4. マロコ − 2

 「マロコ」の称にこだわらず、有力と思われる皇女とそのすぐ下の同母弟という続柄のみに着目すれば、意外な存在が浮かんできます。
 廐戸の生母の穴穂部間人皇女と「スメイロド」穴穂部皇子の姉弟です。これについては既に申し上げました。
 もう一例思いつきますのは、推古の子の菟道貝鮹皇女とその弟の竹田皇子の姉弟です。

廐戸と菟道貝鮹が配偶関係、菟道貝鮹と竹田が実の姉弟の関係


 敏達と推古の間の長男である竹田に「大兄」の称が付かないのはあるいは姉の貝鮹が存在したからではないかなどと疑うのですが、貝鮹は『日本書紀』敏達53月戊子(10日)条の推古立后の記事によれば廐戸に嫁したことになっていますから、もし廐戸が即位していたとしたら竹田は廐戸の「スメイロド」的な地位となっていた可能性が考えられます。しかし実際には竹田にそれをうかがわせるような称は伝わっていません。「マロコ」の称さえも見えません。竹田は『日本書紀』ではおそらく敏達53月戊子条の推古立后の記事(「(前略)詔立豊御食炊屋姫尊為皇后。是生二男五女。其一曰菟道貝鮹皇女。〈更名、菟道磯津貝皇女也。〉是嫁於東宮聖徳。其二曰竹田皇子(後略)」)と用明24月丙午(2日)条にまとめて記される中臣連勝海が彦人大兄・竹田を呪詛したとする記事(「遂作太子彦人皇子像与竹田皇子像厭之」)、崇峻即位前紀用明27月の物部守屋討伐軍の記事(「泊瀬部皇子・竹田皇子・廐戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拕夫・葛城臣烏那羅、倶率軍旅、進討大連」)、そして推古369月の推古が没した際の記事(「先是、天皇遺詔於群臣曰、比年五穀不登。百姓大飢。其為朕興陵以勿厚葬。便宜葬于竹田皇子之陵」「壬辰、葬竹田皇子之陵」)の5カ所にしかその名が見えないのではないでしょうか。そのいずれも「竹田皇子」の表記のみです。ことに用明24月条では中臣連勝海が像を作って呪詛した対象は「太子彦人皇子」と「竹田皇子」ということですから、これを信じればこの時点では廐戸よりも竹田のほうが有力だったように思われます。そうなると「廐戸と貝鮹との配偶関係の成立により竹田が廐戸のスメイロド的な地位となる」というのは矛盾した印象です。廐戸と貝鮹の配偶関係の成立を竹田没後とでも見るか、勝海の呪詛の記事を信じないか、あるいは「スメイロド」「マロコ」的な地位の存在を認めないかといったあたりになるような気がしますが、判断の決め手を欠きます(「スメイロド」「マロコ」的な地位の存在を認めないあたりで落着しそうです)。そもそも、全体にそういったことではないのかもしれません。
 『古事記』敏達段では推古所生の子として「竹田王」と見え、「亦名」として「小貝王」と見えています(「此天皇、娶庶妹豊御食炊屋比売命、生御子、静貝王、亦名貝鮹王。次、竹田王、亦名小貝王」)。この記載を信頼すれば、竹田にはマロコの称こそ見えないものの「貝鮹王―小貝王」あるいは「静貝王―小貝王」という関係で姉の菟道貝鮹皇女と名(通称)のうえでの一体性のようなもの、ちょうど穴穂部間人皇女と穴穂部皇子の姉弟の名称から推測される一体性と同様のものが認められるように思うのです。
 しかしながら菟道貝鮹皇女もまた問題のある存在で、敏達紀には敏達と推古の間の長女として「(前略)其一曰菟道貝鮹皇女。〈更名、菟道磯津貝皇女也。〉是嫁於東宮聖徳(後略)」と見えているのですが、実は敏達紀にもうひとり「菟道磯津貝皇女」が見えています。広姫所生の末の娘で、押坂彦人大兄の妹に当たる女性です(「(前略)立息長真手王女広姫為皇后。是生一男二女。其一曰押坂彦人大兄皇子。〈更名、麻呂古皇子。〉其二曰逆登皇女。其三曰菟道磯津貝皇女」)。これについて古典文学大系『日本書紀』にはこちらの広姫所生の菟道磯津貝皇女の注に「記伝はここの磯津貝の三字を五年三月条の菟道磯津貝皇女の名とまぎれた誤りとする」と、また推古所生の菟道貝鮹皇女の注にも「記伝は四年条の磯津貝の三字を誤りとしている」とあって、『古事記伝』で宣長が広姫の末娘「菟道磯津貝皇女」の「磯津貝」をほうを誤と見ていることが紹介されています。この判断は『古事記』敏達段での対応する記載「又、娶息長真手王之女、比呂比売命、生御子、忍坂日子人太子、亦名麻呂古王。次、坂騰王。次、宇遅王。〈三柱〉」や、『日本書紀』敏達73月壬申(5日)の「七年春三月戊辰朔壬申、以菟道皇女、侍伊勢祠。即姧池辺皇子。事顕而解」などに基づくのかもしれませんが、そういった意味では5年条の「菟道貝鮹皇女。〈更名、菟道磯津貝皇女也。〉」も「菟道」を除けば『古事記』敏達段の「静貝王、亦名貝鮹王」とほぼ一致しますから、こちらの「菟道」もまた疑わしくなるようにも思われます。「どちらにも『菟道』があったからこそ混乱したのだ」と見ることもできるかもしれませんが、欽明段・欽明紀の「春日山田皇女」について想定した錯簡のようなものをこの場合にも想定できるようにも思われ、何とも判断がつきません。また『古事記』の「静貝王、亦名貝鮹王」との記載のみからでは、本来男女の別は判然としません(なお日本思想大系『古事記』の「静貝王・貝鮹王」の頭注によれば「貝鮹は雌が腕から分泌して巻貝を作り抱卵する浮遊性のタコ。主計式に貝鮹鮨がみえ、食用になる」とのことですが)。

 有力な皇女とそのすぐ下の同母弟という続柄の例として穴穂部や竹田についてこのように考えてみたところで、推古のすぐ下の同母弟の椀子皇子のパターンの違いを説明できるわけではないかもしれません。マロコと表記されない潜在的なマロコの可能性を穴穂部や竹田に広げて考えてみたに過ぎない。で、彼らがマロコと表記されなかったのは「スメイロド」や「小貝王」など別の称を持っていたためにマロコの称が表面化しなかったとでも考えるしかありません。穴穂部の「スメイロド」は『古事記』欽明段の「須売伊呂杼」のほか『日本書紀』用明紀にも「皇弟皇子」という形で見えていますが、竹田の「小貝王」は『古事記』しか伝えていませんから、「この称は信頼性が薄い、心もとない」と見るべきなのかもしれませんし、逆に「ほかにも『日本書紀』が伝えなかった呼称が存在した可能性も高い」という方向で考えることも可能かもしれません。
 ある場合には『古事記』から自説に都合のいい記載だけとってくる、ある場合には『日本書紀』から都合のいい記載だけとってくるというのは無節操のそしりを免れないのかもしれません。相応な理由を挙げて『古事記』のみを信頼する、または『日本書紀』のみを信頼する。あるいは『古事記』と『日本書紀』に共通する記載のみを信頼する。節操のある態度というのはそういうものなのかもしれません。

 推古のすぐ下の同母弟の椀子皇子については結局適当な解答を与えられません。特例――推古が敏達皇后といった形で有力になったことを受けて、その直近の同母弟も「マロコ」となった。その状態は姉の穴穂部間人が用明皇后となったことにより「スメイロド」となったであろう穴穂部の状態と似ているが、椀子皇子の段階ではまだ「スメイロド」という地位は存在していなかったか、あるいはそのような地位呼称が定着する以前に椀子皇子が没した――などとでも考えておくしかないでしょう。そしてこれらのどれもが証明されたことではない。証明のしようもない「妄想」に過ぎないのですが。

 お茶を濁したようでどうも後味が悪いのですが、残る1例――おそらく竄入であろうと考えた欽明の子の「春日山田皇女」の弟の「橘麻呂皇子」について考えておきたいと思います。
 『古事記』は「春日之日爪臣之女、糠子郎女」の子として春日山田郎女・麻呂古王・宗賀之倉王の3兄弟を挙げていますが、『日本書紀』は「春日日抓臣女曰糠子」の子として春日山田皇女と橘麻呂皇子の2人だけを末尾に回した。「宗賀之倉王」の「宗賀之」については先に「宗賀之稲目宿禰大臣之女……」などの「宗賀之」が紛れ込んだ可能性を考えていることを申し上げました。では『古事記』の「麻呂古王」が『日本書紀』で「橘麻呂皇子」の形になって「春日山田皇女」とともに末尾に回されたことをどう見るか。もちろん、これも「そのように記した資料が存在した」と考えるのが順当なのでしょうが、いままで考えてまいりましたように、「マロコ」「マロ」などを称する皇子がすぐ上の有力な王女である姉と一体、不可分のものと考えられていたとしたらどうでしょうか。春日山田皇女の所伝を疑って末尾に回した際に、そのすぐ下のマロコも春日山田皇女と不可分のものとして一緒に移した。けれども実は『日本書紀』の「橘麻呂皇子」という表記が示すように、本来は用明(橘豊日皇子)を指したものだったのではないか。用明もまた「大兄皇子」以外に「マロコ」の呼称も持っていたのではないか。
 「帝紀」などとされるものの本来の姿が、木簡を綴り合わせたような体裁のものだったとしたら……いつの時点からか用明を指すマロコの木簡の前に春日山田皇女の木簡が錯簡の形で入ってしまった。さらに「麻呂古王」「宗賀之」「倉王」などといった断片的な記載の木簡も錯簡のまま書き写されてきた……そんな可能性も考えられるのではないかと思うのです。「春日日爪臣之女糠子」の子「春日山田郎女」といった内容の木簡がなぜ仁賢の記載から欽明の記載のほうに紛れ込んでしまったのか。もともと安閑皇后として安閑の記載に加えるつもりであったものが、たまたま子ができなかったために安閑の記載からは外されてしまい、いつのころからか誤って欽明の記載の中に加えられてしまった……などと妄想してみても証明のしようもないことですし、あまり意味もないことです。

 「スメイロド」の称の見える穴穂部・天武の例、あるいは孝徳・泊瀬王や「マロコ」を称した継体の子の椀子皇子・宣化の子の上殖葉皇子・推古の同母弟の椀子皇子の例から考えますと、「スメイロド」「マロコ」という呼称・称号はともかく、「有力な女性のすぐ下の同母弟に一定の身分を与える」といったことは現象面では確かに認められるのではないかと思うのです。思い込みかもしれませんが。しかも「スメイロド」は結果的には穴穂部・孝徳・天武と年代を追って着実に成功している(孝徳を「スメイロド」と見ることができたらの話ですが)。律令制の時代になると『万葉集』130の長皇子の歌の題詞のように有名無実化したのかもしれません。というよりも、とらえようがありません。
 しかしながら「スメイロド」などという地位、嫡妻格の配偶者女性の同母弟に一定の身分を与えて相応の権利を付与するなどということの存在理由・存在意義はよくわかりません。私自身さっぱりわかりません。
 そこで「スメイロド」発生の契機を探れないものかと6世紀ごろの大王家について見てみました。継体と手白香皇女の配偶関係から見た武烈が「スメイロド」に相当します。

継体と手白香が配偶関係、手白香と武烈が実の姉弟の関係


 これは記紀の記述どおり手白香・武烈姉弟の生母を同じ春日大娘皇女(かすがのおほいらつめのひめみこ。雄略皇女。『古事記』春日大郎女)と認め、長幼の順も手白香が姉、武烈が弟と見た場合のことで、しかも前提として武烈のような存在が実在したとしてですが、即位順は武烈―継体であり、継体と手白香の配偶関係の成立さえもおそらく武烈没後であって、先ほどの廐戸と竹田の関係同様、この仮定には意味がありません。それでも何か意味を探り出せないかと思いよく見てみましたが、むだでした。
 また穴穂部が殺害された際いっしょに殺害された王族に「宅部皇子」(やかべのみこ)なる人の名が見えます。この宅部は崇峻即位前紀の用明26月条のみに名が見え、その分注に「宅部皇子は、檜隈天皇の子、上女王(かみつひめおほきみ)の父(かぞ)なり。未(いま)だ詳(つばひらか)ならず」とあって、じっさい記紀ともに「檜隈天皇」宣化の子には宅部の名は見えません。そこで「実は宣化ではなく欽明の子ではないか」とされるお説もあるそうなのですが、もし仮に宣化の子に記載から漏れた宅部皇子なる人が存在し、またそれが欽明皇后となった石姫の同母弟などだったとすれば、宅部はあるいは欽明のスメイロドとしてクローズアップされることになるかもしれません。しかし実際にそれに相当する存在は『日本書紀』では上殖葉皇子でした。上殖葉は多治比氏の祖とされる人です。殺害された宅部と同一視することはできないでしょう。「檜隈天皇之子」でなく「檜隈天皇之孫」だったら可能性もないではないでしょうが、そのように書き換える根拠もありません。

 成清弘和さんの『女帝の古代史』(講談社現代新書 2005)の中に、弥生時代から古墳時代の女性首長のあり方について概括された記述が見え、「女性首長は必ずしも祭祀のみに関わるのではないこと、女性首長が単独であるいは男性とペアで一定の地域を支配していたと推定できること、その場合のペアは夫婦ではなくキョウダイ関係であったと推定できること」などを挙げておられます。この記述は高群逸枝さんから洞富雄さんという流れで発展した「ヒメ・ヒコ制」の批判的延長とでも言うべき文脈の中で語られているものなのですが、このような引用も典型的な孫引きであって、成清さんご自身が『日本書紀』や『風土記』にあらわれる女性首長をまとめられた一覧表のほか、寺沢知子さんの弥生時代の首長の墳墓のご研究、田中良之さんの古墳時代の被葬者の性別比率のご研究、今井堯さんの古墳時代前期の女性の地位についての分析などを総合して上記のような結論を導かれているものです。本来それぞれのオリジナルに当たってしかるべきものですが、そのような能力も余裕(経済的・時間的)も一切ありません。ともかく、もしも弥生時代から古墳時代にかけての男女キョウダイのペアの首長が「兄妹」でなく「姉弟」の例が多かったとしたら、あるいはこの「スメイロド」「マロコ」の前提、母体ともなったのかもしれません。
 薗田香融さんの「皇祖大兄御名入部について」をたびたび引用させていただきます。その中に「后妃の資養は、本来その生家の負担すべきものとされたのではなかろうか。古代の外戚氏族として著われる葛城氏や和珥(春日)氏の場合は、その所出の后妃は、出身氏族の部曲である葛城部や春日部によって資養せられたのであろう」「その后妃の死去ののちは、資養の部は再び母家の所得するところとなったのであろう」といった記述が見えます。少し説明が必要ですが、これは仁徳皇后磐之媛や春日氏出身の后妃のための資養の部である「葛城部」「春日部」と、皇族出身の雄略皇后草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ、仁徳の娘)や允恭皇后忍坂大中姫(おしさかのおほなかつひめ、応神の孫)のための資養の部である「日下部」「刑部」といった名代を区別し対比させる文脈の中に見える記述です。「葛城部」「春日部」などは后妃の没したのちは母家の葛城氏や春日氏に帰属したであろうが、「日下部」「刑部」といった名代は皇室内で継承・伝領されたのであろうとされるご見解です。もっとも1968年の書籍の論文なので、近年の氏姓制度の開始や部民制の開始を5世紀末とか6世紀前半とされる通説の立場からすれば磐之媛の葛城部などはそもそもなかったということになるのでしょうか。
 実は成清さんの『女帝の古代史』では、巻末に近いところで唐の開元令・日本の大宝令・養老令それぞれの「戸令応分条」という財産分与に関する条文(同じ「戸令応分条」という条項が、唐令ではやむを得ず家産を分割する事態となった際の家産分割の規定となり、日本では遺産相続の規定になるもののようです)を通じて唐と日本の女性の財産に対する権利の違いを比較し、古代日本では夫婦別財(夫婦がそれぞれに財産を所有している)で、既婚女性・未婚女性とも相当程度の財産所有が認められていたとの見通しを示されています。専門的なので私などには全くわからないのですが、こと戸令応分条に関していえば、大宝令段階では嫡系男子にとくに高い権利が認められ、女子の相続権などは非常に制限されていたものが、養老令になると女子の財産に対する権利が高く認められている――ということになるもののようです。
 ところが私にはその戸令応分条の中の第2項のほうが気にかかりました。大宝令で「妻家の所得の奴婢は、分する限りに在らず〔本宗に還せ〕」、養老令で「妻家の所得は、分する限りに在らず」となっているという項です。大宝令のほうは「被相続人の妻が所有する奴隷などは分割する対象ではない。〔妻が亡くなれば彼女の父系近親に返還する〕」としているもののようで、対する養老令では「被相続人の妻が所有する財産は分割の対象とはならない」としているもののようです(成清さんはこの養老令の規定をまとめた表の中で、この第2項に「妻が死亡するとその子が相続する・夫婦別財制に近いか」とする解説を加えておられます)。私にはこの第2項の大宝令の規定の中の「本宗に還せ」の部分がとくに気にかかりました。実はこの大宝令(古記)の戸令応分条は薗田香融さんの「皇祖大兄御名入部について」にも引かれているものなのですが、そこには「(前略)戸令応分条の古記に、「妻家所得奴婢不在分限。〈還於本宗〉」という規定の見えることは注目すべきであり、それは后妃の資養の部が、その死去ののちは母族の所有に帰したのと揆を一にするであろう」(なお引用の返り点や分注の体裁は表現できませんでした)と見えています。これは外戚氏族が自家から割いて后妃の嫁資としたのであろう「葛城部」「春日部」といったものが后妃の死去ののちは母家の所得となったであろうのに対し、皇族出身の忍坂大中姫のための「押坂部(刑部)」は結局皇室内に蓄積・継承されて押坂彦人大兄に伝領されたとしても不思議はない、とされる文の中に見えるものなのですが、それはともかく、では妻が死んで実家に返還された妻の所得は、結局のところ実家の誰の所得、得るところとなるのでしょうか。まさに上記「マロコ」の観点に関係するような条項ではないかと思えるのです。
 もしもこの当時――8世紀ごく初頭の大宝令のころまで、女性の死亡後にその資産が戻されて実家に帰属するといったことが一般的であったとすれば、もちろんまずは実家の嫡長男、家長的な存在の所得となったとするのが最も考えやすいところでしょうが、女性のすぐ下の同母弟がその資産の権利を主張する指標となるような称を帯びているといった状況もあるいは考えやすくなるような気がします。もっともそれは「スメイロド」「マロコ」の本質、本来の性格を上記のように考えたうえで、戸令応分条の第2項もまたそれと同根のもの、同じ社会的慣習に由来するものと見ることが許されたらの話です。私には知識も理解も方法もないですし、「スメイロド」「マロコ」がどういう性格の存在だったのかも、そもそも身分として存在したのかも示すことができたわけではない。むしろ的を外している可能性が高いのでしょう。
 こういった経済がらみのことはまったくわかりませんので何も言わないほうがいいのですが、たとえばこの時期(67世紀)、姉妹をそっくり配偶者とする例が多く見えます。欽明が宣化皇女を2人か3人迎えているらしいことをたびたび述べていますが、欽明は蘇我稲目の娘堅塩媛・小姉君姉妹も迎えていますし、天智も蘇我倉山田石川麻呂の娘遠智娘・姪娘姉妹を迎え、さらに安閑も許勢男人(雀部朝臣真人らに言わせれば「雀部朝臣男人」としてほしい「許勢男人大臣」です)の娘紗手媛(さてひめ)・香香有媛(かかりひめ)姉妹を配偶者にしているようです。これら女性の没後にその嫁資が実家に戻る原則であったとすれば、実家側としてもある程度安心してこのような形の配偶関係を認めることができたでしょう。なお天武は天智の娘を4人(大田皇女・持統・大江皇女・新田部皇女)配偶者に迎えていますが、これは特殊な例と見るべきものと思っています。
 しかし遠智娘・姪娘姉妹の場合、その嫁資は実家に戻されたでしょうか。実家の蘇我倉山田石川麻呂は大化5年(≒649年)3月に謀反の疑いをかけられ滅ぼされてしまったのに。
 また蘇我馬子の配偶者に物部守屋の妹があって、この人が蘇我蝦夷の生母だったようです。『日本書紀』崇峻即位前紀の用明27月、丁未の役で物部守屋が戦死した記述の直後には「時の人、相謂りて(あひかたりて)曰はく、『蘇我大臣の妻は、是(これ)物部守屋大連の妹(いろも)なり。大臣、妄(みだり)に妻の計(はかりこと)を用ゐて、大連を殺せり』といふ」などと見え、また山背大兄ら上宮王家が滅ぼされる直前の皇極2年(≒643年)106日、蘇我蝦夷が子の入鹿に勝手に紫冠を授けた記事に続いては「大臣(蘇我入鹿またはその弟)の祖母(おば)は、物部弓削大連(物部守屋)の妹(いろも)なり。故(かれ)母(いろは)が財(ちから)に因(よ)りて、威(いきほひ)を世に取れり」などと見えていて、これらの記述から蝦夷の生母が物部守屋の妹だったと推測されるらしいのですが、守屋の妹が持参した嫁資があったとすれば、おそらくそれらも実家に戻されることなく蝦夷―入鹿へと継承されていったのではないでしょうか。
 なお「財」を「ちから」とする読みは古典文学大系によったのですが、財産・財宝の「財」(タカラ)と労役・力役がすなわち税であるような「税」(チカラ)が語源として近いのではないかといったことが垣間見えるのかもしれず、興味深いものがあります。これも余談でした。いや、余談というよりも入力ミスを疑われた場合を想定して弁解のために記しました。

 以上だらだらした記述になってしまいましたが、私なりに穴穂部の「須売伊呂杼」(スメイロド)と推古のすぐ下の同母弟「椀子皇子」に対する卑見を申し上げました。『古事記』が穴穂部の「名」だとするスメイロドと、『日本書紀』で穴穂部・天武について見える「皇弟」の称とを同一と見、これに「皇后(嫡妻格の配偶者女性)のすぐ下の同母弟」という共通する続柄を考えた場合、スメイロドの称こそ見えないものの続柄上は孝徳がこれに相当し、また廐戸の子の泊瀬王もこれに近い立場にありました。『万葉集』130、長皇子の歌の題詞に見える「皇弟」については逆にこれらと共通する続柄の存在がなく、484の「皇兄」とともに『万葉集』独特の用字と考え、通説どおり同母弟の弓削皇子あたりを考えておくしかないように思います。
 敏達皇后の推古については、このスメイロドに相当する続柄の同母弟は椀子皇子でした。「マロコ」(麻呂古・椀子)を称する王子は記紀に多数見えますのでそれらを列挙したところ、安閑・押坂彦人大兄・用明の子の当麻皇子という「大兄」相当のグループと、継体のもうひとりの椀子皇子・宣化の子の上殖葉皇子・推古のすぐ下の同母弟の椀子皇子という「スメイロド」的性格のグループとに分かれて収まりそうであることを見たつもりです。
 『上宮聖徳法王帝説』や『上宮記』逸文に見える、廐戸・菩岐岐美郎女の子の「麻呂古王」と山背大兄・舂米女王の子の「麻呂古王」については「大兄」的でも「スメイロド」的でもない。そこで彼らのすぐ上の兄弟とされている「伊止志古王」「難波(麻呂古)王」については「本当に男性であるかどうかわからない」という言い方でお茶を濁しております。
 有力と思われる皇女のすぐ下の同母弟に認められる「マロコ」の称の持つ意味については、たとえば同母姉が配偶関係を結んだのちに死亡した際の、嫁資となっていた資産の権利を主張する指標のようなものに由来する地位ではないかと想定いたしました。
 もちろんとくに根拠があるわけではなく単なる思い付きに過ぎないのですが、こういった見方には違和感・反論をお持ちの向きも多いものと思われます。たとえば姉と弟という関係は経済的な観点からでなく「ヒメ・ヒコ制」のような観点から検討すべきであるとか。もっともそれ以前に、私は古代の経済とか財産に関する問題にせよ「ヒメ・ヒコ制」の問題にせよ全く何の文献も拝読していないのですから、そもそも何かを申し上げられる立場にはありません。
 それにもし、私が自身でこのような考え(「スメイロド」「マロコ」について)を思いついたのでなく他の人が書いたものを読んだのだとしたら、おそらく私自身が強い反発を覚えていたことでしょう。たとえば……『日本書紀』の成立した時代には平仮名や片仮名は存在しませんから「スメイロド」という読みにどこまで信頼が置けるかといった問題もあるでしょうし、孝徳について「皇弟」「スメイロド」とする記録は恐らく存在しないでしょうから、続柄のみから孝徳も「スメイロド」的地位にあったなどとするのは恣意的で、むしろ孝徳を「スメイロド」とする記録のないこと自体が私の考える「スメイロド」の地位に対する反証とされかねません。廐戸の子の泊瀬王を「スメイロド」的性格に、推古の子の竹田を「マロコ」に分類しているのも同様に恣意的とのそしりを免れないでしょう。また安閑の「摩呂古」「麻呂古」はあくまで継体の言葉に見える一般的な呼びかけの辞であって、継体王子や欽明王子の「椀子皇子」という「実名」や、上殖葉皇子・押坂彦人大兄皇子などの「亦名」「更名」として見えるマロコなど、固有名詞としてのマロコとは最初から区別すべきものなのかもしれません。何も読んでいないこと(そしてそれを開き直っていること)、きちんと証拠の上に手続きを踏んで論理を組み立てていないことなどはそもそも論外でしょう……などといった反発を、私自身が覚えていたものと思われます。


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