2. なまえ − 2

 歴代の「名」に関して考察されたページ では、仁賢紀の「諱大脚」「字嶋郎」の例に続けてこれに対応する顕宗紀分注に引く「譜第」(かばねついでのふみ)なる書の記述「其の二(ふたり)を億計王(おけのみこ)と曰す。更(また)の名(みな)は、嶋稚子(しまのわくご)。更の名は、大石尊(おほしのみこと)」を引いて比較しておられます。さらに『古事記伝』における宣長の「名」に対する見解を引くなどされて、その当時の大和言葉には名前を意味するものとして“な”という言葉しかなかった、しかし実際には命名法によりいくつかの類型に区分することも可能だった――という形で見ておられます。顕宗紀分注の「譜第」の「其二曰億計王。更名嶋稚子。更名大石尊」については“な”という語しかなかった状況の反映されたものと見、仁賢紀の「諱大脚」「字嶋郎」についてはその類型を「諱」「字」と書き分けたものと見ておられることになります。このご見解は説得力をもって響いてくるように思われます。

 小林敏男さんの『日本古代国家形成史考』(校倉書房 2006)の「王朝交替説とその方法論をめぐって」の4節「歴代天皇の呼称をめぐって」ではこの仁賢の諱、実名について、弟の顕宗の称とあわせて考察しておられます。一部引用させていただきますと、まず『日本書紀』仁賢紀の冒頭部分(先に古典文学大系から引用させていただきました「億計天皇は、諱は大脚。〈更の名は、大為。自余の諸の天皇に、諱字を言さず。而るを此の天皇に至りて、独り自ら書せることは、旧本に拠れらくのみ。〉字は、嶋郎」の記述です)を引用されたのち、この記述から天皇の実名は古来伝わっていたのであろうこと、またある時期からは実名敬避の傾向があらわれてきたのであろうことを読み取られて、続けて「仁賢の場合、諱(実名)はオホシ(またはオホス)で字(通称)はシマノイラツコ(またはシマノワクゴ)、オケも通称であろうが、シマノイラツコ(ワクゴ)の方は幼名であろうか。仁賢と対になっている顕宗は、実名はイハス(ワケという尊号=尊称が付加されている)、クメノワクゴが幼名で、ヲケが通称であろうか」としておられます。
 ここで顕宗の実名と見ておられます「イハス(ワケ)」というのは『古事記』顕宗段冒頭に「伊弉本別王御子、市辺忍歯王御子、袁祁之石巣別命、坐近飛鳥宮、治天下捌歳也」、「袁祁之石巣別命」と見えているもので、『日本書紀』には見えない称です。では同じ『古事記』の仁賢段に顕宗の「袁祁之石巣別命」に対応する仁賢の称が見えるのかといえば、奇妙なことに仁賢段は「袁祁王兄、意祁王、坐石上広高宮、治天下也」のみです。真福寺本の仁賢段では仁賢も顕宗も「命」でなく、ともに「王」表記です。実は『日本書紀』顕宗即位前紀の分注の「譜第曰」に始まる后妃・所生子の記載での表記も「其二曰億計王」「其三曰弘計王」となっています。
 『日本書紀』仁賢紀の「諱大脚」に対応するものを『古事記』顕宗段の「袁祁之石巣別命」に見られるというのは私などからすればアッと驚く発想なのですが、同時に奇妙な印象を覚えるものでもあります。『古事記』では顕宗段までは旧辞的記載――物語、エピソード的なもの――が見えるのに仁賢段以降はそれがなく、宮の所在地や、配偶者とその所生の子といった、いわゆる帝紀的な記載のみになってしまうことは随所で指摘されています。顕宗の諱、実名ではないかと疑われる「イハス(ワケ)」が『古事記』顕宗段のみに見えて『日本書紀』に見えないこと、逆に仁賢の諱、実名だという「オホシ」(オホス)のほうは『日本書紀』のみに見えて『古事記』に見えないという事実もそういったことと関係があるのでしょうか。この奇妙な事実はある意味で「できすぎ」のようにさえ思われるのですが、子細に見ていけば仁賢の称も『日本書紀』自身の中で微妙なずれを見せており、顕宗紀で「大石尊」「嶋稚子」という表記だったのが仁賢紀では「大脚(大為)」「嶋郎」と表記がかわっています。具体的にどうだったと想定することはできませんが、やはり顕宗と仁賢の間に記録の断絶のようなものを想定したくなります。『古事記』は申すまでもありませんが、『日本書紀』でさえも、たとえば顕宗紀と仁賢紀とで人名の表記を「旧本」と見える書か「譜第」かのどちらかに統一しようなどとは思わなかった……そんな印象を受けます。
 もっとも顕宗・仁賢の存在自体を、あるいは清寧から武烈に至る歴代の実在さえも否定されるようなお説もあるのだそうで、直接拝見しておらず恐縮なのですが、顕宗・仁賢について架空の存在、作り話とされる場合、素人目にはむしろ記紀に表れる顕宗と仁賢の記録の異質さ――『古事記』では顕宗段まで旧辞的な物語の記載があるのに仁賢段以後は基本的にないこと、『日本書紀』では先に触れたように同じ巻15の中で后妃・所生子の記載に見える名称の表記が微妙にずれること――を説明することが難しくなるのではないかという気もいたします。

 

仁 賢

(『古事記』顕宗段)

意 祁 命

(『古事記』仁賢段)

意 祁 王

(『日本書紀』仁賢紀)

億 計 天 皇

大脚(大為)

嶋  郎

(顕宗紀「譜第」)

億 計 王

大 石 尊

嶋 稚 子

顕 宗

(『古事記』顕宗段)

袁祁之石巣別命

(石 巣 別 ?)

(『古事記』仁賢段)

袁 祁 王

(『日本書紀』顕宗紀)

弘 計 天 皇

来 目 稚 子

(顕宗紀「譜第」)

弘 計 王

来 目 稚 子

(『古事記』は真福寺本を底本とする日本思想大系『古事記』の表記によっています)

 

 古典文学大系『日本書紀』では仁賢即位前紀の「大脚」について「顕宗即位前紀に「更名大石尊」とあり、みなオホシと訓む。父押磐(大磐)の名に似る」との注があるのですが、仁賢の諱・実名を「オホシ」(オホス)、顕宗の実名を「イハス(ワケ)」と見ることができるとしたら、私などにはこの古典文学大系の注が価値を持ってくるように思えます。市辺押磐皇子(市辺之忍歯王)の「名」であるオシハ(押磐)と仁賢のオホシ(大石)、顕宗のイハスワケ(石巣別)がみな親子兄弟で名に「石」「磐(岩)」の語・イメージを共有していることになるでしょうから。
 「足利義○」の「義」のように家系で受け継がれるような字、またその習慣を「通字」と呼ぶのだそうですが、「親子兄弟で名に『石』『磐(岩)』の語・イメージを共有している」などと書いた裏にはこの通字のようなもの……それに先行するような意識が古い時代にも存在したのではないかという思い込みがあります。しかしこの時代にそんな意識が存在したでしょうか。そもそも漢字の使用も渡来系の人々などごく一部に限られていたはず。後代の「各田卩臣」(額田部臣)などと異なり、稲荷山鉄剣銘では「獲加多支鹵」「乎獲居」(ヲワケか)「无□(利カ)弖」(ムリテか)など倭人とおぼしき人名は訓でなく字音で表記されていた時代です。仮に仁賢・顕宗や市辺押磐などが実在しており、また実際にこのような親子・兄弟関係だったとしても、少なくとも「石」「磐(岩)」といった漢字から発想して名づけたものではないはず。
 それにまた藤原氏の系図などを見ますと、こういった「通字」的な発想が見えてくるのは平安中期以降のようにも思われます。そもそもこちらが「通字」というものがどういうものかわかっていないので困るのですが、少なくとも奈良時代ころにはそういった感覚は認められない。
 しかしながら、そもそも実名というものがよくわかっていないのだから、逆にこのような見方に反論される証拠・根拠のほうも確固たるものはないのではないか、などとも思います。開き直りみたいですが。
 『釈日本紀』所引『上宮記』逸文に応神・垂仁から継体に至る系譜が記されていますが、垂仁から継体生母の振媛(古典文学大系での読みは「ふるひめ」。『上宮記』逸文の「布利比弥命」が対応するか)に至る系譜に「伊久牟尼利比古大王児伊波都久和希児偉波智和希児伊波己里和気児麻和加介児阿加波智君児乎波智君……」などと見えるようです。古典文学大系『日本書紀』の補注によったのですが、同補注によれば『上宮記』の系譜も継体を応神5世孫とするため作られたものだとされるご見解と、このような系譜を見て『日本書紀』が応神5世孫としたのだとされるご見解とに分かれているようです。現在どのようになっているのか存じませんが、ここには「伊波都久和希」「偉波智和希」「伊波己里和気」などとあって、「偉波智和希」については「偉波−智−和希」でなく「阿加−波智−君」「乎−波智−君」同様「偉−波智−和希」なのかもしれませんが、「伊波−都久−和希」「伊波−己里−和気」については「イハ」が通字のような形になっているとも見られそうです。実際「イハツクワケ」は記紀に見えています(『古事記』垂仁段に「石衝別王」とあって羽咋君・三尾君の祖とし、『日本書紀』垂仁紀に「磐衝別命」とあって三尾君の祖とする)。もちろん「イハツクワケ」が実在したとか、この系譜が正しいとか言うつもりはありません。記紀が先かこの系譜が先かもわからないのですが、むしろ6世紀とか7世紀といった当時の常識とか発想といったレベルの問題として考えています。またここに引いた箇所は稲荷山鉄剣銘の「上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比其児名加差披余……」とも何となく似ています。そんな程度の言及ならもう随所でなされているのでしょうし、またこの稲荷山鉄剣銘の系譜には「通字」に相当するような例が見られません。そもそも読めないのですから仕方ありませんが、強いて挙げれば「多加利足尼」「多加披次獲居」の「多加」くらいでしょうか。しかしそれなら関係のない「多加披次獲居」と「阿加波智君」が似ているとも言えそうです。
 こういったことを言い出すときりがないのかもしれません。
 しかし仮に『上宮記』に示された「伊久牟尼利比古大王」から「布利比弥命」に至る系譜が垂仁と継体の生母をつなぐものとしては虚偽であったとしても、どこかに実在した系譜をとってきた可能性もまだ残されているのではないか、そしてその系譜をはめ込むような操作の際に「イハ」を通字的に使う発想もあったのではないか、などとも考えます。だから「イハ」限定で考える必要もないのでしょうが、とりあえず仁賢の「オホシ」(オホス)、顕宗の「イハス(ワケ)」、そしてその父の市辺押磐のオシハをひとまとまりとして実名を考えていく手がかりにしようかなどと思っています。論理性も何もない感情レベルの話ですが。

 もうひとつの手がかりとして考えますのは、雄略の「実名」です。
 歴代の「名」に関して考察されたページ で「諱」の実例として挙げておられますのは神武即位前紀の「神日本磐余彦天皇、諱彦火々出見」、仁賢即位前紀の「億計天皇、諱大脚」、そして雄略42月条、葛城山の一事主神(ひとことぬしのかみ)に「先づ王の諱(みな)をなのれ」と問われた雄略が「朕は是、幼武尊なり」と答えた例でした。
『日本書紀』雄略42月条というのは――雄略が葛城山で狩猟した際に、容貌や衣装が雄略そっくりの一事主神に遭遇した。雄略は内心それが神であることに気づきながらも「何処(いづこ)の公(きみ)ぞ」と問いかけたところ、逆に神から「現人之神(あらひとがみ)ぞ。先づ王(きみ)の諱(みな)を称(なの)れ。然して後に噵(い)はむ」と問われたので「朕(おのれ)は是、幼武尊(わかたけのみこと)なり」と名乗った。すると神も「僕(やつかれ)は是、一事主神なり」と名乗り、一緒に狩りを楽しんで日暮れには一事主神が雄略を来目水(くめのかは、奈良県橿原市の畝傍山西側の高取川あたりのようです)まで送ってきた――というエピソードのようです。これと似た話が珍しく『古事記』にもあるのですが、話の原形らしい『古事記』のほうでは雄略は神とは気づかなかったようで、激怒して矢をつがえたところ一言主大神のほうが先に名乗ってしまい、恐れかしこまった雄略が刀や弓矢、家来の着物まで脱がせて献じてしまったという話になっていて、雄略自身が名乗ったかどうかは明記されていません。
 稲荷山鉄剣銘には「獲加多支鹵大王」、ワカタケル大王と見えています。ちょうど雄略紀で「先称王諱」と問われた雄略が「朕是幼武尊也」と答えています。このワカタケルを実名と見てよいのであれば、雄略の和風諡号(と言っていいのかわかりませんが)、称は「オホハツセ(ノ)・ワカタケ(ル)」と分けて考えることができるでしょう。「オホハツセ」を宮の所在地、「ワカタケ(ル)」を実名と見て、ここから和風諡号、称の構造を考えていくことも許されそうです。
 この実名の前に地名や美称を付けた構造として和風諡号をとらえる方法は歴代の「名」に関して考察されたページ でも多用されているものですが、そこではまず「諱」を出生直後の命名、「字」を成人後の命名、「謚」を死後の命名と命名時期によって分類されたうえで、こういった構造の称については「美称・地名 + 出生直後の命名」という形でとらえておられます。
 また小林さんの前掲書には「宮名・居所の地名が実名の上に冠せられた」ものを「複名」としておられるらしい徳田浄さんの『神代文学新考』でのご見解が引かれています。『神代文学新考』も恐縮ながら拝読しておりませんが、小林さんの注によりますと神武−仲哀の名について、称号が上位で実名(諱)が下位にある複名、といった形で見ておられるもののようです。
 しかしながら穂積陳重さんの『忌み名の研究』には「複名俗」の言葉が見えており、欧米のように普通11名で尊号・字・雅号等が基本的にないのを「単名俗」(Mononymy)というのに対し、実名のほか通称・字・美称・法号・諡号等の存在するのを「複名俗」(Polyonymy)と呼んでおられます。どちらももっともな感じであって、どういう用語が適当なのかわかりませんが、私はもとより「用語」「術語」などといったことを云々できる立場ではありません。
 なおこれも余談ながら、478年に南朝宋の順帝に「武」と名乗って上表したらしい雄略は『万葉集』冒頭の1の歌では丘で菜を摘んでいた娘に「家聞かな 名告らさね」と歌いかけたとされ、また『日本書紀』雄略42月条では一事主神に「朕は是、幼武尊なり」と名乗った。辛亥年(≒471年)から1507年の時を超越して稲荷山古墳の鉄剣がまさにその「諱」、実名とおぼしきものを現代に名乗った……などと発見当時の担当者の方などがおっしゃれば新聞のタネにでもなったかもしれません(また実際そういうことがあったかもしれません)が、いまごろ私ごときが言ったってただの陳腐な言い回しにすぎません。それでもまあとにかく、雄略の名乗った「ワカタケ(ル)」(幼武尊)を雄略の実名と見て、これを手がかりのひとつとして考えていこうと思います。


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