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向拝の梁の桐の彫刻・桐紋き皇室の裏紋だとか。 | 正面蟇股の八幡旗。 |
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舞屋。 |
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本殿左右の蟇股の錦旗の彫刻は、宗良親王の征夷大将軍の御印に関連しているとか。 舞屋は拝殿より少し遅れて造られたものだとか。 諏訪では、丸柱の舞屋は珍しいそうです。 軒は、大きく張り出した船竭「りという雪国に見られる造りだそうです。 組物ではなく、鉄の棒の支えがなんともシンプルにかんじられます。 ここで、神社の拝観を終えて、近くの墓地にやはり、 この地に住んだ江戸時代の名医・永田徳本の墓があるというのでそちらを見学する事になりました。 |
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尼堂浄苑:尼堂墓地 |
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石幢・江戸時代初期。 | 徳本の藍塔。 |
尼堂浄苑は、宗良親王の女官が、後に尼となつてここに住んでいた所だそうです。 石幢は前回のマリオ倶楽部で訪れた沢下の辻の石幢よりは多少新しいとか。 徳本の藍塔。 屋根のへこみは煎じ薬にとけずられたもの、 塔内の小石は借りて行ってイボをこすり治った後で倍返しがされたものだとか。 手前の藍塔は妻女のものだとか。 |
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郷土学習館: |
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三男・千冬の佩刀と次男・国武の脇差。 | |
最後に訪れたのは、今日案内して下さった三沢理事長のおられる郷土学習館です。 当館は県宝・旧渡辺家住宅保存協力会の方々の発案で、渡辺三大臣や郷土に残る偉人達の生様を学び、 後世に伝えるとともに生涯学習の場となる様建てられたものだそうで、 NPO法人として運営されているそうです。 以前安曇野の井口喜源治記念館を訪れた事がありましたが、 建物は別に新しく造られたとはいえ、思いは同じ様に思えました。 ここでは、館長の田中さんが我々を迎えて下さいました。 渡辺千冬・芳子夫妻の着用した和装正装。(今日は特別展か、普段は桐の箱に入れて保管されているそうです。) 展示室には、渡辺三大臣を中心に、醫聖永田徳本、新田開拓の武井五兵衛に関連する資料が展示されていました。 念仏徳本さんではなく、こちらは二代将軍秀忠も治療したと言われる名醫の徳本さん。 28歳の時にここ東堀に住んで、118歳で亡くなったとか。 甲州ブドウや諏訪のカリンを伝えたのも徳本さんだとか。 |
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諏訪藩の下級藩士の家に生まれ、明治維新の大臣を務めた渡辺家・三兄弟。 国武は大久保利通とも通じ大蔵・逓信大臣を務め、千秋は宮内大臣、千冬は司法大臣を務めたそうです。 江戸中期に西堀の豪農の家に生まれた武井五兵衛は、私財をなげうつて砥川からの取水汐を造り、 下筋一体の開拓に貢献したのだそうです。 以前訪れた熊野神社の境内で、汐の一つを見た事を思い出しました。 |
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ちょっといっぷく:マリオ |
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昼食はマリオさんに戻っていただきました。 今年は、醫聖永田徳本さんの生誕500年記念の年だそうで、 マリオさんで薬事料理を洋風にアレンジした長寿ヘルシーランチを用意して下さいました。 会長さんから、徳本さんや今日の料理の説明を聞きながら、まずはビールで乾杯。 最初のオードブルは茄子のカルパッチョ。 続いて、五種豆のスープ。 メインディッシュの魚料理は白身魚(ナマズ)のムニエル、それにきのこのガーリックライスと盛り沢山。 徳本さんの様に113歳の長寿とはいきませんが、多少は寿命が延びた気分になりました。 食事の後で、今日案内していただいた三沢理事長さんから、東堀正八幡宮・宗良親王の話をしていただきました。 正八幡宮は、柴宮とも呼ばれ合祀された宗良親王の影響が強いが、 祭神は誉田別尊・第十五代応神天皇だそうです。 応神天皇は、出生も明らかな最初の天皇だそうです。 宗良親王は、鎌倉幕府・北条鷹時を倒した後醍醐天皇の第八王子(第四皇子とも言われているとか)で、 歌道の家・二条家の出身だそうです。 仏門に入り天台座主となつたそうですが、公家中心の政治をきらった足利尊氏が光明天皇を擁して 南北朝の対立が始まったのを機に還俗して宗良を名乗ったそうです。 陸奥国府に渡る途中座礁して、遠江国井伊谷に身を寄せたが、 足利方により井伊谷も落城、越中、越後に逃れたのだそうです。 そんな頃、北条一族・滋野氏の流れをくむ伊那の豪族・高坂高宗に招かれ、 秋葉街道の中心の大河原・大鹿村を拠点として30年間信濃宮としての生活をおくったそうです。 その間再度越中・越後に移り宮方の勢力を回復、信濃の北朝勢力の小笠原氏と戦い敗れて大河原に戻り、 諏訪氏の招きもあって信濃の南朝方を結集したのだそうです。 この頃に上八幡を仮の住まいにしたのかもしれません。 このころの信濃の勢力は北朝側が、小笠原・村上氏、南朝側は仁科・諏訪氏だったそうで、 ここ諏訪の地でも諏訪氏が南朝支持で、皇室に縁の深い金刺氏の方は、小笠原氏に近かった様です。 そのため、宗良親王の諏訪での最初の居住地は小萩祝・武居氏の小萩社で、後に上八幡へと移ったのだそうです。 その後は、桔梗ケ原の戦いで小笠原氏に敗れ、その後、仁科・諏訪氏も離反、南朝勢力は衰退してしまつたそうです。 最後は関東管領の上杉氏により、信濃を追われ吉野に戻り再び出家したそうです。 天下の混乱とともに、この地もかなり混沌とした時代であった事がしのばれる一日でした。
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