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道は広い方がよいか?

 
  広さの議論の前に、「道がいらない」という、とんでもない状況になっている。
 
 しかし、それは「道というものはもういらない」というマスコミ流のおおざっぱな議論ではなく、象徴的には、車より熊の通行が目立つ「広すぎる」立派な道路(そんな道路があるとして)がいらないということであろう。議論は具体的にし、道路整備の問題点を明らかにする必要がある。
 
 問題は、都市内の街路をはじめとする既存の道路が狭く、もちろん(満足な)歩道もなく、歩車混在で、車優先・人間無視の状況にあることだ。「狭すぎる」道で車が我が物顔に疾走する。人間は道を通行するのに、不法駐車車両あるいは沿道建物からの違法突出物と排気ガスを振りまく車とのあいだをすり抜ける危険な曲芸を毎日強いられる。
 
 一方「広すぎる」道路はどこにあるかというと、新設道路のほうで、それらは大は高速道路から、小は区画整理区域内の区画道路まで、前述の狭すぎる道路と好対照なほど広くて立派だ。既存の道路の拡幅・改良は困難を極める。そのためせめて広い土地に道路を新設するときは、あとで困らないように、精一杯広く(高規格で)作ろうとする。狭い道路対策で苦労した失敗の教訓を生かすかのようにだ。もちろん基準通り作っているのだが、ここでは基準がそうなっていると言っている。
 
 「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」のに似ている。
 
 広く(高規格に)作るのには金がかかる。さらに区画整理だったら、狭小な土地を減歩により更に狭くせざるを得ない場合は、人の住む土地が狭くアスファルトの道路だけが広い、非人間的な町になってしまう。区画整理反対運動のおおかたは、減歩制度への理解不足からだが、突き詰めて言えば、アンバランスに広い道路への無意識の抗議かもしれない。
 
 日本人の懐具合と狭い国土にあわせた、分相応の道路を目指すべきでないか。
 
 もちろんそれらは、最初に述べた極狭道路よりはレベルが上なので、道路予算はその狭い道路のレベルアップにこそ使うべきだ。その意味で、日本は決して、「良い道はいらない」状態ではない。
 
 広すぎる高規格の道を例えば山岳部に造るとどうなるか。交通量からいって、一・五車線四b(乗用車同士がスピードを落としてすれ違える幅)でよいものを完全二車線五・五b以上で作ると、場合によってはトンネル、橋梁の高価な構造物の連続を強いられたり、そうでなければ、長大のり面が発生し、常に災害の危険を心配しなければならない。平面縦断線形へのこだわりも同一結果をもたらす。
 
 広すぎる区画道路の場合は、通過交通の進入のもととなったり、たとえ居住者の車両といえども、道路が広いと、いらぬスピードを出してしまう。その結果、歩行の快適性が損なわれ、まちを歩いて居住者同士が訪ねあうという、共同社会の基本であるコミュニケーションの妨げになってしまう。区画道路では、主人公は歩行者であるべきだ。極端な話、昔は家の前の道路は子供の遊び場だった。車社会の今、それらを強制的に実現させるには、車が遠慮するような(逆説的だが、広くない)道路がよい。親の目の前で子供同士が遊べば、親同士のコミュニケーションにもつながる。近隣・街区公園では代替できない機能だ。
 
 話は少し変わるが、バイパスあるいは新市街地という考えは知っている。
 
 困難が予想される都市内道路の拡幅の代わりに、バイパスの建設が選ばれてきた。通過交通が排除でき、交通容量の問題は確かに解決する。でも、既存の道路が狭いなどの都市(空間の)問題は未解決のままだ。
 
 既成の密集市街地に手をつけることなく、郊外の新市街地に理想的な街づくりをし、人々が移り住む。でも、残されたダウン・タウンは悪環境のままでよいのだろうか。奈良時代以前の遷都、これを私は、前の都の立場で、棄都と呼んでいるが、その考えと少しも変わらない。
 
 新しいものを理想的にすることで、全体に対処していく方式に、「残された問題が解決されない」という、限界が来ているのである。
 
 話は戻る。筆者は戦後しばらくの時期、東京下町で生まれ育った。その子供の頃、戦災被害のがれきの山の広場でよく遊んだ。児童公園という言葉自体がなかった時代、遊び場は子供達で工夫して見つけざるを得ない。危険だったが、スリルにみち、足腰を鍛えるのにはよかった。いまの公園のブランコ等の三点セットなどは実質必要なかった。
 
 そのほか主な遊び場は、なんといっても路地(露地)だった。車が珍しい時代だったが、狭い露地に車は進入しない。長屋風の家々に囲まれた露地空間は「道」でもあるが、共同広場と化していた。各家からの鉢植えなどで、今にして思えば、美的に優れた景観でもあった。親も加わり、濃密な近所づきあいの「場」だった。
 
 でも、当時東京郊外には公団アパートが出現し、庭付き一戸建住宅団地の美しい町並みも開発されてきていた。下町のごみごみしたところの住人はもちろんそれらにあこがれ、いつかはあのような良い生活をしたいと思っていた。
 
 ゆたかになって、あこがれの団地、マイホームに住んでみると、きれいな町、豊かな住宅はなるほど得られたが、前段に述べたことからも、街に人間味が薄れ、近所づきあいというまちに不可欠のコミュニケーションが代償として失われつつあることに気づいた。
 
 この間の半世紀の経験からも、まちづくりに専門家が全知全能をかけ、住民のためによかれと思って理想を追い求めても、生身の人間が住まうという日々の現実にそぐわない場合は、結果的に挫折に終わってしまうこともあることを知ったのである。