5. 「大王」「ミコト」 − 2
おかしな話ですが、『元興寺縁起』からもこれと似た印象が伝わってくるように私には感じられるのです。
『元興寺縁起』については福山敏男さんが平安時代はじめに作られた偽縁起であると見ておられるらしいことを井上光貞さんの『神話から歴史へ』からの孫引きながら先に挙げました。そのほかにも『元興寺縁起』には疑義が呈されているようなのですが、福山さんが示唆しておられますように豊浦寺に伝わった古縁起あたりが材料として使われているのだとすれば、現状の『元興寺縁起』にも多分にそれが反映された部分はあるのではないかという気がいたします。それは、記紀により提示された歴史に慣れた目には奇異に……とは言わぬまでも違和感のある記述が見えるからで、以下に述べますのもその違和感を覚えた点になります(引用部分は日本思想大系『寺社縁起』所収のものによりました)。
『元興寺縁起』は「揩井等由羅宮治天下等与弥気賀斯岐夜比売命〈乃〉生年一百」、推古100歳の際に「馬屋戸豊聡耳皇子」が勅を受けて記したとされる縁起本文と、「難波天皇之世辛亥年正月五日、授塔露盤銘」(「難波天皇之世辛亥年」といえば常識的には孝徳朝の白雉2年≒651年となりそうですが、銘文中には「丙辰年十一月既」などとあって推古4年≒596年以降らしいです)と紹介される「塔露盤銘」、そして「丈六光銘」なるものから成っており、ほかに天平18年の僧綱所の牒に対する返答の牒とか「賤口」「通分水田」「食封」の数を計上した記載といったものが末尾に記されているようですが、仏像・経典・什器等の記載はないようであり、醍醐寺本の題には「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」と見えるものの「資財帳」といった感じはなく、大安寺や法隆寺のそれ(とはもとより異質、別物ではありますが)が縁起部分をごくあっさりと事務的に記し資財帳部分が詳細なのとは対照的です。また推古に関しても「小治田」が縁起本文に1度しか登場せず、縁起本文・塔露盤銘・丈六光銘を通じ一貫して「サクラヰトユラの宮治天下」(表記は「桜井等由良宮」など多様)としている印象であり、ほかに推古について「サクラヰトユラの宮……」といった称で呼んでいる資料があるのか存じませんが、失礼ながらたしかにある種の「胡散臭さ」を感じさせるものではあります。
なお日本思想大系『寺社縁起』にはありませんが、岩波文庫『続日本紀宣命』巻末の「逸文」の中に「元興寺縁起所載」とする「聖武天皇天平十八年四月十九日の宣命」なるものが見えています。「掛けまくもかしこき三宝の大御前に」……三宝の奴に為りて仕え奉る天皇(聖武)が「白賜〈部止〉白〈ク〉」、「小治(田)宮御宇大々王聖天皇」(「田」欠)が飛鳥寺・豊浦寺の2寺を始められたときに「この寺を犯し穢し動かさむ人は災い被り……」とおっしゃった大命を「天地動〈岐天〉応〈爾祁流〉物〈ヲ〉」……云々、といった、言及しがたい内容の宣命を「従三位中納言兼中務卿中衛大将東海道按撫使藤原朝臣豊成」白す――などとしているもののようなのですが、これがどういうものなのか存じません。
たしかに『続日本紀』天平18年3月丁卯(15日)には「勅曰。興隆三宝国家之福田(後略)」、翌戊辰(16日)には「太政官処分」として「凡寺家買地。律令所禁」、寺院が土地を買うことは律令で禁じられている、近年それが頻繁だが「宜令京及畿内厳加禁制」、などと見え、また4月丙戌(5日)には「中納言従三位藤原朝臣豊成」を「兼東海道鎮撫使」と為すなどとも見えますが、4月庚子(19日)は従五位下小田王を因幡守としたという記事のみ。この前後も任官の記事ばかりで、「(推古が)飛鳥寺・豊浦寺の2寺を……犯し穢し動かさむ人は災い被り……」などという宣命を聖武が藤原豊成にのべさせるタイミングでないし、紫香楽の甲賀寺をやめて奈良に東大寺を造るぞといった時期にそのような宣命自体想定できません。ある時期に『続日本紀』かそのダイジェスト的性格のものがかなり広範に流布していた証拠とはできるのかもしれませんが、それがいつごろのことなのかもわかりません(福山さんの「飛鳥寺の創立」「豊浦寺の創立」などで論究されているのかもしれませんが)。そもそも『続日本紀』では天平17年4月甲寅(27日)の「是日。通夜地震三日三夜。美濃国櫓館正倉。仏寺堂塔。百姓廬舎触処崩壊」を皮切りに5月戊午朔(1日)−丁卯(10日)の連日(わざわざ毎日「地震」と記す)、同月癸酉(16日)・乙亥(18日)と「地震」が見えて「是月。地震異常。往々坼裂。水泉涌出」と記されており、同年7月17日・18日・8月24日・29日・9月2日・翌18年1月14日・29日・30日・6月5日・9月13日・閏9月13日にも「地震」と見えていて、地震が頻発した時期だったようです。もっともこれらの地震の規模はわからず、あるいは皇極紀に冬でも雷の記事が多く見えるのに似て地震への関心が高まっていたのかもしれませんが、天平17年(≒745年)5月の地震は「是月。地震異常」と記されるくらいですから大地震で余震も多かったのでしょう。寒川旭さんの『地震の日本史』(中公文庫 2007)で拝見して知ったものですが、ボーリング調査の解析によれば養老―桑名―四日市断層帯が745年の大地震を起こした可能性が高いのだそうです。しかもこの時期は聖武が恭仁京・紫香楽宮・難波宮を転々と彷徨した時期の最終段階に当たっており、余震が続いていた5月2日には「諸司官人等」がみな平城還都を、4日には「四大寺衆僧」が平城還都を主張し、聖武は6日に紫香楽から恭仁宮へ、11日には平城京へ戻っていますから、地震から逃げるようにして平城京に戻っているようにも見えます。
それはともかく、『元興寺縁起』冒頭の「揩井等由羅宮治天下等与弥気賀斯岐夜比売命〈乃〉生年一百」の記載の直後には先にも挙げました「等与弥気〈能〉命」の表記も見えていますが、縁起本文は「大倭国〈ノ〉仏法、創自斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭〈ノ〉天皇〈ノ〉御世、蘇我大臣稲目宿禰仕奉時、治天下七年歳次戊午十二月度来、百済国聖明王時、太子像并灌仏之器一具、及説仏起書巻一篋度而言(後略)」、仏教公伝を欽明7年戊午(≒538年)とする例の記述から始まっています。ここに欽明が「斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇」と見えて以後は、縁起の終わり近くで推古の言葉の中に「奉為〔斯〕帰嶋宮〔治〕天下天皇」(〔 〕内は醍醐寺本になく日本思想大系『寺社縁起』で補ったもの)と見えるまでは、欽明については一貫して「天皇」「天王」のみで呼んでいるようです。
これは他の天皇の表記とは大きく違っている印象です。同文中に「他田皇子」「池辺皇子」といった表記が見えることは先に申し上げましたが、たとえば敏達は主に「他田天皇」表記、用明もまた「池辺天皇」表記が主のようであり、もちろん文中には敏達・用明を指して単に「天皇」と表記する箇所もありますが、「他田天皇」「池辺天皇」を繰り返して用いているような印象が強いのです。私が数えたものですので抜けているものも多いことと思われますが、縁起本文中に敏達を指す「他田天皇」が4回、「他田天王」が1回。敏達を指す「天皇」が1回。用明を指す「池辺天皇」が2回、用明を指す「天皇」が3回ですがそのうち最初のものは「池辺皇子即立天皇」という記述です。また崇峻の発言の中に用明が「先帝(之時)」の形で見えており、縁起末尾のほうで「池辺列槻宮治天下橘豊日命」表記で見えます。天寿国繍帳銘同様いわゆる和風諡号とされる長い称の場合には「−天皇」でなく「−命」表記で、しかも全部訓の表記です(もっとも欽明の場合は「案春岐」などとあって、ずいぶんぞんざいな当て字という感じですが)。年代順に記載されているのですから、通常ならば初出の1回のみを「他田天皇」「池辺天皇」などと表記し、あとの記載では単に「天皇」の表記で済ますといった形が常識的なのではないかと思うのです。
崇峻は「椋摂天皇」「今帝」「天皇」の計3回。なお『元興寺縁起』には穴穂部は登場しませんし、丁未の役の記載も一切ありません。
推古については冒頭の「揩井等由羅宮治天下等与弥気賀斯岐夜比売命」と縁起末尾近くの「桜井等由良〔宮〕治天下豊弥気賀斯岐夜比売命」のほか、文中では即位後は「大々王天皇」「大々王天皇命」などと見え、また「天皇」も多いのですが、さらには「皇后帝」(「当皇后帝世、並通仏之法」)、「皇帝陛下」、果ては「沙弥善貴」(「大々王天皇、勅私称沙弥善貴」)となってしまうので数えようがありません。「如是誓已、即大地動揺、震雷、卒雨大雨、悉浄国内」などとも見えるようですが……。ちなみに廐戸については「馬屋戸豊聡耳皇子」「馬屋門皇子」「聡耳皇子」などといった表記で見えているようです。
天寿国繍帳銘では敏達・用明・推古についてはいわゆる和風諡に「−乃弥己等」のみの表記で「−天皇」と付いてはいないのですが、欽明だけは「斯帰斯麻宮治天下天皇名阿米久尓意斯波留支比里尓波乃弥己等」「斯帰斯麻天皇」と「天皇」の付く呼び方をしていました。しかも2度目には「斯帰斯麻天皇」のみの表記です。対して用明については「多至波奈等已比乃弥己等」を2度繰り返していて「瀆辺天皇」といった言い方をしていません。推古についても「等已弥居加斯支移比弥乃弥己等」を2度繰り返しています。もっとも推古についてはそもそも「坐ヲハリダ宮治天下」という言い方自体が見えないので「○○天皇」とはできなかったのかもしれません。
『元興寺縁起』を持ち出すのは気が引ける部分もありますが、そこでは欽明について冒頭で「斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇」、縁起末尾近くで「〔斯〕帰嶋宮〔治〕天下天皇」とする以外は文中では単に「天皇」とした記述が多く、敏達や用明については「他田天皇」「池辺天皇」を繰り返し用いているような印象があります。天寿国繍帳銘では欽明についてのみ「斯帰斯麻天皇」との表記が見え、反対に『元興寺縁起』のほうには単なる「シキシマ天皇」がなくて「他田天皇」「池辺天皇」が頻出するのは大きな相違・食い違いのように見えながら、実は裏返しの関係になるのではないか。欽明と敏達・用明を比較した場合に欽明が特別な存在であったことを表しているのではないかという気がします。しかも天寿国繍帳銘も『元興寺縁起』も記述は欽明から出発していました。この欽明の特別な扱いはまた『宋史』日本伝の「天国排開広庭天皇亦名欽明天皇」の表記をも思い出させます。
欽明の扱いが特別であることを指摘しておられるような文献等はおそらく既に多数発表されているものと思うのですが、残念なことに拝見しておりません。ともかく、これらの事実から見て、記紀より前のある段階において、欽明のみを特別に「天皇」(あるいは「天皇」に代わるような特別な呼称)で呼んでいた時期があったのではないかとも疑っております。
なおこの縁起本文に続けて「難波天皇之世辛亥年正月五日、授塔露盤銘」と見える「塔露盤銘」と「丈六光銘」なるものが並んでいます。これも比較的有名なものと思われるのですが、「塔露盤銘」のほうには欽明が「大和国天皇斯帰斯麻宮治天下名阿末久尓意斯波羅岐比里尓波弥己等」、推古が「佐久羅韋等由良宮治天下ク於已弥居加斯〔支〕夜比弥乃弥己等」、廐戸が「有麻移刀等〔已〕刀弥々乃弥己等」などと見えるほか蘇我稲目・蘇我馬子や百済から渡来した技術者の名が並んでいるようです。こちらも欽明のみが「天皇」とされており、対して推古は「天皇」とはされていません。また「丈六光銘」のほうには欽明を指して「天皇名広庭」「広庭天皇」とする表記が見え、用明が「多知波奈土与比天皇」、推古が「止与弥挙奇斯岐移比弥天皇」、廐戸が「等与刀禰々大王」などとなっており、さらには「歳次戊辰、大随国使主鴻臚寺掌客裴世清、使副尚書祠部主事遍光高等来奉之」といった記述も見えるようです。これが7世紀ごろのものとして信頼できる記述だったとしたら貴重なものとなるのでしょうが、ここでも「大和国」で始まっていたり「天皇」が多用されたりするなどしており、どのように判断してよいのか私にはわかりません。
またこれも先に触れているものですが、『上宮聖徳法王帝説』には以下のような記述も見えます。冒頭から用明・廐戸・山背大兄(「山代大兄」)の后妃・所生子の記載が続き、廐戸の異母兄の多米王が用明没後に穴穂部間人(「穴太部間人王」)と配偶関係になり佐富女王が生まれたことが記されていますが、その直後に続く記述です。家永三郎さんが『上宮聖徳法王帝説』を5部に分けるご見解を示しておられるそうで(たとえば先に引いた天寿国繍帳銘の写しなどは法隆寺金堂薬師像銘・釈迦三尊像銘などと並んで第3部になるもののようです)、私は家永さんのご見解を日本思想大系『聖徳太子集』の解説のみでしか拝見していないのですが、ともかくもその第1部の末尾に当たる記載です。
祖「斯貴嶋宮治天下阿米久尓於志波留支広庭□皇〈聖王祖父也〉娶檜前天皇女子伊斯比女命生児他田宮治天下天皇怒那久良布刀多麻斯支天皇〈聖王伯叔也〉「又娶宗我稲目足尼大臣女子支多斯比売命生児伊波礼池邊宮治天下橘豊日天皇〈聖王父也〉「妹少治田宮治天下止余美気加志支夜比売天皇〈聖王姨母也〉「又娶支多斯比売同母弟乎阿尼命生児倉橋宮治天下長谷部天皇〈聖王伯叔也〉「姉穴太部間人王〈聖王母也〉
右五天皇無雑他人治天下也〈但倉橋第四/少治田第五也〉
(日本思想大系『聖徳太子集』所収の「上宮聖徳法王帝説」、また『上宮聖徳法王帝説』の智恩院蔵原本の写真版によりましたが、記号・体裁等は表現できないものが多いです。字体も改めました。引用の体裁としては適切ではありません。□は行末の紙の破損している部分で、日本思想大系には「天」カ、とあります。〈 〉は分注の体裁)
冒頭の「祖」は「斯」の上に付した段落冒頭を示すらしいカギ括弧のような記号の左肩に小字で書き込まれたもので、日本思想大系では「後筆カ」とされています。後筆でないとすればいつの時代にか欽明をこれら王統の祖とする発想が存在したことになるように思うのですが、わかりません。末尾の「右五天皇無雑他人治天下也」はよく引用されている記述のようです。
よく見ますとこの記述の中に「天皇」は6人――欽明・敏達・用明・推古・崇峻、そして「檜前天皇」宣化――です。しかしながらこの記述の文脈から直接宣化を「他人」と読み取ることは曲解かもしれません。「但倉橋第四/少治田第五也」との分注を見てもわかるとおり、あくまで欽明・敏達・用明・推古・崇峻を「五天皇」と限定したものとして見るべきであって、「檜前天皇」宣化は石姫の父として見えるだけですから最初から問題外とすべきでしょう。
しかしながら「右五天皇無雑他人治天下也」という表現はやはりこの5天皇と他の「他人」とされる「天皇」との対立、対比を強調しているように見えます。たとえば門脇禎二さんは『「大化改新」論』ではこの「他人」を「蘇我氏以外の人」という形で見ておられ、推古没後の後継者問題が蘇我氏にとって「従来どおり蘇我氏系天皇に固執するか、非蘇我氏系天皇にふみきるか、ということのわかれめであった」と言い得るとしておられますから、「他人」とは舒明、あるいは舒明以降の歴代と見ることになりそうです。また、仁藤敦史さんは『女帝の世紀』の中でこの「他人」に触れて「欽明系以外の王系の大王を意味すると解釈される」とされたうえで、「王系の交替が常態であった継体朝以前の段階から、欽明系王統が五代連続することにより、欽明を祖とする世襲王権の観念が生じたことを表現したもの」と考えられるとしておられます。あるいは喜田貞吉さんや林屋辰三郎さんに代表される継体−欽明朝のニ朝並立的状況を想定されるようなお立場の方の中には「他人」を安閑・宣化、もしくは継体・安閑・宣化という形でとらえる方がいらっしゃるのかもしれません。私個人といたしましては、継体・安閑・宣化も他人なら舒明以降も他人、欽明に始まる5天皇のみが身内でほかは他人という意識ではなかったかと疑っております。むしろ「継体・安閑・宣化から敏達を経て舒明以降につながる王統」対「五天皇」という形で見たく思うのです。
「『五天皇』を欽明・敏達・用明・推古・崇峻としておきながら『継体・安閑・宣化から敏達を経て舒明以降につながる王統』などと言って、敏達が重複、かぶっているではないか。おかしいのではないか」とご心配になられる向きがあるかと思いますが、確かに前からおかしいです。
これもたびたび引かせていただいております薗田さんの「皇祖大兄御名入部について」では、孝徳紀大化2年3月壬午の皇太子奏請文に見える「皇祖大兄御名入部」を「押坂部(刑部)」と見て、押坂彦人大兄やその生母である息長真手王の娘の広姫に焦点を当てて見ておられるのですが、「蘇我系」に対する「非蘇我系」皇族として「敏達直系」グループ、具体的には敏達―彦人大兄―舒明―中大兄と続く王統を想定されているもののようです。このような形で注目すれば舒明の祖先(祖父ですが)、王統の始祖ともいえる位置に敏達が来るわけです。しかしながら継体・安閑・宣化についてはどのようにとらえられているのかと見れば、その記述付近には直接継体・安閑・宣化を意識して言及された箇所は見当たらないように思えます。なお、その記述に付された系図の上のほうには敏達生母の石姫の父として宣化の名が見えています。
敏達生母である石姫の父は宣化ですが、生母は橘仲皇女(『古事記』に「橘之中比売」)で欽明生母である手白香皇女の同母の妹であり、仮に記紀の所伝を信じれば仁賢の、さらに女系を通じて雄略の血を引く女性となっています。『古事記』では「橘之中比売」の名が宣化段にのみ見えて仁賢段に見えない(『日本書紀』では仁賢紀、武烈のすぐ上の姉として「橘皇女」とある)ことなどからして、記紀の所伝が信頼できる保証はないかもしれませんし、そもそも仁賢の実在性にしてからが疑問視されているようなのですが、さしあたり記紀を信じる限りでは、敏達は父系からも母系からも前王統の血を受け継いでいるということになるでしょう。
しかしながら、あまり目立ちませんがたとえば安閑・宣化の生母目子媛の出身である尾張氏の視点に立ってみますと、もしも宣化の娘の石姫が欽明と配偶関係にならなかったとしたら、あるいは配偶関係になっても子が残せなかったとしたら、尾張氏の血というものはたぶん王統に受け継がれることはなかった。欽明と石姫が配偶関係になって敏達が誕生したために、辛うじてその子孫の王統に尾張氏の血が受け継がれることになったようにも見えます。別にそれによって尾張氏が何らかの利益を得たわけではないかもしれませんが。
また敏達の最初の「皇后」だった広姫は息長真手王の娘でしたが、『日本書紀』継体元年3月癸酉(14日)には継体の「妃」としてやはり息長真手王の娘の麻績娘子(をみのいらつめ)の名が見え、その娘の荳角皇女(ささげのひめみこ)は「是侍伊勢大神祠」、伊勢斎王の前身的な地位についたようにも見えます。続柄の上では継体は敏達の祖父に当たりますが、実年齢としては曽祖父ぐらい、3世代程度離れていたのではないでしょうか。欽明の誕生を継体3年(≒509年)ごろと考えますと、継体の享年82歳から逆算して欽明は継体60歳のときの子となる計算です。敏達はさらにその欽明の子です。古典文学大系『日本書紀』には敏達の享年について「天皇の享年を皇代記・紹運録等に四十八、扶桑略記・愚管抄等に二十四、神皇正統記に六十一とする」と見えていますが、『扶桑略記』『愚管抄』の24歳(欽明23年≒562年誕生)や『神皇正統記』の61歳(継体19年≒525年誕生)は論外として、『皇代記』『本朝皇胤紹運録』の48歳(『日本書紀』の宣化3年≒538年誕生)を採用しますと450年生まれの継体とは88歳差となる勘定です。姉妹が曽祖父とその曽孫程度に年の離れた配偶者にそれぞれ嫁すというのは、可能性が皆無とはいえないにせよ考え難いことですし、また継体の時代の「侍伊勢大神祠」にも疑問があるようで、どちらもにわかに信じ難いのですが、この所伝は『古事記』でも同様となっています(継体段に「又娶息長真手王之女、麻組郎女、生御子、佐佐宜郎女」「次佐佐宜王者、拝伊勢神宮也」)。
「皇祖大兄御名入部について」では息長真手王の女の広姫は実はそれほど強調されてはおらず、允恭皇后で安康・雄略の生母である忍坂大中姫のほうがむしろ前面に出ている印象もありますが、1968年の論文ですから、押坂部が忍坂大中姫の名代という形で強調されるのは当然だったかもしれません。息長真手王がもともと継体の近親者だったのかどうかはわかりませんが、推古との配偶関係のほうを強調して敏達を見れば蘇我氏の人と見なし得るでしょうし、息長真手王の娘広姫との配偶関係を強調すれば、息長氏……というばかりでなく、「非蘇我系」王族とその潜在的なシンパの側の人といった形でとらえられるのではないでしょうか。たとえば皇極元年12月甲午(13日)の舒明の喪の記事には蘇我蝦夷と息長山田公がともに顔を見せており(もっとも「小徳大伴連馬飼が大臣に代わり奉誄した」などとする記事ですが)、表面的な対立が見えないことを念頭に置いてこう表現しております。
『上宮聖徳法王帝説』第1部末尾の上掲箇所の記述で敏達を指す「他田宮治天下天皇怒那久良布刀多麻斯支天皇」について、日本思想大系では注で「治天下の次の天皇の二字は衍か」、余分に紛れ込んだのではないかと疑っておられますが、欽明・用明・推古の称の体裁と比較しますとたしかに重複のように思われます。ここに引きました『上宮聖徳法王帝説』の記述はさらに前に引きました天寿国繍帳の前半部分の記述、いわゆる和風諡号を字音で列挙した記述と非常によく似ているように思われるのですが、天寿国繍帳銘では欽明の表記のみに「−天皇」が見えていました(銘の後半では推古を指すものと思われる「天皇」のみの表記が2回見えます)。
この間でそれぞれの表記がどのように変化しているか見ますと、欽明については、
「斯帰斯麻宮治天下天皇名阿米久尓意斯波留支比里尓波乃弥己等」(繍帳銘)
「斯貴嶋宮治天下阿米久尓於志波留支広庭□皇」(法王帝説第1部)
となっており、繍帳銘の「治天下」のあとの「天皇」を後ろに回す形で末尾の「弥己等」を「天皇」にかえた。そんなふうに見えます。これが用明の場合は、
「多至波奈等已比乃弥己等(娶庶妹名孔部間人公主為大后)坐瀆辺宮治天下」(繍帳銘)
「伊波礼池邊宮治天下橘豊日天皇」(法王帝説第1部)
であって、繍帳銘では名とは別に後ろに記載されていた「瀆辺宮治天下」の記述を前に持ってきて、さらに「弥己等」を「天皇」にかえて欽明の表記と体裁をそろえているように見えます。繰り返しになりますが、敏達について見ると、
「蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃弥己等(娶庶妹名等已弥居加斯支移比弥乃弥己等為大后)坐乎沙多宮治天下」(繍帳銘)
「他田宮治天下天皇怒那久良布刀多麻斯支天皇」(法王帝説第1部)
となっています。敏達の「天皇」が2カ所に重複した形というのは、このような改変の過程で修正がきちんとなされなかったもののように見えます。欽明の例のように「他田宮治天下天皇」と「ヌナクラフトタマシキノミコト」とをつなげて一連の称とする際に、本来なら前の「天皇」を外して後ろの「(ノ)ミコト」を「天皇」に変更するという操作が必要なのに、前の「天皇」が外されないまま後ろの「(ノ)ミコト」のみ「天皇」に変更された状態といった印象を受けるのです。それにまた『日本書紀』欽明元年正月甲子条の敏達の初出らしい「訳語田渟中倉太珠敷尊」の表記についても、このような過程で派生した表記に由来するのではないかなどと疑いたく思うのです。もっとも「わかりやすさ」への配慮のようなものもあったのかもしれませんが。
繍帳銘の体裁は『古事記』段冒頭の体裁「御子、沼名倉太玉敷命、坐他田宮、治天下壱拾肆歳也。此天皇、娶庶妹豊御食炊屋比売命(後略)」「弟、橘豊日王、坐池辺宮、治天下参歳」などとも非常に近いものに感じられます。近いということは、年代が近い(『古事記』自体の成立年代に近いか、『古事記』が参照した原本の成立年代に近い)というばかりでなく、一方が他方の体裁をまねているだけという可能性も考えられるのかもしれません。
推古の称についても比較のため掲げておきます。
「等已弥居加斯支移比弥乃弥己等」(繍帳銘)
「少治田宮治天下止余美気加志支夜比売天皇」(法王帝説第1部)
さらにこの『上宮聖徳法王帝説』第1部末尾の記述と天寿国繍帳銘とでその表記を比較しますと面白いことが見えてくるように思います。固有名詞部分について天寿国繍帳銘では多くが字音表記のようであり、訓での表記は(現在一般的な読みに従えば)「孔部間人」「尾治」「瀆辺」(あと「東漢」「漢」「椋(部)秦」、「高麗」は特殊な例か)ぐらいではないかと思うのですが、『上宮聖徳法王帝説』第1部末尾の記述では「嶋」(「斯貴嶋」の「嶋」)「広庭」「檜前」「他田」「稲目」「池邊」「橘豊日」「少治田」「倉橋」「長谷部」「穴太部間人」と多く使用されています。ほかに固有名詞ではありませんが「ミコト」の表記が「弥己等」でなく「命」と訓になっています。「止余美気加志支夜比売」の「止」を「ト」と読ませるような例は「訓がな」(訓仮名)と言うのかと思っていましたが、東野治之さんの『木簡が語る日本の古代』(岩波書店 1983、私の拝見しているものは1997年の同時代ライブラリーのものです)に、「止」について「中国の三国時代(三世紀)ごろまでの音では、「止」は「シ」でなく、「ト」に近い発音だったと考えられている。こういう古い字音も、朝鮮を通じてわが国に早くから入っていた」との記述がありました。ということは「止」もまた字音ということになりそうです。「部」を「ベ」と読むのは音由来なのか訓と言えるのか存じません。
『上宮聖徳法王帝説』の第1部末尾も天寿国繍帳銘部分も「天皇」の表記を含んでいますし、そもそも現在の『上宮聖徳法王帝説』自体は平安時代の成立とされているようですから、このような「字音表記か、訓での表記か」という問題は表記の確定した時期が不明なので実はあまり証拠能力がない。何かの根拠とするには弱いです。仮に「天皇」表記の部分が最初のオリジナル資料で「大王」もしくはそれに類する「○○」といった表記だったとしても、いつ誰によって「天皇」と直されてしまったのかわからないように、これらの記述に見える前掲の訓の表記について、本来は字音表記であったものを誰かがいつの時点かに訓の表記に改めてしまったものの可能性もあるなどと考えれば、「いつ」「誰」がわからない以上、この資料全体の信頼性にも疑問符を付けられかねません。もとより全文が天皇号が定まったのちに創作されたものである可能性も考えられるでしょう。
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