2. なまえ − 8

 皇極3年正月乙亥朔(1日)条に見える蘇我倉山田石川麻呂の娘の「少女」には名も見えず説話上の存在のように思われますから、『日本書紀』での遠智娘の実質的な初出は孝徳紀大化53月是月条と思われますが、そこには「遠智娘」とは見えず「蘇我造媛」(そがのみやつこひめ)と見えています。「皇太子妃蘇我造媛」は自経した父の右大臣蘇我倉山田石川麻呂の遺体が物部二田造塩の手により首を斬られたなどと聞き、嘆き悲しむあまり最終的に死んでしまったなどというもの。大化53月の実質的な初出がその死亡を伝えるものとなっており、彼女の子(大田皇女・持統・建皇子)の見える前記天智72月戊寅の記事の時点では遠智娘も、所生の大田皇女・建皇子も故人となっています。しかしながら建皇子は斉明4年(≒658年)5月に数え年8歳で没していることから逆算して、その誕生は白雉2年(≒651年)となります。
 これに関しては上田正昭さんが『日本の女帝』で建皇子の生母を遠智娘(造媛)とは別人と考える意見を支持されています(上田さんはほかにも天智72月戊寅条の分注の第2の「或本」の記述に「或本云、蘇我山田麻呂大臣女曰茅渟娘。生大田皇女与娑羅々皇女」とのみ見えて建皇子の記載がないことも傍証として挙げておられます)。
 遠山美都男さんの『大化改新』には大化53月是月条の記述に触れて「この所伝からは造媛が亡くなったのがこの年の三月中であったとは読み取れない。この所伝に見える造媛が、のちに建皇子を産むことになる遠智娘であっても一向に差し支えないのである」としておられる記述が見えます。実はこのように並べて比較するのはおかしくて、上田さんは最初から遠智娘=造媛とされたうえで、建皇子の生母については遠智娘(造媛)でなく別人だと見ておられるわけですし、遠山さんは遠智娘が建皇子の生母という所伝は最初から認められたうえで、造媛の没したのを大化5年とする必要はないとされているわけです。造媛が建皇子の生母であって構わない、遠智娘=造媛だと見ておられるのですから、造媛が建皇子の生母かどうかという点が食い違うのみで「遠智娘=造媛」と見ておられることは一致しているのです。
 私ごときが何かを申し上げるのは失礼なのですけれど、個人的には大化53月是月条にまとめて見える顚末の中の「造媛遂因傷心、而致死焉」を3月中の出来事と見る必要は必ずしもないように思います。3月是月条では造媛のエピソードの前にも蘇我倉山田石川麻呂の資財を接収してみたら「皇太子書」「皇太子物」と記してあったというエピソードが見えています。そもそも蘇我日向による讒訴が24日、麻呂の自経が25日で3月もあと5日しかないわけですから、関連した説話的なエピソードも含め『日本書紀』が3月是月条にまとめてしまったものと見たく思うのです。『日本書紀』のこのような性格は、法興寺の槻の下の蹴鞠や、盗まれた「長女」のかわりに「少女」が立った話などがまとめて見える皇極3年春正月乙亥朔(1日)条、あるいは舒明即位前紀の推古369月条(田村と山背大兄の後継者争い)などにむしろ顕著にうかがえるように思います。
 「遠智娘」について分注の「或本」には「茅渟娘」の称を伝えるものがあり、遠山さんは『大化改新』の中で「茅渟娘は遠智娘以外の女子、おそらくは乳娘の別称だったと考えられる」として孝徳妃となった「乳娘」(ちのいらつめ。蘇我倉山田石川麻呂の娘)に当てるお考えを示しておられます。「乳娘」はともかく、「遠智」も「茅渟」もおそらく地名由来の称でしょうから、私も1人の人間に対して性格の同じ称が両立した可能性は低いものと思っております。ともかくそんなわけで、持統の生母については「遠智娘」「造媛」の2つの称が伝わっていたものとして話を進めたく思います。

 そこで先に挙げました太姫皇女・糠手姫皇女の名とこの遠智娘・姪娘の名とを見比べると、「桜井皇女」「田村皇女」「遠智娘」「桜井娘」といった称は、王族と蘇我氏という違いはありますが、おそらく地名由来(宮の所在地でしょうか)の称、あるいは地名に由来する氏族の称を冠する名といった形で性格の共通するグループと見ることができるのではないかと思うのです。ですから、普通にはおそらくこの天智7年の記事により「遠智娘」「姪娘」の表記で記述されているのですけれど、名称の性格で分ければ遠智娘と桜井娘、造媛と姪娘とで並べて記すべきもの、本来の形からいえば「造媛〈更名遠智娘〉……姪娘〈更名桜井娘〉」とでもなるべきところではなかったかと個人的には思っております。
 「遠智娘」の「ヲチ」は、ウェブでどなたかが言及しておられるものも拝見しましたが、斉明陵(斉明と間人の合葬墓)の可能性を指摘される牽牛子塚古墳の西、奈良県橿原市・高取町・明日香村にまたがる越智丘陵周辺の地名ではないかと思われます。皇極・斉明を「袁智天皇」などと表記した資料(『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の資財帳部分らしいです)もあるそうですが、天智62月戊午(27日)の記事では皇極・斉明と間人皇女を合葬した陵を「小市岡上陵」としています。これが天武83月丁亥(7日)には「天皇幸於越智、拝後岡本天皇陵」、天武911月乙亥(4日)には「高麗人十九人、返于本土。是当後岡本天皇之喪、而弔使留之、未還者也」などと見えるようです。
 「桜井」については現在の奈良県桜井市付近なのか、あるいは『元興寺縁起』に「揩井等由羅宮」(桜井等由羅宮か)などと見えるらしい奈良県明日香村の豊浦、甘樫丘の北あたりに求められるものなのかわかりません。桜井市付近と見た場合「磐余」「磯城」などの地名とどのような関係にあったのかも私にはわかりません。また舒明即位前紀に「桜井臣和慈古」なる人が「三国王」なる人とペアで頻出し、これも蘇我氏とつながりのある人のようですが、「桜井皇女」が桜井氏と関係があったかどうかも私にはわかりません。「桜井娘」(姪娘)は蘇我氏なので桜井氏との関係も想定されるかと思います。
 「田村」はさらにわかりません。「田村」を地名ととらえて思いつくのは、たとえば藤原仲麻呂の平城京内の邸宅「田村第」とか、坂上田村麻呂の名前それ自身なのですが、岸俊男さんの「藤原仲麻呂の田村第」(『日本古代政治史研究』塙書房 1966 所収)にこれについての言及があって、「(前略)従って田村皇子の名はその母田村皇女とともにあるいは彼ら母子が居住した地名からきているのではないかと思うが、その「田村」がここで問題としようとする平城の田村であったか否かはわからない」としておられます。

 ともかくも「桜井皇女」「田村皇女」「遠智娘」「桜井娘」などの称を地名由来らしいグループとしてまとめると、残る「太姫皇女」「糠手姫皇女」「造媛」「姪娘」などの称も何らかの特徴でもってグループをなしているのではないかと思われます。これだけではよくわかりませんが、たとえば先に挙げました「乳娘」、蘇我稲目の女子で欽明の配偶者となった「堅塩媛」「小姉君」とか、あるいは推古の「炊屋姫」といった例なども合わせて考えれば、語弊があるかもしれませんが、授乳などの養育をする女性や、厨房での炊事といった家事など、いかにも当時の女性に求められそうな職能、もしくは続柄などを表す言葉のグループとしてくくれるのではないでしょうか。いや、推古の「炊屋姫」はあるいは実名なのかもしれませんが。
 「授乳などの養育をする女性や、厨房での炊事といった家事など、いかにも当時の女性に求められそうな職能」などという書き方は不適当かもしれません。孝徳紀の「造媛」の没する直前のこととして、父の麻呂の遺体が物部二田造塩により切り刻まれたので造媛が「塩」という言葉を嫌うようになった、そこで周囲が「塩」とは呼ばず「堅塩」(きたし)と呼ぶようになったなどという話が見えるのですが、「堅塩媛」の「キタシ」については成清弘和さんの『女帝の古代史』(講談社現代新書 2005)に「伊勢神宮などでは巫女を介して捧げられる神饌の一つの塩を表す」とのご説明があります。あるいは推古の「炊屋姫」についても「豊御食炊屋姫」全体で一連のものとして神聖な意味をくみとるべきなのかもしれません。推古の「豊御食炊屋姫」について成清さんは『女帝の古代史』の中で、農耕祭祀にかかわるものとする過去の見方よりも仏教興隆にあずかったことを称える名称と見る近年の研究のほうを支持しておられるようです。
 しかし記紀でも天寿国繍帳でも「堅塩媛」と「小姉君」は基本的にセット、対で用いられているように見えます(『古事記』は「小兄比売」、天寿国繍帳は「乎阿尼乃弥己等」ですが、基本的な部分は「ヲアネ」と読むのだと思います)。「小姉君」なる称にそれほど神聖な意味があるとも思われず、むしろ「下の姉さん」「小さい姉さん」的な印象を受けます。
 また推古についても用明紀・崇峻紀では「炊屋姫皇后」「炊屋姫尊」のみで見えています。神聖な意味を否定するつもりはありませんが、ただ「炊屋姫」の称と「糠手姫」の称とを見比べて考えると、「糟糠の妻」ではないですけれど、どうしても半世紀ほど前まで、終戦直後あたりまでの女性の役割、職能などというものを想像してしまうのです。
 もっとも「太姫皇女」については家事とか続柄とも考えられず、広く同じグループの中ではあっても少し性格の異なる称のように思えます。それは宣化皇女で欽明皇后となった「石姫」、息長真手王の女子で敏達皇后となった「広姫」などと性格の似た称と思うからです。
 また孝徳妃で有間皇子の生母の「小足媛」といった称も、地名由来とは思えませんし実名でもないでしょうから、強いていえばこれらのグループに属する称ではないかとも思いますが、家事等の女性的な職能を連想させるわけでもありませんし、神功皇后のオキナガタラシヒメは除くとしても皇極・斉明の「天豊財重日足姫」や雄略の娘のワカタラシヒメなどといった例と比較すると、王族でないなどの違いがあってなお疑問が残ります。そもそも雄略の娘のワカタラシヒメが実名なのか、あるいは実在したのかさえもよくわかりません。

 名前・通称に性格で分けられる複数のグループがあったと想定した場合、それらはどういう関係にあったのかと考えますと、地名由来らしきものについては大王家に関していえば宮の所在地の地名や、養育に当たった集団、経済基盤となった集団などとの関係が想定されるのでしょう。このあたりは全くわかりませんので追及されますと困るのですが、通説とあまり変わらない見方なのではないかと思います。そしてまた「遠智娘」「桜井娘」に関していえば、皇極紀元年正月辛未(15日)条に蘇我入鹿の別名が「鞍作」と見えているのを合わせて考えると、蘇我氏の内部でも大王家と同じように本宗家など有力な血筋の子を支族や関係の深い集団に養育させる、人や経済基盤を提供させるといったことが行われていたのではないかと疑っております。これは、たびたび引用させていただいております門脇さんの『蘇我蝦夷・入鹿』で「鞍作」のほうを入鹿の実名と見ておられるのに反していて非常に心苦しいのですけれど、私は司馬達等―多須奈―鳥(止利)と続く鞍作(鞍部)氏の存在、また「遠智娘」「桜井娘」といった名・呼称の存在から、蘇我入鹿も鞍作氏に何らかの形で養育された可能性があり、それと同様に遠智娘・姪娘も支族や関係の深い集団に養育された可能性があるというふうに考えております。まったくの素人考えとは存じますが(万一どなたか名の通った研究者の方がこのような見解を示しておられたら、そちらは素人考えではありません)。

 では「糠手姫皇女」「造媛」「姪娘」、あるいは「堅塩媛」「小姉君」「炊屋姫」「乳娘」など、「家事などいかにも当時の女性に求められそうな職能、もしくは続柄などを表す言葉」のグループをどうとらえたらよいのでしょうか。
 『日本書紀』『続日本紀』で各女帝の記述の冒頭を見ますと、推古の「幼曰額田部皇女」、持統の「少名鸕野讃良皇女」、元明の「小名阿閇皇女」などといった記述が目につくのですが、皇極・斉明と孝謙・称徳にはこのような形の記述がなく(そもそも孝謙は『続日本紀』巻17の途中の天平勝宝元年7月甲午=2日条で聖武から譲位されており、そのような記載が入る体裁でない)、また元正については代わりに「諱氷高」と見えますが、これは『日本紀略』により補われた旨見えていることを申し上げております。
 このような「幼曰−」「少名−」の形の記載は男帝ではなぜか天武の「幼曰大海人皇子」だけではないでしょうか。舒明紀に「幼曰田村皇子」とか、天智紀に「少名葛城皇子」などとは見えません。このような記述が女帝の場合に多く見えることは、逆にいえば女帝など当時の女性には「幼」「少」の通称に対する、「幼」「少」ではなくなってからの通称が強く意識されていたと見ることもできるのかもしれません。
 しかしながらこれは少しおかしい。先にも引きました天智6年(≒667年)2月戊午条、斉明・間人皇女を小市岡上陵に合葬し大田皇女をその陵の前の墓に葬った記事では「大田皇女」の表記です(間人皇女については没したことを伝える天智42月の記事や同3月の記事では「間人大后」と見え、天智紀の中で「間人大后」から「間人皇女」にかわっていて問題があります)。持統の同母の姉でやはり天武の配偶者となり大来(大伯)皇女・大津皇子が誕生しているのだから、没した時点で大田皇女が「幼」「少」だったとは思えませんが「大田皇女」表記のままです。その娘の大来皇女も弟の大津皇子の悲劇的な死を悼む歌(『万葉集』巻2 163166)を残しながら大宝元年1227日(ユリウス暦では702年に入っていたと思われます)に没していますが、『続日本紀』では「乙丑。大伯内親王薨。天武天皇之皇女也」ですし、『万葉集』の題詞でも「大来皇女」表記です。天武と額田王の娘で大友皇子の配偶者だった十市皇女は天武64月丁亥朔(1日)条に伊勢斎宮に出発する直前に没したことが見えますが、「十市皇女」表記であって、「皇女」「内親王」と見える人は既婚・未婚に関係なく没するまで(あるいは没後も)「大田皇女」「大来皇女」(「大伯内親王」)「十市皇女」といった表記のままのように見えます。もしも持統が即位していなければずっと「鸕野讃良皇女」「鸕野皇女」「菟野皇女」のままだったのでしょう。となると「少名」の「鸕野讃良皇女」に対する「少」でない称とは、その直前に見える「高天原広野姫(天皇)」ということにでも……果たしてなるのでしょうか。「少名」の「鸕野讃良皇女」に対する“「少」でない称”としては長いような気もしますが。

 推古の「幼曰額田部皇女」がどの程度に事実を伝えているのかも疑わしく思うのですが、私は「幼曰」の「額田部皇女」に対する“「少」でない称”はあるいは「炊屋姫」なのではなかったかと思っております。いや、そのように空想させていただきたく思っています。「堅塩媛」「小姉君」「糠手姫」「造媛」「姪娘」などの称もそういう性格のものと考えたい。ならばその“「少」でない称”と考える「炊屋姫」「糠手姫」系統の称はどういう性格の称で、どのような場・場面で使われた称なのか。……これは全くわかりません。
 また、持統や元明については「少名」に対する“「少」でない称”、「炊屋姫」「糠手姫」系統の称は思い当たりません。「少名鸕野讃良皇女」「小名阿閇皇女」などとわざわざ記載するからには、きっといつかの時点で「少名」「小名」ではなくなる瞬間のようなものがあったのではないかとも思われますが、それがどういう時点なのか、また「少名」「小名」を捨てたのちは「炊屋姫」系統の別の通称を名乗ったのか、それともあの長い称が「諡」でなく即位後の尊号で、それを名のったのか、はたまた「諱」、実名になったのか、そういったことも全くわかりません。
 なお村山吉廣さんの『楊貴妃』(中公文庫 1997)に、宋の史官である楽史の撰の『楊太真外伝』なる書物に見える「貴妃小字ハ玉環。弘農華陰ノ人ナリ。後、蒲州ノ永楽ノ独頭村ニ居ル」との記述が引かれています。その少し前、章の冒頭では「楊貴妃は幼名を玉環といった」と書いておられますから、こういう引用はよくないのかもしれませんが『楊太真外伝』の「小字」は幼名といった意味でとらえてよいのでしょう。「幼曰額田部皇女」「少名鸕野讃良皇女」「小名阿閇皇女」などの記述を連想させられます。先に引いた『新漢和辞典』の「字」の説明には「中国で元服の時に、実名のほかにつける名。呼び名(後略)」とありました。『楊太真外伝』の「小字」はこの「字」の説明とは合わない(元服以降が「小」とは思われない)わけですから、実は本家の中国でも「字」について狭義・限定的な意味の用例ばかりでなく、広く“名”的な意味で通用する用例があったとでも見たほうがいいようにも思われます。

 「下種の勘繰り」とのそしりを受けそうですが、「炊屋姫」系統の称に関しては、たとえば「紫式部」「清少納言」などのような“宮仕え”してからの宮廷における通称といったもの、あるいは「北政所」「淀殿」といった貴人の配偶者女性に対する呼称のような性格のものではなかったかと想像しています。「少名」「小名」ではなくなる瞬間を、宮廷社会に入った時点か、配偶関係の成立した時点と見ることになります(それが同時という場合が多かったと思いますが)。これもあくまで想像です。何の証拠もありません。まったく非論理的で、感情的なレベルの問題なので「妄想」と言い換えたほうがよいかもしれません。
 そして持統や元明に関しては「炊屋姫」系統の称は伝わらなかったか、あるいはその時代には既にそういう慣習がすたれていたのではないかと考えています。実際には天智の「宮人」(めしおみな)として見える「色夫古娘」(しこぶこのいらつめ、忍海造小竜の娘)や「黒媛娘」(くろめのいらつめ、栗隈首徳万の娘)、天武の「夫人」(おほとじ)として見える「五百重娘」(いほへのいらつめ、藤原鎌足の娘。天武との間に新田部皇子が、また異母兄弟である藤原不比等との間に藤原麻呂が誕生した)や「太蕤娘」(おほぬのいらつめ、蘇我赤兄の娘)など、ほかに別名の見えない女性のこれらの称に関しては地名由来の称のグループなのか家事や続柄の称のグループなのかは判断できず、推定する材料さえほとんどないのですが。

 なおこれも余談ながら、古典文学大系『日本書紀』ではこの天智の宮人の「黒媛娘」に注して「采女か。舒明即位前紀の栗隈黒女とは世代が隔たっている」と記されています。舒明即位前紀では山背大兄王が推古臨終の際の遺詔を使者に語る言葉の中に「栗隈采女黒女」(くるくまのうねめくろめ)が出てきます。推古危篤を聞いて駆けつけた山背大兄が「門下」で待機していると中臣連弥気(なかとみのむらじみけ、藤原鎌足の父らしいです)が「天皇の命により召す」と呼び出したので「閤門」に向かって進んだ。そこで「また栗隈采女黒女、庭中(おほば)に迎へて、大殿(おほとの)に引(ゐ)て入(まゐ)る」などと見えています。この後には「近習者」の「栗下女王」(くるもとのひめみこ)をトップとする「女孺(めのわらは)鮪女(しびめ)等八人」など「数十人」が天皇のそばに控え、また田村皇子もいたなどという記述が続きます。もとよりこの記述も2重の意味で事実かどうかわかりません(山背大兄の言葉が事実かどうかわからないし、『日本書紀』が事実を伝えているかどうかもわからない。令制前に「女孺」が存在したかもわからないようです)が、仮に『日本書紀』の編纂段階で采女と女孺とが性格の近いものと認識されていたとすれば、「黒女」と「鮪女」もまた似た性格を持つ称と見ることができるのかもしれません。「黒女」「鮪女」といった称は地名由来でも家事・続柄などでもなさそうで、采女や女孺は低い身分(王族や有力な氏の女子などに比べれば相対的に低い身分)だったでしょうからまた別種の通称が存在したのかもしれませんし、あるいは実名だったのかもしれません。もっとも天智の「宮人」には黒媛娘や色夫古娘のほか「越道君伊羅都売」(こしのみちのきみいらつめ。志貴皇子の生母、桓武の曽祖母)、「伊賀采女宅子娘」(いがのうねめやかこのいらつめ。大友皇子の生母)といった称も見えます。「伊賀采女宅子娘」にははっきり「采女」と表記されていますし、「宅子」があるいは実名だったようにも見えます。とすれば「黒女」「鮪女」といった称は実名というよりは通称と見るべきなのでしょうか。令制の戸籍などには「赤売」「比都自売」などむしろ「黒女」「鮪女」に近い印象の名称が並んでいますが……。「越道君伊羅都売」に至っては「イラツメ」のみで、実名らしき称も通称も見当たらないように思われます。
 なお古典文学大系『日本書紀』の「黒媛娘」の注「舒明即位前紀の栗隈黒女とは世代が隔たっている」に関してですが、舒明13年(≒641年)に天智16歳とする舒明紀の数字から逆算して推古36年(≒628年)には天智は数え年3歳です。栗隈采女黒女の年齢はわかりません。

 持統称制前紀に見える「少名鸕野讃良皇女」などについて考えますと、もうその時代には「炊屋姫」「糠手姫」系統の通称はすたれていたけれども、王女などに関しては「鸕野讃良皇女」「阿閇皇女」といった地名由来の称は「幼」「少」時の呼称であるという意識がまだ残っており、そういった意識が「少名鸕野讃良皇女」といった記述を律儀に挿入させたのではないかなどとも考えております。
 6世紀末とか7世紀初頭といった時代に『源氏物語』の世界のような天皇(大王)の住居たる建物に隣接して後宮的な施設が存在する状況は考え難いように思います。
 用明元年5月に「後宮」(きさきのみや)と見えても、これは「炊屋姫皇后」推古の「別業」(なりどころ)である海石榴市宮(古典文学大系『日本書紀』用明元年5月によれば「つばきいちのみや」。「ツバキチ」「ツバイチ」で通っているかもしれません)なのだから、この語は和語「キサキノミヤ」に「後宮」の字をあてた中国的な文飾と見るべきで、むしろ后妃などの「宮」はこの例のように離れた場所に敷地を構えていたのでしょう。『元興寺縁起』の記述を引くのは適切でないかもしれませんが、己丑の年(≒569年、ただし『元興寺縁起』はこの年蘇我稲目が没したとするが『日本書紀』では稲目の没を欽明31年≒570年とする)に用明・推古が「大々王の後宮そ」と言って放火させなかったと見える牟久原(むくはら)の後宮や、乙巳の年(≒585年)に推古が「我が後宮そ」と言って放火させなかったという桜井道場は、それぞれどういう関係にあるのかつかみづらいところもありますが、ともかく欽明のシキシマの宮や敏達のヲサタの宮に隣接するものだったようには思えません(そういったことを論じておられる文献等もあるかとは拝察するのですが、拝読しておりません)。そしてまたそういった状況のもと、采女や女孺といった“女官”たちはどこで働き生活していたのだろうかといった疑問もわいてきますが、直接現在の話題とは関係ありませんので置きます。
 ともかく後宮的な一体の施設や、そこに女性が集団で仕え起居しているような状況がなかったとすれば「紫式部」「清少納言」的な宮廷内においての通称というのも実は考えづらく、そのような通称が要求される場といったものも想像し難いものがあります。それでも私なりに「炊屋姫」「糠手姫」などの称の性格を考えれば「宮廷社会における通称」あるいは「配偶者に対する尊称」といった形にでも考えておくほかありません。それで、「遠智娘」や「姪娘」についてはどちらも通称のみ伝わって実名に相当するものは伝わっていないのではないかと思っております。グループ分けという前提が既に違っているのかもしれません。

 まとまりのない記述になってしまいましたが、舒明生母である糠手姫皇女の『古事記』敏達段に見える3つの称「糠代比売」「田村」「宝」を検討すると、「田村」は宮の所在地の地名という可能性もあるでしょうが、どちらかといえば養育に当たった集団、経済基盤となった集団と関係する地名由来の称なのではないかという気がします。「糠代比売」は家事など当時の女性の職能に関連した名で、宮廷における通称か配偶関係成立後の通称と想像しています。
 残る「宝」を「田村」と混乱した誤りと見ずに実際に行われていた称だったと見れば、何の根拠もないのですけれど、それは実名であった可能性もあると思います。「タカラベ」といった養育集団に由来する通称でなく実名としての「タカラ」も存在した、と見ることになります。しかしこれも『古事記』敏達段の「宝王、亦名糠代比売王」が誤りなく事実を伝えるものと見た場合であって、この「宝王」が「田村王」を誤ったものだったとすれば成立しません。『古事記』の后妃・所生子の記載を考えれば、即位しなかった王族について私の考えます実名らしきものを伝えるケースはほとんどないように思われますので、この糠手姫皇女の「宝」も誤りの可能性は捨てきれないものと思います。

 先ほど推古の「炊屋姫」を舒明生母の「糠手姫皇女」の「糠手姫」と同じく「厨房での炊事といった家事など、いかにも当時の女性に求められそうな職能」由来の通称と見ました。もとより個人的な思い込みのレベルの話であってご賛同はいただけないものと思うのですが、ともかくそのように思っています。
 歴代の「名」に関して考察されたページ では皇極・斉明の出生直後の名として「トヨタカラ」(豊財)という形で想定しておられるのですが、舒明2年正月戊寅の立后の記事の「宝皇女」からすれば実名といった部分は「タカラ」のみで、「トヨ」はその頭に付加された美称のような気もします。それでは孝徳の「トヨヒ」(豊日)と通じる部分がなくなってしまう。もっとも姉と弟、男女ですから通じさせる必要はないのかもしれませんが、それでも孝徳即位前紀の「豊財天皇」に加えて『新唐書』日本伝の「天豊財」表記も引き合いに出して「トヨタカラ」と見たく思います。それを引き合いに出すことが何の証拠にもならないことは百も承知ですが、なおこだわりますのは、もう以前からタネは割れてしまっていますが、推古の実名を「豊御食炊屋姫」から「炊屋姫」をとった「トヨミケ」と見たいからです。

 歴代の「名」に関して考察されたページ では用明紀・崇峻紀の「炊屋姫天皇」「炊屋姫皇后」「炊屋姫尊」の例を引かれたうえで「炊屋姫」を元からの名という形で見ておられるようです。そしてこれが一般的なご見解なのではないかと拝察しております。
 「トヨミケ」(豊御食)が神饌あたりを意味する神聖なイメージを持つ語であることは十分考えられると思います。通称と見た「炊屋姫」についてもそこからの連想、つながりで生まれた称と見ることもできるかもしれません。たとえば小林敏男さんは『別冊歴史読本 日本の女帝』(新人物往来社 2002)の「大后制と女帝」の中で「推古は、幼名を額田部皇女というが、諡号は、豊御食炊屋姫であった。トヨミケは豊御饌、カシキヤは炊き屋で、農業のまつりに関係の深い讃え名である」としておられます。対し、先にも引かせていただきました成清さんの『女帝の古代史』では「他方、死後の和風のおくり名、または生前からの讃え名とされる「豊御食炊屋姫」には、農耕祭祀に関わる要素があるのではないかと従来、推測されてきた。つまり、その名称より神に捧げる神饌を準備する女性と理解するのである。ところが、近年の研究によると、こうした推測は具体的に根拠づけることはできず、元興寺関係の史料によると、仏教興隆に関係した讃え名ではないか、という見通しが示されている」と述べておられます。
 ちなみに「三炊屋媛」(みかしきやひめ)なる名が神武紀にありました。例の金のトビの話のあと長髄彦が神武に語った言葉の中に見えるのですが、長髄彦の妹で、物部氏の遠祖である櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと、饒速日命。『古事記』に「邇芸速日命」)と配偶関係となり間に可美真手命(うましまでのみこと。『古事記』に「宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)」)が誕生したと見えています。『古事記』には「ミカシキヤヒメ」とは見えず、「登美夜毗売」(とみやびめ。毗は〔田比〕、「毘」の異体字)と見えているようです。
 『万葉集』に「豊御食」の語が登場するかどうか存じませんが、「豊御酒」(トヨミキ)を歌った歌があったのを思い出しました。巻6973、天平4年(≒732年)に聖武(あるいは元正上皇)が任地に出発する節度使(藤原房前・多治比県守・藤原宇合)に酒とともにたまわった長歌や、巻194264、天平勝宝4年(≒752年)に孝謙が遣唐使藤原清河らに酒とともにたまわった(難波にいた藤原清河のもとに酒と一緒に届けさせた)宣命体の長歌が、どちらも「相飲まむ酒そ この豊御酒は」で締めくくられています。『続日本紀』天平48月丁亥(17日)には節度使任命と同時に翌天平54月出発の遣唐使の任命(大使多治比広成、副使中臣名代)も見えているので、あるいは973の歌も遣唐使に対する意味もあったのではと思うのですが、これは余談でした。
 「豊御食」が神饌などを意味する語であったとすれば、純粋に即位後の尊号か和風諡号の一部の美称、それも後半の「炊屋姫」を飾る語と見るべきであって、実名と見るべきではないのかもしれません。推古の実名を「トヨミケ」と見る根拠がほかにあるのかと問われれば、思いつきません。
 推古の「トヨミケ」単独の表記は記紀にも見当たりません。『家伝上』(大織冠伝)冒頭近くに「大臣以豊御炊天皇廿二年歳次甲戌、生於藤原之第」と見えるようですが「豊御炊天皇」です。おそらくこれが執筆された当時はまだ大炊王(淳仁)在位中ではなかったかと思われますが、「トヨミケ」単独の表記の例として私が唯一思いつきますのは、『元興寺縁起』冒頭近くに見える「等与弥気〈能〉命」(「馬屋戸豊聡耳皇子受勅、記元興寺等之本縁及等与弥気〈能〉命之発願、并諸臣等発願也」、「能」は醍醐寺本で「の」の変体仮名)しかありません。しかもこれは上文によれば「歳次癸酉」(≒613年か)、推古の「生年一百」、100歳の折に記されたものとなっています(推古21年癸酉に推古は60歳)。この「等与弥気」のほうこそ「トヨミケカシキヤヒメ」を約した形、省略形のように取れそうでもあります。
 「ミケ」という名は存在したようです。先にも少し触れているのですが、舒明即位前紀に「中臣連弥気」(なかとみのむらじみけ)の名が見えます。おそらく「中臣氏本系帳」に見えるという鎌足の父「御食子」です。先ほども引きました『家伝上』の「豊御炊天皇」の直前にも鎌足について「美気祐卿之長子也。母曰大伴夫人」と見えているらしいです。もっとも「ミケ」が実名かどうかもわかりませんし、そもそも男性です。
 男性ついでに申せば『古事記』上巻巻末に「是天津日高日子波限建鵜葺草不葺合命、娶其姨玉依毘売命、生御子名、五瀬命。次、稲冰命。次、御毛沼命。次、若御毛沼命、亦名豊御毛沼命、亦名神倭伊波礼毘古命。〈四柱〉」とあって、神武の一名に「豊御毛沼命」(とよみけぬのみこと)が見えるようです。この「豊御毛沼命」についてもし古い時代に「沼」が「ノ」に近い音だったといったことでもあれば、もともと「トヨミケノミコト」などと字音で表記されていたものの「トヨ」「ミコト」だけ「豊」「命」にかえたものと見ることもできそうで、そうなりますと神武の一名が「トヨミケ」と伝わっていたことになるものと思われますが、残念なことに日本思想大系『古事記』によれば推古の「豊御食」は「トヨみケ」、上巻巻末の「豊御毛沼命」は「トヨみケぬノみコト」、「トヨみケ」部分の発音は同じですが「沼」の「ぬ」と「ノ」は甲乙が違うようです。またこの名は『日本書紀』神代下に見えません。兄の名として「三毛入野命」(みけいりののみこと。最初の「一書」にも見える)、また4つ見える「一書」に「三毛野命」「稚三毛野命」などの名(神武ではない)が見えています。最初の「一書」に神武の一名として「狭野尊」(さののみこと)が見え、「是、年(みとし)少(わか)くまします時の号(みな)なり」、幼名が狭野尊であったようにも見えます。神武の諱は次の神武紀に見える彦火火出見(ひこほほでみ)でした。

 女性の実名について男性名を探しても意味はない、古い時代や想像上の存在で探してみても意味はないなどと言われそうですが、そう言われますと次に述べます廐戸の実名についても述べづらくなります。
 廐戸の実名も通説的には「ウマヤト」とされているものと思われ、「豊聡耳」は「美称」「和風諡号的なもの」といった形で理解されている場合が多いように思われます。この「豊聡耳」の称については吉村武彦さんの『聖徳太子』の中に、『法華経』法師功徳品の偈と関連付けて見ておられる長沼賢海さんの『聖徳太子論攷』でのご見解が引かれています。これも長い孫引きになってしまい恐縮ながら、「其耳聡利なる故に、悉く能く分別して知らん、是の法華を持たん者は、まだ天耳を得ずと雖も、但所生の耳を用ふるに功徳已に是の如くならん」という部分のようです(坂本幸男さん・岩本裕さん訳注の『法華経(下)』岩波文庫 1967 によれば、この部分は「其耳聡利故 悉能分別知/持是法華者 雖未得天耳/但用所生耳 功徳已如是」)。このような証拠を示されたあとでこれに逆らうのは気が引けますが、これにつきましても私は「トヨトミミ」のほうを実名と考えたく思っております。
 「上宮之廐戸豊聡耳命」(『古事記』用明段)・「廐戸豊聡耳皇子」「上宮廐戸豊聡耳太子」(『日本書紀』推古元年4月己卯=10日)・「廐戸豊聡耳聖徳法王」(『上宮聖徳法王帝説』)など基本的な部分は「廐戸豊聡耳」で一貫していますし、「橘豊日」「箭田珠勝大兄」「押坂彦人大兄」などの語順とも似ています。用明元年春正月壬午朔(1日)には「其一曰廐戸皇子〈更名豊耳聡聖徳。或名豊聡耳法大王。或云法主王。〉」とあって、「豊聡耳」部分でひとつのまとまりのようです。「ミミ」については「魏志倭人伝」にも投馬国の官に「弥弥」「弥弥那利」といった称が見えますが、同じく「魏志倭人伝」に邪馬台国の官として見える「弥馬獲支」の「ワケ」が顕宗の「イハスワケ」や天智の「ヒラカスワケ」にも使われていることを思えば、廐戸の「トヨトミミ」も和風諡号的な美称というよりは実名のほうがふさわしく思えます。「一度に10人の話を聞き分けた」などというのもこの名から発想された説話でしょう。「トヨ」も用明の「トヨヒ」や推古の「トヨミケ」と共通します……というのは、いまとなってはあまり強調したくもないのですが。
 『古事記』中唯一の「大兄」が景行段に見える「日子人之大兄王」であることを先に引かせていただきましたが、その景行段にはまた「豊戸別(とよとわけ)王」という名も見えます(『日本書紀』景行42月甲子=11日にも「豊戸別皇子(とよとわけのみこ)」が見え「是火国別始祖也」とあります)。
 さらに『日本書紀』神功紀摂政元年2月、忍熊王との対決を前に、昼が夜のように暗くなる状態が何日も続いたとあり、その理由を「紀直(きのあたひ)の祖(おや)豊耳(とよみみ)」という人に問うています。実際に答えたのは「一老父」で、その答えも「それぞれ別々の社の神職2人を同じ墓穴に葬ったアヅナヒという罪のせいだ」といったものだったようですが、この「一老父」を連れてきたのが「豊耳」だったというつもりなのでしょう。
 「景行紀に豊戸別皇子という名が見え、神功紀に豊耳という名が見える……だから何なんだ」と言われればそれまでですが。

 景行天皇はヤマトタケルノミコトの父ですが、記紀ともに80人の子があったことを伝えています。『古事記』はそのうち若帯日子命(成務)・倭建命・五百木之入日子命の3人を「太子」と伝え、それ以外の77人は「国造」「和気」「稲置」「県主」として諸国に分けたと見えます。
 『日本書紀』には3太子の所伝こそないものの、この「豊戸別皇子」を「火国別(ひのくにのわけ)の始祖」と記しています。このあたり『古事記』と『日本書紀』とで所伝が微妙に食い違っているのですが、『古事記』にはまた「豊戸別王」「日子人之大兄王」など多数の名に交じって「須売伊呂大中日子(すめいろおほなかつひこ)王」「香余理比売(かごよりひめ)命」などといった名が見えます。この「須売伊呂大中日子王」は景行の子ではなく、景行段末尾の倭建命の子孫の記載では、

景行―倭建命―若建王―須売伊呂大中日子王、また景行―倭建命―息長田別王―杙俣長日子王―飯野真黒比売命―須売伊呂大中日子王の系図


という系図になるもののようです(若建王と飯野真黒比売命の間に生まれたのが須売伊呂大中日子王)。そしてこの須売伊呂大中日子王の娘「迦具漏比売(かぐろひめ)命」(訶具漏比売)と景行との間に生まれたのが「大江王」(また「大枝王」表記も。「兄」「江」「枝」いずれも発音は ye だったようです)、その大江王の娘の「大中比売命」(仲哀段で「大中津比売命」)と仲哀との間に生まれたのが香坂王・忍熊王(『日本書紀』仲哀紀で麛坂皇子・忍熊皇子、神功紀では麛坂王・忍熊王。応神の異母の兄。筑紫から戻った神功・応神母子を迎えうとうとした)という系図になるようですが、『日本書紀』では仲哀紀で麛坂皇子・忍熊皇子の母方の祖父という形で「彦人大兄」(「娶叔父彦人大兄之女大中姫為妃。生麛坂皇子・忍熊皇子」)を記す程度で、他は荒唐無稽と判断したのかこれらの名を景行紀に記していません。

 こんなおとぎ話のような名に注目しましたのは、欽明の子として先に挙げました穴穂部皇子の別名に「須売伊呂杼」(すめいろど、『古事記』欽明段「次三枝部穴太部王、亦名須売伊呂杼」)・「天香子皇子」(あまつかこのみこ、『日本書紀』欽明23月「其四曰泥部穴穂部皇子。〈更名天香子皇子。一書云、更名住迹皇子。〉」)といったものが見えるからです。
 「ばかだなあ」……スメイロド(須売伊呂杼)は『日本書紀』用明2年(≒587年)42日、用明が「新嘗」の直後に「瘡」を発病した際の「是に、皇弟皇子(すめいろどのみこ)、〈皇弟皇子といふは、穴穂部皇子、即ち天皇の庶弟(はらから)なり。〉豊国法師(とよくにのほふし)〈名を闕(もら)せり。〉を引(ゐ)て、内裏(おほうち)に入(まゐい)る。物部守屋大連、邪睨みて(にらみて)大きに怒る」の記述の「皇弟皇子」であって、『古事記』は「亦名」と名前のように書いているけれど、これは「皇弟」という続柄を名と誤解したに過ぎないよ。


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