2. なまえ − 7
そろそろ推古の実名について考えないといけないのですが、もうしばらくお待ちいただき、舒明と皇極・斉明の実名について考えてみたいと思います。
歴代の「名」に関して考察されたページ では、舒明の「息長足日広額」については皇極2年9月壬午(6日)の「息長足日広額天皇」(舒明)の「押坂陵」への改葬の記事の分注に「或本に云はく、広額天皇(ひろぬかのすめらみこと)を呼(まう)して、高市天皇(たけちのすめらみこと)とすといふ」(「或本云、呼広額天皇、為高市天皇也」)、「広額天皇」とあることを引いて「息長足日
+ 広額」、美称・地名 + 元からの名前という形でとらえておられます。
また皇極・斉明の「天豊財重日足姫」についても、舒明2年正月戊寅(12日)の立后の記事「二年春正月丁卯朔戊寅、立宝皇女為皇后」の「宝皇女」や、孝徳即位前紀の皇極4年6月庚戌(14日)の「是の日に、号(みな)を豊財天皇(とよたからのすめらみこと)に奉りて、皇祖母尊(すめみおやのみこと)と曰さしむ」(「是日、奉号於豊財天皇、曰皇祖母尊」)の「豊財天皇」の例を引いておられるのですが、「豊財」を出生直後の名とみると、それが前に置かれていて配置が逆になることを問題としておられます。
もっと興味深いのは、「重日」を皇極・斉明の「重祚」と関連付けて考えておられることです。こういうご見解に触れたあとでは、たしかにもう「重日」の語は重祚の意を含んでいるものとしかみられないのですが、同ページでは「生前の行迹」によって命名するのは「謚」の特徴であったとされ、「天豊財重日足姫」の称を「謚」、没後の命名である可能性が高いととらえておられます。そして出生直後の命名とみられる部分としては先の「豊財」と「足姫」を候補として挙げられたうえで、「「豊財」の方に惹かれるものがある」と記しておられるのです。
私もこのご見解に乗らせていただき、舒明の名については「ヒロヌカ」(広額)の可能性を、また皇極・斉明の名については「トヨタカラ」(豊財)であった可能性を考えさせていただきたく思います。
先に欽明の名を「広庭」ではなかったかと想定しておりますが、舒明の名を「広額」と見るなら、「広」(ヒロ)を通字的なものとして考えることができるように思うのです。またこれも小林さんの「歴代天皇の呼称をめぐって」からの孫引きになってしまうのですが、持統の実名については長久保恭子さんが「「和風諡号」の基礎的考察」で「大倭根子天之広野日女尊」「高天原広野姫天皇」の「広野」と見ておられるそうです。先にはご見解を孫引きしてそれに異を唱えておきながらたいへん恐縮なのですけれど、これに従わせていただくなら、この例も「広」つながりということになりそうです。
いっぽう皇極・斉明の「豊財」についてはむしろ問題があるのかもしれないという思いもあります。歴代の「名」に関して考察されたページ
では舒明2年正月戊寅の立后の記事の「宝皇女」を挙げておられますが、皇極の同母弟の孝徳は「軽皇子」でした。
皇極・斉明の「宝皇女」と孝徳の「軽皇子」を並べて見比べて思いつくのは「財部」「軽部」の存在です。孝徳の「軽皇子」の称が名代、養育の基盤か経済基盤かになったであろう部の称に由来したものであるとすれば、皇極・斉明の「宝皇女」の称も実は「財部」に由来する称、実名というよりは通称の系統の称で、実名は別にあったのではないかとも疑われるように思うのです。
武光誠さんの『聖徳太子』(社会思想社 1994)の中に「六・七世紀の皇族と名代」と題する図が示されており、その図では「宝皇女(皇極天皇)」の保有する部として「財部」を、「軽皇子(孝徳天皇)」の保有する部として「軽部」を示しておられます。もっとも、この図は武光さんの先行する論文あたりが基礎になっているのかもしれず、そちらを拝見しないでこの図の記載のみを取り上げるのは失礼なのかもしれません。
「軽部」についてはたとえば遠山美都男さんの『大化改新』(中公文庫 1993)の中にも孝徳にからんで説かれていますが、そこでは允恭の子の木梨軽皇子の御名代との伝えを踏まえたうえで「部民制の施行時期からいって、この皇子のために軽部とよばれる服属集団が設置されたとは考えがたい」とされ、「軽という名前をもち、軽部からの貢納・奉仕をうけるに相応しいのは、今問題にしている軽皇子その人であろう」としておられます。
ところが「財部」についてはこのような形の説明を存じません。門脇禎二さんの著作の中に財部について説かれた記述があるとウェブで目にした記憶もありますが、それも拝読しておりません。
では「タカラ」(財・宝)と付くのは名代、部由来の称であって実名にはそういったものがないのかといえば、「財」という名の例も思い当たるように思われます。「実名」と言っていいのかどうかわかりませんが、思いつきますのは天武紀上。日付は不明ながら7月の奈良盆地方面の戦線で「坂本臣財」(さかもとのおみたから)の名が見えます。長尾直真墨らとともに300の兵を率いて「龍田」を守ったと見え、その後高安城に入り、また衛我河で近江方の壱伎史韓国の軍と戦って敗退したように見えます。天武紀下の2年5月癸丑(29日)に没したことが見え、「壬申年之労」により小紫位を贈られたとあります。男性です。
舒明や皇極・斉明のこれらの称にからんではいろいろと考えさせられるところもあります。まず歴代の「名」に関して考察されたページ
で「天豊財重日足姫」の称について没後の「謚」であろうという点を強調しておられることを挙げさせていただきます。「重日」に重祚の含意を見るなら、たしかにこの称は即位時にたてまつられたものといった生前の尊号としてはとらえられず、没後の諡として見るほかはないでしょう。「和風諡号」といった言葉からこのような長い称については無反省に何となく「没後のものだろう」といった形で見てきたのですが、「天豊財重日足姫」については――「重日」に重祚の含意のあることを認めるなら、ですが――改めて没後のものであることを確認させられるように思います。
「和風諡号」とされているこういった長い称がいつ成立したのかも重要な問題なのでしょうが、関係するものを拝見しておりませんので何も申せません。山田英雄さんの「古代天皇の諡について」はまさにこれをテーマとされているのですが、私などには難しいですし、また40年前のものです。
その中の「三 持統以前の天皇諡号について」では、まず天武については「この時期において諡をおくる習慣があったか否かは必ずしも明らかではない」といった言い方をされて不明としておられるようですし、天智の諡についても『日本書紀』の記述に追記を疑われるなどされたうえで「従って安全な所で考えるならば、天智の諡号は紀編纂時とする外はないであろう」とされています。また『続日本紀』の贈諡の記事に見える持統の「大倭根子天之広野日女尊」、文武の「倭根子豊祖父」(と元明の遺詔の「其国其郡朝廷馭宇天皇」)を「甲」、『日本書紀』『続日本紀』内題の「高天原広野姫」「天之真宗豊祖父」(と「日本根子天津御代豊国成姫」)を「乙」と分けられたうえで、孝徳以後元明まで(甲乙あるものは乙のほう)の諡についても慶雲4年(文武の「倭根子豊祖父」をおくる)から養老4年(『日本書紀』)までの期間に作られたものである可能性を考えておられるようです。ただし元明の「日本根子天津御代豊国成姫」は『日本書紀』以降と見ておられます。「孝徳以後」という形で見ておられますのはいずれも「天」の付くことを意識しておられるからのようで、同論文には舒明の「息長足日広額」について考察された記述は見当たらないようです。
いっぽう欽明・敏達・用明・推古、とくに推古については天寿国繍帳銘や法隆寺金堂薬師像銘、『元興寺縁起』に見える塔露盤銘や丈六光銘等を資料とされ、「一応当時のものであるという通説に従って」論じておられます。それらに見える名称が記紀と同一であることを指摘され、また資料の年代から推古については生前の称となることも指摘されたうえで「推古のみに生号で、その他は諡号であるとすると、推古には諡号はないことになり、天皇によって生号、諡号の差別があり、天皇の名称のつけ方の習慣としては不自然である」といった言い方をしておられます。さらにその延長線上で、結局はこれら資料の年代を疑う見通しを示しておられるようにもうかがわれます。
こういった称が生前の尊号なのか諡号なのか、また没後のものだとしたらいつ作られたのかといったことは重要でしょうが、私ごときの手には余ること、考えも及ばない問題です。
しかし同時に『隋書』倭国伝に見える「開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤号阿輩雞弥遣使」の記述の姓・字「アメ・タリシヒコ」が、舒明の「オキナガタラシヒヒロヌカ」(息長足日広額)や皇極・斉明の「アメトヨタカライカシヒタラシヒメ」(天豊財重日足姫)などと、さらには景行の「オホタラシヒコオシロワケ」、成務の「ワカタラシヒコ」、仲哀の「タラシナカツヒコ」、また神功の「オキナガタラシヒメ」、あるいは孝安(『古事記』「オホヤマトタラシヒコクニオシヒト」、『日本書紀』「ヤマトタラシヒコクニオシヒト」)などと共通する性格のものである点は気にかかります。とくに景行・成務・仲哀の3代は『古事記』で段冒頭での表記が「−命」「−王」でなく「−天皇」であることが注意を引きます。
この開皇20年(≒600年)に遣隋使を送ったことが見える倭王「姓阿毎字多利思比孤」については、小野妹子の祖先という「天帯彦国押人命」(あめたらしひこくにおしひとのみこと)を隋側が君主の名と誤解して記録したものとする辻善之助さんのご見解があるのだそうです。東野治之さんの『遣唐使』(岩波新書 2007)に辻さんの『増訂 海外交通史話』でのご見解として紹介されているもので、ですからここも孫引きで恐縮なのですが、それに続けて東野さんは「第一回の使いは小野妹子とは考えられないが、『隋書』が第一回遣隋使の記事に懸けて記していることがらは、先の文帝とのやり取りを除くと、二回目以降の遣隋使や、倭に使いした裴世清の報告をもとに再構成していると考えられ、「阿毎多利思比孤」も第一回の使いが言ったことに限定する必要はない」としておられます。
なおこの「天足彦国押人命」は『日本書紀』孝昭紀に孝安(日本足彦国押人尊)の兄弟として見えており、また孝霊紀にも孝霊生母の押媛について「きっと天足彦国押人命の娘なのではないか」(「母曰押媛。蓋天足彦国押人命之女乎」)と見えています。和珥臣らの始祖とされる人物ですが、『古事記』孝昭段にはやはり孝安(大倭帯日子国押人命)の兄の「天押帯日子命」(あめおしたらしひこのみこと)と見えており、彼を祖とする氏として春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣など16氏が挙がっています。孝安も『古事記』と『日本書紀』とで称が変化(『日本書紀』では「オホ」が外れた)しており、また「天足彦国押人命」も『古事記』(「天押帯日子命」)と『日本書紀』(「天足彦国押人命」)とで名が微妙に変化しています。「アメ」「タラシヒコ」はどちらにも入っているのですが、ともかく変化してはいますので、辻さんの本を拝読しないで申し上げるのは恐縮ながら、個人的にはその表記の定まった時代が比較的新しい可能性を、それも安閑・宣化や清寧の称が作られたのに近い時期あたりを考えたく思います(といったことも既にきっとどなたかご指摘なのかもしれません)。
ちなみに岸俊男さんは「ワニ氏に関する基礎的考察」の中の「八 孝昭記系譜の成立」で「天押帯日子命」の成立について触れておられます。まず水野祐さんの『増訂日本古代王朝史論序説』(最も読まなければならないものと思うのですが、拝読しておりません)の中の「諡号考」という論文に見えるというご見解――「タラシ」を含む景行・成務・仲哀・神功の伝承の成立を7世紀前半、舒明・皇極朝前後から天智朝ごろまでの思想的所産とされているもののようです――を引かれたうえで、さらに続けて皇極・斉明(天豊財重日足姫)・孝徳(天万豊日)・天智(天命開別)・天武(天渟中原瀛真人)の「諡号」がいずれも「天(アメ)」を冠することを指摘され、同じく「天」を冠する「天押帯日子命」やそれを祖とする同祖系譜の成立もそれとほぼ同時期のことと見ておられるようです(なおこれは先に孝徳−元明の諡の成立を707−720年の間に想定された山田さんの「古代天皇の諡について」のご見解と大きくずれるようですが、「ワニ氏に関する基礎的考察」ではこれらの諡号の成立を舒明・皇極朝前後から天智朝ごろまでと見ておられるわけではありません)。たしかこういったご見解に立脚されてのことと思うのですが、『隋書』の「俀王姓阿毎字多利思北孤号阿輩雞弥」についても舒明朝ごろの称の可能性を考えておられる説を拝見したような記憶があります。ただそれが何であったのか思い出せません。
まとまりのない記述で恐縮ながら、『隋書』と『日本書紀』の記載のずれを考えるとき、いくつかの可能性を想定できるように思われます。それは『日本書紀』の女王推古の記載が虚偽を含むものと考えるケース、『隋書』のほうがずさんな編集等により誤りを生じたものと考えるケース、また遣隋使が虚偽を述べたと考えるケース、などなど。その誤りを指摘し証明するのも至難の業、というより究極的には不可能と思われますし、さまざまな要因が複合している可能性もあるのでしょうが、個人的には東野さんが言及しておられますように『隋書』の記述にそれほどの重きを置いて見ることも考えものではないかと思うのです。
これもまた余談ながら、『隋書』倭国伝の中に「秦王国」というものが見えます。
『隋書』倭国伝もまた「俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中依山島而居」といった位置の記述から始めて簡略な過去の交渉記録を記し、その次に「俀王姓阿毎字多利思北孤号阿輩雞弥」の見える開皇20年(≒600年)の遣使の記事があり、続けて「王妻号雞弥」「名太子為利歌弥多弗利」「内官有十二等一曰大徳次小徳……」「有軍尼一百二十人猶中国牧宰八十戸置一伊尼翼……」などの記述があり、終わりのほうに「日出処天子致書日没処天子」の文言が見える大業3年(≒607年)の遣使を記すのですが、これに「蛮夷書有無礼者勿復以聞」と激怒した煬帝が明年なぜか裴世清(裴清)を使者として倭に送り出した、その使者の行程に「秦王国」が見えています。
(前略)明年上遣文林郎裴清使於俀国度百済行至竹島南望〓(偏「身」旁「冉」の〔身冉〕)羅国経都斯麻国迥在大海中又東至一支国又至竹斯国又東至秦王国其人同於華夏以為夷洲疑不能明也又経十余国達於海岸自竹斯国以東皆附庸於俀(後略)
(石原道博さん編訳『新訂 魏志倭人伝 他三篇』岩波文庫 1951 新訂版1985 の百衲本影印によりました。やむなく字体を変更した箇所等があります)
大和岩雄さんの『日本にあった朝鮮王国』(白水社 1993)では冒頭でこの「秦王国」の所在地の比定に関する直木孝次郎さんや泊勝美さんの諸説を引いておられます。もちろんこの記述のみから推定されているわけでもなくて、泊さんは大宝2年(≒702年)の豊前国戸籍から「秦部」や「−勝」と見える渡来系の姓を抽出され、その全体に対する比率から検討するなどしておられるようです。つまるところ、中に見える「海岸」について、直木さんは九州を陸路で来て豊前、おそらく大分・福岡県境付近の周防灘の「海岸」に着いたものと見ておられ、泊さんは海路瀬戸内海を来て難波、大阪湾岸の「海岸」に着いたものと見ておられることになるもののようです。もっとも「秦王国」の所在については直木さんも泊さんも豊前(大分県北部から福岡県東部)あたりに想定しておられるようです。
私ごときがつまらぬ関心から申すべきことでもないですし、もうどなたかおっしゃっていることと存じますが、この文を見ていますと「〓(〔身冉〕)羅国」「都斯麻国」「一支国」「竹斯国」「秦王国」、さらにそこから先の「十余国」がそれぞれ全部一島一国の島しょ、島であるかのように思えてきます。だから「秦王国」も「以為夷洲」、台湾かとされたのではないでしょうか。そして「倭国」の「海岸」に達した。そんな記述のように見えるのです。現代の日本人には済州島とか対馬・壱岐・九州などのイメージがありますから先入観で見てしまいますが、この文の固有名詞を架空のものに置き換えてしまえば、そんな像が浮かんでくるのではないかと思います。『隋書』倭国伝冒頭近くには「其国境東西五月行南北三月行各至於海其地勢東高西下」といった記述も見えます。倭国は東西方向に5カ月、南北方向に3カ月進む距離であってそれぞれ海に至る……国境は四面が海ということは、「倭国」は本州も九州も四国もないひとつの島として考えられていた可能性があると思うのです。実際には隋の使者は福岡県から大分県と通ったのでしょうが、使者の報告から『隋書』に至る間に、伝聞といった過程を経て先入観による「曲筆」のような結果になってしまった。そんな記述のように思えるのです。
そんなわけで『隋書』等中国史書の記述を無批判に受け入れることには抵抗があって、「俀王姓阿毎字多利思北孤号阿輩雞弥」「王妻号雞弥」「名太子為利歌弥多弗利」などの記述もどこまで信頼してよいのか疑問に思う部分もあります。「阿毎」「多利思比孤」や「阿輩雞弥」「雞弥」「利歌弥多弗利」などは当時の日本語、倭語の発音を伝える資料として貴重なのかもしれませんが、当時の天皇(大王)の称号として「阿輩雞弥」を、皇太子的な存在の称号として「利歌弥多弗利」を想定されておられるものは目にしても、当時の皇后(「大后」か)の称号について「オホキサキでもキサキでもなく『雞弥』である」とされるものは目にした記憶がありません。
「日本国王」にあてた「勅日本国王、主明楽美御徳……」の書き出しで始まる唐の玄宗の勅書が『欽定全唐文』巻287、『文苑英華』巻471などに見えるのだそうです。私が見ておりますものは石原道博さん編訳『新訂 魏志倭人伝 他三篇』に参考として引かれている『唐丞相曲江張先生文集』巻7所収のものですが、この「主明楽美御徳」(スメラミコト)の表記はおそらく元来日本の国書あたりに記されていたもののはず。だとすれば、姓・名・字などは名のっていないことになります。対し、「阿輩雞弥」「雞弥」「利歌弥多弗利」などは口頭の問答での発音を表記したものなのでしょう。おそらく600年の遣隋使は国書のようなものは持参しなかったものと思われます。『隋書』倭国伝に「俀王……号阿輩雞弥」「王妻号雞弥」「名太子為利歌弥多弗利」と見えることから、この三者による権力集中と見て人物比定をしておられるものも拝見いたしますが、僭越ながら質問に口頭で答えただけのものかもしれない『隋書』倭国伝の記述をどこまで根拠として評価できるだろうかとも疑うのです。もとより「王妻号雞弥」と「名太子為利歌弥多弗利」、「○○号○○」と「名○○為○○」では文が違いますから「雞弥」と「利歌弥多弗利」も同列には論じられないのでしょうが、「雞弥」を「キミ」と読むのだとすれば、「キミ」とは本来たとえば「三輪君」「上毛野君」「筑紫君」等地方の有力氏族のカバネの「君」か、「息長公」「多治比公」「当麻公」等天武13年に「真人」を賜姓された諸氏など大王家から分かれた氏族のカバネの「公」で、地域の首長を指す称だったのが一般的な尊称や敬称などにかわっていったものなのではないかとも思われます。「王妻号雞弥」という文からは「“queen consort”に相当する答えを期待して『王妻を何と呼んでいるか』と質問したのに“Her Majesty”にあたる言葉が返ってきた」ような印象を受けるのです(もっとも養老儀制令皇后条によれば奈良時代には皇后に対しては「殿下」だったようですが)。これは通訳を介したやりとりの行き違いのようにも思われますが、どこか「わかっていながら、あえて少しずつ的を外した」答えのようにも感じられます。
伝聞・筆写を経るうちに自身の先入観により記述が歪曲されるといったことは、孫引きのあとで原典に当たった際などにも思い知らされることです。長い余談でした。
歴代の「名」に関して考察されたページ では孝徳即位前紀の「是日、奉号於豊財天皇、曰皇祖母尊」の「豊財天皇」の例を引いておられるのですが、また中国の資料にも「天豊財」のみの表記の見えるものがあります。
『新唐書』日本伝に、斉明を「天豊財」と表記する「(前略)未幾孝徳死其子天豊財立(後略)」といった「ずさん」な印象の記事が見えています(『新訂
旧唐書倭国日本伝 他二篇』の巻末の影印によりました。以下、『宋史』日本伝も含め同書によります)。この『新唐書』日本伝のぞんざいな扱いは「(前略)次欽明欽明之十一年直梁承聖元年次海達次用明亦曰目多利思比孤直隋開皇末始与中国通次崇峻崇峻死欽明之孫女雄古立次舒明次皇極其俗椎髻無冠帯跣以行幅巾蔽後(中略)永徽初其王孝徳即位改元曰白雉(中略)未幾孝徳死其子天豊財立(後略)」などの記述にもうかがえますが、『新唐書』を「ずさん」と見る最大の理由は、同じ『王年代紀』なる書物をもとに書き起こしたものと思われる『宋史』日本伝のほうは丁寧に記述しているからです。
『王年代紀』という書物については先にも触れましたが、東大寺僧の「然が入宋した際に『職員令』とともに持参してきたものとして同じ『宋史』日本伝に見えているものです。たまたま『藤原鎌足とその時代』の原秀三郎さんの「「大化改新」論の現在」と題する講演の起こしの中に「王年代記とか皇年代記といわれるものは(中略)寺家にずっと伝えられてきたもので、便利な年表として使われていたらしい」と記されているのを見つけました。その直前の部分には『皇代記』からの引用も示されているのですが、素人の悲しさ、随所に引かれる「皇代記」「皇年代記」などといったものがどういうものなのか存じません。
『宋史』日本伝と『新唐書』日本伝とを比較すると、元明・元正・聖武相当部分が『宋史』の「(前略)次阿閉天皇次皈依天皇次聖武天皇(後略)」に対し『新唐書』が「(前略)子阿用立死子聖武立(後略)」となっており、元正部分付近が特殊な書き方であったか汚損・欠損があったかと疑われますし、また『宋史』『新唐書』とも孝謙が「孝明」であるなどするため、『新唐書』もまた『宋史』と同じく『王年代紀』に依拠したものであると思われます。『新唐書』日本伝に見える親子等の続柄は『日本書紀』や『宋史』にも見えないものがありますから、独自の資料に基づくものとされる向きもあるかと思われますが、その『宋史』日本伝で先の『新唐書』日本伝の引用部分に対応する欽明から斉明に至る部分を引きますと、「(前略)次天国排開広庭天皇亦名欽明天皇即位十一年壬申歳始伝仏法於百済国当此土梁承聖元年次敏達天皇次用明天皇有子曰聖徳太子年三歳聞十人語同時解之七歳悟仏法于菩提寺講聖鬘経天雨曼陀羅華当此土隋開皇中遣使泛海至中国求法華経次崇峻天皇次推古天皇欽明天皇之女也次舒明天皇次皇極天皇次孝徳天皇白雉四年律師道照求法至中国従三蔵僧玄奘受経律論当此土唐永徽四年也次天豊財重日足姫天皇(後略)」などとなっています。つい長く引いてしまいましたが、『宋史』の引く『王年代紀』が10世紀末の日本の歴史観の一斑を示していることと同時に、『新唐書』日本伝の引用が「いいかげん」、端的・簡潔を目指したらしい結果がかえって誤解・歪曲を生じていることを浮き彫りにしているように感じましたので、あえて引かせていただきました。「『王年代紀』の書き方がまずかった」と言われればそれまでかもしれません。
『新唐書』日本伝は「天豊財」を孝徳の子と勝手に解釈し、また永徽初年に孝徳が即位・改元したと記しています(永徽元年はほぼ650年)。『宋史』のほうを見れば「天豊財重日足姫天皇」が孝徳の子などとは書いていないし、白雉4年(≒653年)が唐の永徽4年に当たるのも事実です。おそらく『王年代紀』がもともと正確に記載していたか、あるいは「然が筆談の際にでも干支などをもとに正しく合わせたのでしょう(「「然善隷書而不通華言問其風土但書以対」と見えます)。孝徳の即位した大化元年(≒645年)は唐では太宗の貞観19年に当たります。「大化」の年号が存在したかどうかなどは不明ですが、それとこれとは問題が別で、『王年代紀』の記載に忠実か、恣意的に変更しているかという話です。
もっとも『宋史』日本伝には「皇極天皇」と「天豊財重日足姫天皇」が同一人物であるとも、また孝謙・称徳の「孝明天皇」と「高野姫天皇」が同一人物であるとも見えませんから、おそらく『王年代紀』はこの事実を沈黙していたのでしょう。10世紀末の段階でも重祚したのちの「斉明」「称徳」の漢風諡号が存在しなかったか一般的でなかったことを示しているようにも見えますが、あるいは当時としては「女君」よりも「重祚」のほうが隠すべきことだったのでしょうか。こういったことについてもどなたか言及されていることと思われますが、無学にして存じません。
その『新唐書』日本伝に斉明の「天豊財」という表記が見えるわけですが、『宋史』日本伝ではちゃんと「天豊財重日足姫天皇」としています。もうひとりの重祚した女帝である孝謙・称徳については『新唐書』が「孝明」と「高野姫」、『宋史』が「孝明天皇」と「高野姫天皇」ですから同じと見ることができます。なぜ『新唐書』日本伝が「天豊財」のみを取り出したのか、取り出すことができたのか疑問に思うのですが、あるいは「然のもたらした『王年代紀』の段階で既にそのような形の記載があったのではないかなどと想像しております。
2010年の9月9日には奈良県明日香村越の牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん。当時の新聞等は「(けんごしづか)」の読みだったと記憶しています。飛鳥資料館発行の“GUIDE TO THE ASUKA HISTORICAL MUSEUM”1978 によれば「KEGOSHIZUKA(ASAGAOZUKA)」と見えます)から墳丘外周を八角形にめぐる凝灰岩切り石の石敷きの一部が発見されたと明日香村教委より発表され、ちょうど3カ月後の12月9日には牽牛子塚古墳の南西すぐから新たな石室が発見され「越塚御門古墳」と名付けられたことがやはり明日香村教委より発表されています。その「ちょうど3カ月」の間に猛暑から一転大寒波となっていました。
天智2年(≒663年)の白村江の敗戦から4年後の天智6年2月戊午(27日)、斉明と間人皇女を小市岡上陵(をちのをかのうへのみさざき)に合葬し、あわせて大田皇女(天智と遠智娘の長女で天武妃、持統の同母姉、大伯皇女・大津皇子の生母)を陵の前の墓に葬ったことが見えます。その四半世紀ほど前の舒明の殯の際に数え年16歳で誄をたてまつった天智の口から、今度は斉明に「天豊財重日足姫」の諡がたてまつられた……かどうかはわかりません。かわりに「皇太后天皇(おほきさきのすめらみこと)の勅を承り、民を苦しめたくないので石槨の工事はしない」といったことを述べたと見えています。この「皇太后天皇」が皇極・斉明を指すもののようです。有間皇子の謀反にからんで批判を耳にしていたのか皇極・斉明自身が「狂心の渠」(たぶれこころのみぞ)など斉明元年・2年に見える大土木工事を後悔していたのではないかと疑わせるのですが、この改葬の翌3月には近江遷都があって遷都を願わない民衆が陰で批判・誹謗したらしいことが見えています。なお斉明と間人の合葬については古典文学大系ではこの天智6年2月27日より前のこととし、この日に埋葬されたのは大田皇女のみとする見方をとられているようです。斉明・間人・大田の3人がこの日埋葬されたと見ておられるものも多く拝見しております。
母・妹・娘と即位までの数年間に天智の身近な女性が次々と世を去ったようですが、天智3年(≒664年)6月には「嶋皇祖母命」(しまのすめみおやのみこと)なる女性が没しています。この女性は舒明の生母で、「糠手姫皇女」(あらてひめのみこ)・「田村皇女」(たむらのひめみこ)などと見える人です。天智(舒明13年に16歳とする舒明紀の説をとればこのとき数え年39歳)の祖母に当たりますから当時としては相当な高齢だったでしょうが、この女性は『古事記』敏達段に次のような形で見えています。
御子、沼名倉太玉敷命、坐他田宮、治天下十四歳也。此天皇、(中略)又、娶伊勢大鹿首之女、小熊子郎女、生御子、布斗比売命。次、宝王、亦名糠代比売王。〈二柱。〉(中略)此天皇之御子等、并十七王之中、日子人太子、娶庶妹田村王、亦名糠代比売命、生御子、坐崗本宮治天下之天皇。次、中津王。次、多良王。〈三柱。〉(後略)
(日本思想大系『古事記』より。敏達段、〈 〉内は分注。返り点・送りがな・読みがなは省略)
この「宝王、亦の名は糠代比売王(ぬかでひめのみこ)」と「田村王、亦の名は糠代比売命(ぬかでひめのみこと)」が同じ糠手姫皇女になりますが、『日本書紀』敏達4年正月是月条では「次采女伊勢大鹿首小熊女曰菟名子夫人。生太姫皇女〈更名、桜井皇女。〉与糠手姫皇女。〈更名、田村皇女。〉」などと見えており、舒明即位前紀には舒明の生母として「糠手姫皇女」とのみ見えます。天智3年6月の「嶋皇祖母命」と合わせ「糠手姫」「田村」「宝」「嶋皇祖母命」と都合4種の称が見えるわけですが、『古事記』のほうはいささか整理されていない印象で、しかも「宝王」の称については『日本書紀』は採らなかった。よく見るとその生母の名も『古事記』と『日本書紀』で違っており、『日本書紀』では「小熊」は田村皇女の生母ではなく生母「菟名子夫人」の父の名として見えていて、どうも『古事記』は生母の父の名を生母の名と誤解したようにも思えます(これと逆のミスを『日本書紀』が用明の配偶者の「葛城直磐村女広子」について犯しているようです。『古事記』用明段で「当麻之倉首比呂之女、飯女之子」、『上宮聖徳法王帝説』で「葛木当麻倉首名比里古女子、伊比古郎女」)。
うがった見方をすれば『古事記』の糠代比売の「宝王」は実は皇極・斉明の称である「宝」(宝皇女)あたりが紛れ込んだのかもしれません。「田村」をタムラと読むことができるなら、「タ」も「ラ」も甲乙はなかったようですので、もしももともとの資料が字音で表記されていたとすれば、その資料の汚損・欠損等により「タムラ」と「タカラ」を誤った可能性も考えられるでしょう。ついでにいえば皇極・斉明も「皇祖母尊」(すめみやのみこと、孝徳即位前紀皇極4年6月14日など)、糠手姫皇女も「嶋皇祖母命」、さらに皇極・斉明と孝徳姉弟の生母吉備姫王も「吉備嶋皇祖母(命)」(きびのしまのすめみおや、皇極2年9月、孝徳紀大化2年3月)だったようですから混乱する素地はあった可能性があります。「宝」が「田村」の誤だとすればどちらも「田村王、亦名糠代比売王」となって合うわけですが、現段階ではどちらとも判断がつきません。
「そんなばかばかしいミスを犯すはずがない」とお思いになるかもしれませんが、現に『大鏡』は天智の子の大友皇子と天武とを取り違えていました。『上宮聖徳法王帝説』の「山代大兄王」の分注に「後人与父聖王相濫非也」、後人が父の聖徳太子と混乱しているのは間違いだなどと見えますが、平安時代ころには聖徳太子と山背大兄王との混乱が見られたようです。
なお「財」(タカラ)がその称に付く王子・王女としては反正の子(『古事記』財王・『日本書紀』財皇女)や仁賢の娘(『古事記』財郎女、『日本書紀』にはなく「朝嬬皇女」が相当するか)などの名が目に入りましたが、これらも古かったり比較のしようがなかったりしてあまり参考にはならないように思えます。
『日本書紀』は菟名子夫人所生子について姉太姫皇女の「更名」を「桜井皇女」、妹糠手姫皇女の「更名」を「田村皇女」と載せています。「名代・子代」といった印象ではありませんが、私にはこの「桜井」「田村」の称がおそらく地名などに由来するもので同じ性格、同系統の称と思われるのです。だとすれば残る「太姫」「糠手姫」のほうも同系統の称ということになるでしょうか。もっとも「同系統」といっても「−ヒメ」が付くというだけのことで「太」「糠手」に共通する性格があるとも思えません。また「糠手」という名を持つ男性がこの時に代何例か見えるようです。たとえば崇峻妃は『日本書紀』崇峻元年3月によれば「大伴糠手連」(おほとものあらてのむらじ)の娘の「小手子」(こてこ)で、崇峻妃の小手子なる女性の父が大伴連糠手(敏達12年是歳条には「大伴糠手子連」)だったようですし、また「坂本臣糠手」(さかもとのおみあらて)の名も崇峻即位前紀の用明2年7月・推古9年3月戊子(5日)・推古10年6月己酉(3日)・推古18年10月丁酉(9日)に見えています。「坂本臣」ついでに言えば「坂本臣財」の名も先に引いております。推古朝の「糠手」ではもうひとり、推古16年6月丙辰(15日)、小野妹子とともにやってきた隋使裴世清を迎えた「掌客」の1人として「大河内直糠手」(おほしかふちのあたひあらて)という名も見えます。もちろん全部男性です。「アラテ」(ヌカデか)「タカラ」ともにもっと例があるのでしょうが、漏らしているものと思われます。ともあれ、これらの「糠手」が実名だったとすれば、男女の違いこそあるものの糠手姫皇女の「糠手姫」も実名であった可能性が出てくるようにも思えます。何とも言えず困ってしまうのですが、ともかく現時点では地名などに由来するらしい「桜井皇女」「田村皇女」の称のグループに対する「太姫皇女」「糠手姫皇女」の称のグループという形で考えたく思っております。
これと似た例、似た関係を、蘇我倉山田石川麻呂の2人の女子でいずれも天智の配偶者となった「遠智娘」(をちのいらつめ)「姪娘」(めひのいらつめ)の姉妹に見出せるのではないかと思っています。王族ではありませんが。
「遠智娘」「姪娘」については、『日本書紀』天智7年正月戊子(3日)の天智即位の記事に続く2月戊寅(23日)の倭姫王立后に続いてその名が見えています。長くなりますが、必要部分を引かせていただきます。
二月丙辰朔戊寅、立古人大兄皇子女倭姫王、為皇后。遂納四嬪。有蘇我山田石川麻呂大臣女、曰遠智娘。〈或本云、美濃津子娘。〉生一男二女。其一曰大田皇女。其二曰鸕野皇女。及有天下、居于飛鳥浄御原宮。後移宮于藤原。其三曰建皇子。唖不能語。〈或本云、遠智娘生一男二女。其一曰建皇子。其二曰大田皇女。其三曰鸕野皇女。或本云、蘇我山田麻呂大臣女曰茅渟娘。生大田皇女与娑羅々皇女。〉次有遠智娘弟、曰姪娘。生御名部皇女与阿陪皇女。阿陪皇女、及有天下、居于藤原宮。後移都于乃楽。〈或本云、名姪娘曰桜井娘。〉(後略)
(古典文学大系『日本書紀』より。天智7年2月戊寅=23日、〈 〉内は分注。返り点・送りがな・読みがなは省略)
このあとさらに「嬪」(みめ)や「宮人」(めしをみな)とその所生子の記載が続き、壬申の乱で倒れた大友皇子や光仁の父の「施基皇子」(『続日本紀』『万葉集』に「志貴皇子」など)の名もこの後に見えますが、略させていただきました。本来ならばずっと以前、元明を天智第4女とする『続日本紀』の記載を疑った箇所あたりで引用しておかなければならなかったところです。
蘇我倉山田石川麻呂の娘としてまず遠智娘を挙げ、分注で「美濃津子娘」(みのつこのいらつめ)の名を挙げています。持統称制前紀にも「母曰遠智娘。〈更名美濃津子娘。〉」と見えています。次いで所生の子として大田皇女・持統・建皇子を記し、また分注で生まれ順等の異伝を掲げていて、その中に「茅渟娘」(ちぬのいらつめ)の名が見えます。さらに続けて遠智娘の妹の姪娘を挙げ、所生の子として御名部皇女と元明を記し、分注で「桜井娘」の名を挙げています。
ここから話は複雑になります。
遠智娘はおそらくこの天智7年時点では没していた可能性が高く、ここは立后の記事にかけて後付けで故人を「嬪」としたということになるのだと思われます。もっともその「嬪」も令制下の知識による文飾といえるのかもしれません。各書で触れられているところです。
|