2. なまえ − 6
敏達の「ヌナクラフトタマシキ」(『古事記』「沼名倉太玉敷命」・『日本書紀』「渟中倉太珠敷天皇」)について。この称は天寿国繍帳銘にも「蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃弥己等」と字音表記で見えています。繍帳銘も「天皇」号の使用等により推古朝当時のものとは見られなくなってきているようですが、もしもこの字音表記が古い記録に由来するものであれば、そして後代に偽物として復古的に字音表記で記されたものではないとすれば、それなりに由来の古い称と見ることもできそうです。
『忌み名の研究』にはこの称に対する『古事記伝』の見解も引かれています。省略されている部分も多いようですが、敏達の「沼名倉太玉敷命」について綏靖の「神沼河耳命」(『古事記』、『日本書紀』では「神渟名川耳天皇」)や『日本書紀』神功紀摂政元年2月の「大津渟中倉之長峡」(おほつのぬなくらのながを)との関連を示唆しており、また「太玉敷」については兄の箭田珠勝大兄皇子の「珠勝」と並ぶ名として見ていたようです。
穂積さんご自身のご見解は、「訳語田渟中倉太珠敷尊」(『日本書紀』欽明元年正月甲子条)に見える「訳語田」を宮地の地名、あるいは名の全部が地名による避称と「玉敷」という美称からなるものととらえておられたようです。なお古典文学大系『日本書紀』の「渟中倉太珠敷尊」の注には「ヌナ」に「ヌ(瓊)ナ(助詞ノ)」、ヒスイなどの玉の意味と、「沼の中」の2つの意味が記されています。
歴代の「名」に関して考察されたページ では、敏達の「渟中倉太珠敷」の称と天武の「天渟中原瀛真人」との関連を指摘しておられます。また『日本書紀』持統3年4月壬寅(20日)に天武を単に「瀛真人天皇」とする表記の見えていることを引かれたうえで「天渟中原
+ 瀛真人」という構造と見、「瀛真人」を元からの名前、「渟中原」を地名と見ておられるようです。敏達の「渟中倉太珠敷」についても「渟中倉 + 太珠敷」という構造とされて「渟中倉」を地名と見ておられます。また、天武の「渟中原」について浄御原宮近辺の地名の可能性を見ておられます長久保恭子さんの「「和風諡号」の基礎的考察」も引用しておられるのですが、こちらも恐縮ながら拝見しておりません。ともかく、長久保さんはそこで『万葉集』巻19の4261「大君は神にし坐せば水鳥の多集く水沼を都となしつ」(古典文学大系『万葉集
四』から引用させていただきました)と天武の「和風諡号」との類似も指摘しておられるようです。
もうほとんど尽くされた感じがあって、私も僭越ながらこれらのご見解に乗らせていただきたく思うのですが、先に市辺押磐・仁賢・顕宗の父子・兄弟の名について「オシハ」(押磐)・「オホシ」(大石)・「イハス(ワケ)」(石巣別)と「石」「磐(岩)」つながり、通字のような概念を想定して見ております。『古事記伝』でも箭田珠勝大兄の「珠勝」との関連で見られているようですから、「渟中倉太珠敷」の称についても「渟中倉・太・珠敷」という構造と見、「珠敷」が名、という形で考えさせていただきたく思うものです。
『上宮太子拾遺記』においても話題となっていた箭田珠勝大兄皇子という存在は、実際には欽明紀の元年正月甲子(15日)に石姫所生の子として見えるのと、ちょうど『日本書紀』の伝える552年の仏教公伝の記事の直前、13年4月条に没したことが見える、その2カ所だけの登場のように思われます。「大兄」「大兄制」などを論じる際によく引かれる名で、井上光貞さんの「古代の皇太子」(1964年稿、とあります。私が拝見したのは吉村武彦さん編の『天皇と古代王権』岩波現代文庫 2000 所収のものです)の表にも「大兄去来穂別尊」(履中)・「勾大兄皇子」(安閑)・「大兄皇子」(用明)・「押坂彦人大兄皇子」(敏達皇子で舒明の父)・「山背大兄王」(廐戸の子)・「古人大兄皇子」(舒明の子)・「中大兄皇子」(天智)と並んで見えています。なお履中の「大兄去来穂別」については直木孝次郎さんが「厩戸皇子の立太子について」(初出『聖徳太子研究』四号 1968、『飛鳥奈良時代の研究』所収)で批判され、『古事記』仁徳段に「大江之伊耶本和気命」と見えることからこの「大江」については「大兄を意味する語ではなくて(大兄の借訓ではなく)、難波付近の地名、おそらくは難波に流れこむ大和川または山背川(淀川)を意味する語と解するのが妥当である。それはイザホワケの居住地をさす言葉であったのであろう」としておられます。それでも『古事記』仁徳段では「大江之伊耶本和気命」の記述のすぐあとに「此天皇之御世、為大后石之比売命之御名代、定葛城部、亦、為太子伊耶本和気命之御名代、定壬生部(後略)」などと見えているようですから、いかにも「さあ間違えろ」と言わんばかりの書き方のようにも感じます。最初にワナにはまったのが「大兄去来穂別天皇」「秋八月己巳朔丁丑、為大兄去来穂別皇子、定壬生部。亦為皇后、定葛城部」と記した仁徳紀の筆者だったのでしょうか。
箭田珠勝大兄は『古事記』欽明段では単に「八田王」と表記されています。
『古事記』には1つの例外(景行段の「日子人之大兄王」)を除いて「大兄」の語が見えないのだそうです。荒木敏夫さんの『日本古代の皇太子』(吉川弘文館 1985)や小林敏男さんの『古代女帝の時代』(校倉書房 1987)等で拝見して知りました。『古事記』では安閑も「広国押建金日命」(継体段)・「広国押建金日王」(安閑段)のみで、「勾之金箸宮」は見えますが「勾大兄」の称は見えませんし、用明も「橘之豊日命」(欽明段)・「橘豊日王」(用明段)のみで「大兄」の称は見えません。敏達と最初の「皇后」広姫との間の長男である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおほえのみこ)については、『古事記』敏達段には「忍坂日子人太子、亦名麻呂古王」「日子人太子」という形で見えています。
『古事記』の履中や押坂彦人大兄の例に見える「太子」の語から考えて、あるいは『古事記』では「大兄」を「太子」に置き換えているのかとも疑うのですが、逆に『日本書紀』が古い記録の「太子」の中のあるものを「大兄」に置き換えたという可能性も考えられるのかもしれません。それよりもむしろ真福寺本『古事記』では段冒頭の表記が履中「伊耶本和気王」、安閑「広国押建金日王」、用明「橘豊日王」と、『日本書紀』で「大兄」の称の見える「天皇」に特異的に「−命」でなく「−王」表記を用いているようでもあることが気にかかります。これ以外には允恭の「男浅津間若子宿禰王」、仁賢の「意祁王」の例があるようですが、もっとも仁賢段には「袁祁王兄、意祁王、坐石上広高宮、治天下也」とあって弟の顕宗も「袁祁王」と見えますから一概には言えません。その顕宗は顕宗段で「袁祁之石巣別命」でした。
「大兄」の称の問題も大きいのでしょうが、私ごときが口を出せることでもありませんし、当面の関心からは外れますので置きます。その「当面の関心」が何なのか不明な文ばかり綴っておりますが、箭田珠勝大兄に戻ります。
この箭田珠勝大兄は『古事記』では単に「八田王」表記でした。あるいは「箭田珠勝大兄」という表記自体『日本書紀』が作ったものではないかとさえ疑うのですが、それは「箭田珠勝大兄」という称が「押坂彦人大兄」と構造的に似ていると思うからです。
箭田
|
−
|
珠勝
|
−
|
大兄
|
押坂
|
−
|
彦人
|
−
|
大兄
|
このようにして見ると、末尾の「大兄」が続柄か地位を表す称の「オホエ」であるのは当然として、先頭の「箭田」(やた)・「押坂」(おしさか)はそれぞれ名代の称、もしくは居住した宮の所在地の地名といった意味で共通する性格のもの……記紀の時代にはそういう性格の名称として意識されていたものと思われます。
「押坂部」はまた「刑部」表記でもあらわれる著名な名代のようです。薗田香融さんの「皇祖大兄御名入部について」では『日本書紀』孝徳紀大化2年3月壬午(20日)の「皇太子」(=天智)の孝徳への奏請文に見える「皇祖大兄御名入部」(実は天智の奏請文は孝徳の諮問に対する返答の形式のもので、「皇祖大兄御名入部」の語は使者の口から語られた天智の返答の中に引用された孝徳の諮問の中に見える)の実体を「押坂部」であると見ておられます。その「押坂部」については、もともと允恭皇后である忍坂大中姫(おしさかのおほなかつひめ)のために設定された名代で、押坂彦人大兄も住んだと思われる忍坂宮が領有の主体となり、息長氏に管理されて彦人大兄―糠手姫(田村皇女。敏達の娘で、彦人大兄の異母姉妹でありまた配偶者。舒明の生母)―舒明―中大兄(天智)と伝領されたものと見ておられます。
いっぽう「八田部」は『古事記』仁徳段に「八田若郎女(やたのわきいらつめ)の御名代(みなしろ)として、八田部を定めたまひき」と見えているもので、仁徳皇后磐之媛の没後に仁徳皇后となった八田皇女(応神の娘で仁徳の異母姉妹。応神紀に「矢田皇女」、『古事記』応神段・仁徳段に「八田若郎女」)のための名代とされています。宣化の名を「ヲダテ」と見たところで仁徳段の歌謡59に「倭」の枕詞「小楯」が見えると述べましたが、その歌謡は八田若郎女が仁徳の寵愛を受けていることを知った大后石之比売(磐之媛)が、別居する直前に那良山口から故郷を見て詠んだ歌となっています。
「八田部」についてはやはり薗田さんが「皇祖大兄御名入部について」の中で岸俊男さんの論文「光明立后の史的意義」の記述を引いて「后妃の名代の部として疑わしい」とされ、また葛城部・八田部・河部の三者について「奈良時代の戸籍等の文献に殆んど所見しない」と記されています。岸さんの「光明立后の史的意義」(『日本古代政治史研究』塙書房 1966 所収)においても、注の形で仁徳紀の葛城部・八田部と允恭記の河部について「いずれも疑点が多い」と記されているのみのようですが、冒頭見ましたように現在では氏姓制度の開始も部民制の開始も5世紀末とか6世紀前半とされるご意見が主流のようですから、伝説的な仁徳朝の「実年代」というのも変ですが「葛城部」とか「八田部」などもそもそも5世紀初頭ごろにはまだ存在しなかったということになるのでしょう。これらの論文は1950年代−1960年代のものです。
箭田珠勝大兄の名や「八田部」の称をもしも宮の所在地の地名由来と見るならば、その「ヤタノ宮」的なものを現在矢田寺のある奈良県大和郡山市西部の山麓付近にでも想定できるのでしょうか。ただ、そこは法隆寺からはほど近いのですが磐余や飛鳥などからはかなり距離がありますし、また「ヤタノ宮」に関する記述をを見た記憶がありません(私の記憶では仕方ありませんが)。押坂彦人大兄の「押坂部」が鮮明なイメージを持つのと対照的に、箭田珠勝大兄と関係があるのではないかと私が思っております「八田部」のイメージは不鮮明です。
なおこのように考えてみたとしても、実は「タマカツ」(珠勝)や「ヒコヒト」(彦人)が「実名」であるという証拠はないでしょう。むしろ「ヒコヒト」を「実名」だなどと見た場合、あまりに後世的でかえって心配になります。「大兄」とされる中にはほかに舒明と馬子の娘の法提郎媛の間の子の「古人大兄皇子」などもありますが、孝徳即位前紀、皇極から指名された「軽皇子」孝徳が即位を再三固辞して古人大兄に譲るくだりには「軽皇子、再三固辞、転譲於古人大兄〈更名、古人大市皇子。〉曰(後略)」などとあって「大兄」こそ付かないものの「古人大市皇子」と見えています。仮に「古人」が実名、「大市」が地名由来の称といった形で見た場合には、実名−地名由来の称という並び順となり、「箭田珠勝大兄」「押坂彦人大兄」を地名由来の称−実名−「大兄」という並び順と見ることの反証となるのかもしれません。また「大市部」などというものも目にしません。実は同じく「大兄」として見えていた用明についても「橘−豊日」という構造を地名由来の称−実名と見て並列させられないかなどと思ったのですが、「橘部」などというものも目にしません。
これもよく知らないまま書くので怖いのですが、平安時代初期の仁明天皇の「正良」(まさら)以降から名が後世的になるような印象があり、「仁」(ひと)の字の付く名の最初が清和天皇の「惟仁」(これひと)からのようです。それ以前はたとえば光仁「白壁」(しらかべ)・桓武「山部」(やまべ)・平城「安殿」(あて)・嵯峨「神野」(かみの)・淳和「大伴」(おほとも)という名だったようです。『続日本紀』延暦4年5月丁酉の桓武の詔に「(前略)又臣子之礼。必避君諱。比者。先帝御名及朕之諱。公私触犯。猶不忍聞。自今以後。宜並改避。於是改姓白髪部為真髪部。山部為山」とあるを見れば桓武の「山部」は「朕之諱」と詔の中に見えていますし、光仁の「白壁」も避諱の対象とされています。「歴代天皇の呼称をめぐって」で小林さんは『古事記』仲哀段の「大鞆和気」の「大鞆」を応神の実名ではないかと見ておられるのですが、この「大鞆」は日本思想大系『古事記』で見ますと読みが「おほトモ」、「ト」「モ」が乙類のようで、淳和の諱の「大伴」とは発音が同じになるようです(たとえば神武段の「大伴連等之祖道臣命」、継体段の「大伴之金村連」の「大伴」が「おほトモ」)。淳和の諱「大伴」をはばかって大伴氏が伴氏と改めているようですから、この場合まさに諱(いみな)の本来の意味に沿っているものと見ることができそうです。もとより応神が実在した存在かどうかはわかりませんが、記紀の時代、あるいは奈良時代から平安時代初期にかけての「名」に対する意識を示すものとして見ることは許されるでしょう。そして、奈良時代末から平安時代初期の天皇の「諱」は、後世の感覚とは異なるもののように思われます。
|
|
渟中倉
|
−
|
太
|
−
|
珠敷
|
天
|
−
|
渟中原
|
−
|
瀛
|
−
|
真人
|
『古事記伝』に敏達の「沼名倉太玉敷」の「太玉敷」を兄の箭田珠勝大兄皇子の「珠勝」と並ぶ名と考える見解が示されているということですので、このように並べてみたときに、「押坂彦人大兄」の「彦人」や「古人大兄」の「古人」が実名であってくれればいいのに、という思いはありますが、証明のしようがありません。
なお『古事記伝』ではこれらの「渟中倉」「渟中原」を綏靖の「神沼河耳命」(「神渟名川耳天皇」)の「渟名川」と関連させて見ているようです。
もとより綏靖が実在した可能性はまずないものと思われますが、『古事記』神武段では神武とイスケヨリヒメ(伊須気余理比売。神武段に「名謂富登多多良伊須須岐比売命、亦名謂比売多多良伊須気余理比売」。「美和之大物主神」とセヤダタラヒメとの間の娘)との間に日子八井命・神八井耳命・神沼河耳命の3人の子があったことを伝え、綏靖をイスケヨリヒメの三男としています。
対し、『日本書紀』神武紀では神武とヒメタタライスズヒメノミコト(媛蹈鞴五十鈴媛命。事代主神と玉櫛媛との間の娘)との間に神八井耳命(神武元年正月では「神八井命」、綏靖紀に「神八井耳命」)・神渟名川耳尊の2人の子があったことになっており、綏靖はヒメタタライスズヒメの次男となっています。
綏靖紀冒頭では例によって綏靖を「神日本磐余彦天皇第三子也」としていますが、これは綏靖の異母兄タギシミミノミコト(『古事記』当芸志美美命・『日本書紀』手研耳命)を長男と数えてのことのようです。
綏靖が『古事記』でその生母の三男、『日本書紀』では次男となっている食い違いについて考えますと、まず参照した原本、情報源が違っている可能性を考えられるでしょう。生母の名などの所伝の食い違いも原本の違いによるのかもしれません。
しかし仮に、「『古事記』も『日本書紀』も同一系統の原本に基づいており、その原本では綏靖を三男として伝えていたが『日本書紀』は何らかの理由により次男と修正した」とか、「『日本書紀』の編者は綏靖を三男とする本も次男とする本も見ていたが、次男とする本の所伝を採用した」などという可能性を考えた場合、なぜ『日本書紀』が綏靖を次男としたかと考えますと、ひとつには『古事記』の「日子八井命」「神八井耳命」がほとんど同じ名と見られた可能性があると思うのです(『日本書紀』でも神武元年正月では単に「神八井命」と表記していました)。『古事記』は兄弟2人の名としたけれども、『日本書紀』の編者は「日子八井命、亦名神八井耳命」などと本来あるべきものと考えてひとりの名としたのではないか。荒唐無稽なようですが、実は綏靖の「カムヌナカハミミ」についても『古事記』神武段には「建沼河耳命」の別名が見えていますし、『日本書紀』綏靖紀にも単に「渟名川耳尊」のみの表記が出てくるようなので、「神」「建」などはあくまで頭にくる美称で、名の中心的な部分は「ヌナカハ(ミミ)」であるととらえることができそうです。この伝でいけばその兄についても名の中心は「ヤヰ(ミミ)」となり、「日子八井命」と「神八井耳命」は同一人物を指す別の名とも解釈できるように思われます。
もうひとつは、「ヌナ−」という語に「次男」を表すニュアンスがあった可能性を考えたく思うのです。
宣長が「中」という言葉には2番目という意味があったと言っているのだそうで、またも小林さんの『古代女帝の時代』の中の「中天皇について」からの孫引きになってしまうのですが、『歴朝詔詞解』の中に、『続日本紀』神護景雲3年10月乙未朔(1日)の称徳の宣命に見える「中〈都〉天皇」について元正とする文があり、そこに「平城は元明天皇より宮敷坐て、元正天皇は第二世に坐すが故に中都とは申給へる也。中昔に人の女子あまたある中にも、第二にあたる中の君といへると同じ」とあるのだそうです。
この考えを流用させていただきますと、「ヌナ−」という語はいかにも「沼の中」とか、あるいは「瓊」(ヒスイ)といった意味に見せているけれど、本来は「次男」「次女」を表す「中」という語を飾った表現だった、とでもいうことになるのではないでしょうか。さらにその「ヌナ−」に「倉」「原」「川」などを付けてあたかもどこかの地名であるかのように見せた表現……そんな気がするのです。
敏達は箭田珠勝大兄に次ぐ次男、天武は天智に次ぐ次男で、「次男」ということが意外と強く意識されていた。そこでいわゆる「和風諡号」にも「渟中倉」「渟中原」といった語が加えられた。「カムヌナカハミミ」綏靖についても「名に『ヌナ−』と付く人はその生母から見て次男だから、三男とする所伝はおかしい。これは次男とすべきであろう」などと『日本書紀』の筆者・編者が考えた……とか。そうなりますと綏靖の名・称の中心部分は「(次男である)川(ミミ)」といったことになりかねませんが、少なくとも敏達の「渟中倉」・天武の「渟中原」に「次男」の含み・ニュアンスがあったものと見たい私の妄想を補強してくれる例としては挙げられそうに思うのです。もっともこのような実在性の薄い古い時代には「渟名底仲媛命」(ヌナソコナカツヒメノミコト。『日本書紀』安寧3年正月壬午、懿徳即位前紀。安寧皇后で懿徳の生母、事代主神の孫。「亦曰渟名襲媛」)、「武渟川別」(タケヌナカハワケ。『日本書紀』崇神10年9月甲午・垂仁25年2月甲子。崇神60年7月己酉に「武渟河別」。『古事記』孝元段に「武沼河別命」、大毗(「毘」の異体字〔田比〕)古命の子と見える)、「渟名城入姫命」(ヌナキノイリビメノミコト。『日本書紀』崇神元年2月。崇神と尾張大海媛の間の娘。崇神6年紀に日本大国魂神を祭らせたところ髪が落ち痩せおとろえて祭れなかったとある。『古事記』崇神段に「沼名木之入比売命」)などといった名も見えますが、『古事記』孝元段の武沼河別命は大毗(〔田比〕)古命の長男のようにも見えますし、渟名城入姫命は上は兄の八坂入彦命(『古事記』では兄が大入杵命・八坂之入日子命の2人)で、次女ではありません。
また「次男」ということなら、ほかにも次男で即位したとされる例がありました。宣化です。安閑と宣化は目子媛から生まれた同母の兄弟ですから、もしも敏達の「渟中倉太珠敷」と天武の「天渟中原瀛真人」とに共通する「ヌナ−」に「次男」の含意を見るとすれば、当然それは宣化の称にも反映されていなければならない、ということになるのかもしれません。しかし宣化は「武小広国押盾」でした。安閑の「広国押武金日」との共通性はありますが「ヌナ−」は付きません。
そして安閑・宣化の例については先に検討しております。清寧の称などとあわせて比較的遅い時期に成立したものと考えたわけですが、「ヌナ−」の付かないことの意味は思い当たらぬものの、『上宮聖徳法王帝説』に見える欽明の「アメクニオシハルキヒロニハ」の称と宣化の「ヒノクマ」の称の性格の違いなども考え合わせますと、やはり安閑・宣化という存在が他からは異質のもののように思えます。宣化の称に「ヌナ−」の付かないことはとりあえずそのあたりに求めておきたく思うのです。
では、天武の兄である天智とは、仁賢・顕宗の「オホシ」「イハス(ワケ)」や箭田珠勝大兄・敏達の「タマカツ」「タマシキ」のような関係、名の共通項が存在するのかと問われれば、私は天智の実名は「天命開別」の末尾で「ワケ」の付く称……『日本書紀』舒明13年10月丙午(18日)条に「東宮開別皇子」と見え、また『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』には単に「開」と見えているらしい「ヒラカス(ワケ)」と思っていますので、こちらは合いません。
「天武の『真人』(マヒト)は『天皇』号や『瀛洲』に由来する『瀛』と同様に道教の『真人』に由来する名称で、天武の道教への傾倒によって諡号とされたものだから、おそらく天武の生まれたころか若い時分に付けられたであろう実名が『真人』であるはずがない。まして『真人』は天武13年制定の『八色之姓』の最高位。天武が自分の実名を『姓』として賜与するわけがないではないか」……そうでしょうか。
推古朝に定められた冠位十二階の情報はすぐに遣隋使により隋に伝えられたらしく『隋書』倭国伝に「官有十二等一曰大徳次小徳……」と見えていますが、この第1位の「大徳」について張楚金の『翰苑』の引く『括地志』に「一曰麻卑兜吉寐。華言大徳」、「麻卑兜吉寐」(マヒトギミ)と見えるのだそうです(日本思想大系『聖徳太子集』の「上宮聖徳法王帝説」の「大徳」の頭注によりました)。これについては坂本太郎さんの『聖徳太子』(吉川弘文館 1979)の中に、和田英松さんのご見解に対する異議の形で「真人は天武朝の八姓の第一とされたものであり、推古朝にそれに類する地位を示す意味で用いられたかどうか怪しい」とされ、「麻卑兜吉寐」はマヘツキミとも読めるとされたうえで、あるいは侍臣を指すマヘツキミの称が大徳の号と混同されたのではないかとのご見解を示しておられるのを見つけました。
坂本さんの「マヘツキミ」と見られるご意見が的を射ているかどうかはわかりません。「八色之姓」(やくさのかばね)賜姓の記事は『日本書紀』天武13年(≒684年。『日本書紀』のいう天武13年)10月己卯朔(1日)から見えていますが、仮にもしこの『翰苑』の引く『括地志』の「麻卑兜吉寐」が684年以前からのものであり、またマヘツキミでなく確かにマヒトキミなどと読まれたもので、かつ音韻などの方面から「倭人ではない、隋唐の中国人のあてた字だ」などと証明されたとすれば、八色の姓賜姓の684年以前から和語(倭語)に「マヒト」が存在したことを示す証拠になるのかもしれません。道教との関係の有無はわかりませんが、たとい道教の「真人」に由来する概念だったとしても、訓でマヒトと読むことが早くに定着していたことを示してくれるかもしれません。
しかしながら『翰苑』という書の性格をどう評価してよいのかもわかりませんし、前記のような条件を全部クリアすることなども不可能でしょう。証拠になってくれないかと期待しましたが、あてが外れたようです。
実はこの天武13年10月に真人を賜姓されたらしい直大参の当麻真人広麻呂が翌天武14年(『日本書紀』の天武14年、≒685年です)5月19日に没していますが、その同じ日に直大肆の粟田朝臣真人が父に位を譲ろうとして勅により許されなかったとの記事が見えています。この粟田真人は『旧唐書』日本国伝に「好読経史」「容止温雅」と見え、周の長安3年(≒703年)に「則天」、武則天(則天武后)から司膳卿を授けられたという「朝臣真人」で、大宝2年(≒702年)出発の遣唐執節使粟田真人ですが、天武10年(≒681年)12月10日には粟田臣真人が物部連麻呂・中臣連大嶋らとともに小錦下を授けられています。なお粟田氏らへの朝臣賜姓は天武13年11月1日。天武13年には10月1日に真人賜姓、翌月の11月1日に朝臣賜姓があり、さらに翌月の12月2日には先の額田部連氏らに宿禰が賜姓されています。13年10月14日に巨大な南海地震があったことも先に触れました。位階の改定は翌14年1月21日。
神護景雲2年5月丙午(3日)の勅に「勅。入国問諱。先聞有之。況於従今。何曽無避。頃見諸司入奏名籍。或以国主国継為名向朝奏名。可不寒心。或取真人朝臣立字。以氏作字。是近冒姓。復用仏菩薩及賢聖之号。毎経聞見。不安于懐。自今以後。宜勿更然(後略)」などと見えます。「頃見諸司入奏名籍。或以国主国継為名向朝奏名」(近ごろ諸司の入奏する名簿を見ると、天皇や皇太子の名を自分の「名」として朝廷に対し奏している、といったことらしいです)、「或取真人朝臣立字。以氏作字」(「真人」「朝臣」を字=アザナとしたり、氏の名を字=アザナとしたりしている、といったことらしいです)などがあって「可不寒心」「不安于懐」、穏やかでないから今後はこういったことはするな、といった意味のようです。称徳は勅でこう述べていますが、粟田真人の「真人」の名が八色の姓制定後に付けた「字」などだったのならともかく、本来の名、実名だったとしたら、八色の姓の「真人」以前に「真人」という名が存在していたことを示すものだと思うのです。
なお直木孝次郎さんの「定恵の渡唐」(『古代日本と朝鮮・中国』講談社学術文庫 1988 所収、もと『東洋学術研究』19巻2号 1980 に「定恵の渡唐について」の題で掲載された論文の旨見えます)によれば、藤原鎌足の長男で藤原不比等の兄の定恵(ぢゃうゑ。孝徳紀白雉4年5月壬戌=12日。『家伝上』では「貞恵」)について、『尊卑分脈』の定恵の項の傍書に「大和尚
十一歳入唐俗名真人 母同不比等」とあるのだそうです。これによれば不比等より16歳の年長となるもののようですが、粟田真人を藤原不比等と近い世代だったと見、かつ『尊卑分脈』の記載を信じるとすれば、定恵の「俗名」の「真人」は粟田真人よりもさらに早いものということになりそうです。
既に語り尽くされていることをかえって汚したような恨みがなきにしもあらずですが、以上、敏達の実名を「タマシキ」、その兄箭田珠勝大兄の実名を「タマカツ」、押坂彦人大兄の実名を「ヒコヒト」、天武の実名を「マヒト」などと見たい卑見を述べさせていただきました。
|