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『百人一首』が好きな訳
百人一首との出会いは、小学校5年生の時。家にカルタがあって、冬休みにそれを基に百首全部をノートに書いたのがきっかけ。
元々国語が好きだったので、和歌にも興味があったし、たった三十一文字で構成された歌を百首も集めた・・・というところが凄いなって思って、現在に至っています。

百人一首が出来上がった理由として、「新勅撰和歌集」の中に当時流刑の身であった、後鳥羽院と順徳院の歌を入れることが出来なかったことを不満に思った藤原定家が、私邸の山荘の襖紙用にと「百人一首」を作ったという説。最近では更に定家はこれを作ることによって、後鳥羽院への想いを暗喩しているといった説に心動かされ、ますます百人一首が好きになっている。(暗喩云々についてはこじつけと見る向きもあるが・・・)

時は平安、誰かが病に倒れれば、それ「もののけ」の仕業だと、祈祷やお祓いをしていた時代。承久の乱の罪で後鳥羽院が隠岐へ順徳院が佐渡へ流刑となり、藤原定家は自身の老齢もあって恐らく体調のすぐれない毎日ではなかったかと思う。これを定家はかつては和歌を通じて蜜月の関係だったが、その後些細な行き違いが原因で疎遠となってしまった、後鳥羽院の怒りと受け取ったかもしれない。
そして歌人として類まれな才能を持った院の歌を、どうしても「新勅撰・・・」に入れたかったのに、政治的な思惑が絡んで入れることが出来なかった悔しさ・・・そんなことが、シンクロして現在に伝わる百人一首の成立を定家は決意した・・・。

これはあくまでも想像の域を超えない仮説だけれど、もしそうだったらなんかかっこいいなって思ってしまう。
後鳥羽院は隠岐へ流された後も、都人と歌を交換し合っていたといわれる。本来なら定家も歌の交換をしたかったはず、でもそれは後鳥羽院が立ち向かい敗れ去った幕府と今の自分とのつながりを考えたら、到底出来ない夢のまた夢。いつか誰かがこの襖紙のことを伝えてくれるだろう、自分の想いを感じ取ってくれるだろう。そんな風に定家は思ったのだろうか・・・。だとしたらそれはとても切なく思うと同時に、その想いを感じてみたい・・・と私は思う。