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人為的地球温暖化危機説への諸疑問
 

二酸化炭素などの温室効果ガスによる地球温暖化メカニズムは定説の理論となっている。これらのガスが、温室でいえばガラスと同じように、入射した太陽光で暖められた地表から逆に宇宙に逃げようとする放射熱をある程度とらえ、地球の温度を一定に保つ作用をになっている。一定に保つには必要不可欠なのだが、その作用が過剰だと、温暖化の方向に進むわけである。金星は二酸化炭素の高圧大気のために480°Cもの灼熱地獄になっている。

疑問

ここで疑問なのは、それらガスの「人為的」排出が増加したことにより、地球規模の温暖化とそれに起因する(異常)気象現象が出現しつつあるのか、また、温暖化の結果として海面上昇など諸々の危機がおとずれようとしているのだろうか。すなわち、人為的地球温暖化「理論」というものがあり、現実の地球で温暖化ガス濃度と気温の上昇、そして海面上昇などの危機の各現象がそれぞれ「観測」され、それらの関係が人為的な変数間の関数として説明可能(将来「予測可能」)なのだろうか。

ここではわざわざ「人為的」地球温暖化危機としている。「自然」では地球の歴史上、何回も温暖化あるいは寒冷化が記録されている。その場合、数度Cの温暖化とその結果としてメートル単位の海面上昇とがあっても、それら変化の期間が、人為的危機説での百年とかのごく短期間(急激)に比べてかなり長期(ゆっくり)なので、「自然的」危機という心配は無用だからだ。たとえばその期間が(短く見積もって10倍の)千年間としてみれば、同様の現象が起きたとして、人類は難なく対応できる。今回、百年という超短期だと言われているので、危機かどうかも含めて議論になっているのである。

まずは気温の上昇あるいはその結果の危機の現象がそもそも「観測」されているのだろうか。

主として前世紀にわたり地表平均気温が0.6°C程度上昇したという。地球各地での気温変動は、都市のヒートアイランド現象(これは別種の人為だが)など局地的なものも含め、種々の要因によるが、それらを平均して(たぶん局地的特殊なものをそれぞれ補正した後)たったの0.6°C上昇というのは、統計的に誤差を除外して(すなわち有意に)、上昇したと言えるのだろうか。そもそも気温の測定精度は零コンマ何度なのだろう。百年前の粗いはずの測定値も含むので、0.6°Cというのは測定誤差と同等のものとしか思えない。さらには、世界各地の気温測定点のほとんどが陸上であり、気温が下降しているとされる海洋での測定点が少ないのも気になる。また、気温の変動要因は人為によるもの以外に自然要因である太陽黒点の移動による気候変動あるいは長期には氷河期間氷期の氷期サイクルのものもあり、それらが重なった結果が観測される。さらには、一世紀の間、単調に気温上昇が見られたわけでなく、アップダウンそしてアップの結果、たまたま現在、観測開始時点との差で0.6°C上昇の結果となったに過ぎない。その間、地球寒冷化が心配された(ダウン)時期もあったが、主要な温暖化ガスとされる二酸化炭素の濃度は一貫して増加傾向だったから、この寒冷期には、人為による昇温(があったとして)にもかかわらず、他の自然要因による降温がまさって気温が下がったのだろう。であるならば、最近の温暖化の主因は自然要因による昇温かもしれないのである。以上を手短にいうと、二酸化炭素濃度は気温と比例関係にはなっていない。だから、観測された地球温暖化の主因は二酸化炭素による温暖化メカニズムとは言えない、という結論になる。

異常気象の原因がわからないと、最近はすべて人為的地球温暖化のせいにされる。「異常」気象というが、何をもって「異常」とするのだろうか?天災は忘れられた頃やってくる、といわれるほど、異常気象による大災害は平穏な長年月を経たあとになるので、前回の異常さが記憶外になっていることもあろう。また、地球規模でみると通常なのだが、特定の地域にとっては異常な気象現象もある。おととし平成16年の史上最大数の10個の台風上陸(平年で2〜3個)がそれだ。台風発生数はその年29で、平年数は27程度だから、極端に多かったわけではない。たまたま、日本に上陸する気圧配置が続いたのだ。日本以外では上陸・接近数が異常に少なかったのである。(ただし、温暖化そのものが異常気象の出現率アップに関係していることは間違いない。気温上昇により気象現象が活発になるからだ。)

主要な危機現象の海面上昇も平均潮位の有意な変化は観測されていない。太平洋の小島(ポリネシアのツバル島など)で潮汐による被害が出ていると言うが、これも平均潮位の上昇によるものではなく、異常潮汐現象(最大大潮時の最高潮位が別の理由で異常に高くなった)が原因のようだ。これらの珊瑚礁の島では、もともと高潮、波浪など異常海面現象には脆弱で、温暖化による海面上昇の「予測」に過敏に反応したのだろう。

さらにはこれら現象の原因とされて、ただ一つ明らかなのは大気中の二酸化炭素濃度の増加だが、これは人為的排出の増からだけだろうか。経年的に増加は見られるが、濃度変化は季節毎の増減が大きいので、(海陸の)植物の呼吸・光合成による影響が大きいことがわかるが、それら自然現象の経年的影響はあるのかないのか。また、海水に溶存する二酸化炭素とのやりとりは、海水温に反比例する溶解度による(水温が上がると溶解度が下がり空気中へ放出)し、さらにはサンゴの骨格へ吸収される膨大な量(炭酸カルシウムで、いずれは石灰岩となる)も一方的減少要因となるので、その消長もカウントされなければならない。これらすべての差し引きが大気中の濃度となるので、人為排出量を京都議定書に従って減少させた結果、どの程度濃度の減少に寄与するのかよくはわからない。

さらに温暖化ガスの効果としては二酸化炭素よりメタン、窒素酸化物などのほうが桁違いに大きい。そもそも水蒸気が一番に温暖化に寄与し、地球の気温水準を決定づけているという。これら他ガスが人為的に増減するとしたら、そちらのほうこそ心配しなくてよいのだろうか。

さらに疑問なのは「予測可能性」だ。今世紀末において、数度の気温上昇とそれによる最大1メートルに及ぶ海面上昇があると計算している。計算は最新のスーパーコンピューターによる精度の高いものだという。

しかし、いくら大容量のコンピューターでといっても、使用する計算式は、より複雑な現象に対し少なからず簡略化せざるを得ず、それらが主たる現象に合っていなければ、結果は信用できない。また、計算式に用いる定数の精度が肝心だ。それらは現実の現象から逆算し得られるものだが、現象そのものが未だ数字的に有量の「観測」データとなっていないので、誤差に満ちたものとならざるを得ない(外挿のし過ぎ)。二酸化炭素と気温あるいは気温と水面上昇の因果関係が薄ければ計算することそのものが無意味に近くなる。他の自然的な要因との関係のほうが優勢ということかもしれない。

定量的精密な計算前に、定性的に簡単に否定できるものもある。それは、海面上昇のメカニズムである。極地の氷が溶けて、そのぶん海面が上昇するという。しかし、北極の氷は大部分が海面に浮かんでいるから、溶けても水位は不変であるし、南極の氷は南極大陸の大部分を占める数千メートルの高山上にほとんどが存在し、現状で零下数十度だから、いくら気温が上がっても、零度以上になり溶けることはあり得ない。過去、海水面の上下降(海進海退)があったのは、氷河の生成・衰退があったからである。現状で氷河がほとんどない地球で、これ以上海水面が急上昇する水の補給元は少ないのである。(最近の温暖期であった縄文時代の海進期には今より数メートル海面が高かったが、それへの変化期間は千年単位とゆっくりであった)

ほかにも疑問を湧き立たせる諸論点がある。

放射熱の二酸化炭素による吸収波長帯においてすでに効果が飽和に近く、これ以上の温室効果増は濃度増に対し逓減状態にある。

また、二酸化炭素の濃度上昇は化石燃料の大規模採掘・燃焼利用に始まるはずだが、その時期である産業革命のかなり前から二酸化炭素濃度が上昇している不思議。すなわちこの間、別の原因で地球が温暖化し、その結果、二酸化炭素濃度が上昇したという逆の因果関係ではないのか。南極大陸上の分厚い氷床をボーリングして得られた氷柱に閉じ込められた過去の大気の分析では、数十万年前から、気温が高いときは二酸化炭素などの濃度が高くなる周期性が認められている。その間人類活動による人為的濃度上昇はないので、(自然要因での)温暖化が原因で、二酸化炭素濃度上昇が結果であると類推できる。もちろん、結果が原因に再作用、増幅したことは考えられる。

などだが、他人に説明できるほどわたしの理解は進んでいない。

これら一連の検証(理論→観測→予測可能)ができるものが科学というものではないのか。

これらの疑問については、数々の識者が書物において発表している。そのうちビョルン・ロンボルグ氏(デンマークの政治学者)、薬師院仁志氏(帝塚山学院大学文学部)の疑問説は読んだ。二氏とも環境学者ではない。環境学に門外のわたしも、これらを参考に整理した諸点についてわたしなりに以上の通り理解し、現在の人為的地球温暖化説の科学性に数々の疑問があること、従って同説は科学と言うより、むしろ、政治的運動の一種なのではないか、と現状では判断せざるを得ない。

いずれにせよ、これらの他分野識者からの疑問点に環境専門家からあるいは政策遂行責任者からの反論がほとんど無いのは不思議だ。

それでもマスコミ上で見つけた反論が二つ。ひとつは、毎日新聞科学環境部江口一記者の「記者の目」欄によるものだ。江口記者は科学論争があることは認めつつ「重要なのは・・・社会がどのように行動すべきかの政策決定の問題と考える・・・人間活動による温暖化予測が『正解』だった場合のリスクに備えて、行動すべき・・・」と書いている。人為的地球温暖化危機のリスクが少しでもあるのなら、それに備えて行動すべきだとの主張だ。それは水俣病あるいはHIV感染などへの不作為の反省からも言えるとしている。

この記者は科学者ではないが、だからこそ「政策決定の問題」と理解でき、わたしの前記判断「政治的運動」と共通するものがある。また、類似指摘する水俣病あるいはHIV感染には科学的根拠は少なくとも存在したが、現実の行政・政治のもとで是正策が政策とならなかったことに反省があると思う。

もう一つ、国立環境研究所の江守正多室長は読売新聞論点欄で、「我々専門家から見ると、懐疑論の多くは正確な科学的知見に基づいていないようだ」と指摘する。

前出の薬師院氏も著書の中で、自身が専門家でないこと、素人の科学に基づかない疑問かもしれないが、専門家に答えて欲しい、と吐露する。しかし、専門家からの回答は皆無だとしている。この、江守室長の(回答と思われる)文章も前記だけなので、専門外からの「科学的知見に基づかない」疑問(疑問を呈するのに科学的根拠まで必要はないのだが)に対する科学的回答にはなっていない。

一方、専門家・気象学者の根本順吉氏は「すぐれた理論家でも現実に接近すれば修正はつきもの、それが臨床の特徴なのだが、昔発表した過大な見積もり――たとえば温暖化に伴う海面上昇のごとき――など、今はふれずに簡単に捨て去られていく」(著書の「超異常気象」より)と、現実を知り理論にフィードバックする必要を強調している(根本氏は「臨床知」と呼んでいる)。

疑念

以上、科学的態度から見て疑い問いたい点を書き連ねてきた。かくなるうえは、「疑問」を通り越して、以下、「疑念」(本当なのかと疑い、真実を憶測するため)の人為的地球温暖化説背景探しに及んでしまう。

一般の人から見れば、地球温暖化理論は難しすぎる。人によっては、夏期の自動車排ガス熱あるいはクーラーの廃熱(いずれも二酸化炭素排出の原因行為ではある)をもろに実感して、これら人工熱によるヒートアイランド現象を地球温暖化と誤解している。それがなぜ二酸化炭素の排出を削減すべきことになるのかよくはわからないものの、排出削減は結果的に省エネになるし省マネーにもなる。だから「理屈はどうであれ、行動は必要なのではないか」と、単純に考えることができる。このことがこの削減運動の大衆的支持になっているのかもしれない。

一方、一部の専門家の態度に対しては、邪推かもしれないが、地球温暖化はどうでもよく、排出量を削減させることによって、より低い経済成長をめざすエコロジーの考えを秘かに進めるための誘因としているのかなと思ってしまう。

原子力エネルギー利用へのシフトが温暖化ガス削減の観点からは最適なので、そちらの推進のため陰で画策しているとの見方は穿ちすぎであろうか。

米と欧の継続的な権力闘争の一環だ、という見方もある。しかし、欧州がエコロジーを追求したいのなら、このような建前を持ち出さずとも、勝手に自前でやればよいのである。アメリカとか発展途上国とかは経済発展により自国民の幸福を追求する道を選んでいる。現に、米国は京都議定書に調印していないし、途上国は議定書からの義務を負っていない。経済が発展しなければ何もできない、という考えなのかもしれない。経済が発展すれば、何でも解決できる。日本のように、経済発展にともない技術力も飛躍的に高まり、省エネも含む公害対策を画期的にできるようにもなるのである。

エネルギー多消費社会からの脱却を目指しているようにも思える。過去には、ローマクラブの「成長の限界」の報告もあった。資源の有限性の視点も加えた成長限界論だった。ローマクラブ報告が多消費社会脱却のための「入口」(を絞る)作戦としたら、二酸化炭素の排出量を減らすのは「出口」作戦だ。しかし、入口も出口も無理な作戦で、今後、脱工業化社会がすすみ、社会活動にエネルギーを多消費しなくなれば、自ずとエネルギー低消費の理想の状態になるのである。

将来、石炭・石油の化石燃料資源に依存しなくなるような社会になるとしたら、それは、それら資源が枯渇したからでなく、本稿で説明したような資源浪費の結果として海水面が危険なほど上昇したからでもなく、それら資源の多消費の社会構造がなくなるからである。

以上のようなことを書き連ねてはみたが、これらの環境保護運動は所詮、金持ちの道楽なのだという話を聞いたことがある。貧乏人(国)は今日を生き延びるのに精一杯で、環境どころでない。グリーン・ピースなどの(先進国)環境団体は多額の活動資金を誇り、世界各地に出没するが、それらは金持ちからの寄付によるものだという。その反捕鯨の運動も金持ちの趣味臭い。もともと安価で豊富なタンパク源であった鯨肉資源だが、その捕鯨が再び活発になれば貧乏人の生活には大助かりだ。捕鯨の代替となる陸上の食料生産(農業)にはどうしても環境破壊の面があるので、「鯨は知能が優れ、可哀想」の気持ちだけで捕鯨に反対するのは、環境保護の全体的視点からはかえって根拠がない。また、反捕鯨運動の成功により、鯨資源が過剰となり、海洋生態系に歪みを生じさせてもいる。

このように、先に金持ちになったものが豊かな生活を持続するため、過去の悪行の反省を偽装する高等な理屈付けとなって、その影響で、あとから豊かになろうとする貧乏人の邪魔になっているのだ、と思えなくもない。

山小屋の論理に似ている。自然の区域内に既に山小屋を建設し、自然を享受している人が、後発の山小屋建設を、自然破壊であると非難する理屈の(実はない)ことを言うのだが、先発だから良いのかという身勝手さと、自分の山小屋も少なからず自然に悪影響を与えているという事実を見過ごしているので、言う資格のない論理であることを端的に伝えている。

この稿の人為的地球温暖化危機のスローガンも、金持ち先進諸国が熱心なことから、そのように聞こえてしまう。


2006年8月24日