1. はじめに − 2
先に「各田卩臣」と見える岡田山一号墳の大刀銘にからんで熊谷公男さんの『日本の歴史03 大王から天皇へ』の中で示されているご見解――部民制の成立について「おそらく六世紀前半代にさまざまな部が各地に設定されていったのであろう」とされるご見解――を引かせていただきましたが、その理由として熊谷さんは「欽明天皇のときから、石上部皇子・埿部穴穂部皇子・泊瀬部皇子のように部名を名とする王子が現れはじめる」ことを挙げておられます。この点についての指摘はどうも早く津田左右吉さんの「上代の部の研究」という論文あたりに見えるものらしい(たまたま『日本書紀研究
第三冊』塙書房 1968の直木孝次郎さんの「伴と部との関係について」という論文中で直木さんが引用しておられるのを拝見しました)のですが、先に挙げました『日本書紀』の欽明の子の記載に関してのみ言えば「○○部」と付く称を持つのは石上部皇子(いそのかみべのみこ)・泥部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ)・泥部穴穂部皇子(はしひとのあなほべのみこ)・泊瀬部皇子(はつせべのみこ)のみであり、仮に推古の豊御食炊屋姫尊を額田部皇女にかえたとしても堅塩媛所生の13人のうちでは2例のみ、さらに石上部皇子については『古事記』で対応するのは「伊美賀古王」です。「○○部」ではない。欽明の子の代から「○○部」と付く王子・王女が出現するといっても、たとえば『古事記』で見た場合それは小姉君(小兄比売)所生の5人の子のうちの下の3人のみに集中しています。間人穴太部王(はしひとのあなほべのおほきみ)・三枝部穴太部王(さきくさべのあなほべのおほきみ)・長谷部若雀命(はつせべのわかさざきのみこと)の3人です。
もっとも崇峻の「長谷部若雀命」については、『日本書紀』には「泊瀬部天皇」とあるだけ。これについて日本思想大系『古事記』の崇峻の補注には「記伝のいうように、記の「長谷部若雀天皇」は「小長谷若雀命」(武烈)と混同した誤りで、紀の「泊瀬部天皇」が正しい」(「記伝」は本居宣長の『古事記伝』)と見えており、また穂積陳重さんの『忌み名の研究』(講談社学術文庫 1992。なおこの書は初版が「帝国学士院第一部論文集 邦文第二号」の「諱に関する疑」として出され、のち『実名敬避俗研究』と改題して再版されたものを、孫にあたる穂積重行さんが校訂・現代語訳されたものとのことです)にも崇峻について記した項に『古事記伝』の相当部分の記述が引かれています。
そしてまた、欽明の数多くの子女の中でも敏達・用明・推古の外ではこの3人、穴穂部間人・穴穂部・崇峻の3人のみがとくにその名を知られた存在のように思われます。
これはどういうことなのか。
もしも額田部皇女の「額田部」、石上部皇子の「石上部」といったものが、その王女・王子に授乳等をして養育する女性の出身である集団名に由来するものというだけのことだったとしたら、それほど深刻に考えることではないのかもしれません。
しかし「泥部穴穂部皇女」「泥部穴穂部皇子」などの場合はどう考えるのか。
「泥部」(「埿」は「泥」の俗字、なのだそうです。古典文学大系の注)について、実は『日本書紀』のいう「天武12年」(≒683年)の9月丁未(23日)に連姓を賜わった38氏の中に「泥部造」(はづかしべのみやつこ)の名がが見えます(なお『日本書紀』は壬申の乱のあった壬申年≒672年を「天武元年」として紀年を立てていますが、天武の即位は翌「太歳癸酉」≒673年で、壬申年を「弘文元年」と扱われるものも多いです。その場合天武13年≒685年の次が朱鳥元年≒686年となる勘定です。『日本書紀』の紀年では天武14年≒685年の次が朱鳥元年です。以下では『日本書紀』の記述を引用することが多いため、壬申年≒683年を「天武元年」とする紀年で記します)。
38氏の中にはまた「羽束造」(はつかしのみやつこ)という氏も見えており、さらに矢田部造・藤原部造・刑部造・福草部造・来目舎人造・檜隈舎人造・川瀬舎人造・石上部造・財日奉造・穴穂部造・白髪部造・忍海造・小泊瀬造・百済造など、いかにも名代・子代とか王子・王女の名といったものを連想させる氏が名を連ねています。続く10月己未(5日)には草壁吉士・娑羅羅馬飼造・菟野馬飼造・高市県主・磯城県主など14氏にも連が賜姓されていますので、ますます王子・王女の名との関連を疑いたくなる。しかし残念なことに欽明2年3月の「泥部穴穂部皇女」「泥部穴穂部皇子」表記と天武12年9月丁未の「泥部造」との関連に言及されたような文献等を私は何も存じません。……ひとつだけ、幕末の狩谷棭斎の『法王帝説証注』の「穴穂部間人王」の分注の中の「欽明天皇紀、作埿部穴穂部皇女」の分注に「埿部はハシビト(波志毘登)と読むべきで、土師人の意味である。『日本書紀』でハセツカベ(波世都加邊)と読ませ、また土部と傍書するのはどちらも不可」といったことがあるようなのですが(中田祝夫さん解説の『上宮聖徳法王帝説』勉誠社 1981 所載の「法王帝説証注」によりました)、漢文なのでわかりません。
ちなみにこの天武12年の連賜姓ののちは、13年(≒684年)に散発的な連賜姓があったのち10月己卯朔(1日)に八色の姓制定と公姓13氏への真人賜姓の記事が見え、その直後、半月後の壬辰(14日)に巨大な南海地震があり、それでも11月戊申朔(1日)には52氏に対し朝臣賜姓があって、12月己卯(2日)に宿禰を賜姓された50氏の中には額田部連氏や間人連氏も見えています。
先に引きました『古事記』欽明段や『日本書紀』用明・崇峻紀の記述と合わせて考えれば「間人穴太部王」(『古事記』)=「泥部穴穂部皇女」(欽明2年3月)=「穴穂部間人皇女」(用明・推古紀)、「三枝部穴太部王」(『古事記』)=「泥部穴穂部皇子」(欽明2年3月)=「穴穂部皇子」(敏達・用明・崇峻紀)となることは疑いないと思われ、またそれを疑っておられるような文献等も拝見していないのですけれど、では逆にこのような表記の不統一はいったい何に起因しているのかと思います。このような多様な表記を生ぜしめる実態が裏にあったはず。
これらの称に見える「穴穂部」「間人」「三枝部」などはとうぜん「部」、あるいはその部を統率する伴造である氏族の名称だと思うのですが、1人の王女・王子の称に複数の部の名が付いている場合、王女・王子とそれら部、あるいは伴造の氏族との実際の関係は具体的にどういったものであったのか。たとえば授乳等をして養育する女性はどの氏族から出たのか。穴穂部造氏から選定されたのか間人連氏から出たのか三枝部○氏から出たのか。
『続日本紀』天平勝宝元年7月甲午(2日)には孝謙天皇の即位の宣命、続けて叙位・改元のことが見え、翌日の乙未(3日)には「乙未。従六位上阿倍朝臣石井。正六位上山田史女嶋。正六位下竹首乙女並授従五位下。並天皇之乳母也」とあり、阿倍朝臣石井ら「天皇之乳母」3人に従五位下が与えられています(天平勝宝元年≒749年。天平21年4月に天平感宝と改元し、さらに同年7月の孝謙即位と同時に天平勝宝と改元)。もっともこの中の「山田史女嶋」については、8年後の天平宝字元年8月戊寅(2日)には「故従五位下山田三井宿禰比売嶋」が橘奈良麻呂の変に関係したとして「可除御母之名奪宿禰之姓依旧従山田史」、没後に「御母」の名を除かれ「宿禰」の姓を奪われてもとの「山田史」に戻された……などと見えます(なお『続日本紀』については新訂増補国史大系『続日本紀』前篇・後篇
吉川弘文館 1974 を参照させていただいています。やはり返り点・送りがな等は省略せざるを得ず、また字体も改めた箇所があります)。
ともかく、これ従えば「阿倍内親王」孝謙の「乳母」は3人あったけれど、中でも最高位だったらしい「阿倍朝臣石井」の氏族名から「阿倍内親王」とされたもののようにも見えます。もとより8世紀前半と6世紀後半とでは大きく事情が違うのでしょうが、果たして「穴穂部間人皇女」(「間人穴太部王」「泥部穴穂部皇女」)や「穴穂部皇子」(「三枝部穴太部王」「泥部穴穂部皇子」)といった多様な表記の裏に同様の事情を見てよいものかどうか。また「○○部○」氏は授乳等の養育をする女性を出しただけなのか、王女・王子の経済基盤となっていたのか。あるいは安康段・安康紀に見える「石上穴穂宮」(いそのかみのあなほのみや)のような穴穂宮を称する宮が実際に存在し、穴穂部はその宮に奉仕しており、穴穂部間人皇女・穴穂部皇子もその宮に居住していたか、あるいは何らかの拠点を持っていたという関係になるのか……などなど、私にはさっぱりわかりません。
また「三枝部」という称からは『上宮聖徳法王帝説』や『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文に廐戸の子として見える「三枝王」が連想されます。『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引の『上宮記』逸文には、廐戸と菩岐岐美郎女との間の子について列挙した記述に中に「三枝王」が見え、これに続く3人の子の表記が「兄伊等斯古王/弟麻里古王/次馬屋古女王」となっており、菩岐岐美郎女の所生子についても「合七王也」、計7人と数えられているのだそうです。顕宗が没する直前の顕宗3年4月戊辰(13日)に「戊辰、置福草部」とあって顕宗の名代の部と目される「福草部」(さきくさべ)の設置されたことが見えており、「三枝部」はこの「福草部」と通じて同じものを指すようなのですが、この「福草部」について古典文学大系『日本書紀』の補注には次のような記述が見えます。「上宮記によれば、聖徳太子の子に八児をあげ、最後に「合七王也」と注記しており、数の合わない点について法空は、第五番目の三枝王は固有名詞ではなく、続く三人の王子女(三つ児)の総称であるとした」。法空(『聖徳太子平氏伝雑勘文』『上宮太子拾遺記』の著者)は『聖徳太子平氏伝雑勘文』の中で『上宮記』に廐戸の子として見える「(兄)伊等斯古王」「(弟)麻里古王」「(次)馬屋女王」を三つ子と見、「三枝王」をその三つ子の総称と見ていたもののようで、また黛弘道さんも同じご見解を示しておられることが触れられています。いっぽう同補注によれば、家永三郎さんは当時の皇族の名は氏や部の名に基づくことが多く三枝王の名も三枝部に由来するものとして、三つ子説を否定的に見ておられるようです。恐縮ながらどちらも拝読しておりません。なお法空の三つ子説は、『聖徳太子平氏伝雑勘文』の後半に掲げられた廐戸や山背大兄らの子の系図の直後に「又私云。上三枝王者。不一王名兄。弟。次三人惣名也。故下合数云七王也。而俄今兄。弟。次者三人三子生給也。而如此合生以後生為兄(云云)。此又可爾歟。此随分秘蔵之料簡也」などといった形で見えているもののようです(なお『聖徳太子平氏伝雑勘文』については天台宗典編纂所『天台電子佛典CD3』所収の「太子平氏傳雜勘文.TXK」データ、また日本思想大系『聖徳太子集』の「上宮聖徳法王帝説」の補注によらせていただきました)。
本も読まなければ知識もない私がわかっていないだけだとは思うのですが……「知識がない」などと言っているわりには、知りもしないことについてベラベラとでたらめを書いています。
穴穂部間人皇女がどのように表記されているのか、目の届く範囲で列挙してみます。
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「間人穴太部王」(はしひとのあなほべのおほきみ・みこ。『古事記』欽明段)
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「泥部穴穂部皇女」(はしひとのあなほべのひめみこ。『日本書紀』欽明2年3月)
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「穴穂部間人皇女」(あなほべのはしひとのひめみこ。『日本書紀』用明元年正月・推古元年4月)
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「鬼前太后」(法隆寺金堂釈迦三尊像銘。あるいは「鬼」と「前太后」か)
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「穴太部間人王」(『上宮聖徳法王帝説』、冒頭の破損箇所では横に別筆で「穴穂部間」)
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「穴太部王」(『上宮聖徳法王帝説』所引の法隆寺金堂釈迦三尊像銘の「鬼前大后」の解説)
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「孔部間人公主」(『上宮聖徳法王帝説』所引の天寿国繍帳銘)
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「孔部間人母王」(『上宮聖徳法王帝説』所引の天寿国繍帳銘)
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「間人孔部王」(『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文)
穴穂部皇子の称についても同様に列挙してみます(「らしきもの」も含めました)。
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「三枝部穴太部王」(さきくさべのあなほべのおほきみ・みこ。『古事記』欽明段)
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「須売伊呂杼」(すめいろど。『古事記』欽明段、「次、三枝部穴太部王、亦名須売伊呂杼」)
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「泥部穴穂部皇子」(はしひとのあなほべのみこ。『日本書紀』欽明2年3月)
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「天香子皇子」(『日本書紀』欽明2年3月、泥部穴穂部皇子の分注に「更名天香子皇子」)
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「住迹皇子」(『日本書紀』欽明2年3月、泥部穴穂部皇子の分注に「一書云、更名住迹皇子」)
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「穴穂部皇子」(あなほべのみこ。『日本書紀』用明紀、崇峻紀)
先走って現在のテーマに関係ないものまで挙げましたが、追い追い触れるつもりです。
そもそも「額田部皇女」を推古の「名」であると見た場合、同様の性格の称であると思われる「穴穂部皇子」もまた「名」と見ることができるものと思うのですが、ほかに「三枝部穴太部王」「泥部穴穂部皇子」といった名称も見えてどれかひとつに決まらない……そういったものを「名」と呼べるのでしょうか。「名」という概念も問題ながら、そう考えると推古即位前紀のみに見える「額田部皇女」もまた「名」と言えるのか疑問に思えてくるのです。
そこでもう一度推古即位前紀を見てみます。
豊御食炊屋姫天皇は、天国排開広庭天皇の中女なり。橘豊日天皇の同母妹なり。幼くましますときに額田部皇女と曰す。姿色端麗しく、進止軌制し。年十八歳にして、立ちて渟中倉太玉敷天皇の皇后と為る。三十四歳にして、渟中倉太珠敷天皇崩りましぬ。三十九歳にして、泊瀬部天皇の五年の十一月に当りて、天皇、大臣馬子宿禰の為に殺せられたまひぬ。嗣位既に空し。群臣、渟中倉太珠敷天皇の皇后額田部皇女に請して、令践祚らむとす。皇后辞譲びたまふ。百寮、表を上りて勧進る。三に至りて乃ち従ひたまふ。因りて天皇の璽印を奉る。(後略)
書物などによっては「額田部皇女」を推古の「名」とか「幼名」、あるいは「諱」(いみな=実名、と現段階ではしておきます)などとされているものを拝見しますが、実は推古即位前紀では「幼くましますときに額田部皇女と曰す」(「幼曰額田部皇女」)であって、厳密には「名」だとは言っていない。言ってはいないけれども、この「幼曰額田部皇女」の表現はたとえば天武紀上、即位前紀の「幼くましまししときには大海人皇子と曰す」(「幼曰大海人皇子」)や、持統紀冒頭の「少(わかきとき)の名(みな)は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)とまうす」(「少名鸕野讃良皇女」)、『続日本紀』巻4冒頭(慶雲4年7月)の元明の「小名(ヲサナナ)阿閇皇女」などとよく比較し得るものと思われます(読みがなのひらがな・カタカナの違いは『日本書紀』を古典文学大系から、『続日本紀』を新訂増補国史大系から引用していることによります。他意はありません)。
『万葉集』巻3の415は聖徳太子の歌で、「廐戸」と言わず「聖徳太子」と言ったのは題詞に「上宮聖徳皇子出遊竹原井之時、見竜田山死人悲傷御作歌一首」とあるからなのですが、歌の内容自体も「家にあれば妹が手まかむ草枕旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ」(題詞・142の歌も含め中西進さんの『万葉集(一)』講談社文庫 1978によりました)というもので、『日本書紀』推古21年12月のいわゆる「片岡山の飢人」などと呼ばれるエピソードに見える歌(歌謡104)「しなてる 片岡山に 飯に飢て 臥せる その旅人あはれ 親無しに 汝生りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て
臥せる その旅人あはれ」と『万葉集』巻2の142、有間皇子の「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」などから作られたような印象が強く、作者はまさに実在の「廐戸」でなく伝説上の「聖徳太子」こそふさわしく思えます(実際に当時類歌が盛行していたのかもしれませんが)。ともかく、その415の歌の題詞の分注に「小墾田宮御宇天皇代。小墾田宮御宇者豊御食炊屋姫天皇也。諱額田、謚推古」と見えるようです。こちらははっきり「諱」(いみな)だと言っているのですが、その諱は「額田部」ではなく「額田」でした。この裏に何らかの重要な事実が眠っているのか、あるいは奈良時代後期の「諱」観を示しているものなのかどうかもわかりません。
たとえば、山田英雄さんは「古代天皇の諡について」(横田健一さん編『日本書紀研究 第七冊』塙書房 1973
所収)の中の注(『続日本紀』など「奈良時代の公式の記事で諡と称するのは所謂国風諡号のみである」ことに対し付せられた注)において「『万葉集』には推古、天智、天武について諡曰とあるが、何時このような記事が付せられたかは明らかでない」とされています。
『万葉集』の左注については、青木和夫さんの「藤原鎌足と大化改新」と題する講演(青木和夫さん・田辺昭三さん編の『藤原鎌足とその時代』吉川弘文館 1997 所収、1995年3月26日の講演の起こし)の中にも「いや『万葉集』の中に「日本紀」と書かれたところがあるよといわれる方もあると思いますが、それは本文でなく、いわゆる左注の部分です。左注の記入は最終的には平安初期まで下るので、そういうときには「日本紀」と書かれる」とされているのを見つけました(これは『日本書紀』の本来の題名が『日本書紀』か『日本紀』かという話に出てくるもので、青木さんは奈良時代のものはみな『日本書紀』になっているとしておられます)。こういった可能性は題詞の分注などについても考えられるのかもしれません。
成立自体は『万葉集』より新しく平安初期と思われる『日本霊異記』でも、推古は「小墾田宮御宇天皇」「小治田宮御宇天皇」といった表記ばかりで、「敏達天皇」「用明天皇」「孝徳天皇」などは見えるのに対し「推古天皇」とは見えないようなのですが、『万葉集』415の題詞の分注に関しても、考えようによっては「謚推古」のみならず「諱額田」についてもまた『万葉集』が一定の完成を見た時点で既に存在していた所伝かどうかは疑わしくて、ずっと後世のものかもしれないわけです。
仮に『万葉集』の415の歌の題詞の分注が当初からのものだったとしても、この「諱額田」をもって「『日本書紀』とは別に推古の実名を『額田』だとする伝があった」と見ることも難しいでしょう。いちいち列挙しませんが、『万葉集』のとくに巻1・2などの左注には「日本紀曰」などとあるものが多く、編者の手もとに『日本書紀』があったのか、とにかく編者はすぐに『古事記』や『日本書紀』を閲覧できるような立場だったようです。『万葉集』全巻の編者を同一人に帰することができるのかどうか疑問があるのかもしれませんが、この「諱額田」も誰が記したのかはわかりませんが、異伝に依拠したというよりは『日本書紀』推古即位前紀の「幼曰額田部皇女」を勝手に解釈して「諱額田」としてしまった可能性のほうが高いようにも思われます。よく確認していませんが、「小墾田」という表記はどうも『日本書紀』独特に近く、『日本書紀』の始めたもののような印象があります。『万葉集』巻3の415の題詞分注のほか『肥前国風土記』三根郡物部郷に「小墾田宮御宇豊御食炊屋姫天皇」、また『日本霊異記』には3度ほど見えているらしい(対し「小治田」表記は1度のようです)ものの、『古事記』はじめ金石文(法隆寺金堂薬師像銘)・墨書土器等には「小治田」表記が多いようです。
ちなみに『日本書紀』撰上は養老4年(≒720年)。『続日本紀』養老4年5月癸酉(21日)に「先是。一品舎人親王奉勅修日本紀。至是功成奏上。紀卅巻系図一巻」と見えていますが、その2年後の養老6年閏4月乙丑(25日)の太政官奏の中に「(前略)望請。勧農積穀。以備水旱。仍委所司差発人夫。開墾膏腴之地良田一百万町(後略)」などとあり、翌養老7年4月辛亥(17日)の太政官奏には「(前略)望請。勧課天下。開闢田疇。其有新造溝池。営開墾者。不限多少。給伝三世。若逐旧溝池。給其一身」とあります。さらにそれから20年後の天平15年5月乙丑(27日)の詔には「如聞。墾田依養老七年格。限満之後。依例収授。由是。農夫怠倦。開地復荒。自今以後。任為私財無論三世一身。咸悉永年莫取」と見えており、このころ一種の開墾ブーム、あるいは「官」「公」側で開墾ブームに誘導したかったかのように見えます。ちなみに養老6年はほぼ722年、養老7年はほぼ723年、天平15年はほぼ743年です。

ともかく『日本書紀』では「額田部皇女」の表記は推古即位前紀に見られるだけのようで、しかもその扱いは「幼曰額田部皇女」というものでした。「若いご時分には額田部皇女とおっしゃいました」……それは幼名に相当するものと見なし得るではないか、と言われればそうかもしれません。
しかし即位前紀を子細に見ていくと、さらにおかしな点が出てまいります。
門脇禎二さんは『「大化改新」論』の中でこの推古即位前紀に触れて、以下のように記しておられます。まず岸俊男さんが「光明立后の史的意義」(『日本古代政治史研究』
塙書房 1966 所収)で「大后」という存在について規定された説を要約して掲げられたうえで、「(前略)この所説をそのまま継承するならば、書紀が「天皇」とする推古女帝は、まだ「大后」の地位にあったのではないか。つまり額田部皇女(炊屋姫)が前「大后」でなく「天皇」位に即いていたとみるか、前「大后」の地位のままであったかのわかれめは、推古紀の即位記事を信用するか否かである。その記事は「嗣位既空。群臣請渟中倉太珠敷天皇之皇后額田部皇女、以将令践祚。皇后辞譲之。百寮上表勧進。至于三乃従之、因以奉天皇之璽印」とあるが、当時に「嗣位」の制や考え方が形成されていなかったことは既述のとおりであり、「践祚」や「百寮」や「璽印」の用語も新しいし、この記事自体について「勧進に対して三たび辞退するのは中国の慣習で、書紀編者の作文であろう」とされるのに、わたくしもまた賛成であり、右の記事を容易に信じがたい」(なお引用中、「勧進に対して……作文であろう」部分には古典文学大系『日本書紀』下の註釈からの引用の旨注を付しておられます。また「嗣位既空……因以奉天皇之璽印」部分の引用には返り点がありますが、省略せざるを得ませんでした)。
僭越でまことに恐縮ながら、結論的なことから先に申しますと、門脇さんの『「大化改新」論』の全般に賛同するものでもないのですが、この部分――推古即位前紀を疑っておられる部分と、推古が前「大后」の地位のままだったのではないかと疑っておられる部分――のご見解については一定の賛意を示させていただきたく思うのです。もっとも『「大化改新」論』は著名な書とはいえ既に40年以上前のものであり、門脇さんがその後著された『「大化改新」史論』等も拝読しておりません。そんな立場・分際で『「大化改新」論』について何か申し上げるというのはたいへん失礼な話なのですが、ともかくもこの書にはいろいろな意味で直接間接に示唆を与えていただいているように思います。もっとも「推古即位前紀は疑わしいけれど、だからといって推古の即位まで否定する結論に結び付けたいとは思わない」などと思われた方も多いのかもしれませんが。
何はさておき、私なりにこの推古即位前紀で疑問に思うことについて述べさせていただきたく存じます。
「姿色端麗」……は、疑ってみてもしかたがありません。確かめようがありません。
「年十八歳にして、立ちて渟中倉太玉敷天皇の皇后と為る」……推古36年3月癸丑(7日)条、推古が没した記事の分注に「時年七十五」、享年75歳(数え年)と見えます。推古36年はほぼ628年にあたるようですが、ここから逆算して推古18歳は欽明32年(≒571年)で、「渟中倉太珠敷天皇」敏達が即位する前年です(『日本書紀』は敏達が即位した壬辰年≒572年を敏達元年としています)。そして先にも触れましたように、敏達紀では敏達4年(≒575年)にやっと息長真手王の娘広姫が敏達皇后となっており、その広姫が同年11月に没したのち敏達5年(≒576年)に推古が皇后になったとしています。敏達5年には推古は23歳になるはず。
なお推古立后の敏達5年に推古18歳だったと見れば、推古36年には70歳となって結局享年75歳に合いません。
この「年十八歳」を「敏達との配偶関係が成立した年」などと読みかえるような向きもおありかと存じます。「欽明32年に18歳で敏達との配偶関係が成立し、敏達5年に23歳で立后」とされているものも拝見した記憶があります。まことに僭越で恐縮ながら、欽明の娘である推古が配偶者として存在しながら、それを差し置いて息長真手王の娘の広姫が皇后になるという状況は考えにくく思うのです。固定観念にとらわれた考えなのかもしれませんが。
「『皇后』の前身と目される『大后』の地位はまだなかった。少なくとも敏達6年2月に設置された私部(古典文学大系『日本書紀』で「きさいちべ」。また「きさいべ」などとも)を『大后』のための部と見、また后妃の序列化もそのころ始まったものと見れば、推古より前には『大后』も后妃の序列もなかった。現に『古事記』では敏達の后妃として推古を先頭に記し、その次は伊勢大鹿首之女小熊子郎女で、広姫(「比呂比売命」)は3番目ではないか」などとされるご意見もおありかと存じます。敏達4年の広姫立后については、舒明以後王統が押坂彦人大兄の系統に固定した段階になって作られたことで、事実ではないものと見ることになるでしょうか。
しかしそうなりますと、なぜ『日本書紀』敏達紀では広姫立后を敏達即位直後でなくわざわざ敏達4年のこととしたのか説明を求めたくなります。また『古事記』の后妃の記載順は継体段では「手白髪命〈是大后〉」が「三尾君等祖、名若比売」「尾張連等之祖、凡連之妹、目子郎女」に続く3番目となっていたりしますから、仮に分注の「是大后」を後筆と見たとしても、配偶関係の成立順なのか后妃の序列を反映したものなのか、はたまた両者を加味しようとしてルールを貫徹できなかったようなものなのか、結局は判断できないように思うのです。
敏達と推古の間には『古事記』が8人、『日本書紀』が7人の子のあったことを伝えていますが、仮に推古18歳の欽明32年(≒571年)に敏達との配偶関係が成立していたとすれば、敏達の没した敏達14年8月己亥(15日)まで約14年。8人というのも考えられないわけではない。戦前などには10人以上の兄弟などという例も多く見られました。現に推古の生母の堅塩媛は欽明との間に13人の子をもうけているようですが、これは20年程度の期間をかけてのことなのかもしれません。仮に推古立后について敏達紀の敏達5年(≒576年)説を採り、立后と同時に配偶関係も成立したものと見ると、敏達14年(≒585年)まで9年です。双子などを考えないとすると8人はたしかに苦しい線のようにも思われます。日本思想大系『古事記』の頭注には敏達段の推古所生の「葛城王」(『古事記』にのみ見え『日本書紀』に見えぬ名)について「紀に脱。脱が可か。欽明皇子に同名」などと見えていますが、仮に『日本書紀』の7人を採ってもやはり苦しいのかもしれません。率直に申し上げて不可能なのか可能なのか、こういったことは確かめようがありません。
敏達紀では広姫の所生子を4年正月甲子(9日)の広姫立后の記事に続けて記し、また老女子夫人(春日臣仲君の娘)・菟名子夫人(采女。伊勢大鹿首小熊の娘)の所生子はその記事に続く「是月」条にまとめて記すのに対し、推古の所生子は広姫の没した翌年の5年3月戊子(10日)、推古立后の記事に続ける形で記しています。その次の記事が「六年春二月甲辰朔、詔置日祀部・私部」ですが、たしかにこのような体裁をとられますと、あたかも敏達4年正月現在には推古との配偶関係もなければその間の子も誕生していなかったような印象を受けます。推古即位前紀の解釈から敏達と推古の配偶関係成立を欽明32年とされるお立場から見れば、こういった体裁もたしかに「推古との配偶関係成立自体も敏達5年の立后時のこと」と見させたい、そう演出したいための作為のように映るのかもしれません。
また推古が23歳でやっと敏達の配偶者になったと考えると、たしかに当時の感覚からすれば遅いようにも思われます。『日本書紀』持統称制前紀によれば持統は「天豊財重日足姫天皇三年、適天渟中原瀛真人天皇為妃」、斉明3年(≒657年。斉明3年と見るのは古典文学大系の注によりました)に天武の配偶者となったもののようです。やはり古典文学大系の注によれば持統の誕生は『本朝皇胤紹運録』『一代要記』より大化元年(≒645年)となるようですから、これらを信じれば天武に嫁した際には数え年13歳、満では11歳か12歳だったことになります。もっとも持統の同母の姉である大田皇女も天武の配偶者になっていますから、天武と持統の配偶関係成立は天武と大田皇女の配偶関係とセットで同時に成立したもの、天智による政略結婚のようなものだった可能性も高いでしょう。ですから持統の13歳での「為妃」は例外的かもしれませんが、いずれにせよ推古の23歳での配偶関係成立は遅い印象です。しかし、時代は下りますが聖武と県犬養広刀自の間の娘である井上内親王が28歳の天平16年(≒744年)に弟の安積親王の死去に伴い「斎内親王」、伊勢斎王の任を解かれたようで、この後に白壁王(光仁)と配偶関係となり他戸親王・酒人内親王が誕生しているようです(またこの酒人内親王も斎王を退いたのち桓武と配偶関係となり朝原内親王が誕生し、さらに朝原内親王も斎王を退いたのちに平城と配偶関係となったようです。河内祥輔さんの『古代政治史における天皇制の論理』吉川弘文館 1986、遠山美都男さんの『天平の三姉妹』中公新書 2010 によりました)。
ですから配偶関係が最初に成立する年齢が遅くなる例もないわけではない。ないではないけれども、一般に伊勢斎王の成立は天武と大田皇女の娘の大伯皇女あたりに求められているもののようです。推古の時代についてはどのように扱われているのか恐縮ながら存じません。『日本書紀』欽明2年3月に推古の同母の姉(堅塩媛の長女)の磐隈皇女について「初侍祀於伊勢大神。後坐姧皇子茨城解」と見えていることは先に引かせていただきました。用明即位前紀に用明の娘の酢香手姫皇女(『日本書紀』で「葛城直磐村女広子」の娘、『古事記』では「当麻之倉首比呂之女飯女之子」の娘)が用明−推古の3代にわたり「拝伊勢神宮、奉日神祀」だったとか、「或本云、卅七年間、奉日神祀」だったなどと見えていることも先に引かせていただいております。しかし推古については記紀にそのような記録は見えないようで、そのかわりに、というわけでもないでしょうが、敏達6年2月に「六年春二月甲辰朔、詔置日祀部・私部」と見えていることをつい先ほど引きました。
敏達5年立后と同時に配偶関係成立、それから14年に敏達が没するまでの9年の間に7人か8人の子が誕生したとするのはたしかに苦しい見積もりかもしれません。しかし推古即位前紀では「年十八歳、立為渟中倉太玉敷天皇之皇后」です。推古18歳の欽明32年(≒571年)に没したはずの欽明の享年は、欽明紀32年4月是月条に「是月、天皇遂崩于内寝。時年若干」で、その前の「不予」の記事が「夏四月戊寅朔壬辰」、4月15日ですから、15日以降に没したとわかるだけで日付も不明なら享年もわからないとあります。ところが欽明即位前紀の宣化4年12月甲申(5日)にも「冬十二月庚辰朔甲申、天国排開広庭皇子、即天皇位。時年若干。尊皇后曰皇太后」とあって、「20歳」でもなければ「あえて記さぬ」わけでもない、こちらでも即位時の年齢について「わからない」と言っています。いちど「わからない」と言えばわかるのに同じ欽明紀の中で2度も「わからない」と言っている。実はこれについては、古典文学大系の注によれば即位記事の文は『後漢書』明帝紀の「即皇帝位。年三十。尊皇后曰皇太后」を、死没記事の文は『魏志』の明帝紀の景初3年正月条の「(前略。実は略した部分と4月壬辰条の部分とがよく似ています)即日帝崩于嘉福殿。時年三十六」をそれぞれ範としているもののようですので、モデルとした例文のどちらにもたまたま年齢の記載があったということなのですが、即位の際と没した際とでわざわざ「時年若干」と言っています。わからないことがよほど残念だったのでしょう。それは継体紀の「時年八十二」、安閑紀の「時年七十」、宣化紀の「時年七十三」、そして推古紀の「時年七十五」などと見比べた際にこちらが抱く感想でもあります。
ともかく、欽明の享年さえわからない時期に誰が推古について18歳で配偶関係成立などと記していたというのか。これは、実際の推古の配偶関係成立の時期いかんとは無関係に、推古即位前紀が享年あたりから逆算して割り出すのに失敗したものという可能性のほうが高いように思われるのです。それは次の記述によってさらに補強されるように思います。
「三十四歳にして、渟中倉太珠敷天皇崩りましぬ」……推古36年3月癸丑条より逆算すれば敏達の没した敏達14年(≒585年)に推古は32歳のはず。推古34歳は用明2年、用明の没した年です。これも敏達14年に推古34歳だったとみれば、推古36年には77歳となってやはり享年75歳に合いません。
「三十九歳にして、泊瀬部天皇の五年の十一月に当りて、天皇、大臣馬子宿禰の為に殺せられたまひぬ」……即位前紀の年齢の記載のうち、これのみが推古36年3月癸丑条の推古の享年「時年七十五」と合致します。
なお推古即位前紀の記述を信頼し、推古36年3月癸丑条の享年「時年七十五」のほうを信頼しないという考え方もあるかと存じます。
たしかに分注形式で「時年七十五」と記すのは珍しい例のようで、継体紀の「時年八十二」、安閑紀の「時年七十」、宣化紀の「時年七十三」などは分注でなく本文の形です。
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