2. なまえ − 3
つい小林さんの「歴代天皇の呼称をめぐって」に頼らせていただいておりますが、これで拝見しますと津田さん以来、通説的な位置にあるらしい和田萃さんのご見解などを通じて、記紀に見える歴代天皇の呼称を(1)仲哀以前(2)応神−継体(3)安閑以後、の3つに区分される見方が大勢との印象を受けます。小林さんご自身はこのうち仲哀以前をさらに神武−開化と崇神−仲哀の2つに分け、A神武−開化 B崇神−仲哀 C応神−継体 D安閑−持統と区分されたうえで、「歴代天皇の呼称をめぐって」ではC応神−継体について中心に述べられているのですが、その応神−継体の呼称の中では仁徳のオホサザキのみを実名と見、他の例については「実名がそのままむきだしになっている例はなく、ワケの称号を付けたり、宮名を頭に冠したりしている」とされ、それを「ある段階で実名忌避の傾向が起こった結果」と見ておられます。仁賢の実名は「オホシ」(オホス)、顕宗は「イハス(ワケ)」と見ておられるわけですから、バラエティのある応神−継体の呼称の中でも顕宗の「ヲケ」や仁賢の「オケ」は特に例外的なものということになるのでしょうし、さらにこの区分には清寧(『古事記』シラカノオホヤマトネコ、『日本書紀』シラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコ)のような最長の称まで含まれています。しかも顕宗・仁賢のそれについては実名でない可能性のほうが高いようにも思われ、清寧のそれについては安閑以後の「和風諡号」とされるものと共通する要素が多いように見えます。
ところが安閑以降の称についても「諡号」と見てはおられないお立場があるようで、先にも引かせていただきました山田英雄さんの「古代天皇の諡について」についても「歴代天皇の呼称をめぐって」によって知ったのですが、『続日本紀』に諡号のおくられたことの見える持統より前、天武以前には本来日本に「諡」の習慣はなかったであろうと見ておられます。
「古代天皇の諡について」は、ひとつの結論に向かって論を進めるタイプというよりは個別に挙例して問題点を示唆するタイプの論なので要約は難しいのですが、論点を拾ってみます。
「古代天皇の諡について」で「諡」の習慣はなかったことの表徴として挙げておられますものは、たとえば『続日本紀』に贈諡の記事が見える持統・文武などの和風諡号(「国風諡号」「国風諡」という語で表されています)や、『日本書紀』の天武の諡号とされるものが『日本書紀』『続日本紀』に見えるのみでそれ以外の奈良時代の資料に用例の見えないらしいこと。『日本書紀』の奉誄の記事の中に贈諡のことが見えないこと。ほかに、日本の令の公式令平出条(文書中に「天皇」「陛下」等の語が出たらその直前で改行し、行頭に出して敬意を表せとするもの)の「天皇諡」についての、『令集解』所引「古記」「令釈」や『令義解』等における解釈が少々的外れであること(私には難しくて適切な引用ができないのですが、たとえば、本来は崩御から「諡」をおくられるまでの期間の呼称らしい「大行」の語について、「大行」それ自体を「諡」と解釈しているかのような記述が「古記」に見えること。また、奈良時代の公式の記事で「諡」として扱われているものはいわゆる漢風諡ではなく国風諡のみのようであるのに、「令釈」『義解』における「諡」の説明では文武天皇の「文武」を「諡」と意識しているかのような「経緯天地謂之文」「撥乱反正謂之武」といった例の解説が記されていること、などといったものらしいです)。奈良時代の臣下(皇族でない)の墓誌に諡の例がないこと。唐と異なり日本には諡をおくる官制上の機構がなかったこと。仏教寺院で法名をおくるような慣習が神道行事にないこと……等々を列挙され、「おくり名の習慣は本来日本には存在しなかったと考えて誤りはないであろう」と結論づけておられます。
山田さんのご見解でさらに注目すべきは、応神・清寧・顕宗・安閑・崇峻の呼称が『古事記』と『日本書紀』とで異なっている点に着目され、「この差異は『古事記』編纂の和銅五年現在と『日本書紀』完成の養老四年の間の変更」と見ておられることではないかと思われます。
もっとも山田さんご自身はその事実を指摘されるにとどめられたといった印象です。
応神(『古事記』品陀和気命、『日本書紀』誉田天皇)については『古事記』武烈段の「品太天皇」、『日本書紀』神功紀47年の「誉田別尊」等の混用を紹介されたうえで、履中(イザホワケ)・反正(ミツハワケ)と対比して「紀は履中、反正にはワケを付しているのでワケを省略した理由は不明である」としておられます。
また顕宗(『古事記』袁祁之石巣別命、『日本書紀』弘計天皇)と崇峻(『古事記』長谷部若雀天皇、『日本書紀』泊瀬部天皇)については「既に『古事記伝』にみえるごとく、孤立した名称なので現在考えがたい」とされています。
そして清寧(『古事記』白髪大倭根子命、『日本書紀』白髪武広国押稚日本根子天皇)については「クニオシ」の語の付く称がほかに孝安・安閑・宜化・欽明の4代に見られると指摘されたうえで、その4代に限っていえば「小川徹氏の指摘のごとく、尾張連の祖の女を母とし、その系譜も極めて類似し、その名称の類似も首肯しうる」が、「清寧はこれらと明確な関係を見出し難い」としておられます(小川徹さんの「指摘」とは、注によれば『現代のエスプリ』第49冊の「記紀開化以前八代系譜の成立」という論文のようです。恐縮ながら拝読しておりません)。なお、孝安は『古事記』では「大倭帯日子国押人命」、『日本書紀』で「日本足彦国押人天皇」。宣化は『古事記』が「建小広国押楯命」、『日本書紀』が「武小広国押盾天皇」。欽明は『古事記』が「天国押波流岐広庭命」、『日本書紀』が「天国排開広庭天皇」です。山田さんは指摘しておられませんが、6代の孝安については『古事記』の「大倭」を「オホヤマト」と読むとすれば、やはり『古事記』と『日本書紀』とでは微妙に食い違っていることになります。
そして安閑(『古事記』が「広国押建金日命」、『日本書紀』が「勾大兄広国押武金日天皇」)については、『日本書紀』がわざわざ「勾大兄」を付加していることについての言及は同論文には見られないようです。「清寧と安閑とは奈良時代の諡号と同一性格である」とされたうえで、清寧・安閑の諡号がもともと複数存在していて『古事記』と『日本書紀』とで選択した諡号がたまたま異なっていたというようなケースは考えがたいとされて、この差異は「制定された時期が異なると考えねばならない」、『日本書紀』の諡号は『古事記』の諡号から修正したものと考えねばならない、といった形で見ておられるようです。私に理解力がないため誤った引用も多々あるのではないかと心配になるのですが、原典でお確かめください。
山田さんの「古代天皇の諡について」から引いた前掲の記述には、少々説明を要する箇所もあるのかもしれません。たとえば欽明について言えば、欽明自身は尾張氏出身の女性の血を受け継いでいません。欽明の異母兄弟である安閑・宣化兄弟の生母の目子媛(めのこひめ)が尾張氏出身です(『古事記』で「尾張連等之祖、凡連之妹、目子郎女」、『日本書紀』継体元年3月癸酉に「尾張連草香女曰目子媛〈更名色部〉」)。もっとも欽明は異母兄弟である宣化の娘の石姫を「皇后」、嫡妻格の配偶者に迎えていますから、間接的に目子媛とは身内的な関係にあると言えるのかもしれませんが、少なくとも欽明自身は尾張氏の血を引いていません。なお孝安の生母は『古事記』が「尾張連之祖、奥津余曽之妹、名余曽多本毘売命」、『日本書紀』では「母曰世襲足媛。尾張連遠祖瀛津世襲之妹也」となっています。清寧の生母は葛城韓媛(『日本書紀』。『古事記』でも「都夫良意富美之女、韓比売」)です。
また「清寧と安閑とは奈良時代の諡号と同一性格である」とされていますが、清寧の「ヤマトネコ」に着目した場合、持統・文武・元明・元正の諡号はそれぞれ「ヤマトネコ」を含んでいていかにも「奈良時代」的と言えそうですが、安閑の諡号には「ヤマトネコ」は付いていません(清寧は『古事記』が「白髪大倭根子命」、『日本書紀』が「白髪武広国押稚日本根子天皇」。持統は『続日本紀』大宝3年12月癸酉=17日に「大倭根子天之広野日女尊」、『日本書紀』では「高天原広野姫天皇」。文武は『続日本紀』慶雲4年11月丙午=12日に「倭根子豊祖父天皇」、『続日本紀』の題では「天之真宗豊祖父天皇」。元明は『続日本紀』の題に「日本根子天津御代豊国成姫天皇」。元正は『続日本紀』の題に「日本根子高瑞浄足姫天皇」)。
むしろ清寧と安閑に共通する「クニオシ」が聖武(『続日本紀』の題に「天璽国押開豊桜彦天皇」)にも共通するという部分に着目すべきなのかもしれませんが、奈良時代にはこの聖武の1例のみのようですし、私などには聖武の「天璽国押開豊桜彦」(アメシルシクニオシハラキトヨサクラヒコ)はむしろ欽明の「アメクニオシハラキヒロニハ(アメクニオシハルキヒロニハ)」(『古事記』が「天国押波流岐広庭命」、『日本書紀』が「天国排開広庭天皇」)のほうにより近く思われます。欽明の「アメクニオシハラキヒロニハ(アメクニオシハルキヒロニハ)」と安閑の「ヒロクニオシタケカナヒ」・宣化の「タケヲヒロクニオシタテ」とは時期をほぼ同じくして考案された称と見るべきであって別々に考えるべきではないのかもしれませんが、私は聖武の「天璽国押開豊桜彦」と欽明の「アメクニオシハラキヒロニハ(アメクニオシハルキヒロニハ)」が「アメ」「クニオシ‐ハラキ」の共通する組で、清寧と安閑・宣化が「タケ」「ヒロ‐クニオシ」の共通する組、そして孝安は「クニオシ」のみがこれらの例と共通する称であるといった形で見たく思うのです。もちろん、欽明の「アメクニオシハラキヒロニハ(アメクニオシハルキヒロニハ)」の称と聖武の「天璽国押開豊桜彦」の称とが時間的に近いものとは考えておりません。位置付けといった意識の問題として「近い」もののように思えるのです。
なおこれも余談ながら、『将門記』の冒頭に「夫聞。彼将門昔天国押撥御宇柏原天皇五代之苗裔。三世高望王之孫也(後略)」などという記述が見えるのだそうです。荒木敏夫さんの『日本古代の皇太子』(吉川弘文館 1985)で拝見してはじめて知った例なのですが、日本思想大系『古代政治社会思想』所収の『将門記』の注によれば、『将門記』冒頭のこの記述はどの写本でも欠失しているもののようで、『将門記略』により補われた旨記されています(『日本古代の皇太子』でも『将門記略』からの引用という形で記されています)。山田英雄さんの「古代天皇の諡について」によれば桓武の諡は「日本根子皇統弥照尊」(『日本後紀』大同元年4月朔=1日)のようですから、「天国押撥御宇柏原天皇」という称は『将門記』独自のものなのかもしれませんが、古代の「アメクニオシハラキ」に対する見方が示されているようにも思われます。しかしながらこういったことはその方面では常識なのかもしれなくて、荒木さんや山田さんの論文等から引用するようなことではないのかもしれません。
安閑について『日本書紀』で「勾大兄広国押武金日天皇」の表記が見えるのは安閑紀冒頭と宣化即位前紀に2カ所の計3カ所と思われます。後述するつもりですが、継体紀には単に「広国排武金日尊」の形で元年3月甲子(5日)と癸酉(14日)の2カ所に見えているようです。この継体紀での表記は基本的に『古事記』の「広国押建金日命」と同一と見ることができるでしょう。もっとも『日本書紀』では「−天皇」と表記する際には先頭に「勾大兄」を付ける、「−尊」の場合には付けないといった区別をしているようでもあり、また見ようによっては巻17(継体紀)と巻18(安閑・宣化紀)での編集方針の不徹底のようにも見えます。きちんと確認していなくて恐縮ですが、欽明紀以降には安閑の名は出ないのではないでしょうか。
「勾大兄」の称は『古事記』には見えません。「坐勾之金箸宮、治天下也」などと見えるのみです。『日本書紀』継体紀で「勾大兄」「勾大兄皇子」と見えています。継体元年3月癸酉条には目子媛所生の子として「其一曰勾大兄皇子。是為広国排武金日尊。其二曰檜隈高田皇子。是為武小広国排盾尊」と見えますから、安閑の「勾大兄皇子」の称は宣化の「檜隈高田皇子」の称と対になるもののように思われます。ところが宣化紀などを見ますと宣化は「武小広国押盾天皇」のみであって「檜隈高田」など「ヒノクマ」的な語は先頭に付かず、安閑の「勾大兄広国押武金日天皇」と対照的です。『古事記』の「広国押建金日王」「建小広国押楯命」や、『日本書紀』継体紀の「広国排武金日尊」「武小広国排盾尊」のみの形のほうがむしろ整理された印象ですし、そもそも王子としての称、即位前の称らしく思われる「勾大兄」を「天皇」としてのいわゆる和風諡号、長い称の前に付けるような例がほかにあるでしょうか。また「大兄」を皇太子の前身的な存在と見るか、あるいは皇后(大后)と並び天皇(大王)の「輔政」、政治を補佐した地位と見られるようなお立場からすれば、「勾大兄広国押武金日天皇」というふうに「大兄」と「天皇」が同じ称号の中で同時に用いられていることは矛盾になるのではないかという気もします(もっとも欽明即位前紀には「皇子天国排開広庭天皇」などという例もあるようですが)。「大兄」の称のある天智について「中大兄天命開別天皇」としたり、用明を「大兄橘豊日天皇」としたりする例は見当たらないように思われます。
そんなわけで私は「勾大兄広国押武金日天皇」の称を安閑の和風諡号、というか『日本書紀』での正式な称と見ることには疑問を感じるのです。
安閑の「勾大兄広国押武金日天皇」と似た印象の称として思い当たりますのは『日本書紀』欽明元年正月甲子(15日)条に見える敏達を指す「訳語田渟中倉太珠敷尊」です。既に冒頭近くで引用しているのですが、宣化の娘の石姫を皇后に立てた記事の、その石姫所生の3人を記した記載に「訳語田渟中倉太珠敷尊」の形で見えています(「詔曰、立正妃武小広国押盾天皇女石姫為皇后。是生二男一女。長曰箭田珠勝大兄皇子。仲曰訳語田渟中倉太珠敷尊。少曰笠縫皇女。〈更名狭田毛皇女。〉」)。この箇所は『日本書紀』における敏達の初出ではないかと思うのですが、『古事記』での対応する記載では単に「沼名倉太玉敷命」(欽明段に「天皇、娶檜坰天皇之御子、石比売命、生御子、八田王。次、沼名倉太玉敷命。次、笠縫王。〈三柱。〉」)ですし、またきちんと確認しておらず恐縮ながら、『日本書紀』の他の箇所での敏達の表記はたとえば「皇子渟中倉太珠敷尊」(欽明15年正月甲午=7日)・「渟中倉太珠敷天皇」(敏達紀の題と冒頭、用明即位前紀、推古即位前紀に2カ所、舒明即位前紀、皇極即位前紀)・「渟中倉太玉敷天皇」(推古即位前紀)・「訳語田天皇」(用明元年5月条分注、崇峻4年4月甲子=13日)・「訳語田宮御宇天皇」(孝徳紀大化元年8月癸卯=8日)などといったところではないでしょうか(敏達を指して単に「皇太子」「天皇」のみで表す表記も多々ありますが、省きました)。
『日本書紀』安閑2年4月丁丑(1日)条には勾舎人部(まがりのとねりべ)・勾靫部(まがりのゆきべ)を設置した記事が見えていますが、笹山晴生さんの『古代国家と軍隊』(中公新書 1975、私の拝見しているものは講談社学術文庫版です)の中に「令制前の舎人一覧表」と題する表があって、各種資料に見える「○○舎人」と称する舎人(とねり)が時代順に一覧として並べられており、そこに「勾舎人部」「檜隈舎人」「金刺舎人」「他田舎人」といった称も並んでいます。このような「宮号プラス舎人」の称をもつ舎人は「白髪部舎人」「石上部舎人」「小泊瀬舎人」といった「――部舎人」の称をもつ舎人に引き続く形で6世紀の安閑−敏達の間だけに見えるもののようなのですが、この「(宮号)舎人」の称の分類の舎人について笹山さんは「東国の国造を中心に、その配下の豪族によって組織された舎人」という形で見ておられるようです。つまみ食いのような引用で恐縮ながら、これを拝見しますと「マガリ(勾)」「ヲサタ(訳語田・他田)」といった称は宮号ないし宮の所在地の称といった意味で性格の共通するものと思われますから、安閑の「勾大兄広国押武金日天皇」の称と敏達の「訳語田渟中倉太珠敷尊」の称もまた似た体裁の称と見ることができるように思うのです。
敏達について欽明元年正月甲子条だけなぜ「訳語田渟中倉太珠敷尊」の表記になったのか、また安閑について『日本書紀』巻18の安閑・宣化紀のみなぜ「勾大兄広国押武金日天皇」という表記にしたのか(なったのか)、結論から申せば私にはわかりません。『播磨国風土記』揖保郡越部里には安閑を指して「勾宮天皇(之世)」とする記述も見えるようですが、妄想をたくましくすれば、6世紀とか7世紀の段階では安閑や敏達はむしろ「マガリ−」「ヲサタ−」といった呼称で一般的にとらえられており、『日本書紀』の8世紀初頭の段階でさえ「ヒロクニオシタケカナヒ」「ヌナクラノフトタマシキ」といった称より「マガリ−」「ヲサタ−」の称のほうが通用していた。とくに安閑の「広国押武金日」と宣化の「武小広国押盾」は文字の表記もよく似ていますから、わかりやすさや区別の便宜を考慮して一時的に右肩あたりに「勾大兄」「訳語田」などと添えてあったものが書写を経るうちいつのまにか本文化してしまった……などと考えてみたくもなります。証拠もない全くの空想に過ぎないのですが、「まさか官撰の正史である『日本書紀』がそんな……」と思うような例は『日本書紀』にかなり見受けられるようにも思います。たとえば孝徳紀大化2年2月戊申(15日)の「明神御宇日本倭根子天皇」の「日本倭」とか。
そんなわけで、安閑の「勾大兄広国押武金日天皇」の称につきましては私はとりあえず『古事記』や『日本書紀』継体紀の「ヒロクニオシタケカナヒ」で考えてみたく存じます。強引ではありますが。
清寧の称は『古事記』でシラカノオホヤマトネコ(白髪大倭根子)、『日本書紀』ではシラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコ(白髪武広国押稚日本根子)ですが、「ヤマトネコ」については7代孝霊(オホヤマトネコヒコフトニ)・8代孝元(オホヤマトネコヒコクニクル)・9代開化(ワカヤマトネコヒコオホヒヒ)の称に見え、ほかに8世紀初頭の持統(『続日本紀』大宝3年12月癸酉=17日に「大倭根子天之広野日女尊」)・文武(『続日本紀』慶雲4年11月丙午=12日に「倭根子豊祖父天皇」)・元明(「日本根子天津御代豊国成姫天皇」)・元正(「日本根子高瑞浄足姫天皇」)の称に特徴的に見えることが指摘されています。先に引きました。またこれも先ほど記したばかりのものですが、孝徳紀の大化2年2月戊申(15日)、鍾匱の制の反応を発表した詔の冒頭に「明神御宇日本倭根子天皇」(アキツミカミトアメノシタシラスヤマトネコノスメラミコト)などと見えております。山田英雄さんが「古代天皇の諡について」で「清寧と安閑とは奈良時代の諡号と同一性格である」と指摘しておられることを先に引かせていただきましたが、常識的に考えれば『古事記』での清寧の称のシラカノオホヤマトネコも7世紀末か8世紀初頭に作られたものと見るのが順当でしょう。だとすればそれ以前から伝わっていたであろう称、伝わっていて消えずに記紀に残された称は「シラカ」部分だけとなるでしょう。孫引きで恐縮ながら、薗田香融さんの「皇祖大兄御名入部について」の中に津田左右吉さんの「上代の部の研究」におけるご見解に触れた記述があり、それによれば津田さんはこの清寧の「白髪」を地名―宮号と解すべきものとしておられたようです。
『古事記』雄略段のはじめの后妃・所生子の記載では「白髪太子」、また『日本書紀』顕宗即位前紀には「白髪天皇」といった表記も見えています。しかしながら『古事記』では清寧のための「御名代」が「白髪部」とされるのに対し雄略には「長谷部舎人」という表現が見えており、また雄略について「若建王子」などとする表記は見えず「大長谷王子」「大長谷王」であること、さらに孝霊・孝元・開化や持統・文武・元明・元正の「オホヤマトネコ」「ワカヤマトネコ」が先頭にくる例と異なり、「シラカノオホヤマトネコ」「シラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコ」と「ヤマトネコ」が末尾になり「シラカ」が先頭にきている点などを考慮しますと、個人的には僭越ながらシラカを実名と見ることは躊躇されます。ついでに申せば、『続日本紀』光仁即位前紀に「天皇諱白壁王」と見えていますが、この「白壁」に元来「白髪部」の意があったとみるなら、清寧の実名がシラカで光仁の実名がシラカベというのも奇妙な印象ではないでしょうか。しかしながら光仁の「白壁」のほうは実際に避諱の対象とされたようで、『続日本紀』延暦4年5月丁酉(3日)の桓武の詔に「(前略)又臣子之礼。必避君諱。比者。先帝御名及朕之諱。公私触犯。猶不忍聞。自今以後。宜並改避。於是改姓白髪部為真髪部。山部為山」、「白髪部」を改めて「真髪部」とし、「山部」を改めて「山」としたなどと見えています。
清寧の称について気になりますのは、やはり山田さんがご指摘になったように、なぜ『日本書紀』でシラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコなどと新たにタケヒロクニオシ(武広国押)が付加されて長くなっているのかという点です。それ以外に「オホ(ヤマトネコ)」が「ワカ(ヤマトネコ)」に変化しているという点もあるのですが、とりあえず付加された「タケヒロクニオシ」について考えます。先にも触れてしまいましたが、これを「タケ」「ヒロ−クニオシ」と分けて考えると、実はこれと共通する部分を持つのがまさに安閑(ヒロクニオシタケカナヒ)・宣化(タケヲヒロクニオシタテ)の2代となります。
清寧 白髪−武−広国押−稚−日本根子
安閑 広国押−武−金日
宣化 武−小−広国押−盾
(欽明は「天国排開広庭」。いずれも『日本書紀』での表記)
古典文学大系『日本書紀』に「尊号と国風諡号」と題する補注があって、おそらく水野祐さんの『日本古代王朝史論序説』あたりから始まる歴代天皇の呼称の研究を古典文学大系の時点でまとめられたものと思われます。古代の歴代天皇の称についてはむしろこちらから出発するのが常識的なのではないかと思われるのですが、先にも述べましたとおり拝読しておりません(もっとも『聖徳太子事典』で水野さんが書いておられるところを拝見しますと、水野さんは宣化の実在性については否定的に見ておられたようです)。それで古典文学大系の補注のほうだけから引くというのも気が引けるのですけれど、ともかくその補注によれば安閑・宣化・欽明の諡号の問題は6代孝安(ヤマトタラシヒコクニオシヒト)のクニオシヒトが出発点となっているようです。このクニオシは安閑・宣化・欽明の諡号にも共通する。それぞれの諡号の構造を分析すると、まず欽明の諡号が作られ、それが基となって安閑の、次いで宣化の諡号が作られたものとみられる。そのクニオシがさらに孝安のクニオシヒトになった――こんなふうに見ておられるようです。孫引きのようなものですから何とも言えないのですけれど、このご説明の中には清寧の称のことは出てこないようです。
しかし私には安閑・宣化の称と清寧の称との共通性のほうが目立つように思えます。「クニオシ」が共通するだけの欽明の「アメクニオシハラキヒロニハ(アメクニオシハルキヒロニハ)」はそれらの例からは少し離れて見え、むしろ聖武の「天璽国押開豊桜彦」と近く思われるということも先に述べさせていただきました。
実はクニオシという名をもつ人物がいたようです。私が思いつきますのは『日本書紀』皇極紀に2回登場する「高向臣国押」(たかむくのおみくにおし)で、元来は蘇我氏の、または蘇我入鹿の配下的存在の人だったように見えます。皇極2年11月丙子朔(1日)から記述が始まる上宮王家討滅の記事では、胆駒山(生駒山)に逃れた山背大兄を捕まえてこいと入鹿に命令された際「私は天皇の宮をお守りします」と答えてやんわり断ったように描かれていますし、皇極4年6月戊申(12日)の乙巳の変では、入鹿殺害後に大臣蝦夷に加勢して軍陣を張っていた漢直(あやのあたひ。「東漢直」「倭漢直」の「やまとのあやのあたひ」氏のこと。それまで蘇我氏寄りだったらしい渡来系の有力集団)のもとに巨勢臣徳太(こせのおみとこだ)が説得に訪れた際、漢直らの投降を促し、自ら率先して武装解除に応じる意を示したなどと見えています(なお「巨勢臣徳太」の表記は初出である皇極元年12月甲午=13日の舒明の喪に見えるもので、皇極2年11月丙子朔の上宮王家討滅では「巨勢徳太臣」、この皇極4年6月戊申の乙巳の変では「巨勢徳陀臣」、孝徳紀大化元年7月丙子=10日の高麗使・百済使への詔を読み上げた際には「巨勢徳太臣」、大化5年4月甲午=20日の左大臣就任では「巨勢徳陀古臣」、斉明4年正月丙申=13日の没した記事に「巨勢徳太臣」などとなっています)。
遠山美都男さんの『大化改新』(中公新書1993)によれば『続日本紀』和銅元年閏八月丁酉(8日)条に「摂津大夫従三位高向朝臣麻呂薨ず。難波朝廷の刑部尚書大花上国忍の子なり」と見えているのだそうで、「高向臣国押」は孝徳朝に「刑部尚書」(伴造の地位を唐の尚書省の六部の長官ふうに言ったものではないかとされる笹山晴生さんのご見解を紹介されています)なる地位にあった人らしく、同書で遠山さんはこの高向臣国押について、もともとクーデタ派と気脈を通じていた可能性を考えておられます。
エピソード自体は高向朝臣氏あたりが祖先顕彰のため潤色したような観もあるのですが、ともかく、もしも当時の大王家の人々の実名が特殊なものではなくて臣下・一般と共通する性格のものだったとすれば、あるいは「諡号」とされるものの中の「クニオシ」が実は諱、実名だったなどということもあるかもしれません。しかしこのように考えてクニオシが実名だったなどとなりますと安閑も宣化も欽明も聖武もみな名がクニオシとなってしまい、実在した可能性の薄い孝安の例はともかく、清寧の場合までもが「『古事記』段階では実名は不明だったが『日本書紀』では別の資料により実名がクニオシと判明していた」などということになりかねません。もちろんそんなことを申し上げるつもりはありません。そもそも安閑と宣化の兄弟で同名のクニオシということは考えがたい。「高向臣国押」の場合のみが実名(実名かどうかもわかりませんが)と見、清寧・安閑・宣化・欽明・聖武の場合はクニオシは美称と見るのが順当と思われます。あるいは高向臣「国押」の名のほうがいわゆる和風諡号の知識などに影響されて命名されたものなのでしょうか。
ウェブで言及されておられるものも拝見しましたが、欽明には推古の「額田部皇女」、雄略の「大長谷王子」(『古事記』安康段)、あるいは安閑の「勾大兄皇子」のような、地名・宮号または氏族名系統の語を冠した「○○皇子」といった称が見当たらないように思われます。記紀以外を見渡しても、「シキシマ天皇」という種類の称を除けば一貫して「アメクニオシハラキヒロニハ(アメクニオシハルキヒロニハ)」のような印象を覚えるのです。
これもきちんと確認しておらず恐縮ですが、欽明を指す称を目についた範囲で挙げてみます。
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「天国押波流岐広庭命」(『古事記』継体段に2カ所。まず手白髪命の子として。「又、娶意祁天皇之御子、手白髪命、〈是大后也。〉生御子、天国押波流岐広庭命」。次に、のち即位したことを言う。「此之中、天国押波流岐広庭命者、治天下」)
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「天国押波流岐広庭天皇」(『古事記』欽明段冒頭)
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「天国排開広庭尊」(『日本書紀』継体元年3月甲子=5日。皇后手白香皇女の子として。「甲子、立皇后手白香皇女、脩教于内。遂生一男。是為天国排開広庭尊」。下文に「嫡子だが年齢が若かったので広国排武金日尊・武小広国押盾尊の2人の兄が先に天下を治めた」といった趣旨の記述が見える)
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「天国排開広庭天皇」(『日本書紀』欽明紀の題)
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「天国排開広庭天皇」(『日本書紀』欽明紀冒頭。「天国排開広庭天皇、男大迹天皇嫡子也。母曰手白香皇后」)
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「皇子天国排開広庭天皇」(『日本書紀』欽明即位前紀の宣化4年10月。宣化没後、自身の若年を理由に群臣を通じて「山田皇后」=安閑皇后の春日山田皇女に即位を要請するも辞退される記事に「皇子天国排開広庭天皇、令群臣曰(後略)」)
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「天国排開広庭皇子」(『日本書紀』欽明即位前紀の宣化4年12月甲申=5日の即位の記事)
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「天国排開広庭天皇」(『日本書紀』敏達即位前紀に2カ所。「天国排開広庭天皇第二子也」「卅二年四月、天国排開広庭天皇崩」)
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「磯城嶋天皇」(『日本書紀』敏達元年6月、高句麗の大使・副使への敏達の言葉の中に)
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「天国排開広庭天皇」(『日本書紀』敏達12年7月丁酉朔、敏達の詔の中の「新羅滅内官家之国」の分注に。「天国排開広庭天皇廿三年、任那為新羅所滅」)
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「天国排開広庭天皇」(『日本書紀』用明即位前紀。「天国排開広庭天皇第四子也」)
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「天国排開広庭天皇」(『日本書紀』崇峻即位前紀。「天国排開広庭天皇第十二子也」)
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「天国排開広庭天皇」(『日本書紀』推古即位前紀。「天国排開広庭天皇中女也」)
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「磯城嶋宮御宇天皇」(『日本書紀』舒明即位前紀、蘇我蝦夷が使者を介し山背大兄に伝えさせた言葉の中に。「自磯城嶋宮御宇天皇之世、及近世者、群卿皆賢哲也」)
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「磯城嶋宮御宇天皇」(『日本書紀』孝徳紀大化元年8月癸卯=8日の僧尼への詔)
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「斯貴嶋宮治天下阿米久尓於志波留支広庭天皇」(『上宮聖徳法王帝説』。「斯貴嶋宮治天下阿米久尓於志波留支広庭天皇〈聖王祖父也〉娶檜前天皇女子伊斯比女命(後略)」)
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「斯帰斯麻宮治天下天皇名阿米久尓意斯波留支比里尓波乃弥己等」(『上宮聖徳法王帝説』所引の天寿国繍帳銘冒頭)
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「斯帰斯麻天皇」(『上宮聖徳法王帝説』所引の天寿国繍帳銘)
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「志癸嶋天皇」(『上宮聖徳法王帝説』。「志癸嶋天皇御世戊午年十月十二日、百斉国主明王、始奉度仏像経教并僧等(後略)」)
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「志帰嶋天皇」(『上宮聖徳法王帝説』。「志帰嶋天皇治天下卌一年」)
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「斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇」(『元興寺縁起』。「大倭国仏法、創自斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇御世、蘇我大臣稲目宿禰仕奉時、治天下七年歳次戊午十二月度来」)
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「斯帰斯麻宮治天下名阿末久尓意斯波羅岐比里尓波弥己等」(『元興寺縁起』所引「塔露盤銘」冒頭。ただし「難波天皇之世辛亥年」などとあるものの銘文中には「丙辰年十一月既」とあり、推古4年≒596年以降らしい)
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「天皇名広庭」(『元興寺縁起』所引の「丈六光銘」。「天皇名広庭、在斯帰斯麻宮時(後略)」)
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「広庭天皇」(『元興寺縁起』所引の「丈六光銘」。「広庭天皇之子多知波奈土与比天皇在夷波礼瀆辺宮(後略)」)
実は後から気づいて加えたものも多々あります。またこれ以外に『風土記』の出雲国・豊後国・山城国逸文などに「志貴島宮御宇天皇」その他の表記で見えているようですが、『風土記』は部分的にしか残っておらず、またその成立年代も幅があるもののようで、さらに『播磨国風土記』餝磨郡大野里・少川里には単に「嶋宮御宇天皇」と記したのち「志貴」をあとから補った(その補筆がのち誤った箇所に挿入された形で筆写された)記載が見えるようですが、どちらも「嶋宮御宇天皇之御世」「嶋宮御宇天皇世」とする地名由来説話のため、これを本当に欽明と見ることができるのかどうかわかりません。説話ということでは『日本霊異記』上巻第2が「昔欽明天皇〈是磯城嶋金刺宮食国天皇天国押開広庭命也〉御世」という書き出しで始まっています。この分注の表記の語順は、天寿国繍帳銘冒頭の「斯帰斯麻宮治天下天皇名阿米久尓意斯波留支比里尓波乃弥己等」とよく似た構成のように思われます。
またこれらとは別に特殊な事例として『宋史』日本伝に見える「天国排開広庭天皇亦名欽明天皇」を挙げておきたく存じます。『宋史』日本伝では他の歴代のほとんどが「継体天皇」「推古天皇」など漢風諡号のみの表記であるのに対し、いわゆる和風諡号の「天国排開広庭天皇」が見える、それも漢風諡号より先に和風諡号が見える形は例外的だからです(ほかには「神功天皇開化天皇之曽孫女又謂之息長足姫天皇国人言今為太奈良姫大神」などが特記されるものと思われます)。『宋史』日本伝には「初主号天御中主」、アメノミナカヌシから「彦瀲尊」(おそらくヒコナギサタケウガヤフキアヘズノミコト)までの神(神としてでなく「−尊」と号した歴代として扱われている)と、「神武天皇」から「守平天皇」(円融)までの歴代が記載されているのですが、その記載の前には東大寺僧の「然(ちょうねん。938−1016)が10世紀末に入宋した際に『職員令』『王年代紀』各1巻を持参してきたことが記されており、これら歴代の記載についても「其年代紀所記云」、『王年代紀』の記すところと見えています。「天国排開広庭天皇亦名欽明天皇」の表記も『王年代紀』の段階で既にこの体裁だったのでしょう。
なお「然の入宋した年次については『宋史』日本伝が宋の雍煕元年(≒984年)としているようですが、実際には前年、日本の永観元年(≒983年)だったようで、『成算法師記』なる書によればその8月に呉越商人の陳仁爽らの船で入宋したとあるようです。実は『宋史』日本伝での記載も入宋の年次か『職員令』『王年代紀』等を献上した年次なのかよくわかりません。また「然とともに入宋した弟子に「盛算」(じょうさん)なる僧がいたようですが、『成算法師記』についてはウェブで検索しても「成算法師記」のみで見えるようです。
ついでに「然について。『宋史』日本伝にも「姓藤原氏、父為真連」と自ら述べたなどと見えていますが、宋の太宗(2代。太祖趙匡胤の弟)のおぼえめでたく法済大師号を与えられ、五台山などを巡り、また多くの仏典等を持ち帰ったということです。しかしながら日本ではむしろ京都の「嵯峨釈迦堂」清涼寺の釈迦如来像を持ち帰ったことで有名、いやむしろその清涼寺の釈迦如来像のほうが、その特色のある像容や由来等によって「然自身より有名なのかもしれません(中国のオリジナルの像にはインド伝来との伝えがあり、「然が模刻させた清涼寺釈迦像も「三国伝来の仏」として尊崇された。結果「清涼寺式釈迦如来像」と称される模刻が各地に存在する。像の胎内に模型の内臓の縫いぐるみが納入されていた――など)。その「五臓六腑」が公開されたことがあるのかどうかは存じません(なおこの部分は石原道博さん編訳『新訂
旧唐書倭国日本伝 他二篇』岩波文庫 1956 新訂版1986、『日本古代史大辞典』大和書房 2006の松本郁代さん執筆の「「然」の項、『週刊朝日百科日本の歴史57 古代から中世へ2 山と寺・僧と法会』朝日新聞社 1987、『週刊原寸大日本の仏像29 清凉寺釈迦如来』講談社 2007等によりました)。
いい加減な拾い出し方でまことに恐縮ながら、これらを通観しますと欽明には「シキシマ天皇」と「アメクニオシハラキヒロニハ(アメクニオシハルキヒロニハ)」、加えて「丈六光銘」の「広庭天皇」以外の呼称が見当たりません。地名・宮号または氏族名系統の語を冠した「○○皇子」的なものはないようです。またおそらくこのことにより先に挙げました表記の例の中にも奇妙な矛盾が生じているように思われます。『日本書紀』欽明即位前紀の宣化4年10月、まず欽明が自身の若年を理由に安閑皇后の春日山田に即位を要請するくだりでは「皇子(すめみこ)天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにはのすめらみこと)、群臣に令して曰はく、『(略)』とのたまふ」、「皇子」としているのに「天国排開広庭天皇」表記です。「○○皇子」といった称が伝わっていたなら「皇子天国排開広庭天皇」でなく「○○皇子」と表記すれば問題はなかったはず。
さらにその直後の12月甲申(5日)には「天国排開広庭皇子(あめくにおしはらきひろにはのみこ)、即天皇位す(あまつひつぎしろしめす)」とあって、こちらは「天国排開広庭皇子」です。「○○皇子」に相当する称がこの「天国排開広庭皇子」であったなら、いや実際に「天国排開広庭皇子」ではなかったにせよ『日本書紀』の方針として「天国排開広庭皇子」の表記が許容されたのであれば、4年10月の春日山田に即位要請するくだりでも「天国排開広庭皇子」表記でよかったはず。おそらく実際のところは「○○皇子」の称は伝わっておらず、何か違う呼称・表記、たとえば同じ欽明紀の敏達の「訳語田渟中倉太珠敷尊」や用明の「橘豊日尊」、推古の「豊御食炊屋姫尊」などと同様に「アメクニオシハラキヒロニハノミコト」といった称か何かで記録が伝わっていたのではないか。これを『日本書紀』の方針に従い表記を改めようとした際、宣化4年10月の記述では苦し紛れに「皇子天国排開広庭天皇」といった表記としたが、その後の「即天皇位」では「天皇即天皇位」とはできず「天国排開広庭皇子、即天皇位」という形となった。「訳語田渟中倉太珠敷尊」「橘豊日尊」「豊御食炊屋姫尊」については改めることもできず、結局用明のみ「其一曰大兄皇子。是為橘豊日尊」とされ、推古の「額田部皇女」は(本当かどうかもわかりませんが)欽明紀でなくなぜか推古即位前紀のみに反映された――そんな印象なのです。奇妙な話ですが、このような矛盾する印象の表記は『日本書紀』にかなり見受けられるように思われます。また追い追い触れる機会もあろうかと存じます。
山尾幸久さんの『日本国家の形成』(岩波新書 1977)の中に「倭王の諡号は欽明の「アマ(天)・クニ(地)・オシハラキ(押開き)・ヒロニハ(?)」からで、この諡を基本にしてのちに(たぶん推古朝前後)二人の異母兄に贈諡されたとの考えが妥当だろう」との記述が見えます。山尾さんは「ヒロニハ(?)」としておられますが、単に「広庭天皇」と表記する例は『元興寺縁起』の「丈六光銘」のほか『上宮太子拾遺記』などにも見えているようです。 歴代の「名」に関して考察されたページ でも欽明の「天国排開広庭」については「天国排開 + 広庭」の形に区切って見ておられますが、当方も欽明の実名については「ヒロニハ」であった可能性が高いものと思っております。もっともこういう問題については「ヒロニハ」が実名だったと証明することは難しい、事実上不可能のことのようにも思われます。ならば聖武の「天璽国押開豊桜彦」の場合は「豊桜彦」を実名と見るのかと言われれば、実際『続日本紀』天平勝宝元年2月丁酉(2日。なお天平21年4月丁未=14日に天平感宝と改元、さらに7月甲午=2日の孝謙即位と同時に天平勝宝と改元)の行基遷化の記事に単に「豊桜彦天皇」とのみ記す表記が見えますので、個人的には「豊桜彦」が実名だったと見ているのですが、何の証拠もありません。
なお、斉明7年(≒661年)5月癸卯(9日)には百済の役のため九州に赴いた斉明が「朝倉橘広庭宮」に入ったとあって、「広庭」もまた宮号の中の美称といった性格の語なのではないかという気もしますが、また万葉歌人に「安倍広庭」の名も見えます。巻3の302・370・巻6の975・巻8の1423などの歌を作り、また『懐風藻』にもその漢詩2首(70・71)が収められています。阿倍御主人の子で、天平4年(≒732年)2月乙未(22日)に「中納言従三位兼催造宮長官知河内和泉等国事阿倍朝臣広庭」(『続日本紀』)として74歳(『懐風藻』。なお『懐風藻』では「従三位中納言兼催造宮長官安倍朝臣広庭」)で没した高官でした。没するちょうど2年半前の天平元年(≒729年)8月壬午(24日)には「中納言従三位阿倍朝臣広庭」が光明立后に際し「大御物」を下賜する宣命を読み上げています。光明立后の宣命自体は舎人親王が読み上げていますので、その宣命に続いて阿倍広庭が賜物に関する短い宣命を読み上げたことになります。実際には五位以上に絁(あしぎぬ)をたまわったもので、このときには舎人親王は親王ですから絁300疋が、中納言の阿倍広庭には100疋が下賜されたようです。その19日前の8月癸亥(5日)にも神亀から天平に改元するということでやはり絁が下賜されており、舎人親王には絁100疋、三位の阿倍広庭には40疋が下賜されていたようです。
「神亀」改元も白いカメの発見によるものでしたが、「天平」改元も甲羅に「天王貴平知百年」と書かれたカメが発見されたことがきっかけでした。現代では甲羅に文字の書かれたカメが発見されたりすると動物虐待ではと問題となり、保護してみたら外来種でまた問題となるところでしょうが、天平の折にはそのカメをとらえた「河内国古市郡人无位賀茂子虫」には「授従六位上。賜物絁廿疋。綿卌屯。布八十端。大税二千束」と見えています(8月5日)。半年前の2月に長屋王が「自尽」させられていますが、長屋王の関係者たちは賀茂子虫へのこういった待遇をどのように見ていたでしょうか。なおこのカメは「長五寸三分。闊四寸五分」だった(6月己卯=20日)ようですが、イシガメかクサガメかはわかりません。「神亀」改元の折のカメは耳ではなく目が赤かったようです。
『続日本紀』を見ていくとほかにも「広庭」の名が見えます。つまみ食い的に拾い出したものですが、たとえば大宝2年(≒702年)4月に「杠谷樹八尋桙根」なるもの(『古事記』景行段の「比々羅木之八尋矛」と似たもののようです。ヒイラギの大きなホコ、といったあたりなのでしょうか)を献じたと見える「秦忌寸広庭」、天平17年(≒745年)正月に従五位上を授けられた「三国真人広庭」、天平宝字8年(≒764年)10月・神護景雲元年(≒767年)8月(改元が8月16日)などに見える「紀朝臣広庭」(宝亀8年6月に参議従四位下美濃守で没らしいです)、天平神護元年(≒765年)正月に従五位下を授けられた「息長真人広庭」、神護景雲元年12月に「貢献」(財産の「貢献」)により外従五位下を授けられた「丈部造広庭」……など。
もっとも奈良時代には「広−」「−庭」といった名は珍しくなかったようですし、8世紀の例から6世紀の人名について考えるというのも離れすぎた印象です。『日本書紀』推古31年7月条と11月条との間の「是歳」条、新羅遠征軍の中に「小徳波多臣広庭」といった名は見えますが……。では記紀から欽明以前の「ヒロニハ」という名の例を挙げることができるかと言われればそれも思い当たりません。そもそも当時の王族の名が臣下、一般の名と共通するもの、同じ性格のものだったという証拠はありません。欽明の実名は「ヒロニハ」だったであろうと思っていると書いておきながら実はその根拠は何もないのであって、結局は個人的な思い込み、「実名でなければ、ではいったい何なのか」といった開き直りのレベルの話になってしまいます。もちろん論文等でちゃんと論拠を示されて「ヒロニハ」を実名としておられる記述があれば、私もそれに乗らせていただきたく存じます。
欽明の「天皇名広庭」「広庭天皇」といった表記を伝える『元興寺縁起』については、井上光貞さんが『神話から歴史へ』の中で福山敏男さんのご見解を引かれ「飛鳥寺(元興寺の前身)と、そのすぐ近くの豊浦寺との寺領争いの争論が、平安時代のはじめに起こったとき、飛鳥寺が、豊浦寺も飛鳥寺ももとは一体のものであったことを主張しようとしてつくった偽縁起である」と要約して記しておられます。もっとも福山さんは『日本書紀』も『元興寺縁起』もともに豊浦寺に伝わった古縁起あたりを材料として用いたのであろうとの見通しを示しておられるようなのですが、ともかくもこれを信じれば『元興寺縁起』の資料的価値は疑わしいことになるのかもしれません。
『上宮聖徳法王帝説』についても成立は平安期とされているようですし、内容についても天皇号の使用等から新しいものと疑われる向きもおありのようです。
しかしながら『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』に繰り返される「シキシマ宮治天下(天皇)(名)アメクニオシハルキヒロニハ(ノミコト・天皇)」といった表記の形式は、記紀あたりの段階で和風諡号、というか称を「天国押波流岐広庭」「天国排開広庭」のみの表記にそろえて以降の発想ではないようにも思えます。これは字音表記となっていることばかりではなく、その語の続き方や構成のようなものも意識して申しております。
『日本霊異記』上巻第2では「磯城嶋金刺宮食国天皇天国押開広庭命」といった表記で見えていることも挙げさせていただきました。「金刺宮」を付けたのは『日本書紀』あたりによるもの、「治天下」でなく「食国」としたのは宣命等の知識あたりによるのでしょうが、語の並び、語順自体は古い系統といった印象で、その原資料は天寿国繍帳銘のような語順を伝えていたのではないかと感じております。そういった意味も含めてあえて挙げさせていただきました。もっとも天寿国繍帳銘の「斯帰斯麻宮治天下天皇名阿米久尓意斯波留支比里尓波乃弥己等」のように、字音表記で残っていたならば、甲類・乙類の区別の有無等により年代を推定できたのかもしれません。
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