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霊松寺山門。 |
オハツキイチョウは奇形ではなく、銀杏の古い進化の形だそうで、 見つかるのは10%ぐらいの確立だそうです。 子宝のお守りになるそうで、後で庫裏のお地蔵様にお参りすると安産間違いないそうです。 皆さんの成果。
霊松寺山門。 入母屋造りの八脚楼門。
彫刻は江戸後期に茅野市宮川の立川流の流れをくむ二代目・藤森広八政因の代表作だそうで、 長野県宝にも指定されているそうです。 この山門は、元々は松川村の室町時代に仁科氏の西南方の守りに造られた、 大和田山城の麓にあった観勝院にあったものだそうですが、観勝院が明治の廃仏毀釈で廃寺になったので、 明治11年に当寺に移築されたものだそうです。 正面の向きが変わってしまったそうで、十二支の彫刻の子(北向き)が、東側にあるそうです。 |
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霊松寺本堂。 屋根には風神・雷神の像が乗っていました。 昭和61年に、ステンレスアートの中島大道氏によって付けられたものだそうです。 大屋根には、開基となる仁科氏の家紋の揚羽蝶。 本堂天井の月静作・鳴き龍。 先日降った雪がまだ残る本堂を見せていただきました。 お寺では、10月24日から11月15日まで、秋の内部拝観が出来るそうで、 市民の観光ボランティアさんが堂内を案内して下さいました。
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ご本尊は、釈迦三尊・中央の釈迦如来。 向かって左・白象に乗った普賢菩薩。 霊松寺は、室町初期に信濃の国で最初に開かれた曹洞宗のお寺だそうで、 開基は仁科忠盛で、開山は峨山禅師の弟子・五哲の一人實峰良秀禅師が、 諏訪明神が所持していた霊松寺山の領地をゆずりうけ、開山したものだそうです。 仁科家が、織田軍によって滅ぼされ、一時はすたれたこともあったそうですが、 松本藩の小笠原氏が徳川家光から、寺領十石を寄進され復興したそうです。 しかし、江戸末期に起きた善光寺地震により全伽藍が崩壊し、庫裏は江戸末期、 本堂は廃仏毀釈の廃止後の明治16年に建てられたそうです。 豊川稲荷は、明治38年に本堂隣の豊川閣に祀られたそうですが、昭和に入って本堂の屋根の雪が落ちて、 社が倒壊してしまい、本堂内に移されたものだそうです。 お稲荷さんには、仏教系の女神・ダキーンを祀る豊川稲荷と、 神道系の宇賀魂命を祀る伏見稲荷があるそうで、ここでは豊川稲荷を祀っているそうです。 何れも、五穀豊穣、商売繁盛を願うものだそうです。 次に、庫裏へ案内して下さいました。 庫裏の一室に、修行中の釈迦の立像と地蔵菩薩が並んでいる部屋がありました。 ここで、ガイドさんの般若心経に合わせて一同御参り。 お葉付き銀杏も拾えたし、地蔵さまに御参りもできたので、皆さんこれで安産間違いなしというところです。 |
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現在の庫裏と本堂を再興した、30世・安達達淳禅師は、中興の途中に廃仏運動が起こり、 それに反発した和尚は一時は寺に監禁された事もあったとか、その時の隠し部屋だそうです。 その後、和尚は上京し太政官に訴え廃仏毀釈の撤廃にもつていき、 後に松本安曇平の寺院復興にもつとめられたそうです。 庫裏の大屋根を支える梁。 太い梁材は八坂・切久保の松の木だそうです。 入り口近くには、囲炉裏がありますが、わらじを履いたままで体を 温めたフンゴミ(踏み込み)と言われるものだそうです。 それにしても、普段は無住のお寺だそうですが、堂内も庭も良く手入れが行き届いたお寺でした。 最後に、長野県最大の恋人達の鐘をついてお別れです。 ここからは、大町市街が見渡せます。 |
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