5. 「大王」「ミコト」 − 1

 話の順序がおかしくなってしまったかもしれませんが、「スメイロド」「マロコ」といった称の性格を「ヒメ・ヒコ制」というよりは王子・王女の経済的基盤の要素のほうにより結び付けて考えたい根拠を強いて挙げるとすれば、小姉君所生の子である穴穂部間人皇女・穴穂部皇子の名前――というか称(たぶん通称)、「アナホベ」が共通であることそれ自体に由来するのだろうと思っております。自分で言い出したことなのに変ですが、そう思っております。

 

『 古 事 記 』

欽明紀23

用 明 紀

間人穴太部王

泥部穴穂部皇女

穴穂部間人皇女

三枝部穴太部王

泥部穴穂部皇子

穴穂部皇子


 表にしてみたところで何の意味もないのですけれど、このようにして眺めてみますと個人的にはいろいろと思うところもあります。姉弟の関係ということでは『古事記』での貝鮹と竹田の「静貝王」「小貝王」を連想させるものがありますし、『古事記』の「三枝部穴太部王」の表記を見れば『上宮聖徳法王帝説』や『上宮記』逸文に廐戸の子として見える「三枝王」のことが想起されます。『古事記』によれば欽明の子の中でも「−部」の付く称は小姉君(小兄比売)所生の間人穴太部王・三枝部穴太部王・長谷部若雀命に集中して見えていましたが、こういったことも「三枝−」と何か関係があるのだろうかなどと勘繰りたくなります。
 武光誠さんは『聖徳太子』の中で、押坂彦人大兄の子に名代と関連した称が見えないのと対照的に廐戸の子に名代と関連した称が集中して見えることを指摘しておられるのですが、このようにして見てきますと、彦人大兄の系統と廐戸の系統――というよりも、蘇我氏出身の堅塩媛や小姉君、とくに小姉君の血を引く系統――とではその経済基盤のあり方や性格が少し違っていたのではないかなどという感じもします。もとより証明のしようもないことですし、またそれ以前に、彦人大兄の子も廐戸の子も実は『日本書紀』には記載がありません。彦人大兄の配偶者・所生子については『古事記』敏達段に記載されているものですし、廐戸の配偶者・所生子の記載は『上宮聖徳法王帝説』・『上宮記』逸文などに見えるものです。どういうわけか『日本書紀』が拾わなかったこれらの記載をあたかも『古事記』と『上宮聖徳法王帝説』・『上宮記』逸文などとで分担してフォローしているような錯覚さえおぼえるのですが、ともかく彦人大兄の子と廐戸の子とでは出典が異なっています。もしも仮に王子や王女個人に対して複数の呼称が存在するというような状況があったとしたら、出典となった書が複数の中のどの称を、どういう性格の称を採用して記しているのかはわからないという可能性もあるでしょう。廐戸の異母兄弟の「麻呂子皇子」(『日本書紀』用明元年正月壬子朔=1日)については『古事記』が「当麻王」としていますが、『日本書紀』でも推古114月・7月には「当摩皇子」と見えており、『上宮聖徳法王帝説』では「乎麻呂古王」でした。推古のすぐ下の同母弟は記紀ともにマロコ(『古事記』麻呂古王『日本書紀』椀子皇子)でしたが、この人に「当麻王」「当摩皇子」の例と対応するようなマロコ以外の称がなかったという保証はないものと思われます。もっと極端な例が上記の穴穂部です。『古事記』に「三枝部穴太部王」、『日本書紀』では「泥部穴穂部皇子」「穴穂部皇子」などとありますが、ほかに「更名」として「天香子(皇子)」の称が見え、また「住迹皇子」なる称も「更名」だったのかもしれません。そしておそらく続柄か地位呼称などではなかったかと思われる「須売伊呂杼」についても『古事記』では「亦名」として扱っているわけです。
 実際にはこれら相違する名称・呼称をどう解釈していいのかわからないのですが、少なくとも姉と弟で称に「アナホベ」の共通することは、姉弟の経済的一体感――経済基盤を共有しているような状況を示しているように思われます。こんな回りくどい言い方をしなくても、経済基盤の共有といった状況は従来も漠然と意識されてきたのかもしれませんが。
 穴穂部は穴穂部間人のすぐ下の同母弟ということで、当時の感覚からすれば「マロコ」的存在であり、おそらく姉が用明皇后となることによって「スメイロド」の称も得たのでしょう。穴穂部が最初のスメイロドではなかったかとも考えております。これ以前に強いてスメイロドを求めるとすれば欽明皇后石姫の同母弟の上殖葉皇子あたりが思い浮かぶのですが、スメイロドであったような印象はありません。推古のすぐ下の同母弟である椀子皇子についても同様です。
 そしてまたこの穴穂部のスメイロドの称については姉の穴穂部間人が用明皇后であること、ひいては用明の存在が前提となっています。『日本書紀』用明元年5月には、推古のいる敏達殯宮への乱入を阻止された穴穂部が物部守屋とともに用明の宮のある磐余の池辺を包囲したことが見えますが、穴穂部のスメイロドという称には用明24月、用明の病床に豊国法師を招じ入れた穴穂部のイメージはあっても、池辺を包囲した穴穂部のイメージは感じられないように思えるのです。これに対応するかのように、用明24月条のほうにははっきりと「皇弟皇子」と明記されているのに対し、用明元年5月条にはそのような記載は見えません。

 同じ蘇我氏出身の女性の子でありながら、堅塩媛所生の子と小姉君所生の子ではその印象もたどった運命もずいぶん違う感じを受けます。
 穴穂部間人は用明「皇后」となり廐戸以下4人の王子に恵まれたことが記紀に見えますが、記紀ではそれだけです。『日本書紀』でも欽明紀と用明紀の后妃・所生子の記載、そして推古元年4月紀の廐戸を皇太子に立てた記事に名が見えるだけ。そして用明没後に用明の子の多米王(『日本書紀』の田目皇子。蘇我稲目の娘の石寸名との間の子)が彼女と配偶関係になり佐富女王が生まれたことが『上宮聖徳法王帝説』や『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文に見え、また辛巳の年(推古29年≒621年)の1221日に没したことが法隆寺金堂釈迦三尊像銘と天寿国繍帳銘(『上宮聖徳法王帝説』などに引用されているもの)とに見えるだけです。『日本書紀』推古元年4月の廐戸の説明には「馬官(うまのつかさ)に至りたまひて、乃ち廐(うまや)の戸に当りて、労(なや)みたまはずして忽(たちまち)に産(あ)れませり」といった話が見えていますが、こういった伝説を除けば推古のような具体的事実は伝わっておらず、「小姉君の3人目の子(一書では2人目)で一人娘」「用明との間に廐戸以下4王子をもうけた」「用明没後、用明の子の多米王との間に佐富女王が生まれた」「辛巳年の1221日に没した」といった事実しか伝わっていない存在ということになります。これだけ伝わっているだけでも情報は豊富なほうであると言えるのかもしれませんが。
 穴穂部については既に触れました。欽明紀に小姉君の子として見え、敏達紀末尾から用明紀にかけては推古のいる敏達殯宮に乱入しようとし、それを阻止した三輪逆の逮捕を口実に用明の宮のある磐余の池辺を物部守屋とともに包囲したことが、また用明24月には用明の病床に豊国法師を招じ入れて物部守屋を怒らせたことが、崇峻紀では蘇我馬子配下の勢力により殺されたことが見えています。
 崇峻(泊瀬部)についても既にいくらか触れていますが、欽明紀に小姉君の子として見え、用明紀、穴穂部が三輪逆を物部守屋に討たせるくだりでは「或本」の所伝として穴穂部と泊瀬部が共謀して討たせたと見えているようです。崇峻即位前紀では丁未の役に際し討伐軍の王子の筆頭に名が見え、「炊屋姫尊」推古や群臣の推戴で即位しますが、王族からの后妃を迎えることはなく、蘇我馬子との確執から崇峻5年(≒592年)11月に東漢直駒(やまとのあやのあたひこま)の手により暗殺されます。
 小姉君の他の2人の王子――茨城皇子と葛城皇子については名が伝わっているのみではないでしょうか。もっとも茨城皇子についてはその名の見える『日本書紀』欽明23月の記事の、堅塩媛の娘の磐隈皇女(推古の同母の姉)の説明に「初侍祀於伊勢大神。後坐姧皇子茨城解」などと見えていました。穴穂部と同じようなことをしている印象ですが、ここは単に磐隈皇女が伊勢大神の祭祀に仕える役を解かれたと見えるだけです。おそらく欽明23月の記事のこの2カ所以外に茨城皇子は『日本書紀』には姿を見せないのではないかと思うのですが、茨城皇子がこの事件後に何らかの懲戒のようなものを受けたとも伝わってはいないようです。同様の事例が『日本書紀』の別の箇所にも見えるようですが、当時の倫理観は現代と……いや、記紀の編纂された時代と比べても違っていたのかもしれません。そもそもこういったことが当時から非難や懲戒の対象になっていたのであれば、穴穂部は推古のいる敏達殯宮への乱入を阻止されたのちには歴史上に顔を出さなくてもいい。姿を見せなくなってもおかしくないように思えるのです(『日本書紀』の捏造、作り話と見れば別です)。あるいはこういった事例は当時の民間、一般で行われていたらしい「妻問い婚」の延長、極端な例にあたるのかもしれません(こんなことも知らないのだから書かないほうがいいのですが)。

 敏達皇后の推古と用明皇后の穴穂部間人は、同じ皇后とはいいながらかたや用明・崇峻の治世を通じて「炊屋姫皇后」「炊屋姫尊」などと呼ばれたのちに初の女帝として即位、対する一方は病没した配偶者が別の女性(蘇我稲目の娘の石寸名)との間にもうけた子と再婚して表舞台から姿を消してゆく。この違いは何に由来しているのでしょうか。
 さらに不思議なのは、丁未の役の前に物部守屋はなぜ蘇我氏出身の小姉君の子である穴穂部と手を結んだのかということです。丁未の役の図式が『日本書紀』の描くように崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏との対立だったならば、仏教公伝が『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』のいう538年であったか『日本書紀』の552年であったかは存じませんが、いずれにせよ蘇我稲目・物部尾輿の代以来の対立となるはず。推古の誕生が554年ですから、通説に従って考えれば、蘇我と物部の対立は穴穂部の生まれたころかそれ以前からのものと思われます。そんな状況でなぜ物部守屋は蘇我氏出身の小姉君の子の穴穂部と手を結んだのか。
 欽明の子の世代から○○部皇子の称を持つ王子が現れるとのことですが、こと『古事記』に関してみればそれは小姉君(小兄比売)所生の子の下の3人、間人穴太部王・三枝部穴太部王・長谷部若雀命に限られていました。大伴氏没落後は連姓の勢力を代表する立場にあったかもしれない物部氏が穴穂部と結託したことの秘密が、実はこんなことの裏に隠されているのではないかという気もするのですが……どう説明をつけてよいのかもわかりません。

 穴穂部皇子は古い資料では記紀ぐらいにしか見えない名なのではないでしょうか。『聖徳太子伝暦』では「穴太部皇子」は「宅部皇子」とともに殺されるという記述に1度見えるだけのようですし、『扶桑略記』などは見ておりません。そもそも見られる立場にないのですが、これら後世のものに出ていたとしても参考になる場合は多くないものと思います。
 対し、穴穂部間人皇女は記紀以外にも『上宮聖徳法王帝説』・『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文・法隆寺金堂釈迦三尊像銘・天寿国繍帳銘(『上宮聖徳法王帝説』等に引用されているもの)等に見えています。もっともこれらが本当に古いのかどうかもわかりません。たとえば大山誠一さんの『〈聖徳太子〉の誕生』(吉川弘文館 1999)では用語等の問題から法隆寺金堂釈迦三尊像銘や天寿国繍帳銘は『日本書紀』以降のものであるとされているようです。本来ならば大山さんの『長屋王家木簡と金石文』などを拝読してから言及するのが筋なのでしょうが、拝読しておりません。なにぶん無知・無学な素人ですので、ご容赦ください。
 奇妙に思いますのは、同じく古いもの、あるいは古いものを引いている可能性が高いと思われるものでも法隆寺金堂薬師像銘とか『元興寺縁起』には穴穂部間人が見えないらしいことです。法隆寺薬師像銘には用明(「池邊大宮治天下天皇」)・推古(「大王天皇」「小治田大宮治天下大王天皇」)・廐戸(「太子」「東宮聖王」)の3人しか見えませんし、『元興寺縁起』にも穴穂部間人の名は見えません。もとより穴穂部間人の登場するような性格の資料でないと言われればそれまでですが、『〈聖徳太子〉の誕生』の中で大山さんも薬師像銘に関して「病気の用明天皇が、大后(正妻のこと)の穴穂部間人王ではなく、妹の推古を召したのも不自然ではなかろうか」と言及しておられます。この2者は穴穂部間人などの名が見えないことも共通しますが、推古のことを「大王天皇」(薬師像銘)・「大々王」(『元興寺縁起』、「大后大々王」「大々王天皇命」など)と特殊な呼称で呼んでおり、 同じく推古を「太帝天皇」「太皇天皇」などとする記述があるらしい『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』も含めてひとつのグループとして考えることができるのではないかと思うのです。 これにつきましても、ウェブのあるサイトで言及されていたのを拝見して示唆を与えていただきました。
 もっとも内容的にも扱う時代の範囲も大きく異なるこれらの資料を性格の同じグループとしてくくるのはそもそも無理がありますし、いずれも多分に後世の手が加わっている疑いの濃いものではありましょうが。
 これに対し、先に穴穂部間人の名が見えるものとして挙げました『上宮聖徳法王帝説』(の中でも家永三郎さんの分類で1部に当たる部分。帝紀的な記述の部分)・『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文・法隆寺金堂釈迦三尊像銘・天寿国繍帳銘なども1つのグループとしてまとめて見たく思うのです。穴穂部間人のほか膳氏出身の菩岐岐美郎女、蘇我氏出身の刀自古郎女、推古の孫の位奈部橘王(多至波奈大女郎)といった廐戸の生母や配偶者が見え、かつ推古については「大王天皇」「大々王」系統の称の見えないグループです。大した根拠があるわけではありません(なお釈迦三尊像銘には「上宮法皇」廐戸のほか「(鬼前)太后」「干食王后」および「司馬鞍首止利仏師」のみが見え、天寿国繍帳銘には欽明・蘇我稲目・堅塩媛・用明・推古・小姉君・敏達・「尾治王」・廐戸のほか「孔部間人公主」「多至波奈大女郎」、そして「画者東漢末賢高麗加西溢又漢奴加己利令者椋部秦久麻」が見えるのみとなっています)。
 どちらのグループも「天皇」の語が記されていたりしてその古さは信頼できません。先にも述べましたが、天皇号の使用開始を天武・持統朝、浄御原令あたりからとされる最近のご見解の出発点となったような文献・論文等を見ておりませんので私にはよくわかりません。わからないのですが、ともかく天武・持統朝以後のもののようで、逆に「天皇」の語が見えればその古さの信頼性は疑わしいということになります。
 大山さんの『〈聖徳太子〉の誕生』や、また『週刊朝日百科 日本の歴史41 古代1 推古朝から壬申の乱へ』(新訂増補版。朝日新聞社 2003)所載の鎌田元一さんの「「大王」から「天皇」へ」と題するコラムなどに天皇号の成立・使用開始に関する近年の通説的見解がまとめられていました。その他の文献にももちろん詳しく触れられていますが、簡略なところでこれらを参照しながらまとめてみますと、天皇号は持統3年(≒689年)の飛鳥浄御原令で正式に規定されたもののようで、天武が最初の「天皇」とされたようです。その根拠について鎌田さんのコラムでは(1)「天皇」号を含む推古朝遺文とされるものはどれも当時のものと認めがたく、野中寺弥勒菩薩造像銘も含め持統朝以後(2)中国で君主の正式の称号として「天皇」が使用されたのが高宗の上元元年(674年)から(3)「天皇」の称も天武の諡号「天渟中原瀛真人」の「真人」「瀛」も道教思想に基づくもの(4)『日本書紀』巻30持統紀に単に「天皇」と記して天武を指した例がある――の4点を挙げておられます(実は鎌田さんご自身はこれらの根拠をすべて受け入れておられるわけではなく、野中寺弥勒の銘を否定する根拠についても懐疑的なお立場のようです)。その使用開始については、大山さんの『〈聖徳太子〉の誕生』での天皇号に関する言及はごくごく簡略、最低限のものですが、1998年に飛鳥池遺跡から出土した「天皇」と見える木簡を引いて「天武・持統朝」としておられますし、鎌田さんは飛鳥京跡出土の天武10年ごろの「大津皇子」と見える木簡を引くなどされ、天武10年ごろから使用が始まっていた可能性を考えておられるようです。

 これだけの引用でも見る人から見ればきっと大問題なのでしょうが、ご容赦願います。
 しかしながらこのように見てきますと、養老4年(≒720年)撰上の『日本書紀』の各巻冒頭ではみな「−天皇」の表記にそろっているのに、序文に和銅5年(≒712年)撰上と見える『古事記』、ことに真福寺本では段冒頭での表記が『日本書紀』とは対照的に「−命」だったり「−王」だったりして「−天皇」に限らないことがかえって気にかかります。まちまちだった表記が後世書写される際に統一されてしまうことはあっても、もともと統一されていた表記がのちに何らかの判断により書き分けられてばらばらな表記になるということは考えにくいですから、もとの『古事記』で表記がまちまちだったのでしょう。先にも触れましたが『古事記』では景行・成務・仲哀・欽明・崇峻のみが段冒頭で「−天皇」の表記のようですし、安康のみは「−御子」の表記、さらに真福寺本では履中・允恭・仁賢・安閑・用明については「−王」の表記となっているようです。その「−王」表記のうちの履中・安閑・用明は『日本書紀』が大兄としている存在であることも先に申しました(履中の「大江之伊耶本和気命」の「大江」は地名とのことですが、ともかく『日本書紀』仁徳紀では「大兄去来穂別天皇」です。ほかに箭田珠勝大兄・押坂彦人大兄・山背大兄・古人大兄・天智が大兄ですが、即位していないか、『古事記』の扱う時代の範囲外です)。また「−命」「−王」という表記のばらつきは、『釈日本紀』所引『上宮記』逸文の応神・垂仁から継体に至る系譜を想起させるものでもあります。もちろん真福寺本『古事記』では冒頭の表記が「−命」「−王」であっても本文中では「此天皇、娶○○……」など「天皇」と表記しているのですが、689年の浄御原令から四半世紀近くたった『古事記』でまだこの状況です。いやむしろ積極的に何らかの情報を伝えたかったか、あるいは何らかの理由によりまちまちな原典の表記をそのまま尊重したかったかのようにさえ見えます。「そう解釈したいのは勝手」と受け流されそうではありますが。
 上に引きました「天皇」号の開始の問題と『古事記』段冒頭での表記の問題を一緒に考えるのはおかしいのかもしれません。しかし先に挙げました記紀以外の資料についてこういった観点で見ますと、奇妙なことが浮かんでくるように思うのです。
 たとえば天寿国繍帳銘。

 

斯帰斯麻

宮治天下

天皇名阿

米久尓意

斯波留支

比里尓波

乃弥己等

娶巷奇大

臣名伊奈

米足尼女

名吉多斯

比弥乃弥

己等為大

后生名多

至波奈等

已比乃弥

己等妹名

等已弥居

加斯支移

比弥乃弥

己等復娶

大后弟名

乎阿尼乃

弥己等為

后生名孔

部間人公

主斯帰斯

麻天皇之

子名蕤奈

久羅乃布

等多麻斯

支乃弥己

等娶庶妹

名等已弥

居加斯支

移比弥乃

弥己等為

大后坐乎

沙多宮治

天下生名

尾治王多

至波奈等

已比乃弥

己等娶庶

妹名孔部

間人公主

為大后坐

瀆辺宮治

天下生名

等已刀弥

弥乃弥己

等娶尾治

大王之女

名多至波

奈大女郎

為后歳在

辛巳十二

月廿一癸

酉日入孔

部間人母

王崩明年

二月廿二

日甲戌夜

半太子崩

于時多至

波奈大女

郎悲哀嘆

息白畏天

皇前曰啓

之雖恐懐

心難止使

我大王与

母王如期

従遊痛酷

无比我大

王所告世

間虚仮唯

仏是真玩

味其法謂

我大王応

生於天寿

国之中而

彼国之形

眼所叵看

悕因図像

欲観大王

往生之状

天皇聞之

悽然告曰

有一我子

所啓誠以

為然勅諸

采女等造

繍帷二張

画者東漢

末賢高麗

加西溢又

漢奴加己

利令者椋

部秦久麻


(『上宮聖徳法王帝説』所収の原文ではありません。大山誠一さんの『〈聖徳太子〉の誕生』所載のものを引かせていただき、また日本思想大系『聖徳太子集』中の「上宮聖徳法王帝説」、中田祝夫さん解説の『上宮聖徳法王帝説』所収の智恩院蔵原本の写真版、同書所収の穂井田忠友『観古雑帖』中の「天寿国曼陀羅銘文」を参照させていただきました。字体を改めた箇所があります。『上宮聖徳法王帝説』の智恩院の原本には現在中宮寺に残る「皇前曰啓」が脱落しているようです。また穴穂部間人が没した日付も原本の写真版では「十二月廾一日癸酉日入」と見え、そのあとの太子の没した日付も「二月廾二日甲戌夜半」と見えるのですが、これでは字数が合わなくなります。日本思想大系『聖徳太子集』の「上宮聖徳法王帝説」の補注で家永三郎さんは、佐佐木信綱さんの紹介された繍帳亀甲文写断簡や伏見宮家本繍帳縁起勘点文・九条家本亀甲文全文写本など鎌倉時代の写本、また『上宮太子拾遺記』所引の繍帳銘などがみな「廿一癸酉」としていることを挙げて「十二月廿一癸酉」だったとしておられます)

 

 「天皇」の語はこの繍帳銘に4カ所に見えます。そのうち前の2つは欽明を指しています(「斯帰斯麻宮治天下天皇名阿米久尓意斯波留支比里尓波乃弥己等」「斯帰斯麻天皇」)。そして欽明から推古に至る歴代、あるいは廐戸・「多至波奈大女郎」(おそらく『上宮聖徳法王帝説』第1部の「(尾治王女子)位奈部橘王」)に至る系譜は前半に集中しており、一般的に和風諡号とされている長い称が主に字音で表記されています。廐戸も「等已刀弥弥乃弥己等」のみです。ところが穴穂部間人を指す「孔部間人(公主・母王)」は字音ではなく訓です。岡田山一号墳出土の銀錯銘銀装円頭大刀の「各田卩臣」(額田部臣)同様の訓読みです。
 欽明以外の歴代については敏達「蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃弥己等」、用明「多至波奈等已比乃弥己等」、推古「等已弥居加斯支移比弥乃弥己等」で、みな和風諡号というか長い称を字音で表記したものと思われますが、「天皇」とはありません。
 「天皇」の残る2つは推古を指すものと思われ、後半の漢文的な部分に「于時多至波奈大女郎悲哀嘆息白畏天皇前曰」「天皇聞之悽然告曰」という形で見えています。そしてこの「天皇聞之悽然告曰」の後には「有一我子所啓誠以為然」とあって「多至波奈大女郎」のことを「一我子」、わが子と言っているのですが、「多至波奈大女郎」は敏達と推古の子「尾治王」(「尾治大王」)の娘であって、推古にとっては本来娘ではなく孫娘となるはず。少々矛盾を感じます。しかしながら「皇祖」といっても父母も祖父母も曽祖父母もみんな指したのかもしれませんから、逆に「子」という語に子孫全部を含める考えもあったのかもしれません。「尾治王」の「子」である「多至波奈大女郎」を「子」とする天皇はいないわけですから。
 推古について名・固有名詞を挙げる際には「等已弥居加斯支移比弥乃弥己等」と「−ノミコト」表記としながら、漢文での記述中では単に「天皇」とする体裁であって、『古事記』の体裁と通じるものがあるようにも思えます。
 前半の、いわゆる和風諡号を字音で表した系譜的部分で「天皇」と見えるのは欽明しかありませんでした。もちろん欽明についても「阿米久尓意斯波留支比里尓波乃弥己等」の部分だけ取り出せば敏達・用明・推古と同じにそろうわけですが、欽明の「シキシマ天皇」に対応するような「ヲサタ天皇」「イケノヘ天皇」「ヲハリダ天皇」的な表記は見えません。


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