍帳銘の成立がいつの時代なのかといったことはわかりません。また儀鳳暦については恐縮ながら金沢さんの論文を拝見しておりませんし、まったく知識がないのでわかりません。たしかに天寿国繍帳銘の伝える穴穂部間人の命日が辛巳年の「十二月廿一癸酉」、釈迦三尊像銘の伝える菩岐岐美郎女の命日が明年「二月廿一日癸酉」とちょうど60日違いというのは少々出来過ぎのような気もします。釈迦三尊像銘が「上宮法皇」が「枕病弗悆」になったのを「明年正月廿二日」とし、その「登遐」を菩岐岐美郎女の没した「二月廿一日癸酉」の「翌日」(繍帳銘では「明年二月廿二日甲戌夜半」)としていることと合わせて、よくよく「廿一」「廿二」といった日付に縁があるようです。
「天皇」以前の表記が「大王」だったと随所で目にしますように、「○○宮御宇天皇」以前は「○○宮治天下大王」だったとされるような記述も見た記憶・印象があるのですが、「出典を示せ」と言われると意外と見当たらないものです。
たまたま吉村武彦さんの『日本の歴史1 日本社会の誕生』の中に以下のような記述を見つけました。「「治天下」の語は律令法で変わり、「御宇天皇」のように使われる。読みは「あめのしたしらす天皇」であり、「治天下」と同じ読みである」……。これは稲荷山鉄剣銘の「治天下」に焦点を当てた記述の中に出てくるもので、引用させていただいた部分のあとには養老公式令詔書式の「明神御宇日本天皇」「明神御宇天皇」が大唐と「蕃国」新羅に対しての書式であったことを挙げられて、「治天下」の語もこの「蕃国」支配と同じ思想構造の上にあったものとしておられます。ですから本来この部分だけを引用しても意味はないですし、私の引用も文本来の趣旨からは外れているのかもしれません。「治天下」と「御宇」が「同じ読み」とされるのは『日本書紀』の読みあたりを根拠とされているものと思われます。
大山誠一さんの『〈聖徳太子〉の誕生』には「和風諡号が成立する以前の天皇の表記であるが、それぞれの天皇が居所とした宮の名称によって「某宮治天下大王(天皇)」というものであった」、また薬師像銘・繍帳銘について「古い史料を見れば、「治天下天皇」ではなく「治天下大王」でなければならないことは自明であるはず(後略)」(「天皇」「大王」に傍点があります)などとされる記述が見えます。
「○○宮御宇天皇」の表記の実例は『日本書紀』に多数見受けられます。対し「治天下大王」そのものの表記が見える資料がどれだけあるのか存じません。『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文(『天台電子佛典CD3』所収「太子平氏傳雜勘文.TXK」データによらせていただきました)に、敏達を指す「他田宮治天下大王」の表記があるようで、これは廐戸の同母弟の「久米王」(来目皇子)の配偶者の「由波利王」の説明に見えるもののようです(「娶他田宮治天下大王女子名由波利王(後略)」)。私が目にした中ではこれが唯一の例のように思えます。ほかに近いものとして思い当たりますのは江田船山古墳の銀錯銘大刀の銘の冒頭の「治天下獲□□□鹵大王」くらいではないでしょうか。古典文学大系『日本書紀』の「天皇号」と題する補注にも「天皇は、古くは、対外的には倭王・倭国王・大王などと称した。大王の実例には熊本県玉名郡菊水町江田船山古墳出土の太刀銘の「治天下〓□□歯(反正)大王世」がある。大王の訓みは一般にオホキミと考えられており、隋書、倭国伝の「阿輩雞弥」とあるのはそれを示すという」(〓は「けものへん」に「復」の旁)と見えています。
「○○宮治天下天皇」の表記も『日本書紀』にあることはあるのですが、いざとなると意外と少ないように思えます。
持統3年(≒689年)は浄御原令の班賜された年で、持統の即位する前年ですが、その持統3年4月壬寅(20日)、「皇太子草壁皇子尊」が乙未(13日)に没した7日後というタイミングで新羅から級飡の金道那が「瀛真人天皇」天武の喪の弔問に来る。すると翌月の5月甲戌(22日)、持統が土師宿禰根麻呂(2月26日に藤原朝臣史らとともに判事に任命されていた)に言わせる形で「新羅弔使級飡金道那等」に対し、日本の詔勅を承る役の官人の位階が低いの、弔使の位階も低いの、船の数も少ないのといった詔勅を垂れています。そこには「在昔」(むかし)、「難波宮治天下天皇(なにはのみやにあめのしたしらしめししすめらみこと、孝徳)が没した際には巨勢稲持を使者に立てて喪を知らせたら翳飡の金春秋がその勅を承ったではないか」「近江宮治天下天皇(あふみのみやにあめのしたしらしめししすめらみこと、天智)が没した際には一吉飡の金薩儒らが弔使に来たではないか」などと見えており、外交は体面、虚勢の張り合いとはいえ新羅弔使の金道那がこれを聞いてどう思ったかわかりませんが、ともかく「難波宮治天下天皇」「近江宮治天下天皇」と記されています(以下も含め読みはいずれも古典文学大系によりました)。少し前の4月20日の記事では天武は「天渟中原瀛真人天皇」でなく単に「瀛真人天皇」のみの表記なのに。もっとも「瀛真人天皇」が地の文に見えているのとは異なり「難波宮治天下天皇」「近江宮治天下天皇」は詔勅、会話文中の記述の形となっていますが、それとも実際に持統の詔勅は書面にされており、「難波宮治天下天皇」「近江宮治天下天皇」などの表記が見えるその詔書を土師根麻呂が金道那の前で読み上げ、読み終わったのちにその詔書を畳んで金道那に手渡すといったようなことが行われたと見るべきなのでしょうか。
これが舒明2年正月戊寅(12日)には皇極・斉明所生の子として葛城皇子の分注に「近江大津宮御宇天皇」(あふみのおほつのみやにしてあめのしたしらしめししすめらみこと)、大海皇子の分注に「浄御原宮御宇天皇」(きよみはらのみやにしてあめのしたしらしめししすめらみこと)という形で見えており、微妙な出入りはありますが「治天下」も「御宇」も「アメノシタシラス」的な和語の発音で(おそらく平安時代ごろには)意識されていたようです。
持統がどのような気持ちで「難波宮治天下天皇」孝徳を引き合いに出したか知りませんが、持統の誕生を645年と見れば孝徳が没した654年には数え年10歳、満なら8歳か9歳で、孝徳がどういう状況の中没したか、祖母・父・叔母・叔父(その3年後には配偶者)がその死にどのような形で接したか、記憶や理解があっても不思議でない年齢のように思えます。
なお孝徳が没した際に勅を承ったとされる金春秋は最近では日本でも既に名の知られた存在なのでしょうが、のちに即位して武烈王となる人です。『日本書紀』によれば孝徳朝の大化3年(≒647年)是歳条に「上臣大阿飡金春秋」として「博士小徳高向黒麻呂」(高向玄理)を送るついでに贈り物のクジャク1羽・オウム1羽をたずさえ倭を来訪したと見えています。
『三国史記』新羅本紀によれば金春秋は善徳王11年(≒642年)、義慈王の百済から攻撃されたのを受けて自ら高句麗に救援を求めに赴いたところ逆に高句麗の宝蔵王により抑留されてしまい、春秋の送った密使の知らせでその事実を知った大将軍の金庾信が奪還の兵を挙げたためようやく釈放されたといったことが記されています。このあと12年(≒643年)には今度は唐に使者をやって救援を求めたところ、太宗から「新羅は女性が君主だから隣国から侮られる」と言われ唐室一族から王を出すことを提案されたなどとも見えます。
金春秋の生きた時代は新羅でもまさに激動期で、『三国史記』にも善徳王14年(≒645年)には「百済を破って帰還したばかりの金庾信のもとに、百済が再び侵入したとの報がもたらされたため、庾信は家に立ち寄ることもなくその足で戦地に折り返した」とか「皇龍寺の塔(『三国遺事』に記された皇龍寺九層塔)が創建された」などの記事が見え、16年(≒647年)正月には「上大等の〓(偏「田」に旁「比」の〔田比〕、「毘」の異体字)曇らが、女性が君主では国を治められないといって反乱を起こした」と見えており、この反乱鎮圧の記事は次の真徳王元年(≒647年)正月17日(ですから実は善徳王16年正月と同年同月)に見えるのですが、善徳王は8日に没したとあるので、反乱自体は半月ほど続いたかどうかという程度のものにもかかわらず、その混乱の中で善徳王は没し、続いてまた女性君主の真徳王が即位したということになります。
真徳王の2年(≒648年)には金春秋自ら唐に赴き太宗と会ったと見え、またその帰途の海路で高句麗側に見つかり影武者を立てて難を逃れたといったことも書かれています。真徳王は8年(≒654年)3月に没し、後を受けて金春秋が即位しますが、やはり即位に際し3回辞退したようです(「武烈王」の諡号は661年に没した際におくられたもののようです)。4月には亡き父に文興大王と追封、母を文貞太后としたと見えますから、3月に真徳王が没してから間を置かずに即位したことになるのでしょうか。
孝徳が没したのは『日本書紀』に白雉5年10月壬子(10日)とありますから、天智7年5月5日(干支でなく「五月五日」表記です)の蒲生野の猟で額田王に手を振った天武が朱鳥元年9月丙午(9日)に没しているのとあわせ考えると何か運命的なものを感じさせられますが、いずれも旧暦ですし、いまは関係ない話です。ともかく『三国史記』も孝徳紀も信じるとすれば、巨勢稲持が孝徳の喪を知らせにいった際にはその勅を承ったという金春秋は「翳飡」でなく半年ほど前に即位して「王」だったことになりますが……。
『三国史記』には金春秋が倭を来訪したことは見えません。もっとも647年の金春秋の来訪が事実だったとしても、持統は数え年3歳ですから記憶には残らなかったでしょう。金春秋は『日本書紀』大化3年是歳条に「春秋美姿顔善談咲」とあって、これは『三国史記』に唐側の感想として載せられているものと一致するようです。
「位階が低い」と直接言われてしまった形の級飡金道那は6月乙巳(24日)に筑紫の小郡、九州にあった迎賓館らしい施設で送別の宴を設けてもらっているようです。6月辛丑(20日)の記事には「筑紫大宰粟田真人朝臣等」と見えますので、あるいは金道那の送別の宴も粟田真人が主催者、ホスト格だったかもしれません。「賜物各有差」とあって金道那たちにも贈り物があったようですが、新羅弔使の持参した「調賦」「別献」も持統は受け取らず封をして返してしまっているので、帰りの船はたいへんだったかもしれません。ともかく7月壬子朔(1日)に帰国したことが見えています。その間の6月庚戌(29日)には「班賜諸司令一部廿二巻」、浄御原令が班賜されたようです。5月甲戌条の「難波宮治天下天皇」「近江宮治天下天皇」表記も、1カ月後の浄御原令班賜の記事を意識してわざわざ「治天下」と残したものではないかと勘繰りたくなります。先にも述べましたが、実際に「難波宮治天下天皇」「近江宮治天下天皇」などと表記された詔書が金道那に手渡されたのか、またもし仮にそういう詔書があったとして、持統を表す印などが押されていたのかどうかといったことは私にはわかりません。翌持統4年(≒690年)元日(「春正月戊寅朔」)、唐で太后の武氏が即位し周王朝を開いた同年9月9日(9月9日は天武の命日でもありますが、いずれも旧暦での話)をさかのぼること8カ月ちょっと、持統は称制を終えて即位しています。その儀式で忌部宿禰色夫知(いみべのすくねしこぶち)が奉上した「神璽」(かみのしるし)はハンコなどではなく「剣鏡」だったようです(「春正月戊寅朔、物部麻呂朝臣樹大盾。神祇伯中臣大嶋朝臣読天神寿詞。畢忌部宿禰色夫知奉上神璽剣鏡於皇后。皇后即天皇位」)。「神璽・剣・鏡」とも読めそうですが、古典文学大系の注によれば養老神祇令に「忌部上神璽之鏡剣」とあるのだそうです。
奥富敬之さんの『「日本史」面白半分』という本の中に、高句麗広開土王碑の拓本の件にからめる形で、明治7年が征台の役、明治17年にこの広開土王碑拓本の最初の解読本が出され、そして明治27年が日清戦争で明治37年が日露戦争、さらにそれから10年後の大正3年が第一次世界大戦と指摘しておられる記述があります。日清戦争が1894年、日露戦争が1904年、第一次大戦が1914年と10年おきというのは覚えやすいところですので、これを使わせていただきますと、日清戦争の5年前の1889年(明治22)2月11日には大日本帝国憲法が公布され、また同日文相の森有礼が刺されて翌日死亡しているようです。1889年というのはフランス革命の起こった1789年からちょうど100年、ついでに英国で権利章典の制定された1689年から200年ですから名誉革命開始からちょうど201年です。浄御原令の班賜された持統3年が西暦でほぼ689年ですから、浄御原令班賜は明治憲法の公布された明治22年のちょうど1200年前にあたるわけです。
明治憲法公布の際の総理大臣は黒田清隆ですが、憲法成立に尽力した伊藤博文は韓国が植民地化される前年の1909年にハルビン駅で義兵の安重根により暗殺されました。「てっぽう」に当たらず銃弾が当たって死亡した形ですが、いっぽう大宝・養老律令の撰修に尽力した藤原不比等は701年の大宝令完成から710年の平城遷都も見届け、『日本書紀』完成直後の養老4年(≒720年)8月におそらく62歳で没しています。逆算して判事に任命された持統3年(≒689年)には数え年31歳となりますが、浄御原令にはどの程度タッチしていたのでしょうか。

しかしながら、いまはそういうことは関係なくて、「治天下」と「御宇」が同じ読みで認識されていたらしいという話のまだ途中でした。
実は「治天下」と「御宇」に絡んだ印象的な例が『上宮聖徳法王帝説』の法隆寺金堂薬師像銘を写した箇所に見えています。薬師像銘は「池邊大宮治天下天皇大御身労賜時歳/次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大/御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然/当時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天/皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉」(やむを得ず字体を改めた箇所があります)というもので、銘文では釈迦三尊像よりも古い(丁卯年≒607年、なお釈迦三尊像銘は癸未年≒623年と見える)ものだと主張しながら様式は釈迦三尊像よりも新しいとか、「天皇」号も天武・持統朝以後ということなどが主張され数十年で評価がガラリとかわったもののようですが、偏屈な見方をすれば銘文はそれ自体、銘文自体が丁卯年に書かれ刻みつけられたものだとは主張していません。極端な言い方をすれば「池邊大宮治天下天皇(用明)が体調を崩された丙午年に大王天皇(推古)と太子(廐戸)をお召しになって誓願され、病気の快癒を願うから寺を造り薬師像を作りたいと詔されたが、崩じてしまわれ造ることができなかったので、小治田大宮治天下大王天皇(推古)および東宮聖王(廐戸)が命を承って丁卯年につかえまつった」という“事実”を伝えるだけです。大山さんの『〈聖徳太子〉の誕生』にも「薬師・釈迦両像とも、鍍金後に鐫刻が為されているから、追刻の可能性が高く(後略)」との記載があります。銘文は像の光背にメッキしたあとから刻み込まれているわけです。『日本書紀』によれば丙午年は用明元年(≒586年)で、用明が没したのは翌用明2年(≒587年)、丁未の役の年です。その用明2年の4月2日になぜか通例11月に行われるはずの新嘗が行われ、同日どうやら痘瘡(天然痘)を発症し7日後の9日には没しているようですから、薬師像銘に見える「丙午年」の「大御病」は死因となったらしい天然痘とみられる病気とは別のようにも見えます。薬師像銘も『日本書紀』も多少違和感の残る記述ではあります。
『上宮聖徳法王帝説』の薬師銘の引用では中に2回見える「治天下」についてもとの文では「御宇」と書かれており、後からその「御宇」を丸で囲んだのちに隣(「池邊大宮治天下天皇」部分では行の右側、また「小治田大宮治天下大王天皇」部分では行の左側)に「治天下」と書き込まれています。それ以外に「将造寺薬師像作仕奉詔」では「将寺」と「造」を飛ばしてしまい「寺」を消して右に「造寺」と書く、「東宮聖王」を「東宮聖徳王」と書いてしまい「徳」を丸で囲んで右に「ム」と書くといった訂正が見え、「大御病太平欲坐故」のほうは「大平」とあるまま直してもいませんが、この「御宇」を「治天下」と直した部分がもっとも目を引く箇所のように思われます。
なお「治天下」の語自体は平安初期あたりでもなお命脈を保っていたようで、『日本霊異記』下巻第38に聖武を指して「諾楽楽宮廿五年治天下勝宝応真聖武太天皇」「諾楽宮廿五年治天下勝宝応真大上天皇」と、また下巻第39にもやはり聖武を指して「諾楽官廿五年治天下勝宝応真聖武太上天皇」などと見えています(『続日本紀』天平宝字2年8月戊申=9日に亡き聖武にたてまつられたのは「勝宝感神聖武皇帝」の尊号と「天璽国押開豊桜彦尊」の諡で、「勝宝応真聖武太上天皇」というのは『続日本紀』に見えないようです)。
『日本霊異記』上巻第5には推古について「皇后癸丑年春正月即位、小墾田宮卅六年御宇矣」などとも見えているようですが、この上巻第5の「信敬三宝得現報縁第五」、「紀伊国名草郡宇治大伴連等先祖」の大花上位「大部屋栖野古連公」を主人公とする話は少々曲者です。
「本記」なる書を長く引用しているのですが、その引用部分では「敏達天皇」「用明天皇」「孝徳天皇」などみな漢風諡号の表記となっているほか、「物部弓削守屋大連公」による廃仏や、推古「四八年甲申夏四月」(「四八年」は「48年」でなく「4×8=32」で32年。ただし『日本書紀』岩崎本では31年、北野本では33年と問題のあるもののようです)に僧が父(『日本書紀』推古32年4月戊申=3日では祖父)を斧で殴り殺したのをきっかけに「観勒僧」を大僧正(『日本書紀』では僧正)、また「大信大伴屋栖古連公」と「鞍部徳積」とを僧都とした(『日本書紀』では鞍部徳積のみ)こと、さらには当時「僧八百卅七人、尼五百七十九人也」(『日本書紀』推古32年9月丙子=3日では「当是時、有寺卌六所、僧八百十六人、尼五百六十九人、并一千三百八十五人」)との数字を挙げるなどデータが細かく、『日本霊異記』の他の話とは異質な印象のものです。
推古についての「皇后癸丑年春正月即位、小墾田宮卅六年御宇矣」の記載もこの「本記」の引用部分に見えているものですが、ただし「推古天皇」という表記はこの上巻第5には見えず、「皇后」で敏達の代に4回、そして用明の代のあとに「皇后癸丑年春正月即位、小墾田宮卅六年御宇矣」の記述があって、推古の代には単に「天皇」の表記で4回見えているようです(「天皇代二年乙丑夏五月甲寅朔戊午、勅屋栖古連公曰(後略)」「屋栖古連公、為其欲之出家、天皇不聴」「(前略)天皇勅之曰諾也」「天皇勅之、七日使留、詠於彼忠」)。そもそも『日本霊異記』では推古は「小墾田宮御宇天皇」(上巻第4・8)・「小治田宮御宇天皇」(上巻第6)と見えており、「推古天皇」表記は見えないようです。「本記」では「推古天皇」表記を用いていなかったように見えます。
なおこの上巻第5には「本記」の引用でない部分に聖武も見えていますが、その表記は「勝宝応真聖武太上天皇」のみ。こうして見てまいりますと上巻第5の「小墾田宮卅六年御宇」も下巻第38・39の「諾楽宮廿五年治天下」も、あるいは作者の景戒が見た原典の表記にそれぞれ忠実に基づいているものということもあるのかもしれませんが、ともかく『日本霊異記』には「治天下」が見えています。
最初に『上宮聖徳法王帝説』の薬師銘の引用に「治天下」でなく「御宇」と記した人と、あとでそれを「治天下」と直した人とが同一人なのか別人なのかわかりませんが、銘文自体かその写本かの「治天下」を見て最初に「御宇」として書き込んでしまった人は、ふだん意識のうちで「治天下」も「御宇」も同じ読み、同じ発音で読んでいて実際に書くときには通常「御宇」と書いていた人であったか、もしくは「治天下」と見れば反射的に「御宇」と直してしまうような常識・風潮をすりこまれており、銘文に「治天下」とあるところが写しで「御宇」となっていてもおかしいとは思わないような人であった、などと考えられるかもしれません。
ですから「治天下」と「御宇」の和語としての発音が同じものと認識されていた時期がおそらくあって、しかもそれがある程度の期間(浄御原令以後か大宝令以後か、7世紀末か8世紀初頭あたりから平安時代のある時期あたりまで)続いていたらしいことは『日本書紀』からも『上宮聖徳法王帝説』からも、さらに『日本霊異記』からもうかがえるように思うのです。しかし……「天皇」以前は「大王」だったと言い切れるのでしょうか。
吉村武彦さんは「王」が正式な号であり「大王」は仕える人物たちから見た尊称だった、中国から冊封された王の称号を国内でも使用していた、といった形でとらえておられるようです。『日本の歴史1 日本社会の誕生』・『聖徳太子』や『古代史の基礎知識』(角川選書 2005)などで触れられているのを拝見しただけなので恐縮なのですが、千葉・稲荷台一号墳出土「王賜」鉄剣銘や、『釈日本紀』所引『上宮記』逸文に見える「王」「大公王」「大王」といった王号のばらつき(「凡牟都和希王」「乎富等大公王」「伊久牟尼利比古大王」)、中国(南朝)から「倭国王」として冊封されていることなどを挙げられ、また「大王」が正式な称号だったとは証明されていないとされる関晃さんの『大化改新の研究
下』でのご見解、「大王」は称号とはならず尊敬の意を表すときに「大王」と呼ばれるとされる宮崎市定さんの『古代大和朝廷』でのご見解などを挙げて「大王」でなく「王」だったとされています。
これら「王」とか「大王」といった表記の語は、日本語、倭語としてはどのように読まれ発音されていたのでしょうか。まさか「オウ」とか「ダイオウ」「ダイワウ」といった類ではないと思います。『隋書』倭国伝に「俀王姓阿毎字多利思北孤号阿輩雞弥」と見える、その「阿輩雞弥」を「オホキミ」と読めば『万葉集』中で「大王」「皇」などを「オホキミ」と読ませている例などに一致するから「大王」の読みは「オホキミ」、なのでしょうか……。こういう疑問の立て方は道を踏み外していて、「歴史」は文字の記録を扱うもの、逆にいえば記録に残らない「読み」「発音」といったものはそもそも歴史で扱う対象ではないのかもしれません。
しかしながら、当時文字による記録といったものはごくごく一部の人のものであって、大部分の倭人には発音、音声による言語としての言葉しかなかったはず。また『上宮記』逸文では「凡牟都和希王」「乎富等大公王」「伊久牟尼利比古大王」の例以外にも、女性の称に付く「ヒメ」の表記が「比売」(母々恩己麻和加中比売、久留比売命など)・「比弥」(践坂大中比弥王、布利比弥命など)とばらついていますし、また真福寺本『古事記』と似て「−命」「−王」も混在しており、その使い分けの基準もわかりません。そもそも同じ『上宮記』逸文の中で応神を指すらしい「凡牟都和希王」と忍坂大中姫を指すらしい「践坂大中比弥王」がどちらも「−王」表記で同居しており、これでは身分の違いを表していないことになります(もっとも『上宮記』の「凡牟都和希王」を応神でなく垂仁と沙本毗(偏「田」旁「比」の〔田比〕、「毘」の異体字)売の間の子の「品牟都和気命」などと見れば別でしょうが)。これらの例は『上宮記』逸文の典拠・情報源がさまざまだった可能性を想定させますが、一方でまた公的な表記といったものが国内的にはまだ確立されておらず、どれも個別の私的なルールによって記録されていた状況を示しているようにも思えるのです。こういう言い方はよくないのかもしれませんが、当時、たとえば5世紀後半といった時代には、その地位を指す正式な称は発音としての「○○○○」であり、それを表記する際に、ある集団は「大王」と表記し、また別の集団は「王」と表記した、などという可能性も考えられるのではないでしょうか。対中国の外交文書では「(倭)王」を正式な称号としていたとしても、それが倭の内部でどれだけ通用したか、意味を持ったかは疑問のように思うのです。
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