3. スメイロド − 1

 そうだとは思うのですが、引っ掛かることがあります。
 日本思想大系『古事記』にはこの「須売伊呂杼」に関する補注があります。長くなりますがその部分を引かせていただきます。「須売伊呂杼は本来は天皇の同母弟の意であるが、穴穂部皇子の同母兄に天皇はいない。用明天皇は庶兄(用明二年四月条に「皇弟皇子〈皇弟皇子者、穴穂部皇子。即天皇庶弟〉」)、崇峻天皇は同母弟である。しかし紀の敏達十四年八月条以下の穴穂部皇子に関する記述をみると、用明崩後に皇位継承を期待していたふしがあり(だからこそ馬子に殺されたのであろう)、また同母弟の長谷部若雀命は実際に即位しえているわけであるから、庶兄の用明と同母姉の間人との一組の天皇・皇后の皇弟、または皇后の同母弟として、皇位継承権を持つ皇子という意味で須売伊呂杼とよばれたと考えるより仕方がないようである」
 「イロド」という言葉があって、同じ母から生まれた弟・妹(同性の兄弟、姉妹の間の場合で、兄から見た同母の弟、姉から見た同母の妹)を指すものだそうです。先に欽明の子の例を引きましたが、記紀の時代の大王などはたいてい一夫多妻であって、異母の兄弟姉妹もたくさんいました。その中で母を同じくする兄弟姉妹にとくに「イロ−」を付けて呼んだもののようです。『古事記』にはその本来の「同母弟」の意味での「イロド」を表記している箇所がほかにあります(なお以下も日本思想大系『古事記』によりましたが、甲乙の別は従っていません)。

l  履中段、弟の墨江中王(すみのえのなかつおほきみ)の反逆にあって石上神宮に逃れていた履中のもとに弟の反正(水歯別命)が駆けつけた際の記述が「於是、其伊呂弟、水歯別命、参赴令謁」、「伊呂弟」(イロド)の表記です。両者の生母は仁徳皇后の石之日売命(いはのひめのみこと、『日本書紀』では「磐之媛」)です。

l  安康段、大日下王(おほくさかのおほきみ)の妹若日下王(わかくさかのおほきみ)を弟雄略の妻にしようとした安康が根臣(ねのおみ)を大日下王のもとに遣わす際の記述は「天皇、為伊呂弟大長谷王子而(後略)」で、ここも「伊呂弟」表記です。両者の生母は允恭皇后の忍坂之大中津比売命(おしさかのおほなかつひめのみこと、『日本書紀』では「忍坂大中姫」)です。

 ほかに、

l  允恭段、木梨之軽太子と同母妹軽大郎女との一件では「姧其伊呂妹軽大郎女而歌曰」、「伊呂妹」(イロモ)であり、両者の生母は忍坂之大中津比売命です。

l  顕宗段で父市辺押磐の仇敵の雄略の「御陵」を破壊しようとした顕宗を止めた兄仁賢は「其伊呂兄意祁命奏言」で、「伊呂兄」(イロエ)でした。

l  上巻の八俣大蛇(やまたのおろち)退治で老夫婦の神の足名椎(あしなづち)・手名椎(てなづち)に名を問われた須佐之男命(すさのをのみこと)は「吾者天照大御神之伊呂勢者也」、「伊呂勢」(イロセ)と答えており、現代的に言えば続柄は天照大御神の同母弟(母はイザナミの神)となりますが、姉と弟で性別が異なっています。「セ」は同母の姉妹から兄または弟をいう言葉なのだそうです。


 古典文学大系『日本書紀』の巻16の補注「イロハ・イロド・イロセ・イロネ」ではイロドが「同母の兄から見た弟、姉から見た妹」、イロネが「同母の弟から見た兄、妹から見た姉」、イロセが「同母の姉妹から見た兄弟」、イロモが「同母の兄弟から見た姉妹」とのことで、現代と異なり事情は複雑です。これに従えば、顕宗から見た仁賢は本来「イロネ」となるはずですが、見解の相違等もあって一概には言えないということでしょうか。
 中巻になると安寧段に「常根津日子伊呂泥命」(とこねつひこいろねのみこと、『日本書紀』に「常津彦某兄」)や「蠅伊呂泥」(はへいろね、『日本書紀』孝霊紀に「絚某姉」)・「蠅伊呂杼」(はへいろど、『日本書紀』孝霊紀に「絚某弟」)といった「名」が見えていますが、この「蠅伊呂泥」「蠅伊呂杼」は実は女性(和知都美命なる人の娘姉妹)で、それぞれ孝霊の配偶者となっています。おそらく同母姉妹に由来してはいるのでしょうけれども、『古事記』は「名」として扱う場合には「兄」「弟」「姉」「妹」の字を避けて表記を変えているように見受けられます。
 下巻では、おそらく本来の意味での同母の兄弟姉妹を表す際には「伊呂」に「兄」「弟」「妹」の字そのものを付しているものと思われますが、穴穂部の別名は「須売伊呂杼」――「伊呂弟」でなく「杼」となっており、「亦名」と対応して「名」と見ているらしいことを裏付けます。
 そしてもうひとつ。日本思想大系の『古事記』の補注にもありましたが、穴穂部皇子は用明の「イロド」(同母弟)ではありません。用明紀の「皇弟皇子」の分注にはっきり「庶弟」と記されているように、用明の生母は堅塩媛、穴穂部の生母は小姉君です。

 『古事記』の筆者は穴穂部の別名「須売伊呂杼」が「名」ではなく「皇弟」、「皇」の同母弟の意味の続柄を表す称とわかっていたのではないか。わかっていた確率は高いものと思っています。しかしたとえば原本となった資料の景行段相当部分に「須売伊呂大中日子王」などという「名」があったことや、用明と穴穂部が同母ではなく異母兄弟であることなどを勘案し、「同母弟」の意味の「伊呂弟」表記を避けて「亦名須売伊呂杼」としたのではないか。または、「須売伊呂弟」と表記して続柄・肩書などと思われることを躊躇させる何らかの理由があったのではないか……などと疑うのです。

 では「スメイロド」の「スメ−」に相当する対象を用明以外に考えて成立するかといえば、敏達は穴穂部と同母の兄弟ではないし、崇峻は同母兄弟でも穴穂部の弟で、しかも即位は穴穂部没後です。推古は同母でもなければその即位も穴穂部没後で、論外です(そもそも性別が違えば「イロド」は成立しません)。
 「スメイロド」を厳密に「天皇(大王)の同母弟」という意味に解すれば、用明の同母弟(堅塩媛所生の王子)は欽明紀に6人挙がっています。しかしどの人も事跡さえ伝わっていません。強いて言えば桜井皇子について『本朝皇胤紹運録』が皇極・斉明と孝徳の姉弟の母方の祖父(皇極・斉明と孝徳の生母の吉備姫王の父。同系図の孝徳の注で「母同吉備姫皇女〈欽明天皇孫桜井皇子女也〉」)としているのを挙げられる程度です。
 穴穂部には同母兄、小姉君所生の兄(茨城皇子・葛城皇子)があったようですが即位していません。「スメイロド」を字義どおり厳密に「天皇(大王)の同母弟」と解する限り、本来穴穂部は「スメイロド」ではあり得ません。やはり思想大系本の『古事記』の補注に従って「庶兄の用明と同母姉の間人との一組の天皇・皇后の皇弟、または皇后の同母弟として(中略)考えるより仕方がないようである」。
 もっとも「イロド」という語の特殊性を考えると、兄弟間・姉妹間には使っても姉弟間には使わないらしいですから、同母の姉穴穂部間人が用明の「皇后」、おそらく嫡妻格の配偶者となったことにより、穴穂部間人の同母弟穴穂部が擬制的に用明のイロド、「スメイロド」となった――などと考えたく思います。

 またこれとは別に、「スメイロド」とは言いながらも当時既に「イロド」から「同母弟」の意味がほとんど失われており、同母も異母も含めて弟を「イロド」と称していたという可能性も想定されるかと思います。古典文学大系の補注「イロハ・イロド・イロセ・イロネ」にも「平安時代に入ってからは、イロが同母の意であったことが見失われ、イロの意味が異なって受けとられるようになり、単に家族の一員であることを示す接頭語のように変ったらしい。そこで書紀の古訓の中でも、庶兄をイロネと読み、はなはだしきは、同母弟にわざわざオナジハラノイロドと訓をつけ、異母兄とある本文を、コトハラカラノイロネと訓むものすらある」とあります。『日本書紀』で「皇弟」に「すめいろど」との読みを付けながら分注で堂々と「庶弟」と書いているのはこの考えを裏付けるような気もしますが、また逆に『古事記』が「伊呂弟」などの表記を使用していることからすれば、少なくとも『古事記』のころまでは「イロド」に「同母弟」の意味が残っていたと考えるのが順当かとも思われます。
 もっともそれ以前に、現在公刊されている『古事記』『日本書紀』の読みがながどこまで信頼できるのかという問題もあるでしょう。岩崎本『日本書紀』の写真を見ればはっきりとカタカナで読みがながあるのですが、古典文学大系『日本書紀』の訓読の解説で先年(2009年)亡くなられた大野晋さんが「現存最古の写本の復元」を目標とした旨記しておられます。『古事記』についても「○○王」を「みこ」と読ませる本と「おほきみ」と読ませる本に分かれています。『古事記』推古段冒頭の「妹、豊御食炊屋比売命」の「妹」について日本思想大系では「いロも」の読みでしたが、岩波文庫版の読みでは「いも」となっています。この「妹」が前段の崇峻からの続柄を示すものだとすれば、推古は崇峻の同母妹ではありません(年齢が下かどうかもわかりません)。『古事記』の「須売伊呂杼」は字音表記ですから問題ないでしょうが、『日本書紀』の「皇弟」の「すめいろど」については私には本来のものかどうかわかりません。これが違っていたとすれば以下に申し上げることも根拠を失うことになるものと思われます。用明24月丙午(2日)条の「皇弟」の「すめいろど」の読みについては古典文学大系によりましたが、国史大系にも「スメイロト」との読みが見えています。念のため加えておきます。

 古典文学大系『日本書紀』の読みがなを信頼してよいものならば、もう一人の顕著な「皇弟」、スメイロドの存在が思い当たります。
 孝徳紀の終わり近くの白雉4年是歳条。
 「太子」(中大兄、天智)が「欲冀遷于倭京」、飛鳥に戻りたいと言ったところ孝徳が許さなかった。そこで「皇太子」(中大兄、天智)は「皇祖母尊」(すめみおやのみこと、譲位後の皇極)と「間人皇后」(孝徳皇后で皇極の娘、天智の実の妹)を奉じ、また「皇弟」(大海人、天武)や「公卿」らを率いて倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかのかはらのかりみや)に移った。すると「公卿大夫百官人」らもみな従って移ってしまったので孝徳は恨んで位を去ろうとし、「山碕」(やまさき)なる地に宮を造らせ、また例の「鉗(かなき)着け吾が飼ふ駒は引き出せず……」という去った間人皇后に未練をうかがわせる歌を送ったとの記事が見えます。
 この大海人を指す「皇弟」の読みが「すめいろど」です。国史大系本によれば「弟」にのみ「イロト」の読みが見え、また北野本では「皇弟」に対して「スヘイロト」の読みがある旨示されています。
 きちんと確認しておらず恐縮ながら、ここでの大海人の登場はおそらく舒明2年正月戊寅(12日)の皇極立后記事、「立宝皇女為皇后。々生二男一女。一曰葛城皇子。〈近江大津宮御宇天皇。〉二曰間人皇女。三曰大海皇子。〈浄御原宮御宇天皇。〉」以来2度目なのではないかと思われます。
 翌白雉510月癸卯朔(1日)には、孝徳が病気になったのを聞いた「皇太子」が「皇祖母尊」「間人皇后」を奉じ「皇弟」「公卿」を率いて難波宮に赴いたが、同月に孝徳が没したので「仍起殯於南庭」、殯(もがりや)を南庭(おほば)に建てて小山上の百舌鳥土師連土徳(もずのはじのむらじつちとこ)に「殯宮」のことをつかさどらせた、などと見えます。こちらの「皇弟」については国史大系には読みがありませんでした。
 これもまたきちんと確認できていないのですが、ここで2カ所「皇弟」と見えてから大海人は天智紀に再登場するまで見えないようです。斉明7年正月、斉明が百済の役のため九州へ赴くくだりには大伯海(おほくのうみ、岡山県)で大田姫皇女(おほたのひめみこ、大田皇女)の娘の大伯皇女(おほくのひめみこ、大来皇女)が誕生する記事があって、当然配偶者の大海人も同行していたと思われますが名が挙がっていません。
 白村江敗戦後の天智3年(≒664年)2月丁亥(9日)、冠位・位階の名の変更(大化5年制の19階から26階に増えた)と諸氏の「民部・家部」を定めたといういわゆる「甲子の宣」の記事には「天皇、大皇弟(ひつぎのみこ)に命(みことのり)して、冠位の階名を増し換ふること、及び氏上(このかみ)・民部(かきべ)・家部(やかべ)等の事を宣ふ(のたまふ)」(「三年春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟、宣増換冠位階名、及氏上・民部・家部等事」)とあります。天智はまだ即位前なので、この前後の記事(即位前紀の斉明77月丁巳=24日・是月・9月、天智53月・62月戊午=27日・8月など)では「皇太子」となっているのですが、ここではなぜか「天皇」と表記し、天武が「大皇弟」と見えていて混乱した状況です。ともかく天智紀で久々に登場した天武は漢字表記で「大皇弟」、訓は「ひつぎのみこ」となって見えています。もっともこの記事の「天皇」については間人皇女と見られるご見解もあるようですし、しかもこの記事自体が青木和夫さんにより天智10年正月甲辰(6日)条「甲辰、東宮太皇弟奉宣、〈或本云、大友皇子宣命。〉施行冠位・法度之事。大赦天下。〈法度冠位之名、具載於新律令也。〉」の記事との重出を疑われていることも随所で触れられています。荒木敏夫さんの『日本古代の皇太子』ではこの言及に続ける形で、32月丁亥条の「大皇弟」について「天智三年は、葛城皇子称制下にあたり「天皇」として即位にいたっていない。このことを念頭に入れると、坂本太郎氏が指摘されたごとく、「大皇弟」は明瞭な後代の潤飾である」と記しておられますが、残念ながら坂本さんのお書きになったその原典も拝読しておりません。
 天智紀の「大皇弟」などはともかく、孝徳紀のほうに見える「皇弟」=スメイロドの大海人は天智の実弟で、生母は同じ皇極なので、穴穂部のスメイロドと違って大海人のスメイロドはイロドとして矛盾がないわけです。
 そうでしょうか。

 孝徳紀の時点では天智はまだ即位していません。
 そういった意味では白雉4年是歳・白雉510月癸卯朔の「皇弟」についても矛盾といえるのではないでしょうか。「皇弟」の「皇」に相当するのは、杓子定規に考えれば天智ではなく本来孝徳のはず。天智が即位したのちに天武が「皇弟」などと呼ばれていたことを踏まえ、さかのぼって孝徳紀でも天武を「皇弟」と表記したのだとか、「イロド」は「同母弟」なのだから天武の同母の兄は天智しかいない(皇極・斉明には最初の配偶者高向王との間に「漢皇子」がありましたが)とか、『日本書紀』では乙巳の変以後、大化の改新の時点から「皇太子」天智が実質的な権力者だったのだから「皇」は天智と見るのが自然だなとどいうご意見もあるかと思われますが、僭越ながら先入観に引きずられたご見解ではないかという気もいたします。
 そしてまた、『日本書紀』の立場も読んだ人がそのような観念に引きずられることを期待していたのではないかという疑いを抱いています。これは何かを根拠に申しているわけではなく、何となく雰囲気といったものから感じるようなものなのですが。
 孝徳紀に見える天武の「皇弟」=スメイロドの「皇」「スメ−」を孝徳ととらえれば、先に挙げました用明と穴穂部の関係と一致するわけです。つまり「穴穂部は穴穂部間人の同母弟。その穴穂部間人が用明の“皇后”、嫡妻格の配偶者となることで、擬制的に穴穂部が用明の同母弟と見なされる」という関係と、「天武は間人の同母弟。その間人が孝徳の“皇后”、嫡妻格の配偶者となることで、擬制的に天武が孝徳の同母弟と見なされる」という関係でぴったり重なります。

用明と穴穂部間人が配偶関係、穴穂部間人と穴穂部が実の姉弟の関係孝徳と間人が配偶関係、間人と天武が実の姉弟の関係


 こういう結論には私自身疑問に思うのですが、私なりに言葉に忠実に見ていきますとこうなってしまいます。おそらくこのようなご意見を既に唱えておられる方もいるのではないかと思われるのですが、素人のばかの悲しさ、恐縮ながら存じません。卑見を卑下して謙遜を気取れば逆にその方をおとしめることになりかねませんので、あえて致しません。
 ならば天武が孝徳の、あるいは孝徳と間人の配偶関係の「スメイロド」であった間、天智の立場はどうであったのか。なにより舒明紀に皇極・斉明所生の子と見えてから白雉4年(≒653年)まで『日本書紀』に大海人の名も「皇弟」の称も見えず、さらにその後天智3年(≒664年)までふたたび見えないのはなぜか。それこそ「スメイロド」を称号として過大視するような実態はなかったことを示すものではないか。単に続柄由来の称として天智の時代に「皇弟」と呼ばれていたとの知識があって、それを古い時代の記述にも利用したに過ぎないのではないか……などと言われれば、そうかもしれません。
 ただこの時期天武はまだ若かったものとも思われます。舒明13年(≒641年)10月の舒明の殯に天智が数え年16歳であったとする『日本書紀』舒明紀の数値から逆算すれば天智の誕生は推古34年(≒626年)となり、乙巳の変の皇極4年=大化元年(≒645年)には天智は20歳、母や妹とともに倭京に帰った白雉4年(≒653年)には28歳、甲子の宣の天智3年(≒664年)には39歳、即位した天智7年(≒668年)には43歳です。『上宮聖徳法王帝説』第4部の「□皇御世乙巳年六月十一日近江天皇〈生廾一年〉煞於林太郎」のほうを信じればそれぞれ1歳上という値になりますが、大きな差ではありません。天智―間人―天武という生まれ順からすれば天武は天智より少なくとも2歳以上、3歳かそれ以上は若かったのではないでしょうか。通説的には『一代要記』『本朝皇胤紹運録』等に見えるという天武の享年65歳から逆算すると推古30年(≒622年)の誕生となって天智より年長になってしまうため、これを享年56歳の誤りと見て舒明3年(≒631年)誕生とされているものが多いようです。これに従えば天智より5歳年下となり、大化元年に15歳、白雉4年に23歳、天智3年に34歳、天智7年に38歳、壬申の乱の672年に数え年42歳です。高市の誕生した654年に24歳というのはたしかに少し遅いような気もしないではないですが、それほど無理のない線とも思われます。
 仁藤敦史さんは『女帝の世紀』(角川選書 2006)の中で持統以前の大王の即位年齢を「四十歳以上」と考えるご見解を示しておられます。たとえば女帝即位の条件として有力な男子がその年齢に達していなかった場合を想定しておられるのですが、その記述で「具体的には、推古(三十九歳)の即位時における厩戸(十九歳)、皇極(四十九歳)の即位時における古人大兄と中大兄(十六歳)、斉明(六十二歳)の即位時における中大兄(三十歳)、持統(四十六歳)の即位時における草壁(二十八歳)、元明(四十七歳)の即位時における聖武(七歳)、元正(三十五歳)の即位時における聖武(十五歳)」といった数字を挙げておられます。あっと驚くような数字で、これを拝見しますとまさに女帝即位の意味が表れているようにも思われます。この記述より前の部分では、この時代の他の天皇についても『本朝皇胤紹運録』『一代要記』等から即位時の年齢を推定しておられるのですが、それらを拝見しますと一見意外なようですが40歳前後以上という線は納得のいく数字のように思えます。たしかに即位年齢が40歳前後以上だったと考えますと、安閑が没した際に欽明が春日山田に即位を要請したという所伝も、崇峻が没した際に彦人大兄・竹田・廐戸などの即位がなくて推古の即位を見たのも、斉明没後に天智が長い称制にあったことも説明しやすくなるように思えます。
 「成人」年齢ということならば、令制の「正丁」あたりから推してそれ以前でもおそらく21歳とかだったのでしょうが、「即位」の条件とされたのが40歳前後以上ということなのでしょう。酒もタバコも選挙権も20歳から、衆議院議員の被選挙権が25歳以上で参議院議員が30歳以上などといえば不謹慎なのかもしれません。もし仮に当時即位の条件に30歳程度でなく40歳以上といった目安があったとすれば、天武の10代とか20代とかは政務に携わるには確かに若かったともいえると思います。
 なお先に「皇極・斉明には最初の配偶者高向王との間に漢皇子があった」などということに触れました。「天武は天智より年長で、天智の実弟ではない」とされるお説の中にそれに関する言及があるらしいこともうかがっておりますが、恐縮ながら拝読しておりませんので、さしあたってはこのご見解は採らずに進めます。言い逃れにもなりませんが。

 天武の「皇弟」=スメイロドをこのように解することが許されるなら、天智329日の甲子の宣に見える「大皇弟」は、じつは孝徳在位中には「皇弟」だったものが孝徳没後に「大皇弟」にかわった、そのような意識が働いていると見ることはできないでしょうか。
 もっとも『日本書紀』の表記はばらつきが多い。同一の地位であったはずの同一人の表記が同じ巻の中でばらつくこともしばしばですから、孝徳紀で「皇弟」と表記されていた天武が天智紀で「大皇弟」と見えていることを「変化」ととらえてよいかどうか。しかも孝徳紀では同じような記事で2度「皇弟」が登場するだけで、斉明紀には登場していないようです。
 また、あるときには『日本書紀』の読みがな(すめいろど)のほうにだけ注目し、別の場合には漢字表記(皇弟・大皇弟)のみに注目して自分に都合のいいものだけ取るというのも無節操かもしれません。しかしこの「大皇弟」に対する訓は「ひつぎのみこ」のようであって、天智の「天皇」をその前後の記事に見える即位前の称「皇太子」(ひつぎのみこ)に置き換えると、坂本太郎さんや荒木敏夫さんもご指摘のとおり、ヒツギノミコがかぶってしまいます。
 ならば甲子の宣の「天皇」を天智とは見ない、という見方もあるかと思います。実際この「天皇」を間人と見ておられるご見解もあるようなのですが、これに関しては私が目にしております範囲では、小林敏男さんの『古代女帝の時代』の「称制考」の中に引かれております西山徳さんの「日本書紀の撰修に関する一考察――称制について――」という論文でのご見解――75月、85月、810月、1010月の記事には天皇と大皇弟(ただし1010月条は天皇と東宮)が並んで記録されていることから、大皇弟(天武)の語を用いる際には「皇太子」であるべき天智を必然的に「天皇」と記した――が、さしあたっては最も納得のいくもののように思われます。

 「スメイロド」なる語、称から発した問題ですが、「大皇弟」「皇太子」「ヒツギノミコ」などといった言葉の問題で詰まってしまいます。「結論」といえば、「穴穂部も天武も実姉が皇后(令制下の「皇后」格の嫡妻)となったことにより天皇(大王)の擬制的同母弟となったスメイロド」といったあたりでもう結論は出してしまっています。通常ならこのような身分のもつ意味・発生の理由・果たした役割などを検証したりして、このスメイロドの存在が7世紀の政治機構の中で矛盾なく説明できることなどが論じられるところなのでしょうが、そのようなビジョンの持ち合わせも能力もありません。
 天智紀ではこのあと天武を、

l  「大皇弟」(ひつぎのみこ。755日の蒲生野の薬猟・85月壬午=5日の山科野の薬猟)

l  「東宮大皇弟」(ひつぎのみこ。810月庚申=15日、危篤の中臣鎌足に大織冠・大臣位・藤原姓を授ける記事)

l  「東宮太皇弟」(ひつぎのみこ。10年正月甲辰=6日、冠位・法度の奉宣、大赦)

l  「皇太子」(ひつぎのみこ。105月辛丑=5日の宴・田儛。「皇太弟」などの誤記か)

l  「東宮」(まうけのきみ。1010月庚辰=17日、危篤の天智の譲位を天武が辞退する記事に2カ所。2日後の壬午=19日の吉野入りの記事にも2カ所)

などと表記しています(読みは古典文学大系『日本書紀』によりました)。しかし「藤原」姓を81015日に賜わる以前の中臣鎌足が「藤原内大臣」(855日など)だったり、101017日の天武の皇位辞退の言葉では皇后倭姫王が「大后」、大友皇子が単に「大友王」だったりと、天智紀に見える称号は後になるほど混乱した印象です。直後の、と申していいのか、天武紀上の相当箇所の「皇后」(倭姫王)、「大友皇子」表記と好対照です。さらに天武紀上の冒頭では天武を「東宮」(まうけのきみ)、天武の言葉の中でですが大友を「儲君」(まうけのきみ)としているような記述も見えます。「混乱」とは見ないで「原文を尊重した結果」とでも見るべきものなのでしょうか。なお森博達さんの『日本書紀の謎を解く』では、天智紀は α 群、天武紀上は「倭習」(和臭)の強い β 群に分類しておられます。


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