2. なまえ − 1

 しかしながら「名」という概念もなかなか難しいもののようです。おそらく「名」、とくに日本をはじめ東アジア文化圏の「名」について扱われた文献なども多いのでしょうが、あいにく何も拝読しておりません。そのうえでなお以下のようなことを書きますのは気が引けるのですけれど、恥を承知で書きます。良い文献がありましたらどなたかご教示願えれば……と申したいところですが、実際には諸般の事情により目にすることができません。

 実はウェブのほうで非常に参考になる言及をしておられますページというかサイトがあります。まだ引用のご了解を取り付けておりませんので、とりあえず 歴代の「名」に関して考察されたページ とでもしておきますが、以下に述べますこともこのページの情報に示唆を与えていただきましたものが多いので、お断りもせぬまま引用させていただいた部分もあります。ご本意に反する形でなければよいのですが……。穂積陳重さんの『忌み名の研究』もこのページによってご教示いただきました。以下に述べます「諱」「字」「諡」などにつきましてもそちらのほうが端的・簡潔にまとめておられます。

 先にも「幼名」「諱」(いみな)などというものを挙げました。「幼名」といえば、たとえば源義経の幼名の牛若丸とか、徳川家康の幼名の竹千代などといったものが浮かびます。といってもこれも子供向けの伝記や物語からの知識であって、「牛若丸」「竹千代」などが何という資料・記録に見えているのかすらも存じません。また坂上田村麻呂の幼名が何だったのか、平将門の幼名が何だったのか、平清盛や徳川家光の幼名が何だったのかとか、「幼名」というものがいつの時代からあったのか、日本以外では存在したのかどうだったのかといったことも存じません。「幼曰額田部皇女」「幼曰大海人皇子」「少名鸕野讃良皇女」「小名阿閇皇女」なども「幼名」といった形で見なせるのかどうか。
 一方「諱」は少し難しい概念のようです。先ほども引かせていただきました『新漢和辞典』で「諱」(キ・いむ・いみな)を見ますと、1番目に「いむ(忌)。はばかる」と動詞の意味を挙げて「いみきらう」「おそれつつしんでさける」「いみかくす」「死者の名をはばかって呼ばない」などの意味が見え、2番目に「いみ。人にかくすところ。秘密」とあり、3番目に「いみな。死者の生前の名。実名。生前には名といい、死後には諱という。人が死ぬと諡〈おくりな〉を呼んで、生前の名をいむことからいう」とあります。
 実は同辞典の同じ見開きページに、同じ言部9画で「諡」(シ・おくりな)も見えています。「おくりな。死者に対して、その生前の行跡によってつける名。人の死後は、呼ぶに諡を用い、実名は諱〈キ・いみな〉と称していんで呼ばない」とあります。「漢風諡号」「和風諡号」の「諡」です。推古の漢風諡号は「推古天皇」で、「トヨミケカシキヤヒメ」(豊御食炊屋比売命・豊御食炊屋姫天皇)については通説的には和風諡号とされる向きが多いように思われます。
 これに対し『万葉集』415の題詞の分注に「小墾田宮御宇者豊御食炊屋姫天皇也。諱額田。謚推古」と見えること、またその分注の「謚推古」について山田英雄さんが「古代天皇の諡について」で疑問を呈されていることも先に引かせていただきました。となりますと分注全体も疑ってかかるべきなのでしょうが、ならばこの分注の筆者は推古の「豊御食炊屋姫(天皇)」などの称については何だと思っていたのでしょうか。気になるところではあります。
 吉村武彦さんの『聖徳太子』(岩波新書 2002)のプロローグの中に興味深い記述があります。北畠親房(きたばたけちかふさ、南北朝期の南朝方の武将)の書いた『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)という歴史書では、聖徳太子こと廐戸王子について「生存中の出来事は廐戸皇子ないし「太子」の名を使い、没して「御諱を聖徳となづけ奉る」とした後の記述では、聖徳太子の名前を使用している」のだそうです。この「御諱」は没後にたてまっつたものということになりますから、実際は上に引きました「諡」(おくりな)のことを指しているわけです。
 これに近い……と申しますか、中間的な用例が『大鏡』という歴史書の中にもあるようなのです。『大鏡』天(上)の後一条院のあと、太政大臣の解説中に「ただし、これよりさきの大友皇子・高市皇子くはへて、十三人の太政大臣なり。太政大臣になりたまひぬる人は、うせたまひて後、かならず諡号(いみな)と申すものあり。しかれども、大友皇子やがて帝になりたまふ。高市皇子の御諡号おぼつかなし。また、太政大臣といへど、出家しつれば、諡号なし。(後略)」(〓)などとあるようです。ここで「諡号」と呼んでいるものは、たとえば藤原不比等の「淡海公」や藤原良房の「忠仁公」・藤原基経の「昭宣公」・藤原忠平の「貞信公」などといった「諡」(おくりな)を意識して言っているのでしょうが、「諡号」を「いみな」と読ませているようで、「諡号」表記は本来の意味のようですが「いみな」の読みのほうは本来の諱、実名の意味を離れてどうやら諡の意味にかわってしまっているようです。『大鏡』の大友皇子即位の説ですが、こちらの「大友皇子」は天智の弟で即位して天武になっていますので、要するに『大鏡』の作者が天武と大友皇子とを混同しているみたいなのです。
 漢和辞典で「諱」を調べますと前記のような解説があるのですが、大きめの国語辞典、日本語辞典で「いみな(諱)」と調べますと「死んだ人の生前の実名」「貴人の実名、実名の敬称」といった意味と並べて「死後に尊んで贈る称号。諡(おくりな)」、この3つの意味を併記しておられるものが多いようにお見受けします。最後の意味はおそらく本来の「諱」ではなく「諡」(おくりな)そのものです。きりぎりすのさうざうしかりし世に意味が逆転したのか、「倭」「大倭」が「日本」や「大和」になっても「ヤマト」は「ヤマト」だったのか、「あはれ」が「あっぱれ」になったころ「ニホン」が「ニッポン」になったのかどうだかまったく存じあげませんが、ともかく「いみな(諱)」については誤解・誤用のほうが影響力を持ってしまい、結果として正反対の――とまでは言わないけれど、対立概念ともいえる意味、「諱」と「諡」の両方の意味を持ってしまった、ということのように見えます。

 歴代の「名」に関して考察されたページ では、『日本書紀』に見える「諱」「字」「謚」などの実例を詳細に挙げておられるのですが、「諱」の実例については神武即位前紀の「神日本磐余彦天皇、諱彦火々出見」、また雄略42月条、葛城山の一事主神(ひとことぬしのかみ)に「先づ王の諱(みな)をなのれ」と問われた雄略が「朕は是、幼武尊なり」と答えた例、そして仁賢即位前紀の「億計天皇、諱大脚」の3つを挙げておられます。
 その『日本書紀』仁賢紀はこんな書き出しで始まっています。

 

億計天皇(おけのすめらみこと)は、諱(ただのみな)は大脚(おほし)。〈更(また)の名(みな)は、大為(おほす)。自余(それよりほか)の諸(もろもろ)の天皇(すめらみこと)に、諱字(ただのみな)を言(まう)さず。而(しか)るを此の天皇に至りて、独(ひとり)自(みづか)ら書(しる)せることは、旧本(ふるふみ)に拠(よ)れらくのみ。〉字(あざな)は、嶋郎(しまのいらつこ)。弘計天皇(をけのすめらみこと)の同母兄(いろね)なり。(後略)(「億計天皇、諱大脚。〈更名大為。自余諸天皇、不言諱字。而至此天皇、独自書者、拠旧本耳。〉字嶋郎。弘計天皇同母兄也」)
(古典文学大系『日本書紀』より。〈 〉内は分注。読みがなはやむを得ず体裁を改変し、また省略した箇所があります。漢文は返り点・送りがなを省略)


 古典文学大系はこの諱の「大脚」に注をつけて「顕宗即位前紀に「更名大石尊」とあり、みなオホシと訓む。父押磐(大磐)の名に似る」との記述があり、「諱」については神武紀の注を見よとなっています。その神武紀には「神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)、諱(ただのみな)は彦火火出見(ひこほほでみ)」とあって、この「諱」に注して「諱は、実名のことである。仁賢即位前紀(巻一五)に「諱大脚」とあり、分注に「自余諸天皇、不言諱字。而至此天皇、独自書者、拠旧本耳」とあるのと矛盾する」となっています。仁賢紀では「この天皇だけ諱を記したのは、古い本に載っていたからそれに拠ったまでのこと」といった言い方をしていますが、実は神武紀でも既に諱を記載していた。もっとも実在性をうんぬんする対象でない、神話・伝説上の人物の「諱」は意識しなかったということでしょうか。また、顕宗や仁賢の実在性についても疑われるご見解があるようにうかがっております。実在しなかった存在の「実名」というのも奇妙な印象ですが、もちろん記紀の記す神武像についてそのまま「実在である」などと言うつもりはありません。
 なお「諱」の記載は『続日本紀』にも何例かあるようで、巻7冒頭の元正の「日本根子高瑞浄足姫天皇。諱氷高」(なお新訂増補国史大系によれば、「諱氷高」は原本になく『日本紀略』によって補った旨頭注に見えます)、巻21冒頭の「廃帝」(淳仁)の「廃帝。諱大炊王」、巻31冒頭の光仁の「天皇諱白壁王」といったものが目に入りました。
 仁賢天皇(『古事記』の「意祁王」、『日本書紀』の「億計天皇」)は記紀によれば先代の顕宗天皇(『古事記』の「袁祁之石巣別命」、『日本書紀』の「弘計天皇」)とは実の兄弟で顕宗が弟、仁賢が兄となっています。弟が先に即位したわけです。父は履中の子の市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ、『古事記』で「市辺之忍歯王」)で、その市辺押磐皇子が雄略に殺されてしまったので兄弟は転々と逃げ回った末に播磨(兵庫県南西部)に潜んでいた。ところが雄略の子の清寧に子がなかったので仁賢・顕宗兄弟が見つけ出され、互いに位を譲り合ったのち弟の顕宗が先に即位した――大筋でこんな話になっています。なおこの話にからんで推古以前の女王であったかもしれない飯豊皇女なる人が登場し、『古事記』と『日本書紀』とで所伝が食い違うなど問題とされるところですが、当面の関心からは外れますので置きます。
 ともかく、「諱」を「生前の実名」という意味で解釈すれば仁賢の実名は「大脚」(オホシ)だということになります。「更名」(またのみな)として「大為」(オホス)と挙がっていますが、ここは「オホシの名もオホスの名も使い分けて用いていた」ということではなく「オホシの異伝としてオホスがあった」と解すべきなのでしょう。そして「字」(あざな)が「嶋郎」(しまのいらつこ)と見えていますが、この「字」についても『新漢和辞典』で見てみました。
 「字」という字を漢和辞典で調べるのは初めてだったのですが、意外な意味が載っています。「うむ(生)。子を産む」「はらむ(孕〈ヨウ〉)」「やしなう。そだてる。乳を飲ませる」「いつくしむ」「ます。ふえる。しげる。複雑になる。また、飾る」「文字」などとあって、7番目にようやく「あざな」の意味が見えます。恐縮ながらその全文を引用させていただきます。
 「あざな。中国で元服の時に、実名のほかにつける名。呼び名。多くは実名と関係のある意味の文字を使用する。ある人を、その人の親・君主・師以外の者が呼ぶ時には、その人の字を呼ぶのが礼であり、自分が人に対して自分の名を言う時には、実名(諱〈いみな〉)を言うのが礼である。実名は本人であり、字はその代理だと考える」……とのことです。
 申すまでもないかもしれませんが、この「字」は中国的なイメージの強いものです。たとえば唐の詩人の李白の字は太白でしたし、同じく杜甫の字は子美でした。白楽天の楽天は字ということですから白居易の居易が諱ということになります。『三国志』……といってこの場合は「魏書」(魏志)を含む正史の『三国志』でも『三国志演義』でも構わないのかもしれませんが、諸葛孔明の孔明が字で諱が亮、劉備の字が玄徳、司馬仲達の仲達も字で諱は懿、その司馬懿の孫の司馬炎が魏を倒して晋を建てることになる……といったあたりは詳しい方のほうがご存じでしょうから申しません。とにかく「字」というのは日本でもそういった中国的なイメージで受け取られているものと思うのです。その時代の日本というか倭では「卑弥呼」「壱与」だとか「難升米」「都市牛利」「卑弥弓呼」で、これが実名といったものなのか通称なのか、または地位呼称なのかもよくわかりません。隋唐と同じころの倭、日本でも蘇我馬子の「字」などとは聞きませんし、実際に『日本書紀』にも馬子の「字」ということは見当たらないと思います。また中臣鎌足の「字」……というのは実はありまして、『家伝』という書の上巻、『家伝上』の冒頭が「内大臣、諱鎌足。字仲郎。大倭国高市郡人也」の書き出しで始まっているようです(以下、『家伝上』につきましては基本的に青木和夫さん・田辺昭三さん編の『藤原鎌足とその時代』吉川弘文館 1997 巻末資料の「『家伝』鎌足伝(大織冠伝)」より引用させていただき、また古典文学大系『日本書紀』の注などを援用させていただきました)。これを信じれば中臣鎌足の「字」は「仲郎」だったことになります。
 『家伝』という書物についてはどう説明してよいのかよくわかりません。奈良時代、おそらく760年代といったあたりに藤原仲麻呂が作った藤原氏の人の伝記といった書物のようです。上下2巻から成り、上巻の『家伝巻上』は藤原鎌足の伝記、またその巻末には鎌足の長男貞慧(じやうゑ。不比等の兄。『日本書紀』に「定恵」)の伝記である「貞慧伝」が付いていた、そういうものとみられているらしいです。筆者については巻頭に「太師」とあって、仲麻呂自身と見られているようです(天平宝字4年正月丙寅=4日に従一位に叙されるとともに「太保」から「太師」とされた)。下巻の『家伝下』は全部が仲麻呂の父武智麻呂の伝記である『武智麻呂伝』となっているもののようで、筆者は「僧延慶」、延慶なる僧の筆とされています。一般的には上下2巻で『藤氏家伝』『藤原家伝』また単に『家伝』とも言い、また上巻のみを指して『家伝上』とも『鎌足伝』とも『大織冠伝』とも言うようで、『家伝下』は『武智麻呂伝』と呼ばれているようです。ですから上巻の内容についてのみ触れられたものでも『藤氏家伝』といった書き方をされているものもお見受けします。素人ですので専門の方からすれば笑われてしまうようなことを書いているのかもしれませんが、とにかく複雑です。
 で、これについてもいろいろと書くべきことはあるのでしょうが、私ごとき無知な素人が書いても混乱するばかりですし、いまは『家伝上』の話でなく「字」の話でした。ともかく『家伝上』冒頭に藤原鎌足の「字」が「仲郎」だったと出ており、またそれを当時「太政大臣」でなく「太師」だったらしい「藤原恵美朝臣押勝」こと藤原「仲麻呂」が書いたのかもしれません。「字仲郎」というのはいかにも中国的で、仲麻呂の中国趣味からでた作りごとではないかと思うのですが、『家伝上』には蘇我入鹿を指して「宗我太郎」とする記述も見えます(旻の言葉、「入吾堂者、無如宗我太郎(後略)」)。同じ『家伝上』の中ですからこれも同じ中国趣味由来かと思ったら、実は先ほど同じ入鹿を指して『上宮聖徳法王帝説』に「林太郎」(「□皇御世乙巳年六月十一日近江天皇〈生廾一年〉煞於林太郎」)と見えることを引いております。また『日本書紀』皇極46月甲辰(8日)にもやはり入鹿を指して「大郎」(たいらう)と見えます(高向臣国押の言葉、「吾等由君大郎、応当被戮(後略)」)。『家伝上』だけなら疑わしいと思ったでしょうが、『上宮聖徳法王帝説』にも見えるとなると当時実際に使われていたもののようにも思えてきます。またそれが旻にからんで見えていることを思えば、あるいは遣隋使として渡り唐から帰国した旻あたりが中国の習慣を持ち込んで使い始めたものでは、といった印象も受けるのです。またそう思って仁賢紀冒頭の「億計天皇、諱大脚。〈更名大為。自余諸天皇、不言諱字。而至此天皇、独自書者、拠旧本耳。〉字嶋郎(後略)」を見ますと、「諱大脚」「字嶋郎」という組み合わせはいかにも漢籍じみた印象をもって映ります。
 ところがそれ以前から倭で「字」が用いられていたのではと思わせる記述が『隋書』倭国伝に登場しています。「姓阿毎、字多利思北孤、号阿輩雞弥」(姓はアメ、字はタリシヒコ、「阿輩雞弥」と号す)の字タリシヒコの「字」です。この記述を信じれば、このとき使者は隋の文帝に倭王の「諱」、実名でなく「字」を告げたということになりますが、この「阿毎」「多利思北孤」などは書面に記された表記だったのでしょうか、それとも使者が口頭で述べた発音を写したものなのでしょうか。そしてその使者は果たして「諱」「字」といった概念を理解していたのでしょうか。


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