3. スメイロド − 2
「皇弟」という語は『万葉集』巻2の130の歌の題詞にも見えます(『万葉集』中にほかにもあるかもしれませんが、確認しておりません)。天武と大江皇女(天智の娘)の間の子である長皇子の歌で、この130を含む巻2の105−140は「相聞」の中の「藤原宮御宇高天原広野姫天皇代」(持統朝。これも写本により表記が違うようですが)の標目の歌に分類されています。
「長皇子、皇弟に与ふる御歌一首」(「長皇子与皇弟御歌一首」)という題詞の歌ですが、「丹生乃河 瀬者不渡而 由久遊久登 恋痛吾弟 乞通来祢」の表記に対し古典文学大系『万葉集』では「丹生(にふ)の河瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛き(こひいたき)わが背(せ)いで通ひ来ね(かよひこね)」、中西進さんの『万葉集(一)』では「丹生(にふ)の河瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛き(こひたき)わが弟(と)こち通ひ来ね(かよひこね)」との読みをそれぞれ与えておられます。解釈についても、古典文学大系では「丹生の河の瀬は渡らずに恋の心に悶々としている弟よ。さあ私の所へ通って来て心を晴らしなさい」、中西さんは「丹生の川の浅瀬もえらばずどんどん渡ってゆくように、どんどん恋しさのつのって来る弟よ、こちらに通っていらっしゃい」としておられます。恐縮ながら、私などにはどちらの解釈もいまひとつわかりかねるように思われます。古典文学大系の注にも「作歌事情も、ユクユクトの意味も分かり難いので、全体の意味のとり方に諸説がある」と見えます。
ところがこの歌は題詞にも問題があるように思われます。「皇弟」が誰を指すのかわかりません。古典文学大系は「皇弟」を「いろと」と読んで注には「長皇子の同母弟に弓削皇子がある。皇弟は元来天皇の弟の意であるが、ここでは長皇子の弟の意か」とあり、中西さんのほうは「皇弟」を「すめいろと」と読んで「同母の弟、弓削(ゆげ)の皇子をさす」としておられます。
こちらの「皇弟」は正直申し上げてわけがわかりません。『日本書紀』の穴穂部や天武の「皇弟」の例に従えば「スメイロド」と読むことは可能でしょうが、私が穴穂部・天武の例で考えました「皇弟」(スメイロド)は本来単なる「イロド」(同母弟)ではなく、皇后のすぐ下の同母弟という位置付けでした。いわば「皇后の実弟(=天皇の義弟)」です。その意味で考えた場合、天武・持統・文武・元明の各代に「スメイロド」となる人は存在しません。天武皇后の持統には同母弟の建王がありましたが、斉明4年に8歳で早世しています。持統・元明は女帝なので論外ですが、持統の同母弟の建王は早世していますし、元明には同母弟はいません。文武には皇后がありませんでした。藤原氏の出の宮子の弟を「皇弟」に当てるとすれば別ですが。卑見のような「スメイロド」ではなく通常解釈されているであろう形で考えれば、用明紀の穴穂部の「皇弟皇子」は用明から見て弟(異母弟)ということでしょうし、孝徳紀末尾の天武の「皇弟」は即位後の天智の立場から見て同母弟ということになりますが、この題詞の「皇弟」を仮に単純に「天皇の弟」と考えても、やはり藤原京(694−710)前後の時期にはそれに相当する存在は考えづらく思います。持統・元明の男兄弟(つまり天智の男子)は建王・川嶋皇子・志貴皇子・大友皇子しかなく、全員が異母の関係です。建王と大友皇子は早くに没し、川嶋皇子も持統5年(≒691年)9月に没しています。弓削皇子以外に可能性として考えれば、藤原京前後の時期では霊亀2年(≒716年)8月甲寅(11日)に「二品志貴親王薨」と見える志貴皇子あたりになるでしょうか。文武には元正と吉備内親王の姉妹がいただけのようです。
私が勝手に立てた「スメイロド」の見方を捨てて「皇弟」を天武の王子全体に広げれば、舎人皇子や忍壁皇子など数多くの王子がいますが、長皇子より年少らしいのは穂積・弓削・新田部の3人程度のようであり、穂積・新田部は異母ですから本来なら「イロド」ではありません。「イロド」を強調するならやはり弓削皇子ということになりそうです。「皇弟」を弓削皇子と見る解釈は主に歌の「吾弟」から出るのでしょうが、長皇子が即位しているわけではありませんし、長・弓削の兄弟には皇后になった姉妹もありません。天武の子で即位した人はいません(草壁皇子が皇太子のまま持統3年に没しています)から、「皇弟」表記を重視すれば本来なら弓削皇子も含め天武の皇子には「皇弟」と呼べるような人はいないはずなのです。
ちなみに『万葉集』巻3の239・240の歌は柿本人麻呂が長皇子の遊猟に従った際の長歌と反歌ですが、どちらにも長皇子を指す「おほきみ」(「大王」)の語が見えています。また巻2の204・205の歌も置始東人が弓削皇子の没した際に詠んだ挽歌の長歌と反歌で、それぞれに「おほきみ」(「王」)と見えています。しかしながらそういった意味では167の人麻呂の長歌では草壁皇子を「おほきみ」(「王」)と、199の人麻呂の長歌では高市皇子を「おほきみ」(「大王」)と呼んでいますから長・弓削兄弟の身分ばかりを特別視することはできないでしょうし、逆にいえば『万葉集』では「おほきみ」の語も天皇に限定する必要はなくて広く皇族にも使われたと見ることができるでしょうから、「皇」字についても場合によっては皇族に広げて見る余地があるのかもしれません。
長皇子は上記のように天武と大江皇女の長男で、奈良時代後期の著名な皇族(で、官僚というか政治家というか)である文室浄三(ふむやのきよみ・ふむやのじょうさん。智努王。文室智努)らの父にあたります。同母の兄弟は弓削皇子のみのようです。『万葉集』60・65・73・84・130の各歌が長皇子の作ですが、目的ではないので全部は挙げません。なお84は巻1巻末の歌であり、また「寧楽宮」の標目の唯一の歌で、題詞には「長皇子与志貴皇子於佐紀宮倶宴歌」とあるのに志貴皇子の歌は見えず長皇子の歌1首のみです。諸書の解説などを拝見しますと長皇子の歌は秀歌というよりは技巧のかった歌といった印象のもののようにもうかがわれます。つまり、よくわからない。弟の弓削皇子は『万葉集』に111・119・120・121・122・242・1467・1608(2254が同歌)を残し、また『懐風藻』葛野王の伝に名を残す人(高市没後に持統が会議で後継者を諮ろうとした際、何か言おうとして葛野王に叱責されたと見えます)ですが、長皇子には特段の事績も見当たらないようで、『続日本紀』霊亀元年(≒715年)6月甲寅(4日)には「一品長親王薨。 天武天皇第四之皇子也」とのみ見えるのみで特段の記載もありません。この「一品」についても古典文学大系『日本書紀』の補注には「(二品か)」と疑っておられる記述が見えます。なお弓削皇子は高市皇子没から3年後の文武3年(≒699年)7月21日に没していますが、長皇子より少し年上らしい舎人皇子が文武3年に24歳らしいので、弓削皇子は没した文武3年には20歳そこそこだったろうと思われます。
実は『万葉集』巻4冒頭、484の歌の題詞は「難波天皇妹奉上在山跡皇兄御謌一首」、「難波天皇」(仁徳)の「妹」が大和(奈良県)にいる「皇兄」にたてまつった歌となっています。この484の歌については、古典文学大系では「一日こそ人も待ちよき長き日をかくのみ待たば(如此耳待者)ありかつましじ」とし、「皇兄」は「いろせ」と読んで仁徳その人を指すものとしているのに対し、中西進さんの『万葉集(一)』では「一日こそ人も待ちよき長き日をかく待たゆるは(如此所待者)ありかつましじ」とし、「皇兄」は「すめいろえ」と読んで、この題詞に相当する物語は今日伝わらないとされたうえで「可能性として(1)八田皇女→仁徳(2)女鳥皇女→隼別皇子(3)磐姫→仁徳(妹を妻ととる。但し異例)」としておられるなど違いが見られます。こちらの「皇兄」も「いろせ」か「すめいろえ」か判断をつけかねますし、「皇」を「天皇」の意に解し「兄」も同母兄と見ると「皇兄」という概念自体納得のいかないものを感じさせられます。素人考えでは「皇」の「兄」は本来先に即位していてもいい存在のように思われ、顕宗の治世における顕宗の兄仁賢のケースぐらいしか想定できないように思われます(仁徳とその異母弟の菟道稚郎子も即位を譲り合った話が見えますが、少なくとも『日本書紀』では菟道稚郎子は即位しないまま自死していますし、異母兄弟です)。それに「伝説的な」というよりは「伝説」そのものの“仁徳朝”の話が『万葉集』の時代、奈良時代後期の人にリアリティをもって受け止められたでしょうか。484の歌も「相聞」に分類されているものですが、「難波天皇」の「妹」が「皇兄」に「1日程度なら待ちもしようがこんなに何日も待たされるのは」などと歌いかけるという関係は、強いて記紀に求めるとすれば中西さんが挙げておられます(1)、仁徳の異母妹で配偶者ともなったとされる八田皇女あたりを当てるしかないようにも思われます。もちろん記紀の所伝とは異なりますし、それを考えてみてもしかたないのかもしれません。
『万葉集』の題詞や左注にみられる所伝や表記は『日本書紀』と食い違うものが見受けられ、「異伝」とか「誤伝・訛伝」などというよりはどこか斜に構えているような、『日本書紀』を横目で見ているような印象を受けるのですが、こと130の題詞の「皇弟」、484の題詞の「皇兄」についてはそういった意味のものでさえなく、単純に皇族だから「皇」字を冠したとでも解するしかないようにも思えます。先にも引きましたが、古典文学大系『日本書紀』の補注「イロハ・イロド・イロセ・イロネ」に「平安時代に入ってからは、イロが同母の意であったことが見失われ、イロの意味が異なって受けとられるようになり、単に家族の一員であることを示す接頭語のように変ったらしい」などと見えていました。『万葉集』130の題詞の「皇弟」をイロトと読むのかスメイロトと読むのかもわかりませんが、読みでの「イロ」の概念が崩れていくのと歩調を合わせるように表記としての「皇弟」の概念も変質していったのかもしれません。もちろん、穴穂部や天武の「皇弟」の例から私が考えましたスメイロドの概念が見当外れである可能性が高いものと思いますが。
ところが言葉を離れて続柄だけで見てまいりますと、「用明・穴穂部間人・穴穂部」「孝徳・間人・天武」といった「“天皇”・“皇后”・その同母弟」と同じパターンの続柄が『日本書紀』の中にもう2例見られるのではないかと思われます。
ひとつは孝徳自身です。
『日本書紀』には孝徳を「スメイロド」と記した箇所はありませんが、続柄の上での位置は穴穂部や天武にぴったり重なります。実姉の皇極が舒明の皇后となったことで、孝徳はまさしく穴穂部や天武と同様の地位、「スメイロド」格になったもののように思うのです。これを「地位」といった形で見ていいものか、単なる続柄に過ぎないのかはわかりませんが、皇極元年12月甲午(13日)の舒明の「喪」の「小徳巨勢臣徳太、代大派皇子而誄。次小徳粟田臣細目、代軽皇子而誄。次小徳大伴連馬飼、代大臣而誄」などから推せば舒明の宮廷で一定の発言力をもつ立場にいたように思われますから、個人的には「軽皇子」孝徳も「スメイロド」の地位呼称を帯びていたのではないかと考えたく思うのです。何の証拠もありませんが。

もうひとつの例はスメイロドではありませんし、記紀では確認できません。
廐戸の子、泊瀬王(はつせのみこ、泊瀬仲王)です。
これも仁藤さんの『女帝の世紀』の中の、「歴史学研究会編 2005より」との注付きで見えます「大兄・皇弟表」という表に穴穂部・天武と並んで名の挙げられている人です。
もっとも「泊瀬王」と表記している『日本書紀』では廐戸の子という続柄は確認できません。ウェブ等で言及しておられるものも拝見した記憶がありますが、『日本書紀』は即位しなかった廐戸の配偶者やその所生子を記しません。廐戸の配偶者である蘇我氏出身の刀自古郎女(とじこのいらつめ、山背大兄王の生母)とか膳(かしはで)氏出身の菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ)といった名は『上宮聖徳法王帝説』や『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文その他に見えるもののようです。山背大兄王や上宮大娘姫王(かみつみやのいらつめのみこ。皇極元年是歳条。『上宮聖徳法王帝説』・『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文の舂米女王に当たるようです。「舂米」は「つきしね」などと読むそうです)も『日本書紀』では名が見えるだけで続柄を記した箇所はおそらくなくて、ぼんやりと「上宮王等」などの記述で済ませていたはずだと思いました。
泊瀬王を「膳部加多夫古臣女子名菩岐々美郎(女)」所生の子と記している『上宮聖徳法王帝説』では「長谷王」の表記です。『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文では「己乃斯里王」のほか「字長谷部王」などと見えるそうで、崇峻と取り違えている可能性があるようです。『上宮聖徳太子伝補闕記』に「近代王」。ほかに『聖徳太子伝暦』『聖徳太子伝私記(古今目録抄)』等にも相応の記載があるのでしょうが拝見しておりません。とにかく、泊瀬王(長谷王)が廐戸と菩岐岐美郎女の間の子、舂米女王の同母弟とわかるのは『日本書紀』ではなく『上宮聖徳法王帝説』『上宮記』といった系統の資料によるらしいことを記しておきます。
古典文学大系『日本書紀』での初出(舒明即位前紀の「泊瀬仲王」)の注を引用させていただきますと、「帝説に「聖徳法王、娶膳部加多夫古臣女子、名菩岐々美郎女生児、舂米女王、次長谷王」とある。山背大兄王の異母弟に当るので仲王といったか。上宮記は、この王を己乃斯里(このしろ)王とし、長谷部王と注している。下文に泊瀬王とある」と見えます(返り点は省略させていただきました。なお「下文」とはこの舒明即位前紀の初出「泊瀬仲王」より後の文のこと。境部摩理勢をかくまう記事、急逝の記事に「泊瀬王」と見えます)。
『上宮聖徳法王帝説』の表記に従い、また「菩岐岐美郎女」「刀自古郎女」の表記を許していただきますと、廐戸と菩岐岐美郎女の長女が舂米女王、その次に生まれた長男が長谷王で、長谷王は舂米女王の同母弟です。廐戸と刀自古郎女の長男が「山代大兄王」(山背大兄王)です。また「山代大兄王、娶庶妹舂米王生児(後略)」とあって山代大兄王と舂米女王が配偶関係となるので、山代大兄王を大王に置き換えて見た場合の長谷王の続柄上の位置はまさにスメイロドに相当すると思われるのです。冒頭挙げました「大兄・皇弟表」の掲載されている書にもきっとこのような旨の続柄に関する記述があるのだろうと思われるのですが、拝見しておりません。

続柄という問題だけなら泊瀬王を特記する必要もないでしょうが、この泊瀬王は廐戸の子の中では山背大兄王・上宮大娘姫王と並び『日本書紀』に名と事跡の見える3人の人物のひとりですから、なかなかの要人ではなかったかと思われます。
登場は舒明即位前紀のみですが、まず「泊瀬仲王」として登場し、舒明即位を推す蘇我蝦夷に対して異母兄山背大兄を擁護し、蘇我を頼みに思うという趣旨の発言を「中臣連」(先に触れました「中臣連弥気」、鎌足の父です)らに告げています。続いて、蘇我氏一族の中では最後まで頑強に山背大兄を推した境部臣摩理勢が馬子の墓の造営現場を勝手に引き払ってしまった折、斑鳩の「泊瀬王」の宮にしばらく隠れていたらしいことが見えます。山背大兄は自分の最大の味方であるはずの摩理勢に対し「群臣の言葉に逆らうな」といったことを言い、摩理勢は家に帰ってしまう。直後に「泊瀬王」が病で頓死して、頼るべき人物を失った摩理勢は蝦夷の兵に投降し絞殺されてしまった。そんなエピソードが見えています。
泊瀬王(長谷王)という存在をこのように見て、その実在性や続柄等の所伝を一定程度信頼することが許されるならば、逆に穴穂部についても『日本書紀』の伝える悪逆非道のイメージ(推古のいる敏達殯宮に乱入しようとしたこと、それを阻止しようとした三輪君逆の逮捕を口実に用明の宮のある池辺を物部守屋とともに包囲したこと、結局守屋に逆を殺害させたこと、など)ばかりでなく、一定程度の評価(「天香子」=アマツカコなどとも伝わる名、用明の病床に豊国法師を引き入れたこと、また「スメイロド」の称それ自身、など)を与えられる可能性を想定し得るのではないかと思うのです。なにしろ穴穂部の「スメイロド」期間を用明の在位期間と考えれば、敏達14年(≒585年)9月から用明2年(≒587年)4月の用明没まで、あるいは穴穂部が殺された用明2年6月までの1年半か2年弱しかないわけですから、ほとんど用明没と同時に殺されてしまったと見ることもできるでしょう。
しかしながらやはり「スメイロド」を身分の称と見て評価することは、私自身いくつかの点から躊躇されます。
まずひとつ。いま私が想定した「スメイロド」の身分は、言葉としては『古事記』欽明段の穴穂部の別名「須売伊呂杼」と『日本書紀』用明紀の穴穂部を指す「皇弟皇子」、孝徳紀の天武を指す「皇弟」の2人(3例というか4例)から、また続柄としては「用明皇后穴穂部間人の同母弟の穴穂部」「孝徳皇后間人の同母弟の天武」「舒明皇后皇極の同母弟の孝徳」、また「皇弟」そのものではありませんが似た形として「山背大兄王の嫡妻上宮大娘姫王(舂米女王)の同母弟の泊瀬王」を加えた4つが認められることを根拠に主張しているのですが、実際に「嫡妻のすぐ下の同母弟に身分を認め何らかの権限を与える」などということに意味とか利点があるのでしょうか。少し想定しづらく思います。とくに皇位継承などということに関しては、いくら「兄弟相承」「世代内相承」の時代だったといっても、むしろ不安材料として働く場面のほうが多いようにも思えてきます。たとえば孝徳と間人の配偶関係が成立することで天武が「スメイロド」となり身分が高くなったとすれば、それは天武の兄である「中大兄」天智にとっては皇位、大王位への障害となるのではないか。また『万葉集』130の題詞の「皇弟」については同時代に「皇后のすぐ下の同母弟」という存在が認められませんでした(そもそも「皇后」が不在の時代でした)。『万葉集』130の題詞の「皇弟」を穴穂部や天武と同列に見ることはできないわけです。これがひとつ。
もうひとつ。「皇后のすぐ下の同母弟」ということなら、推古が異母兄弟である敏達の皇后となった際に敏達の「スメイロド」となった皇子がいてもいいはず。ところが実際には推古のすぐ下の同母弟は「椀子皇子」(まろこのみこ。『古事記』では「麻呂古王」)なる人であって、「スメイロド」であった形跡もなければ何の事績も伝わっていません。これが2つめです。
もっとも推古のすぐ下の同母弟であった椀子皇子が「スメイロド」でないことについては別の考え方ができるかもしれません。推古立后から1年後の敏達6年(≒577年)2月甲辰朔(1日)に日祀部(ひのまつりべ)・私部(きさいちべ)を設置した記事が見えますが、この私部に関しては(少し古いのかもしれませんが)しばしば岸俊男さんの「光明立后の史的意義」でのご指摘――従来の名代・子代に代わる后妃のための私有部民「私部」の定立をもって后妃の制度的確立とされるご見解――が引かれ、后妃の序列化や「大后」の成立といったものもこのあたりに求めるご意見が多かったように拝察しています(岸さんご自身は『古事記』で穴穂部間人が用明后妃の筆頭でないことを挙げて「大后の制度が整えられたのは推古朝に近い時期であったことを示しているのではないか」とされ、また記紀の所伝の比較・検討を通じて皇族出身の皇后が允恭・雄略朝、ほぼ5世紀後半ごろからみえるとされたうえで「そのころから大后の制が始められていたことを示すようにも思われる」などとしておられるのですが)。現状でどうなっているのか存じ上げません。ともかく、もし仮に推古より前に皇后の前身(「大后」らしいですが)の地位が存在しなかったと仮定すれば、あるいは私の考えます「スメイロド」も実は穴穂部が最初であって、推古のすぐ下の同母弟の椀子皇子の段階ではまだ「スメイロド」という地位は存在しなかったのかもしれません。
または、推古が敏達の皇后となる以前に椀子皇子が没していたと考えることもできるかもしれません。「麻呂古」という名をもつ王子については黛道弘さんが「丸子部」(まるこべ)という部と関連付けて考えておられるのだそうです。これも遠山美都男さんの『聖徳太子
未完の大王』(日本放送出版協会 1997)の中の、当麻皇子(たぎまのみこ、聖徳太子こと廐戸の異母兄弟)の別名「麻呂古」について触れた記述の中にあるのを目にしただけで原典にあたることができず恐縮なのですが、遠山さんは同書で「継体天皇のむすこの代から山背大兄王のむすこの代まで、およそ六代にわたって麻呂古を名前とする皇子が確認」され、麻呂古が複数の皇子により共有された名であること、麻呂古以外の別の正式な名乗りをもつ皇子もいることから、麻呂古は「一種の通称・愛称の類」「貴人の男子の呼称が麻呂(麻里)なのであって、それは幼少年時の通称のようなもの」だったであろうと記しておられます。この後に黛さんの「丸子部という部民は麻呂古と呼ばれる皇子たちの養育料を負担した服属集団だったのではないか」とのご見解が引かれています。
また武光誠さんの『聖徳太子』の中に「六・七世紀の皇族と名代」と題する図が掲げられています。先ほども皇極・斉明の「宝皇女」と「財部」にからんで引かせていただいていますが、敏達と用明の子孫である王子・王女の名と、彼らがそれぞれ保有したと想定される名代とを並べて示された系図で、たとえば「忍坂彦人大兄皇子」には左に添えて「〈忍坂部〉」と、「聖徳太子」には「〈壬生部〉」と記す形で示されています。この図は、敏達の孫には名代と関係する称が見えず、対照的に用明の孫である廐戸の子に名代と関係する称が集中して見えることを強調され、また上宮王家滅亡後にはその保有していた名代が敏達の子孫のほうに継承されたとする見通しなどを示されたものですが、この図を拝見しますと廐戸の異母兄弟の「麻呂子(当麻)皇子」のほか廐戸の子に「麻呂古王」が、また山背大兄の子(ですから廐戸の孫)にも「難波麻呂古王」「麻呂古王」といった名が見えており、いずれも「丸子部」を保有したであろうとする想定を示しておられますので、基本的に黛さんと立場を同じくされているもののようです。
麻呂古、マロコを一種の愛称とする見方については既に古典文学大系『日本書紀』などにも見えています。継体7年12月戊子(8日)、安閑を「春宮」(ひつぎのみこのくらゐ、皇太子)に立てる継体の言葉に見える「摩呂古」(安閑を指す)について、古典文学大系の注には「一種の愛称で、ここは勾大兄皇子を指しているが、特に勾大兄皇子の別名というわけではない。皇子を麻呂古と呼んでいる例は他にも見え、更に転じて皇子の正式の名となっている例は、継体天皇皇子椀子皇子の如きもある」と見え、またその継体の子の椀子皇子については、日本思想大系『古事記』の継体段の「丸高王」の注に「「まロこ」は坊やという程度の愛称」と見えます。愛称の「マロコ」しか残さなかった推古の弟の椀子皇子は、早世した可能性が高いものと考えられるでしょう。
実は安閑を「摩呂古」と呼ぶ箇所の見える継体7年12月8日の記事は、先に安閑の実名を「カナヒ」と考えましたところで引用させていただいているのですが、失礼ながらこの記事を見るたびにある種の気恥ずかしさを覚えるのを禁じ得ません。「懿(よ)きかな、摩呂古、朕(わ)が心を八方(やおも)に示すこと。盛(さか)りなるかな、勾大兄、吾(わ)が風(のり)を万国(よろづのくに)に光(てら)すこと」――この文は井上光貞さんの「古代の皇太子」にも引かれていて「文そのものが漢籍の転用と考えられる点が問題」などと言及されているものですが、「摩呂古」と「勾大兄」を対句にして詩文風に述べています。ここで継体が愛称「摩呂古」で呼びかけている安閑は享年から逆算すれば継体7年には数え年48歳です。翌継体8年春正月、子のないことを嘆く太子妃の春日皇女(春日山田皇女)の名を残すために匝布屯倉(さほのみやけ)を賜与するよう命じた記事でも、継体の詔に「朕(わ)が子(みこ)麻呂古、汝(いまし)が妃(め)の詞(ことば)、深く理(ことはり)に称(かな)へり」、太子安閑が「麻呂古」と見えますが、ここは翌年なので安閑は数え年で49歳になっています。
余談ながらついでに申しますと、厳密に『日本書紀』に従えばこの継体7・8年に継体はまだヤマト(奈良県のヤマト)に入っていません。樟葉宮(大阪府枚方市楠葉付近らしいです)で即位したのち5年10月に山背の筒城に移り、12年3月に弟国に移るまではその筒城にいたことになります(なお「筒城」は京都府京田辺市、かつての綴喜郡田辺町付近のようであり、また「弟国」は京都府長岡京市か大山崎町付近のようです。こんな引用で恐縮ながら、森浩一さんの『語っておきたい古代史
―倭人・クマソ・天皇をめぐって―』新潮文庫 1994 によりました)。このような動向から、まだ継体即位に反対する勢力がヤマトに多かったとされるご見解もあるようです。継体7年9月には「九月、勾大兄皇子、親聘春日皇女」、安閑が春日山田皇女を配偶者に迎えたことが見えていますが、山背の筒城に継体を残したまま安閑だけ先にヤマト入りして勾金橋宮(奈良県橿原市曲川町付近か)あたりにでも落ち着き「大兄皇子」から「勾大兄皇子」になっていたということでしょうか。なお継体20年9月己酉(13日)、継体がヤマトの磐余玉穂宮に入った記事の分注には「一本云、七年也」とあって7年に継体が磐余玉穂宮に入ったとする本もあると伝えており、こちらのほうが現実的である気もしますが、うがった見方をすれば『日本書紀』の編纂者の中にも私と同様安閑の配偶関係成立の記事に関する矛盾に気づいた人がいて、あえて継体20年9月の玉穂宮遷都の記事に「一本云、七年也」と弁解のように書き加えたとも考えられるように思うのです。そもそも継体7年9月に安閑との配偶関係が成立したばかりの春日山田皇女が、半年もたたない翌8年正月には子のできないことが判明していてそれを嘆くというのも、考えてみれば奇妙な話です。
継体にもうひとり「マロコ」を称する王子のあったことは先に古典文学大系『日本書紀』や日本思想大系『古事記』の注を引いてご紹介申し上げました。『日本書紀』では継体元年3月癸酉(14日)、8妃を入れた記事の中に「次、三尾君堅楲女曰、倭媛。生二男二女。其一曰大娘子皇女。其二曰椀子皇子。是三国公之先也。其三曰耳皇子。其四曰赤姫皇女」と見えており、『古事記』継体段では「三尾君加多夫之妹、倭比売、生御子、大郎女。次丸高王。次耳〈上〉王。次赤比売郎女」で、「丸高王」として見えています。
また『日本書紀』宣化元年3月己酉(8日)、仁賢皇女の橘仲皇女を皇后に立てた記載には橘仲皇女所生の子として石姫皇女・小石姫皇女・倉稚綾姫皇女に続きその弟として上殖葉皇子(かみつうゑはのみこ)の名が見えていました。この上殖葉皇子については『日本書紀』が橘仲皇女の子とするのに対し、『古事記』宣化段ではそれに対応すると思われる「恵波王」が「川内之若子比売」の子で「火穂王」の弟とされていることを先に引いております。上殖葉皇子は『日本書紀』宣化紀では丹比公(たじひのきみ)の祖、持統朝の右大臣丹比真人嶋をはじめ奈良時代に多くの官人を輩出する多治比氏の祖先であると紹介されていますが、この王子の「亦名」が「椀子」です(「次曰上殖葉皇子。亦名椀子。是丹比公・偉那公、凡二姓之先也」)。
ともかく、このように「マロコ」(麻呂古・椀子)を称する王子は安閑や押坂彦人大兄(『古事記』敏達段に「又、娶息長真手王之女、比呂比売命、生御子、忍坂日子人太子、亦名麻呂古王。次、坂騰王。次、宇遅王。〈三柱〉」、『日本書紀』敏達4年正月甲子=9日に「四年春正月丙辰朔甲子、立息長真手王女広姫為皇后。是生一男二女。其一曰押坂彦人大兄皇子。〈更名、麻呂古皇子。〉其二曰逆登皇女。其三曰菟道磯津貝皇女」)なども含めればかなりたくさん見受けられます。
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