灰色の空

第三章 第二話
信頼

アーヴィッツ連邦共和国 首都サラミス

 窓のない建物だ。いや、もちろん皆無という事はないが、そう言いたくもなる不思議なビルだ。そしてそれ以上にそれは、人を近付けない、不気味な気配をまとっていた。
 そんな建物に、黒の塗装も真新しい乗用車が乗り付け、男を降ろして、走り去る。長身に相応しい体格を持った男の名は、リヒャルト・ヴィーテ。彼は、ふっと立ち止まってから、建物に消えていった。
 黒い御影石のプレートには、「民主国家条約機構・軍事情報保安局」と書かれていた。

 窓のないビルの最深部で、乗り付けたリヒャルトは、何者かと対面していた。背を向けたその男の、寸分の狂いもない黒のスーツ、一分の隙もなく固めた銀色のオールバックが、その完全主義と合理主義を端的に表現している。壁に掛かった地図から目を離し、男は向き直る。
「報告は聞いている。」
「はい。」
「ご苦労だった。…呼び出したのは、他でもない。次の任務を与えるためだ。」
「はい。」
 金色の目が、リヒャルトを見る。強さと、そして危険を感じさせる目つきは、リヒャルトが彼と最後に会った2年前から、変わっていなかった。その男は、ゆっくりと、革張りの椅子に腰掛ける。彼の名は、ロンズヴィッチ・ギルガスゾール。CSTO軍事情報保安局を統べる男で、初期からの革命メンバーの一人。
「その前に確認したいが、同志。勘づかれた気配はあるかね?」
「いえ。その様子はありません。」
「そうか。…まあ、掛けたまえ。」
少し違和感を覚えつつ、大きな身体を促されるままにするリヒャルト。それというのも、相手は31歳、彼よりだいぶ年下である。もちろん、そんな事を気に掛ける世界ではない。そのように思い直す。
「気付かれていないのであれば、これまで通りの任務を与える。」
「了解しました。」
「うむ。」
 要件は、それで済むはずだった。しかし、流れる空気はそうではないと、リヒャルトは感じた。果たして、脚を組み替えながら長官は口を開く。
「…ときに、知っているかね?」
「最近の、連盟の動きをだ。」
「いえ。ただ、市民の噂では、各国の足並みに乱れがあると。」
「その件だよ。」
 木の机を指で叩きつつ、溜息をつくような長官の仕種から、かなり深刻な状態なのだと悟るリヒャルト。実際、そうでなければ、こんな場で話す事もないだろう。
「アーヴィッツが…、つまり、今我々が居る国が、開戦準備を進めている。」
目を見開くリヒャルト。相手国は問うまでもない。
「完了まで恐らく1ヶ月…いや、明日かも知れん。我々にも把握できん。」
「その理由は?」
「というと?」
「彼等が戦争を望む理由です。」
 そこで一瞬、長官は考えるように目を瞑る。
「産官軍の考えるところなら、わからんでもないがね。」
アーヴィッツにおける産官軍の癒着体質は、連盟でもつとに悪評高い。おおかた、“解放”の名において占領地に大きな影響力を行使しよう、という様な魂胆なのだろう。…まあ、その程度ならば、すぐ推測出来るが。
「あぁ…。」
「中央統制の強い国だからな。革命の理想を帝国の地に根付かせる、と言われれば、確かに反対も出んさ。いや、実際に理想に燃えているのかも知れん。だが、それにしては、我々との接触は無いのでね…。」
 長官の口調は、迷いを含んでいた。それも仕方のない事だ。情報が完全である事など、あった試しは無いのだ。そうなると、同志アルゼスも苦労しているのだろうか。リヒャルトは、連盟最高評議会議長の事を思った。
「外交的には、如何でしょうか。」
「彼等は既に“革命の輸出”を公言している。しかし、アーヴィッツに付くと表明しているのは、まだフレイハル王国のみ。実際、あの戦争の惨状を見た後では、特にハーヴェイなどは、動かないだろうな。それに、東方は意思表示もしていない。」
「…そうですか。」
「うむ、合意を得られる可能性は殆ど無い。」
そんなところだろう、と頷くリヒャルト。革命は、いや、そこまで過激な手段でなくても良い。改革は、民の手によって行われるべきなのだ。外国が軍隊を使って介入とあっては、上手く行くものも上手く行かないだろう。両者共に、そのように考えていた。
 とはいえ、それも彼等の考えであり、誰もがそう思っているわけではない。
「ただ、軍が動いているという事は、まさかとは思うが、連盟としての合意を前提としていない可能性がある。」
「馬鹿な。」
「そうだな。私も同感だ。しかし、彼等が彼等の軍隊をどう使うか、それは彼等の権利だからな。」
「…。」
「実際、彼等の軍隊は強い。軍事力は…、武力は権力の実体だ。法も、武力の背景があって、初めて具体的な力を持つのだ。」
長官が語る。それは、独白にも聞こえる。
「武力は全てを賄う。金や権力ではそれは出来ない。だからこそ、我々の革命も成立した。止められるのか…?」
深刻な表情を浮かべる2人。もちろん、決まったわけではない。充分な情報が無いのだ。これ以上話し合ったところで、何か有益な結果を得られるとは思いがたい。
 …軍事力こそが、世界を統べる原理なのか。それに抗しうるものは、何もないのか。確かにその説は、圧倒的な迫力を持って自身の正当性を主張している。俄には答えは出ない。ただ、時計の針が、乾いた音を刻む。
 かなり、長い時が過ぎただろうか。やはり長官から口を開いた。
「ときに…。」
「はい。」
「帝国の上層部にも、妙な動きがあるようだ。」
訝しげに、表情を変える。何なのだろうか。それだけではわからない。
「血眼になって、誰かを捜しているようだが…。」
「例のSS脱走兵ですか?」
「違うな。それも追ってはいたようだが。」
となると、心当たりはない。もちろん、一人で把握しきれるほど、帝国も単純ではないだろう。
「…わかりません。」
「そうか。」
沈黙が、僅かに流れる。これもまた、結論の出る話ではないようだ。
 しばらく考えてから、リヒャルトは口を開いた。
「話に上がったついで、捕らえたSSの者ですが…。」
「うむ。」
「僭越ながら、処遇は私に一任頂けませんか。」
「なるほど…。そうか、君は、連中の上司だったな。」
「は。」
おまけに、内2人は脱走した者だ。連盟にとって、脅威となる存在ではない可能性もある。長官は、その辺の事も想像する。そして、具体的な事は、リヒャルトがよく知っているだろうとも。
「構わんぞ。好きにしたまえ。」
一礼するリヒャルト。
 その様子を満足げに眺めた長官は、頃合を測って話を振った。
「話が逸れたが、出来れば早い内にまた帝国へ向かって欲しいのだ。」
「と言うと?」
「実は…、具体的に何が、というわけではないが…。最近集まる報告を総合すると、皇帝の身辺に不穏な匂いがする。私の勘だがね。誰かを…、また粛清しようとしている様に感ぜられる。」
考えるリヒャルト。確かに、目前で、皇帝ディラントVII世は、多くの者を失脚させ、謀殺し、その様にして現在の専制帝政を築き上げてきた。今また粛清が行われるとすると…。
「まさか、神聖教会を?」
「わからん。そこまでは、わからん。ただ、可能性はあるという事だ。」
長官は、肯定も否定もしない。
 神聖教会が皇帝の支配下に入れば、どうなるか。武力に於いてアガスタ連盟と比べるべくもない帝国だが、人々の間に依然影響力のある教会を影で操るとなれば、穏やかではない。良くないニュースばかりである。
 こんな時には一服付けたい気分になるリヒャルトだが、几帳面で嫌煙家でもある長官の手前、それも出来ない。
 長い沈黙の後に、二言、三言の言葉を交わして、話は打ち切られた。

場所も知れない牢獄にて

 冷たい感触が、不可解な揺らぎの世界から、はっきりと迫ってきた。すぐに気付く。夢の中にいるのだと。冷たさは、硬さも兼ね備えていた。随分、居心地が悪い。石畳にでも寝ているのだろうか。
「…あ、ノールさん。」
「起きたね。調子は?」
「普通ですが…、牢屋ですか…。」
 視野に広がる鉄格子を見やって、クローナは落胆の表情を見せた。窓もなく、あるのは鉄パイプが剥き出しの、貧相なベッドが2つだけ。別室があるが、便所だろう。声を掛けた主を見やれば、簡素で貧相な服を着けたノールの姿があった。囚人服だろうか。それに比べ、何故かクローナ自身は倒れたときのままの服装だった。
 そして、すぐに気付く。
「ヴェムさんとカールさん、居ませんね。あと、あの子も。」
「男だからね、あいつら。…途中で別れた。」
「そうですか…。」
 鉄格子に目を向けて、考えるクローナ。
 40kgの剣を片手で振り回す腕力があるのだ。この程度の鉄格子など引きちぎってしまえば幾らでも逃げられる。衛兵か警官か、それだって武力で排除出来る自信はある。
 が、それをやるとどうなるか。恐らくこの国には居れなくなるし、男連中の扱いも悪くなりそうだ。採りづらい選択肢である。というより、不採用確定だ。
 鉄格子の横枠に顎を預けて、クローナはそのような結論を得た。溜息をつく。
「放っておいたら、殺されるんだろうねえ…。」
どこか、諦めた風なノールの声。
「ええ、でも、チャンスを待ちましょう。」
「チャンス?」
「だって、今逃げたら、あの三人…。」
「そうだけどさ、死んじゃったらオシマイよ?」
「大丈夫ですよ。」
「え、どうして?」
 ノールに聞かれるまでもなく、クローナは、何故そんな楽天的な言葉が出てくるのか、疑問に思った。誰が、この事態を好転させてくれるというのだろう。ヴェムとカール、少年の所在を知らせてくれるか、全員を解放してくれる人物とは。それほど頼りになる人間とは、誰か。
 口を閉ざして考え込むクローナを見て、ノールは再び石の壁に身体を預けた。冷たく硬い石の感触は、ともすれば城の石垣を思い出させる。
 その脇でクローナは、心当たりを見つけた。しかし、明らかにそれは思い込みであって、現実的ではない。
 そう、その人物の名は、リヒャルトだった。今でも内心は頼りに思っているのだろうか。正直、自分自身で驚く。そして、すぐに思い当たる事がある。深刻な表情で、彼女は言った。
「私…。リヒャルトさんを、殺そうとしました。」
「総長? …ま、お互い様よ。おまけに私だって、ね。」
 そうなのだ。信じていたリヒャルトは自分とヴェムを殺そうとし、ノールもまた同じくし、自分はリヒャルトをあと一歩で殺すところまで行った。さらに、両親も依然として脅威に曝されている。
 何故、そうなるのか。仲間だったではないか。共に無駄話を交わし、食事をした者同士が、立場の違いというだけで何故殺意を持つのか。
…持ったのだ。
「あの人が、裏切ったから…。裏切られたんですよ…!」
 急に、胸に熱い油を流し込まれるような感覚を覚える。心が、腹から胸、頭へと沸き立ってくるこの感覚。拳を握り締めて、食いしばった歯の間から、クローナは言った。
「裏切りじゃないのさ。あいつは、最初から帝国の人間じゃなかった。」
落ち着いたノールの言葉も、険しい表情からのものだ。
「見抜けなかった私達が馬鹿って事なのかな。SS堕ちたり…か。」
「悔しい…。」
 信じて、いたのだ。脱走したとき、最初に命を狙われたときも、それはそれで仕事のためなのだろうと思っていた。そして、彼も必ずしも望んでいるわけではないだろうと、立場上行動は出来なくとも、自分の事を理解しているのだろうと、そう思っていた。
 それが、帝国の事すら考えていない、スパイだったとは。それを信じていたなどと、もう、立つ瀬もないではないか。
「仲良かったからねぇ。クローナちゃんと、総長…。」
「ええ…。信じて、いました。」
 それなのに。思い切り歯を食いしばり、顔一杯に力を込めても、涙が止められない。怒りではない。虚無だ。何もかもが、敵対して、向かってくるようにすら思える。
「泣いちゃえば。楽になるから。」
ノールがそんな事を言った。
「嫌です! 私は負けません!」
 当の本人が驚くほど、大きな声だった。それまでどこか虚ろだったノールの目も、これには意表を突かれたようだった。しかし、すぐにその表情は、いつものものに落ち着く。
「やせ我慢しちゃって…。でも酷いよね、こんな子騙して…。」
 遠くを見るようにして、ノールはそう言った。何と返して良いのかわからない、といった様子で、クローナは気まずそうに振り上げた腕を下ろす。
 看守らしき男が、ゆっくりと鉄格子の向こうを歩いていく。クローナの大声にも、何ら関心を持った様子もなく。悠然と。そんな、超然とした態度が、二人には妙に腹立たしく感じられた。

「暇ねぇ…。」
クローナが落ち着いた段になって、ノールのそんな独り言。
「主導権が無いですからね…。」
「まあねぇ…。」
 一呼吸置いて、ノールは言った。
「昔話でも、しよっか。」
「…え?」
思わず、ノールの顔を見るクローナ。僅かに、身が震える気がした。
「身の上話とかね。」
 声も出さずに、ただ見つめる。過去を話すという事は、SSを棄てるという意味だと、クローナは受け取った。あそこは確かにそのような場だった、と。
「もう、戻れないからね…。戻っても疑われる。そうでなくても、総長にスパイを据えちゃう様な組織じゃあ…。」
「…。」
まるで、クローナの考えを読んでいたかのように、ノールはそう言った。じっと、その目を見る。
「…もう、良いのよ。潮時だと思ってたから。」
寂しい笑顔で、ゆっくりと頭を垂れるノール。クローナには、止められるとは思えない。その理由もない。
「生まれは、今はフレイハル王国と言ってる地方で、その北西の内陸の、シャトー・マルトって小さな町だった。」
「マルトのお城…。城があったんですか?」
「小さいんだけどね。城というより館で…、それに、私が居た頃はもう領主の館じゃなくて、役場になってて…。」
 田舎の風景は、何となくクローナにも想像出来た。もちろん、全然違うイメージかもしれないにせよ。
「その…。まあ、そこで。ウチは官吏というか、まあ役人やってて。そのお城の隣にね。」
真剣な表情で、相槌を打っているクローナ。
「あのさぁ、そんなに真面目な顔して聞くような話じゃないんだけど。」
「え、まあ、その…。えと、気にせずどうぞ…。
 苦笑いするノールの言葉に、居心地の悪そうな反応を見せるクローナ。
「…ま、いっか。それでねぇ、厳しい親でさぁ…。学校で怒られれば、“馬鹿者、何をした”なんて、家でも怒られて。喧嘩で負ければ、“勝つまで戻ってくるな!”…。なんで私だけ、って思ってたっけ。」
「なんでだったんですか?」
「気位が高いというかね。まあぶっちゃけ、貴族出の血筋っていうのがあったらしくて。血は、かなり離れてるんだけどね。まあそういう、誇りというか、そういうのは大事にしようっていう気風があって。文武両道で。」
 クローナは、わかったような、わからないような顔で頷く。全く庶民的だったクローナの実家とは、およそ及びも付かない世界らしい。もちろん自尊心は大切だが、ことさらにそれが主役を演じたような場面は、あまり思い出せない。
「それと、一人っ子だったからさ。な〜んかこう、男っぽく育てたらしくて…。」
頭を掻くノール。
「ま、お陰様でSSにも入れる様な人間にもなれましたが。その途中じゃ、まあ、強くなったらなったで、色々変な事もしたっけ。そのたびに鞭打ち喰らって。」
「鞭打ち…。その、親にですか?」
「そうだよ。アレはねぇ…。うん、痛いよ。」
笑いながら話しているが、本気で洒落にならない痛さだったろう事は、まあ想像が付くというところか。
「でもまあ、楽しかったよ。あれは…、何だっけ。ああそうそう、近所にこれがまた、筋金入りのクソガキが居てさぁ。鍛冶屋の三男坊かなんかだったっけ。ま、そいつとかとつるんで、悪い事ばっかりしてたんだけど、あの時たしか…。」
 語るノールの横顔が、すごく楽しそうだ。クローナはそう思った。
「そうそう、夜中に抜け出してさ。道のど真ん中に馬鹿でかい落とし穴掘っちゃって。何日かかかったけど。そしたらもう、馬車が一台丸ごと嵌っちゃって、町中が大騒ぎになってねぇ。流石にヤバイと思って大人しくしてたんだけど、まぁ、ガキのやることだからすぐバレて…、以下略ね。」
「あぁ…。実家の友達も、小さい頃はそんな事ばっかりする人居ましたね…。」
「へぇ。クローナちゃんは、そういう子じゃなかったんだ?」
 確かに男のガキがやりそうな事で、女の子のパターンじゃないだろうな、などとノール自身も思いつつ。
「えぇ、まあ。ふわふわした感じの子だったらしいです。でも意外とずる賢いとか、父は言ってましたけど…。」
「ずる賢い、ねぇ…。」
いかにも意外といった様子を見せるノール。それが嬉しいような、何か不思議な気分になるクローナ。
「ま、とにかく面白かった。あの頃は。あの馬鹿どうしてるかな。」
「その、鍛冶屋の子ですか?」
「うん。…まぁ、何か、変わった奴で。でかい事するんだ、とか言って、16歳で街に出ちゃったっきり、会ってないのよね。ああそうそう、ヴェムの馬鹿とも、少〜しだけ、共通点あるかな?」
「あの人ですか…。」
 だとしたら相当な変人なのだろうな、と思ってから、随分失礼な考えだと気付くクローナ。彼女の少し気まずい気持ちに気付く様子もなく、軽く頷いてから、ノールは続ける。
「それから…、家とか手伝って、まあ継ぐ事になってて、あーだこーだってやってたんだけど。」
「だけど?」
「戦争になっちゃってねぇ…。まあ、ウチは戦場になったとかいう事はないけど、何だか、じっとしてるのはどうかなぁって、あのとき初めて、世界を意識した。」
 アガスタ戦役の開戦当時、彼女は16歳だった。長く厳しい、そして無闇に破壊をばらまいた戦争は、極め付きの大破壊を残して幕を閉じた。…厳密に法的に詰めていくと、アガスタ戦役は戦争ではないのだが、ここでは問わない事にしよう。
「まあそれで、何だかんだとあって、戦争が終わる頃には私もSSだった、ってわけ。」
「色々と…、ですか。」
終戦時には、ノールは既に24歳だった。
「戦後は…。まあ、知ってるよね。憂鬱な仕事が多かった、と。」
「ええ…。」
 色々な人間を、殺める。その中で、己の、SSの、帝国の掲げる正義は、常に試練に曝され続けた。ときにはそれは、負けていたようにも思える。だから、こういう現在があるのだろう。
 それぞれに、口を閉じる。既に出したはずの結論を振り返り、あるいは進むべき道を思って。
「それから…。」
「はい?」
「名前。私の本名は、親から貰った名前は…、ルシアナ。」
「ルシアナさん…。」
神妙な顔のクローナ。
「SSか…。もう、一度でいいから、国に帰りたいわね…。」
静かな、彼女の一言。それから誰も、口を開く者はない。

 

 

 それから、何日過ぎただろうか。もしマズイ事になったら、その時は武力行使に出ようと二人で決めて、もうそれが随分以前に思えた。
 何もしていないから、その分長く感じられるのである。ベッドで寝転がるたびに、ギシギシと嫌な音がする。廊下から筒抜けの房は、何日居ても慣れられる気がしない。カビ臭い空気もだ。
「ふぅ…。」
 懲役でもないし、何もする事がない。もう話の種も尽きた。考える事も尽きた。恐ろしい退屈だけが待っていた。このまま急激に歳を取って、死んでいったりするんだろうか。何となく、そんな不安を覚えるクローナ。
 いや、依然として親の事は気になるのだ。気になるが、それだけだ。考えるべき事は既に出尽くし、ただ漠然とした、もどかしい悩みだけが残されている。
「…?」
 だからこそ、ほんの僅かの違和感すら、敏感に察せられた。寝転んで天井を眺めていたクローナより早く、ノールが鉄格子の向こう、廊下の先に視線を走らせる。微かな音で、クローナも振り向く。いつも看守が一人で巡回するその廊下に、複数の足音が聞こえてくるのだ。暗い、重い石の空間に、硬い足音が乱反射して。二人とも、注視はするが、何も言わない。
 やがて、光が足音の正体を明らかにした。三つの人影が、歩いてくる。薄暗いロウソクの炎に連れて、その影が揺れる。
「あらぁ…?」
「…!」
 二人は、その人影に見覚えがあった。三つの内、ひとつにだ。驚いたような表情を見せるノール。一方クローナは、本能が戦慄を起こすのを感じた。
 ノールが、クローナのただならぬ動きに気付いたのは、大きな音が静寂を破ってからだ。蹴破られた鉄格子の扉が、派手に宙を舞っていた。驚きのせいか、その動きがノールにはスローモーションに見えた。
 しかし、その遅い動きの中ですら、クローナは、速い。たちまち、三つの人影に肉薄する。誰も反応出来ない、至短時間の出来事。
 二度の鈍い衝撃音は、彼女が拳を振るうのより、明らかに遅れて聞こえた。残る一人に掴みかかる。その先にある、諦めたような、しかし厳しい表情は、よく知ったリヒャルトの顔だった。
「裏切り者ッ!! どうしてですか! どうして、あんな事が…ッ!」
「…。」
 クローナより二回りも大きなリヒャルトの身体が、彼女の怒声に合わせて大きく揺れる。他の二人は既に冷たい石の床に伸びて、当分は起きないだろう。
 ノールもまた、クローナの気持ちはよくわかるのだ。わかるが、あんな行動を取っては、最悪の結果もあり得る。ここは冷静になるべきだったと思う。だが、それを今さら言っても意味がないのも事実。止められるものでもなければ、考えるだけ無駄なのだろう。彼女は、諦めたような笑みを浮かべ、眺めるだけにした。
「何なんですか! 信じろ、無理はするななんて、弱みにつけ込んで、よくも言ってくれますね! 人間の言う事ですかッ!!」
「…苦しい。」
「うるさいッ!!」
 なおも、激しい言葉が、機関砲弾のように浴びせられる。無意識のうちにだろう、そのたびごとに、締め上げる手が、強く、高くリヒャルトを責める。いつしかそれは、首を絞める致命的なものになっていた。
 殺意の有無はわからない。だが、万力に締められるような首の痛みは、鍛えられたリヒャルトにしても、生命の危険を帯びるものになっている。ぎりぎりまで待ち、しかし弱まる気配はない。
「うぁ…!」
 威力ある拳をみぞおちに叩き込まれ、痛みに強張るクローナ。一瞬だけ彼女の手が意識の支配下から抜け出し、拘束を解く。重たい音と共に、ぐったりと壁にもたれるように崩れるリヒャルト。
「やる気なのなら…!」
「待て…。話が…。」
一歩後ずさるだけで立ち直るクローナと、咳き込みながら肩で息をするリヒャルト。
「お前の連れにも…、関係する、話だ…。」
 沈黙が、流れる。普段大人しい人間ほど、一度火が付けば恐ろしいとは、彼女のような表情を言うのだろうか。
 長いか、短いか、当事者には知れない時を経て。もう殺してしまう気で握り締めていた拳を、渋々と解く。
「…何ですか。」
「少し、休ませてくれ…。」
躊躇いながらも、頷くクローナ。依然として、その澄んだ筈の深い紺色の目には、深い怒りの色が刻まれていた。

 暗くカビ臭い、陰気な房から出たのは、何日ぶりだっただろうか。外の空気が、こんなに新鮮だった事はない。石の廃墟を思わせたゲーブルセイムの街並みすら、清々しく感ぜられるのだ。
 窓から外を見ながら、そう思う。それだけ長く、閉じこめられていたのだとも。
「他でもない。SSに復帰するなど、直接的に連盟に敵対する行為がないと約束するのなら、我々はお前達の自由を保障出来る。」
リヒャルトは一気にそう述べた。連盟とは、無論アガスタ連盟を指す。
「信じろと?」
 怒りは悲しみの裏返しでもあるのだろうか。そんな事を思わせる目で彼を見ながら、クローナは答えた。
「そうだな。そう思って、書類を仕立ててある。連盟安全保障会議の名で、だ。」
「へえ?」
リヒャルトの投げた紙を、さっと一瞥するヴェム。
「安全保障会議なんて、随分、大袈裟だな。何のためにそこまで?」
「SSは、連盟にとって、それだけ脅威だということだ。わかるだろう。それが三人も減るという事の意味は。」
当の三人が頷く。
「…そんなに凄いの?」
 当事者達はさも当然と言わんばかりの表情だが、カールには、いや、一般の人間には信じがたい話である。それもそうだろうとリヒャルトは思い、口を開いた。
「特殊部隊、暗殺班として運用されれば、対抗する手段が殆ど無い。連盟にも優秀な兵は居るが…。歴史的に鍛えられたSSには敵わないのが実状だ。まあ、それは数で勝れば済む話だが、こちらの精鋭を迎撃に当てるとしてもだ、いつどこに来るのかわからずには、動かせんわけだ。少数精鋭となると、察知する事は難しい。」
ゆっくりと頷くカール。わかったような、わからないような、という風に見える。
「あくまで、アガスタの人なんですね。」
 そして、自分の立場で語るリヒャルトについて、クローナはそう言った。抗議の目を向けて。
「そうだな。…お前には、悪い事をしたと思う。だが、俺は今のまま進む。」
「…そうですか。」
 氷のように、冷たい遣り取りだった。リヒャルトは、そう思った。
 しかしながら、スパイとしての潜伏も、もちろん理由あっての事なのだ。いずれは、帝国も変わって欲しい。誰も理不尽に苦しむ事のない様な世の中にしたい。理想を目指す過程において、必ずSSは障害となる。だから、弱体化しておかなくてはならない。誤った事をしたわけではない筈なのだ。そう思って、彼は単身帝国へ入ったのだ。
 が、SS兵もまた、人間であった。非人間的な武力弾圧に、暗殺に駆り出されていても、人間は人間だ。そしてまた、志願した動機、継続する理由も様々だ。決して、全てが理解出来ない完全な悪などという存在ではなかった。…かつて、無意識にそう思っていたのとは違って。やがて、最初からそんなものは存在しない事を悟った。
 敢えてSSを正当化せず、時間を掛けて離反の心を養おう。それは真の愛国心ではないと。機に応じたその戦略は、自分自身の事ながら、当たっていたとは思う。それはそうだ。組織は明らかに非のある事をしているのだ。普通に考えさせるだけで、離れたくなるのは理の当然だろう。そして現に、三人が、半ば自分の意志で離れることとなった。
 だが、一番手を掛けていた、以前は一番素直に従ってくれそうだと思っていた者に限って、自分に激しく反発している。その表情は、あまりに痛々しい。初めて会ったときのそれより、悪いかも知れない。信頼を裏切った事、その意味。理屈を超えてリヒャルトは理解した。せざるを得ない。鉄の決断であるはずの、己の行いに対する信念に、疑問が入り込まざるを得ない。
 それだけではない。そんなに深いダメージを与えてしまって、その先どうなるのか、気になるのだ。いっそのこと、そのために仕事を投げ出そうかとも思った。
 だが、今さらそんな事を口にして、どうなるというのか。もう、終わってしまったのだ。もう、取り返しは付かない。彼女の目を見れば、そうとしか思えなかった。もう、信じてもらえるとは思えない。築き上げた信頼が僅か数秒で消えてなくなるという恐怖。そう、恐ろしいことだ。
「難しいな…。」
一人、そう漏らす。
「いや、こっちの話だ。気にするな。」
集まった視線を、彼はそうかわした。

 結局、元SSの三人は要求を呑むことになる。カールと少年については、特にアガスタ側からのお咎めは無かった。

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