4. マロコ − 1

 「勾大兄」安閑も押坂彦人大兄も「大兄」であり、かつ「マロコ」の称も持っていました。
 継体の子のもうひとりの「マロコ」、三尾君氏出身の女性(『古事記』で「三尾君加多夫之妹、倭比売」、『日本書紀』で「三尾君堅楲女曰、倭媛」)の子の椀子皇子は『古事記』が「大郎女」(おほいらつめ)、『日本書紀』が「大娘子皇女」(おほいらつめのひめみこ)とする特徴的な名を持つ女性のすぐ下の同母弟です。上に姉がいますが、その生母から見れば「長男」ということにはなるでしょう。「オホイラツメ」といえば雄略の娘で仁賢皇后となり手白香皇女や武烈の生母となった春日大娘皇女(かすがのおほいらつめのひめみこ、『古事記』春日大郎女)などを思い出しますが、また『日本書紀』皇極元年是歳条に見える「上宮大娘姫王」(かみつみやのいらつめのみこ)は、先にも述べましたとおり『上宮聖徳法王帝説』『上宮記』に見える山背大兄の配偶者の舂米女王のことと思われます。そしてこの継体の子の椀子皇子については、天武13年(≒684年)101日に真人を賜姓された13氏のひとつ、三国公(みくにのきみ)氏の祖と見えます。
 宣化の子で「椀子」の称を持つ上殖葉皇子は『日本書紀』によれば石姫皇女・小石姫皇女・倉稚綾姫皇女の下の弟で、この例も上に姉がいますが、やはり生母から見れば「長男」ということになるでしょう。宣化・欽明のころの后妃・所生子の記載が『古事記』『日本書紀』の間で食い違いの多いことは既に何度かお示ししましたが、ともかく上記の宣化の皇女のうち2人ないし3人が欽明の配偶者になっている可能性が高いものと思われます。しかもこの上殖葉皇子も天武13101日に真人を賜姓された13氏のうちの丹比公氏・猪名(偉那)公氏の祖とされています。
 『古事記』欽明段の最初の「麻呂古王」、すなわち春日山田郎女の弟の麻呂古王が『日本書紀』では「橘麻呂皇子」として后妃・所生子の記載の末尾に回されており、その存在が疑わしいことは既に触れました。
 推古のすぐ下の同母弟の椀子皇子については、記紀ともに名前以外特段の記載は見えません。
 『日本書紀』用明紀に用明の子として見える「麻呂子皇子」こと当麻皇子につきましては、先に黛道弘さんのご見解を遠山美都男さんの本から孫引きさせていただいたところで既に触れました。用明元年正月壬子朔(1日)条には「葛城直磐村女広子、生一男一女。男曰麻呂子皇子。此当麻公之先也。女曰酢香手姫皇女。歴三代以奉日神」と見えています。その生母の「葛城直磐村女広子」についても『古事記』用明段では「当麻之倉首比呂之女、飯女之子」、『上宮聖徳法王帝説』では「葛木当麻倉首名比里古女子、伊比古郎女」となっており、『日本書紀』がその父の名と取り違えているらしいことを、先に舒明生母の糠手姫皇女のそのまた生母の表記の問題とからめて述べさせていただいております。この「麻呂子皇子」はそのイヒコ・イヒメノコらしい女性の長男(男子は1人。姉妹が伊勢斎王の前身的な地位となったらしい酢香手姫皇女1人)で、『日本書紀』でも推古11年(≒603年)の記事のほうには「当摩皇子」として見えています。この当摩皇子は撃新羅将軍の来目皇子(くめのみこ、廐戸の同母弟)が推古112月に筑紫で没したのち4月に征新羅将軍となり、出発した7月に赤石(明石)で妻の舎人姫王(とねりのひめおほきみ)が没したため帰還したと見えます。また『上宮聖徳法王帝説』にも「乎麻呂古王」とのみ見えるようです(「又天皇娶葛木当麻倉首名比里古女子、伊比古郎女、生児乎麻呂古王。次須加弖古女王(後略)」)。そしてこの「麻呂子皇子」もまた天武13101日に真人を賜姓された13氏のひとつ、当麻公(たぎまのきみ)氏の祖です。
 私が記紀から拾い出せました「マロコ」の称を持つ王子は、以上(1)安閑(2)継体と三尾君の女性との間の椀子皇子(3)宣化の子の上殖葉皇子((4)欽明の子で春日山田郎女の弟の橘麻呂皇子)(5)堅塩媛の子で推古のすぐ下の同母弟の椀子皇子(6)用明の子で廐戸の異母兄弟の当摩皇子(7)押坂彦人大兄――の7例、このくらいです。黛道弘さんの「舂米部と丸子部」などで既にまとめられていることと思われ、それを読まぬままこういうことを書きますのはまことに心苦しいのですけれども、恐縮ながら拝読しておりません。
 記紀に登場するこれらのマロコの例については、(1)安閑(6)用明の子の当摩皇子(7)押坂彦人大兄――の3例がその生母の長子、男女合わせても第1子で「大兄」相当(安閑・押坂彦人大兄は実際に「大兄」)であり、(2)継体のもうひとりの椀子皇子(3)宣化の子の上殖葉皇子(5)推古のすぐ下の同母弟の椀子皇子――の3例については有力な王女(それぞれ大娘子皇女・おそらく欽明皇后の石姫・推古)のすぐ下の同母弟と思われる存在であって、その姉が皇后(大后)格の地位に就けば「スメイロド」格と見られる続柄の王子です(もっとも(2)継体の子の椀子皇子と(3)宣化の子の上殖葉皇子については、少なくとも生母から見れば「長男」ではあるわけです)。欽明段・紀にもうひとり見える「麻呂古王」の(4)橘麻呂皇子については竄入、この形では実在しない存在と思っておりますが、やはり「春日山田皇女」という女性の同母弟らしい扱いになっています。

 

出典

生母

事項

安 閑

継体紀
(継体712月戊子継体の言葉の中に「摩呂古」と)

継 体

目子媛

勾大兄皇子
生母の長男(姉なし)
紀のみ、記では「和風諡号」のみ

椀子皇子

継体紀
(記に「丸高王」)

継 体

「三尾君堅楲女曰、倭媛」(継体紀)
「三尾君加多夫之妹、倭比売」(記)

生母の長男
姉「大娘子皇女」(継体紀)、「大郎女」(記)
継体紀に「是三国公之先也」

上殖葉皇子

宣化紀に「上殖葉皇子、亦名椀子」

宣 化

橘仲皇女

宣化紀では生母の長男
姉「石姫皇女」「小石姫皇女」「倉稚綾姫皇女」(宣化紀)
記、宣化段の「恵波王」は「川内之若子比売」の次男

椀子皇子

欽明紀
(記に「麻呂古王」)

欽 明

堅塩媛

堅塩媛の三男
すぐ上の姉が推古

橘麻呂皇子

欽明紀
(記に「麻呂古王」)

欽 明

「春日日抓臣女曰糠子」(欽明紀)
「春日之日爪臣之女、糠子郎女」(記)

生母の長男。姉春日山田皇女
おそらく仁賢段・紀の重出

押坂彦人大兄

敏達紀に「押坂彦人大兄皇子〈更名、麻呂古皇子〉」
(記に「忍坂日子人太子、亦名麻呂古王」)

敏 達

広 姫

生母の長男(姉なし)

麻呂子皇子

用明紀
(記には「当麻王」のみ、帝説に「乎麻呂古王」)

用 明

「葛城直磐村女広子」(用明紀)
「当麻之倉首比呂之女、飯女之子」(記)
「葛木当麻倉首名比里古女子、伊比古郎女」(帝説)

当摩皇子(推古11年の「征新羅将軍」)
生母の長男(姉なし)
用明紀に「此当麻公之先也」

麻呂古王

帝説に「麻呂古王」
雑勘文所引上宮記に「麻里古王」

廐 戸

「膳部加多夫古臣女子名菩岐ゝ美郎女」(帝説)
「食部加多夫古臣女子名菩支々弥郎女」(雑勘文所引上宮記)

雑勘文所引上宮記に「兄伊等斯古王」「弟麻里古王」「次馬屋女王」、3人の総称が「三枝王」ともとれる記載が
これが帝説では「次伊止志古王 次麻呂古王 次馬屋古女王」

難波麻呂古王

帝説のみに「難波麻呂古王」

山背大兄

「舂米王」(帝説)

雑勘文所引上宮記では「難波王」のみ

麻呂古王

帝説に「麻呂古王」
雑勘文所引上宮記に「麻里古王」

山背大兄

「舂米王」(帝説、雑勘文所引上宮記とも)

雑勘文所引上宮記では「難波王」のすぐ下
帝説では「難波麻呂古王」のすぐ下

 

 武光誠さんの『聖徳太子』の図に示されている廐戸と菩岐岐美郎女の子の「麻呂古王」や、山背大兄と舂米女王の子の「難波麻呂古王」「麻呂古王」などは記紀には見えない名です。繰り返しになるかもしれませんが、記紀は即位しなかった廐戸の后妃やその所生子を掲載しません。膳氏出身の菩岐岐美郎女や蘇我馬子の娘の刀自古郎女の名は記紀でなく『上宮聖徳法王帝説』や『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引の『上宮記』逸文などに見えています。敏達と推古の長女の菟道貝鮹皇女(うぢのかひだこのひめみこ)が廐戸の配偶者だったことは敏達紀の菟道貝鮹皇女の説明に見えているのですが、いっぽう廐戸と貝鮹の間には子がなかったらしく『上宮聖徳法王帝説』や『上宮記』逸文には貝鮹の名は見えません。こういった事実から逆に「帝紀」といったものの性格も推測できるのかもしれませんが、それはとりあえず置いて、『上宮聖徳法王帝説』・『上宮記』逸文に見えるマロコについても見ておきたく思います(以下は日本思想大系『聖徳太子集』所収「上宮聖徳法王帝説」の家永三郎さんの補注等によりました)。
 廐戸と菩岐岐美郎女の間の子であるマロコ王については『上宮聖徳法王帝説』に「(前略)児舂米女王 次長谷王 次久波太女王 次波止利女王 次三枝王 次伊止志古王 次麻呂古王 次馬屋古女王〈已上八人〉」と見えています(この「已上八人」については、本文とは別筆というご指摘を何かで拝見しました)。『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文ではこの「三枝王」に続く3人の表記が「兄伊等斯古王/弟麻里古王/次馬屋女王」となっていて菩岐岐美郎女の所生子も「合七王也」、計7人と数えられているようですが、これについて法空や黛さんの説では「三枝王」を三つ子の総称と見ていることが古典文学大系『日本書紀』の「福草部」の補注に記されていました。先に触れさせていただいております。
 また山背大兄と舂米女王との間のマロコ王については、『上宮聖徳法王帝説』では「山代大兄王娶庶妹舂米王生児難波麻呂古王 次麻呂古王 次弓削王 次佐々女王 次三嶋女王 次甲可王 次尾治王」であるのに対し『上宮記』逸文では単に「尻大王/娶其妹舂米王生児/難波王/麻里古王/弓削王/作作女王/加布加王/乎波利王」などとなっているようです(実際には系図の体裁のようなのでここで表現できません)。また『上宮聖徳太子伝補闕記』にも当該部分については「孫 難波王 末呂女王〈膳〉 弓削王/佐保女王 佐々王 三嶋女王/甲可王 尾張王」などとなっているようで、これについて坂本太郎さんは『聖徳太子』(吉川弘文館 1979)の中で「難波麻呂古王は『上宮記』や『補闕記』はただ難波王に作る。次の麻呂古王の名が混入して難波麻呂古王とされたのかもしれない」と記しておられます。もしもそう考えてよいのであれば、山背大兄と舂米女王の間の子のマロコ王は「難波王」の下の「麻里古王」ひとりということになりますが……。
 廐戸と菩岐岐美郎女の間のマロコ王は『上宮記』逸文によれば「兄伊等斯古王」、男の兄のすぐ下の弟のようであり、『上宮聖徳法王帝説』の記述とは食い違いがあるにしても「兄伊等斯古王」を覆す根拠となりそうにはありませんし、また山背大兄と舂米女王の間のマロコ王は『上宮聖徳法王帝説』によれば長子が「難波麻呂古王」、次子が「麻呂古王」で男男と続く兄弟のように見え、『上宮記』逸文の「難波王/麻里古王」の記述によっても難波王を女性とは断定できません。「作々女王」の例からすれば「難波王」は男性のようにも見えます。
 これら『上宮聖徳法王帝説』『上宮記』逸文の伝えるマロコはいずれも男兄のすぐ下の弟のように見え、せっかく私が記紀から導いたマロコ観を台無しにするのにあずかって力があるのですが、どういうわけかマロコはちょうど『上宮聖徳法王帝説』と『上宮記』逸文とで食い違っている部分にあらわれます。これらの所伝は混乱していて整理されていないようなので、「伊止志古王」「難波(麻呂古)王」が本当に男性であるかどうかは実はよくわかりません。『上宮記』逸文では「兄伊等斯古王」、はっきり「兄」と書いているようなのですが、これは『古事記』欽明段で小姉君について「小兄比売」と書いているのと同じような用例だったのかもしれません。名に「比売」と付けば女性とわかるように、もし「伊止志古」「伊等斯古」などと表記される名、通称が女性特有のものだったとすれば、「兄」と書いてあってもそれが女性であることは自明だったでしょう。『古事記』の記載では「妹○○王」でも「○○比売」でも「○○郎女」「○○女王」でもなく単に「○○王」と表記されている人が『日本書紀』では「○○皇女」だったり(例:欽明段の笠縫王や大宅王など、その他多数)して、王子・王女の別は「妹」「郎女」といった記載のみでは判断できないところがあるようです。
 もちろん『上宮聖徳法王帝説』や『上宮記』逸文の記載のままでは自説に都合が悪いので、このように申しております。
 これが『上宮聖徳太子伝補闕記』になりますと、「太子子孫」と言いながら廐戸の兄弟であるはずの「殖栗王」「茨田王」が「山代大兄王」の下に断りもなく見えていたり、「末呂女王」などという人が見えたりして非常に混乱した状況です。手元にあります中田祝夫さん解説の『上宮聖徳法王帝説』に群書類従本(木版本・活字本とも)の『上宮聖徳太子伝補闕記』も写真版で収載されていますので、試みにそちらから「癸卯年十一月十一日丙戌亥時宗我大臣并林臣入鹿致奴王子児名軽王巨勢徳太古臣大臣大伴馬甘連公中臣塩屋枚夫等六人発悪逆至計太子子孫男女廿三王無罪被害」として列挙された王・女王23人を引かせていただきますと、「山代大兄王〈蘇〉 殖栗王 茨田王/卒末呂王 菅手古王 舂米女王〈膳〉/近代王 桑田女王 礒部女王/三枝末呂古王 財王〈蘇〉 日置王〈蘇〉/片岳女王〈蘇〉 白髪部王〈橘〉 手嶋女王〈橘〉/孫 難波王 末呂女王〈膳〉 弓削王/佐保女王 佐々王 三嶋女王/甲可王 尾張王」などとなっています(1行に3人ずつ書かれていますが、体裁等はうまく表現できません)。実はこれも『上宮聖徳法王帝説』・『上宮記』逸文を参照して適宜体裁を直すと基本的には山背大兄→用明の子(廐戸の兄弟姉妹)→菩岐岐美郎女所生子→(山背大兄を除く)刀自古郎女所生子→山背大兄と舂米女王の間の子、という順に並んでおり、『上宮聖徳法王帝説』と『上宮記』逸文で違いが見られた「三枝王」以下が「三枝末呂古王」とされていたり、『上宮聖徳法王帝説』『上宮記』逸文に見えない「佐保女王」が入ったりしています。この「佐保女王」は、あるいはもともとは廐戸生母の穴穂部間人が用明没後に用明の子の多米王と配偶関係となり誕生した「佐富女王」(『上宮聖徳法王帝説』・『上宮記』逸文)のことで、「佐々王」(「佐々女王」)との混乱の結果どちらも書き込まれてしまったといった事情などが背景にあるのかもしれませんが、わかりません。泊瀬王は『日本書紀』舒明即位前紀では境部臣摩理勢が殺される以前に頓死したことになっているのですが、その泊瀬王もおそらく「近代王」という形で見えているようです。『上宮聖徳法王帝説』に近い原本が参照されたのかもしれませんが、使いづらい形にされてしまっています。直前の「(前略)宗我大臣并林臣入鹿致奴王子児名軽王巨勢徳太古臣大臣大伴馬甘連公中臣塩屋枚夫等六人(後略)」が『日本書紀』にもない貴重な資料と思われるだけに残念です。

 『上宮聖徳法王帝説』・『上宮記』逸文・『上宮聖徳太子伝補闕記』の伝える廐戸の子のマロコ王、山背大兄の子のマロコ王は卑見にとって不利……というよりも焦点の定まらない印象で、記紀編纂者の労苦を思い知らされるようにさえ感じるのですが、少なくとも『古事記』『日本書紀』からうかがえる愛称のマロコについては「大兄」と「スメイロド」の両者を包含するなかなか堂々とした称号のようにも思えてまいります。もっとも、このように言い切ってしまうのは私自身少々抵抗があります。
 安閑・押坂彦人大兄・当摩皇子の「大兄」相当のマロコについては問題ないでしょうが、有力皇女のすぐ下の同母弟のマロコ、「スメイロド」的なマロコのほうには問題を感じます。継体のもうひとりの椀子皇子と、宣化の子の上殖葉皇子(『日本書紀』の所伝による)の両名については、その生母から見れば結局は「長男」ということになります。同母の姉はあっても兄はいません。『日本書紀』が「大兄」だと伝える安閑(勾大兄)・箭田珠勝大兄・用明(大兄)・押坂彦人大兄・山背大兄・古人大兄・天智(中大兄)についてはその生母の最初の子(天智は舒明と皇極の間の最初の子)、男女合わせた同母の兄弟姉妹全体の中でも総領、最初の子だったようで、いずれも同母の姉の存在は伝わっていないのですが、「長男」という意味では継体の椀子皇子と上殖葉皇子も姉はあってもその生母の「長男」ですから、あるいは「大兄」格であると見ることもできるかもしれません。
 しかし推古のすぐ下の同母弟の椀子皇子は堅塩媛の長男ではありません。ずっと前に引かせていただきました欽明の子女を参照願えればご了解いただけるものと存じますが、堅塩媛の長男は用明ですし、推古にしてからが堅塩媛の長女ではありません。長女は磐隈皇女(いはくまのひめみこ)という女性で「初侍祀於伊勢大神。後坐姧皇子茨城解」、伊勢斎王の前身のような地位にありながら茨城皇子(小姉君の長男)のせいでその任を解かれたように記されています。さらにそのすぐ下には臘嘴鳥皇子(あとりのみこ)という男子がありました。推古の兄に当たるようです。推古の弟の椀子皇子は堅塩媛の5番目の子で三男ということになります。長幼の序といった観点からすれば磐隈皇女が敏達皇后になって臘嘴鳥皇子がそのマロコ相当の地位となってもおかしくないように思われるのですが、実際にはそうはならなかった。ともかく推古のすぐ下の同母弟の椀子皇子のみについては継体の椀子皇子や上殖葉皇子とは少しパターンが違うように思えるのです。そして記紀の範囲では「長男」でないマロコはこの推古のすぐ下の同母弟の椀子皇子しか見当たりません(廐戸と菩岐岐美郎女の間のマロコ王は傍証とできるのか反証なのか、所伝が曖昧です)。
 これらについてどう判断してよいのか、どう説明をつけてよいのかはわかりません。何しろ記紀に見えるマロコの7例、その中でも大兄格でないマロコの3例というのは、多いようでありながら、説明するには圧倒的に少ない数字です。

 また別にちょうどこの時期、推古朝のあたりから「麻呂」の付く人名が増えてくることも気にかかります。思いついた(目についた)ところだけでも「紀男麻呂」「境部雄摩侶」「阿倍内摩呂(倉梯麻呂・倉梯万侶)」「蘇我倉山田石川麻呂(倉山田麻呂・山田石川麻呂・石川万侶)」ほか多数あって挙げきれません。先ほど安閑を指す「摩呂古」についての古典文学大系の注に「一種の愛称で(後略)」と、また日本思想大系『古事記』の注にも「「まロこ」は坊やという程度の愛称」と見えることを引かせていただきましたが、これら「−麻呂」も王子のマロコと同じ由来の称と見、それぞれが「長男」――同母兄弟の初生子・第1子か、あるいは上に姉はいるものの「長男」――であるか、もしくは有力な姉のすぐ下の弟であるか、などについて検証することはとてもできません(わからないから)。そういえば……奈良時代の話ですが、藤原不比等の4人の男子が「武智麻呂」「房前」「宇合」「麻呂」でした。長男が「武智麻呂」なのはよいとして、末の四男が「麻呂」です。ただし武智麻呂・房前兄弟の生母が蘇我娼子なる女性(宇合の生母も同じとするものもあるようですが、不明のようです)であるのに対し、麻呂の生母は五百重娘(いほへのいらつめ)、藤原鎌足の娘で天武との間に新田部皇子(塩焼王・道祖王の父)をもうけた女性ですから、麻呂は藤原不比等と五百重娘の異母兄妹の間の子、おそらく「長男」ということになりそうです。
 なお新田部親王の子の道祖王は天平勝宝8歳(≒756年)5月乙卯(2日)に聖武が没した際皇太子に立てられますが、翌天平宝字元年(≒757年)3月丁丑(29日)に廃太子され、『続日本紀』の同年7月庚戌(4日)の記事に黄文王や大伴古麻呂らとともに「並杖下死」と見えています。またその兄弟の塩焼王は天平宝字8年(≒764年)の恵美押勝の乱で「今帝」などと担ぎ出されるも同年9月壬子(18日)に殺害されたもののようです。兄弟で一方の道祖王は事実上藤原仲麻呂に殺されたようなもの、かたや塩焼王はその仲麻呂と運命をともにさせられた、道連れにされたような死に方ですが、その「藤原仲麻呂」は武智麻呂の次男のようで、兄は「豊成」でした。生母については岸俊男さんの『藤原仲麻呂』(吉川弘文館1969)に「『公卿補任』は、兄豊成と同母で、従五位下安倍朝臣貞吉の女、貞媛(ルビ:さだひめ)と伝え、『尊卑分脉』も豊成と同腹とするが、この方は従五位下安倍真虎(一本安倍真若吉)の女(ルビ:むすめ)と記している」などとあって、兄の豊成と同母のように見えます。これでは「中」「仲」を「2番目」の意味と見る際の参考にはなっても「麻呂」の意味を長男などと見ることはできません。
 とはいえ、名前に対する意識は時代とともに移るものでしょうし、奈良時代にマロコを称する親王がいたとも思えません。現代でも名に「−太郎」とついてはいても長男でない例は多数あるでしょう。その「藤原仲麻呂」は、『日本霊異記』下巻第38でははじめに「大納言藤原朝臣仲麿」と見えていますが、少し後では「仲丸」となっています。


_    _
_ トップ _