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縄文中期の深鉢・中山(山影)・岡田(塩辛)遺跡。
弥生中期の壺(百瀬式)。 松本平では弥生中期後半になつて、稲作が始まると、低湿地地帯であつた市街地の周囲にムラ出来ていったそうで、 城山・県・南松本のあたりに大きなムラが出来たそうです。 土器も縄文時代は煮炊様の深鉢だったものが、煮炊用の深鉢・貯蔵用の壺等機能分けが進んで行ったそうです。 奈良・平安時代の食器と調理具(市内出土)。 奈良時代の終りには、里山辺・県の辺りが大きく発展していたのか、小県(上田市古里)から国府が移されたそうです。 位置は確証されていないそうですが、県や大村の遺跡から公的な建物や人に関わる物が見つかり、 官道の東山道にも近いのでこの辺りが国府となったのではとされているそうです。 又この頃には、道水技術が進み、奈良井川西部の開発もどんどん進んで行ったそうです。 そんな事もあってか、鎌倉時代に信濃の国守護の小笠原氏は、南松本の井川に守護館を建てたそうです。 孔雀文磬・仏具・鎌倉初期(重要文化財)。 板碑・供養塔・南北朝時代。 護摩炉と経筒・海岸寺経塚出土・市指定重要文化財。この地区では、自然信仰としては鉢伏権現社があり、奈良時代末頃には社も一郷に一社はあったそうです。 記録に残っているものには沙田神社・岡田神社・須々岐水神社等があるそうです。 寺では牛伏寺・放光寺・海岸寺等密教系の寺があるそうです。 鎌倉時代以降は、地域の領主によって寺・社は造られていったそうです。 恵比寿はもとは海岸に流れよるものの総称だそうで、漁業神だったそうですが、 中世には商・農業でも福神として、信仰されたそうです。 恵比寿・大黒が対神となったのは室町時代で、江戸時代には七福神へと変わっていったそうです。 次には、1階の常設展示室へ移動して、本題の松本城についての勉強です。 江戸時代に城で使われていた鯱(南西隅)・鬼瓦・軒先瓦が展示されていました。 松本城下町の大きな模型がありました。 松本城は内堀・外堀・総堀と三重の水堀に囲まれており、内堀の内は本丸、外堀の内は二の丸、 総堀の内は三の丸と呼ばれ家老・藩士の家が有り、総堀の外が城下町となっていたそうです。 この形は、武田信玄が小笠原氏を追った後に居城であった林城ではなく、 支城であった深志城で33年間この地を支配していた時にこの縄張りが出来ていたそうです。 安土桃山時代になって、豊臣家家臣となった石川数正が徳川家康の監視の為ここに移り、 天守・城郭・城下町の整備を行ったのだそうです。 秀吉亡き後は、石川家は再度徳川の家臣となったが、二代目の康長の時に大久保長安事件に連座して改易となり、 そのあとに小笠原秀政が飯田から移り、城の名前も松本城としたのだそうです。 石川康長・念持仏(阿弥陀如来)。 戸田氏・印鑑。 大島流棒火矢絵馬・幕末。念持仏は、改易となり豊後。佐伯に流されて行った時に持って行ったものだそうで、 昭和46年に松本に戻ったものだそうです。 絵馬は、大島流の門人が、女鳥羽川原での成功記念に奉納したものだそうです。 (棒火矢はバズーカ砲の様なもので、実物は松本城に展示されていました。) 戸田氏・鎧。 明阿上人座像・市指定重要文化財。 松本城の城主は、江戸時代265年の間に、六家が変わつているが、何れも徳川家との繋がりの深い人物がなっており、 最後の戸田家は一番長く、明治まで九代続いたそうで、戸田家の品だけは、色々残っているそうです。
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ててまがりの井戸。 館内に井戸が残されていました。 江戸時代にここに有った古山地御殿のものだそうです。 明治以降もすんなりと松本城は残ったわけでは無い様で、 保存に貢献した二人の人物の記録が展示されていました。 明治4年・廃藩置県で二の丸御殿は筑摩県庁庁舎へ、翌5年には天守等の建物は払下げとなり235両で売却されそうになったので、 市の住民・市川量造氏が募金をつのり買い取って保存する事になったそうです。 その後明治の半ば過ぎには天守が傾きだし、明治34年、城内にあった松本中学の校長だつた小林有也氏の尽力により、 天守の修復が行われたそうです。 昭和11年国宝指定、戦火にも会わす終戦を迎え、昭和25年には、 連合軍総指令部美術顧問の助言もあり、国宝保存事業の1号として5年かけての解体修理が行われたそうです。 明阿上人は天台宗の僧で弟子には、木食山居もいたそうです。 像は念來寺に有ったものだそうですが、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、鐘楼のみ残ったそうです。 仏像等は各寺に分散、座像が残ったそうです。 押絵雛。 お神酒の口。 松本中学校開校式繁栄之図。明治37・38年戦役記念館関連資料。松本市立博物館は明治39年に、松本尋常高等小学校(開智学校)内に、 明治37・38年戦役記念館としてもうけられたのが始まりだそうで、その当時の資料が展示されていました。 押絵雛は、江戸時代から大正時代にかけて作られたそうで、明治末の大火で作り手が減り、 段飾りの人形の普及で一時は作られなくなつたそうですが、昭和40年代になつて再開されたそうです。 松本の伝統工芸品として、手まり・ミスズ細工・お神酒口が展示されていました。 お神酒口は、重要有形民俗文化財にも指定されているそうです。 博物館は日本民族資料館とも言われていたそうで、他にもいろんな資料が展示されていました。 七夕人形・着物掛形式。 松本には七夕に笹の葉飾りではなく、七夕人形を飾る習慣が有ったそうです。 江戸時代中頃から始まったものだそうで、旧暦の七夕・八月七日に子供の厄祓いと、健やかな成長を願って飾られたとか。 着物掛形式の人形の一番奥の男衆は、カータリ(川渡り)で増水で天の川が渡れなくなった時に、 背負って渡してくれる人だそうです。 道祖神木像・重要有形民俗文化財。 道祖神の石造碑は村落の守り神だそうで、城下町には建立されなかったそうです。 替りに木像の道祖神が作られたとか。 オマラサマも道祖神の一つだそうです。 松本地区では、道祖神の祭りには、三九郎という小正月の火祭り・御柱(オンベ)正月に色紙で作った御幣や巾着をそなえる・ こと八(2/8)に餅をついて道祖神にそなえるという三種類の祭りがあるそうです。
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貧乏神送り・国選択無形民俗文化財。 貧乏神送りは入山辺厩所の風習だそうで、こと八日の行事で、早朝各家で厄病神を追い払い、 午後には公民館で貧乏神に見立てた馬とジジ・ババ人形を作り馬を中心に数珠を回して念仏を唱え、 馬を川原まで運んで焼き払う行事だそうです。 |
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あめ市(初市)本町五丁目の宝船・市重要有形民俗文化財。 宝船の方は昭和の初めころまで続いた行事だそうで、初市に町会ごとに担ぎ物担いだ行事だそうです。 山一つ越えただけで、こんなに風習の違う所もあるんだと皆さん感心しきりでした。 最後は、二階で行われている新収蔵資料展を見て回ります。 消防ポンプやら、飛行機のタイヤやら、色々と展示されていました。 見終わった所で、本題の松本城へと移動します。 |
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松本城:国宝 |
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太鼓門は石川康長によって造られたそうですが、明治4年に取り壊され、平成11年に復元されたものだそうです。 黒門は櫓門は名古屋城のものを模して昭和35年に復元したものだそうです。 運の良い事に、博物館で会長さんが、以前川岸小学校の校長をやつて居られた、南山さんにお会いした所、 今は松本城の研究専門員をしておられるとかで、急遽城の案内をお願いすることが出来ました。 |
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松本城は姫路・彦根・犬山等の四っの国宝城郭の中で、現存する日本最古の城郭だそうです。 国宝に指定されているのは、右の乾小天守・中央の大天守・それを繋ぐ渡櫓・左の辰巳櫓・月見櫓だそうです。 乾小天守・渡櫓・大天守までは安土桃山時代に石川数正が造り、 辰巳櫓・月見櫓は松平直政が将軍・家光を迎えるために増築したものだそうです。 ただ、大天守は内部が望楼型、外部が層塔型になつており、最初は望楼型だった天守を、 小笠原秀政の時に外部を層塔型に改築したのではとも言われているそうです。 急な階段を上って、直接渡櫓の1階に出ます。 そこで、城の構造の説明をしていただきました。 松本城の辺りの市街地は昔は低湿地だつた所で、基礎工事には色々工夫がされているそうで、 天守台の中にはスゲの16本の支柱柱が使われたり、石垣の下に丸太をしいたり、 堀の土留をしたりしてあるそうです。 建物は、増築した複合部分と渡櫓での連結部分を持つ複合連結式層塔型五重六階の城だそうです。 |
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乾天守1階・ 乾天守には加工が大変な丸柱(ツガ)が使われていました。 壁の穴は狭間と呼ばれ、長方形は矢狭間で、方形は鉄砲狭間だそうです。 まだ戦乱の時代だつたので、矢狭間は60ケ所、鉄砲狭間は55ケ所と数も多いそうです。 水切り・吹きこんだ水の排水溝。
渡櫓二階・乾天守二階とは段差が無い。 渡櫓と天守とは段差があり、1mほど下がつた所に天守1階の武者走りがありました。
天守1階の床面は、武者走りより50cmほど上がっています。 天守土台の支柱柱・ツガ材。 辰巳附櫓のかぶら懸魚・ヒノキ材・創建当時のもの。 天守二階にはいろんな鉄砲が展示されていました。 玉作りは女性の仕事だったそうです。 火薬は二種類使われたそうで、一つは玉を飛ばすために薬室に詰められるものと、 もう一つは火皿から薬室まで導火するためのものだそうです。 火矢筒は棒火矢を飛ばす為の鉄砲で、実戦で使われた記録は見当たらないそうです。天守三階・外からは部屋の存在がわからない秘密の階。 明かりとりは南側の千鳥破風の格子だけ。 四階から五階への階段、ここの階段が最も急だとか。 天守五階の柱の傷、明治の修理の時に綱をかけて柱を引き起こした時に擦り傷だとか。 今回の地震でも何か所か壁にひびが入ったとか。 天守六階・戦況を見れる様四方に窓が開いています。 |
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天守閣天井。
天井には二十六夜社が祀られていました。
天守からの眺望・残念ながらアルプスは雲の中。 辰巳附櫓、三代将軍家光が善光寺参詣のおりに立ち寄ると言う事で、 月見櫓とともに増築したそうですが、家光の参詣は中山道のがけ崩れのため中止になったそうです。 窓も花頭窓と、平和な時代に造られたのがうかがえます。 |
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三方吹き抜けの月見櫓。 朱塗りの回縁。
本丸御殿跡・天守の完成後に造られたそうですが、江戸時代中期に焼失、 それ以降は再建されず、二の丸御殿が日常政務に使われたそうです。 下の牡丹園は小笠原牡丹だそうで、武田軍に攻められた小笠原長時が林城にあった牡丹を里山辺の兎山寺に移したものを、 昭和32年・平成18年に城に移したものだとか。本丸御殿跡。 |
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駒つなぎの桜。 駒つなぎの桜・石川康長が築城祝いに立ち寄った加藤清正に献上した馬を繋いだ桜だそうで、二代目だそうです。 戸田氏ゆかりの石灯篭。 水野氏ゆかりの石灯篭。 灯篭のそばに、向井千秋さんと宇宙を旅して来たというつつじの種から育ったつつじだそうで、 館林市から寄贈されたものだそうです。 雨はまだ止まず、バスで昼食所まで移動します。 |
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