1. はじめに − 1
ご面倒かとは存じますが、以下、推古天皇はじめ日本古代のいわゆる「女帝」などとされている存在について、思うところを述べてみました。よろしくお付き合い願えれば幸いです。
推古天皇(554−628)は、申し上げるまでもありませんが飛鳥時代の天皇(というか「大王」)であって、『古事記』『日本書紀』によれば最初の女帝、女性の天皇(大王)とされています。古代――6世紀末から8世紀後半にかけて推古・皇極(斉明)・持統・元明・元正・孝謙(称徳)と8代6人の女帝が立ちましたが、その最初の女帝です。

同じころ朝鮮半島の新羅でも7世紀前半に善徳王・真徳王の2代の女王が続き、中国の唐では7世紀末に高宗の皇后の武氏(武則天、則天武后。在位690−705)が即位して周を開き中国史上唯一の女帝となりました。新羅の善徳王(在位632−647)・真徳王(在位647−654)の2代はほぼ舒明・皇極・孝徳朝に当たっており、また武則天の治世はほぼ持統・文武朝に相当します。新羅では少しおくれて9世紀末にも女王である真聖王(在位887−897)が立っていますが、7・8世紀は東アジアで女性の君主が相次いだ特異な時代です。推古天皇、推古大王はその最初の女性君主でした。
もっといえば『古事記』の最後に記された天皇は推古天皇……推古大王であり、また逆に「飛鳥時代」という時代区分についても、欽明朝ごろにその開始を求められるご意見と並んで推古朝ごろから始まるものとされるご見解も多いようにうかがっております。その治世の、ことに前半においては聖徳太子こと廐戸皇子がいわゆる「摂政」の地位にあって冠位十二階・憲法十七条・遣隋使などの施策を行ったとされてきました。
そしてまた、いままでたったこれだけの文を書いてきた中にも多くの問題が含まれているらしいです(私が無知ゆえにウソ・虚偽を書いているという問題はまた別ですので、お気づきの点があればご教示願えましたら幸いです)。
最初にも少し触れましたが、近年では天皇号は推古朝にはまだ存在しなかったとする見方が通説的位置を占めているようです。かつては法隆寺金堂の薬師如来坐像の光背銘や中宮寺の天寿国繍帳の銘文に「天皇」の語が見えることから推古朝ごろから始まったものと見られていたようですが、現在ではこれら資料の年代が推古朝よりかなり下るものと見なされて、天皇号は天武・持統朝ごろに定まったとする見解が主流のようです(といっても部外者・門外漢で素人の私は一般向けの平易な概説書をごくわずか拝見しただけですので、その見解の根拠となった論文・文献が何なのかといった知識もありません)。ではそれ以前は何といっていたか。「大王」、あるいは「大王」と表記してオオキミとよんだ、などとされているものが多いように思われます。しかしこれも必ずしも確定的というわけではなさそうです。しかも前記、法隆寺金堂の薬師像銘では推古を指して「大王天皇」「小治田大宮治天下大王天皇」と表記しています。で、以前からその成立年代自体が疑われているもののようです。
もとより「推古」天皇という称もその時代にはありませんでした。「推古天皇」という呼び方は「漢風諡号」(かんぷうしごう)などと呼ばれているものらしくて、大半は8世紀後半ごろに作られたものと見られているようです。推古朝はおろか『古事記』(712年撰上)・『日本書紀』(720年撰上)の完成当初のものにもなかったはず。本来の『古事記』『日本書紀』では「トヨミケカシキヤヒメ」(『古事記』が「豊御食炊屋比売(命)」、『日本書紀』が「豊御食炊屋姫(天皇)」)という称のみだったようです。こちらの称は一般的・通説的には「和風諡号」(わふうしごう)とか「国風諡号」などと呼ばれているようです。「諡」――おくりな(贈り名)――、その人の没後に奉献される名です。もっとも「トヨミケカシキヤヒメ」など『古事記』や『日本書紀』に見えるこのころの歴代天皇の称が「諡号」「おくりな」なのかどうかも説が分かれていて問題があるようで、記紀に見えるこういった長い称についてこれを生前の、たとえば即位したのちにたてまつられた「尊号」――尊崇して呼んだ呼称・称号――とされるご見解もあるようです。
「トヨミケカシキヤヒメ」といった呼称を生前の尊号と見るべきか、崩後、没後の諡号と呼ぶべきかは大きな問題だと思われますが、私ごときには判断いたしかねます。以下ではとりあえず「トヨミケカシキヤヒメ」などの称は基本的に単に「称」などと呼んで進めたいと思っております。
推古の「トヨミケカシキヤヒメ」という称も、いつごろ作られたのかさえよくわかっていないようです。では生前の名は何だったのか。
額田部(ぬかたべ)皇女……推古の「名」、あるいは「幼名」として「額田部」を挙げておられるものが多いようにお見受けいたします。
廐戸皇子の、偉人「聖徳太子」としてのかつての像が現在そのまま認められていないことも申すまでもありません。憲法十七条については既に戦前に津田左右吉さんから、いや早く幕末に狩谷棭斎から疑義が呈されていた(古典文学大系『日本書紀』の憲法十七条についての補注によりました)ようですし、天皇号の開始が天武・持統朝となると、廐戸について記した法隆寺薬師像銘や天寿国繍帳銘も「天皇」号を含んでいるなどのことによって時代を下げられてしまいます。また『隋書』倭国伝(俀国伝)に見える開皇20年(≒600年)の遣隋使が『日本書紀』に見えないことをはじめ、『隋書』の伝える倭国の状況に『日本書紀』と合致しない点が多いことも既にご存じの事実と思われます。
その他、女帝の前史としての卑弥呼・壱与や飯豊皇女・春日山田皇女といった女性の存在、そもそも「女帝」という表現についての問題なども書き始めればきりがないのでしょうが、ここでは本題に戻り推古のプロフィルについてもう少し見てみます。
推古天皇の父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘の堅塩媛(きたしひめ)です。ついでに申せば欽明天皇の父である継体天皇は、おそらく応神・仁徳あたりから続いてきたと伝わる王統の男系が武烈天皇で絶えたために、『日本書紀』継体紀の所伝では「三国」(現在の福井県三国町付近らしいです)、『古事記』武烈段の所伝では「近淡江国」(ちかつあふみのくに、現在の滋賀県)から迎えられて即位したことになっています。そして仁賢天皇の娘で武烈天皇の姉とされる手白香皇女(『日本書紀』。『古事記』では「手白髪命」)と配偶関係を結び誕生したとされるのが欽明ですから、推古から見て継体は祖父に当たります。もっとも推古は祖父の継体を目にすることはおそらくなかったでしょう。『日本書紀』の記述を信頼すれば、推古36年(≒628年)に数え年75歳で没したとされる推古の誕生したのが欽明15年(≒554年)となるのですが、その23年前、継体25年(≒531年)に82歳で継体が没したことになっています。
『日本書紀』継体即位前紀では継体は「誉田天皇五世孫」、応神天皇の5世の子孫とされながら、その応神から継体に至る具体的な系譜は『日本書紀』には記されていません。また記紀や『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』の伝える継体没から安閑・宣化・欽明にかけての時代の紀年には混乱があって、そこから安閑・宣化と欽明の両朝並立・内乱的状況を推測されるご見解もあることなどはよく知られています。
ともかく、推古は異母兄弟である敏達の皇后となり、間に7人か8人の子(『日本書紀』で2男5女、『古事記』で男女合わせて8人。『日本書紀』は『古事記』が4番目の子とする葛城王を記載しない)が誕生しました。敏達没後用明・崇峻の2代を経てのちの崇峻5年12月、確認される日本歴史上初の女性の天皇として即位しました(崇峻5年は西暦、当時のユリウス暦のほぼ592年に当たるそうですが、崇峻5年12月8日はユリウス暦では593年に入っていたようです。〓実は「when」というソフトで見させていただいております。添付の文書に記載された文献等何も拝読しておらず挙げますのは恐縮なのですが)。なお『日本霊異記』上巻第5には「皇后癸丑年春正月即位、小墾田宮卅六年御宇矣」などとあるようで、崇峻5年12月中の即位でなく年が明けた推古元年正月の即位とする伝えもあったようです。「聖徳太子」こと廐戸皇子の父である用明天皇は同母兄(用明は堅塩媛の長男)、用明の皇后で廐戸の母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は、その生母がやはり蘇我稲目の娘で堅塩媛の同母妹とされる小姉君ですから、推古にとっては異母の姉妹であり、崇峻は穴穂部間人皇女の同母弟ですから推古から見れば異母の兄弟になります。廐戸は推古の甥になるわけです(同母兄の子という意味でも、異母妹の子という意味でも)。
具体的にいえば、欽明は複数の配偶者との間に多くの子をもうけていますが、宣化(欽明の異母兄)の娘の石姫という女性が皇后だったようで、その間に敏達が誕生しています。また欽明は蘇我馬子の父の蘇我稲目の2人の娘、堅塩媛と小姉君(をあねのきみ)の姉妹も配偶者にしています。堅塩媛と小姉君は蘇我馬子の姉妹ということになります。欽明と堅塩媛との間には用明や推古を含め7男6女が誕生し、欽明と小姉君との間には穴穂部間人皇女や崇峻を含め4男1女が誕生しているようです。推古から見て蘇我馬子は母方の「おじ」(しいて漢字表記すればおそらく「叔父」、堅塩媛の弟だったろうと思います)になるわけですが、『日本書紀』によれば推古36年(≒628年)に推古が数え年75歳で没する2年前の推古34年(≒626年)、推古73歳の年に馬子が没しているようなので、これを信じれば推古と馬子の年齢差を20歳程度以上に見積もることは難しく思えます(馬子の享年が93歳程度となってしまう)。せいぜい10歳程度ないしそれ以内ではなかったでしょうか。古典文学大系『日本書紀』では馬子の没した記事に注して「扶桑略記に七十六歳とある」と記されています。『扶桑略記』の信頼性は疑問かもしれませんが、推古より3歳年上というのは案外いい見当なのではないかという気がします。
黛弘道さん・武光誠さん編『聖徳太子事典』(新人物往来社 2007)の中で前川明久さんが「蘇我馬子」の題で記しておられますが、その中で『扶桑略記』の伝える馬子の享年76歳から逆算して馬子の誕生が欽明12年辛未(≒551年)でその前年が庚午、午年であることや、『公卿補任』が馬子の大臣在任を「在官五十五年」としていることなどに触れておられます。『日本書紀』では欽明31年(≒570年)に馬子の父の稲目が没したと見えますから、『公卿補任』の「在官五十五年」は実は馬子の没年から稲目の没年を引いただけ(56年ですが)なのかもしれませんが、20歳ごろに亡父稲目の後を継いで大臣となり在任約55年、没した時点で76歳ぐらいという勘定にはそれほど無理がない。堅塩媛・小姉君姉妹を蘇我馬子の妹とされるものも拝見しますが、堅塩媛から見て馬子はどうやら年の離れた弟だったようです。異母の兄弟姉妹間でなら年齢が30歳程度離れているケースも十分に考えられます。「その間に馬子以外に男子は誕生しなかったのか」といった疑問も残りますが、推古の叔父である馬子は推古が享年75歳で没する2年前に没しているわけですから、その誕生を上げれば90歳などという当時としては異例の長寿となってしまいますし、下げれば推古の生母である姉の堅塩媛との年齢差がますます開いてしまいます。結局は550年ごろの誕生といったあたりに落ち着きそうです。
なお古い時代の日本人の年齢は一般に数え年で記します。0歳というものがありませんから生まれた瞬間からその年の年末までが1歳、年が明ければ2歳となります。誕生日ではなく新年を迎えるごとに1歳加算されるわけです。『日本書紀』では天武の娘の大伯(大来)皇女(おほくのひめみこ)の斉明7年(≒661年)1月8日生まれなどを除き、誕生日まで判明する人はほとんどいないのではないでしょうか。誕生した年さえ不明な人がほとんどでしょう。
『古事記』で推古はその記述の最後を飾る存在です。『古事記』に登場する人物としては、序文の天武や元明は除くとしても、敏達段に登場する舒明や、その弟か妹(「中津王」「多良王」の表記では性別がわかりません)といった人々が年代的には新しいのですが、ともかく『古事記』は推古の記述で終わっています。
妹、豊御食炊屋比売命、坐小治田宮、治天下卅七歳。〈戊子年三月十五日癸丑日崩。〉御陵在大野崗上、後遷科長大陵也。
妹(いロも)、豊御食炊屋比売命(トヨみケかしきやひめノみコト)、小治田宮(をはりだノみや)に坐(いま)して、天下(あメノした)治(しらしめ)すコト卅七歳(みそトせあまりななトせ)なり。〈戊子(つちノ江ね)ノ年(トし)ノ三月(やよひ)ノ十五日(トをかあまりいつか)癸丑(みづノトノうし)ノ日(ひ)に崩(かむあが)りましき。〉御陵(みさざき)は大野(おほの)ノ崗(をか)ノ上(へ乙)に在(あ)りしを、後(ノち)に科長(しなが)ノ大陵(おほみさざき)に遷(うつ)しまつりき。
(日本思想大系『古事記』より、推古段。〈 〉内は分注。返り点等は省略。読みがなはやむを得ず体裁を改変し、また省略した箇所があります。仮名のひらがなは甲類、カタカナは乙類、「へ乙」は乙類のヘ、「江」はヤ行のエ。原文では特殊な記号が用いられています。なお原文縦書き、以下同)
これが『古事記』推古段全文です。岩波文庫の『古事記』などとは異なる点もあるようですが、日本思想大系のほうから引かせていただきました。当然読みも多少違っており、また真福寺本『古事記』を底本としている日本思想大系本では段冒頭で「−王」と表記されている「伊耶本和気王」(履中)・「男浅津間若子宿禰王」(允恭)・「意祁王」(仁賢)・「広国押建金日王」(安閑)・「橘豊日王」(用明)などについて、岩波文庫版ではみな「−命」になっている等の違いがあります。もっとも日本思想大系から引用してみても、上代特殊仮名遣いの甲乙の別を解説した凡例や、その体裁とも一緒に引用しなければ本当は意味がありません(昔は甲類・乙類という区別があったようです)。ですから上記引用はあまりよくないので、以下では基本的に原文、読み下しでないほうを使わせていただきたく思います。
ともかく、『古事記』推古段はこれで全部。冠位十二階も憲法十七条も遣隋使も出てきません。廐戸はその前の用明段に「間人穴太部王」所生の長男として「上宮之廐戸豊聡耳命」という名だけ登場しています。事績の記載はありません。『古事記』推古段が「妹」で始まっているのは、前段が推古の異母兄弟の崇峻の段なので、それを受けて推古が崇峻の異母妹だということを示しているのかもしれません(あるいは敏達の「妹」の意味なのかもしれません)が、実際に推古が崇峻より年下だったかどうかはわかりません。そしてこの記述をもって『古事記』は終わっています。
『日本書紀』では第22巻1冊がまるごと推古紀ですので分量ははるかに多く、冠位十二階・憲法十七条・遣隋使などもこちらに出てきます。巻冒頭の、即位に至るまでを示した即位前紀を引用させていただきます。
豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)は、天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにはのすめらみこと)の中女(なかつみこ)なり。橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)の同母妹(いろも)なり。幼(わか)くましますときに額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と曰(まう)す。姿色端麗しく(みかほきらぎらしく)、進止軌制し(みふるまひをさをさし)。年十八歳にして、立ちて渟中倉太玉敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)の皇后(きさき)と為(な)る。三十四歳にして、渟中倉太珠敷天皇崩(かむあが)りましぬ。三十九歳にして、泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)の五年の十一月(しもつき)に当りて、天皇、大臣(おほおみ)馬子宿禰(うまこのすくね)の為に殺(し)せられたまひぬ。嗣位(みつぎのくらゐ)既に空(むな)し。群臣(まへつきみたち)、渟中倉太珠敷天皇の皇后額田部皇女に請(まう)して、令践祚らむ(あまつひつぎしらせまつらむ)とす。皇后辞譲(いな)びたまふ。百寮(つかさつかさ)、表(まうしぶみ)を上(たてまつ)りて勧進(すすめまつ)る。三(みたび)に至りて乃(すなは)ち従ひたまふ。因(よ)りて天皇の璽印(みしるし)を奉(たてまつ)る。
冬十二月(しはす)の壬申(みづのえさる)の朔(ついたち)己卯(つちのとのうのひ)に、皇后、豊浦宮(とゆらのみや)に即天皇位す(あまつひつぎしろしめす)。
(日本古典文学大系『日本書紀』より、推古即位前紀。読みがなはやむを得ず体裁を改変し、また省略した箇所があります)
引用が長くなりまして恐縮です。
「豊御食炊屋姫天皇は欽明天皇の「中女」である。用明天皇の同母の妹である。若い時分は額田部皇女とおっしゃった。容姿端麗で、立ち居振る舞いも落ち着いていらっしゃった。18歳で敏達天皇の皇后となった。34歳のときに敏達天皇が没した。39歳のとき、崇峻5年の11月に崇峻天皇が大臣蘇我馬子のために殺された。「嗣位」がいなかった。群臣は敏達天皇の皇后額田部皇女に即位(践祚)を要請したが、皇后は辞退なさった。百寮(つかさつかさ)は上表文をたてまつって勧め申し上げた。それが3度に及んでようやくそれに従われた。よって天皇の璽印(みしるし)をたてまつった。冬12月8日に皇后は豊浦宮で即位なさった」――といったようなことでいいのでしょうか。
いろいろと問題があります。
「中女」……「中」に「2番目の」といった意味があったようです。宇治谷孟さんの『日本書紀(下)全現代語訳』(講談社学術文庫 1988)では「第二女」と訳しておられます。
「嗣位」……これは「天皇」を言うのでしょうか、「皇太子」的な存在を言うのでしょうか。門脇禎二さんは『「大化改新」論』(徳間書店 1969)の中で、舒明即位前紀の「嗣位」について「「嗣位」はがんらい嗣位=皇太子ではない」とされ、後代の皇太子や「日嗣」について検討されたうえで、最終的には推古即位前紀や舒明即位前紀の「嗣位」について否定的に見ておられます。
「百寮」……漢籍から取った語なのでしょうが、この時代に役所とか役人などと言っていいのかどうかよくわかりません。
「璽印」……古典文学大系の注には「継体元年二月四日条に「天子鏡剣璽符」、持統四年正月朔条に「神璽剣鏡」、神祇令に「神璽之鏡剣」とあり、実体は鏡と剣であろう」とあります。
この即位前紀に先ほども触れました推古の「名」として挙げられている「額田部皇女」の称が出てまいります。
額田部――という名で思い浮かびますのは、万葉歌人額田王(ぬかたのおほきみ)にも似ていますが、島根県松江市の岡田山一号墳から出土したという大刀(銀錯銘銀装円頭大刀、というのだそうです。ウェブ、Weblio辞書の国指定文化財等データベースのページで拝見しました)に銀で象嵌されていた銘の「各田卩臣」(=額田部臣)という文字です。大刀自体は大正時代に発見されていたようですが、1984年の調査でこの銘が発見されたとのことです。
もっとも私が大刀銘について知りましたのは門脇禎二さんの『古代出雲』(講談社学術文庫 2003、ただしオリジナルは同じ門脇さんの『検証
古代の出雲』学習研究社 1987)、吉村武彦さんの『日本の歴史1 日本社会の誕生』(岩波ジュニア新書 1999)、熊谷公男さんの『日本の歴史03 大王から天皇へ』(講談社 2001)の3冊のみからなのですが、それぞれに掲載されている写真で拝見しますと、刀身は途中で折れて柄(つか)の側だけが残っており、エックス線写真によるとその残り部分に十数文字程度が象嵌されているようなのですが、「各田卩臣」以外ははっきり解読できる状態ではないようです。古墳の築造年代が6世紀後半で、この大刀の年代もほぼ同時期のものとみられるようですが、この額田部臣というのはおそらく額田部という「名代」(なしろ)の部――こういう方面にはさっぱりなのですが、おそらく「(王族の名または王宮の名)+部」を称する集団で、舎人(トネリ、王族の護衛や雑務など)・膳夫(カシハデ、食膳の調理)・靫負(ユゲヒ、宮門の警備)などのトモを出し、またそのトモの生活の原資を負担するという形で皇室というか大王家、または王族、王宮などに奉仕した集団とでもいうのか、そういう「名代」の部――を管理していた氏族ということのようです(このへん、「名代」「氏姓制度」「部民制」などは全体に難しくてわかりません。不適切な表現になっているのではないかと心配です。「氏姓制度」「部民制」といった語を書くのも怖いくらいですが、これ以降の氏姓制度や部民制といった記述も含めてもしご指摘・ご教示願えましたら幸いです)。
この岡田山一号墳の大刀銘は氏姓制度、あるいは部民制が6世紀後半すでに成立していたことを示す証拠としてよく引かれるものらしいのですが、吉村さんは前掲書で氏・カバネについて「五世紀末から六世紀前半までに成立した可能性が強い」としておられますし、熊谷さんも前掲書で部民制の成立について「○○部皇子」の例が欽明の子の世代から現れることを理由に「おそらく六世紀前半代にさまざまな部が各地に設定されていったのであろう」としておられます。
門脇さんはこの大刀に見える額田部臣について「額田部皇女」推古に結び付ける見方を示しておられます。具体的には、この額田部臣は出雲における額田部皇女の名代の額田部の統率者であろうとされるご見解のようです。もし大刀の「六世紀後半から七世紀はじめ」(門脇さんが前掲書で採られている年代です)という年代が正しければ、まさに推古の生きた時代にぴったり重なるように思われるのですが、門脇さん以外でこの銘文の「額田部臣」と推古、額田部皇女との関連を強調されるものをあまり拝見しないように思います。もっともこの3冊しか見ていないのですから当然かもしれません。吉村武彦さんは『聖徳太子』(岩波新書
2002)の中で推古と額田部氏の関連に触れて「推古の実名は額田部王女。この名前は、額田部氏に養育されたか、名代の額田部を伝領していた事実に基づくか、そのどちらかにちなむ」としておられます。なお吉村さんはまず奈良盆地にある「額田郷」、またそこに所在する額田寺(額安寺)と関係の深い「額田部連氏」の名を挙げられて、推古はこの額田部氏と関係が深いものという形で考えておられます。奈良県大和郡山市の南端、大和川と佐保川の合流するあたり、額安寺の周辺に現在も額田部の地名が残っているようです。
『日本古代史大辞典』(大和書房 2006)で荊木美行さんの執筆された「額田部」の項を拝見しますと、「中央の伴造は大和国平群郡額田郷を本拠とする額田部連氏」「地方では額田部臣氏・額田部造氏・額田部君氏がつかさどった」といった記述が見えます。『日本書紀』推古16年8月癸卯(3日)の隋使裴世清を迎える記事、そして推古18年10月丙申(8日)の新羅・任那使(実際はどちらも新羅の人)を迎える記事の両方に額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじひらぶ)という人が見えており、この人は『隋書』倭国伝に見える大礼の「哥多毗(偏「田」に旁「比」の〔田比〕、「毘」の異体字)」と同一人らしいのですが、もしこの額田部連比羅夫なる人がその当時の額田部連氏の長・トップだったとすれば、幼少の推古に授乳等の世話をしたりする女性をあてがった人、もしくは推古の宮に仕えるトネリなどの差配をしたり、推古の宮の経済の切り回し・運営にまで携わった人であるかもしれない推古誕生時の額田部連氏の長の、さらにその近親者――息子か甥か弟か孫か、本人ということも考えられますが、推古16年当時に推古が55歳なので、世代としては子か孫の代の可能性が高いと思います――ではなかったろうかなどとつい想像したくなります。
欽明22年の記事の月日を明記しない「是歳」条に、新羅・百済などの外交使節の迎接に当たった掌客(をさむるつかさ)なる役職で葛城直とともに額田部連(名の記載はない)が見えていますので、額田部連氏は額田部を統率する伴造であると同時に伝統的に外交使節の迎接も担当していたといったことになるのでしょうか。欽明22年には推古は数え年8歳のようなので、推古幼少のころにはこの「額田部連」が長(ないしその同世代)であって、比羅夫はその子か孫の世代に当たるといった関係なのかもしれません。このあたりも詳しく研究されたものがあるのかもしれませんが、無学にして存じません。
額田部皇女=推古とほぼ同時代ごろとみられる大刀に「各田卩臣」と書かれた銘が見つかる。また中国の『隋書』にも「額田部」の音を表したらしい「哥多毗」の人名が出てくる。ちょうど『宋書』倭国伝に倭王「武」として見える雄略が埼玉・稲荷山古墳の鉄剣銘と熊本・江田船山古墳の大刀銘とに「獲加多支鹵大王」と出てくるのにも似て何か運命的なものを感じるのですけれど、どういうわけか「額田部」に関してそういう観点から記述されたものを私はほとんど拝見しておりません(もちろん私が無学でバカだからなのですが)。また『隋書』はその当時の倭王について「姓阿毎、字多利思北孤、号阿輩雞弥」――姓はアメ、字(あざな)はタリシヒコ、「阿輩雞弥」と号す――、「王妻号雞弥、後宮有女六七百人」――王の妻は「雞弥」と号し、後宮には女性が600−700人いる――などと、男性であるかのように記述しています。
『日本書紀』も疑わしいし『隋書』も疑わしいのですが、とりあえずこれから私が疑ってみようと思いますのは推古即位前紀に記された「額田部皇女」という「名」、あるいは推古即位前紀そのもの……です。
先に『日本書紀』から推古即位前紀を引用させていただきました。ご存じかもしれませんが、推古は『日本書紀』では第22巻の推古紀に初めて登場するわけではありません。『古事記』でも推古段以前、欽明段に蘇我稲目の娘の堅塩媛所生の子として登場し、敏達段では敏達の配偶者として所生の8人の子の名とともに見えています(先にも申しましたが、『日本書紀』では2男5女で7人。『古事記』に見える葛城王の記載がありません)。そしてその表記は欽明段の2カ所が「豊御気炊屋比売(命)」、敏達段・推古段ともに「豊御食炊屋比売(命)」のようです。
『日本書紀』でも『古事記』同様、欽明2年3月の記事に堅塩媛所生の子として登場しています。なおここはあくまで欽明が堅塩媛などを妃とした記事であって、おそらくこの時点以後に堅塩媛が産んだのであろう子を欽明2年3月条でまとめて列挙しているわけで、この時点で推古が誕生しているわけではありません。推古が欽明15年(≒554年)に誕生したことは、推古紀末尾の36年3月癸丑(7日)条、推古が没した記事の分注に見える「時年七十五」、享年75歳(数え年)から逆算して割り出すことができます。もちろんこの記事を信頼すればの話ですが。
以後推古は敏達・用明・崇峻の各紀に見えており、推古紀に登場するのは当然として、舒明即位前紀にも見えています。そこでまた長くなりますが、『古事記』欽明段と『日本書紀』欽明紀の、后妃とその所生子の名を列挙した箇所を引用させていただきたいと思います。なお『日本書紀』では石姫立后の記事と、堅塩媛など5妃を立てた記事とが1年以上離れているのですが、『古事記』との比較を考え両方引用しました。今度はほとんど名ばかりですので書き下し文でなく原文で引用しますが、返り点・送りがな・読みがなは表示できませんので省略いたしました。
弟、天国押波流岐広庭天皇、坐師木嶋大宮、治天下也。天皇、娶檜坰天皇之御子、石比売命、生御子、八田王。次、沼名倉太玉敷命。次、笠縫王。〈三柱。〉又、娶其弟小石比売命、生御子、上王。〈一柱。〉又、娶春日之日爪臣之女、糠子郎女、生御子、春日山田郎女。次、麻呂古王。次、宗賀之倉王。〈三柱。〉又、娶宗賀之稲目宿禰大臣之女、岐多斯比売、生御子、橘之豊日命。次、妹石坰王。次、足取王。次、豊御気炊屋比売命。次、亦、麻呂古王。次、大宅王。次、伊美賀古王。次、山代王。次、妹大伴王。次、桜井之玄王。次、麻怒王。次、橘本之若子王。次、泥杼王。〈十三柱。〉又、娶岐多志毗(偏「田」旁「比」の〔田比〕、「毘」の異体字)売命之姨、小兄比売、生御子、馬木王。次、葛城王。次、間人穴太部王。次、三枝部穴太部王、亦名須売伊呂杼。次、長谷部若雀命。〈五柱。〉凡、此天皇之御子等、并廿五王。此之中、沼名倉太玉敷命者、治天下。次、橘之豊日命、治天下。次、豊御気炊屋比売命、治天下。次、長谷部之若雀命、治天下也。并四王、治天下也。
(日本思想大系『古事記』より、欽明段。〈 〉内は分注。返り点・送りがな・読みがなは省略)
元年春正月庚戌朔甲子、有司請立皇后。詔曰、立正妃武小広国押盾天皇女石姫為皇后。是生二男一女。長曰箭田珠勝大兄皇子。仲曰訳語田渟中倉太珠敷尊。少曰笠縫皇女。〈更名狭田毛皇女。〉
(古典文学大系『日本書紀』より、欽明元年正月甲子=15日。〈 〉内は分注。返り点・送りがな・読みがなは省略)
二年春三月、納五妃。元妃、皇后弟曰稚綾姫皇女。是生石上皇子。次有皇后弟。曰日影皇女。〈此曰皇后弟。明是檜隈高田天皇女。而列后妃之名、不見母妃姓与皇女名字、不知出何書。後勘者知之。〉是生倉皇子。次蘇我大臣稲目宿禰女曰堅塩媛。〈堅塩、此云岐拕志。〉生七男六女。其一曰大兄皇子。是為橘豊日尊。其二曰磐隈皇女。〈更名夢皇女。〉初侍祀於伊勢大神。後坐姧皇子茨城解。其三曰臘嘴鳥皇子。其四曰豊御食炊屋姫尊。其五曰椀子皇子。其六曰大宅皇女。其七曰石上部皇子。其八曰山背皇子。其九曰大伴皇女。其十曰桜井皇子。其十一曰肩野皇女。其十二曰橘本稚皇子。其十三曰舎人皇女。次堅塩媛同母弟曰小姉君。生四男一女。其一曰茨城皇子。其二曰葛城皇子。其三曰泥部穴穂部皇女。其四曰泥部穴穂部皇子。〈更名天香子皇子。一書云、更名住迹皇子。〉其五曰泊瀬部皇子。〈一書云、其一曰茨城皇子。其二曰泥部穴穂部皇女。其三曰泥部穴穂部皇子。更名住迹皇子。其四曰葛城皇子。其五曰泊瀬部皇子。一書云、其一曰茨城皇子。其二曰住迹皇子。其三曰泥部穴穂部皇女。其四曰泥部穴穂部皇子。更名天香子。其五曰泊瀬部皇子。帝王本紀、多有古字、撰集之人、屢経遷易。後人習読、以意刊改。伝写既多、遂致舛雑。前後失次、兄弟参差。今則考覈古今、帰其真正。一往難識者、且依一撰、而註詳其異。他皆效此。〉次春日日抓臣女曰糠子。生春日山田皇女与橘麻呂皇子。
(古典文学大系『日本書紀』より、欽明2年3月。〈 〉内は分注。返り点・送りがな・読みがなは省略)
長くなりましたが、後ほどまた使うつもりですので長く引用いたしました。
『古事記』で推古が「豊御気炊屋比売命」表記であることは先に触れましたが、『日本書紀』でもこの欽明2年3月条では「豊御食炊屋姫尊」で、いわゆる和風諡号とされている表記のみであることは実質『古事記』とかわらないものと言い得ると思います。
用明について『古事記』では「橘之豊日命」と和風諡号のみであったものが『日本書紀』では「其一曰大兄皇子。是為橘豊日尊」の形に改められています。これに対し推古のほうは「豊御食炊屋姫尊」だけで「額田部皇女」の称はここに見えません。全部をきちんと確認していなくて恐縮なのですが、欽明紀で推古が登場するのはここだけではないかと思われます。
次の敏達紀では敏達5年3月戊子(10日)、推古を皇后に立てる記事に「豊御食炊屋姫尊」として見えており、やはり続けて推古所生の2男5女の名がまとめて記述されています。敏達紀は少し変わっていて、推古立后以前に敏達皇后であった広姫(息長真手王の娘)が皇后とされたのがなぜか敏達4年正月甲子(9日)と敏達の即位(敏達元年4月)からかなり遅れているのですが、その広姫は皇后とされた同じ年の11月に没してしまい、翌敏達5年3月戊子(10日)に推古が皇后に立てられたことが見えます。そして敏達紀でも推古が登場するのはここだけではないかと思われます。敏達の没する直前、敏達14年2月壬寅(15日)には馬子が「塔」(仏塔――といっても単なる柱のようなものだったかもしれません。『元興寺縁起』に見える「刹柱」と同じもののようです)を立てて仏事を盛大に行ったこと、また直後に廃仏の動きがあってその塔も切り倒され焼かれたことなどが見えています。同じ事件を記したものと思われる『元興寺縁起』の記事には推古が「大后大々王」として見えているようで、「桜井道場」について「自分(=推古)の後宮である」と主張して放火を防いだなどといった活躍が描かれているようなのですが、『日本書紀』の記事のほうには推古の名は見えません(なお『元興寺縁起』は日本思想大系『寺社縁起』所収の「元興寺縁起」によりました。『元興寺縁起』の題名表記については、醍醐寺本「諸寺縁起集」では『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』と見えるようですが、『元興寺縁起』の表記でそろえさせていただきます)。
続く用明紀では、まず即位前紀(敏達14年9月戊午=5日)で酢香手姫皇女(すかてひめのみこ。『古事記』では「須賀志呂古郎女」。用明の娘で廐戸の異母の姉妹。生母の名を『日本書紀』用明元年正月壬子条は「葛城直磐村娘広子」としていますが、『古事記』では「当麻之倉首比呂之女飯女之子」としています)を伊勢神宮に派遣し「日神」の祭祀に仕えさせたという記事の分注に「炊屋姫天皇」(かしきやひめのすめらみこと)と見えています。この分注には、酢香手姫皇女が「此の天皇の時より、炊屋姫天皇の世に逮(およ)ぶまでに、日神の祀(まつり)に奉(つかへまつ)る」――用明・崇峻・推古の3代にわたり日神の祭祀に仕えた――とあり、さらに続けて「後に自ら葛城に引退して亡くなった、ある本によれば37年間日神の祭祀に仕え、自ら引退して亡くなった、とある」などと記したのち「炊屋姫天皇の紀(みまき)に見ゆ」、第22巻の推古紀に書いてあると記されているのですが、実は推古紀のほうには酢香手姫皇女のことは出ていません。ともかく酢香手姫皇女の分注に「炊屋姫天皇」の表記で2カ所見えています。
即位前紀に続き元年正月壬子(1日)条では后妃とその所生子が列挙され、穴穂部間人皇女の長男として廐戸皇子(うまやとのみこ)の名が初めて登場します。そこに別名として「豊耳聡聖徳」(とよみみとしやうとく)・「豊聡耳法大王」(とよとみみののりのおほきみ)・「法主王」(のりのうしのおほきみ)の3つが挙がっていますが、『日本書紀』では「聖徳太子」はまだ見えません。はじめ上宮(「かみつみや」「うへのみや」等の読みがあり読み方不明。古典文学大系『日本書紀』では「かみつみや」)にいて後に斑鳩に移ったことを記してから「豊御食炊屋姫天皇の世にして東宮(みこのみや)に位居す(まします)。万機(よろづのまつりごと)を総摂りて(ふさねかはりて)、天皇事(みかどわざ)行たまふ(したまふ)」(「於豊御食炊屋姫天皇世、位居東宮。総摂万機、行天皇事」)との記述があります。「聖徳太子」の「皇太子」「摂政」などとからんで問題の多いところです。続いて「語(こと)は豊御食炊屋姫天皇の紀(みまき)に見ゆ」とあり、実際にこちらは推古紀に詳しく述べられています。なお推古元年4月己卯(10日)条では「夏四月の庚午の朔(ついたち)己卯に、廐戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を立てて皇太子(ひつぎのみこ)とす。仍(よ)りて録摂政らしむ(まつりごとふさねつかさどらしむ)。万機(よろづのまつりごと)を以(も)て悉(ことごとく)に委(ゆだ)ぬ」(「夏四月庚午朔己卯、立廐戸豊聡耳皇子、為皇太子。仍録摂政。以万機悉委焉」)となっており、また「上宮」も「上殿」と表記するなど、同様の記述ながら語句に若干の異同があります。ともあれ、廐戸についての解説では「豊御食炊屋姫天皇」の表記で2カ所見えています。
さらに続く5月条では、敏達の殯宮(もがりのみや)にいた「炊屋姫皇后」(かしきやひめのきさき=推古)のもとに穴穂部皇子(あなほべのみこ)が乱入しようとしたエピソードが見えます。殯(もがり)は一種の葬送儀礼。敏達殯宮の場所は敏達紀末尾に「広瀬」とあって、奈良県広陵町付近と見られているようです(大和川中流域から長瀬川までのほとんどが「広瀬」だったなどとなれば別かもしれませんが)。穴穂部皇子は小姉君の子で穴穂部間人皇女の弟、崇峻の兄。推古の異母兄弟にあたります。
この話も混乱しているのですが、敏達の「寵臣」、お気に入りだったらしい三輪君逆(みわのきみさかふ)なる人が殯宮を「兵衛」(つはもののとねり。なおこれは用明紀の記載で、敏達紀末尾では「隼人」)、兵で固めて防いだため穴穂部の乱入は未遂に終わった。ところが穴穂部は逆恨みして今度はその三輪逆を殺そうと物部守屋とともに挙兵した。しかし実は逆を討つというのは口実で、穴穂部は用明を倒して自分が位につこうともくろんでいたらしく、守屋とともに用明の宮のある池辺(いけのへ。奈良県桜井市内のどこからしいです)を包囲した。それを知った逆はまず三輪山中に逃亡し、続いて「後宮」(きさきのみや)、すなわち「炊屋姫皇后」の「別業」、別宅であった海石榴市宮(つばきいちのみや。海石榴市もまた奈良県桜井市の金屋付近にあったらしいです)に逃げた。ところが逆の同族の者が隠れ場所を密告したため、逆は守屋の兵により討たれてしまった。以来「炊屋姫皇后」と馬子とは守屋を恨むようになった――おおよそこういった話だと思います。この中で推古は「炊屋姫皇后」という形で分注も含め3回出てきています。
以上、用明紀で推古は酢香手姫皇女の解説に「炊屋姫天皇」表記で2カ所、廐戸の解説に「豊御食炊屋姫天皇」表記で2カ所、穴穂部の乱入未遂から三輪逆殺害のエピソードに「炊屋姫皇后」表記で3カ所見えているわけです。
用明が実質的に在位1年半ほどで没した後、蘇我馬子が穴穂部皇子を討ち、また丁未の役で物部守屋が滅ぼされたことは崇峻紀に見えています。この崇峻紀に推古は2度登場しており、まず即位前紀の用明2年6月庚戌(7日)には「蘇我馬子宿禰等」が「炊屋姫尊」(かしきやひめのみこと)を奉じて穴穂部皇子・宅部皇子(やかべのみこ。崇峻紀の同条の分注に宣化の子とありますが宣化紀には名が見えず、『日本書紀』自身が「未詳」としています)を誅殺せよとの詔(みことのり)を出しています。また守屋が討たれて丁未の役が終結した後の同年8月甲辰(2日)、「炊屋姫尊」と群臣とで崇峻に即位を勧めたことが見えます。推古は2回とも「炊屋姫尊」の表記です。
推古即位前紀が「豊御食炊屋姫天皇」で始まり、その即位前紀に「額田部皇女」が2回見えることは先に引用したとおりです。その後は推古紀での推古は申すまでもありませんが「天皇」です(もっとも実際には「天皇」が主語になるような記事は少ないようですが)。
その後は舒明即位前紀に「豊御食炊屋姫天皇」「天皇」、少し飛んで孝徳紀の大化元年8月癸卯(8日)、十師を定めるなどした僧尼への詔に「小墾田宮御宇(天皇)」と見えるなどの例があるようですが、このあたり以降はきちんと確認しておりません。
ともかく「額田部皇女」の表記は推古即位前紀に2度出てくるだけみたいです。
この事実は少し意外です。唐突にこんな言い方をしても何が何だかわかっていただけないでしょうが、先に引用させていただきました『日本書紀』欽明2年3月の、欽明と堅塩媛の間の子としての記載のほうには「額田部皇女」は出てこないのです。これをたとえば皇極・斉明の所生子として天智や天武の名が見える舒明2年正月戊寅(12日)条と比較してみれば、その違いがわかっていただけるのではないかと思います。
二年春正月丁卯朔戊寅、立宝皇女為皇后。々生二男一女。一曰葛城皇子。〈近江大津宮御宇天皇。〉二曰間人皇女。三曰大海皇子。〈浄御原宮御宇天皇。〉夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛、生古人皇子。〈更名大兄皇子。〉又娶吉備国蚊屋采女、生蚊屋皇子。
(古典文学大系『日本書紀』より。舒明2年正月戊寅=12日。〈 〉内は分注。返り点・送りがな・読みがなは省略)
もっとも推古段で終わっている『古事記』には『日本書紀』舒明紀に対応する段はありませんし、仮にあったとしても「和風諡号」的な称でのみ表記されていた可能性が高かったのではないでしょうか。『古事記』は、とくに安閑・宣化・欽明以降では、即位した人については「和風諡号」的な長い称でのみ記載する方針だったように見えます。ですから逆に『古事記』に「額田部皇女」の称が見えないのは当然かもしれません。
舒明紀のこの部分の記述も『日本書紀』全体での后妃・所生子の記載を代表する例とは言いがたいのかもしれませんが、一応挙げさせていただきました。「2年春正月12日、宝皇女(皇極・斉明)を皇后とした。2男1女が誕生した。1番目を葛城皇子(かづらきのみこ)という〈近江大津宮御宇天皇である〉。2番目を間人皇女(はしひとのひめみこ)という。3番目を大海皇子(おほしあまのみこ)という〈浄御原宮御宇天皇である〉」
これもきちんと確認しておらず恐縮ながら、天智の「葛城皇子」の称も『日本書紀』全体でここだけではないかと思うのです。天智即位前紀には「葛城皇子」の称は見えません。
天智はこのあと舒明紀末尾で「東宮(まうけのきみ)開別皇子(ひらかすわけのみこ)」、皇極紀の乙巳の変までの記述に「中大兄」(なかのおほえ)、孝徳紀では「中大兄」から「皇太子」(ひつぎのみこ)となります。以後の「皇太子」「天皇」は、もちろん天智自身を指す称ではありますが、もう固有名詞とは言えません。
天武の「大海人皇子」の称は第28巻の天武紀上(天武紀は28・29の上下2巻)巻頭に「幼(わか)くましまししときには大海人皇子と曰(まう)す」(「幼曰大海人皇子」)という形で出ているのですが、この舒明2年正月条にも「大海皇子」という表記で見えています(なお「おほしあま」という読みは古典文学大系に見えるものですが、その注には「古写本にみなオホサマとある」とあって、以下それに関する解説が見えています)。
ともかく、「葛城皇子」「大海皇子」などもともとの個人名と見られるようなものは多くの場合初出の箇所、后妃とその所生子を列挙した記載の部分にあらわれる場合が多い印象なのですが、なぜか推古の場合「額田部皇女」は即位前紀にのみ見えていて、欽明紀の堅塩媛所生子の記載には見えません。
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