2. なまえ − 4
安閑・宣化につきましても一応同様に目についた範囲で列挙してみます。まず安閑です。
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「広国押建金日命」(『古事記』継体段に2カ所。「又、娶尾張連等之祖、凡連之妹、目子郎女、生御子、広国押建金日命。次建小広国押楯命。〈二柱〉」「次広国押建金日命、治天下」)
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「広国押建金日王」(『古事記』安閑段。「御子、広国押建金日王、坐勾之金箸宮、治天下也」)
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「広国排武金日尊」(『日本書紀』継体元年3月甲子=5日の欽明の分注「二兄者、広国排武金日尊、与武小広国押盾尊也」)
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「勾大兄皇子」「広国排武金日尊」(『日本書紀』継体元年3月癸酉=14日の8妃をいれる記事。「元妃、尾張連草香女曰目子媛。〈更名色部。〉生二子。皆有天下。其一曰勾大兄皇子。是為広国排武金日尊。其二曰檜隈高田皇子。是為武小広国排盾尊」)
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「大兄皇子」(『日本書紀』継体6年12月、いわゆる「任那四県」の問題。あとから知った「大兄皇子」安閑がこれを撤回しようとしたが果たせなかった)
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「勾大兄皇子」(『日本書紀』継体7年9月、「春日皇女」=春日山田皇女を迎える話)
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「摩呂古」「勾大兄」(『日本書紀』継体7年12月、安閑を「春宮」(ひつぎのみこのくらゐ、皇太子)とする継体の詔に。「懿哉、摩呂古、示朕心於八方。盛哉、勾大兄、光吾風於萬国」)
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「麻呂古」(『日本書紀』継体8年正月、子のないのを嘆く春日皇女のために「匝布屯倉」(さほのみやけ)を賜与せよとした継体の詔に。「朕子麻呂古、汝妃之詞、深称於理」)
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「広国押武金日天皇」(『日本書紀』安閑紀の題)
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「勾大兄広国押武金日天皇」(『日本書紀』安閑紀冒頭。「勾大兄広国押武金日天皇、男大迹天皇長子也。母曰目子媛」)
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「大兄」(『日本書紀』安閑即位前紀。「廿五年春二月辛丑朔丁未、男大迹天皇、立大兄為天皇。即日、男大迹天皇崩」)
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「勾大兄広国押武金日天皇」(『日本書紀』宣化即位前紀に2カ所。「武小広国押盾天皇、男大迹天皇第二子也。勾大兄広国押武金日天皇之同母弟也。二年十二月、勾大兄広国押武金日天皇崩無嗣。群臣奏上剣鏡於武小広国押盾尊、使即天皇之位焉」)
このあとに安閑の登場する箇所があるか確認していませんが、このあたりまでが主なところと思います。『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』などには安閑のことは見えなかったはず。再三になりますが、『続日本紀』天平勝宝3年(≒751年)2月に雀部朝臣真人らが「継体・安閑朝の大臣の雀部朝臣男人は誤って巨勢男人大臣と記されている。雀部大臣と改めてほしい」などと申請して認められたことが見えており、この文中に継体・安閑朝を指して「磐余玉穂宮。勾金椅宮御宇天皇御世」と記した表記が見えています。また『播磨国風土記』揖保郡越部里に「勾宮天皇之世」などと見えているようです。たまたま目に留まりましたので記しておきます。
次に宣化です。
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「建小広国押楯命」(『古事記』継体段に2カ所。「又、娶尾張連等之祖、凡連之妹、目子郎女、生御子、広国押建金日命。次建小広国押楯命。〈二柱〉」「次建小広国押楯命、治天下」)
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「建小広国押楯命」(『古事記』宣化段。「弟、建小広国押楯命、坐檜坰之廬入野宮、治天下也」)
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「檜坰天皇」(『古事記』欽明段。「天皇、娶、檜坰天皇之御子、石比売命(後略)」)
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「武小広国押盾尊」(『日本書紀』継体元年3月甲子=5日の欽明の分注「二兄者、広国排武金日尊、与武小広国押盾尊也」)
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「檜隈高田皇子」「武小広国排盾尊」(『日本書紀』継体元年3月癸酉=14日、8妃をいれる記事。「元妃、尾張連草香女曰目子媛。〈更名色部。〉生二子。皆有天下。其一曰勾大兄皇子。是為広国排武金日尊。其二曰檜隈高田皇子。是為武小広国排盾尊」)
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「武小広国押盾天皇」(『日本書紀』宣化紀の題)
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「武小広国押盾天皇」(『日本書紀』宣化紀冒頭。「武小広国押盾天皇、男大迹天皇第二子也。勾大兄広国押武金日天皇之同母弟也」)
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「武小広国押盾尊」(『日本書紀』宣化即位前紀。「群臣奏上剣鏡於武小広国押盾尊、使即天皇之位焉」)
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「武小広国押盾天皇」(『日本書紀』欽明即位前紀の宣化4年10月。「四年冬十月、武小広国押盾天皇崩」。なお宣化紀には「四年春二月乙酉朔甲午、天皇崩于檜隈廬入野宮。時年七十三」、4年2月10日没とあって欽明即位前紀と異なる)
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「武小広国押盾天皇」(『日本書紀』欽明元年正月甲子=15日、石姫立后の記事。「立正妃武小広国押盾天皇女石姫為皇后」)
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「檜隈高田天皇」(『日本書紀』欽明2年3月、5妃をいれる記事の日影皇女の分注。「此曰皇后弟。明是檜隈高田天皇女(後略)」)
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「檜隈宮御㝢(ウかんむりに「禹」。「寓」に似た字ですが違います)天皇」(『日本書紀』敏達12年是歳条、百済から倭に来た日羅が敏達に述べた言葉に。「於檜隈宮御㝢(ウかんむりに「禹」)天皇之世、我君大伴金村大連、奉為国家、使於海表、火葦北国造刑部靫部阿利斯登之子、臣達率日羅、聞天皇召、恐畏来朝」)
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「檜隈天皇」(『日本書紀』崇峻即位前紀の用明2年6月辛亥=8日、宅部皇子(やかべのみこ)が殺害される記事の分注。「宅部皇子、檜隈天皇之子、上女王之父也。未詳」)
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「檜前天皇」(『上宮聖徳法王帝説』。「斯貴嶋宮治天下阿米久尓於志波留支広庭天皇〈聖王祖父也〉娶檜前天皇女子伊斯比女命(後略)」)
ほかに『肥前国風土記』松浦郡鏡渡には大伴狭手彦に関連して「檜隈廬入野宮御宇武少広国押楯天皇之世」などと見えているようです。こちらもこれ以外に宣化の登場する箇所があるか確認できていないのですが、このあたりが主だったところではないでしょうか。
だらだらと引用してしまいました。
「歴代天皇の呼称をめぐって」を拝見しますと、安閑以降の呼称をひとまとまりのグループとする見方が津田左右吉さん以来主流のようにうかがわれます。
先ほども引かせていただきましたが、山尾幸久さんは『日本国家の形成』の中で「倭王の諡号は欽明の「アマ(天)・クニ(地)・オシハラキ(押開き)・ヒロニハ(?)」からで、この諡を基本にしてのちに(たぶん推古朝前後)二人の異母兄に贈諡されたとの考えが妥当だろう」と述べておられました。山尾さんが「(?)」とされている「ヒロニハ」については特段の断りなしに実名として扱っておられるものも多い印象ですが、私もそれに従わせていただきたく存じます。それはともかく、この『日本国家の形成』時点では安閑の「ヒロクニオシタケカナヒ」・宣化の「タケヲヒロクニオシタテ」の称について「たぶん推古朝前後」の成立と見ておられるようです。
しかしながら山田英雄さんが指摘しておられますように、応神・清寧・顕宗・安閑・崇峻の呼称については『古事記』と『日本書紀』とで異なっているわけです。安閑以降では安閑と崇峻の呼称が変化しているわけですが、崇峻の「長谷部若雀天皇」「泊瀬部天皇」については『古事記』の「長谷部若雀天皇」が武烈の「小長谷若雀命」との混同であるとする本居宣長の説を私も採らせていただきたく思います。安閑の「広国押建金日王」「勾大兄広国押武金日天皇」については、『日本書紀』でも継体紀のほうには「広国排武金日尊」のみの表記が見えること、宣化のほうには「ヒノクマ」などの語が付かないこと、「大兄」と「天皇」の両方が並存する称には違和感があり、天智や用明の場合称に「大兄」が付かないことなどを挙げて「勾大兄広国押武金日天皇」を一連の正式な称と見ることに疑問を呈しておきました。
安閑・宣化・欽明の称について考える際には、むしろ清寧の称との関連で考えたく思っております。既に随所で指摘されていることながら、清寧の称は『古事記』のシラカノオホヤマトネコから『日本書紀』ではシラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコと大きく変化しており、付加されたその「タケ」「ヒロクニオシ」(武・広国押)はまさに安閑のヒロクニオシタケカナヒ・宣化のタケヲヒロクニオシタテの称に見える要素です。
清寧の称に「タケ」「ヒロクニオシ」を付加した主体が『日本書紀』編纂メンバーの周辺といったあたりなのか元明・元正に近いあたりなのか、それらを別々でなく同一の集団とらえるべきなのかもわかりませんが、もしも安閑・宣化の称が仮に6世紀末とか7世紀前半といったころに定まっていたものだとすれば、その安閑・宣化の称に特徴的な「タケ」「ヒロ‐クニオシ」をどうして100年後の8世紀初頭の人が清寧のシラカノオホヤマトネコに付加しようと発想したのでしょうか。
『上宮聖徳法王帝説』にも欽明を指す表記が何例か見えていることを先にもお示ししましたが、その中に欽明の「アメクニオシハルキヒロニハ」天皇の表記と宣化の「ヒノクマ」天皇という表記の両方が見える文があります。「斯貴嶋宮治天下阿米久尓於志波留支広庭天皇〈聖王祖父也〉娶檜前天皇女子伊斯比女命……」という部分で、先に欽明の例と宣化の例とで2回引用していることになりますが、家永三郎さんが『上宮聖徳法王帝説』の成立を5つの部分に分けて見られたという、その第1部の末尾に当たる部分です(なお『上宮聖徳法王帝説』の引用は中田祝夫さん解説の『上宮聖徳法王帝説』勉誠社 1981 の智恩院蔵の原本の写真版、また日本思想大系『聖徳太子集』中の「上宮聖徳法王帝説」によりました)。この記述は『古事記』欽明段の記述「天皇、娶、檜坰天皇之御子、石比売命……」と似ており、あるいは同じ文献・記録あたりに由来するものなのかもしれません。これらを素直に信じれば、欽明にはアメクニオシハルキヒロニハという立派な称が定まっていながら、宣化は単にヒノクマ(ノ)+天皇(大王もしくはミコトなどの類か)と、おそらく宮号(現代の皇室の宮号でなく古代の王族の王宮の名)、ないし宮の所在地の称だけで呼ばれていた時代があった……そんなふうにも考えたくなります。
そしてこの「ヒノクマ天皇」的な呼称が『古事記』などに限ったことでなく『日本書紀』にも見えていることは上に引かせていただきました。欽明紀に「檜隈高田天皇」、敏達紀に「檜隈宮御㝢(ウかんむりに「禹」)天皇」、崇峻紀に「檜隈天皇」と断りもなく見えています。継体紀に「其二曰檜隈高田皇子。是為武小広国排盾尊」という記述はありますが、「檜隈天皇」が宣化のことであるという注記は『日本書紀』自体には見えないようですから、唐突に「檜隈高田天皇」「檜隈天皇」などの称が出てくることは編集の目が行き届いていないような印象をおぼえるのですが、『日本書紀』の編纂された時代には「檜隈天皇」が誰を指すのか常識的にわかっていたということのようにも思えます。
『日本書紀』に見える「○○宮御宇天皇」の形の表記――たとえば舒明2年正月戊寅(12日)の「近江大津宮御宇天皇」(天智)・「浄御原宮御宇天皇」(天武)や孝徳紀大化元年8月癸卯(8日)の「磯城嶋宮御宇天皇」(欽明)・「訳語田宮御宇天皇」(敏達)・「小墾田宮御宇(天皇)」(推古)など。先に挙げました敏達12年是歳条の「檜隈宮御㝢(ウかんむりに「禹」)天皇」という特殊な例もこれに含めてよいかと思われます――は、比較的きちんと記述された文に見えている印象です。これに対し「檜隈天皇」のような「○○天皇」(宮の所在地+天皇)のみの形は、安閑以降ではたとえば敏達元年6月条の「磯城嶋天皇」(欽明)や用明元年5月・崇峻4年4月甲子(13日)の「訳語田天皇」(敏達)、天武8年3月丁亥(7日)・天武9年11月乙亥(4日)の「後岡本天皇」(斉明)、持統7年9月丙申(10日)の「清御原天皇」(天武)などが思い当たるのですが、どうも「ぞんざいな」文に多く見られる印象があります。『日本書紀』は安閑以降については基本的にいわゆる和風諡号というか尊号というか、とにかくあの長い称号で表記を統一する予定で、少なくとも「檜隈天皇」「磯城嶋天皇」などのような形の通称は会話文等を除き本来は避けるつもりでなかったか……などと勘繰りたくなるのです。
その傾向はたぶん『古事記』でも同様だったのではないでしょうか。『古事記』のとくに継体紀以降の記述から原典となった「帝紀」のような記録の姿がうかがえるとすれば、それは即位したとされる存在については基本的に「アメクニオシハルキヒロニハ」のような長い称号を用いるスタイルだったのではないか。しかし「旧辞」的な文献・記録では「檜隈(天皇)」「磯城嶋(天皇)」のような称が広く用いられており、また記紀の成立した8世紀初頭においてもそのような称の使用のほうがむしろ一般的で、『日本書紀』も草稿、途中経過の段階では将来校訂・清書されることを見越してその通称のまま記載していた。ところが最終的に校訂の目が行き届かず「檜隈天皇」などの表記が残ってしまった……などと空想したくなります。そのような「ずさん」な部分は編集全体に認められる印象があって、先にも孝徳紀大化2年2月戊申条「明神御宇日本倭根子天皇」の「日本倭」の例を挙げさせていただきましたが、たとえば用明即位前紀で酢香手姫皇女について「炊屋姫天皇の紀に見ゆ」と記しながら推古紀に酢香手姫皇女についての記述がないなどといった例も含めることができるように思います。
「古代天皇の諡について」に『古事記』と『日本書紀』の間で変更があった例として挙がっていた安閑の称の「広国押建金日命」(『古事記』)・「勾大兄広国押武金日天皇」(『日本書紀』)については、私個人としてはこの「勾大兄」の付加を「変更」という形で大きくとらえたくはない、ヒロクニオシタケカナヒで考えたいことを先に申し上げました。清寧の称が『古事記』のシラカノオホヤマトネコから『日本書紀』ではシラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコと「タケ」「ヒロクニオシ」(武・広国押)が付加されていることに着目すれば、同様に「タケ」「ヒロクニオシ」を称に含む安閑のヒロクニオシタケカナヒ・宣化のタケヲヒロクニオシタテの称それ自体も比較的新しい時代に成立したものではないかという気がします。実年代を与えることはできないけれども、少なくとも欽明のアメクニオシハルキヒロニハよりはかなり新しくて、むしろ『古事記』成立の直前と言ってもいいくらいの時代ではなかったかなどと思うのです。ただ欽明のアメクニオシハルキヒロニハにも実年代を与えることができないのは心苦しいのですが。
「ならば欽明のアメクニオシハルキヒロニハも成立年代の下るもので、記紀成立直前と見ればよいではないか。いくら『違う』と主張してみても欽明のアメクニオシハルキヒロニハと安閑のヒロクニオシタケカナヒ・宣化のタケヲヒロクニオシタテに共通する部分が多いのは一目瞭然であり、そもそも『欽明のアメクニオシハルキヒロニハはむしろ聖武の天璽国押開豊桜彦と似ている』と先ほど自分で言ったばかりではないか。それに『上宮聖徳法王帝説』が引く天寿国繍帳の銘文にさえ『シキシマ宮治天下天皇名アメクニオシハルキヒロニハノミコト』と天皇号と一体で使用されており、天皇号の使用は天武朝以降なのだから、結局アメクニオシハルキヒロニハも天武朝以降の成立と見るべきではないのか」……といったご意見もあるかと思います。そういったことは、考えられると思います。「天皇」という文字表記の使用まで天武朝以降などと限定しなければいけないのかどうか、「天皇」号に関する近年の通説の出発点となったような文献・論文等を拝読しておりませんので何とも申せませんが(本来何も申し上げるべきではないのですが)、そういった問題はあります。
『上宮聖徳法王帝説』第1部末尾の「斯貴嶋宮治天下阿米久尓於志波留支広庭天皇〈聖王祖父也〉娶檜前天皇女子伊斯比女命……」の記述を見ますと、欽明については「アメクニオシハルキヒロニハ」天皇と呼びながら宣化は「ヒノクマ」天皇だったという期間が存在したのではないかと考えたくなります。実際にどの程度の期間だったかはわかりません。
ここで問題なのは継体−欽明朝の紀年のずれの問題から喜田貞吉さんや林屋辰三郎さんがニ朝並立的状況を想定されていることです。もっとも近年ではあまりこの問題は強調されなくなっているようにも思われますが、仮にニ朝並立を認めるとすれば、『上宮聖徳法王帝説』の「斯貴嶋宮治天下阿米久尓於志波留支広庭天皇〈聖王祖父也〉娶檜前天皇女子伊斯比女命……」の記述はもともと欽明側、宣化即位を認めなかった側の著者の手になる記録が原本となっているのではないか、といったことになるのでしょうか。実際『上宮聖徳法王帝説』は上に引きましたように戊午年(≒538年)の仏教公伝を欽明朝のこととしている資料です。「アメクニオシハルキヒロニハ」天皇と「ヒノクマ」天皇という称号・呼称の性格の違いが、呼称の定められた年代の差によるものなのか、それとも著者の立場の違いによるものなのかは決められない、わからないといったことになりかねません。喜田さんや林屋さんのご見解に対し否定的な立場を取られるならば、著者の立場の違いということを考慮する必要はないように思えます。
まことに奇妙な話ですが、私個人といたしましては成立の年代の差も著者の立場の違いもどちらも視野に入れたく思っております。根拠とか論理があるわけでなくまったく感情レベル、好みのような問題なのですが。この問題は継体−欽明朝の紀年のずれに対する解釈を含むので、またのちほど述べるつもりです。
安閑・宣化の称についての考察は『忌み名の研究』にも見えていますが、そこに見える宣長の『古事記伝』での見解、また穂積さんご自身のご見解、どちらもいまひとつ「突っ込んだ」感じがありません。最初から全体を美称と見、実名は伝わっていなかったものとしておられるようです。宣長の『古事記伝』での見解の中には安閑の「広国押武金日」について「押は大(おおし)の意味である」「金日の意味はまだ思いいたらない」、また宣化の「武小広国押盾」についても「兄(安閑天皇)の名の広国を受けて小広国といったのである」といった記述も見えるようですが、そもそも本来『忌み名の研究』から宣長の『古事記伝』での見解を孫引きするというのも的を外した印象です。しかし私にはこれしかありません。
安閑の「ヒロクニオシタケカナヒ」、宣化の「タケヲヒロクニオシタテ」から「タケ」「ヒロクニオシ」を分けると、それぞれ「カナヒ」(金日)、「ヲ・タテ」(小・楯また小・盾)が残ります。これらは何なのでしょうか。実名と見なし得るものでしょうか。
こういう見方は不穏当かつ愚かしい考えなものかもしれません。
たしかに『日本書紀』の清寧の「白髪武広国押稚日本根子」、安閑の「広国押武金日」、宣化の「武小広国押盾」から共通の要素を取り出せば「武」「広国押」かもしれないが、そんなに機械的に割り切れる話ではない。「武・小・広国・押・盾」なのかもしれない。ほかに欽明の「天国排開広庭」、あるいは6代孝安の「日本足彦国押人」について考えてみると……いや、「ヲ」「タテ」などという実名が分断されるような形のあるはずはない。それならいっそ、これらは全部美称であって実名の要素はないと見たほうがまだまし……なのかもしれません。
「ヲダテ」(小楯)という言葉があったようです。『古事記』応神段の歌謡43に女性の後ろ姿の形容として「小楯」が見え、また仁徳段の歌謡59(『日本書紀』仁徳30年9月条の歌謡54が同歌)、仁徳皇后磐之媛(石之日売)の歌とされるものに「奈良」の枕詞「あをによし」と並んで「倭」(ヤマト、奈良盆地南東部を指すヤマト)の枕詞として「小楯」が見えています。
播磨(現在の兵庫県南西部)に逃れていた仁賢・顕宗兄弟を発見した人物の名が「伊予来目部小楯」(いよのくめべのをだて)、「ヲダテ」でした。この人物は『古事記』清寧段では「山部連小楯」として見えていますが、いっぽう『古事記』仁徳段では「山部大楯連」(やまべのおほたてのむらじ)なる人物が登場し、将軍として速総別王(はやぶさわけのおほきみ)・女鳥王(めどりのおほきみ)を討った際に女鳥王の遺体から玉鈕(たまくしろ。腕輪)を取ったということで「大后石之比売命」から死刑をたまわっています。「大楯」「小楯」の対比からすれば名の中心は「楯」で、それに世代の上下・長幼といった点から「大」「小」で分けたのでしょうから、名前の中心を「タテ」と見、それを「ヒロクニオシ」で飾って、さらに年齢・世代が下であることを示す「小」を付けたものと見るなら「武・小・広国押・盾」という可能性は案外あるのではないかと思うのです。
安閑については「オホダテ」などではなく「カナヒ」と見ておりますから、宣化を「ヲダテ」とすると対応しません。ですから宣化を「ヲダテ」と見ることは自己矛盾なのかもしれません。仁賢・顕宗の兄弟は(実名と見てはおりませんが)「オケ」「ヲケ」で「大」「小」の関係でした。
しかし宣化を「ヲダテ」と見た場合に兄の安閑が「オホダテ」で対応していなければならないということはないでしょう。父継体以前の祖先、あるいはおじ(伯・叔父)などに「オホダテ」(あるいは「○○タテ」「○○ダテ」など)がいたと考えることもできるように思うのです。『釈日本紀』所引『上宮記』逸文の伝える継体までの系図も「凡牟都和希王―若野毛二俣王―意富々等王―乎非王―汙斯王―乎富等大公王」というもので、「乎富等」に対応する「意富々等」はその曽祖父でした。
継体の「ヲホド」については実名とされるご意見も多いのではないかと思われます。もちろんそうでないご見解も多いのでしょうが、『日本書紀』持統4年10月乙丑(22日)に「土師連富杼」(はじのむらじほど)なる名も見えていますから、のちの時代にも「ホド」という名が存在したことになるでしょう。継体についても「ヲホド」が実名であった可能性も高いものと思っております。「歴代天皇の呼称をめぐって」では継体紀冒頭の「更名彦太尊」の「太」、フトにその可能性を考えておられます。たしかに父の「彦主人王」(ひこうしのおほきみ)が『上宮記』逸文では「汙斯王」と見えているようですから、気になる称ではあります。
なおこの持統4年10月乙丑の記事というのは、その前月に新羅使の船で帰国した「軍丁」、「筑紫国上陽東S人」(9月丁酉=23日の記事では「筑後国上陽東S人」)の「大伴部博麻」(おほともべのはかま)を褒賞したものです。博麻らは「天豊財重日足姫天皇七年」の「救百済之役」で唐軍の捕虜になり、「天命開別天皇三年」(天智9年の可能性が高いようです)になって土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝児の4人が「唐人所計」を本国に知らせようと思い立ったものの、帰国する資金がなかったため、博麻が自分の身を奴隷として売って帰国させ、自身は30年唐土にとどまったと見えています。その記事の中に「土師連富杼」の名が出てくるのです。なお、直木孝次郎さんの「近江朝末年における日唐関係」(『古代日本と朝鮮・中国』講談社学術文庫 1988 所収)で拝見したのですが、松田好弘さんが「天智朝の外交について――壬申の乱との関連をめぐって」で、氷連老・弓削連元宝児については捕虜ではなく遣唐使関係者であったことを論証しておられるそうで、孝徳紀白雉5年2月の遣唐使発遣の記事の分注に「(前略)妙位・法勝、学生氷連老人・高黄金、并十二人、別倭種韓智興・趙元宝、今年共使人帰」と見えることなどによってのようです。
「ヲダテ」という一連の名を区切って「タケ・ヲ・ヒロクニオシ・タテ」などと間に他の語を挿入することは不吉・無礼で、常識的には考えられないことかもしれません。私もそんな感じがします。そしてまた、400年ほど前に徳川家康が林羅山らを使って方広寺の鐘銘の「国家安康」に難癖をつけさせるといった事態がなかったとしたら、それを不吉・無礼と思うような常識も発生していなかったかもしれない……などとも考えるのです。
「カナヒ」(金日)という人名が見えるかどうかは確認していません。「カナムラ」という人名はありました。大伴金村です。おそらく継体擁立に立ち回り、またいわゆる「任那四県」の問題で「大兄皇子」安閑を慌てさせるきっかけになった人物です。
安閑のヒロクニオシタケカナヒ、宣化のタケヲヒロクニオシタテの称が比較的新しく『古事記』の直前ぐらいに定まったものとすれば、ではそれ以前の記録で安閑・宣化は何と表記されていたのか。宣化については先にも述べましたように「ヒノクマ(ノ)+天皇(大王・ミコト)」の形(『古事記』欽明段の「檜坰天皇」、『日本書紀』崇峻即位前紀の「檜隈天皇」、『上宮聖徳法王帝説』の「檜前天皇」など)ではなかったろうかと思っています。安閑についてはわかりません。春日山田皇女以下『日本書紀』に見える后妃との間に子はなかったようですし、欽明紀以後にも登場しないため探りようもないのですが、やはり「勾大兄」ではなかったろうかと思います。継体紀にも目子媛所生の子として「其一曰勾大兄皇子。是為広国排武金日尊。其二曰檜隈高田皇子。是為武小広国排盾尊」と、宣化の「檜隈高田皇子」と対になる形で見えていますし、「勾大兄広国押武金日天皇」という表記についても、実は「勾大兄」という呼称のほうが当時一般的に通用していたために、わかりやすさなどを考慮して「広国押武金日天皇」の前に「勾大兄」を付け加えたものではないかなどと想像しております。「檜隈天皇」に対する「勾大兄天皇」という称を想定すると「大兄」と「天皇」がともに存在することになって矛盾した感じですが、「天皇」号成立以前の称号との兼ね合いもあるかもしれませんし、「大兄」という称号や地位の性格についても考える余地があるのかもしれません。
しかし、安閑・宣化については実名のほうもそのまま伝わっていた可能性があるのではないでしょうか。古典文学大系『日本書紀』では「勾大兄」を安閑の名、「檜隈高田皇子」を宣化の本名と注しておられますが、安閑の「勾」や宣化の「檜隈」はやはりその宮の所在地に由来するものでしょう。安閑紀に「元年春正月、遷都于大倭国勾金橋。因為宮号」、宣化紀に「元年春正月、遷都于檜隈廬入野。因為宮号也」と見えます。安閑紀末尾に「冬十二月癸酉朔己丑、天皇崩于勾金橋宮。時年七十」、宣化紀末尾に「四年春二月乙酉朔甲午、天皇崩于檜隈廬入野宮。時年七十三」と例外的に見えている安閑・宣化の享年の記載を信じて逆算すれば、安閑・宣化は少なくとも数え年42歳・41歳の継体元年ごろまでは越前(福井県東部)か近江(滋賀県)あたりで暮らしていたのでは。生母の目子媛の出身地である尾張(愛知県西部)あたりにいた可能性もあるのかもしれません。『日本書紀』には記載がありませんが、既に地元で妻子ある身だった可能性もあるのではないでしょうか。仮に継体の応神五世孫との伝えが事実だったとしても、安閑や宣化の代には「遠い祖先は大王」という程度の、在地の有力者の子といった位置付けではなかったかと思います。継体が樟葉宮で即位したとされる時点以前に安閑・宣化がヤマト、奈良県内の地名を「実名」に持っていたでしょうか。
もっとも「実名」というものも誕生直後から一生通してというものでなく「元服」、成人といった機会に変更されるものだったのかもしれず、徳川家康などは幼名が「竹千代」でも実名は最終的に「徳川家康」だったのかもしれませんし、あるいは将軍宣下の際の姓名が実名なら「源朝臣家康」だったのかもしれません……などと、知らないことはあまり書かないほうがいいのですが。
仮にもしもこのように「実名も年代により変化するものだった」などと考えますと、いままで考えてきたことは一挙に無駄になるようにも思えます。もとより無駄は承知のうえのことながら、「幼曰−」「少名−」などとする記述が推古(「幼曰額田部皇女」)・持統(「少名鸕野讃良皇女」)あるいは『続日本紀』の元明(「小名阿閇皇女」)と主に女帝の場合に多く見られ、男帝の場合そうした記述が天武紀上の「幼曰大海人皇子」のみらしいのも気になります。天智の「葛城皇子」の称なども天武の「大海人皇子」の称と同様みな幼名といった性質のものであったとしたら、即位するまではずっと幼名で、かつ幼名が実名である、即位と同時に実名を改めたという形にでも見ることになるのでしょうか。たとえば舒明は『本朝皇胤紹運録』等に記載された享年49歳から逆算して、推古没後山背大兄と位を争っている時分には30代半ばごろとなりそうですが、そのころまで幼名の「田村皇子」(父の押坂彦人大兄は即位していませんから『日本書紀』の書き方からすれば本来「田村王」ではないかと思われるのですが)のままだったと見るべきなのでしょうか。あるいはその舒明の叔父にあたる敏達の子の大派皇子(おほまたのみこ。なお舒明8年7月己丑朔には「大派王」)については、皇極元年(≒642年)12月の舒明の喪の記事にその名が見えていますが、敏達の没した敏達14年(≒585年)から数えてもその時点で半世紀以上、60年近く経過しており、おそらく還暦を過ぎていたでしょう。それでも即位しなかった大派皇子は一生「幼名」のまま過ごしたということになるのでしょうか。「舎人親王」「長屋王」といった称が幼名=幼時の実名であって、即位しなければ一生幼名が実名、などとは考えづらいようにも思われます。
上に引きました安閑・宣化の「遷都」、宮を移した記事はどちらも「元年春正月」となっています。ことに安閑については「元年」が継体の没した辛亥年(≒531年)の翌年の壬子でなく「是年也、太歳甲寅」(≒534年)で、2年のブランクがあるにもかかわらず、です。そう見てくるとこれらの記事は『古事記』の「広国押建金日王、坐勾之金箸宮、治天下也」「建小広国押楯命、坐檜坰之廬入野宮、治天下也」のような記載に対して「元年春正月に宮を移し地名を宮号とした」と付け加えたりしただけのもののようにも見えます。ともかく安閑・宣化に関しては記紀の段階で非常に記録の残存状況が悪かったのではないかという感じがします。
以上、結論にもなりませんが、清寧と安閑・宣化の称号、呼称を見比べ、それらに共通する「タケ・ヒロクニオシ」が清寧については『古事記』になく『日本書紀』で加えられていることから考えて、安閑・宣化の称の成立を欽明のそれよりはおくれ、むしろ『古事記』の成立年代に近いのではないかと疑っていること、また安閑・宣化の実名として、その称から「タケ・ヒロクニオシ」をとった「カナヒ」「ヲダテ」を考えていることを申しました。「ヲダテ」と見ることについては、直前の時代かと思われる清寧紀・顕宗紀の話に登場する「伊予来目部小楯」の称を例として挙げたつもりですが、根拠も薄弱なら論理性もありません。
なお小林さんの「歴代天皇の呼称をめぐって」の中で、安閑の実名を「ヒロクニオシタケカナヒ」の冒頭のヒロと見ておられるらしい長久保恭子さんの「「和風諡号」の基礎的考察」でのご見解について触れられています。『古代天皇制と社会構造』所収とのことですがこれも孫引きで、長久保さんの論文を拝読していない私が何かを申し上げてはいけないのですが、安閑以降の「和風諡号」の中にも実名が含まれていることを挙げて、「和風諡号」とされているものは実は生前からの尊号であろうとされている論文の中に見える例のようです。非常に興味のあるご見解、というよりも、記紀に見える称(和風諡号なのか生前からの尊号なのかわかりませんが)の中から実名らしきものを探そうとしている以上見逃すことのできないお説のように思われるのですが、残念ながら拝読しておりません。長久保さんが安閑の実名をヒロとされた理由についても知りたく思うのですが、私個人としましては以上述べましたとおり「タケ」「ヒロクニオシ」が清寧・安閑・宣化の称に共通することをもってこれを後から付加された美称と見、外して考えたく思いました。ある場合には「石」「磐」といった要素が共通するから通字的なものと見て実名と考え、ある場合には共通する部分を付加された美称と見てこれを除いて残った部分を実名と考え、全く方法も節操もないのですが。
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