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定額山元善光寺:天台宗 |
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桜を見て、元善光寺まで戻ってくると、すでに御住職の本多さんが迎えに来ておられました。 中間の矢場を過ぎてもうひと上り。 到着した所には、回向柱が立っていました。 2年前の平成27年の御開帳の時に建てられたものだそうで、
ここ元善光寺の回向柱は、次回御開帳(7年一度)の直前まで建てられているそうです。 本殿が混んでいたので、最初に客殿を案内して下さいました。 客殿前の松は、智恵・縁結びの松だそうです。
枝先が、結んだ様に丸まっているとか。 |
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客殿は新しく、平成3年に建てられたそうです。 格天井の絵と襖絵は、ハヤシカスミさんの作品だとか。 仏壇中央は、中央・阿弥陀如来、向かって右・観音菩薩、左・勢至菩薩が一つの光背の下にある、 一光三尊像、右は不動明王、左は比叡山・元三大師像。 |
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客殿には、3枚の仏画がかかっていました。 午後に訪問予定の松尾栄氏の作品だそうです。 本堂の方が多少空いて来たそうで、本堂の方へ移動、
そこで元善光寺についての説明をして下さいました。 |
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織田軍により焼失した本堂の再建に尽力された・座光寺丹後守像。 | |
寺は最初、座光寺と呼ばれており、 難波から背負って来た仏像を自宅の臼の上に41年間、祀って来たそうですが、 阿弥陀様のお告げか、皇極天皇の勅命によってかは、 わかりませんが芋井の里(長野)へ背負って移されたとか。 移した先の寺の名前が、本多善光さんにちなんで、 善光寺となったのでこちらも元善光寺と改名されたのてーだそうです。 阿弥陀様も月の半分はこちらに居られるとかで、 移るにあたっては善光さんが作ったとされる一光三尊像が残されているそうです。 本堂の逗子の扉は、次の御開帳・平成33年までは開かないそうです。 御開帳に開くのは、前立本尊で、奥の本尊は善光寺同様秘仏で御住職でも見る事は出来ないそうです。 本堂には、もう一つ逗子があり、そちらには室町時代の木造の涅槃像が祀られているそうです。 次に宝物殿を見せて頂きました。 こちらには、もう一体の涅槃像がありました、江戸時代のものだそうです。 座光の臼も展示されていましたが、当初のものより少し新しいものかもしれぬとの事でした。 続いて平和殿を見せて頂きました。 平和殿は戦争犠牲者の英霊を御祀りしてあるそうで、 堂内には西国三十三霊場の御本尊が並んでおり、皆さんさっそく霊場巡りをさせて頂きました。
第一番・那智山青岸渡寺・如意輪観世音菩薩。 |
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本殿は、江戸中期に造られたものだそうで、まだ装飾は少ないですが、 木鼻等には立派な彫刻が施されていました。 本殿のお戒壇巡りを無事に終えて、最後は記念撮影もしていただいて、
午前の部は終了、食事処へと向かいます。 |
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ちょっといっぷく:鮨ごちそうや松乃本店 |
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今日の昼食は、飯田方面に来た時には、よく御厄介になる松乃本店さんでいただく事になりました。 今日は暖かく、歩いてすっかり渇いた喉に、冷えたビールでまず乾杯。 豆腐に天婦羅にお寿司と、結構ボリュームもありましたが、全部程よく空いたお腹におさまりました。 午後からは、いよいよ大河ドラマの世界へという事でしたが、
まずは高森町歴史民俗資料館で、亀之丞・井伊直親の勉強をしてから出かける事になりました。 |
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高森町歴史民俗資料館:時の駅 |
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高森町歴史民俗資料館は、昭和54年に旧役場庁舎の跡地に建てられたものだそうです。 バスは校倉造り風な本館の裏の方から入ったので、 休館かと思ったら入口は一段上の新館側にあり、会館していました。
中では、直虎にちなんだ、赤い陣羽織を着た館長の松上さんが、館内の見どころを説明して下さいました。 今川氏に追われた、井伊直親は菩提寺の龍潭と仏縁の深い、 松源寺に逃れ松岡氏の庇護のもと9歳から20歳までこの地で過ごしたそうです。 井伊家の系図を見ながら、大河ドラマの様子も説明して頂きました。 直親が愛用したという、青葉の笛のレプリカが展示されていました。 青葉の笛では平家の公達・平敦盛の話が有名ですが、 直親の青葉の笛には、笛の師匠との間に二子がもうけられ、
家系は飯田井伊氏として続いているそうです。 |
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中央道の開通にあたって、多くの遺跡が見つかったそうで、 増野新切遺跡では78軒の縄文中期の遺跡が見つかったそうです。
顔面把手・吉田本城遺跡は顔が両面にある珍しいものだそうです。 |
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富本銭・国内最古の鋳造貨幣・武陵地1号古墳。 開元通寶・広庭遺跡・中国唐時代・東アジア貨幣の元。 |
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山吹藩では江戸中期に出来た国学を基に勤王尚武の思想で藩を治め、 幕末における国学の最も盛んな地でもあったそうです。 国学の四大人・荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の
遺愛の品を各宗家からいただき本学神社を造ったのだそうです。 この甲冑は関ケ原の徳川軍として参戦した時にも着用されたそうで、 大河ドラマ真田丸の時にも展示されていたそうです。
松岡氏の展示もありました。 |
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